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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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病といのち 南条兵衛七郎殿御書③

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波木井の御影(身延山久遠寺蔵)

南条兵衛七郎殿御書なんじょうひょうえしちろうどのごしょ

 たとひ五逆十悪無量の悪をつくれる人も、こんだにもなれば得道とくどうなる

事これあり。提婆達多だいばだった鴦崛摩羅おうくつまら等これなり。たとひ根鈍こんどんなれども罪な

ければ得道なる事これあり。須利槃特すりはんどくこれ也。

 我等衆生は根の鈍なる事すりはんどくにもすぎ、物のいろかたちをわ

きまへざる事羊目ようもくのごとし。貪瞋癡とんじんちきわめてあつく、十悪は日日にをか

し、五逆をばおかさざれども五逆に似たる罪又日日におかす。

 又十悪五逆にすぎたる謗法ほうぼう人毎ひとごとにこれあり。させることばを以て法華

経をほうずる人はすくなけれども、人ごとに法華経をばもちゐず。又もち

ゐたるやうなれども念仏等のやうには信心ふかからず。信心ふかき者も

法華経のかたきをばせめず。いかなる大善だいぜんをつくり、法華経を千万部読

み書写し、一念三千の観道かんどうを得たる人なりとも、法華経のかたきをだに

もせめざれば得道ありがたし。

 たとへばちょうにつかふる人の十年二十年の奉公ほうこうあれども、きみの敵をし

りながらそうもせず、私にもあだまずば、奉公皆うせてかえつてとがに行は

れんが如し。当世とうせの人人は謗法の者としろしめすべし〈是れ二〉。

【現代語訳】

謗法の機

 たとえ※ 1逆罪・※ 2悪、あるいは計り知れない悪罪を犯した人でも、利根でさえあれば

成仏することもある。※ 3婆達多や※ 4崛摩羅などがこれである。あるいは、たとえ鈍根で

あっても罪がなければ成仏することがある。※ 5利槃特などがこれである。

 私たち末法の衆生は根性の愚鈍なること須利槃特以上であり、物の色や形を識別出来

ないことにおいては羊目と同じである。※ 6瞋癡の三毒がきわめて深く、十悪は日々に犯

し、五逆罪は犯さなくとも五逆罪に似た罪は日々犯している。

 また、十悪や五逆罪以上の謗法の罪を人ごとに犯している。特別なにかの言葉で法華

経を誹謗する人は少ないけれども、誰もが法華経を用いない。また、たとえ用いている

ようでも念仏などのようには信心が深くない。たとえ信心が深い者でも法華経の敵を責

めない。どのような大善根を修し、法華経を千万部読んだり書写したり、一念三千の観

心(理的な観念観法)を実践体得した人であっても、法華経の敵を責めなければ成仏す

ることはできない。

 たとえば朝廷に10年20年の間奉公した人であっても、主君の敵を知りながら、主君に

奏上もせず、私的にも排斥はいせきすることがなければ、長年の奉公の功績はすべて消失し、か

えって罰に処せられるのと同じである。以上のように、今の世の人びとは法華経誹謗の

罪を犯している者であると承知しなさい。〈これが第二点である〉。(つづく)

【語註】

 ※1 五逆罪:無間地獄に堕ちる5種の根本重罪をいう。五つの大罪とは「殺父」-
            父を殺すこと。「殺母」-母を殺すこと。「殺阿羅漢」-悟りを得た聖者を殺
            すこと。「破和合僧」-僧団を破壊すること。「出仏身血」- 生身の仏陀の
            身より血を出すことである。

  ※2 十悪:10種の悪の意。身で行う罪悪は①殺生(人畜等一切の生命を持つものの
           生命を奪うこと。また人の命を縮めたり、間接的に殺すこと)、②偸盗(他人の
           物を盗むこと、また贅沢をすれば余分に物をとり、人に不自由をかけるから一種
           の盗となる)、③邪婬(自分の色欲を満たすため他人に迷惑をかけること)、口
           でなす罪悪は④妄語(嘘をつくこと)、⑤綺語【きご】(無意味に飾り立てた不
           誠実な語言)、⑥両舌(人の仲を隔てる二枚舌)、⑦悪口【あっく】(人の悪い
           ことを吹聴すること)、意【こころ】の中で起す罪悪は⑧貪欲【とんよく】(貧
           るという迷妄の心、餓鬼道の業因)、⑨瞋恚【しんに】(怒る心、我が儘な心、
           地獄界の業因)、⑩愚癡または邪見(よこしまな見解)である。

