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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴ってまいりましたが、これからしばらくは世界史のミラクルワールドをお届けします。

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世界史のミラクルワールドー異民族の花盛り・五胡十六国

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司馬炎(武帝)

 266年、司馬炎【しばえん】が魏を滅ぼして晋【しん】を建国し、武帝となった。司馬炎は諸葛亮と5度に渡って戦った司馬懿の孫にあたり、祖父さんの遺産で皇帝になったようなもんだ。晋は280年に呉も滅ぼして三国時代に終止符を打ち、中国の再統一を果たした。

 魏は建国わずか46年で滅びたわけだが、武帝はその原因を王室の一族を政権から遠ざけていたことだと考え、司馬氏一族を各地に封建して王とした。しかし、これが裏目に出てしまう。

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 せっかく統一を果たしたが、その後が良くない。武帝は国政に関心を示さなくなってしまう。女子の婚姻を禁止して、自分の後宮に入れるための女子を5000人選んだ。さらに呉の後宮にいた5000人も自分の後宮に入れた。合計1万人もの宮女を収容した広大な後宮を、武帝は毎夜、羊に引かせた車に乗って回った。この羊の車が止まったところの女性のもとで、一夜をともにするのである。そこで、宮女たちは自分のところに皇帝を来させようと、自室の前に塩を盛っておいた。羊が塩をなめるために止まるからである。よく料理店の店先に人寄せのための縁起担ぎとしての盛り塩がしてあるけど、これが起源なんだってさ。

司馬衷
司馬衷(恵帝)

 武帝は長年の荒淫がもとで病没し、息子の司馬衷【しばちゅう】(恵帝)が即位したが、これがまたお馬鹿さん。ある時、華林園で蛙の声を聞くと、恵帝は側近の者へ「この蛙は公事のために鳴いているのか、それとも私事のために鳴いているのか」と尋ねた。すると、ある者がからかって「公有地にいる時は公のために、私有地にいる時は私のために鳴いているのですぞ」と返したという。

 また、天下が荒れ果てて民衆が飢餓に瀕している時、恵帝は「(穀物がないのならば)何故肉粥を食べぬのか」と言ったと伝えられてる。これ、ヴェルサイユ宮殿に押しかけて、「パンよこせ」と騒いでいるパリの母ちゃん連中に、「パンがないなら、ケーキを食べなさいよ」と言ったマリ=アントワネットと一緒じゃん。

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 そんなわけで、政治の実権は皇后である賈南風【かなんぷう】とその外戚が掌握した。この女、容貌醜く背が低く色が黒い上に、嫉妬深いときているから始末が悪い。恵帝がまだ皇太子の時代に、恵帝の子を妊娠した妾に嫉妬し、胎児ごと殺してしまった。皇后となってからは、邪魔な奴は皆殺し、思うがままに政治を操った。淫乱も凄まじく、街中で美少年を見つけると竹箱に入れて誘拐し、これと交わった後は、ことの発覚を恐れて彼らは殺された。

 300年、趙王・司馬倫が賈南風を殺害し、帝位を簒奪したが、翌年に一族の諸王も各地で兵を挙げ大混乱に陥り、洛陽は廃墟と化した。いわゆる八王の乱である。面倒臭いが、いちおう8人の名を挙げておこう。 

 ①趙王・司馬倫(司馬懿の9男) ②汝南王・司馬亮(司馬懿の3男)③楚王・司馬瑋(司馬炎の5男) ④斉王・司馬冏(司馬炎の同母弟) ⑤長沙王・司馬乂(司馬炎の6男) ⑥成都王・司馬穎(司馬炎の16男) ⑦河間王司馬顒(司馬懿の弟の孫) ⑧東海王・司馬越(司馬懿の弟の孫)

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 この時、諸王は華北に浸透していた匈奴など異民族と勝手に手を組み、その軍事力を利用したことから、異民族の台頭を招き、匈奴・羯【けつ】・鮮卑・氐【てい】・羌【きょう】のいわゆる五胡【ごこ】が華北に進出。次々と建国し、その数は16カ国となったので、五胡十六国時代というが、うち3カ国は漢族の国なので、正確には五胡十三国である。

