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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー華麗なる女性遍歴・ルイ14世

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ルイ14世

 少年時代のルイ14世は女性に関心を示さず、母后アンヌ=ドートリッシュを心配させるほどだったが、20歳頃の1658年に母后の侍女との最初の恋愛沙汰を起こし、結局その女性は修道院に送られている。

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マリー=マンチーニ

 マザランは蓄財に余念がなかった。官職売買、不正取引、国税の使い込み等々によって莫大な財をなした。1661年に彼が死んだとき、5000万フラン、今日の10億フランに相当する財をなしたといわれる。マザランは蓄財のために、貴族との縁組の駒として姪たち7人をイタリアから呼び寄せていた。

 青年期のルイ14世が恋した相手はマザラン枢機卿の姪だった。、ルイ14世はその一人のオリンピア=マンチーニに恋したが、彼女はすぐに嫁いでしまい、次いでマリー=マンチーニと交際するようになった。若いルイ14世は本気で彼女を愛してしまい、愛妾ではなく王妃として結婚しようとした。

マリ=テレーズ 
マリー=テレーズ

 1648年のウェストファリア条約成立により三十年戦争が終結したが、その後もスペインのハプスブルク家はフランスと戦い続けていた。この戦争もテュレンヌの活躍によりフランスの勝利に終わり、1659年に結ばれたピレネー条約によってピレネー山脈を境界とするフランスとスペインの国境を確定、ルイ14世の王妃としてスペイン国王フェリペ4世の王女、22歳のマリー=テレーズがパリを訪れた。ルイとマリー=マンチーニは泣いたり、訴えたりしたが、結局、国家の要請するところに従わなければならなかった。

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ルイ14世の結婚式

 こうして1660年6月、ルイ14世とマリー=テレーズとの結婚式が挙げられた。そして結婚後もマリー=マンチーニへの恋情を断ち得ないルイに向かって、マザランも母后アンヌも口をそろえてマリー中傷をおこなった。一変した王の態度を悲しみつつ、マリーは反動的にイタリア貴族コロンナ伯との結婚を承諾した。この結婚は彼女をフランスから追い出すために、かねてからマザランが計画していたものである。

 中傷によってマリーと自分との仲を裂かれたことを知った時、ルイは再び動揺したが、マリーは予定通り結婚に踏み切った。そして彼女が宮廷を立ち去る時、王は馬車まで見送って行った。ルイはため息をついたが、一語も発しなかった。それから王は馬車の扉のところでマリーに敬意を表して一礼したが、彼女は涙にくれていた。そして、馬車は出て行った。

 これは余談であるが、コロンナ伯が一驚したことに、その新妻はまだ処女であったという。


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王太子ルイ 

 王妃マリー=テレーズは信仰心に篤く慎ましい女性で、王太子ルイ(グラン=ドーファン)をはじめとする6人の子を生んだが、ルイ14世が彼女を愛することはなかった。彼女はスペイン訛りが抜けずに正しいフランス語が話せず、会話でルイ14世を楽しませることができなかった。もっとも王妃を愛さなかったのはルイ14世に限ったことではなく、祖父のアンリ4世そして父のルイ13世ともに王妃とは不仲であった。

 しかし、先王たちと違いあからさまに不仲であった訳ではなく、1683年に王妃が死去した時、ルイ14世は「王妃が私に悲しみを与えたのはこれがはじめてだった」と嘆いたという。

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アンリエット=ダングルテール

 1661年の夏、ルイ14世は、かつて革命で処刑されたイングランド王チャールズ1世の王女で、王弟オルレアン公フィリップの妖艶な公妃アンリエット=ダングルテールに魅かれ、フォンテーヌブロー宮殿の森で密会を重ねた。オルレアン公は男色家であり、アンリエットに性的関心を示さなかったため、彼女は淋しさから国王との不倫に走ったのである。

 しかし、22歳の王と17歳のオルレアン公妃は、ルイ14世とは従兄妹であり、義理の妹である。フォンテーヌブローでの若き王の振る舞いは、王妃マリー=テレーズや王弟フィリップも知るところとなり、アンリエットがその当時のイングランド王チャールズ2世の実妹なだけに、母后アンヌ=ドートリッシュを「せっかく築きあげた(王妃の、そしてアンヌ自身の実家でもある)スペインとの同盟がご破算になったら...」と心配させる事態になる。

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ルイーズ=ド=ラ=ヴァリエール

 自分との不倫をカムフラージュしようとアンリエットは同い年の侍女ルイーズ=ド=ラ=ヴァリエールを王の偽の相手役としたところ、皮肉にも国王はルイーズに心変わりしてしまい、スキャンダルが大事になる前に収まった。

