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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー地図から消えた大国・ポーランド分割

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アウグスト2世

 北方戦争はポーランドの戦争でもあった。激しい戦争の舞台となったポーランドは飢餓と伝染病にみまわれ、孤独は荒廃した。それ以上に致命的であったのは、その政治的な結果である。ポーランドでは1572年にヤゲウォ朝が断絶してから選挙王制をとってきたが、この時から国王の選出が大国の意向に大きく左右されるようになったのである。

 戦争が始まった時、ポーランド国王の地位にあったのは、ザクセン出のアウグスト2世であった。ロシアのピョートル1世と結んで対スウェーデン戦争に入ったのも束の間、彼はカール12世の軍に敗れ、王位を追われた。

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スタニスワフ=レシチンスキ

 かわってカールの支持を受けて即位したのがスタニスワフ=レシチンスキであったが、スウェーデンの敗退とともに、彼もその地位を追われた。そして、ピョートルの支持をうけてアウグスト2世が復位したのである。

 だが彼の眼は、もともとザクセンのほうを向いており、ポーランドを顧みなかった。そのためアウグストが亡くなった時、ポーランド議会(セイム)は再びスタニスワフ=レシチンスキを選出したのである。

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ポーランド継承戦争

 これにはロシアが、そしてオーストリアも黙っていなかった。アウグストの息子(3世)を担いだのである。ここにポーランド継承戦争が起こった。1733年のことである。この戦争の主役はポーランド人ではなかった。ポーランド支配をもとめる大国間の戦争であった。結局、アウグスト派が勝利を収め、スタニスワフ=レシチンスキは再び野に下ったのである。

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アウグスト3世

 この間、ポーランド国政の無政府化はさらに進行した。アウグトス3世はザクセンの地にあり、ポーランドの政治はポトツキ家とチャルトリスキ家の権力争いと化していた。国会は完全に麻痺し、長年の戦乱と伝染病の流行で農民の困窮は深まり、都市も停滞した。

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スタニスワフ2世

 1763年10月、国王アウグスト3世が亡くなり、後任に選ばれたのはチャルトリスキ家の一門のスタニスワフ=アウグスト=ポニャトフスキ(スタニスワフ2世)であった。32歳の新国王は、実はロシアの女帝エカチェリーナのかつても「愛人」であり、女帝もこれを強く支持した。だがポーランドはロシアの思惑どおりの従順な国になったわけではない。熱意に燃える新国王は、即位するや否や王権の強化などの改革に着手したのである。

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エカチェリーナ2世

 ロシアに無断で、その意向に反して行われた改革に対して、エカチェリーナは当然のごとく圧力をかけてきた。

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フリードリヒ2世

 プロイセンのフリードリヒ2世もロシアの動きを見て、ポーランドがロシアに奪われることを警戒した。フリードリヒ2世はポーランドを餌食にする征服計画を夢みていたが、それを単独で実現することは難しく、ロシアの動きに同調した。もとより、エカチェリーナも野心的な計画を持っていた。

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マリア=テレジア

 また、マリア=テレジアについても「最初はひどく嫌がっていたが、しだいにためらいがなくなり」、オーストリアが列強の中で「最も強欲な国」であることを自ら暴露してしまう。

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 1772年、まずロシアとプロイセンとの間で条約が締結され、オーストリアがそれに加わった。3国から領土分割を迫られたポーランド議会は、若干の反対はあったが、翌年領土割譲を承認した。プロイセンは「王領プロイセン」(1466年ドイツ騎士団がポーランドに譲った土地)を領有(中心都市グダニスクは除く)、ロシアはリヴォニアとベラルーシの一部を、オーストリアはガリツィア地方の一部をそれぞれ獲得した。これによってポーランドは領土の30%と、人口の35%を失った。

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ポーランド分割を風刺した図

 上の絵はポーランド分割を風刺した図で、左からエカチェリーナ2世、スタニスワフ2世、ヨーゼフ2世、フリードリヒ2世である。オーストリアでは1765年にヨーゼフ2世が即位しているが、母親のマリア=テレジアが共同統治者として実権を握っていた。

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「5月3日憲法」の制定

 第1次分割ののち、ポーランドは遅まきながら改革の道を突き進んだ。1791年には「5月3日憲法」が制定され、シュラフタ(貴族)による国王選挙と自由拒否権は廃止され、立憲君主政・三権分立・義務兵役制などが定められた。この憲法は、アメリカ合衆国憲法につぐ先駆的なものであった。