 「胡」は中国の北方・西方の異民族に対する蔑称で、日本語では「えびす」と読む。この他に異民族に対する蔑称として「四夷」がある。北狄【ほくてき】・西戎【せいじゅう】・南蛮【なんばん】・東夷【とうい】で、総称して「夷狄」とも言う。漢字を見ての通り、獣や虫けら扱いだ。

 胡がついた言葉をあげると、胡瓜・胡桃・胡椒・胡麻・胡坐などたくさんあるが、これらはすべて異民族由来のものである。皆さん読めますか?読み方は一番最後に挙げておくね。

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劉淵

 306年に恵帝が中毒死し八王の乱は終結し、恵帝の弟が即位して懐帝となる。しかし、晋の国力衰退は明らかであり、これを好機とみたのが匈奴の劉淵【りゅうえん】であった。身長190cmもある大丈夫であった彼は八王の1人であった司馬穎に従い鄴【ぎょう】に駐屯していたが、304年に山西で自立して匈奴大単于を名乗った。劉淵は、かつて冒頓単于が漢と兄弟の契りを結び漢の皇族を妻に娶っていたことから、匈奴と漢とは甥の関係であるとし、自らを前漢・後漢・蜀漢の後継者と称した。そのため、国号を漢と名乗った(劉淵死後に改称して前趙となっている)。この年は、四川地方で五胡の一つ、氐族の李氏が成国を建てており、五胡十六国時代の始まりとされる。

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 司馬騰を破り山西省南部を勢力範囲に収めた劉淵は、308年に平陽を都にして帝位につき、異民族出身者として初めての皇帝となった。しかし、洛陽の陥落を見ることなく、310年に60年の生涯を終えた。

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劉聡

 劉淵のあと長男の劉和が後を継いだが、人望が無く異母弟の劉聡【りゅうそう】が取って代わった。311年、劉聡は石勒・劉曜・王弥らの大軍を洛陽に差し向け、洛陽は略奪暴行の限りが尽くされて都市は焼き払われ、皇族・貴族・市民ら何万人もが殺戮された。懐帝の皇后羊氏はなんと劉曜の妻とされるありさまであった。懐帝は玉璽と共に平陽に連行され、劉聡から屈辱を受け続けて2年後の313年に処刑され、永嘉の乱は終結し、晋は事実上滅亡した。懐帝の後を受けた甥の愍帝【みんてい】は漢に抵抗したが、316年に長安も陥落し晋は名実ともに滅びた。愍帝は懐帝と同じ扱いを受けた上、317年に劉聡によって処刑されたが、わずか18歳であった。

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 晋(西晋)の滅亡後も、華北では五胡の建てた国が乱立し、この情勢は439年に北魏の太武帝による統一まで続く。一方が江南では、晋の王族であった司馬睿【しばえい】が318年に建康を都として晋を再興(東晋)した。東晋は383年に中国統一をめざして南下した前秦の苻堅【ふけん】を淝水【ひすい】の戦いで破り、以後は淮河【わいが】を境界とした南北で対抗するという形勢が定まり、この状態は隋による統一まで続くことになる。


※胡瓜【きゅうり】・胡桃【くるみ】・胡椒【こしょう】・胡麻【ごま】・胡坐【あぐら】

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【 2018/11/20 08:19 】

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世界史のミラクルワールドー悲運の破戒僧・鳩摩羅什

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キジル千仏洞に立つ羅什像

 鳩摩羅什【くまらじゅう】、サンスクリット語でクマーラジーヴァ。後秦の時代に長安に来て約300巻の仏典を漢訳し、玄奘【げんじょう】とならび二大訳聖としてその名を知られている。

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 羅什の父・鳩摩羅炎【くまらえん】(クマーラヤーナ)はカシミールの生まれで、天竺【てんじく】国(インド)で代々宰相をつとめる名家の出身であった。しかし、彼は宰相の地位を辞退して出家し、葱嶺【そうれい】(パミール)を超え、亀茲【きじ】国(現在のクチャ)にたどり着いた。彼に一目惚れしたのが亀茲国王・白純の妹の耆婆【ぎば】(ジーヴァ)であった。白純に懇願された鳩摩羅炎は還俗し、耆婆と結婚。二人の間に生まれたのが鳩摩羅什である。西暦350年のことであった。