 ルイーズは純粋で信仰が篤く、始めからルイに対して思わせぶりな行動をとったのでもなければ、秘密の関係となるのに自ら興味を示したのではない。彼女にとって初めての真剣な愛であった。ルイ14世はルイーズを深く寵愛し、1664年にヴェルサイユ宮で催された大祝典『魔法の島の歓楽』は彼女に捧げられたものとされる。敬虔な彼女は王妃に対する罪に苛まれ、1662年2月、突然王宮を出て、修道院に閉じ籠もった。ルイ14世はそれを知ると、修道院の玄関で熱心にかき口説いた。そして、彼女を王宮に連れ戻した。

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モンテスパン侯爵夫人

 1666年頃、ラ=ヴァリエールはライバルの出現に驚かされた。モンテスパン侯爵夫人と呼ばれる仇っぽい、雪の肌をした豊艶な美女である。侯爵夫人は結婚生活に失敗した後、パリに出て、国王の寵愛を一身に集めようとする不逞なな野望を抱いた。彼女は自己の成功を勝ち取るために、祈祷師ラ=ヴォアザンの「黒いミサ」へ通った。このミサでは、幼児や胎児が生贄に供されて、その血で願いを叶えようとする、魔女の祭礼に似た、残虐な儀式が営まれた。

 その効果が現れたわけでもあるまいが、まもなくルイ14世はモンテスパン侯爵夫人に心を奪われた。傷心したラ=ヴァリエールは何度か逃亡を試みた、やっと1674年に修道院に入るのを許された。彼女が宮廷を去る日、沿道の市民はみな目に涙を浮かべて、馬車を見送った。ルイ14世との間に3人の子をもうけた彼女であったが、1710年に亡くなるまで、二度と外へ姿を現さなかった。

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マリー=アンジェリク=ド=フォンタンジュ

 モンテスパン侯爵夫人は8人の子を生み、1667年からおよそ10年間にわたり王妃をしのぐ権勢で宮廷社交界の花形として君臨した。しかし、 1679年からルイ14世はマリー=アンジェリク=ド=フォンタンジュを寵愛するようになった。彼女は若く美しい女性だったが知性には欠けていた。彼女は1680年に子を生み、フォンタンジュ公爵夫人の称号を与えられるが産後は体調を崩してしまう。ルイ14世の寵愛がマントノン夫人に移ったこともあり、宮廷を辞して修道院に入り1681年に20歳の若さで死去している。

 その頃に祈祷師ラ=ヴォアザンが逮捕され、彼女のもとで「黒ミサ」の儀式が行われていたことが明らかになった。多くの貴族が彼女の顧客となり、その中にはモンテスパン侯爵夫人もおり、支配階級にも及ぶ大醜聞事件となった。フォンタンジュ公爵夫人の急死はモンテスパン侯爵夫人の毒殺によるものとの噂が立てられ、さらにはラ=ヴォアザンの娘がモンテスパン侯爵夫人はフォンタンジュ公爵夫人だけではなく国王の毒殺まで謀っていたと証言する。検察が早々に裁判を打ち切ってことは止み沙汰になったが、これを期にルイ14世はモンテスパン侯爵夫人を遠ざけるようになり、無視と軽蔑に耐えながらなお数年間宮廷にとどまっていた彼女が遂に修道院入りを決意すると、国王は喜んで彼女を送り出したという。


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マントノン夫人

  マントノン夫人は詩人で新教徒のアグリッパ=ドービニーの孫娘である。少女時代にカトリックに改宗し、16歳で42歳の流行作家ポール=スカロンと結婚した、しかし、8年後に寡婦となったため、宮廷に仕えて、モンテスパン侯爵夫人の子供たちの養育係を務めていた。美人ではないが教養のある知識人で控えめな女性だった。彼女にルイ14世は関心を持ち寵愛するようになり、侯爵夫人の称号を与えた。

 1683年7月30日に王妃マリー=テレーズが世を去り、それから程ない同年10月9日頃にルイ14世はマントノン侯爵夫人と秘密結婚をした。この時、ルイ14世は46歳、マントノン侯爵夫人は3歳年上の49歳であり、王は若さや美しさとは別の点で彼女を愛していたと考えられ、この後、王の女性遍歴は止むことになった。

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ルイ15世


 これら著名な愛妾以外にも、女優や掃除女とのゆきずりの性的な関係もあり、ルイ14世には20人を超える子供がいた。しかし、嫡出子のほとんどが幼少期に死んでおり、唯一成年に達した王太子ルイも1711年に死去してしまう。

 ルイ14世は1715年9月1日、77歳の誕生日の数日前に壊疽の悪化により死去した。男子の孫は一人も残っておらず、結局ひ孫のルイ15世がわずか5歳で即位することになった。

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【 2020/06/05 05:26 】

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世界史のミラクルワールドー雅なる反乱・フロンドの乱



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ルイ14世

 1635年以来、フランスはスペイン・ドイツと全国境にわたる戦争を続けていた。戦線はフランスに有利で、1642年にはかなり深く敵の領地へ食い込んだ。

 この年の11月に宰相リシュリューが他界したが、およそ6カ月のち、1643年5月、ルイ13世の死が続いた。わずか4歳のルイ14世が即位し、王太后アンヌ=ドートリッシュが摂政となった。30余年前の危うい状況の再現である。