 エカチェリーナ2世は、新憲法を「フランス革命の伝染病」だとして嫌悪し、大量のロシア軍を送って弾圧した。ポーランド軍は激しく抵抗したが、ポーランド国王はロシアに妥協して停戦、憲法の停止などを約束した。停戦に反対したコシューシコなどの将校は辞任して亡命した。

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ヴァルミーの戦い

 プロイセンは1792年9月にヴァルミーの戦いでフランス革命軍に敗れていた。しかし、対仏戦争を続行する代償としてポーランド分割を強硬に要求した。対仏大同盟の結成へと動いていたエカチェリーナ2世はその要求を容れ、マリ=アントワネットの嫁ぎ先で革命が進行中のオーストリアがポーランド問題に無関心(バイエルン併合の幻想を抱いていた)を表明すると、1793年1月、ペテルブルクでロシア・プロイセンの2国によるポーランド分割協定に調印した。

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ポーランド議会(セイム)

 ポーランドでは第2回分割を承認するかどうかで議会(セイム)が開かれた。ロシア公使は反対する議員を逮捕し、議場を大砲で包囲した。誰一人として賛成の演説をするものはいなかった。議場は沈黙したまま真夜中まで続いた。議長がついに沈黙は同意の印と見なすと宣言して終了し、これが最後のセイムとなった。

 こうしてロシア軍の監視下の議会は、ロシアとプロイセンへの領土割譲を承認した。ポーランドはロシアにベラルーシ東半とウクライナの大部分、面積にして25万平方キロと人口3000万を、プロイセンにポーゼンとダンツィヒ(グダニスク)を含む5.8万平方キロと人口100万の土地を譲った。残ったポーランド領は20万平方キロの土地に400万の人口に過ぎなくなり、議会は存在するものの招集されないという事実上のロシアの属国と化した。

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コシューシコ

 この第2回分割でポーランドは事実上国家機能を失った。国家消滅の危機に対して、翌1794年、コシューシコらが蜂起したが、期待したフランスの救援が無く、コシューシコ自身も負傷して捕らえられて、鎮圧された。

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コシューシコの蜂起

 コシューシコが蜂起すると、ロシアのエカチェリーナ2世はプロイセンにも鎮圧の協力を要請し、「隣国で突発した火事を、その最小の火花まで消し去るだけでなく、灰殻から新たに燃えあがる可能性を永遠に取り除くために、近隣三宮廷が隣国を領有するときが来ました」と述べた、という。反乱を鎮圧したエカチェリーナはポーランド国王スタニスワフ2世に退位を強く迫り、1795年、ロシア・プロイセン・オーストリアによるでポーランドの最終的分割が行われた。

 この第3回分割で、ポーランドはヨーロッパの地図から消えてなくなった。16世紀には中東欧でもっとも豊かだった大国ポーランドは、こうして悲劇的な結末を迎えたのである。ちなみに、当時ポーランドに住んでいた多くのユダヤ人も、三分割された。次の150年間、「東欧ユダヤ人」はポロムグ、ホロコーストという未曾有の受難の時代を過ごすことになるのである。

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【 2020/08/11 05:21 】

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世界史のミラクルワールドー玉座の上の娼婦・エカチェリーナ2世②

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エカチェリーナ2世

 エカチェリーナ2世はピョートル大帝に続いてロシア帝国領土の拡張に努め、南下政策を具体化して1768年にロシア=トルコ戦争(第1次)を開始し、1774年にキュチュク=カイナルジャ条約でクリム=ハン国の保護権を獲得、次いで1783年にはクリム=ハン国を併合し、クリミア半島を領有した。1787年にはロシア=トルコ戦争(第2次)を再開してオスマン帝国と戦い、クリミア併合を承認させるなど領土拡大に成功をおさめ、大帝と称された。

 しかし、私生活の面では生涯に12人の公認の愛人を持ち、数百ともいわれる愛人を抱え、夜ごとに人を変えて寝室をともにしたとする伝説もある。孫のニコライ1世には「玉座の上の娼婦」とまで酷評される始末であった。

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セルゲイ=サルトゥイコフ伯爵

 1745年にピョートル3世と結婚したが、不仲により長期間夫婦の関係はなく、エカチェリーナはセルゲイ=サルトゥイコフ伯爵らの男性と半ば公然と関係を持つようになっていた。エリザヴェータ女帝や周囲が世継ぎ確保の大義名分で黙認したとも、むしろ積極的に勧めたとも言われる。ピョートルの方も大宰相(帝国宰相)ミハイル=ヴォロンツォフの姪エリザヴェータ=ヴォロンツォヴァを寵愛するようになり、夫婦の関係は完全に破綻する。

