なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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良家の息子たちよ、例えば実に誰かある医学に熟達した人が、学識を具え、明晰 で、賢く、すべての病を治すことに極めて巧みであるとしよう。そして、その人には、10人、あるいは20人、あるいは30人、あるいは40人、あるいは50人、あるいは100人の多くの息子たちがいるとしよう。その医者は、他の国に出かけていて留守であった。
そして、その医者のそれらのすべての息子たちは、毒物による苦しみを受けるか、または毒薬による苦しみを受けているとしよう。その毒物、あるいは毒薬によって、それらの息子たちは、苦痛を感じて悶 え苦しんでいる。その息子たちは、その毒物、あるいは毒薬によって苦しみながら、大地に倒れている。その時、その息子たちの父であるその医者が、他の国から帰って来た。
この医者のその息子たちは、その毒物、あるいは毒薬によって苦痛を感じて苦しんでいる。ある者たちは、倒錯 した意識状態であり、ある者たちは、正常な意識状態である。それらの息子たちのすべては、まさにその苦しみに苛 まれていたが、その父を見て、喜び、その父に次のように言った。
『ああ、ありがたいことです。お父さん、あなたは、平穏無事にお帰りになられました。そこで、私たち自身の苦しみであるこの毒物、あるいは毒薬から私たちを解放してください。お父さん、あなたは、私たちに生命を与えてください』と。
その時、実にその医者は、それらの息子たちが苦しみに苛まれ、苦痛に圧倒され、苦しみながら、大地をのたうち回っているのを見て、そこで色も、香りも、味も具えた卓越した薬物を集めて、石の上で挽 いて粉にし、それらの息子たちが服用するように与えて、次のように言った。
『息子たちよ、あなたたちは、色も、香りも、味も具えたこの卓越した薬を飲むがよい。息子たちよ、あなたたちが、この卓越した薬を飲めば、直ちにこの毒物、あるいは毒薬から解放されて、快適になり、また健康になるであろう』
そこにおいて、倒錯した意識状態でないその医者の息子たちは、薬物の色を見て、また香りをかぎ、また味を味わって、直ちに口にした。そして、口にしながら、それらの息子たちはその苦痛からことごとく解放された。
さらにまた、倒錯した状態であるその息子たちは、その父を歓迎して、父に次のように言った。『ああ、ありがたいことです。お父さん、私たちの医者であるあなたは、平穏無事にお帰りになられました』と。
ところが、その倒錯した意識状態の息子たちは、このような言葉を言ったとしても、与えられたその薬を飲もうとしなかった。それは、どんな理由によってか?それは、その息子たちの意識が倒錯していて、与えられたその薬の色も気に入らず、また香りも、味も気に入らなかったからだ。その時、実に医者であるその人は、次のように考えるであろう。
『この私の息子たちは、この毒物、あるいは毒薬によって意識が倒錯してしまっている。その息子たちは、実にこの卓越した薬を飲もうとしない。けれども、私を歓迎している。そういうわけで、今、私はこの息子たちに巧みなる方便を用いて、この薬を飲ませるとしよう』
『この私の息子たちは、この毒物、あるいは毒薬によって意識が倒錯してしまっている。その息子たちは、実にこの卓越した薬を飲もうとしない。けれども、私を歓迎している。そういうわけで、今、私はこの息子たちに巧みなる方便を用いて、この薬を飲ませるとしよう』
その時、実にその医者は、それらの息子たちに巧みなる方便によって、その薬を飲ませようとして、次のように言うであろう。
『良家の息子たちよ、私は萎 れて老衰した老人である。そして、私にとって死の時が差し迫っている。しかしながら、息子たちよ、あなたたちは悲しんではならない。また、落胆に陥ってはならない。あなたたちのために、この卓越した薬を私は与えた。もしも、あなたたちが望むならば、その薬を飲むがよい』
その医者は、その息子たちを、このように巧みなる方便によって教え導いて、ある国へと出発した。そこに行ってから、その衰弱した息子たちに自分が死んだことを伝えた。その時、それらの息子たちは大変に悲しみ、大いに泣いた。
『良家の息子たちよ、私は萎 れて老衰した老人である。そして、私にとって死の時が差し迫っている。しかしながら、息子たちよ、あなたたちは悲しんではならない。また、落胆に陥ってはならない。あなたたちのために、この卓越した薬を私は与えた。もしも、あなたたちが望むならば、その薬を飲むがよい』
