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なまぐさ坊主の聖地巡礼

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ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワー独裁者の死・ヒトラー⑧

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ノルマンディー上陸作戦

 1944年6月6日午前0時15分、米英加の3国連合軍によるノルマンディー上陸作戦が始まった。動員された将兵は17万6000、艦艇5300隻、航空機1万4000機の、文字通り「史上最大の作戦」であった。アイゼンハウアー将軍を最高司令官とするこの作戦は「オーヴァーロード作戦」と名付けられていたが、ソ連側が渇望して止まなかった「第二戦線」がようやく開設された。

 ドイツ側ではルントシュテット元帥を総司令官とする西部方面軍が迎え撃った。ドイツ側は早くから連合軍がフランスの北部海岸に上陸する可能性を予想して、大西洋岸に1万5000ものトーチカを構築して防衛にあたっていた。問題は連合軍の上陸地点の特定にあったが、ルントシュテットは、イギリスからの最短距離にあるカレーを予想して防備を固めていた。

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ロンメル

 他方、アフリカでの敗北後、1943年11月から海岸線防衛強化総監に任命されたロンメルはノルマンディーを上陸地点として予想し、水際で連合軍を撃退する作戦を提言したが、ルントシュテットによって却下されてしまった。しかも、ロンメルは海が荒れることの多い6月上旬の上陸作戦はないと想定して、ちょうど休暇をとり、ドイツに戻っている最中であった。

 それゆえ、6月6日未明の攻撃はドイツ軍にとって不意打ちとなった。しかも、最初の攻撃は深夜を利用したドイツ軍の背後に降り立った空挺部隊によって始められたから、ドイツ軍は浮足立った。そこへ制空権を握った連合国側の大量の爆撃機がドイツ軍に爆弾の嵐を見舞ったうえに、水平線を埋めんばかりの軍艦からは艦砲射撃がいっせいに火を噴いた。もはや、ドイツ軍には上陸を阻止する力はなく、連合国側の圧勝に終わった。

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シュタウフェンベルク

 大規模な連合軍にノルマンディー上陸を許したという知らせはドイツ軍幹部に衝撃を与え、一部にクーデタによりヒトラーを除去し、ベック退役上級大将を元首とする政権を樹立する計画が秘密裡に練られ始めた。そして、7月20日、北アフリカ戦線の戦いで左眼と右腕を失って、国内予備軍司令部幕僚長となっていたシュタウフェンベルク大佐がヒトラー爆殺計画に着手した。

 時限爆弾をカバンにしのばせ、総統本営でヒトラーに面会後、ヒトラーの坐るテーブルの下にカバンを残して退出した。爆弾は予定通り爆発し、会議室からは木材と紙がふき上がった。外で待機していたシュタウフェンベルクは当然ヒトラーは死亡したと確信して、現場を脱出した。

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爆発後の会議室

 しかし、ヒトラーはズボンがズタズタになりながらも、もたれかかっていた厚い机に守られた形で、軽い擦過傷程度で一命を取り留めた。彼はむしろ、ズタズタになったズボンをトロフィーのように見せびらかしながら、首謀者の徹底した探索を命じた。シュタウフェンベルクはすぐに逮捕、処刑され、ベックは自殺した。

 その後も逮捕者は増え、7000人にも達し、ロンメル将軍も自殺を強制された。こうして軍隊内の反ヒトラー勢力は一掃され、ナチスの独裁体制の解体は外からの軍事的な力による以外期待できなくなった。

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シャンゼリゼを行進するド=ゴール

 ノルマンディーに上陸した連合軍の接近に呼応して、フランス各地でレジスタンスが蜂起し、8月25日にはアメリカ第三軍によってパリが解放され、翌日、ド=ゴール将軍がシャンゼリゼを行進し、パリの解放を宣言した。

 西からは米英軍、東からはソ連軍がドイツをめざして進撃を開始し、翌1945年2月9日には米英軍がライン川に到達、同15日にはソ連軍がオーデル・ナイセ両川に到達、戦闘はドイツ国内に及んできた。折から2月4日から11日にかけてクリミア半島のヤルタでは米英ソ3国の首脳が会談し、ドイツの分割占領や非軍事化、非ナチ化、戦犯の処罰などで合意した。