 ※3 提婆達多:デーヴァダッタ。斛飯王の子で阿難の兄、釈尊の従弟にあたる。釈
            尊に従って出家したが嫉妬我儘の心があり、大衆を誘惑して新教団をつくり、
            阿闍世王とともに釈尊に敵対して種々の危害、三逆罪(出仏身血、殺阿羅漢、
            破和合僧)を犯した。その結果、遂に提婆達多は生きながらにして地獄に墜ち
            た。しかし法華経からみれば極悪非道の提婆達多も提婆品において天王如来と
            いう仏名を授けられ、成仏したことが次のように説かれる。昔、ある国王が仏
            教の悟りの境地を求めて、大乗の教えを説く師を四方に求めた。その時、阿私
            仙人が国王に「もしよく修行すれば、妙法華経という大法を説こう」と告げ
            た。国王は阿私仙人の言葉に従い、薪・菓・共をとり、水を汲み、食を設けた
            りして給仕に努め、遂に仏になることができた。そして、その時の国王とは今
            の釈尊であり、阿私仙人は今の提婆達多であると表明する。釈尊は提婆達多と
            いう善知識によって悟りを得ることができたことを理由として、提婆達多に対
            し無量劫ののち天王如来に成るという記別を授けられた。

 ※4 鴦崛摩羅:アングリマーラ。本名はアヒンサカ。彼は釈尊の弟子となる以前に
            あるバラモンに師事していたが、ある事件によって怒ったそのバラモンは彼を
            陥れようとして誤った教えを与えた。彼は師の教えに従って、次々と人を殺し
            てその指を切って髪飾りとしたことから、アングリマーラ(指で作った首輪)
            と呼ばれるようになった。 1000人の指を集めようとして 1000人目に自分の母
            を殺そうとした時、釈尊が教化したので、バラモンの教えを捨てて、弟子とな
            った。その後市民の迫害を受けたにもかかわらず、過ちをひたすら懺悔し、行
            を重ねたのでついに悟りを得たという。

 ※5 須利槃特:チューラパンタカ。釈尊の弟子で、舎衛城のバラモンの出身。兄を
            マハーパンタカといい、共に父母が旅行中に路辺で生れたため,、パンダカと名
        づけられたという。兄は頗る総明であったが、弟は極めて愚鈍であった。兄と
            共に仏門に入るが、3ヵ月かかっても一偈すら覚えることが出来ず、かえって
            傍で毎日その偈を聞いていた牧夫が通達してしまい、その牧夫に偈を習いに行
            ったという。釈尊はこれを愍み、一本の箒を与えてその名を記憶するようにと
            教えた。数日たっても記憶できなかったが、なおも一心にこれを思念し、遂に
            阿羅漢果を得たという。

 ※6 貪瞋痴の三毒:われわれの心を汚し毒する三大煩悩。貪(むさぼり)ね,瞋(いか
            り)、痴(無知)。

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【 2024/04/25 05:31 】

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病といのち 南条兵衛七郎殿御書②

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波木井の御影(身延山久遠寺蔵)