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アンヌ=ドートリッシュ

 アンヌはスペイン国王フェリペ3世の長女で、14歳の若さでルイ13世に嫁いだ。カトリックの篤信家として、ハプスブルク家の敵、ドイツの新教徒にテコ入れするフランスの対外政策を憂い、スペイン戦争では母国に情報を送っている。リシュリューを嫌って宰相打倒の陰謀にも荷担した。だが、流産を重ねたのち、未来の国王ルイを出産するに及んで、フランス王妃としての義務に目覚める。摂政に就任してからは宰相マザランを懸命に支えた。

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マザラン

 ルイ13世はその死の前に宰相の後継者として、枢機卿マザランを招いていた。無論、すでにリシュリューによっても認められていた人物である。イタリア出身で本名はジュリオ=マッツァリーニ。37歳の時にフランスに帰化した。マザランは、聖職者であるという点を別として、およそ前任者とは対照的であった。冷徹峻厳、「鉄の爪」を持ったリシュリューに比して、マザランは顔つきも人ざわりも穏やかで、人を「籠絡し、買収し、騙すこと」を得意とし、「霊妙な知恵才覚」を備えた器用人であった。

 また、マザランは摂政アンに寵愛され、この両者は恋愛関係、あるいは肉体関係さえも憶測されている。

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市中のバリケード

 マザランは1648年10月の三十年戦争の講和条約ウェストファリア条約でアルザスを獲得するなどの成功を収めた。しかし、前代のリシュリューに続き、国王の寵臣が強い権力を持つことに対して、貴族たちの反発も強まっていた。ましてや、マザランは外国人である。貴族たちは既得権の一つであった高等法院の法官が貴族以外の市民から採用(しかも売官によって)されていることにも反発していた。また都市の市民層や農民には、うち続く戦争の戦費を捻出するための重税に対する不満が強まっていた。

 マザランが三十年戦争による財政危機の克服のため、高等法院法官の俸給の4年間据え置きを発表すると、法官たちの反対運動がおこった。政府が法官を逮捕に踏み切ると、重税政策に反発していたパリ市民が1648年8月26日に蜂起し、市内各所にバリケードを築いた。こうして「高等法院のフロンド」が始まった。

 反乱軍はパリを包囲し、王宮内の当時10歳のルイ14世の寝室まで侵入。ルイ14世は寝たふりをして難を逃れたとされているが、翌1649年1月にルイ14世とマザランはパリを一時退去、サン=ジェルマン=アン=レーへ避難せざるを得なくなった。ルイ14世の幼い時のこの体験が、後のヴェルサイユ遷都につながったといわれている。
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フロンド

 ちなみに、フロンドというのはこの頃パリの青少年の間で流行していた投石器のことである。警察が禁止して歩くと、少年たちは背後から石を飛ばした。その反抗的姿勢をもじって、政府反対派をフロンド党員と呼んだところから、フロンドの乱と呼ばれたとされる。

 この反乱はマザランが、三十年戦争で軍功のあった大貴族コンデ公を抱き込み、コンデ公の軍隊がパリを包囲、高等法院も妥協して、翌年に鎮圧された。

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コンデ公

 「高等法院のフロンド」は終わったのだが、1650年、今度は大貴族コンデ公が恩賞の少なさに不満を持って王室に反旗を翻し、多くの貴族も同調した。パリはコンデ公の指揮する反乱軍に占拠され、封建領主である貴族の基盤である地方で農民の反乱を扇動し反乱は全国に広がった。ルイ14世、摂政アンヌはパリを捨て、宰相マザランはドイツに亡命した。

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テュレンヌ将軍

 こうして「貴族のフロンド」はマザランを排除することに成功したが、貴族側も統一歩調がとれずに分裂していた。国王側はコンデ公と対抗できる三十年戦争の時の将軍テュレンヌを抱き込み、1652年夏にはパリ郊外で両軍の決戦が行われ、フロンド派が勝利した。しかし、コンデ公がスペインに援軍を頼んだことはパリの民衆の反発を受けて、高等法院の法官(法服貴族)も大貴族(軍服貴族)の復活を警戒して反乱は尻すぼみになり、1652年9月、コンデ公はパリを放棄して亡命、「貴族のフロンド」は終わった。

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グランドマドモワゼル

 1652年7月、フロンド派と国王派の決戦となったパリのサン=タントワーヌ門の戦いでは、フロンド派の女傑、25歳のモンパンシエ嬢(ルイ14世の従妹でグランドマドモワゼルといわれた)がひときわ人びとの目を引いた。

 この大令嬢がバスティーユの砲門をテュレンヌの王軍に開いてコンデ軍の退却を助けたのである。彼女は「マザランに対する反感と男勝りの冒険好きから、鎧に身を固めて反乱軍に荷担した」と言われる。しかし、マザランが言った「この砲撃が彼女の夫を殺したのだ!」という言葉は、公式には一生を独身で送った彼女にとって、何を意味するのか?