フリードリヒ大王

 しかし、ヒトラーはあくまで降伏を拒否し、3月19日にはあらゆる軍事施設などの破壊を命じる焦土作戦命令を下した。この命令を下すにあたって、ヒトラーはシュペアに対して「戦争に敗北すれば、国民もなくなってしまう。ドイツ国民がさらに生きるとしても最も低級な生活に必要な基盤を考慮する必要などない。むしろ自らこれらを破壊したほうがよいのだ」と語った。

 また、ゲッペルスは、かつてロシアとの戦争で苦境に立っていたフリードリヒ大王がロシアの女帝の死に助けられて形勢逆転に成功した例を引いてヒトラーを慰めていたが、折しも、4月12日にローズヴェルト大統領が死去したとの知らせを聞いたゲッペルスは「有頂天になって」ヒトラーに知らせたという。しかし、奇跡は起きなかった。

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ヒトラーとエヴァ=ブラウン

 皮肉なことに、ヒトラーの56歳の誕生日である4月20日にはソ連軍によるベルリン砲撃がすでに始まっており、25日には完全に包囲された。逃れるすべの無くなったヒトラーは、29日未明、自殺を決意し、長年連れ添ったエヴァ=ブラウンと結婚式を挙げたのち、後継の大統領および国防軍総司令官にデーニッツ提督を指名した。

 ちょうどその2日前、ムッソリーニがパルチザンに射殺され、遺体がミラノの広場に逆さ吊りされたとの知らせを聞き衝撃を受けたヒトラーは、遺体の焼却を命じて、ブラウンとともに首相官邸の地下壕で自殺した。

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ヒトラーが自殺したソファに坐るソ連の兵士

 銃声を聞き、現場を見たリンゲ中佐の証言によると、地下壕にはすぐに青酸カリの特徴の「焦げたアーモンド臭」が漂っていおり、ブラウンの顔からは青酸カリの服毒自殺が見て取れたそうだ。ブラウンはヒトラーの左手にあり膝を抱えた状態で倒れ、ヒトラーはぐったりと座っており右のこめかみから血が滴っていた。

 側近たちはヒトラーの遺言により二人の遺体を中庭まで持っていきガソリンをかけて焼却した。遺体は2時間燃やされ続けたが屋外のために完全に焼却できず、ソ連軍の砲撃のために中断したと生き残った人が証言している。

 ヒトラーとブラウンの死体は、埋めたり掘り出しを繰り返し、数回場所が移した後、ベルリン西方の森に墓標なしで埋められたが、再度掘り返され8か月後にマクデブルクの赤軍基地に秘密裏に埋葬されたそうである。


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【 2021/09/17 05:12 】

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世界史のミラクルワールドー1857年インド独立戦争・シパーシーの反乱

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シパーヒー 

 東インド会社のインド人傭兵をシパーヒーと呼び、約28万人が5万人弱のイギリス人将兵に率いられていた。シパーヒーにはヒンドゥー教徒もイスラーム教徒も含まれており、ヒンドゥー教徒のシパーヒーには上級カーストの者が少なくなかった。

 1857年には、彼らが宗教上嫌う獣脂が弾薬包に塗られているという噂をきっかけに、待遇などの不満から反乱をおこし、デリーを占領した。反乱は北インド全域に波及し、広く民衆を巻き込む反英民族闘争へと発展した。

 この反乱をイギリスの支配者は「シパーヒーの反乱」(日本では「セポイの反乱」)と呼んでいたが、それはこの出来事をことさらにシパーヒーが起こした偶発的な出来事であったと強調し、民族反乱、独立戦争であったことを隠蔽する意図があった。しかし、反乱を起こしたのはシパーヒーだけではなく、さらに広範な領主層から民衆までを含む民族的反英闘争であったという主張がなされるようになり、現在では「インド独立戦争」や「1857年インド大反乱」など定義されるようになった。


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 メーラトで起きたシパーヒーの反乱

 1857年5月10日、デリーの北東約60キロにあるメーラトの東インド会社軍の基地で、シパーヒーが反乱をおこした。

ダウロード  
エンフィールド銃

 反乱の原因としては多くの事項が列挙されている。直接契機としてあげられているのは、彼らに新たに支給されることになっていた新式のエンフィールド銃の薬包に塗った油の問題である。

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 この薬包には湿気を防ぐために薬包の紙に牛脂・豚脂が塗られており、その端を歯で噛み切ってから装填することになっていた。それはヒンドゥー教徒にとっては聖なる動物の牛脂を口に触れることは許されないことであり、イスラーム教徒にとっては汚らわしい豚の脂が口に触れることになり、我慢できないことであった。シパーヒーの中にはヒンドゥー教徒もムスリムもいたので、彼らにとってそれぞれの尊厳を傷つけられることに強い反発が生じたのであった。

