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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴ってまいりましたが、これからしばらくは世界史のミラクルワールドをお届けします。

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世界史のミラクルワールドー満州の英雄・アイシンギョロ=ヌルハチ

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ヌルハチ

 清の太祖ヌルハチは女真族建州部のアイシンギョロ(漢字で愛新覚羅)氏の出身で1559年ヘトゥアラに生まれた。その出自については『満州実録』に次ぎのように書かれている。長白山の麓の湖で3人の天女の姉妹が水浴びをしていた時、鵲【かささぎ】の運んできた朱い果実が末の娘の喉にすべり込み、彼女は身籠もった。そして生まれた男の子、姓はアイシンギョロ、名はブクリ=ヨンションが、マンジュ(満州)の始祖である。何代か後のファンチャを経てその子孫のドゥドゥ=メンテムの時にヘトゥアラに居を構えた。メンテムの曾孫のフマンの6人の子供の4番目がギオチャンガの孫がヌルハチである、と。すごく高貴な生まれのように書かれているが、実際にはそんなに有力な家柄の出身ではなかったようだ。

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ヘトゥアラのヌルハチ像

 明は衛所制を通じて女真族を支配していたが、当時の女真族は4部に分かれており、部族ごとに辺境交易の勅書(交易許可証)を与えてい。しかし、16世紀になると辺境交易が活発化になり、交易権をめぐって部族相互が激しく争うようになり、騒乱の時代となった。ヌルハチもそうした時代の群雄の一人であったに過ぎない。ヌルハチが25歳の時にヌルハチの祖父と父が誤って明軍に殺され、これを機会にヌルハチは明からの代償として勅書30通を得て自立し、女真族の統一にいたる長い道程に踏み出していった。その時の彼の手勢はわずか100人程度。それが大帝国の基を築いていく。

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ヘトゥアラでの即位式(再現)

 ヌルハチはその後30年足らずで、海西女真など、他の女真の諸部族を次々と制圧して、1613年までにほぼ敵対勢力を討ち、女真族を統一。1616年正月、ヌルハチは貴族や重臣により、女真諸部族の長として「ゲンギュン=ハン(聡明なるハン)」の称号を贈られ、国号をアイシン、年号を天命と定めた。アイシンは彼らの言葉で「金」のことなんで、金国でいいんだけど、12世紀に完顔阿骨打の建てた金があるので、これと区別するため「後金」と呼んでいる。はじめ首都は1603年以来のヌルハチの居城ヘトゥアラに置かれた。
 
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 これと前後して、ヌルハチは満州文字を作らせている。ヌルハチが国家機構を整備する上で文字が必要になったが、かつての女真文字はすでに使われなくなっていたからだ。写真は北京にあるチベット寺院の雍和宮本堂の扁額。一番右が満州文字で、モンゴル文字をもとにして作られた。一番左がそのモンゴル文字で、ともに縦書き。左から2番目はチベット文字だ。

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文殊菩薩

 ところで、満州って何だか知ってる?「マンジュ(=満州)」という言葉は文殊菩薩を意味するサンスクリット語の「マンジュシリ」から来ている。文殊菩薩信仰は、女真族のなかに深く広まっており、マンジュという言葉は聡明な者を意味した。「3人寄れば文殊の知恵」という諺があるよね。正確な時期は分からないけど、女真族は自らのことを満州と呼ぶようになったんだ。満州は地名だと思っている人が多いと思うけど、もともとは民族名だったんだよ。

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 あと、ヌルハチは八旗【はっき】と呼ばれる軍事制度を創設している。八旗は文字通り8種類の旗のもとに統率された軍団を指している。300人で1ニル(矢)、5ニルで1ジャラン(隊)、5ジャランで1グサ(旗)として編制されたんで、1旗は7,500人で構成される。だから、八旗は6万人の兵力になる。後にモンゴル八旗、漢人八旗も作られ、全24旗となった。