 大令嬢は反乱失敗後もルイ14世の従妹であったためで宮廷に残ったが、人一倍勝ち気な性格で、各国宮廷との縁談があったがことごとく断り独身をつづけた。マザランの言葉は、彼女がこの事件によってルイ14世の王妃たるべき運命を失ったことを意味するのかも知れない。

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ルイ14世のパリ入城

 1652年10月のルイ14世のパリ入城と翌年2月のマザランの帰還で、フロンドの乱はついに膜と閉じる。フロンドの乱の原因は、王権が中央集権化・官僚化を進めて強化されていくことに対する、既得権の喪失を恐れる貴族層の反乱であったが、それが全国的な内乱にまでなった背景には、都市の市民や農村の農民の重税に対する反発があった。そして当時のヨーロッパは「17世紀の危機」といわれる天候不順、凶作、不況と言った社会の疲弊があった。大きく言えば、中世封建社会から、近代市民社会への移行という大きな変化が始まった時期であった。
 
 そして反乱が鎮圧された結果、貴族の没落は進み、その反面としてフランス絶対王政を確立していく契機となったのである。
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【 2020/06/02 05:31 】

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世界史のミラクルワールドー若ハゲの純潔王・ルイ13世

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即位した頃のルイ13世

 ルイ13世はアンリ4世と王妃マリ=ド=メディシスの長子として、1601年にフォンテーヌブロー宮殿で生まれた。

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マリ=ド=メディシス

 1610年、父アンリ4世が狂信的なカトリック教徒に暗殺されたことにより、ルイ13世は8歳で即位し、13歳になるまで母マリ=ド=メディシスが摂政を務めることになる。はじめは、摂政のマリとその一派(イタリア人コンチーニら)が実権を握ったが、大貴族たちは国王が幼少で摂政が女性であることをよいことに、さまざまな特権を国王に認めさせようと、1614年にブロワに三部会を招集した。しかし、三つの身分の利害の対立が明らかになり、なんら得るところなく終わった。これ以後、フランス革命の年、1789年まで三部会は開催されなかった。

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リシュリュー

 ルイ13世は成長するに従い、国王として親政を行うことを望むようになり、母后マリ=ド=メディシスを嫌うようになった。1617年にコンチーニらイタリア人の一派をクーデターで退け、さらにマリをブロワ城に閉じこめてしまった。しかし、権勢欲の強いマリは城を脱走してしまう。その後もさまざまな画策を行い、一時は国王派と母后派の両軍が対決することさえあったが、1621年に和解した。その両派の調停役として台頭したのがリシュリューであった。

 リシュリュー1624年からは、宰相として深い信任を受け、その後18年間にわたりフランスのかじ取りを行っていくことになる。

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ラ=ロシェル包囲戦

 新教徒(ユグノー)はナントの王令以後も、完全な信仰の自由を要求して、特にラ=ロシェルは新教徒の独立した共和国のような形勢をみせていた。ルイ13世とリシュリューは王権による統一を脅かす存在として1626年にラ=ロシェル攻撃を開始。14ヵ月の包囲戦の末、1628年にこれを屈服させ、アンリ4世によって与えられたユグノーに対する政治的、軍事的特権を撤廃させた。信仰の自由は引き続き認められたものの、これ以後はフランスの新教徒の勢力は弱体化していく。


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アカデミー=フランセーズ

 1635年、リシュリューはパリの文化人サークルを公認し、公立の機関としてアカデミー=フランセーズを設立した。当初の目的はフランス語を国語として統一、洗練することにあった。フランス語辞典の編纂は1694年に終え、ルイ14世に献呈されている。

 アカデミーは大革命期に一時解散したが、王政復古とともに復興、今日にいたっている。会員数は 40名に限られており、彼らは「不滅の人」と称される。欠員が生じた場合、全会員が候補者の資格、業績を審査、絶対多数を得たものを新会員とする。いわゆる「41番目の椅子」で待ったまま、会員になれず死去した著名人も数多い。デカルト、パスカル、モリエール、ルソーなども、その一人だ。

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三十年戦争

 一旦は和解したルイと母親マリだったが、1618年に始まった三十年戦争への参戦問題で再び対立した。フランスは当初、旧教の神聖ローマ帝国皇帝軍を支援していた。しかし、戦争が長期化するうちにリシュリューはヨーロッパの勢力関係でハプスブルク帝国に対する優位に立つチャンスと考え、新教徒を支援しようとした。マリはハプスブルク家やスペイン、ローマ教皇と手を結ぶことを主張し、新教徒を助けるのに反対した。この問題でマリと対立したリシュリューも一時は参戦をあきらめたが、ルイ13世の決断はリシュリューに軍配を上げた。その結果、マリは捕らえられ、コンピエーニュ城に再び幽閉された。彼女は今度も城を脱出することに成功したが、もはやフランスには戻ることなく、ネーデルラントやイギリス、ドイツを転々とした後、1642年、ケルンで寂しくなくなった。