その医者は、その息子たちを、このように巧みなる方便によって教え導いて、ある国へと出発した。そこに行ってから、その衰弱した息子たちに自分が死んだことを伝えた。その時、それらの息子たちは大変に悲しみ、大いに泣いた。
『実に私たちの父であり、保護者であり、私たちに同情してくださるただ一人のその人さえも亡くなってしまった。今、私たちは、寄る辺なきものとなってしまった』と。
さて、それらの薄子たちは寄る辺なきものとなった自分を見つめながら、また保護者なき自分を見つめながら、常に悲しみにくれていた。そして、その息子たちは、常に悲しみにくれていることで、その倒錯した意識状態が正常な意識状態になった。そして、その息子たちは、その薬がまさに色も香りも味も具えているということを認めた。こうして、その時、その薬を口にした、そして、その息子たちは、薬を口にしながら、その苦悩から解放されたとしよう。
その時、実にその医者は、それらの息子たちが苦悩から解放されたことを知って、再び自分の姿を現わした。良家の息子たちよ、このことをあなたたちは何と考えるか。その医者が、その巧みなる方便をなして後に、虚偽を〔告げたことを〕理由として、誰かある人が、その医者を責めることがないであろうか?」
それらの菩薩たちが言った。
「世尊よ、それはありません。人格を完成された人よ、それはありません」
世尊が言われた。
「良家の息子たちよ、まさにこのように私もまた、量ることも、数えることもできない幾100・1000・コーティ・ナユタ劫ものはるかな過去において、この上ない正しく完全な覚りを覚ったのだ。けれども、良家の息子たちよ、私は時々、衆生の教化のために、このような諸々の巧みなる方便を示すのである。そして、この点において、私には虚言は決して存在しないのである」(つづく)
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第12章 果敢なる努力(勧持品 第13)

訶波闍波提 (手塚治虫『ブッダ』)
その時、200万人の菩薩を侍者とする薬王 (薬の王)という偉大な人である菩薩と、大楽説 (大いなる弁才を持つもの)という偉大な人である菩薩は、世尊の面前で次の言葉を申し上げた。
「世尊は、この滅後の弘教について心配しないでください。世尊よ、ブッダが完全なる滅度に入られた後に、私たちは、この法門を衆生に説き示し、説き明かすでありましょう。
世尊よ、その〔恐るべき後の〕時代において衆生は悪意があり、善い果報をもたらす立派な行ない(善根)が乏しく、傲慢で、利得を得ることと、称賛されることに執着していて、善くない果報をもたらす行為(不善根)をなし、制御し難く、信順の志を捨て去っていて、信順の意向が強くないでありましょう。けれども、世尊よ、私たちは忍耐の力を現わして、その時代においてこの経を解説し、受持し、説き示し、書写し、尊重し、恭敬し、讃嘆し、供養するでありましょう。そして、世尊よ、私たちは、私たちの身体と生命を投げうって、この経を説き明かすでありましょう。だから、世尊は、滅後の弘教について心配しないでください」と。
すると、その集会の中のまだ学ぶべきことのある有学と、もはや学ぶべきぶことのない無学の男性出家者たちのうち、500人の男性出家者たちが、世尊に次のように申し上げた。
「世尊よ、私たちもまたこの法門を説き明かすことに耐えることにしましょう。ただし、世尊よ、このサハー(娑婆)世界以外の世界においてであります。
すると、世尊によってこの上ない正しく完全な覚りに到るであろうという予言をされた世尊の弟子たちで、まだ学ぶべきことのあるものと、もはや学ぶべきことのないものからなるそれらの8000人もの多くの男性出家者たちはすべて、世尊のおられるところに向かって合掌して敬礼し、世尊に次のように申し上げた。
「世尊は、滅後の弘教について心配しないでください。ブッダが完全なる滅度に入られた後で、〔恐るべき〕後の時代、後の状況において、私たちもまた、この法門を説き明かすでありましょう。ただし、このサハー世界以外の世界においてであります。それは、どんな理由によってでしょうか?世尊よ、このサハー世界にいる衆生は、傲慢で、善い果報をもたらす立派な行ないが乏しく、常に意地が悪く、悪意があり、生まれつき心が歪んでいるからです」