 羅什の母・耆婆は羅什が5歳の時に出家している。夫の鳩摩羅炎も兄である亀茲王・白純も猛烈に反対したが、彼女の意志を覆すことは出来なかった。僧侶であった鳩摩羅炎を還俗させてまで結婚に踏み切った彼女が、なぜ出家したのであろうか?羅什には弗沙提婆【ふさだいば】という弟がいたが、幼くして亡くなったようで、それが動機であったのかも知れない。鳩摩羅炎は再び僧侶となることも許されず、王室の庇護も失い、どこともなくその姿を消すことになったと伝えられている。

 羅什も7歳で出家しているが、母の強い願いによるものであった。そして、9歳の時に母とともに辛頭河(インダス川)を渡り、罽賓【けいひん】国(現在のカシミール)に留学している。罽賓国で3年間小乗仏教を学んだ羅什は、亀茲への帰途立ち寄った疏勒【そろく】国(現在のカシュガル)で須利耶蘇摩【すりやそま】と出会い、大乗仏教を学んだ。羅什は、「私が昔、小乗を学んだのは、黄金を知らない人が鍮石【ちゅうせき】(真鍮のこと)をもって最高と思い込んでいたようなものだ」と嘆じ、大乗仏教に目覚めた。須利耶蘇摩は左手に法華経を持ち、右手で少年羅什の頭を3回撫でながら、こう言ったという。

 『仏日西に入って遺耀【いよう】まさに東に及ばんとす。この経典東北に縁あり。汝慎んで伝弘せよ』 


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 亀茲国に戻った羅什は、雀離【じゃくり】大寺(昭怙厘【しょうこり】大寺)で大乗仏教を講義し、その名声はやがて中国にも知られるようになった。現在のキジル千仏洞がその雀離大寺であると考えられている。キジル千仏洞はムザト川沿いに3.2kmにわたって開削され、現在、236窟が確認されている。平成12年と18年に2度、この地を訪れることが出来たことは、無上の喜びであった。

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 写真はスバシ故城。ここも雀離大寺の候補にあがっているが、はっきりとしたことは現在でも分かっていない。

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 前秦の国王苻堅【ふけん】が将軍呂光【りょこう】に亀茲国征討を命じた目的は、領土の拡大とともに名僧として名高い羅什を国師として長安に迎えることにあった。呂光によって亀茲国が滅びた時、羅什は34歳。生来、粗暴であった呂光は羅什がまだ若年であるのを知り、羅什をあなどり、彼を跪かせるため邪悪な企みをしかけた。彼に仏の戒律を破らせようと、亀茲王女と結婚するよう強要したのである。羅什は激しく拒んだが、呂光は羅什に無理やり酒を飲ませ、王女とともに密室に閉じ込めてしまった。羅什がはたして本当に女性と関係を持ったのか。真相は羅什本人にしか分からない。しかし、破戒僧の烙印を押されたことだけは紛れもない事実なのである。

 羅什は恥辱にまみれて中国へと連行されることになった。ところが、一行が涼州に至った時、呂光は国王苻堅が殺害され、前秦が滅びたことを知る。帰るに帰れなくなった呂光は、涼州にとどまり自ら後涼を建国する。涼州で幽閉生活を送ること15年。後涼が後秦の姚興【ようこう】に滅ぼされ、羅什は51歳にしてようやく長安に入った。

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 それから59歳で亡くなるまでの8年の間に、『妙法蓮華経』『阿弥陀経』をはじめとする35部294巻の翻訳にあたった。『法華経』の訳出は56歳の時。13歳の時に須利耶蘇摩から法華経の原本を手渡されてから、実に43年の歳月が流れていた。後秦の姚興は10人もの女性を侍らせ、羅什の優秀な頭脳を受け継ぐ子を残させようとしたとも伝えられている。

 羅什は毎朝、弟子たちに講説するたびに、こう述べていたという。「たとえば臭泥の中に蓮華を生ずるがごとし。ただ蓮華をとりて、臭泥をとることなかれ」

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 羅什の遺骨は長安郊外の草堂寺に葬られた。写真が羅什の舎利塔であるが、中国仏教界に大きな影響をもたらした偉大な訳経僧のものとしては、あまりにも小さい。破戒僧だからであろうか。