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瀋陽故宮 太政殿

 1618年、ヌルハチは従来の戦闘相手とはスケールの違う大敵、明との正面からの対決に乗り出すことになる。「七大恨」という7箇条を掲げて明に宣戦布告したヌルハチは、撫順【ぶじゅん】城を攻めて占領した。これに対し明は10数万の大軍を動員して巻き返しをはかり、4路に分けてヌルハチの本拠ヘトゥアラ城を目指した。ヘトゥアラの西北のサルホ山で両軍の主力は遭遇し、数にして半分くらいの後金軍が2日間の激戦の末に明軍を撃破した。1621年には、当時は遼東と言われていた遼河の東側全域(後の満州)を平定した。ヌルハチは遼陽、さらに1625年には瀋陽(満州国時代の奉天)に定め、盛京【せいけい】と称した。

 1626年、遼西地方に侵入して寧遠城を包囲したが、明の将軍・袁崇煥【えんすうかん】の守りに阻まれて失敗した。この時に活躍したのが明がイエズス会宣教師アダム=シャールに命じて造らせた大砲だった。この「神の福音を説く宣教師の作った大砲」は大いに威力を発揮し、ヌルハチの満州軍を破った。この戦いはヌルハチ最初にして最後の挫折と言えた。しかしこのまま引き下がると権威が失墜すると恐れ、ヌルハチは覚華島を攻撃したが、この戦いの最中に砲弾の破片で背中に傷を負い、1626年8月11日に没した。享年68であった。

 この前お話した通り、袁崇煥はその4年後に猜疑心の強い崇禎帝に謀反の疑いをかけられ処刑されてしまう。本当に崇禎帝は馬鹿だよね。

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【 2019/01/21 17:29 】

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世界史のミラクルワールドー賊が朕の屍を裂くにまかせよう・崇禎帝

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崇禎帝

 崇禎帝【すうていてい】は泰昌帝の第5子として生まれた。1627年に兄の天啓帝がわずか23歳で急死し、その男子がみな夭折していたため、翌年17歳で明の第17代皇帝となった。

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魏忠賢

 天啓帝の下で専横を振るった宦官が魏忠賢【ぎちゅうけん】だった。魏忠賢が何をしたかは、宦官の記事を読んでね。崇禎帝即位の2カ月後に魏忠賢はいっきに失脚。罪を糾弾され、逮捕されると知り首を吊って自殺。遺体は磔【はりつけ】にされ、首は晒し者にされた。

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 崇禎帝が抜擢したのが名臣として名高い徐光啓【じょこうけい】だ。この絵は世界史の教科書にも載っていたと思うけど、右が徐光啓、左が初めて中国にやって来たイエズス会士のマテオ=リッチだ。徐光啓はマテオの教えを受け、洗礼を受けてキリスト教徒になった。

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 当時、崇禎帝が日食の観測を誤ったとして天文台の役人を罰しようとしたところ、徐光啓は「これは郭守敬【かくしゅけい】の暦法による誤りである。元の時代にすでに、日食があるべき時に日食にならなかったことがあった。今日、天文台の観測が誤っても怪しむに足らない。暦法を修正しなければならないのである」と諫言した。そこで、崇禎帝は正確な暦の作成に力を入れることにした。後日、アダム=シャールが徐光啓の協力を得て完成させたのが、『崇禎暦書』だ。徐光啓はその他にも、『幾何原本』を漢訳したり、『農政全書』を編纂するなど、文化的功績を多く残した。

 話が逸れてしまったけど、崇禎帝は水利や綿作など農政に通じた徐光啓を用いて財政再建を図るなど、国政改革に取り組んだ。
当時は北に満州族の後金が進入し、南では農民の反乱が多発した、まさしく国事多難の時期であり、崇禎帝はこの状況をたった一人で支えようと懸命に努力した。