南条兵衛七郎殿御書なんじょうひょうえしちろうどのごしょ

 かうたしかにくいかえして実義じつぎをさだむるには、「世尊の法は久しく

して後かならずまさに真実を説くべし」「久しくこのようもくしていそいですみ

かに説かず」等とさだめられしかば、多宝仏たほうぶつ大地よりわきいでさせ給ひ

て、この事真実なりと証明しょうみょうをくわへ、十方の諸仏八方にあつまりてこう

長舌相ちょうぜっそう大梵天宮だいぼんてんぐうにつけさせ給ひき。二処三会にしょさんね、二界八番の衆生一

人もなくこれをみ候ひき。

 此等の文をみ候に、仏教を信ぜぬ悪人外道げどうはさておき候ひぬ。仏教の

中に入り候ても爾前権教にぜんごんきょうの念仏等を厚く信じて、十遍・百遍・千遍・

一万乃至六万等を一日にはげみて、十年二十年のあひだにも南無妙法蓮

華経と一遍だにも申さぬ人人は、先判せんぱんに付いて後判ごはんをもちゐぬ者にては

候まじきか。此等これらは仏説を信じたりげには我身わがみも人も思ひたりげに候へ

ども、仏説の如くならば不幸の者也。

 故に法華経の第二に云く「今この三界は皆これが有なり。その中の

衆生はことごとくこれが子なり。しかも今このところはもろもろの患難げんなん

多し。ただ我一人われいちにんのみよく救護くごをなす。また教詔きょうしょうすといえどもしか

も信受せず」等云云。

 もんの心は釈迦如来は此等これら衆生には親也、師也、主也。我等衆生の

ためには阿弥陀仏・薬師仏等は主にてはましませども、親と師とにはま

しまさず。ひとり三徳をかねて恩ふかき仏は釈迦一仏にかぎりたてまつ

る。親も親にこそよれ、釈尊ほどの親。師も師にこそよれ、主も主にこ

そよれ、釈尊ほどの師主ししゅはありがたくこそはべれ。この親と師と主との

おおせをそむかんもの、天神地祇てんじんちぎにすてられたてまつらざらんや。不孝第

一の者也。故に「雖復教詔而不信受すいぶくきょうしょうにふしんじゅ」等と説かれたり。
 
 たとひ爾前にぜんの経につかせ給ひて、百千万億こう行ぜさせ給ふとも、法華

経を一遍も南無妙法蓮華経と申させ給はずは、不孝の人たる故に三世十

万の聖衆しょうしゅうにもすてられ、天神地祇にもあだまれ給はんれ一〉。

【現代語訳】

 このように、明確にさきの40余年の説法を打ち消し、真実の教えを説き顕わされる時に

は、「仏は久しくして後に真実の法を説く」(法華経方便品)、「久しくこの肝要の法

を説かなかった」(法華経薬草喩品)などと明言されたので、多宝仏が大地からき出

でて来られて、この事は真実であると証明を加え(法華経見宝塔品)、十方の諸仏が八

方に集まって広長舌を大梵天宮までつけ、同じく真実を証明された(法華経神力品)。

この事実は、法華経の説法の場にいたすべての聴衆が見聞けんもんしたのである。

 これらの文を見ると、仏教を信じない悪人や外道はさておいても、仏教を信じながら

も法華経以前の方便の教えである念仏などをあつく信じ、1日に10遍・100遍・1000遍・

1万遍、あるいは6万遍などこなえ、10年、20年の間に一度も南無妙法蓮華経と唱えない

人びとは、親の譲状の先判を用い、後判を用いない者ではないだろうか。このような人

びとは、仏の教えを信じているように自分も思い他人も思っているようであるが、仏の

教えの通りに従えば不孝の者である。

 したがって、法華経の第2巻譬喩品には「今のこの世界はすべて私(仏)の所有する

ところであり、その中に住む衆生はことごとく私の子である。しかも、今、この世界に

は苦難が多い。ただ私一人だけがこれを救うことが出来る。私が教えさとしても衆生は迷

っていて信受しようとしない」と説かれている。

 この文の意味は、釈迦如来はこのような衆生の親であり、師であり、主である。私た

ち衆生にとって、阿弥陀仏や薬師仏などは主ではあっても親でも師でもない。主・師・

親の3つの徳をかね備えた恩の深い仏はただ釈迦如来だけである。親もいろいろあるが

釈尊ほどの親は他にはない。師もいろいろあり、主もいろいろあるが、釈尊ほどの師や

主は他にはない。このようにありがたい親と師と主との徳を備えられた釈尊の教えに背

く者が、天地の神々に捨てられないことがあろうか。このような人びとは不孝第一の者

である。そのゆえに「また教え諭すけれども信受しない」(法華経譬喩品)と説かれた

のである。

 たとえ法華経以前の経典を信じ、計り知れないほどの長い間修行をしても、法華経を

信じ一度でも南無妙法蓮華経と唱えなければ、不孝の人であるから、三世十方の聖衆

(仏菩薩)にも捨てられ、天地の神々にもあだまれるであろう。〈これが第一点であ

る〉。(
つづく)

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【 2024/04/23 05:31 】

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病といのち 南条兵衛七郎殿御書①

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波木井の御影(身延山久遠寺蔵)

南条兵衛七郎殿御書なんじょうひょうえしちろうどのごしょ

文永元年(1264)12月13日、43歳、於鎌倉、和文

 安房の東条松原で襲撃され自らも傷を負った1カ月後の手紙である。南条時光の父・南条兵衛七郎が病に臥していると聞いて、病のない者も、ある者も、定めないものだとして、『法華経』を根本として後世に思いを定めることを説いている。