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パーヴェル

 1754年に長男のパーヴェルが生まれているが、その出生に当たっては、父親はサルトゥイコフ伯爵であるという説があり、エカチェリーナ自身が回想録でそのことを強くほのめかしている。エカチェリーナはピョートルが不能であり、子供を作ることはできなかったと主張しているが、現存するピョートルのエカチェリーナ宛の手紙の内容はこれを否定している。パーヴェルの外見や性格は公式の父であるピョートル3世に類似しており、真相は明らかではない。

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スタニスワフ

 1755年、スタニスワフはロシア駐在のイギリス大使の秘書としてペテルブルクに赴任した。エカチェリーナはこのハンサムで有能な若いポーランド貴族に入れ込み、他の愛人たちをすべて捨ててしまうほどだった。

 スタニスワフとエカチェリーナとの間には娘のアンナまで生まれたが、スタニスワフは1759年、ロシア宮廷の陰謀事件に巻き込まれて帰国せざるを得なくなった。1764年、スタニスワフはエカチェリーナの後押しでポーランド国王に選出され、これがポーランド分割の引き金となった。

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グリゴリー=オルロフ公爵

 スタニスワフがポーランドに帰ったあと、愛人となったのが5つ年下の近衛軍将校グリゴリー=オルロフ公爵であった。オルロフはエカチェリーナ2世を女帝に即位させた宮廷クーデターの首謀者であり、クーデターが成功した後は共同統治者同然だった。

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アレクセイ

 1762年、軍やロシア正教会によるピョートル3世への怨嗟の声は高まり、エカチェリーナ待望論が巻き起こるが、オルロフとの子供を妊娠中だったエカチェリーナはすぐには動きがとれなかった。そこで、オルロフがピュートル3世を火事で陽動して、4月11日に極秘出産したのがアレクセイで、ビーバー(ロシア語でボーブル)の毛皮に包まれて宮殿から連れ出されたため、ボーブリンスキーの姓を与えられた。

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グレゴリー=ポチョムキン

 オルロフも伯爵となり、侍従長、陸軍中将に昇進したが、10年もすると女帝の愛情は、もっと若いポチョムキンに移った。この新しい寵臣も、伯爵となり侍従長となるが、無骨一点張りのオルロフとは違って、モスクワ大学を首席で卒業した秀才であり、貴婦人仲間では、「いなければ話題が彼に集中し、現れれば視線が彼に集中する」と評判された美男子であった。

 彼は女帝より10歳も年下で、約17年の間女帝の寵愛を一身に集めた。家庭には恵まれなかったエカチェリーナの生涯唯一の真実の夫と言うべき男性で、私生活のみならず、政治家・軍人としても女帝の不可欠のパートナーとなった。

 ポチョムキン伯は後に公爵となり、ロシア=トルコ戦争の総司令官として遠征中に亡くなったが、その報せを聞いた女帝は3度も卒倒し、「両腕をもがれた」ように失望落胆したという。

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 晩年のエカチェリーナ2世

 齢初老を過ぎてからも、この女帝は寵臣なしではいられなかった。寵臣の採用にはすでに一定の手続きが生まれていた。まずニューフェイスをスカウトするのは侍女の役目であり、ついで女帝の首実検と宮廷医師の身体検査があり、最後に「エルミタージュ(「隠れ場所」の意。冬宮の一部に造った女帝専用の部屋)への招待」でOKということになった。

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アレクサンドル=マモーノフ

 第11番目の寵臣マモーノフは、すでに60歳を越えた女帝の色香に嫌気がさし、シェルバート公の若い令嬢と恋仲になった。そこで恐る恐る辞表を提出し、この令嬢と結婚するお許しを願った。ところが叱られると思いきや、女帝はあっさりとこれを許し、たくさんの贈り物までもらった。

 そこまでは良かったが、喜びのあまりつい気を許したマモーノフが新妻との寝物語で女帝との交渉のいきさつや、その変わった性癖などを話し、しかもそれが運悪く妻の口から外部に漏れ伝わり、女帝の耳にまで入ったから大変である。

 ある晩のこと、この夫妻が寝室でやすんでいると、モスクワの警察署長が現れた。彼は女帝の命令書を示して別室に退いたが、それと入れ替わりに入って来た6人の婦人(実は変装した警察官)は、泣き叫ぶ妻を捕まえて裸にし、これを鞭で殴り始めた。この処罰が終わるまで、哀れな夫はその前に跪いていなければならなかった。やがて署長が現れて、「女帝の御処罰は今日はこれでお終いだが、今度不謹慎な真似をすると、シベリア送りだぞ」と脅かして引き揚げて行ったという。

