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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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真の孝養と仏道をめざして 清澄寺大衆中②

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波木井の御影(身延山久遠寺蔵)

清澄寺大衆中せいちょうじだいしゅうちゅう

 これを申さば必ず日蓮が命と成るべしと存知せしかども、虚空蔵菩薩こくうぞうぼさつ

の御恩をほう(報)ぜんがために、建長五年四月二十八日、安房の国東

条の郷、清澄寺道善の房持仏堂じぶつどうの南面にして、浄円房と申す者並に少々

の大衆にこれを申しはじめて、その後二十余年が間退転なく申す。或は

所を追ひ出され、或は流罪等、昔は聞く不軽菩薩ふぎょうぼさつの杖木等を。今は見る

日蓮が刀剣に当る事を。

 日本国の有智無智上下万人の云く日蓮法師は古の論師人師大師

先徳にすぐるべからずと。日蓮この不審をはらさんがために、正嘉・文

永の大地震大長星を見てかんがへて云く我朝に二つの大難あるべしいわ

ゆる自界叛逆難じかいほんぎゃくなん他国侵逼難たこくしんぴつなん也。自界は鎌倉にごん大夫たゆう殿御子孫、

どしうち(同士打)出来しゅったいすべし。他国侵逼難は四方よりあるべし。其

中に西よりつよくせむべし。これひとえに仏法が一国こぞりよこしまなるゆへ

に、梵天帝釈の他国に仰せつけてせめらるるなるべし。日蓮をだに用ひ

ぬ程ならば、将門まさかど純友すみとも貞任さだとう利仁としひと・田村のやうなる将軍、百千万

人ありとも叶ふべからず。これまことならずば、真言と念仏等の僻見を

ば信ずべしと申しひろめ候き。

〔なかんずく〕、清澄山の大衆は日蓮を父母にも三宝にも、をもひをと

させ給はば、今生には貧窮の乞者とならせ給ひ、後生には無間地獄むげんじごくに堕

ちさせ給ふべし。故いかんとなれば、東条左衛門景信とうじょうさえもんかげのぶが悪人として、

清澄のかいしゝ(飼鹿)等をかり(狩)とり、房々の法師等を念仏者の

所従にしなんとせしに、日蓮敵をなして領家のかたうどとなり、清澄きよすみ

二間ふたまの二箇の寺、東条が方につくならば日蓮法華経をすてんと、せいじ

やう(精誠)の起請きしょうをかいて、日蓮が御本尊の手にゆい(結)つけてい

のりて、一年が内に両寺は東条が手をはなれ候しなり。この事は虚空蔵

菩薩もいかでかすてさせ給ふべき。大衆も日蓮を心へずにをもはれん人

々は、天にすてられたてまつらざるべしや。かう申せば愚癡の者は、我

をのろう(呪咀)と申すべし。後生に無間地獄に堕ちんが不便なれば申

すなり。

 領家の尼ごぜんは女人なり、愚癡ぐちなれば人々のいひをど(嚇)せば、

さこそとまし球究候らめ。されども恩をしらぬ人となりて、後生に悪道

に堕ちさせ給はん事こそ不便に候へども又一つには日蓮が父母等

恩をかほらせたる人なれば、いかにしても後生をたすけたてまつら

んとこそいのり候へ。

【現代語訳】
清澄開教と受難

 このことを申し始めれば、必ず日蓮の命は奪われるだろうと承知していましたが、虚

空蔵菩薩の御恩に報いるために、建長5年(1253)4月28日、安房の国東条の郷の清澄

寺にある道善房の※ 1仏堂の南面で、浄円房やわずかの清澄寺の人たちに、諸宗の誤って

いることと法華経の勝れていることを初めて申し述べました。その後、20余年の間、や

めることなく説き続けてきたために居所を追われ、あるいは流罪となりました。これは

昔、※ 2軽菩薩が法華経を弘めて人びとから杖木で打たれましたが、今は日蓮が同じ法華

経を弘通したために刀剣の難にあっているのです。

 日本国の智者も愚者も万人一同に、日蓮法師がどうして昔の論師・人師・大師・先徳

より勝れていると言えるのかと言い日蓮の主張を信じようとしません。そこで日蓮は、

この不審をはらすために正嘉元年(1257)の大地震、そして文永元年(1264)に大彗

星が現われたのを見て、近く日本に2つの大難がおこることを予言しました。※ 3界叛逆

難と※ 4国侵逼難がそれです。内乱である自界逆難は鎌倉の権の大夫北条義時殿の子孫

に同士討ちが起こり、他国からの侵略である他国侵逼難は、四方より起こるが、その中

でも西の方から強く攻めてくるであろう。それというのも、日本中の仏法がことごとく

誤っているため、正法を守護する梵天・帝釈天が他国に命じて攻めさせるからである。