「世尊は、この滅後の弘教について心配しないでください。世尊よ、ブッダが完全なる滅度に入られた後に、私たちは、この法門を衆生に説き示し、説き明かすでありましょう。
世尊よ、その〔恐るべき後の〕時代において衆生は悪意があり、善い果報をもたらす立派な行ない(善根)が乏しく、傲慢で、利得を得ることと、称賛されることに執着していて、善くない果報をもたらす行為(不善根)をなし、制御し難く、信順の志を捨て去っていて、信順の意向が強くないでありましょう。けれども、世尊よ、私たちは忍耐の力を現わして、その時代においてこの経を解説し、受持し、説き示し、書写し、尊重し、恭敬し、讃嘆し、供養するでありましょう。そして、世尊よ、私たちは、私たちの身体と生命を投げうって、この経を説き明かすでありましょう。だから、世尊は、滅後の弘教について心配しないでください」と。
すると、その集会の中のまだ学ぶべきことのある有学と、もはや学ぶべきぶことのない無学の男性出家者たちのうち、500人の男性出家者たちが、世尊に次のように申し上げた。
「世尊よ、私たちもまたこの法門を説き明かすことに耐えることにしましょう。ただし、世尊よ、このサハー(娑婆)世界以外の世界においてであります。
すると、世尊によってこの上ない正しく完全な覚りに到るであろうという予言をされた世尊の弟子たちで、まだ学ぶべきことのあるものと、もはや学ぶべきことのないものからなるそれらの8000人もの多くの男性出家者たちはすべて、世尊のおられるところに向かって合掌して敬礼し、世尊に次のように申し上げた。
「世尊は、滅後の弘教について心配しないでください。ブッダが完全なる滅度に入られた後で、〔恐るべき〕後の時代、後の状況において、私たちもまた、この法門を説き明かすでありましょう。ただし、このサハー世界以外の世界においてであります。それは、どんな理由によってでしょうか?世尊よ、このサハー世界にいる衆生は、傲慢で、善い果報をもたらす立派な行ないが乏しく、常に意地が悪く、悪意があり、生まれつき心が歪んでいるからです」
するとその時、世尊の叔母である摩訶波闍波提 憍曇弥 (マハー・プラジャーパティー・ゴータミー)は、まだ学ぶべきことのあるものと、もはや学ぶべきことのない女性出家者たちである6000人の女性出家者たちとともに席から立ち上がって、世尊のおられるところに向かって合掌して敬礼し、世尊を見つめながら立っていた。
そこで世尊は、その時、摩訶波闍波提比丘尼に語りかけられた。
「憍曇弥 (ゴータミー)よ、なぜ、あなたは憂いを抱いて立ってブッダの私を見つめているのか?」
「私は、名前を呼ばれて、この上ない正しく完全な覚りに到るであろうという予言がなされませんでした」
「しかしながら憍曇弥よ、すべての聴衆に対する未来の成仏の予言によって、あなたは、既に予言がなされているのだ。従って、憍曇弥よ、あなたは、この私の外に380万・コーティ・ナユタもの数え切れないほど多くのブッダたちのそばにおいて、〔称讃、尊重、尊敬、供養、恭敬、尊崇をなして後に〕説法者としての菩薩となるであろう。
まだ学ぶべきことのあるものと、もはや学ぶべきことのない女性出家者たちのうちの、これらの6000人の女性出家者たちもまた、まさにあなたとともに、それらの正しく完全に覚った尊敬されるべきブッダたちのそばにおいて、説法者としての菩薩となるであろう。
それからさらに後に、あなたは世間において、菩薩としての修行を成し遂げて、一切衆生喜見(あらゆる衆生が喜んで見るもの)という名前のブッダとなるであろう。
また、憍曇弥よ、その一切衆生喜見という正しく完全に覚った尊敬されるべきブッダは、それらの6000人の菩薩たちに対して、次々に連続して、この上ない正しく完全な覚りに到るであろうという予言をなすであろう。(つづく)
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ノルマンディー上陸作戦
1944年6月6日午前0時15分、米英加の3国連合軍によるノルマンディー上陸作戦が始まった。動員された将兵は17万6000、艦艇5300隻、航空機1万4000機の、文字通り「史上最大の作戦」であった。アイゼンハウアー将軍を最高司令官とするこの作戦は「オーヴァーロード作戦」と名付けられていたが、ソ連側が渇望して止まなかった「第二戦線」がようやく開設された。