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プラトン=ズーボフ

 最後の愛人となったのはプラトン=ズーボフ。エカチェリーナ2世は、ズーボフと人生最後の7年を過ごした。ズーボフより35歳も年上だったが、本気で愛していたそうだ。ズーボフはポチョムキンの立場をも脅かすほどの影響力を持ち、ポチョムキンの死後は老齢の女帝の寵愛を良い事にかなりの権力を持ったようだが、容姿以外に大した能力はなく、女帝の死と共に失脚した。

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【 2020/08/07 05:26 】

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世界史のミラクルワールドー酔っぱらいクーデタ・エカチェリーナ2世①

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ゾフィー(後のエカチェリーナ2世)

 ゾフィーは1729年4月21日、北ドイツ(現在はポーランド領)のシュテッティンでプロイセン軍少将の娘として生まれた。7歳の時に王妃となる夢を抱き、その頃親戚筋にあたるホルシュタイン公子ピョートルがロシア皇太子になったことを聞いて、「その妃になることを深く心に決めた」という。この娘はすでに「花嫁」よりも「帝冠」に憧れていたのである。またこの頃から、彼女は自分が美人でないことを知り、「賢い女」になろうと決意し、知性や教養を磨いて魅力的で美しい女性となる努力を重ねた。

 母・ヨハンナの早世した長兄カール=アウグストがロシアの女帝エリザヴェータの若かりし頃の婚約者であった縁もあり、ゾフィーは14歳でロシア皇太子妃候補となり、1744年ペテルブルクにやってきた。新教徒であった彼女はギリシア正教に改宗し、エカチェリーナという新しい名前をもらった。それととも自らすすんでロシア語を学び、その習慣にとけ込もうと努力した。

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ピョートル3世

 ある時エカチェリーナが、何気なく夫の部屋に入ると、ピョートルはオモチャの兵隊の閲兵式をやっていた。みると天井から縄がさがり、その先に大きな鼠が1匹ぶらさがっていた。この異様な光景にびっくりした妻が、「いったい、これはどうした訳なのです」と尋ねると、「鼠が重罪を犯したから軍法に従って処罰したのだ。そいつはテーブルの上の紙の要塞を壊し、パン粉で作った2人の歩哨を食べてしまった。だから引っ捕らえて軍法会議にまわし、絞首刑を宣告したのだ」と。さすがのエカチェリーナも、これには開いた口が塞がらなかった。

 彼女より1つ年上のこの夫は、1762年に皇帝になるといよいよ手がつけられなくなった。まず朝から酒を呑んで酔っぱらい、崇拝するフリードリヒ大王の真似をして、英雄気取りでむやみにタバコをふかし、ビールをがぶ飲みし、夜になると、プロイセン人の下士官たちからなる国際的ならずもの部隊、いわゆる「ホルシュタイン近衛軍」を集めてどんちゃん騒ぎをやった。

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フリードリヒ2世と仕官たち

 皇帝の妃で、しかもドイツ人であったエカチェリーナが思いがけず帝位についた原因は夫たるピョートル3世の度の過ぎたプロイセン贔屓であった。ピョートルは30年以上におよぶ3人の女帝の時代にいささか嫌気がさしていたロシアの朝野をあげての期待を受けて即位した皇帝であった。にも拘わらず期待は見事に裏切られた。プロイセン国王の崇拝者であった彼は自分の出身地の者を重用し、しして軍にプロイセン的な規律を導入した。

 それだけなら、まだ許されたかも知れない。1762年3月、彼は占領中のベルリンから一方的に兵を撤退させた。七年戦争は、すでにロシア人約30万人の人命と3000万ルーブルという多大な流血と犠牲を強いていたが、その勝利は目前であった。そこにこの皇帝の命令である。ロシア人たちは歯ぎしりして悔しがったと、当時の記録は伝えている。

クーデタを指揮 
クーデタを指揮するエカチェリーナ

 1762年6月、プロイセンとの講和祝宴にあたって、ピョートルは立ち上がって「フリードリヒ大王万歳!」の祝盃をあげた時、ただ一人エカチェリーナだけは断固として乾盃を拒絶した。怒ったピョートルは、大声で妻を罵り、「この馬鹿野郎!出て行け!」と怒鳴った。

 この事件の噂が首都に広がると、かねてピョートルの親プロイセン政策に反対の近衛兵は「エカチェリーナ万歳!」を叫び、ペテルブルク市民もそれに同調した。近衛将校の一人は、彼女の泊まっていた離宮に赴き、「陰謀が発覚したので、すぐ自分と同行されたい」と訴えた。彼女が馬車に乗ると、馬車はそのまま近衛連隊に入り、その射場で皇妃への宣誓式が行われた。