今、この日蓮の教えを採用しなければ、平将門・藤原純友・安倍貞任・藤原利仁・坂上

田村麿のような将軍が百千万人いてもかなうはずがないこの予言が違っているならば

真言宗や念仏の誤った教えを信じたらよいであろうと申し弘めてきたのです。

 とりわけ、清澄寺の人びとは、この日蓮を父母や三宝と同じように思わなければ、こ

の世では貧しい乞食となり、来世には必ず※ 5間地獄に堕ちることになりましょう。その

理由は、悪人であった地頭※ 6条景信がかつて清澄寺の飼っている鹿を狩り取ったり、

寺々の法師たちを念仏者にしようとした時、日蓮がそれに反対して領家の味方となり、

清澄と※ 7間の寺が東条景信につくならば日蓮は法華信仰を捨てようと、心をこめて起請

文を書き日蓮の本尊に結びつけて祈ったところ、祈りが通じたのか1年もたたないうち

に両寺は東条景信の手を離れることになったのです。このことはよもや虚空蔵菩薩もお

忘れになることはありません。清澄の人々も日蓮をいぶかしく思う人は、必ずや諸天に

捨てられることになりましょう。このように言いますと、愚かな人たちは日蓮は自分た

ちを呪うのかと思うかも知れませんが、そうではなく、来世に無間地獄に堕ちるのが気

の毒に思うので申し上げているのです。
 
 ※ 8家の尼御前は女性であり、愚かな人でありますから、人びとにおどかされて日蓮の教

えに背いたのでありましょう。しかし、法華経の御恩を忘れて、来世に悪道に堕ちるこ

とはいかにも気の毒でありますしまた日蓮の父母が御恩を受けた人でもありますので

何とかして地獄に堕ちることから助けてあげたいと祈っているのです。(つづく)

【語註】

 ※1 持仏堂:個人の帰依、礼拝する持仏を安置する堂。日蓮は建長5年(1253)4
       月28日、清澄寺の持仏堂の南面で立教を宣言した。日蓮はその持仏堂を「諸仏
           坊の持仏堂」、「道善之房持仏堂」と書き記すが、その堂には日蓮の持仏である
           釈尊像が安置され、その持仏を背に立教を宣言したのである。

 ※2 不軽菩薩:法華経の常不軽菩薩品第20に説かれる菩薩。釈尊の前世における
            衆生救済の菩薩行を説く本生物語の一つで、すべての人々がやがて成仏するで
            あろうことを尊び、軽蔑や迫害にもめげず四衆を礼拝した。日蓮はこの不軽菩
            薩を末法における法華経弘通の理想とし、自己の信仰実践の規範とした。

 ※3 自界叛逆難:国内に叛逆者が出て、争いや同志討ちが起こること。薬師経に説
            く七難の一つ。日蓮は立正安国論で、日本が正法である法華経に背くから、自
            界叛逆・他国侵逼の二難が起こることを指摘。この自界叛逆難は北条氏一門の
            争いである文永9年(1272)2月の北条時輔の乱となって現実化し、日蓮は立
            正安国論を仏の未来記に擬した。

 ※4 他国侵逼難:他国が侵略してくる災難のこと。薬師経に説く七難の一つ。日蓮
            は立正安国論で、日本が法華経に背くゆえに自界叛逆・他国侵逼の二難が起こ
            ることを予知、警告した。そして、文永5年(1268)閏正月、日本を侵略する
            内容の蒙古国国書の到来により、他国侵遭難は現実のものとなった。

 ※5 無間地獄:間断なく苦を受け、楽をする間がない地獄のこと。阿鼻地獄とも言
            う。八大地獄の最下に置かれ、五逆罪や正法を誹謗するなど重罪を犯したもの
            が堕ちるとされる。日蓮は、今の日本国の人びとはみな無間地獄への道を歩ん
            でいるとし、題目の受持こそが無間地獄への道を塞ぐものとした。

 ※6 東条左衛門景信:安房国長狭郡東条の地頭。熱心な念仏者で、建長5年の立教
            開宗に、浄土教を批判する日蓮を清澄寺から追放した。追放の理由には、地頭
            として勢力拡大をはかった領家の尼との土地争いに、日蓮が領家の尼に味方し
            たため敗退させられたことも加わろう。文永元年(1264)11月、清澄寺追放後
            はじめて安房に帰省した日蓮一行に、景信がその宿怨をはらすべく襲撃したの
            が小松原法難である。

 ※7 二間:二間寺のこと。安房国長狭郡(現在の千葉県安房郡)に所在した。現廃
            寺。日蓮は常に清澄寺と並べて書き記しており、清澄寺と密接な関係にあった
            と考えられる。