ドイツ側ではルントシュテット元帥を総司令官とする西部方面軍が迎え撃った。ドイツ側は早くから連合軍がフランスの北部海岸に上陸する可能性を予想して、大西洋岸に1万5000ものトーチカを構築して防衛にあたっていた。問題は連合軍の上陸地点の特定にあったが、ルントシュテットは、イギリスからの最短距離にあるカレーを予想して防備を固めていた。
ロンメル
他方、アフリカでの敗北後、1943年11月から海岸線防衛強化総監に任命されたロンメルはノルマンディーを上陸地点として予想し、水際で連合軍を撃退する作戦を提言したが、ルントシュテットによって却下されてしまった。しかも、ロンメルは海が荒れることの多い6月上旬の上陸作戦はないと想定して、ちょうど休暇をとり、ドイツに戻っている最中であった。
それゆえ、6月6日未明の攻撃はドイツ軍にとって不意打ちとなった。しかも、最初の攻撃は深夜を利用したドイツ軍の背後に降り立った空挺部隊によって始められたから、ドイツ軍は浮足立った。そこへ制空権を握った連合国側の大量の爆撃機がドイツ軍に爆弾の嵐を見舞ったうえに、水平線を埋めんばかりの軍艦からは艦砲射撃がいっせいに火を噴いた。もはや、ドイツ軍には上陸を阻止する力はなく、連合国側の圧勝に終わった。
シュタウフェンベルク
大規模な連合軍にノルマンディー上陸を許したという知らせはドイツ軍幹部に衝撃を与え、一部にクーデタによりヒトラーを除去し、ベック退役上級大将を元首とする政権を樹立する計画が秘密裡に練られ始めた。そして、7月20日、北アフリカ戦線の戦いで左眼と右腕を失って、国内予備軍司令部幕僚長となっていたシュタウフェンベルク大佐がヒトラー爆殺計画に着手した。
時限爆弾をカバンにしのばせ、総統本営でヒトラーに面会後、ヒトラーの坐るテーブルの下にカバンを残して退出した。爆弾は予定通り爆発し、会議室からは木材と紙がふき上がった。外で待機していたシュタウフェンベルクは当然ヒトラーは死亡したと確信して、現場を脱出した。
爆発後の会議室
しかし、ヒトラーはズボンがズタズタになりながらも、もたれかかっていた厚い机に守られた形で、軽い擦過傷程度で一命を取り留めた。彼はむしろ、ズタズタになったズボンをトロフィーのように見せびらかしながら、首謀者の徹底した探索を命じた。シュタウフェンベルクはすぐに逮捕、処刑され、ベックは自殺した。
その後も逮捕者は増え、7000人にも達し、ロンメル将軍も自殺を強制された。こうして軍隊内の反ヒトラー勢力は一掃され、ナチスの独裁体制の解体は外からの軍事的な力による以外期待できなくなった。
シャンゼリゼを行進するド=ゴール
ノルマンディーに上陸した連合軍の接近に呼応して、フランス各地でレジスタンスが蜂起し、8月25日にはアメリカ第三軍によってパリが解放され、翌日、ド=ゴール将軍がシャンゼリゼを行進し、パリの解放を宣言した。
西からは米英軍、東からはソ連軍がドイツをめざして進撃を開始し、翌1945年2月9日には米英軍がライン川に到達、同15日にはソ連軍がオーデル・ナイセ両川に到達、戦闘はドイツ国内に及んできた。折から2月4日から11日にかけてクリミア半島のヤルタでは米英ソ3国の首脳が会談し、ドイツの分割占領や非軍事化、非ナチ化、戦犯の処罰などで合意した。

フリードリヒ大王
しかし、ヒトラーはあくまで降伏を拒否し、3月19日にはあらゆる軍事施設などの破壊を命じる焦土作戦命令を下した。この命令を下すにあたって、ヒトラーはシュペアに対して「戦争に敗北すれば、国民もなくなってしまう。ドイツ国民がさらに生きるとしても最も低級な生活に必要な基盤を考慮する必要などない。むしろ自らこれらを破壊したほうがよいのだ」と語った。
また、ゲッペルスは、かつてロシアとの戦争で苦境に立っていたフリードリヒ大王がロシアの女帝の死に助けられて形勢逆転に成功した例を引いてヒトラーを慰めていたが、折しも、4月12日にローズヴェルト大統領が死去したとの知らせを聞いたゲッペルスは「有頂天になって」ヒトラーに知らせたという。しかし、奇跡は起きなかった。
ヒトラーとエヴァ=ブラウン
皮肉なことに、ヒトラーの56歳の誕生日である4月20日にはソ連軍によるベルリン砲撃がすでに始まっており、25日には完全に包囲された。逃れるすべの無くなったヒトラーは、29日未明、自殺を決意し、長年連れ添ったエヴァ=ブラウンと結婚式を挙げたのち、後継の大統領および国防軍総司令官にデーニッツ提督を指名した。
ちょうどその2日前、ムッソリーニがパルチザンに射殺され、遺体がミラノの広場に逆さ吊りされたとの知らせを聞き衝撃を受けたヒトラーは、遺体の焼却を命じて、ブラウンとともに首相官邸の地下壕で自殺した。