 そのほか当時のミャンマーで戦争を行っていたイギリスはシパーヒーをこれに派兵しようとしたが、ヒンドゥー教徒にあっては海を渡って海外に行くことは自己の所属カーストから離れなければならないという重大問題であったことも一因としてあげられている。


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 チャパティ

 この反乱が始まる少し前の1857年2月の早朝、デリー県インドラプートの村番が1枚のチャパティ(未精製の小麦粉で焼いたパン)を持ってパハルガンジの警察署長を訪ねて来た。そうしてこう言って去って行った。

 「同じようなチャパティを5枚焼いて、近くの5村に配れ。その際、今私が言ったことと同じ口上を述べよ」

 署長は不思議に思っていたところ、同じ日に「5枚のチャパティ配布」がデリー県の各地で発生していることが発覚した。

 チャパティの配布リレーはその後、恐ろしい勢いでインド各地に伝達されたが、誰が、いったい何にために行っているか一切不明。

 イギリス植民地当局は気味悪がり、チャパティの配布を禁止した。

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インド大反乱

 するとまもなく 、インド大反乱が勃発。

 反乱はチャパティの配布が行われた道筋をたどるように発生していった。「チャパティを配る」行為は、イギリス人には分からないがインド人には分かる暗黙のメッセージを含んでいたのである。

 またそのころ、街や村で預言者が異口同音に「1757年、プラッシーの戦いでイギリスはインドに覇権を確立した。あれからちょうど百年、百年目の今こそイギリスは滅び、イギリス人は皆、海に追いやられて死ぬ!」と予言した。

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バハードゥル=シャー2世

 シパーヒーの蜂起はインド全体の大反乱のきっかけとなり、各地で民衆が反乱に加わった。シパーヒーを中心とした反乱軍は、デリーに進軍、ムガル帝国の皇帝バハードゥル=シャー2世を擁立して、デリーに政権をうち立てた。

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ラクシュミー=バーイー

  また反乱軍には、イギリスのとりつぶし政策に反発した藩王国も加わった。インド西部の小国の女王ラクシュミー=バーイーもその例であり、彼女は反乱軍の先頭に立って闘い、インドのジャンヌ=ダルクと言われた。こうして反乱は全インドに拡がり、各地に反乱政権が生まれた。

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インド総督カニング

 イギリスのインド総督カニングはボンベイ、マドラスの両管区から兵を召集、前年に反乱が終結していたイラン、太平天国の乱が下火になっていた中国から軍隊を移動させた。さらに、ネパールのグルカ兵(かつてグルカ戦争でイギリスと戦ったが鎮圧された)、パンジャーブのシク教徒(かつてシク戦争でイギリスと戦ったが、一方でイスラーム教徒と根深い対立関係にあった)を味方にし、近代的装備にものを言わせて反撃に移った。

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捕らえられたバハードゥル=シャー2世
 
反乱軍とイギリス東インド会社軍の戦闘は9月まで続いたが、東インド会社軍が態勢を整えたのに対し、反乱軍は横の連携もとれず、内部対立が生じ、またヒンドゥー教徒とイスラーム教徒との対立もあってまとまらず、デリーが陥落。

 反乱は鎮圧され、皇帝バハードゥル=シャー2世は逃亡したが、捕らえられてミャンマーに流刑になった。これによって、ムガル帝国の滅亡は名実ともに滅亡した。また、デリーは陥落したが、各地の農民反乱はさらに1年以上にわたって続いたが、1859年1月に鎮圧される。


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反乱軍兵士を砲に縛り、弾丸を発射

 反乱軍の捕虜には、ほとんど裁判もなく死刑が宣告された。処刑の方法は、 反乱軍兵士を大砲の砲口に縛り付け、木製の砲弾を発射して身体を四散させるとか、マンゴーの木の下に荷車を置き、その上に何人かの罪人を立たせて枝から吊したロープに首を巻き、牛に車をひかせるとか、象を使って八つ裂きにするとかいろいろと‘趣向’がこらされた。