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袁崇煥

 崇禎帝は天啓帝らと違い、政治に熱心であり、王朝最後の皇帝にありがちな色事にふけるようなこともなく、倹約を心がけていた。しかし、たった一つだけ欠点があった。それは、猜疑心が強く、臣下を信用できない悪癖を持っていたとういうことだ。即位直後から重臣を次々と誅殺してまわり、特に山海関で女真族からの防衛を一手に引き受けていた感のあった名将袁崇煥【えんすうかん】を誅殺したことは致命的となった。在位17年の間に、崇禎帝によって誅殺された重臣は総督7名、巡撫(省長)11名に上り、その他罷免された者も多数おり、このことが重臣達の著しい士気の低下を招くこととなった。

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李自成

 そんな中、農民反乱の指導者にのし上がったのが李自成【りじせい】であった。李自成は陝西のかなり裕福な里長戸に生まれたが、逃亡した里内の農民の賦役を連帯責任で負担させられて没落し、やむなく駅率(明は駅站と呼ばれる駅伝制度を敷いていた。駅卒はその労働者)となった。ところがリストラによって駅伝が廃止されて失業してしまう。1627・1628年に陝西で起きた大旱魃をきっかけに反乱が頻発し、李自成もそれに参加し、各地を転戦した。

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 「貴賤)にかかわらず田を均【ひと】しくし、3年間の徴税を免じ、百姓を殺さぬ」というスローガンと厳正な軍規により農民の支持を集め、李自成の率いる軍は一気に数10万の軍勢に膨れ上がり、1641年には洛陽を陥落させた。1644年、ついに西安に入った李自成は、国号を順(大順)とし、大順王を称した。

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 1644年2月、李自成軍は北京を目指して北伐を開始した。崇禎帝は李自成軍に次々と討伐軍を送るが、その討伐軍を組織するため増税を行ったことにより、窮迫した民衆が李自成軍に加わる、という悪循環に陥ってしまい、3月19日に北京はついに陥落した。

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 前夜から、崇禎帝は3人の息子たちを紫禁城から脱出させ、側室と娘たちを自ら手にかけて殺害し、周皇后の自害を見届けた後、危急を知らせる鐘を鳴らしたが、文武諸官はすべて逃亡し、君側に参じたのは宦官の王承恩ただ一人であった。兄の時代に専横を働いた宦官を殺して安定を図った崇禎帝が、死に際してアテにできたのは宦官一人というのは何とも皮肉なことだ。

 娘の長平公主を斬る時は、そなたはどうして皇帝の女に生まれてしまったのか!」と泣いたという。しかし、泣きながら振るった刀が急所をそれたため、公主は左腕に傷を負ったのみで一命をとりとめ、王承恩の機転で紫禁城を抜け出した。ここにいたって崇禎帝は紫禁城の北にある景山で首を吊って自殺した。享年34歳。白衣に記された遺書には、「賊が朕の屍【しかばね】を裂くにまかせよう、ただし百姓万民を一人たりとも傷つけるなかれ」とあった。

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明思宗崇祯皇帝殉国处

 崇禎帝は少なくとも彼なりに国のことを案じて大変な努力をしていた。しかし、その猜疑心により全てが裏目に出て自滅してしまった。滅亡寸前の明朝の国力を回復させるために、国政改革に身を投じたものの、万暦帝らの悪政によって決定づけられた衰退の流れを止めることができず、最終的に痛ましい最期を遂げなければならなかった。不真面目な人間のほうが良かったのかも知れない。何とも哀れなことである。

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【 2019/01/18 16:02 】

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世界史のミラクルワールドー明の滅ぶは、実に神宗に滅ぶ・万暦帝

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万暦帝

 万暦帝【ばんれきてい】(神宗【しんそう】)は隆慶帝【りゅうけいてい】の第3子。隆慶帝が酒色に溺れ、享楽を求めた生活のため36歳で崩御し、1572年わずか10歳で即位した。当初は遺命によって張居正【ちょうきょせい】が政務を行い、さまざまな政治改革を実現した。