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【 2018/11/18 05:54 】

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世界史のミラクルワールドー中国人になりたい!北魏孝文帝

太武帝
太武帝

 2世紀半ばから匈奴【きょうど】にかわってモンゴル高原を支配した鮮卑【せんぴ】は、五胡【ごこ】十六国時代には五胡の一つとして内モンゴル・華北に侵入し、慕容【ぼよう】氏の前燕などいくつかの国を建てたが、396年には拓跋【たくばつ】氏の拓跋珪【たくばつけい】(道武帝)が北魏を建国した。439年には第3代の太武帝が北燕、北涼、夏を併合して華北を統一、五胡十六国時代に終止符を打った。太武帝は寇謙之【こうけんし】を重用して道教を保護し、中国史上初めて仏教を弾圧(廃仏)したことで知られる。

文成帝 
文成帝

 太武帝は452年に宦官に殺害されて45歳の生涯を終え、亡き皇太子の嫡男であった拓跋濬【たくばつえい】が文成帝として即位した。文成帝は仏教弾圧を廃止し、曇曜【どんよう】に命じて都の平城【へいじょう】(現在の大同)の郊外に雲崗石窟の造営を始めたことで知られる。

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 文成帝の皇后が文成文明皇后。太武帝の左昭儀(皇后に次ぐ後宮のNO2)であった叔母に従って後宮に入った女性で、14歳の時に文成帝の貴人となり、後に皇后となった。要するにお爺ちゃんのお妾さんを奥さんにしたわけで、儒教では不義にあたるとされるが、彼らは漢民族じゃないからそんなの関係ね~。

 しかし、465年に文成帝はわずか26歳で亡くなってしまう。彼女は悲しみのあまりに文成帝の遺体を火葬する際に火中に身投げしたが救出されて一命を取り止めた。

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献文帝

  文成帝の子・拓跋弘(母は李皇后)が即位して献文帝となり、文明皇后は皇太后となった。以後は馮太后【ふうたいごう】と呼ばれることになる。文成帝はわずか11歳で即位したので、馮太后が実権を握り垂簾聴政【すいれんちょうせい】を行った。

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孝文帝

 しかし、献文帝が成長するにつれて対立が生じ、皇太后は献文帝を脅迫して471年に献文帝の息子・拓跋宏に譲位させた。これが、わずか5歳で即した第6代皇帝の孝文帝である。馮太后はその5年後には献文帝を毒殺して、北魏の全権を掌握、事実上の女帝として政治改革を断行した。均田制や三長制は孝文帝の政策として高校世界史では教えているけど、実は彼女が行ったことなんだ。高校世界史では教えないけど、馮太后は唐を滅ぼして皇帝となった則天武后なみの政治手腕を発揮した女傑なんだ。

 ところで、北魏では外戚の専横を避けるために、皇太子をたてた場合、その生母が殺されることが常であったため(子貴母死)、孝文帝の生母である李氏も、469年に自殺させられており、馮太后と献文帝の対立の直接の原因となっている。

 もうひとつ、孝文帝は馮太后の義理の孫にあたるわけだけど、二人は本当の母子だったとする説がある。孝文帝は献文帝が13歳の時の子なんで、子を作るには早すぎるとかいった理由などがあげられてるけど、じゃあ孝文帝の父親は誰だ?ってことになる。でも、謎のままで分かっていない。

 馮太后は490年に49歳で亡くなった。その時の孝文帝の悲しみようは尋常のものではなく、5日は悲しみのあまり食事を取らず、4ヶ月の間、政務を取らなかったと言う。これも、馮太后が孝文帝の実母ではないかと疑わせることになった。

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 馮太后が亡くなって孝文帝の親政が始まった。基本的には馮太后が手がけた改革を継承し、より一層の漢化政策を進めた。漢化政策は簡単に言えば、漢民族に憧れて漢民族になりきろうとした政策のことだ。まず、493年には平城から洛陽への遷都を強行した。この時に孝文帝は反対のあることを予期して、南朝の斉への遠征であるとして洛陽に至った。そこで諸将から南征を諌められるが、それに従う代わりの交換条件と言う名目を持って遷都を実行した。