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ピョートルの愛人ヴォロンツォヴァ

 すべては6月28日の夜に決した。クーデタはあっけなく成功し、ピョートルはショックに耐えかねて離宮の中で卒倒した。まもなく気がついた彼は、エカチェリーナが派遣した軍使の前に跪き、その手をとって、彼が大切にしている4つのものだけは取り上げないでくれと哀願した。それは、ヴァイオリンと、愛犬と、黒人奴隷と、そして愛人のエリザヴェータ=ボロンツォヴァ嬢であった。このうちはじめの3つは聞き届けられたが、第4のものは許されなかった。

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戴冠式でのエカチェリーナ
 
 その翌日、エカチェリーナは、ペテルブルクで盛大に即位の式をあげた。このとき彼女は芳紀まさに30歳。皇妃はいまや女帝にかわったのである。

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近衛兵と群衆に迎えられ冬宮のバルコニーに立つエカチェリーナ

 「陽気な貴婦人加盟句」と言われるこの事件は、その名にふさわしく一滴の血も流さないで成功したが、その代わりアルコール代が恐ろしく高くついた。この日、首都のすべての酒場が軍隊に開放され、狂喜した兵士とその妻たちがウォッカ、ビール、ワイン、シャンパンから蜂蜜にいたるまで、手当たり次第にバケツや樽につぎこんで持ち去ったというのである。この時の損害を商人に賠償するために元老院はじつに3年間も頭を悩ますことになった。

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ピョートル3世とエカチェリーナ2世の棺

 その陽気な革命騒ぎの中で、とつぜん廃帝ピョートルの死が報じられた。ピョートルは首都に近い宮殿に幽囚の身となり監視されていたが、1週間後に友人と口論し、つかみ合いの喧嘩をして殺された。女帝はそれを聞いて暗然とし、暫くは口もきけないほどであったという。

 ピョートルの葬儀は受胎告知教会で行われ、3年前に1歳余りで亡くなった娘アンナ=ペトロヴナの墓の背後に寂しく埋葬されたが、その葬儀にエカチェリーナは出席しなかった。

 ピョートルの死から34年後の1796年11月17日、エカチェリーナが崩御すると、息子のパーヴェル1世はピョートルの墓を受胎告知教会からペトロパヴロフスキー大聖堂に移し、エカチェリーナとともに埋葬した。仲の悪かった二人だが、今は仲良く並んで眠っている。(つづく)

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【 2020/08/04 05:31 】

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世界史のミラクルワールドー3人の女帝・ロシア宮廷革命期

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ピョートル1世

 権力者の死は、その権力が強ければ強いほど「後継者」問題を不安定にする。ピョートル1世の死はその好例である。ピョートル1世からエカチェリーナ2世の即位までの間に37年の歳月が流れた。この間に、帝位継承をめぐって6回も宮廷クーデタがあり、4人の女帝と3人の皇帝が交替した。

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アレクセイ

 ピョートル1世も父と同じく2度結婚した。最初の妃エウドキアとの間に生まれた長男アレクセイが彼の後継者とみなされたことは、ある意味当然であった。だがこの父と子は、最初からウマが合わなかった。それはピョートルが妃と別居し、まだ8歳のアレクセイからある日突然、母を奪ったことが大きな原因であった。母のもとで信仰心篤く育てられたアレクセイは、父の強制的な後継者教育にことごとく反感をもつようになったのである。

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ピョートル1世とアレクセイ

 西欧化に反発するアレクセイの周囲には反体制派が集まって、無視できない勢力となっていった。1716年、アレクセイはウィーンに亡命したが、翌1717年ナポリでロシア政府に拘束され連れ戻された。ピョートルは王子が政府転覆の意思を持っていたと信じ込み、彼の支持者を粛清した上でアレクセイの継承権を奪った。アレクセイは1718年に死刑を宣告され、その直後に獄死している。28歳であった。

 ピョートルの後継者の地位は、2度目の妃エカチェリーナが産んだ皇子ピョートル=ペトロヴィチに移ったが、この幼い皇子は1719年に薨御し、皇男子は一人もいなくなってしまった。

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エカチェリーナ1世

 1725年2月8日、ピョートル1世は断末魔の苦しみに藻掻きながらも、最後の力を振り絞ってペンをとり、「すべてを与えよう…」と書いたが、肝心の「誰に」という所でガックリと力が抜け、息絶えた。このようにピョートルは一片の遺書すら残すことなく世を去ったので、その死後、帝位は宙に浮き、改革の前途も暗澹たるものになった。