 フランスは1630年に新教徒側を支援することを決定、スウェーデン国王グスタフ=アドルフに軍資金を提供した。しかし1632年、グスタフ=アドルフがリュッツェンの戦いで戦死したため、フランスは直接派兵をせまられることになり、1635年、フランスはオランダ・スウェーデンと同盟を結び、スペインおよびオーストリア(神聖ローマ皇帝)と戦うこととなった。

 フランスは国内では厳しく新教徒を弾圧していながら、ドイツでは新教徒軍を扶け、同じ旧教国であるスペインと戦うことになったわけである。

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アンヌ=ドートリッシュ

 三十年戦争参戦はルイの王妃アンヌ=ドートリッシュにとっては耐え難いことであった。アンヌ=ドートリッシュは1615年に14歳で同い年のルイに嫁いだのだが、彼女はスペイン王フェリペ4世の姉であった。

 もっともこの夫婦はルイがどうやら女性に興味がなかったらしく、仮面夫婦だったという。ルイ13世が愛人を抱えていた証拠はなく、そのため、彼は「純潔ルイ」のあだ名で呼ばれた。ホモセクシャルないしバイセクシャルだったのではないかとの噂が根強く残っている。

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幼少期のルイ14世

 それにも拘わらず何故か子供ができ、世間の人は不思議がった。何度か子供を流産した後は、2人が夜を過ごしたのは1回だけだったと言うが、そこで生まれたのがルイ、後のルイ14世になる人である。もっともアンヌはルイ14世が即位すると、やはりまだ若いことから姑のマリ=ド=メディシスと同じように摂政となり、息子の嫁に同じくスペイン王室からマリア=テレサを迎えることに成功する。

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ルイ13世

 1642年12月4日、リシュリューが57歳で亡くなると、そのあとを追うようにして、ルイ13世は1643年5月14日に41歳で亡くなった。そのあとを僅か4歳のルイ14世が継ぐことになるのだが、その話は次回に。

 写真は一番知られているルイ13世の肖像画だ。長いふさふさの黒髪だが、実はこれカツラ。ルイ13世は王妃の不貞などのストレスから若ハゲとなり、22歳でカツラを着用した。ところが、地毛との見分けがつきにくい現代のウイッグと違い、カツラであることは一目瞭然。かえってハゲていることを主張しているようなものだ。そこで、王さまがハゲであることを隠すために、王さまをとりまく貴族たちが全員カツラをつけた。皆でつければ、誰が本当のハゲか分からないとう訳だ。

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 ところが、カツラをつけてみると意外に格好いい。ということで、カツラがファッションとなってしまう。次第にカツラは華美になり、カツラを持つことがステータスと言わんばかりに、派手な作りとなっていった。

 
もともとはルイ13世の恥を隠すアイテムとして始まったカツラが、ヨーロッパのファッション界を一世風靡することになったのである。

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【 2020/05/29 05:33 】

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世界史のミラクルワールドー女たらしの国王・アンリ4世

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アンリ4世

 アンリ4世は1553年、ブルボン家のヴァンドーム公アントワーヌとフランス王フランソワ1世の姪であるナヴァラ女王ジャンヌ=ダルブレとの間に生まれ、王位継承権を持つ親王家の筆頭であった。しかし、母の影響で新教徒(ユグノー)となり、新旧両派の対立からついにユグノー戦争が起こると新教派の中心人物として人望を集めることとなった。

マルゴ 
マルグリット(通称マルゴ)

 国王シャルル9世の摂政であった母后カトリーヌ=ド=メディシスは新旧融和策をとり、その証として娘マルグリットとアンリを結婚させたが、一方で新教派の台頭を恐れ、1572年、二人の結婚式を祝して全国からパリに集まってきた新教徒を襲撃して多数を殺害した。これがサンバルテルミの虐殺である。

 この時アンリは難を逃れたが王宮に囚われの身となり、強制的にカトリックに改宗させられた。その後も宮廷に監禁されていたが、ようやく1576年に脱走し、新教徒に戻り、ギュエンヌ地方を基盤に新教徒軍を率いて戦った。

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アンリ3世              ギーズ公アンリ

 1585年からブルボン家のアンリは国王アンリ3世、旧教派「カトリック同盟」のギーズ公アンリ、との「三アンリ」の戦いが続き、彼はパリにはいることができず、各地を転戦し、「勇者中の勇者」とも言われた。

アンリ3世とナヴァラ王の和解 
アンリ3世とブルボン家アンリの和解

 その後、アンリ3世とギーズ公アンリが対立したため、彼はアンリ3世に接近し、王に子がなかったので王の死後、1598年に即位してブルボン朝を開いた。

 しかし、彼はすでにローマ教皇に破門されており、パリ市民をはじめ旧教徒は彼を王として認めなかったため、「国家なき国王」として各地を転戦した。旧教派内部も大貴族間の争いが続いて統一されず、またこのような状況につけこんでスペインが介入してきたため、アンリ4世は国家の統一を守るために改宗を決意、1593年にカトリックに入信した。