ヒトラーが自殺したソファに坐るソ連の兵士
銃声を聞き、現場を見たリンゲ中佐の証言によると、地下壕にはすぐに青酸カリの特徴の「焦げたアーモンド臭」が漂っていおり、ブラウンの顔からは青酸カリの服毒自殺が見て取れたそうだ。ブラウンはヒトラーの左手にあり膝を抱えた状態で倒れ、ヒトラーはぐったりと座っており右のこめかみから血が滴っていた。
側近たちはヒトラーの遺言により二人の遺体を中庭まで持っていきガソリンをかけて焼却した。遺体は2時間燃やされ続けたが屋外のために完全に焼却できず、ソ連軍の砲撃のために中断したと生き残った人が証言している。
ヒトラーとブラウンの死体は、埋めたり掘り出しを繰り返し、数回場所が移した後、ベルリン西方の森に墓標なしで埋められたが、再度掘り返され8か月後にマクデブルクの赤軍基地に秘密裏に埋葬されたそうである。
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東インド会社のインド人傭兵をシパーヒーと呼び、約28万人が5万人弱のイギリス人将兵に率いられていた。シパーヒーにはヒンドゥー教徒もイスラーム教徒も含まれており、ヒンドゥー教徒のシパーヒーには上級カーストの者が少なくなかった。
1857年には、彼らが宗教上嫌う獣脂が弾薬包に塗られているという噂をきっかけに、待遇などの不満から反乱をおこし、デリーを占領した。反乱は北インド全域に波及し、広く民衆を巻き込む反英民族闘争へと発展した。
この反乱をイギリスの支配者は「シパーヒーの反乱」(日本では「セポイの反乱」)と呼んでいたが、それはこの出来事をことさらにシパーヒーが起こした偶発的な出来事であったと強調し、民族反乱、独立戦争であったことを隠蔽する意図があった。しかし、反乱を起こしたのはシパーヒーだけではなく、さらに広範な領主層から民衆までを含む民族的反英闘争であったという主張がなされるようになり、現在では「インド独立戦争」や「1857年インド大反乱」など定義されるようになった。
1857年には、彼らが宗教上嫌う獣脂が弾薬包に塗られているという噂をきっかけに、待遇などの不満から反乱をおこし、デリーを占領した。反乱は北インド全域に波及し、広く民衆を巻き込む反英民族闘争へと発展した。
この反乱をイギリスの支配者は「シパーヒーの反乱」(日本では「セポイの反乱」)と呼んでいたが、それはこの出来事をことさらにシパーヒーが起こした偶発的な出来事であったと強調し、民族反乱、独立戦争であったことを隠蔽する意図があった。しかし、反乱を起こしたのはシパーヒーだけではなく、さらに広範な領主層から民衆までを含む民族的反英闘争であったという主張がなされるようになり、現在では「インド独立戦争」や「1857年インド大反乱」など定義されるようになった。
メーラトで起きたシパーヒーの反乱
1857年5月10日、デリーの北東約60キロにあるメーラトの東インド会社軍の基地で、シパーヒーが反乱をおこした。
反乱の原因としては多くの事項が列挙されている。直接契機としてあげられているのは、彼らに新たに支給されることになっていた新式のエンフィールド銃の薬包に塗った油の問題である。
この薬包には湿気を防ぐために薬包の紙に牛脂・豚脂が塗られており、その端を歯で噛み切ってから装填することになっていた。それはヒンドゥー教徒にとっては聖なる動物の牛脂を口に触れることは許されないことであり、イスラーム教徒にとっては汚らわしい豚の脂が口に触れることになり、我慢できないことであった。シパーヒーの中にはヒンドゥー教徒もムスリムもいたので、彼らにとってそれぞれの尊厳を傷つけられることに強い反発が生じたのであった。
そのほか当時のミャンマーで戦争を行っていたイギリスはシパーヒーをこれに派兵しようとしたが、ヒンドゥー教徒にあっては海を渡って海外に行くことは自己の所属カーストから離れなければならないという重大問題であったことも一因としてあげられている。
この反乱が始まる少し前の1857年2月の早朝、デリー県インドラプートの村番が1枚のチャパティ(未精製の小麦粉で焼いたパン)を持ってパハルガンジの警察署長を訪ねて来た。そうしてこう言って去って行った。
「同じようなチャパティを5枚焼いて、近くの5村に配れ。その際、今私が言ったことと同じ口上を述べよ」
署長は不思議に思っていたところ、同じ日に「5枚のチャパティ配布」がデリー県の各地で発生していることが発覚した。