 御所労ごしょろうよし承り候はまことにてや候らん。世間のさだめなき事は病なき人も

留りがたき事に候へば、まして病あらん人は申すにおよばず。ただし心あ

らん人は後世ごせをこそ思ひさだむべきにて候へ。

 又後世を思ひ定めん事は私にはかなひがたく候。一切衆生の本師にて

まします釈尊のおしえこそもとにはなり候べけれ。

 しかるに仏のおしへ又まちまちなり。人の心の不定なる故

 しかれども釈尊の説教五十年にはすぎずさき四十余年の間の法門

華厳経には心仏及衆生是三無差別しんぶつぎゅうしゅじょうぜさんむさべつ阿含経あごんきょうには苦空無常無我くくうむじょうむが

大集経だいしつきょうには染浄融通ぜんじょうゆうづう大品経だいぼんぎょうには混同無二こんどうむに双観経そうかんきょう観経かんよう

阿弥陀経等には往生極楽。此等これらの説教はみな正法・像法ぞうぼう・末法の一切衆

生をすくはんがためにこそとかれはんべり候けめ。

 しかれども仏いかんがおぼしけん、無量義経に「方便力ほうべんりきを以て四十余

年にはいまだ真実をあらわさず」と説かれて、先四十余年の往生極楽等の一

切経は親の先判せんぱんのごとくくひかえされて、「無量無辺不可思議阿僧祇劫むりょうむへnふかしぎあそうぎこう

を過ぐるともついに無上菩提をじょうずることを得ずといゐきらせ給ひ

法華経の方便品に重ねて「正直に方便を捨ててただ無上道を説く」と

とかせ給へり。方便をすてよととかれてはんべるは、四十余年の念仏等

をすてよととかれて候。

【現代語訳】

病気の見舞いと信心の勧め

 御病気であるとうかがいましたが、まことでしょうか。世の中は無常であり、病気で

はない人であっても生き続けることは困難であるのですから、まして病気の人は言うに

及びません。ただ、道心どうしんのある人は死後のことこそ思い定めておかなければなりませ

ん。

真実の教法

 また、来世のことを思い定めるには、自分のはからいだけではとても出来るものでは

ない。すべての人びとの本師ほんし(本当の師、根本の師)である釈尊の教えこそがその根本

となるものである。

 ところが仏の教えはさまざまにある。それは人びとの心がそれぞれ異なっており、そ

の異なった人びとに応じて仏は法を説かれたからである。

 しかしながら、釈尊の御一代の説法は50年である。そのうち、前の40余年間の法門に

は、華厳経の「心はたくみな画師えしのようにすべてのものを作る。心と仏と衆生とは皆同じ

で、この3つに異なりはない」という教え、阿含経の「すべてのものは苦であり、空で

あり、無常であり、無我である」という教え、大集経の「けがれた迷いときよい悟りとはゆう

づうして一体であるという教え大品般若経の迷いの苦界と悟りの仏界とはその本性

において一つである」という教え、観無量寿経・無量寿経・阿弥陀経などの「阿弥陀仏

誓願力せいがんりきによって極楽浄土に往生する」という教えがある。これらの教えは皆、仏入

滅後の正法時・像法時・末法時のすべての人びとを救うために説かれたのであろう。

 ところが仏はどのように思われたのか、無量義経に「方便の力用はたらきをもって40余年の間

はまだ真実を説き顕わさなかった」と説かれ、さきの40余年間に説かれた「極楽に往生す

る」などを内容とするすべての経典を、親の譲状ゆずりじょうの先判(親の譲状が複数ある時は日

付の新しいものが有効で古いものは無効とされるのように打ち消され、無量義経に、

それらの教えでは「永劫えいごうにわたって修行してもついに成仏することは出来ない」と言い

切り、法華経方便品には重ねて「正直に方便を捨てて、ただ真実無上の教えを説く」と

説かれている。「方便を捨てよ」と説かれているのは、40余年間に説かれた念仏などの

教えを捨てなさい、ということである。(つづく)

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【 2024/04/20 05:37 】

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法華経の女人 月水御書⑥

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波木井の御影(身延山久遠寺蔵)