 結局、ピョートルの2度目の妃である皇后が、近衛部隊により担ぎ出されてエカチェリーナ1世として同日中に即位した。こうして卑賤な生まれのリヴォニア農民の娘がロシア史上最初の女帝となったのである。わずか2年の短い治世は近衛連隊のご機嫌取りに終始し、宴会の席にまで出て将校たちに酌をしてまわった。改革事業は放棄され、宴会に続く宴会で、9000万ルーブルという巨額の国費が浪費された。

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ピョートル2世

 女帝の臨終が迫ると、またも帝位継承をめぐる紛争が起こった。女帝には娘ばかりで息子がいなかったからである。そこでピョートル1世の先妻の孫で、死刑になった皇太子アレクセイの12歳の遺児が担ぎ出された。これがピョートル2世である。しかし、彼は結婚式の当日になって天然痘で急死、わずか3年の短い治世を終えた。

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 アンナ

 そこで重臣は協議し、バルト海沿岸の小国クールラント公に嫁して、すでに未亡人になっているアンナを女帝とした。彼女はピョートル1世の異母兄イヴァンの娘で、この時37歳になっていた。背が高く、肥満型の女性で、顔は男のようにきつかった。性質も冷酷で意地悪だったと言われている。

 アンナの治世10年間は、ロシア史の「暗黒のページ」と言われる。彼女のそばにおべっかつかいや道化師がいなければ機嫌が悪く、うわさ話を好み、人間を卑しめ侮辱することを喜んだ。

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イヴァン6世

 1740年10月、アンナの後継者指名を受けてイヴァン6世(アンナの姉の孫)が生後僅か2カ月で帝位に就いた。しかし翌1741年11月、ピョートル1世の娘エリザヴェータが自分を支持する近衛軍に命じて宮廷クーデターを起こさせ、幼帝イヴァン6世はあっけなく廃位された。

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エリザヴェータ

 エリザヴェータはイヴァンの存在を歴史から消し去る事を徹底する。すなわち彼の名前を口にする事を禁じ、名前の記された書物は焼かれ、記念碑は破壊された。また、彼の肖像が刻まれた通貨は使用を禁じられ回収された。知らずにこの通貨を使った者さえ投獄するという徹底ぶりであった。

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イヴァン6世の遺骸の前に立ち尽くすミローヴィチ

 家族と引き離されたイヴァンは幽閉されて育ち、1756年にシュリッセリブルクにある要塞内の監獄に移送された。エリザヴェータ以後の皇帝は皆、廃帝イヴァン救出の目論みがあれば即刻彼を殺すよう命じていたとされる。1764年にウクライナ人士官ヴァシーリー=ミローヴィチが救出を試みた際、看守により刺殺された。まだ23歳であった。

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ツァールスコエ・セローのエリザヴェータ

 エリザヴェータの治世は20年間続いた。彼女は父帝に似て精力家であり、無軌道な行動も多かった。その母が素性の賤しいエカチェリーナであったせいか、娘時代のエリザヴェータは放任されて育った。成人してからの彼女の生活もきわめてふしだらで、朝起きるのも、夜寝るのも、また食事するのも、すべて時間におかまいなしだった。

 女帝となっても娘時代の夢が忘れられず、観劇、遊楽、宴会、ダンス、仮装舞踏会に日を送り、宮廷はさながら劇場と化した。彼女が死ぬと、その衣装部屋には1万5000着のドレスと2梱いっぱいの絹の靴下が発見された。要するにエリザヴェータは女帝としてレジャーを最大限に楽しんだことになる。
 
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カール=ペーター(ピョートル3世)

 エリザヴェータが死んだ時、一滴の涙も流さない男が一人いた。彼にはロシア人の血は半分しか流れておらす、涙も知らない人間で、女帝の残した「不愉快なもの」のうちで、最も不愉快なものだった。この男こそ、他ならぬ女帝の後継者、ピョートル3世である。

 エリザヴェータにはドイツのホルシュタイン公に嫁した姉アンナがおり、その子がカール=ペーターであった。エリザヴェータは初恋の人が若死にしたので一生独身で通し、子供はいなかった。そこで、彼女は即位後すぐに甥のペーター(当時14歳)を養子に引き取り、後継者に指名した。彼はピョートル1世の血を引くただ一人の男子だったからだ。