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張居正

 張居正は万暦帝の後見をめぐる政争に乗じ、それまで宰相であった高拱【こうきょう】を蹴落として、待望の宰相(主席大学士)の地位に就いた。彼は皇帝の師として万暦帝を厳しく教育し、自分の意のままに動かすとともに、国政刷新に乗り出した。内政では官吏の綱紀粛正・税法の改正・検地(土地測量)の実施・戸口調査の強化などを進めた。こうした努力の結果、財政状況は久方ぶりに好転した。張居正が政治を執っていた10数年に国庫に積み上げた金額が400万両と伝えられている。また、対外的には国境警備を強化してモンゴルの侵入(北虜)にほぼ終止符を打った。

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朝鮮の役

 1582年に張居正が死去すると、万暦帝は政治に興味を失い、張居正の厳しい指導のもと良き皇帝たらんと真面目に努力していた少年時代とは一転して、政務をサボタージュするようになった。鉱山開発や商税増徴などのために民衆の生活は困窮し(鉱・税の害)、各地に反乱や民衆暴動が起きた。また日本の豊臣秀吉が引き起こした朝鮮の役においては、宗主国として朝鮮を援助し、国内では寧夏のボハイの乱、播州の楊応龍の乱が起きた。朝鮮の役を含めて万暦の三大征と呼んでいる。これら同時期に行われた3つの大規模な軍事行動には多大な軍費が投じられ、実態は不詳ながら『明史』によれば、合計1,000万両を超えたとある。

 また、立太子問題から宮廷内の権力争いにからんで、東林・非東林の党争も激化して国力は急速に衰えた。

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万暦帝の地下宮殿

 国家にとって不可欠な出費を惜しんだ万暦帝であったが、私的な事柄には凄まじい贅沢をした。例えば鄭貴妃の子である福王を溺愛し、その結婚式のために30万両という金額を使っている。また、自らの墓である地下宮殿の建設に800万両をかけるなど、むしろ浪費に生き甲斐を見いだすようになった。

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明の十三陵

 地下宮殿は明の十三陵のうちの万暦帝の陵墓・定陵のことである。明の十三陵は天寿山にある明代の皇帝、皇后、皇貴妃と皇太子等の陵墓群のことで、永楽帝以後の皇帝13代の皇帝の陵墓があるため、この通称がある。定陵は1583年から建設を開始され、6年の年月を費やして完成。万暦帝のほか孝端皇后,孝靖皇后も合葬されている。

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万暦赤絵

 万暦帝の時代は日本やメキシコの銀が大量に流入したことにより、経済界は好況に沸き、その影響で文化的には最盛期を迎えており、景徳鎮における万暦赤絵などの陶磁器の名品が生まれた。万暦帝はこのことに気を良くしていたのだろうが、明の衰退は明らかとなっており、明は万暦帝の死後20年余で滅びてしまう。これを『明史』は「明の滅亡は、実に神宗に滅ぶ」と評した。

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 定陵は 1956~58年にわたって発掘され,地下 27mの深さにある墓の内容が明らかにされた。中国最初の学術的古代皇帝陵墓発掘であったが、考古技術が未熟な中での発掘であったため、大量の文物破壊を招いた。そのため、これ以後、中国政府は21世紀の今日まで古代皇帝陵墓の発掘を許可していない。

 墓室は前中後左右の5つの室から成り,総面積は 1,195m2にも及ぶ巨大なもので,まさに地下宮殿と呼ぶにふさわしい。現在は人民を収奪した専制君主の贅沢のあかしとして公開されており、連日見学者で賑わっている。

 文化大革命初期の1966年8月24日、旧思想・旧文化破棄を掲げる紅衛兵らにより定陵で「批判会」が開かれ、紅衛兵の弾劾演説の後、保存されていた万暦帝の亡骸は孝端皇后・孝靖皇后の亡骸とともにガソリンをかけられ焼却された。なんとも哀れなことである。