 ※8 領家の尼:安房国長狭郡東条郷に居住。領家の尼は日蓮の両親が恩を受けた重
        恩の人。ために建長5年頃の地頭東条景信と領家の土地争いに、日蓮は領家に
            味方して勝訴した。やがて領家の尼は日蓮に帰依したが、文永8年(1271)の
            龍口法難のおり、退転して法華信仰を捨てた。

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【 2023/12/09 05:40 】

真の孝養と仏道をめざして  | コメント(0)  | トラックバック(0)  |

真の孝養と仏道をめざして 清澄寺大衆中①

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波木井の御影(身延山久遠寺蔵)

清澄寺大衆中せいちょうじだいしゅうちゅう

建治2年(1276)1月11日、55歳、於身延、和漢混交文

 諸経の勝劣を知り、法華経の正義を失う各宗の邪正を正して立教を宣言し、受難を受けるに至った法華経の智者・行者の生涯を明かす。故郷から受けた恩に謝意を込め、領家の尼を導きつつ、念仏、真言の影響下にある清澄寺の人々を戒めたもの。

 新春の慶賀自他幸甚幸甚。〔去年こぞ来らず、いかん。定めて子細あらん

か。そもそも参詣を企て候〕ば、伊勢公の御房に十住心論じゅうじゅうしんろん秘蔵宝鑰ひぞうほうやく

二教論にきょうろん等の真言の疏を借用候へ。〔かくのごときは真言師蜂起の故に

これを申す〕。又止観の第一第二御随身候へ。東春とうしゅん輔正記ふしょうきなんどや

候らん。円智房の御弟子に観智房の持ちて候なる宗要集かし(貸)たび

候へ。それのみならず、ふみ(文)の候由も人々申し候し也。早々に返

すべきのよし申させ給へ。今年は殊に仏法の邪正たださるべき年か。

 浄顕の御房・義城房等には申し給ふべし。日蓮が度々殺害せられんと

し、並に二度まで流罪せられ、頸を刎られんとせし事は、別に世間のとが

に候はず。生身の虚空蔵菩薩こくうぞうぼさつより大智慧を給はりし事ありき。日本第一

の智者となし給へと申せし事を、不便とやおぼしけん。明星の如くな

る大宝珠を給ひて、右の袖にうけとり候し故に、一切経を見候しかば、

八宗並に一切経の勝劣ほぼこれを知りぬ。

 其上、真言宗は法華経を失う宗也。これは大事なり。先づ序分に禅宗

と念仏宗の僻見びゃっけんを責めて見んと思ふ。その故は、月氏がっし漢土の仏法の邪

正はしばらく〔これを置く〕。日本国の法華経の正義を失ふて、一人も

なく人の悪道に堕つる事は、真言宗が影の身に随ふがごとく、山々ごと

に法華宗に真言宗をあひそひ(副)て、如法の法華経に十八道をそへ、

せんぼうに阿弥陀経を加へ、天台宗の学者の灌頂をして真言宗を正とし、法

華経を傍とせし程に、真言経と申すは爾前権経にぜんごんきょうの内の華厳・般若にも

劣れるを、慈覚・弘法これに迷惑して、或は法華経に同じ、或は勝れた

りなんど申して、仏を開眼するにも仏眼大日の印真言をもつて開眼供養

するゆへに、日本国の木画の諸像、皆無魂無眼むこんむげんの者となりぬ。結句は天

魔入り替つて、檀那をほろぼす仏像となりぬ。王法の尽きんとするこれ

なり。この悪真言かまくら(鎌倉)に来りて、又日本国をほろぼさんと

す。そ
の上、禅宗・浄土宗なんどと申すは、又いうばかりなき僻見の者

なり。

【現代語訳】
亡国の宗

 新春を迎え慶賀申し上げます。去年、この身延にお見えになりませんでしたが、何か

変わったことがあったのではと案じています。もし身延山に参詣されるようでしたら、

※ 1勢公から※ 2住心論・秘蔵宝鑰・二教論の真言宗の書物を借用してお持ちいただきたい

のです。これは近ごろ真言師らが日蓮と対論しようと騒ぐので、その対策のために必要

なのです。また、摩訶止観の第一巻・第二巻、東春・輔正記などもお持ちいただきたい

のです。さらに円智房の弟子の観智房が所持している宗要集も借りていただきたいので

す。そのほかにも、観智房は多くの書物を所持していると聞いていますが、早々にお返

しするからといって借りていただきたいと思います。今年こそ、仏法の邪正が糺明され

る年だと思われます。

 ※ 3顕房・義城房らに次のことどもを申し伝えていただきたいと思います。日蓮がこれ

までたびたび殺害されようとし、また伊豆・佐渡と2度まで流罪され、首を切られよう

としたのは、世間の罪を犯したからではありません。日蓮は幼少のころ、生身の※ 4空蔵

菩薩から大きな智慧をたまわったことがあります。日蓮がそのおり、日本第一の智者と