 無茶苦茶なのは鮮卑の言語・姓名・服装を禁止して中国風に改めさせたことだ。宮廷では鮮卑語の使用は禁止。30歳以下の官吏が鮮卑語を使ったら左遷された。征服した側が自らの言語を強制したというのなら話は分かるが、これじゃあべこべ。それから、姓も漢風にしろってんで、自ら「拓跋」から「元」に改め、臣下たちに対しても半ば強制的に漢風の姓を与えた。

騎馬 

 鮮卑は騎馬民族だ。だから馬に乗りやすい服装をする。

胡服 

 筒袖の上着にズボン、これにベルトをして、ブーツを履くというのが騎馬民族のスタイルだ。これを中国では胡服と言った。これがヨーロッパに入って、それから日本に入って来たんで、日本では洋服と言う。これが野蛮な服装だと言うんで、止めさせた。

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 で、こんな格好になったって訳だ。

 じゃあ、何故そんなに漢民族になりたかったのか?孝文帝は自分たちが漢民族じゃないということは、もちろん分かっている。でも、現実に中国を征服しちゃった。そうすると、なぜ俺たちは中国の皇帝になれたのだろうか、という自分たちの正統性について疑義が生じてしまう。漢民族だったら、自分が皇帝になったのは、前の皇帝が悪政を行なったので、天が怒って風水害を起こし人民を蜂起させて、自分を皇帝に指名してくれたんだ。だから皇帝の姓が変わったんだ。すなわち、易姓革命であるという、大義名分が成立する。だけど、自分たちは漢民族じゃないんで、中国を治める正統性の根拠について悩んだ。その結果、「そうだ、漢民族になりきってしまえばいいんだ。そうしたら易姓革命で天が命じて皇帝になったと、言えるじゃないか」と考えて、強引な漢化政策を進めたという訳なんだ。

 でも、この無茶苦茶な漢化政策に不満を持つ者が反乱を起こす。これは何とか鎮圧したが、孝文帝の死後に六鎮【りくちん】の乱が起き、北魏は東西に分裂することになる。やはり行き過ぎは駄目ですね。

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 写真は文成帝が造営を始めた雲崗石窟第20窟の如来座像で、北魏初代皇帝の道武帝の姿を模したものと言われている。曇曜が建立した大仏はこれをこれを含めて5体あるが、北魏の初代から文成帝までの5人に擬した巨仏とした。これは太武帝の廃仏に懲りた曇曜が、たとえ北魏の皇帝の気が変わっても破壊されないようにするためだったんだってさ。見るからに西域の香りがして、ガンダーラ・グプタ様式の影響が色濃く見られる。

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 雲崗石窟の造営は孝文帝が洛陽に遷都したことで工事が中断され、新たに洛陽郊外の竜門石窟の造営が始まった。孝文帝が漢民族になろうとしたことを受けて、竜門石窟にはインド・西域の影響は希薄となり、中国風の意匠となった。写真は唐の時代に造られた奉先寺の盧舎那仏【るしゃなぶつ】像で、その顔は則天武后の容貌を写し取ったものという伝説があるが、現在では否定されている。

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【 2018/11/14 09:44 】

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世界史のミラクルワールドー出師の表

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曹操

 袁紹【えんしょう】を討って華北の平定に成功した曹操は、208年丞相【じょうしょう】(君主を補佐する最高官)となり、南下して劉表の領土になっていた荊州【けいしゅう】を攻めた。劉表の子は曹操に降り、劉表の客分であった劉備は、いったん南に逃れたが、諸葛亮の活躍で孫権との同盟に成功した。孫権の部下のなかには曹操に降伏しようと説く者もあったが、周瑜【しゅうゆ】、魯肅【ろしゅく】が孫権に、劉備と同盟して荊州を占領することを勧めたのである。

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 劉備・孫権の同盟軍と曹操軍が208年12月に長江の赤壁【せきへき】(現在の湖北省)で激突した。

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劉備             孫権

 『三国志演義』では、曹操軍は荊州の軍と併せて約100万、これに対して呉軍は約10万、劉備軍は約3万となっている。しかし、史実では曹操軍約20万、孫権軍約2万、劉備軍約2,000であり、『三国志演義』ではかなり誇張されているが、連合軍が劣勢であったことに変わりはない。