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ロシアに来た頃のピョートル

 ところが、初めて会ったペーターを見て、エリザヴェータはすっかり呆れてしまった。彼女は15分間とまともな話しが出来ず、悲しみ、怒り、ついで嫌悪した。居間に戻った彼女は、側近と顔を合わすと、涙を流し、「神さまがとんでもない跡継ぎを私に与えてくれました。こんなかたわのような、出来損ないの、いまいましい甥は悪魔にでもさらわれのがいいのに」と愚痴をこぼしたという。


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ピョートルとエカチェリーナ

 ピョートルは生来病弱で低脳、いつまでも子供であった。そのうえ宮廷に入ってからは、悪いことに酒色の味を覚え、とうてい皇帝の器ではなかった。彼は子供につきものの英雄崇拝からフリードリヒ大王に心酔し、大人になってもそのまねをして喜んでいたが、後に帝位につくや七年戦争から離脱して、西欧諸国民を驚かせた。

 こんな男であっても、エリザヴェータはピョートルが17歳になった時にその嫁探しをすることになった。その結果選ばれたのがプロイセン国王の家臣の娘ゾフィー、後のエカチェリーナ2世であった。まだピョートルの話は続くが、続きは次回の「エカチェリーナ2世」で。

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【 2020/07/31 05:25 】

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世界史のミラクルワールドー西欧への窓を開く・ピョートル1世②

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ピョートル1世

 ピョートル1世の生涯は、戦争に開けて戦争に暮れた。その35年間の治世にも、完全に平和であった期間はわずか13カ月しかなかった。「海への出口」を求めることが、ロシアの発展にとって不可欠の要請であり、ピョートルが造船術を学び、海軍の建設に狂奔したのも、実はそのためであった。

 はじめの頃ピョートルはその目を南方に向け、トルコの海であったアゾフ海、黒海への進出をめざして、アゾフ遠征を行った。しかし、まもなく彼は西へ転じ、バルト海の制海権を握るべくスウェーデンと戦う。これが有名な北方戦争である。

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カール12世

 スウェーデンという国は、当時人口300万人たらずであったが、不相応に大規模で近代的な軍隊を持った「軍事国家」であった。三十年戦争の戦勝国としてバルト海沿南岸にも広大な領土を手に入れ、バルト海を内海、湖としていた。当時のスウェーデンを、古代ローマの「地中海帝国」に類比させて「バルト海帝国」と呼ぶ。

 1697年、父王の死により弱冠14歳で即位したのがカール12世であった。甘く見たピョートルは1699年にデンマーク、ザクセンとの間に北方同盟を結成、カール12世が18歳となった1700年、その機に乗じてピョートルはスウェーデンの要塞ナルヴァを包囲した。

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ナルヴァの戦い

 しかし、カール12世は銃撃戦の音を「これぞわが音楽」と言い、その生涯を通じて戦陣から戦陣を生きた信念の人であり、グスタフ=アドルフにも劣らない、史上希な豪傑であり戦略家であった。ただちにロシアの同盟国デンマークのコペンハーゲンに上陸した彼は、この国を同盟から離脱させた。さらに精鋭を従えてナルヴァへ急いだ。

 10月ともなれば、この地方はすでに厚い雲がたれこめた冬である。ピョートルのロシア軍は3万5000、カールのスウェーデン軍は8000。ロシア軍はその規模において大きく上回っていたにもかかわらず、十分な訓練を受けておらず、完膚なきまでに打ち破られ、その3分の1を失った。塹壕は死体で埋まり、ロシア軍はすべての大砲と、指揮官80名を失った。ピョートルは決戦の前夜に戦場を離れており、辛うじてピンチを逃れたが、アゾフ遠征でえた栄誉は一夜にして地に堕ちたのである。

 カール12世は翌年春、本国に1万の兵を要求し、7月ザクセンとロシアの連合軍を破った後、ポーランドに攻め入り、傀儡政権を樹立した。だが、ポーランドの「貴族共和国」にあって国王はもともとお飾りであった。貴族の一部は反スウェーデンの戦いを始めた。カールがポーランドを制圧するのに、結局5年以上もかかってしまったのである。これは大きな誤算であった。


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マゼッパとカール12世

 というのも、この間にピョートルは急速に軍隊を立て直していたからである。ロシアで初めて徴兵令が出され、15歳から20歳までの若者が全国からかり出され、5年間で17万の常備軍が編成された。教会や修道院の鐘が各地から集められ、300門の大砲が鋳造された。