月水御書がっすいごしょ

 但し女人の日の所作は苦しかるべからずと覚え候歟。元より法華経を

信ぜざる様なる人々が、経をいかにしても云うとめんと思ふが、さすが

にただちに経を捨てよとは云えずして、身の不浄なんどにつけて、
法華

経を遠ざからしめんと思ふ程に、又不浄の時、此を行ずれば経を愚かに

しまいらするなんどをどして罪を得させ候也。
此事をば一切御心得候

て、月水の御時は七日までも其気の有ん程は、
御経をばよませ給はずし

て、暗に南無妙法蓮華経と唱させ給ひ候へ。
礼拝をも経にむかはせ給は

ずして拝せさせ給ふべし。

 又不慮に臨終なんどの近づき候はんには、魚鳥なんどを服せさせ給ふ

ても候へ。よみぬべくば経をもよみ、及び南無妙法蓮華経とも唱させ給

ひ候べし。又月水なんどは申すに及び候はず。

 又南無一乗妙典と唱させ給ふ事、是同じ事には侍れども、天親菩薩・

天台大師等の唱させ給ひ候しが如く、只南無妙法蓮華経と唱させ給べき

歟。
是子細ありてかくの如くは申し候也。穴賢穴賢。  

文永元年卯月十七日                 日蓮  花押   

大学三郎殿御内  御報

【現代語訳】

 ただし女性の一日の所作には差し支えないと思います。元より法華経を信じていない

ような人々が、法華経をなんとかして嫌わせようと思うが、さすがにただちに経を捨て

よとは言えないので、身の不浄などとかこつけて、法華経を遠ざけようと思うので、ま

た不浄の時これを行ずれば経をおろそかにすることとなるなどと脅して、罪を得させよ

うとするのです。この事を一切心得られて、月水の時は7日ほどもその気のある時は、

御経を読まれずに、暗唱して南無妙法蓮華経と唱えるようにすればよいでしょう。礼拝

も経に向かわずに拝みなさい。

 また不慮に臨終などが近づいた時には、魚や鳥などを食べておられる時でも、読める

ならば経を読み、そして南無妙法蓮華経とも唱えたらよいでしょう。また月水などは言

うに及びません。

 また南無一乗妙典と唱えられることは、これと同じ事ですが、※ 1親菩薩・天台大師等

が唱えられたように、ただ南無妙法蓮華経と唱えるべきです。これは詳細があるのでこ

のように申し上げるのです。穴賢穴賢。

文永元年卯月十七日                        日蓮  花押   

大学三郎殿※ 2内  ※ 3

【語註】

 
※1 天親菩薩:新訳(玄奘訳)では世親。現在は世親の名が用いられている。5世
            紀頃の北インドガンダーラの論師。瑜伽・唯識思想の大成者無著の肉弟として
            生れ、初めは小乗を信じ、カシミールに入って『大毘婆沙論』を研鑽したが後
            に無著の教化を受けて大乗に転じた。『十地経論』『摂大乗論釈』『仏性論』
           『涅槃論』『妙法蓮華経優婆提舎』(『法華論』)など多くの論釈を著した。
            小乗にいるとき500部、大乗において500部の著があるとされ、世に千部の論主
            と称される。日蓮は天親を、法華経の真髄を会得しながらも、仏滅後遠からぬ
            正法の世に、概して清善の機根の人々に対し、龍樹などと同じく、内には法華
            経の真髄を蔵しながら、外には権大乗の弘通を行った人としてとらえている。