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 赤壁の戦いは2008年に「レッドクリフ」のタイトルで映画化されたので、内容をご存じの方も多いと思うので、簡単に説明させていただく。曹操は荊州から長江沿いに南下、ここから夏口に軍を進めようとしたが、水上と陸上から東へ進軍する曹操軍内では、慣れぬ南方の風土と食べ物が原因で疫病が蔓延する。そこで曹操は一気に夏口を攻略することを諦め、長江に面し崖の土が赤いことから「赤壁」と呼ばれる場所で軍を停止させる。曹操軍は赤壁の対岸の烏林に野営地を築き、水軍は流されないよう鎖でつなぎ、水上の要塞を作り上げた。

 曹操軍停止を知った孫権軍の周瑜【しゅうゆ】率いる3万は、ただちに赤壁に集結した。この時、周瑜の部将の黄蓋【こうがい】は敵の船団が互いに密集していることに注目し、火攻めの策を提案する。黄蓋は自ら火船隊を率い、投降すると見せかけて曹操軍に接近した。黄蓋の裏切りを信じた曹操軍は、火船隊の接近を許してしまう。

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 ところが,、問題なのは風向き。南から攻めていこうとする孫権軍にとって、火攻めをするために必要なのは東南の風なのだが、この季節、北風ばかりが吹いている。そこに登場するのが諸葛亮。急ごしらえの祭壇を造り、七星壇と名づけた場所で祈祷を行い、いつも手にしている羽毛扇を振るやいなや、東南の風が吹き始める。諸葛亮は「嵐を呼ぶ男」だ。


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 東南の風が吹き始めると、黄蓋は油をかけ薪を満載した船に火を放ち敵船に接近させた。折からの強風にあおられて曹操の船団は燃え上がり、炎は岸辺にある軍営にまで達した。船団は大打撃を受け、おびただしい数の人や馬が焼死したり溺死したりした。さらに、陸に逃げた曹操軍も関羽の軍に破られ、曹操は南下を断念した。ここに孔明の構想した「天下三分の計」が実現し、曹操の魏、孫権の呉、劉備の蜀の三国が鼎立する三国時代となった。

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曹丕

 220年、曹操が亡くなり、曹丕【そうひ】が魏王となり丞相職を継承。さらに、献帝に禅譲を迫って皇帝(文帝)の座に即いた。これに対抗して、翌221年に劉備が蜀漢の皇帝(昭烈帝)に即位、222年には孫権も呉の皇帝となり、名実ともに三国時代となったのである。

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劉禅
 
 221年、劉備は関羽の仇を討つべく、呉への親征を行った。しかし、夷陵の戦いに大敗を喫し、223年6月、逃げ込んだ白帝城で63年の生涯を失意のうちに終えた。死去にあたり劉備は諸葛亮に対して「君の才能は曹丕の10倍ある。きっと国を安定させて、最終的に大事を果たすだろう。もし我が子・劉禅が補佐するに足りる人物であれば補佐して欲しい。もし我が子に才能がなければ迷わず君が国を治めてくれ」と言った。これに対し、諸葛亮は、涙を流して、「私は思い切って手足となって働きます」と答え、あくまでも劉禅を補佐する姿勢を取った。その結果、劉禅が17歳で蜀漢第2代皇帝として即位した。

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 益州南部4郡を平定した諸葛亮は227年にいよいよ魏に対する北伐を開始した。北伐にあたり劉禅に上奏したのが有名な「出師の表【すいしのひょう】」だ。(師は軍隊のこと)古来から名文中の名文とされており「諸葛孔明の出師の表を読みて涙を堕さざれば、その人、必ず不忠」と言われたほどだ。諸葛亮は228年にも「出師の表」を上奏したとされ、これを「後出師の表」というが、どうも偽作らしい。

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 写真は成都にある武侯祠(諸葛亮と劉備の墓)に遺された岳飛【がくひ】による「出師の表」の石碑からとった拓本。岳飛についてはまた改めて書くけど、女真族の金と幾度も戦い勝利を収めた南宋の将軍で、中国史上最も愛された最強の英雄だ。以前成都に行った時に拓本を買って来た。ご覧の通り素晴らしい書なんで、臨書しようと思って買ったんだけど、残念ながらまだ臨書してない。