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【 2019/01/15 12:44 】

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世界史のミラクルワールドーチンチンのない艦隊司令長官・鄭和

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鄭和

 馬三保、すなわち後の鄭和【ていわ】は、1371年に雲南省昆明に生まれた。先祖は元の時代に西域から雲南に移住したサイイド・アジャッルとされ、父の名は馬哈只【マハッジ】といった。姓の「馬」は予言者ムハンマドの子孫であることを示し、ハッジは聖地メッカへの巡礼者に与えられる尊称に由来している。まあ、要するに、鄭和はイスラーム教徒だということだ。

 鄭和が10歳の時に明は雲南攻略の軍を起こし、翌1392年に雲南は滅亡。鄭和は捕らえられて去勢され、宦官として当時燕王だった朱棣(のちの永楽帝)に献上された。 靖難の役で功績を挙げ、帝位を奪取した永楽帝より宦官の最高職である太監に任じられ、さらに鄭の姓を下賜された。

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 永楽帝は周辺諸国への積極的な使節の派遣を行っており、この一環として大船団を南海諸国に派遣し朝貢関係の樹立と示威を行う計画が浮上、鄭和がその指揮官に抜擢された。彼がイスラーム教徒であったことが大きく関係していると思われる。1405年に始まった遠征は、永楽帝の治世中に6度に及び、対外拡張に消極的であった洪煕帝【こうきてい】はその中止を決定したものの、宣徳帝の時代に復活して第7回が行われた。前後30年近くに及ぶ大事業であった。

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 鄭和の南海遠征は「西洋下り」と呼ばれ、第1回(1405~07年)の航海では大船62隻、乗組員総数27,800名余りからなる大艦隊が、現在の上海付近の劉家港【りゅうかこう】から船出し、チャンパ、ジャワ、スマトラからマラッカ海峡を経て、インド西岸のカリカットに至って、帰国した。鄭和は大男で、身長180センチ、腰回り100センチあったというから、プロレスラーみたいな体格だ。でも、チンチンがないから声が甲高い。その甲高い声で、「野郎ども、出発するわよ!」って号令をかけた様子を想像すると、吹き出しそうになる。

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 鄭和艦隊は世界史上でも類いまれな大木造船からなる艦隊だった。艦隊の中心は大型艦船60余隻であったが、大型艦船だけでの航海は不可能だから、その周囲に100隻程度の小船が配され全体では200余隻の艦隊からなっていたとと考えるのが自然だ。これだけの大船団を迎えたほうはびっくり。明に「朝貢に来い」、と言われれば、すぐ「はい」となるよね。

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 艦隊の中核となった巨艦は、「宝船【ほうせん】」と呼ばれる横幅の広い安定した船で、「西洋宝船」、「西洋取宝船」などとも呼ばれた。その意味は「宝を取ってくる船」であり、各地の支配者に「皇帝からの贈り物」として与える諸貨物、各地の支配者から皇帝に献上された貨物などが搭載されたことからきていた。宝船は動きの鈍い巨艦であったが、大量の武器も装備されて軍事的能力も兼ね備えており、少なくとも400~500人、場合によっては1,000人に近い乗組員が乗り込んでいたのではないかと推測されている。『明史』によれば長さ44丈(約137m)、幅18丈(約56m)、重量8000t、マスト9本であり、小さく見積もれば、長さは約61.2m、重量1170t、マスト6本という巨艦とも言われている。手前の小さい船がコロンブスの乗ったサンタ=マリア号だけど、長さ23mしかなくてミニチュアに見える。

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 これが、2010年に南京で復元された宝船。復元された宝船は全長71.1メートル、排水量1600トン、上から順に第二甲板、主甲板、舳と船尾の楼の甲板、操縦室甲板、操縦室天上板と合計5層からなり、マスト6本に帆6枚、メインマストは高さ38メートル。写っている人間と比較すれば、どんなに大きいか分かるよね。