なしたまえと祈りましたことを気の毒に思われたのでありましょうか、明星のような大

宝珠を右の袖に授かりました。そのおかげで一切経を読み、八宗並に一切経の勝劣をほ

ぼ知ることができるようになったのです。

 ※ 5言宗は法華経を滅ぼす宗旨ですが、これを責めることは重要事ですので、まず序分

禅宗と念仏宗の誤った教義を破折したのです。真言宗が法華経を滅ぼすについては理由

あります。インドや中国における仏法の邪正はしばらくおいて、日本国の人びとが法華

経の正義を破り、一人残らず悪道に堕ちるのは、影が身に随うように、どこの寺でも法

華宗に真言宗を付け加えたからです。そして、法華経の正しい修行に真言の十八道の修

行を加えたり、法華懺法に※ 6弥陀経を加えて阿弥陀懺法を始めたり、天台宗の学僧が法

を伝える灌頂を行なうのに、真言宗を正とし、法華経を傍としたからです。もともと真

言の経は、法華経以前に説かれた権教の中の華厳経や般若経よりも劣った経であります

のに、※ 7覚大師や※ 8法大師はこれに迷い、理においては法華経と同じであるとか、ある

いは勝れているなどと主張して、仏像の開眼供養を行なうにも、大日経の仏眼法の印真

言によったため、日本国中の木像や絵像の諸像はみな魂のないものとなったのです。最

後には天魔が仏像に入れ替わって、供養する信者をも滅ぼす仏像となったのです。朝廷

が滅亡しようとしているのもこのためなのです。この悪法である真言が鎌倉に伝わり、

今や日本全体を滅ぼそうとしています。その上、禅宗・浄土宗なども何ともいいようも

ないほどの誤った考えの者たちです。(つづく)

【語註】

 ※1 伊勢公:清澄寺の住僧。日蓮は空海著の十住心論・秘蔵宝鑰・弁顕密二教論の借
           用を伊勢公に依頼するが、それが伊勢公個人あるいは清澄寺所蔵本かは不明。右
           の点から伊勢公は日蓮の教説に同調、あるいは信奉した一人といえる。他の遺文
           にその名は見えない。

 ※2 十住心論:空海著の秘密曼荼羅十住心論のこと。10巻。人間の心の在り方、宗
           教意識の発達に応じて10段階に分類し、真言密教を最勝、最上位に位置づける
           理由を明らかにしたもの。空海の代表的著作の一つ。

 ※3 浄顕房・義浄房:安房国清澄寺の住僧。道善房の弟子で、12歳で清澄寺に登っ
           日蓮の教育にあたった兄弟子。建長5年(1253)4月28日の立教開宗のおりに
       は、東条景信の迫害から日蓮を守り清澄寺から下山させた。日蓮の教説を理解し
           ながら改宗せず、清澄寺にとどまった。

 ※4 虚空蔵菩薩:虚空のように無量の智慧・福徳を蔵する菩薩。真言密教における求
           聞持法の本尊としても有名。

 ※5 真言宗:教主を大日如来とし、根本経典は大日経・金剛頂経・蘇悉地経など。空
           海が入唐して恵果から真言密教を伝授、大同元年(806)帰国後、高野山の金剛
           峯寺・京都の東寺を中心に真言密教を弘めた。日蓮は真言宗を最勝とする十住心
           教判や顕劣密勝判を法華経の立場から厳しく批判した。

 ※6 阿弥陀経:無量寿経・観無量寿経とともに浄土三部経の一つ。阿弥陀仏が説法し
           ている西方極楽浄土の荘麗な様子、阿弥陀仏の名号を称えることにより、その極
           楽世界に往生できることなどを説く。日蓮は同経を、権実判の立場から法華経が
           説かれる前の方便の教え、権教と位置づけた。

 ※7 慈覚大師:延暦寺第三代の円仁。常行三昧に引声念仏を導入して叡山浄土教の源
           流を形成。さらに叡山に密教を導入し、天台密教の基礎を確立。法華経より密教
           が勝るという理同事勝の主張に対し、日蓮は最澄の法華一乗主義を否定した獅子
           身中の虫であると厳しく批判した。

 ※8 弘法大師:日蓮は法華経の「正直捨方便」の金言を無視し、法華経を大日経の下
           に位置づけたとして空海を厳しく批判した。

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【 2023/12/07 05:40 】

真の孝養と仏道をめざして  | コメント(0)  | トラックバック(0)  |

真の孝養と仏道をめざして 日房御書⑦

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波木井の御影(身延山久遠寺蔵)