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ガブリエル=デストレ(右)とその妹

 1593年7月23日付で、アンリ4世がその寵姫ガブリエル=デストレへ送った書簡が残っている。25日(日曜日)の改宗を前に目前に控えて、アンリは次のように書いた。

  『この日曜日に、私はひとつトンボかえりを打つことにしています。』

 伝説だが、アンリ4世は、「ひとつとんぼがえりをうつことにする。パリを手に入れられるのなら、ミサ聖祭(旧教の)ぐらい受けてやることにしてもよい」と言ったとも伝えられている。あまり穿ちすぎているようだが、アンリ4世の物を物と思わぬ不逞さが窺える言葉だ。

 1593年7月25日、アンリ4世はサン=ドニ大聖堂で司祭の祝福を受けてカトリックに改宗した

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パリ入城

 その後、アンリ4世はスペインと戦って破り、カトリック派も抵抗をやめてアンリ4世を国王と認めざるをえなくなった。1594年、アンリ4世はようやくパリに入城し、ノートルダム寺院で民衆から「国王万歳」の歓迎を受け、ようやく統一を回復した。

 一方の新教徒はアンリ4世の改宗を非難し、なおも武装をつづけていたので、新国王は交渉を重ね、ようやく1598年に「ナントの王令」を出してユグノーの信仰を認めるとともに、その活動を制限することに成功し、宗教対立の解消を一応実現し、ここにユグノー戦争は終結した。

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シャンプラン

 その後王権の強化と国庫の再建、商工業の奨励に務めた。ユグノーの新教徒は商工業者が多かったので、平和の実現とともに生産力も上がった。統一の実現した後、海外植民地獲得に乗りだし、1608年にシャンプランが北米大陸のセントローレンス川中流域を探検し、その地にケベックを建設し、北米大陸進出の足場をつくり、その地はフランス領カナダとなった。


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マリ=ド=メディシス

 アンリ4世はカトリーヌ=ド=メディシスの娘の王女マルグリット(通称マルゴ)と政略結婚した。しかし、この結婚は不幸だった。マルゴは母に似ず美しかったと言うが、夫を愛することができず「ピレネーの山男」とさげすみ、愛人をつくっていた。夫アンリもマルゴには目もくれず、これまた沢山の愛人をもっていた。

  さて問題は2人に子供がなかったことだった。アンリは国王になると、マルゴを離婚しようとした。ところがカトリック教徒になったのだから離婚は認められない。特別に離婚を認めてもらうにはローマ教皇から、この結婚が間違えていたものであると認めてもらう必要がある。アンリが妃にしたかったのはガブリエル=デストレという女だったが、身分の低い女であったので、マルゴはプライドからローマ教皇に裏から離婚を認めないよう画策した。問題がこじれていくうちにガブリエルが病死した。

 そこで浮上したのがイタリアのトスカナ大公の姪マリ=ド=メディシスだった。アンリはメディチ家からの借財もあり、メディチ家側もカトリーヌに続いてフランス王と縁戚になれば有利だからローマ教皇に働きかけてくれるだろう。アンリの思惑通り、ローマ教皇がマルゴとの離婚を承認、1600年にマリとの結婚が成立した。アンリ46歳、マリは26歳だった。

 
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アンリ4世と家族

 2人はまだ顔さえ知らなかったが、1600年11月、マリは2000人のイタリアからの付き添いを引き連れてパリにやってきた。マリはフランス語も話せず、夫のアンリは相変わらずの好色ぶりで他に多数の愛人をつくっていたが、2人の間には6人の子が生まれている。だが、政略結婚である2人の仲は決して円満ではなく、多情なアンリ4世は多くの愛人を持ち、その数は56人以上に及んだとされ、国民はアンリ4世を「ヴェール・ギャラン」と呼んだ。「好色男」「女たらし」の意味である。

 一方、離婚されたマルゴの方は、その後も自由気ままな生活を送り、愛人と暮らしながら68歳まで生きたという。

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アンリ4世の暗殺

 1610年5月14日、アンリ4世は馬車に乗ろうとした際に狂信的なカトリック教徒のフランソワ=ラヴァイヤックに刺殺され、56歳で亡くなった。アンリ4世はサン=ドニ大聖堂に埋葬され、8歳の王太子ルイがルイ13世として即位し、成人する1617年まで母后マリが摂政として政務を執ることになった。 

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アンリ4世の頭蓋骨

 2010年12月15日のAFPニュースによると、アンリ4世の頭蓋骨とされるミイラ化した頭部が、本人のものであると証明されたと、フランス法医学チームが発表したという。

 アンリ4世の遺体は、パリのサン=ドニ大聖堂のブルボン家墓所に葬られていたが、フランス革命中の1793年、墓所から遺体が引きずり出され、バラバラにされた上で土中に埋められた。その後、掘り出された頭蓋骨はさまざまな人の手に渡り、行方が判らなくなっていた。