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 第1回から第3回までの航海は、いずれもカリカットを目的地としており、インド西岸以西にゆくことはなかった。第4回(1413~15年)の航海では、マラッカ海峡を通って本隊はインド西岸からペルシア湾岸のホルムズに至り、別働隊はアフリカ東岸のマリンディにまで至り、アラビア半島のアデンなどを通って中国に帰った。

その84年後にマリンディにやって来たのがヴァスコ=ダ=ガマだ。彼は喜望峰を迂回してやっとの思いでマリンディに至り、ここでアラブ人の水先案内人を雇ってインドのカリカットに到達する。この時乗っていた船が100トンほど、170人の乗組員で出発したが、航海を終えてリスボンに帰ってきた時は44人だった。乗組員の多くがビタミンCの欠乏が原因の壊血病に倒れた。ところが、鄭和の艦隊で壊血病で死んだ者は一人もいない。船上でモヤシを栽培してビタミンを補っていたからだ。

 そんなに優れた航海技術を持っていたのなら、マリンディから喜望峰を迂回してヨーロッパにゆくことも可能だったはずだ。でも、鄭和の艦隊はヨーロッパに行ってはいない。なぜ?。ヴァスコ=ダ=ガマは香辛料を手に入れたくて、未熟な航海術で必死こいてインドを目指した。でも、鄭和はヨーロッパに興味も関心もなかったからだ。

 イギリスの作家ギャヴィン・メンジーズは2002年に刊行した『1421:中国が新大陸を発見した年』で、鄭和艦隊がコロンブスよりも以前にアメリカ大陸に到達し、マゼランよりも以前に世界周航を成し遂げたと主張した。この書籍は世界各国でベストセラーになったが、残念ながら歴史学者からは偽史とみなされている。


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 また、第5回航海の時は、ホルムズからライオンや豹、ブラワから駝鳥【だちょう】、モガディシオから縞馬【しまうま】などの珍しい動物を連れ帰っている。特に永楽帝を喜ばせたのはアデンから贈られたキリンだった。この動物は日本でもキリンと呼んでるけど、英語名は古代アラビアの呼称で「速く走るもの」を意味する言葉に由来するとされるジラフで、世界的にはこの名で呼んでいる。これをキリンと呼んでいるのは日本と韓国・朝鮮だけだ。


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 これが、中国で言う本来のキリン、漢字で麒麟だ。そう、皆さんご存じのキリンビールのロゴマークだ。麒麟は王が仁のある政治を行う時に現れる、伝説上の神聖な生き物。鄭和が永楽帝に献上する際に、ジラフを麒麟として紹介した。現地のソマリ語で「首の長い草食動物」を意味する「ゲリ」が、伝説上の動物「麒麟」の音に似ていたことから、これが本物の麒麟だとして珍重された。それが日本や朝鮮半島にも伝わったわけだが、現在の中国では「長頸鹿」と呼んでいる。

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 鄭和の航海は、中国のプレゼンスを南シナ海・インド洋の各地域に示し、明への朝貢を促すことで明の国威を発揚するのが目的だった。朝貢貿易は明にとって経済的負担は大きいのだが、60にも及ぶ国々から朝貢使節がやって来れば、国民の目から見れば永楽帝は素晴らしい皇帝だという評価になる。前回書いた通り、永楽帝には簒奪者の負い目があり、それが南海遠征に繋がったと僕は思うけど、どうだろうか。

 靖難の変の際に南京から脱出した建文帝が南海に逃げたという噂があり、建文帝に生きていてもらっちゃ困る永楽帝が、その捜索・殺害を命じたんだという説がある。まあ、話としては面白いけど、たった一人の人間を捜索するのに27,800人は多すぎるよね。

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【 2019/01/11 17:29 】

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世界史のミラクルワールドー簒奪者の負い目・永楽帝

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朱棣(永楽帝)