 ※2 御内:手紙の宛名に添える言葉で、相手の妻、または一家全体にあてる場合に
            用いる。

 ※3 御報:身分の高い人に出す文書での返事を意味する。

【解説】

 この手紙の末尾に日蓮自ら、「大学三郎殿御内御報」と記しているように、鎌倉在住

の比企大学三郎能本の妻の質問に答えた手紙である。

 大学三郎は、鎌倉幕府の有力御家人であった比企能員の子で、四条金吾と並ぶ相模の

有力な信徒であり、龍口の法難の時は、命を賭して日蓮を護ることに奔走している。そ

のため、何らかの難に遭ったようだが、それも乗り越えて日蓮に帰依し続けた。

 その夫人からの質問は、①『法華経』の1部28品をすべて読誦すべきか、あるいは、

薬王品の1品を読誦すべきか、そして、②月水(月経)の時は読誦すべきか否かーの2

点にまとめてみることができよう。

 
①に対して日蓮は、方便品と寿量品の読誦、および南無妙法蓮華経を唱えることを勧

めている。

 ②について質問した夫人は、一度も「月水」という言葉を使わず、2回も「例の事」

という表現を用いている。それは、当時の女性たちの恥じらいだけでなく、忌み嫌われ

ているものを言葉で表現するのがはばかられるという意識の表われであろう。日蓮は、

6回も「月水」という語を用いていて、日蓮のほうは、何のとらわれもなく、あっけら

かんとしている。

 これまで、多くの女性が尋ね、多くの人が答えて来たけれども、一代聖教に月経を忌

み嫌う言葉がないからか、示されていない。そして、日蓮自身も、釈尊在世の女性修行

者たちが、月経の時だからと言って、忌み嫌われることはなかったと答える。

 そして、日蓮は月経について、①外からやってくる不浄(穢れ)ではない、②女性の

体に生理現象として現われる単なる変調、③生命の種を継承する原理に基づいたもの、

④体調が崩れるのは長病のようなものーだとして人体から排泄された屎尿と同じで

浄化して清潔にすれば、何の忌み嫌うこともないと結論する。これを読むと、日蓮の合

理的かつ道理にかなった思考を読み取ることが出来る迷信じみた発想は欠片もない。

 釈尊も徹底して迷信を排除していた。バラモン教の「穢れ」という観念を否定した。

旃陀羅【せんだら】と漢訳されたチャンダーラ(不可触民)は、排泄物や血液などの穢

れに触れるから、穢れているとされていたが、釈尊はこれを完全に否定した。

 迷信を徹底的に排除していた本来の仏教からすれば、月経は忌み嫌うことでも何でも

ない。生理現象の一つにすぎない。けれども現実的には、日本では身の回りに忌み嫌う

風習が根強い。そこで、日蓮は「随法毘尼」の考え方を提示する。仏教の根幹に抵触し

なければ地方、方面の生活習慣に随ってもいい、というものだ。日本国は神国として、

忌み嫌う人が多いのだから、それに敢えて逆らう必要はないとしつつも、日々の勤めに

は何の問題もないと言う。「其の気の有らん程」、すなわち体調が勝れない時には、無

理に経典を読まなければならないことはなく、「暗に南無妙法蓮華経と唱へさせ給ひ候

へ」という柔軟な思考を示している。
 
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【 2024/04/18 05:39 】

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法華経の女人 月水御書⑤

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波木井の御影(身延山久遠寺蔵)