 法華経を信ずる人は、かまへて球究法華経のかたきををそれさせ給

へ。念仏者と持斎と真言師と、一切南無妙法蓮華経と申さざらん者を

ば、いかに法華経をよむとも、法華経のかたきとしろしめすべし。か

たきをしらねばかたきにたぼら(誑)かされ候ぞ。あはれあはれ、け

さんに入つてくわしく申し候はばや。又、これよりそれへわたり候さん

位房 みぼう佐渡公 さどこう等に、たびごとにこのふみ(文)をよませてきこしめすべ

し。又、この御文をば明慧房にあづけ(預)させ給ふべし。なにとなく

我智慧はたらぬ者が、或はをこつき、或はこのふみをさいかく(才覚)と

してそしり候なり。或はよも此御房は、弘法大師にはまさらじ、よも慈

覚大師にはこへ(超)じなんど、人くらべをし候ぞ。かく申す人をばも

のしらぬ者とをぼすべし。

建治二年〈太歳丙子〉三月 日            
日 蓮 花押

                     甲州南部波木井郷の山中
【現代語訳】
法華経の敵を知るー光日尼に信心の励まし

 法華経を信仰する者は、心にかけて法華経の敵を恐れなければなりません。念仏者や

戒律をたもつ者や真言僧、また南無妙法蓮華経と唱えない者はすべて、どのように法華経

を読もうとも法華経の敵と考えるべきです。敵を知らなければ敵に欺かれるものです。

早くお会いして詳しくお話をしたいものです。また、※ 1位房や※ 2渡公が安房に行くたび

に、この手紙を読ませて聴かれるとよいでしょう。また、この手紙は明慧房に預けてお

くとよいと思います。思慮のない者たちが日蓮をあざけったり、またこの手紙から日蓮の学

識を知りそしったりするでしょう。あるいは、日蓮がいかに賢くとも※ 3海よりは

勝れていまい、よもや慈※ 4大師円仁には及ぶまいなどと比較する人もいるでしょうが、

たとえそのようなことをいう人がいても、それは仏教を知らない者のいうことだと思い

捨ておきなさい。

建治二年三月 日                        
日 蓮  花押

                            甲州南部波木井郷の山中

【語註】

 ※1 
三位房:日蓮の弟子、三位房日行のこと。下総国(千葉県)の出身で早くから日
           蓮の門下に入った。日蓮門下の中で重きをなし、日興の富士弘教の補佐や諸宗問
           答の主任を命ぜられ活躍した。しかし才智におぼれ、ともすると日蓮の指導にそ
           むくことがあり、たびたび訓戒を受けていた。熱原の法難のころ退転し、不慮の
           をとげたと推定される。

 ※2 佐渡公:直弟子日向のこと。13歳で日蓮に師事、佐渡阿闍梨・民部阿闍梨とよ
           ばれた。藻原を拠点に上総一帯に教えを弘め、のち身延に登って日興とともに日
           蓮の廟所に給仕した。日興が身延を去った後は、身延久遠寺の経営と弟子の育成
           にあたり、その基礎をかためた。

 ※3 空海:日本真言宗開祖。延暦23年(804)入唐し、恵果より真言秘密の教えを学
           び、伝法灌頂を受けて帰国。真言宗と密教の最勝を主張する。日蓮は法華経の
          「正直捨方便」の金言を無視し、法華経を大日経の下に位置づけたとして厳しく
           した。

 ※4 
慈覚大師円仁:延暦寺第三代。常行三昧に引声念仏を導入して叡山浄土教の源流
           を形成。さらに叡山に密教を導入し、天台密教の基礎を確立。法華経より密教が
           勝るという理同事勝の主張に対し、日蓮は最澄の法華一乗主義を否定した獅子身
           中の虫であると厳しく批判した。
 