チャパティの配布リレーはその後、恐ろしい勢いでインド各地に伝達されたが、誰が、いったい何にために行っているか一切不明。
イギリス植民地当局は気味悪がり、チャパティの配布を禁止した。
「同じようなチャパティを5枚焼いて、近くの5村に配れ。その際、今私が言ったことと同じ口上を述べよ」
署長は不思議に思っていたところ、同じ日に「5枚のチャパティ配布」がデリー県の各地で発生していることが発覚した。
チャパティの配布リレーはその後、恐ろしい勢いでインド各地に伝達されたが、誰が、いったい何にために行っているか一切不明。
イギリス植民地当局は気味悪がり、チャパティの配布を禁止した。
インド大反乱
するとまもなく 、インド大反乱が勃発。
反乱はチャパティの配布が行われた道筋をたどるように発生していった。「チャパティを配る」行為は、イギリス人には分からないがインド人には分かる暗黙のメッセージを含んでいたのである。
またそのころ、街や村で預言者が異口同音に「1757年、プラッシーの戦いでイギリスはインドに覇権を確立した。あれからちょうど百年、百年目の今こそイギリスは滅び、イギリス人は皆、海に追いやられて死ぬ!」と予言した。
反乱はチャパティの配布が行われた道筋をたどるように発生していった。「チャパティを配る」行為は、イギリス人には分からないがインド人には分かる暗黙のメッセージを含んでいたのである。
またそのころ、街や村で預言者が異口同音に「1757年、プラッシーの戦いでイギリスはインドに覇権を確立した。あれからちょうど百年、百年目の今こそイギリスは滅び、イギリス人は皆、海に追いやられて死ぬ!」と予言した。
シパーヒーの蜂起はインド全体の大反乱のきっかけとなり、各地で民衆が反乱に加わった。シパーヒーを中心とした反乱軍は、デリーに進軍、ムガル帝国の皇帝バハードゥル=シャー2世を擁立して、デリーに政権をうち立てた。
また反乱軍には、イギリスのとりつぶし政策に反発した藩王国も加わった。インド西部の小国の女王ラクシュミー=バーイーもその例であり、彼女は反乱軍の先頭に立って闘い、インドのジャンヌ=ダルクと言われた。こうして反乱は全インドに拡がり、各地に反乱政権が生まれた。
イギリスのインド総督カニングはボンベイ、マドラスの両管区から兵を召集、前年に反乱が終結していたイラン、太平天国の乱が下火になっていた中国から軍隊を移動させた。さらに、ネパールのグルカ兵(かつてグルカ戦争でイギリスと戦ったが鎮圧された)、パンジャーブのシク教徒(かつてシク戦争でイギリスと戦ったが、一方でイスラーム教徒と根深い対立関係にあった)を味方にし、近代的装備にものを言わせて反撃に移った。
反乱軍とイギリス東インド会社軍の戦闘は9月まで続いたが、東インド会社軍が態勢を整えたのに対し、反乱軍は横の連携もとれず、内部対立が生じ、またヒンドゥー教徒とイスラーム教徒との対立もあってまとまらず、デリーが陥落。
反乱は鎮圧され、皇帝バハードゥル=シャー2世は逃亡したが、捕らえられてミャンマーに流刑になった。これによって、ムガル帝国の滅亡は名実ともに滅亡した。また、デリーは陥落したが、各地の農民反乱はさらに1年以上にわたって続いたが、1859年1月に鎮圧される。
反乱軍の捕虜には、ほとんど裁判もなく死刑が宣告された。処刑の方法は、 反乱軍兵士を大砲の砲口に縛り付け、木製の砲弾を発射して身体を四散させるとか、マンゴーの木の下に荷車を置き、その上に何人かの罪人を立たせて枝から吊したロープに首を巻き、牛に車をひかせるとか、象を使って八つ裂きにするとかいろいろと‘趣向’がこらされた。
アラーハーバード近郊の街路に沿って、樹という樹に死体が吊され、‘絞首台に早変わりしなかった樹は一本もなかった’ほどであった。それからヒンドゥー教徒の口に牛の血を、ムスリムの口に豚の血を流し込んで苦しめたり、……。また、反乱者を出したり、かくまったりした村や町には、四方から火が放たれ、火をくぐって逃げ出して来るものを、老若男女を問わず、待ちかまえていて狙い撃ちするといった手のこんだ演出までしでかした。
これらの蛮行は、イギリスの軍人自身が‘誇らしげに’伝えた証言にもとづく事実である。
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アラーハーバード近郊の街路に沿って、樹という樹に死体が吊され、‘絞首台に早変わりしなかった樹は一本もなかった’ほどであった。それからヒンドゥー教徒の口に牛の血を、ムスリムの口に豚の血を流し込んで苦しめたり、……。また、反乱者を出したり、かくまったりした村や町には、四方から火が放たれ、火をくぐって逃げ出して来るものを、老若男女を問わず、待ちかまえていて狙い撃ちするといった手のこんだ演出までしでかした。