 「臣、亮、言【もう】す。先帝創業未【いま】だ半【なか】ばならずして、中道に崩殂【ほうそ】せり。今、天下三分し益州は疲弊す。此れ誠に危急存亡の秋【とき】なり。然れども待衛【じえい】の臣、内に懈【おこた】らず、忠志の士、身を外に忘るるは、蓋【けだ】し先帝の殊遇を追い、これを陛下に報いんと欲すればなり」で始まり、劉禅に人材の重要性を説いた後、自分が単なる処士に過ぎなかったのに、先帝である劉備が3回(三顧の礼)も訪れて自分を登用してくれたことに感謝していると述べ、この先帝の恩に報いるために、自分は中原に進出し、逆賊たる魏王朝を破り、漢王朝を復興させようとしているという決意を述べ、最後をこう結んだ。

 「臣、恩を受けて感激に勝【た】えず。今、遠く離るるに当り、表に臨んで涕泣【ていきゅう】し、云う所を知らず。」

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 司馬懿

 北伐は5度にわたって行われたが、諸葛亮と激しく戦ったのが魏の将軍・司馬懿【しばい】で、字は仲達【ちゅうたつ】。諸葛亮は234年2月、5度目の北伐を行った。諸葛亮は持久戦の構えをとって五丈原【ごじょうげん】で司馬懿と長期に渡って対陣したが病に倒れ、8月陣中に没した。54歳という若さだった。恐らく、過労死だろうね。

 司馬懿は撤退する蜀漢軍に追撃をかけようとしたが、蜀漢軍が魏軍に再度攻撃する様子を示したので司馬懿は退却した。後世の人はこれを、「死せる孔明、生ける仲達を走らす」と言った。

 諸葛亮が没して30年余り後の265年、司馬懿の孫が魏を滅ぼし、晋(西晋)を建国することになる。

※人物の肖像は中国テレビドラマ三国志 Three Kingdoms』から拝借しました。

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【 2018/11/12 05:28 】

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世界史のミラクルワールドー三顧の礼

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董卓
 
 後漢末の中平6(189)年、将軍・董卓【とうたく】は、霊帝のあとを継いで即位したばかりの少帝弁を廃して、異母弟の陳留王協(献帝)を立て、自ら宰相となって専横暴虐を極めた。そのため天下は乱れて、しばらく群雄割拠の時代が続いたが、次第に天下の趨勢【すうせい】は曹操【そうそう】(魏)、孫権【そんけん】(呉)、劉備【りゅうび】(蜀)に三分され、いわゆる三国鼎立【ていりつ】の時代に移っていった。

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劉備

 この中で最も立ち遅れていたのは劉備であった。すでに曹操が江北を平らげ、孫権が江東に勢いを得ている時、劉備にはまだ拠るべき地盤がなかった。彼のもとには関羽【かんう】、張飛【ちょうひ】、趙雲【ちょううん】らの勇将はいたが、ともに事をはかるべき策略の士がいなかった。それを痛感した劉備が、彼こそと見込んだ人物が諸葛亮【しょかつりょう】であった。

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諸葛亮

 諸葛亮は字【あざな】は孔明【こうめい】、伏龍や臥龍【がりゅう】とも呼ばれる。三国志で一番有名な人物で、世界史好きでなくても、その名を知らない人はいないだろう。

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 孔明は早くに父を失い、戦乱の世を避けて、襄陽【じょうよう】の西、隆中山の臥龍岡【がりゅうこう】という丘に草廬【そうろ】を結び、晴耕雨読の毎日を送っていた。一方、劉備は袁紹【えんしょう】の陣営を離れて劉表【りゅうひょう】を頼り、荊州【けいしゅう】北部の新野【しんや】に居城を貰っていた。孔明の友人の徐庶【じょしょ】が劉備の下に出入りして、孔明のことを劉備に話した。人材を求める劉備は徐庶に孔明を連れてきてくれるように頼んだが、徐庶は「孔明は私が呼んだくらいで来るような人物ではない」と言ったため、劉備は孔明のもとに足を運ぶことにした。