【解説】

 日蓮が国を思うという時には、必ず自らの生まれた故郷への思慕と報恩の謝念に根ざ

している。その懐郷の心情は、なによりも父母に向けられていたが、「故郷の人でたと

え私に心を寄せようと思っていないものでも故国の人だといえば、それだけで懐かしく

思」い、辛く当たった人でも疎かにしないといったように、石もて追われた故郷であれ

ばあるほど望郷と故郷への報恩の心を強く働かせている。

 故郷の人の中では父母をはじめ、清澄寺に入ってより師と頼んだ道善坊などがいる。

この他には、日蓮とその父母が恩をこうむった領家の尼や光日尼が、幼少の日蓮に深く

縁を結んだ人々である。光日尼は、日蓮が12歳より清澄寺の虚空蔵菩薩に「日本第一の

智者となしたまえ」と立願したことを知っていた。自らも日蓮を疎かに思っておらず、

陰ながら信奉していた女性であった。

 この手紙は、その光日尼から子弥四郎死去の知らせを聞き、母子の救いをさし示した

ものであるが、そこには故郷特に亡き父母への恋しさ、帰郷しえぬ悔しさと佐渡や身延

の地で抱き続けてきた切なるまでの心情を率直に告白している。そしてまた、法華経を

失う諸宗を批判し、為政者を諫め、迫害を受けた佐渡から身延入山に至る生涯を光日尼

を通じて故郷に報告し、法華経の行者としての魂を故郷にしるし留めようとした自叙伝

としても需要な内容を持っている。

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【 2023/12/05 05:35 】

真の孝養と仏道をめざして  | コメント(0)  | トラックバック(0)  |

真の孝養と仏道をめざして 光日房御書⑥

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波木井の御影(身延山久遠寺蔵)