 洪武帝の子供たちのうち、最も有能で武勇に優れていると評価されていたのは、第4子の燕王朱棣【しゅてい】である。元の大都時代の雰囲気を残す当時の北平(北京)は、モンゴル人、女真人、西域の人々の雑居する国際都市であった。21歳で北平に赴いた彼は、そこで一流の武将たちに鍛えられながら、対モンゴルの軍事演習に日を過ごした。燕王は兄の晋王と協力して数回にわたりモンゴルと交戦して勝利を収め、父の洪武帝をして「朕に北顧の憂いなし」と言わしめた。

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建文帝

 一方、皇太子の長男・朱標【しゅひょう】は学者肌の温厚な人物であったが、1392年、洪武帝の生前に38歳で亡くなった。その後継者に誰を立てるべきか、その選定には5カ月ほど時間がかかった。というのも、朱標の子供たちのうちで最年長の允炆【いんぶん】は若年で神経質な性格、それに対し燕王の武勇とリーダーシップは衆目の認めるところであったからである。洪武帝自身、燕王を後継者にと考えたこともあったが、臣下の反対を受けて、結局允炆が後継者とされた。1398年、皇帝の継嗣問題が起こることを恐れながら洪武帝は死去し、允炆は16歳で帝位に就いた。これが建文帝である。建文帝は性格的にも、政治や軍事の過酷な指導は無理と考えられていたが、長子継承の原則を守ろうとする黃子澄【こうしちょう】や斉泰【せいたい】など側近や方孝孺【ほうこうじゅ】などの儒学者がその政治を支えた。

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 建文帝の直面した最大の難題は、兵権を握って各地に分封されている叔父たちの処遇であった。特に北平の燕王が政権に野心のあることは早くから取り沙汰されており、もし放置しておくならば、南京の政権にとって脅威となることが予想された。しかし、直接当たることはで出来なかったので、同じような諸王たちに対し、さまざまな口実を設けて諸王の封地の取りつぶし(削藩)にかかった。南京の建文帝と北平の燕王との緊張は高まってくる。

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 1399年、燕王の謀反準備を理由として逮捕命令が出されると、燕王は「君側の奸を除き、帝室の難を靖んじる」というスローガンのもとに挙兵した。自らを「靖難の師」と呼んだので、この戦いは「靖難の役」と言われた。燕王は直ちに北平を固め、軍隊を南下させたが、南京の建文帝政府も北伐の軍を起こし、両者の戦いは一進一退を重ねながら3年におよんだ。燕王が軍事的に優勢でありながら、苦戦したのは挙兵に「大義名分」が無く、皇帝に対する謀反人と見られていたからであった。1401年6月、燕王は南京を陥落させ、建文帝は宮殿に火を放って自殺したとされるが、その遺体は見つかっていない。

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方孝儒

 それまで燕王を簒奪者として非難していた廷臣の多くはきびすを返して燕王に即位を要請する有様だった。燕王はその要望に応えるというかたちで永楽帝として即位すると、前皇帝に仕えた廷臣にそのまま新帝にも仕えることを許し、多くの廷臣はそれに応じた。しかし、燕王から「君側の奸」と名指しされていた黃子澄と斉泰などは建文帝に殉じて自殺した。建文帝の宮廷に仕え、高名な儒学者であった方孝儒に対しては、永楽帝は強く帰順を勧め、即位の詔勅を書くよう要請した。方孝孺はようやく筆を執って数文字を書いたと思うとたちまち筆をなげうち「詔を書くことはできません」と大声を張り上げて泣き出してしまった。紙を拾い上げてみるとそこには「燕賊、位を簒【うば】う」と書いてあった。永楽帝は怒り心頭に発し、その一族、門人のすべて873人を彼の面前で処刑し、最後に方孝孺を南京城の聚宝門外に引き出して死刑を執行した。これは、簒奪者の上に残忍な暴君という汚名を上塗りする結果となった。