 カールは1707年末、再びその鉾先をロシアに向け軍をウクライナに進めた。その地のコサックの頭目マゼッパと結んでロシアを攻略しようとしたが、補給路を断たれたスウェーデン軍は、1708年から翌年にかけての、100年来という寒波に襲われた。この冬の寒さはヴェネツィアの運河も凍ったと言われ、スウェーデン軍の陣営ではウォッカが樽の中で凍り、兵の吐く唾は地面に落ちる前に凍りついた。3000の兵が死に、ほとんどの兵が手足の凍傷に悩んだ。部下は進撃を思い止まらせようとしたが、カールは「たとえ天使が天降って余に戻るよう告げたとしても、決して引き返さないであろう」と断言し、1709年、春の洪水期が過ぎるやロシア軍の要塞ポルタヴァを攻撃した。

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ポルタヴァの戦い
 
 この時、両軍の兵力はロシア軍が砲72門、兵4万2000、スウェーデン軍が砲4門、兵3万。6月27日の早朝4時、スウェーデン軍は機先を制して攻撃を開始した。戦闘の始まる前にロシア軍の盲射によって足を負傷していたカール12世は、24人の兵のかつぐ輿に乗ったが、この中21人がロシア軍の弾丸に倒れ、王自身も3発の至近弾を浴びた。ロシア軍の新式銃と大砲の威力がいかんなく発揮されたからである。

  戦闘は午前11時にはもう勝敗が決し、スウェーデン軍の死者1万、捕虜2800、ロシア軍の死傷者は5000であった。カールとマゼッパは1000人の部下とともにドニェプル川をわたってオスマン帝国領へ逃れた。

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カール12世の葬送

 5年間トルコに滞在したカールは、1714年冬、意を決してオスマン帝国を離れ、従者一人をつれて騎馬でヨーロッパを縦断、14日間かかってスウェーデンに帰った。再起をかけてノルウェーをデンマークから奪おうとしたカールは1718年、戦況視察中に頭部を打ち抜かれ戦死した。

 味方から撃たれたのではないかという説が根強かったので、1960年代に遺体を掘り出して調査したところ、前方わずか20mから撃たれたものであることが判明したという。現在ストックホルムのオペラ座裏の公園にあるカール12世の銅像は右手を遠くロシアの空を指している。

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ペテルブルクの地図

 「ポルタヴァはピョートルにヨーロッパへの道を開いた」と言われるが。スウェーデンの敗北によって、ロシアは初めてバルト海への出口を持つことが出来た。

 ピョートルはまずフィン湾に注ぐネヴァ川の三角州に新しい都市を造った。これが「西欧への窓」と言われるペテルブルク(サンクトペテルブルク)の興りである。もとここはニーンシュタットと呼ばれた寒村で、わずか15軒の掘立小屋が並び、スウェーデンの漁夫が住んでいた。付近は密林で、葦の生い茂るひどい湿地帯、天候が荒れると高波が押し寄せ、浪を被るのが常であった。


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サンクトペテルブルク建設にピョートル大帝

1703年にピョートルはこの村を焼き払わせ、その跡に小さな窓のない二部屋からなる木造のバラックを造り、自らここに移り住んだ。これがロシアの新しい首都ペテルブルクの礎石となった。

 次いで対岸の「兎の島」(マトリン島)と呼ばれるところに、この都を防衛する要塞を造ったが、これが後のバルチック艦隊の基地クロンシュタットである。ピョートルの構想になる首都建設は「ポルタヴァの勝利」の後に本格化し、「費用と出血を惜しまず」、ピョートル一流の性急さをもって推し進められた。

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ペテルブルク建設を視察するピョートル

 それは、「史上いかなる戦争も、これほど多くの労働者を殺したことはない」と言われるほどひどいものであった。10年の歳月をかけ、4万の農奴、5000人の職人の労働がこれにつぎ込まれた。労力不足を補うため全国に令を出して人狩りを行った。伝説によれば、彼らは栄養不良で、湿気と寒さに苦しみ、群れをなしてバタバタ斃れ、そのまま沼地に埋められたという。この恐ろしい物語は、「かくして、ペテルブルクは人骨の上に建てられている」という文句で終わる。

 こうして非常な困難の末、ヨーロッパで最も新しい、そして最も美しい首都が出現したが、ピョートルはこれを「パラダイス」と呼び、「あと3年もすれば、フランス王のヴェルサイユ宮殿を凌ぐ」と、その庭園の美しさを誇った。

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ピョートル1世の臨終

 近代国家の建設者として「新しきロシア」をもたらしたピョートルも、その末路は哀れであった。晩年には「空前の栄光」の中ですでに疲れ果てていたが、1724年11月、ペテルブルクに近い港で沈むボートから水兵を救うため真冬の海に飛び込み、これがもとで体調が悪化し、1725年1月28日に亡くなった。まだ53歳の若さだった。(おわり)

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【 2020/07/28 05:25 】

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