光日房御書こうにちぼうごしょ

 又御消息に云く、人をもころしたりし者なれば、いかやうなるところ

にか生れて候らん、をほせをかほり候はんと云々。それ、針は水にしず

む。雨は空にとどまらず。蟻子ありを殺せる者は地獄に入り、死にかばね

(屍)を切れる者は悪道をまぬがれず。いかにいわんや、人身をうけた

る者をころせる人をや。ただし大石も海にうかぶ、船の力なり。大火も

きゆる事、水の用にあらずや。小罪なれども、懺悔さんげせざれば悪道をまぬ

かれず。大逆なれども、懺悔すれば罪きへぬ。所謂いわゆる、粟をつみ(摘)た

りし比丘は、五百生が間牛となる。うりをつみし者は三悪道に堕ちにき。

羅摩 らま王・抜提 ばつだい王・毗楼真 びるしん王・那睺沙 なごさ王・迦帝 かてい王・毗舎佉 びしゃやきゃ王・月光王・

光明王・日光王・愛王・持多人 じたにん王等の八万余人の諸王は、皆、父を殺し

て位につく。善知識にあはざれば、罪きへずして阿鼻地獄 あびじごくに入りにき。

波羅奈 はらな城に悪人あり、其名をば阿逸多 あいったという。母をあひ(愛)せしゆへ

に父を殺し妻とせり。父が師の阿羅漢 あらかんありて、教訓せしかば阿らかむを

殺す。母又、他の夫にとつぎしかば、又母をも殺しつ。つぶさに三逆罪をつ

くりしかば、鄰里 りんりの人うとみ(疎)しかば一身たもちがたくして、祇泹 ぎおん

精舎にゆいて出家をもとめしに、諸僧許さざりしかば、悪心強盛にして

多くの僧坊をやきぬ。然れども、釈尊にひ奉りて出家をゆるし給はり

にき。北天竺に城あり。細石となづく。彼城に王あり。龍印 りゅういんという。

父を殺してありしかども、後に此をおそれて彼国をすてて、仏にまいり

たりしかば、仏懺悔を許し給き。阿闍世あじゃせ王は、ひととなり(成)三毒

じょうなり。十悪ひまなし。其上父をころし、母を害せんとし、提婆達多だいばだった

を師として無量の仏弟子を殺しぬ。悪逆のつも(積)りに、二月十五

日、仏の御入滅の日にあたりて無間地獄くけんじごくの先相に、七処に悪瘡出生し

て、玉体しづかならず。大火の身をやくがごとく、熱湯をくみかくるが

ごとくなりしに、六大臣まいりて六師外道げどうを召されて、悪瘡をいやすべき

やう申しき。今の日本国の人々の禅師律師念仏者真言師等を善知

識とたの
みて、蒙古国を調伏し、後生をたすからんとをもうがごとし。

其上、提婆達多は阿闍世王の本師也。外道の六万蔵、仏法の八万蔵をそ

ら(諳)にして、世間・出世のあきらかなる事、日月と明鏡とに向ふが

ごとし。今の世の天台宗の碩学の、顕密二道を胸にうかべ、一切経をそ

らんぜしがごとし。此等の人々諸の大臣阿闍世王を教訓せしかば、仏に

帰依し奉る事なかりし程に、摩竭提まかだに天変度々かさなり、地夭ちようしきりな

る上、大風・大旱ばつ・飢饉・疫癘えきれいひまなき上、他国よりせめられて、

すでにかうとみえしに、悪瘡すら身に出でしかば、国土一時にほろびぬ

とみえし程に、にわかに仏前にまいり、懺悔して罪きえしなり。


 これらはさてをき候ひぬ。人のをやは悪人なれども、子、善人なれば

をやの罪ゆるす事あり。又、子、悪人なれども、親、善人なれば子の罪

ゆるさるる事あり。されば故弥四郎殿は、たとひ悪人なりともうめる母、

釈迦仏の御宝前にして昼夜なげきとぶらはば、いかでか彼人うかばざる

べき。いかにいわうや、彼人は法華経を信じたりしかば、をやをみちび

く身とぞなられて候らん。

【現代語訳】

罪と懺悔ー弥四郎の救い

 またお手紙に、弥四郎はかつて人を殺害した者であるから、後生はどのような所へ生

まれてくるのか御教示いただきたいとのことですが、針が水の中に沈み、雨が空中にと

どまらないように、蟻を殺した者も地獄に堕ち、死んだ屍体を切った者も地獄・餓鬼・

畜生の三悪道へ堕ちることから免れることはできません。まして、人間を殺したとすれ

ばなおさらのことです。しかし、大石も船の力を借りて海に浮かぶことができ、大火も

水の働きによって消すことがきるように、小さな罪でも悔い改めなければ必ず悪道に堕

ちますが、大きな罪を犯した人でも悔い改めればその罪は消えます。そうした例は大変

多くあります。憍梵波提 ※ 1 きょうぼんはだいは過去世に粟を盗んで牛が食べるように反芻したため、

500生のあいだ牛に生まれかわり、また瓜を盗んだために三悪道に堕ちた者もいます。

羅摩王・抜提王・
楼真王・那沙王・迦帝王・王・月光王・光明王・日光王・

愛王・持多人王などのインド古代の8万余人の諸王は、みな父を殺して王位についた者

ですが、人を導く高僧に会わなかったために、犯した罪を悔い改めることができず、つ

いに無間地獄に堕ちてしまいました。また波羅奈城(バラナシ、ベナレス)に阿逸多と

いう悪人が住んでいましたが、その母に恋慕をいだき、ついに父を殺し母を妻としまし

たので、父の師匠であった阿羅漢がこれを戒めたところ、その阿羅漢をも殺してしまい

ました。ところが母がまた他の夫に嫁いだところ、その母をも殺してしまいました。か

くて、殺父・殺母・殺阿羅漢の三逆罪のすべてを犯したために、近隣の人びとの排斥に

耐えることができず、祇園精舎へ赴き出家することを願いましたが、諸僧が許さなかっ

たので怒り狂った悪人阿逸多はついに多くの僧坊を焼き払ってしまいましたしかし、

釈尊にあい心から過去に犯した罪を悔い改めたので出家を許されたのです。また北イン

ドに細石という城があり、その王を龍印といいました。龍印は父を殺してその位につい

たのですが、後にその罪を恐れ国を捨てて仏のもとに赴き悔い改めたのでその罪を許さ

れました。また中インドのマガダ国の阿闍世王は、生まれつき貪欲とんよく瞋恚しんに愚痴ぐちの三毒

がきわめて強く常に十悪を犯しさらに父を殺し、母をも殺そうとしたばかりでなく、

悪人の提婆達多を師匠として多くの仏弟子を殺しました。こうした人並みはずれた悪事

が重なり、2月15日の釈尊の御入滅の日に、無間地獄へ堕ちる先相として身体の7ケ所

に悪瘡ができました。阿闍世王のその苦しみは全身を大火で焼き、熱湯を浴びせられる

ようでしたので、王に従う6大臣は当時中インドに勢力のあった6人の外道論師を招い

その悪瘡を治療するよう命じましたこれはあたかも、今の日本国の人びとが禅師・

律師・念仏者・真言師らを高僧と信頼して、蒙古国を調伏し、後生を助けてもらおうと

思っているようなものです。その上、阿闍世王の師である提婆達多は外道の六万蔵、仏

法の八万蔵をそらんじて、仏法の教えにも世間の学問にも明るかったことは、あたかも

日月や鏡に向かうようなものでした。今の天台宗の碩学が顕教・密教の二教に通じ、一

切経をそらんじているのと同じです。このような提婆達多や六師外道、6大臣が阿闍世

王を教導したため、阿闍世王は釈尊に帰依することもなく過ごすうちに、摩竭提国に天

変地異が続発し、大風・大旱魃・飢饉・疫病などが続きました。さらに他国から攻め寄

せられ、阿闍世王の身には悪瘡が出て、まさに国は滅びようとしたのです。しかし、阿

闍世王は深く前非を悔い、急ぎ仏の前におもむき懺悔したためにその罪も消えたという

ことです。

 これらのことはさておいて、親が悪人でもその子が善人ならば、親の犯した罪が赦さ

れることもあり、また子供が悪人でも親が善人ならば、子供の罪が赦されることもあり

ます。だから、亡くなられた弥四郎殿がたとえ悪人でありましても、生母の尼御前が釈

尊の御宝前で昼夜に弔われるならば必ず成仏いたしましょう。ましてや、弥四郎殿は生

前、深く法華経を信じていたのですから、今は成仏されてかえって親である尼御前を導

く身となられていることでしょう。(つづく)