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 この時、劉備は47歳。その上、漢の皇帝の末裔で、左将軍の地位にある。そんな人物が27歳の無位無官の若造に会いに行くなどということは常識では考えられない。おまけに、地図で見ると近そうだが、新野から襄陽の隆中山までの100キロほどもある。その道をはるばる訪ね、高鳴る動悸を抑えながら門を叩いた劉備は、若い女性に出迎えられた。「諸葛亮先生にお会いしたいのですが」、劉備は笑顔をつくる。「主人なら、今日はお留守ですが」。落胆して劉備は帰るしかなかった。数日後、劉備はまた訪ねて行ったが、やはり会うことは出来なかった。

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 しかし、何故にそれほどまでに身を屈するのかと咎【とが】める関羽と張飛をおしとめて、劉備は三度孔明を訪ねてようやくその目的を果たした。

 「すでに漢室は傾き、奸臣が天下を盗んでおります。私は身の程もわきまえず、天下に大義をのべようと志しながらも、知力あさく、これという働きも出来ないまま今日に至りました。しかし、まだ志は捨てておりません。どうかお力添えをいただきたいと存じます。」

 いわゆる「三顧の礼」をつくして、劉備は孔明の出廬を懇請したのだった。孔明もその知遇に感じ、草廬を出て劉備のために事を謀る決心をした。草廬に世を避けていたとはいいながら、孔明の時勢に対する眼は劉備の期待を裏切らず鋭かった。劉備の問いに答えて、孔明は漢室復興の大計をこう述べた。

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 「荊州と益州の要害を抑えてここを根拠地とし、西方南方の蛮族を慰撫して後顧の憂いを絶ち、内は政治をおさめて富国強兵をはかり、外は孫権と結んで曹操を孤立させ、機を見て曹操を伐つ、これが私の考えている漢室復興の大計です。」いわゆる「天下三分の計」である。劉邦の臣となった孔明はこの基本政策に従って着々を漢室復興の歩を進めていった。

 孔明を得た劉備は、その才幹に傾倒して孔明を師として敬い、寝食を共にした。孔明も全能力をしぼって劉備のために尽くした。ところが、これを快く思わない者がいた。

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張飛

 その一人が張飛【ちょうひ】、字は益徳。身長は8尺(約184cm)。人並み外れた勇猛さで知られた猛将である。

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関羽

 もう一人が関羽【かんう】、字は雲長。身長は9尺(約208cm)。見事な鬚髯【しゅぜん】(鬚=あごひげ、髯=ほほひげ)をたくわえていたため、髯公【びぜんこう】とも呼ばれ、 人並み外れた武勇や義理を重んじた彼は敵の曹操からも称賛された。悲劇的な死を遂げたが、後世の人間に神格化され関帝と呼ばれる道教の神となった。関帝は旧くは武神として、現在は主に商業の神として信仰され、横浜や神戸の中華街にも祀られている。

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 劉備、関羽、張飛の3人は黄巾の乱の義兵として立ち上がった時、張飛の屋敷の裏の桃園で義兄弟の誓いを交わしている。「我ら三人、生まれし日、時は違えども兄弟の契りを結びしからは、心を同じくして助け合い、困窮する者たちを救わん。上は国家に報い、下は民を安んずることを誓う。同年、同月、同日に生まれことを得ずとも、同年、同月、同日に死せん事を願わん。皇天后士よ、実にこの心を鑑みよ。義に背き恩を忘るれば、天人共に戮【りく】すべし。」これを「桃園の誓い」という。

 一番早くから劉備に従って来た2人にしてみれば、若輩の孔明に対する劉備の傾倒ぶりが気にくわない。ある時、孔明を妬んで「孔明を敬いすぎる」と劉備を非難した。その時、劉備は言った。

「この孔明あるは猶【なお】魚の水あるがごとし。願わくは復【また】言うこと勿【なか】れ。」孔明を得たことを、自分は、魚が水を得たとでも喩えたいほどだ。二度とそんなことは言うな。」
ここに、「水魚の交わり」という喩えが生まれた。

※人物の肖像は中国テレビドラマ三国志 Three Kingdoms』から拝借しました。

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【 2018/11/08 10:17 】

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