これらの蛮行は、イギリスの軍人自身が‘誇らしげに’伝えた証言にもとづく事実である。
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ムハンマド=アリー
ムハンマド=アリーは1769年に当時オスマン帝国領だったマケドニアのカヴァラという港町に生まれた。奇しくもこの年はナポレオンが生まれた年でもあり「私はアレクサンドロスの国にナポレオンと同じ年に生まれた」と語ることを好んだという。
民族的な出自はアルバニア系ともトルコ系ともイラン系ともクルド系とも言われるが、アルバニア系とする見解が主流である。いずれにしても欧州出身ということになる。
ムハンマドの家は3代続いた下級軍人の家で、父親が不正規部隊(傭兵隊)の指揮官を務めながら、タバコ取引にも手を出していた。母親はカヴァラ市長官の親戚であった。幼い頃に父を失ったムハンマドは市長官のもとに預けられて成長し、18歳のとき市長官の親戚の女性と結婚して父の職を引き継いだとされるが、その前半生は、みずから語ることはなく、伝説に過ぎないようだ。
民族的な出自はアルバニア系ともトルコ系ともイラン系ともクルド系とも言われるが、アルバニア系とする見解が主流である。いずれにしても欧州出身ということになる。
ムハンマドの家は3代続いた下級軍人の家で、父親が不正規部隊(傭兵隊)の指揮官を務めながら、タバコ取引にも手を出していた。母親はカヴァラ市長官の親戚であった。幼い頃に父を失ったムハンマドは市長官のもとに預けられて成長し、18歳のとき市長官の親戚の女性と結婚して父の職を引き継いだとされるが、その前半生は、みずから語ることはなく、伝説に過ぎないようだ。
ムハンマド=アリーが頭角を現すのは、エジプトを占領したナポレオンの支配を終わらせるために、オスマン帝国が派遣したアルバニア人不正規部隊の副指揮官に任ぜられた時だった。ムハンマド=アリーは、1798年8月にナイル河口のアブキール湾停泊中のフランス艦隊をイギリスのネルソン提督が撃沈している最中に、アルバニア人部隊の一部を指揮していた。その数ヶ月後、ナポレオンはエジプトを去ることになる。
この混乱時に、彼はウラマー(イスラーム教の宗教指導者)を中心としたカイロ市民の人心を掌握したらしく、1805年にカイロ市民の支持を背景にエジプト総督(ワーリー)に就任し、パシャ(文武高官の称号)と呼ばれるようになった。
この混乱時に、彼はウラマー(イスラーム教の宗教指導者)を中心としたカイロ市民の人心を掌握したらしく、1805年にカイロ市民の支持を背景にエジプト総督(ワーリー)に就任し、パシャ(文武高官の称号)と呼ばれるようになった。
セリム3世
これは正式なものではなかったが、翌年にはオスマン帝国のスルタン・セリム3世からエジプト総督の地位を追認された。総督(太守とも訳す)は単なる地方官ではなく、大幅な権限が認められていたので、ムハンマド=アリーは実質的独立を勝ち取ったと言うことができる。
その地位の世襲が認められるのは1841年であるが、実質的にはエジプトのムハンマド=アリー朝は1805年に成立したといえる。
ムハンマド=アリーは、エジプトの実権を握ると、軍隊や国家の機構、経済などで近代化をはかる必要を感じたが、その際に障害となるのが、マムルークの勢力であった。
マムルークは9世紀にさかのぼる、イスラーム世界における、主としてトルコ系からなる奴隷兵士のことであるが、彼らの勢力は13世紀のマムルーク朝以来、政治的な権力を握るほどになっていた。
マムルーク朝を滅ぼしたオスマン帝国はエジプトを統治する際にマムルークをそのまま存在させ、マムルーク=ベイと言われる有力者が実際のエジプトを統治し、そのもとでマムルークはさまざまな特権を有し、社会を押さえていた。
マムルークは9世紀にさかのぼる、イスラーム世界における、主としてトルコ系からなる奴隷兵士のことであるが、彼らの勢力は13世紀のマムルーク朝以来、政治的な権力を握るほどになっていた。
マムルーク朝を滅ぼしたオスマン帝国はエジプトを統治する際にマムルークをそのまま存在させ、マムルーク=ベイと言われる有力者が実際のエジプトを統治し、そのもとでマムルークはさまざまな特権を有し、社会を押さえていた。