月水御書 がっすいごしょ

 又御消息の状に云く、日ごとに三度づゝ七の文字を拝しまいらせ候事

と、南無一乗妙典と一万遍申し候事とをば、日ごとにし候が、例の事に

成て候程は、御経をばよみまいらせ候はず。
拝しまいらせ候事も一乗妙

典と申し候事も、そらにし候は苦しかるまじくや候らん。それも例の事

の日数の程は叶うまじくや候らん。いく日ばかりにてよみまいらせ候は

んずる等云云。

 此の段は一切の女人ごとの御不審に常に問せ給ひ候御事にて侍り。又

いにしへも女人の御不審に付いて申したる人も多く候へども、一代聖教 しょうぎょう

にさして説れたる処のなきの故に、証文分明 ふんみょうに出したる人もおはせ

ず。

 日蓮ほぼ聖教を見候にも、酒肉五辛 ごしん婬事 いんじなんどの様に、不浄を分明に月

日をさしていましめたる様に、月水をいみたる経論を未だかんがへず候也。


世の時、多く盛んの女人尼になり、仏法を行ぜしかども、月水の時と申

して嫌はれたる事なし。

 是をもて推し量り侍るに、月水と申す物は外より来れる不浄にもあら

ず、只女人のくせ(癖)かたわ生死の種を継べきことわりにや。
長病 ながわずらい

様なる物也。例せば屎尿 しにょうなんどは人の身より出れども能く浄くなしぬれ

ば別にいみもなし。是のていに侍る事。されば印度・尸那 しななんどにもい

たくいむ(忌)よしも聞えず。

 但し日本国は神国也。此の国の習として、仏菩薩の垂迹 すいじゃく不思議に経

論にあひに(相似)ぬ事も多く侍るに、是をそむけば現に当罰あり。

委細に経論を勘へ見るに、仏法の中に随方毘尼 ずいほうびにと申す戒の法門は是に当

れり。此の戒の心は、いたう(甚)事かけ(欠)ざる事をば、少々仏教

にたがふとも其の国の風俗に違ふべからざるよし、仏一の戒を説き給へ

り。
此の由を知ざる智者共、神は鬼神なれば敬ふべからずなんど申す強

義を申して、多の檀那を損ずる事ありと見えて候也。若し然らば此の国

の明神、多分は此の月水をいませ給へり。
生を此国にうけん人々は大に

忌み給べき歟。

【現代語訳】
月水の時と申して嫌われることなし

 また御消息のお手紙には、日ごとに3度ずつ※ 1つの文字を拝しておられることと、※ 2

無一乗妙典と一万遍唱えることとを日ごとにしていますが、例の事になっている間は御

経は読みません。拝することも一乗妙典と唱えることも、暗唱することはよろしいので

しょうか。それも例の事の日数の間はいけないのでしょうか。何日ほどで読んだらよい

のでしょう、とあります。

 この件はすべての女性ごとの不審で、常に問われることでございます。また昔も女性

のご不審について申している人も多くおられます。

 ※ 3代聖教にさして説かれているところはありませんので、証文を明らかに出した人も

おりません。
日蓮がおおよその聖教を見たところ、酒肉・※ 4辛・※ 5事などのように、不

浄をはっきりと月日をさして禁じているように、※ 6水を忌む経論をいまだ検討していま

せん。

 釈尊が在世の時、多くの若い女性が尼になり、仏法を修行しましたが、月水の時とい

って区別はしておりません。このことから考えると、月水というものは外より来た不浄

でもなく、ただ女性特有のもので、生死の種を継ぐべき道理でしょう。また長い病のよ

うなものです。例えば屎尿などは人の身より出るが、よく清くさえすれば、別に嫌うも

のでもありません。これと同じことでしょう。従って
、インドや中国などでもそれほど

嫌うとも聞いていません。

 ただ、日本国は神国です。この国の習慣として、(神は)仏・菩薩の※ 7迹として不思議

なもので、※ 8論にあわないことも多くありますが、これに背けば現に罰があります。委

細に経論を考えますと、仏法の中の※ 9方毘尼という戒の法門がこれに当たります。この

戒の心は大きく違わなければ、少々仏教に違っていてもその国の風俗に違うべきではな

いと仏が一つの戒を説かれたのです。
このことを知らない智者たちは、神は鬼神である

から敬うべきではないなどという強硬な意見を言って、多くの檀那を損なうことがある

ようです。もしそうであるなら、この国の神々は、多分はこの月水を忌むので、生をこ

の国に受けた人々は大いに忌むべきでしょうか。(つづく)

【語註】

 ※1 7つの文字:南無妙法蓮華経の7文字のこと。

 ※2 南無一乗妙典:南無は、サンスクリット語のナマスの変化したナモーを音写し
            たもので、「~敬礼する・帰依する」の意味。その妙法蓮華経が、あらゆる人
            の成仏を可能とするする一乗一仏乗の教えを説く最勝の経典ということで、
           「一乗妙典」と置き換えて、「南無一乗妙典」としたのであろう。

 
※3 一代聖教:釈尊の一代で説かれたとされるすべての教え。

 ※4 五辛:辛味や臭気の強い5種類の野菜で、ねぎらっきょうにらにんにくはじかみのこ

        と。薑の代わりに野蒜のびるを挙げる経典もある。情欲・憤怒を増進する食べ物とし
            て、仏教では食べることが禁じられた。

 
※5 淫事:男女の交合のこと。

 ※6 月水:月経のこと。

 ※7 垂迹:仏教と神道とが結びついて生れた思想で,仏や菩薩が衆生を仏道に引き
            入れるために,かりに神々の姿となって示現すること。

 ※8 経論:三蔵の中の、律蔵を除く経蔵と論蔵。

 ※9 随方毘尼:仏法の根本の法理に違わない限りり、各国・各地域の風俗や習慣、
            時代ごとの風習を尊重し、随うべきであるとした教え。随方随時毘尼ともい
            う。毘尼はサンスクリットのヴィナヤの音写で、律(教団の規範・規則)の
            意。仏法では、正法という根本基準を立てた上で、成仏・不成仏という仏法の
            根本原理に関する事柄でなければ、世間一般の風俗・規範を尊重し用いてい
            く。
 
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テーマ:仏教・佛教 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2024/04/16 05:33 】

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