 今回発見されたアンリ4世の頭蓋骨といわれるものを、フランスのレイモンド=ポワンカレ大学病院のフィリップ=シャルリエ氏率いる法医学チームが調査し、当時の肖像画との一致、1594年の暗殺未遂事件の時の傷跡、放射性炭素年代測定、3DスキャナーによるX線撮影などによって確証が得られたとして、イギリスの科学誌ブリティッシュ・メディカル・ジャーナルに発表した。

 頭蓋骨は約200年ぶりにサン=ドニ大聖堂に戻された。アンリ4世は1610年に暗殺されているので、没後400年にして本来の墓地に帰ったわけだ。

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【 2020/05/26 05:22 】

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世界史のミラクルワールドー黒衣の王妃・カトリーヌ=ド=メディシス②

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シャルル9世

 フランソワ2世の王位は2年と続かなかった。1560年年末も近い晩秋、フランソワ2世は狩猟に出かけた帰りに耳の後ろに鋭い痛みを訴えて倒れ、中耳炎と診断された。侍医は開頭手術を提言したが母カトリーヌ=ド=メディシスはこれを拒絶、中耳炎は彼の脳葉にまで達し、脳炎を引き起こして1560年12月5日に死亡した。16歳であった。代わって10歳のシャルル9世が王位に就き、母カトリーヌは摂政となった。舞台は一変し、メアリ=スチュアートの退場とともに、ギーズ家も後退した。

 カトリーヌは王家存続のため、若い国王の摂政として権謀術数を駆使した。イギリス・スペインに対抗するためにはユグノー(カルヴァン派新教徒)の貴族と接近を図る一方、カトリックのギーズ家と接近したため、ついに新旧両教徒のの抗争による内乱、「ユグノー戦争」を誘発してしまう。

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ヴァシーの虐殺

 1562年3月、北フランスのヴァシーの町を通過したギーズ公の兵士が、礼拝中のユグノーへ攻撃をしかけた。74人が殺害され、104人が負傷した。それを聞くと、全国の新旧両派が武器をとり、フランスはたちまち騒乱に渦に巻き込まれた。

  それから1か月以内にコンデ公とコリニー提督は兵1800を動員した。彼らはイギリスと同盟を結び、フランス諸都市を占拠する。カトリーヌはコリニー提督と会見したが、彼は帰順を拒絶した。このため、彼女は「あなた達が軍隊に頼るならば、私たちのものもお見せしましょう」とコリニー提督に言い返した。国王軍はただちに反撃し、ユグノーの拠点ルーアンを包囲した。

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コリニー提督

 カトリック軍はルーアンを占領したが、その勝利の喜びは短かった。1563年、オルレアン包囲中にギーズ公が暗殺されると、カトリック教徒は息子のアンリを立てて、「邪教徒どもを焼き殺せ」と絶叫する。一方、ユグノーはコンデ公が戦死した後には、コリニー提督を指揮官にして抗戦を続けた。


 カトリーヌは、最初こそ新旧両派の対立を逆用して、二派を互いに噛み合わせ、王権の安泰を図ろうとした。が、内戦が長引くにつれて調停者の立場に転じた。1570年、両者は一時矛を収め、サン=ジェルマン=アン=レーの和議が成立し、ユグノーは大幅な信教の自由を認められた。

マルゴ 
マルグリット(通称マルゴ)

 カトリーヌは王室間結婚によってヴァロワ朝の権益をより一層確実なものとしようとした。1570年にシャルル9世は神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世の皇女エリーザベトと結婚し、彼女はまた2人の王弟たちのいずれかをイングランド女王エリザベス1世と結婚させようともしている。1568年に長女エリザベートが出産の際に死去すると、末娘のマルグリットをスペイン王フェリペ2世の後添えにとしつこく勧めていたが、彼女はヴァロワ家とブルボン家の王位請求権を統合すべくマルグリットとブルボン家のアンリとの結婚を画策するようになった。

 だが、マルグリットはギーズ公アンリと密かに恋仲になっており、このことを知ったカトリーヌは激怒し、娘を寝室から連れて来させると、王とともに彼女を叩き、寝間着を引き裂き、そして彼女の毛髪をひとつかみ引き抜いたという。

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アンリ=ド=ナヴァル(アンリ4世)

 アンリの母ジャンヌ=ダルブレは息子がユグノーに留まることを条件として、最終的に息子とマルグリットとの結婚に同意した。ジャンヌは結婚衣装を買うためにパリを訪れた際に病に罹り、44歳で急死してしまう。カトリーヌが手袋に毒を仕込み、ジャンヌを殺害したとも言われているが、ともかく2人の結婚式は1572年8月18日にパリ市内のノートルダム聖堂で挙行されることになった。アンリ、マルグリット、ともに18歳である。 