エジプト近代化のために、そのマムルークを一挙に叩こうとしたムハンマド=アリーは、奇計を用いた。1811年、マムルークの一党500名を、アラビア半島のワッハーブ派討伐軍派遣の壮行会と銘打ってカルファと称される居城に招いた。その帰途に城下に出る隘路で伏兵に狙撃させ一党を掃討した。これは、今のムハンマド=アリー=モスクのある城塞で、かつての十字軍時代の英雄サラディンの城址での強襲であった。これが、「シタデルの惨劇」や「城塞の謀計」と言われるマムルークの殲滅である。
さらに、近代的な陸海軍の創設、マニュファクチュア・工場・造船所の建設、灌漑貯水池や道路の新設、綿花栽培の奨励、ヨーロッパ式の学校の設立、軍事技術研究のための留学生の派遣という意欲的な政策を推進した。
さらに、近代的な陸海軍の創設、マニュファクチュア・工場・造船所の建設、灌漑貯水池や道路の新設、綿花栽培の奨励、ヨーロッパ式の学校の設立、軍事技術研究のための留学生の派遣という意欲的な政策を推進した。
イブラーヒーム
19世紀初頭、オスマン帝国の領土内ではアラビア半島のワッハーブ派の蜂起と、バルカン半島におけるギリシア人・セルビア人の民族独立運動が始まっており、ムハンマド=アリーは当初はオスマン帝国に協力してこれらを抑える上で大きな力を発揮した。
1818年 アラビア半島に進出、ワッハーブ王国(第一次)を滅ぼした。実際にはムハンマド=アリーの長男イブラーヒームが率いるエジプト軍が、近代的な装備によって、ワッハーブ王国の土豪軍を破った。
オスマン帝国の要請により参戦したギリシア独立戦争は1829年に終わった。「帆船時代最後の大海戦」と目されるナヴァリノの海戦で、エジプトとオスマン帝国の連合艦隊は英仏露3国の艦隊に敗北した。そこでは4分の3の艦隊を失い、6000人の「トルコ人」が戦死している。
しかし、長男イブラーヒームの勇戦などもあって、ギリシア独立戦争の主役としてのエジプトの名声はむしろ赫々と輝き、クレタ島・キプロス島を総督として支配する権利を得た。
しかし、長男イブラーヒームの勇戦などもあって、ギリシア独立戦争の主役としてのエジプトの名声はむしろ赫々と輝き、クレタ島・キプロス島を総督として支配する権利を得た。
ムハンマド=アリーは、最終的にオスマン帝国との戦争に踏み切った。オスマン帝国に対してギリシア独立戦争の際の出兵の代償としてシリアの行政権を要求し、それが拒否されたことから、1831年、長男イブラーヒームをシリア・アナトリアに進撃させた。こうして、第1次エジプト=トルコ戦争が始まった。
ムハンマド=アリーは優位に戦い、シリア総督の地位をかねることをオスマン帝国に認めさせたが、イギリス・フランスなどがエジプトの台頭を警戒して干渉し、
ムハンマド=アリーは優位に戦い、シリア総督の地位をかねることをオスマン帝国に認めさせたが、イギリス・フランスなどがエジプトの台頭を警戒して干渉し、
第2次エジプト=トルコ戦争の降伏交渉を行うムハンマド=アリー
1839年、第2次エジプト=トルコ戦争となり、今度はムハンマド=アリーはイギリス軍に敗れた。1840年にロンドン会議が開催され、翌1841年、エジプトはシリアからは撤退する代わりに、ムハンマド=アリーはオスマン帝国からエジプトとスーダンの総督の地位の世襲権を認められ、ここに正式にムハンマド=アリー朝が成立した。
ムハンマド=アリー=モスク
ムハンマド=アリーはその後、一時精神を犯された時期もあったが引き続き政務を執った。しかし、1847年頃から老衰の兆しが見られるようになり、1848年4月5日に総督の地位を長男イブラーヒーム=パシャに譲った。
しかし、イブラーヒーム=パシャは同年11月20日に結核により死去。その跡を継いだのは次男アフマド=トゥーソンの子アッバース=パシャであった。実孫アッバース=パシャに対するムハンマド=アリーの評価は極めて低く、イブラーヒーム=パシャの死を知ったムハンマド=アリーは、「これで、我々が築き上げてきたものはすべて台無しになるだろう」と嘆いたという。実際にアッバース=パシャはそれまで推し進められてきた近代化政策を否定する方針を打ち出した。
ムハンマド=アリーは1849年8月2日、アレクサンドリアで死去。遺体はカイロのムハンマド・アリー・モスクに安置された。享年80歳。
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