 こうして即位した永楽帝は、建文帝の存在を歴史上から抹殺し、自らを第2代皇帝とした。建文帝が第2代皇帝として認められ、名誉が回復されるのは、清の乾隆帝の時代、1736年のことであった。

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 1403年、北平への遷都を決定したが、実際に遷ったのは1421年のことであり、この時これを改名して北京順天府とするとともに、1406から改築を進めてきた紫禁城を完成させ、ここに移った。遷都後わずか4カ月後に、完成したばかりの新宮殿に落雷があり3つの建物が火災で焼失した。これは天の警告と受け取られ、南京へもどるか北京にとどまるかをめぐって官僚の間で激しい論争が行われた。

 永楽帝は建文帝を倒さないと自分が殺されていたんで、仕方ないと言えば仕方ないんだけど、自分が簒奪者であることを過剰に意識していた。これには孟子の易姓革命の理論が影響している。「彼は皇位を横から奪ったが、それは天の命じるところであった。だから、彼は立派な政治をした」。簒奪者たちは後世の人にそのように評価されたいと考え、意識して立派な政治を行う。唐の李世民もそうだったよね。

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 永楽帝はモンゴルやベトナムに遠征して領土を広げ、大帝国を作り上げた。彼は中国史上最高の軍人帝王と評価されている。漢人の皇帝としては中国史上でただ1人、自ら大軍を率いて5度もモンゴリアを親征し、第5回目の遠征の帰途、1424年に内モンゴルの幕営で65歳の生涯を閉じている。また、明の国威を誇示するために鄭和【ていわ】に南海遠征を行わせているけど、これは次回お話するね。

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 写真は永楽帝が1420年に建設した天壇【てんだん】。手前が圜丘壇【えんきゅうだん】で奥の建物が祈年殿【きねんでん】。圜丘壇は天円地方の宇宙観に則り円形で、欄干や階段などが陰陽思想でいう最大の陽数である9や、その倍数で構成されている。ここは皇帝が天を祭るための儀式を執り行う場所で、毎年冬至に豊作を祈る儀式を行い、雨が少ない年は雨乞いを行った。

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祈年殿内部

 「年」の本来の意味は「みのり」のことで、穀物の収穫サイクルを1年と考えたことで、時を意味するようになった。だから、「収穫を祈る」ということで、祈年殿では皇帝が正月に五穀豊穣の祈りを捧げた。祈年殿は直径32m、高さ38m、25本の柱に支えられる祭壇で現存する中国最大の祭壇。内部の金の装飾がある4本の柱は、四季をあらわしており、その外側にある12本の赤い柱は、12か月=1年を表している。つまり、この空間は、天そのものを表しているわけだ。ここに入れるのは皇帝ただ一人。永楽帝は家臣たちが居並ぶ中、一人で入って天に祈りを捧げた。自分は簒奪者ではない、天によって認められた正統な天子であることを、知らしめるためのパフォーマンスだった。

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 永楽帝は文化的にも大編纂事業を行わせ、『永楽大典』『四書大全』『五経大全』『性理大全』などを編纂させ、文淵閣に保存させた。『永楽大典』は中国最大級の類書(百科事典)で、22,877巻・目録60巻・11,095冊からなる。ただ、これは学問を重視したというよりも、儒学者が建文帝について議論するのを事前に封じる意図があったと言われている。

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 永楽帝は自らの簒奪を隠蔽するために恐怖政治を実施している。そのために、かつて建文帝の側近である宦官【かんがん】たちを内通させて宮廷内の事情を探り出した経緯から、東廠【とうしょう】という宦官による秘密警察組織を作った。さっき書いたように、南京が陥落した時そこには建文帝の遺体は無かったよね。脱出してどこかに逃れているのではないか? そんな不安に駆られた永楽帝は東廠を使って国民の動向を監視しするようになった。ただ、あまりにも宦官を重用したことが、あとからボディブローのように効いてくる。

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2019/01/08 08:03 】

近世中国史  | コメント(0)  | トラックバック(0)  |
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