【語註】

 ※1 憍梵波提:釈尊の弟子中で解律第一といわれ、戒律を理解することに秀でたと
           いう。

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【 2023/12/02 05:38 】

真の孝養と仏道をめざして  | コメント(0)  | トラックバック(0)  |

真の孝養と仏道をめざして 光日房御書⑤

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波木井の御影(身延山久遠寺蔵)

光日房御書こうにちぼうごしょ

 人間に生をうけたる人、上下につけてうれへなき人はなけれども、時

にあたり、人々にしたがひて、なげきしなじな(品々)なり。たとへば、

病のならひはいずれの病も、重くなりぬれば、これにすぎたる病なしとをも

うがごとし。主のわかれ、をや(親)のわかれ、夫妻のわかれ、いづれ

かおろかなるべき。なれども主は又他の主もありぬべし。夫妻は又かは

りぬれば、心をやすむる事もありなん。をやこのわかれこそ、月日のへ

だつるまゝに、いよいよなげきふかかりぬべくみへ候へ。をやこのわか

れにも、をやはゆきて子はとど(留)まるは、同じ無常なれどもことは

りにもや。をひたるはわ(母)はとどまりて、わか(若)き子のさきに

たつなさけなき事なれば、神も仏もうらめしや。いかなれば、をやに子

をかへさせ給ひてさきにはたてさせ給はず、とどめをかせ給ひて、なげ

かさせ給ふらんと心うし。心なき畜生すら子のわかれ(別)しのびがた

し。竹林精舎の金鳥こんちょうは、かひこ(卵)のために身をやき、鹿野苑ろくやおんの鹿

は、胎内の子ををしみて王の前にまいれり。いかにいわうや心あらん人

にをいてをや。されば王陵が母は子のためになづき(頭脳)をくだき、

神堯しんぎょう皇帝の后は胎内の太子の御ために腹をやぶらせ給ひき。此等をを

もひつづけさせ給はんには、火にも入り、頭をもわりて、我子の形をみ

るべきならば、をしからずとこそ、おぼすらめとをもひやられてなみだ

もとどまらず。

【現代語訳】

老母はとどまり若き故子が先立つー光日尼の嘆き

 人間として生を受けた以上、身分の上下にかかわらず憂いのない人はありませんが、

時により人によってその歎きはさまざまです。たとえば病の常としてどのような病でも

重くなれば、これ以上の辛い病はないと思うようなものです。これと同じように主従の

別れ、親子の別れ、夫婦の別れもいずれ劣らぬ歎きではありますが、たとえ主君は失っ

てもまた他の主君に仕えることもできます。夫婦もまたたとえ別れても、代わりを迎え

れば心を休めることもできましょう。しかしながら親子の別ればかりは、月日も経てば

経つほどその歎きはいよいよ深くなるばかりです。親子の別れでも親が先に亡くなり子

供が残ることは同じ無常ではありますが自然の道理ですからやむをえませんしかし、

老いたる母が生き残って、若い子供が先立つのはあまりにも哀れで神や仏がうらめしく

思われます。どうして親を、子供の代わりに死なせないで生き残らせ、このように歎か

せるのであろうかと悲しくてなりません。思慮分別のない畜生でも子との別れは堪えが

たいものです。竹林精舎のきじは子を助けるために卵を抱いたまま焼死し、鹿野苑の鹿は

子をはらんだ雌鹿のために、王の前に身を呈したということです。ましてや、思慮分別の

ある人間が子を惜しむのは当然のことです。それゆえ、漢の※ 1陵の母は、王陵が情に動

かされて二心を抱くことをとどめて頭を砕いて死に、唐の高祖の竇皇とう ※ 2后は胎内の子のた

めに腹を破られたということです。これらのことどもを思うにつけ、尼御前もわが子の

姿を見るためには、たとえ火に入っても頭を砕いても惜しくはないと考えるその胸中が

思いやられて涙も止まりません。'(つづく)

【語註】

 ※1 王陵の母:王陵は劉邦に仕えた将軍。項羽は王陵の母を人質にして王陵を従わせ
           ようとしたが、王陵の使者が項羽の元を訪れた際、王陵の母は「漢王に従うよう
           に。私のために二心を持ってはいけません」と使者に伝えさせると、自分は剣に
           伏して自殺した。項羽は怒ってこの母を釜茹でに処した。陵母伏剣。

 ※2 竇皇后:唐の高祖李淵の夫人で、太宗李世民の母。

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【 2023/11/30 05:32 】

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