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コリニー暗殺未遂事件

 カトリーヌはギーズ家の専横を許せなかったが、一方でユグノーのコリニー提督もカトリーヌの重荷となりつつあった。コリニーはギーズ家が宮廷から後退して以来、シャルル9世の心をとらえ、シャルルは母に隠れてコリニーと密会を続けた。そして、コリニーに曳きずられて、旧教国スペインとの戦争計画に熱中した。カトリーヌは祖国の危険を避けるためにも、今は一刻の猶予もないことを悟った。

 婚礼は予定通り8月18日に行われた。続いて祝祭の行事が数日も続き、貴族も市民もお祭り気分に浮かされた。カトリーヌはその中で、一人陰謀を巡らせた。彼女はコリニーをどうしても除こうと決意し、挙げ句の果てカトリック教徒のギーズ公に密使を送った。彼女は悪魔の手で、悪魔を厄介払いする方法を選んだ。

 8月22日、ルーヴル王宮を出たコリニーに、突然銃砲が火を噴いた。彼は腕に負傷した。その報せを聞くと、シャルル9世はすぐ犯人を捜すよう厳重に命令する。カトリーヌは絶望的な境地に立たされた。もしギーズ公が捕まれば、嫌疑は当然彼女にまで及ぶだろう。彼女はその瞬間重大な決意を抱いた。コリニーはじめ、彼の負傷にいきり立つユグノーをすべて抹殺して、自分の罪を消し去ることである。

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サンバルテルミの虐殺

 聖バルテルミの祭日に当たる1572年8月24日が、その実行日に選ばれる。その夜、ギーズ公の兵士はルーヴル宮を急襲して、コリニーと婚礼に参集したユグノー貴族数十名をまず血祭りにあげた。ユグノーがコリニー提督襲撃への復讐を求めて武装蜂起するという噂を利用したカトリーヌの策略だったとされている。だが、これで事件が終わったわけではない。その後3日間にわたってパリのカトリック教徒の民衆が、3000名ともいわれるユグノーを襲い、虐殺したからである。

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虐殺跡を視察するカトリーヌ

 政治的暗殺に続く、狂信的な大量殺戮。ニュースは国じゅうを駆け巡り、オルレアン、トロワ、リヨン……で同じ残虐行為が繰り返される。カトリック教徒が死体を引きずりまわし、切り刻み、川に捨てる。フランス国内での犠牲者は膨大な数にのぼった。

 ナヴァル王アンリは虐殺こそ免れたが、1572年9月にはカトリックへの改宗を強制され、王宮内に幽閉の生活を約4年間余儀なくされる。脱出したのは1576年2月3日であった。

アンリ3世 
アンリ3世

 サンバルテルミの虐殺は新旧両派の争いを再燃させた。憎悪と復讐心が狂信と絡み合い、ユグノーは国内に解放地区を形成し、カトリック教徒は同盟を結んで同胞相食む悲劇を続けた。シャルル9世はこの日以来すっかり生気を失い、2年後の1574年5月30日に23歳で世を去った。

 弟のアンジュー公は3か月前にポーランド国王の戴冠式を挙行していたが、ポーランド王位を放棄してフランスへ帰国、アンリ3世として即位した。アンリ3世は礼儀の正しい、とり澄ました宮廷人であったが、政治の面では深い識見を表した。ただ、彼にはお小姓趣味というあまり芳しからぬ奇癖があち、カトリーヌの頭痛の種を増やした。パリの美女数十人を集め、一糸も纏わぬ夜会を催したが、王の情欲をかきたてるまでには至らなかったらしい。アンリ3世はとうとう生涯王妃を娶らなかった。


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ジャック=クレマンに暗殺されるアンリ3世

 アンリ3世は長い宗教戦争を解決するため、ユグノーとの和解を図った。ところがカトリック側は王の融和策を裏切りとみなし、ギーズ公を中心に反王権闘争を開始した。アンリ3世は身の危険を感じて、パリからブロワの城へ逃亡するよりほかはなかった。1588年12月23日、アンリ3世はギーズ公アンリを言葉巧みにブロワへおびき寄せて、謀殺した。その報せを聞くと、各地のカトリック同盟はいっせいに憤激し、パリではアンリ3世の王位を否認する決議まで行われた。

 1年後の1589年8月1日、アンリ3世は狂信的修道士ジャック=クレマンの短剣の一撃で打ち倒された。死の床で、アンリ3世は王位を義弟のナヴァラ王アンリに譲ることを遺言した。こうしてヴァロワ朝に代わってブルボン朝が開始され、アンリ4世によって漸く長い戦争に終止符が打たれることになる。

 カトリーヌはそれに先立つ1589年1月5日、ブロワ城で69年に及ぶ人生を終えた。残虐な王妃としてその悪名が語り継がれているが、コリニー提督暗首謀者が彼女であったという確たる証拠はなく、彼女に嫉妬した者やユグノーたちによってそのようなレッテルが貼られただけなのかも知れない。

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【 2020/05/22 05:26 】

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