 アラーハーバード近郊の街路に沿って、樹という樹に死体が吊され、‘絞首台に早変わりしなかった樹は一本もなかった’ほどであった。それからヒンドゥー教徒の口に牛の血を、ムスリムの口に豚の血を流し込んで苦しめたり、……。また、反乱者を出したり、かくまったりした村や町には、四方から火が放たれ、火をくぐって逃げ出して来るものを、老若男女を問わず、待ちかまえていて狙い撃ちするといった手のこんだ演出までしでかした。

 これらの蛮行は、イギリスの軍人自身が‘誇らしげに’伝えた証言にもとづく事実である。

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【 2021/01/19 05:08 】

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世界史のミラクルワールドー近代のファラオ・ムハンマド=アリー

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ムハンマド=アリー

 ムハンマド=アリーは1769年に当時オスマン帝国領だったマケドニアのカヴァラという港町に生まれた。奇しくもこの年はナポレオンが生まれた年でもあり「私はアレクサンドロスの国にナポレオンと同じ年に生まれた」と語ることを好んだという。

 
民族的な出自はアルバニア系ともトルコ系ともイラン系ともクルド系とも言われるが、アルバニア系とする見解が主流である。いずれにしても欧州出身ということになる。

 ムハンマドの家は3代続いた下級軍人の家で、父親が不正規部隊(傭兵隊)の指揮官を務めながら、タバコ取引にも手を出していた。母親はカヴァラ市長官の親戚であった。幼い頃に父を失ったムハンマドは市長官のもとに預けられて成長し、18歳のとき市長官の親戚の女性と結婚して父の職を引き継いだとされるが、その前半生は、みずから語ることはなく、伝説に過ぎないようだ。


海戦 
アブキール湾海戦

 ムハンマド=アリーが頭角を現すのは、エジプトを占領したナポレオンの支配を終わらせるために、オスマン帝国が派遣したアルバニア人不正規部隊の副指揮官に任ぜられた時だった。ムハンマド=アリーは、1798年8月にナイル河口のアブキール湾停泊中のフランス艦隊をイギリスのネルソン提督が撃沈している最中に、アルバニア人部隊の一部を指揮していた。その数ヶ月後、ナポレオンはエジプトを去ることになる。

 この混乱時に、彼はウラマー(イスラーム教の宗教指導者)を中心としたカイロ市民の人心を掌握したらしく、1805年にカイロ市民の支持を背景にエジプト総督(ワーリー)に就任し、パシャ(文武高官の称号)と呼ばれるようになった。

セリム 
セリム3世

 これは正式なものではなかったが、翌年にはオスマン帝国のスルタン・セリム3世からエジプト総督の地位を追認された。総督(太守とも訳す)は単なる地方官ではなく、大幅な権限が認められていたので、ムハンマド=アリーは実質的独立を勝ち取ったと言うことができる。

 その地位の世襲が認められるのは1841年であるが、実質的にはエジプトのムハンマド=アリー朝は1805年に成立したといえる。 


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マムルーク

  ムハンマド=アリーは、エジプトの実権を握ると、軍隊や国家の機構、経済などで近代化をはかる必要を感じたが、その際に障害となるのが、マムルークの勢力であった。

 マムルークは9世紀にさかのぼる、イスラーム世界における、主としてトルコ系からなる奴隷兵士のことであるが、彼らの勢力は13世紀のマムルーク朝以来、政治的な権力を握るほどになっていた。

 マムルーク朝を滅ぼしたオスマン帝国はエジプトを統治する際にマムルークをそのまま存在させ、マムルーク=ベイと言われる有力者が実際のエジプトを統治し、そのもとでマムルークはさまざまな特権を有し、社会を押さえていた。

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シタデルの惨劇

 エジプト近代化のために、そのマムルークを一挙に叩こうとしたムハンマド=アリーは、奇計を用いた。1811年、マムルークの一党500名を、アラビア半島のワッハーブ派討伐軍派遣の壮行会と銘打ってカルファと称される居城に招いた。その帰途に城下に出る隘路で伏兵に狙撃させ一党を掃討した。これは、今のムハンマド=アリー=モスクのある城塞で、かつての十字軍時代の英雄サラディンの城址での強襲であった。これが、「シタデルの惨劇」や「城塞の謀計」と言われるマムルークの殲滅である。

 さらに、近代的な陸海軍の創設、マニュファクチュア・工場・造船所の建設、灌漑貯水池や道路の新設、綿花栽培の奨励、ヨーロッパ式の学校の設立、軍事技術研究のための留学生の派遣という意欲的な政策を推進した。

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イブラーヒーム

 19世紀初頭、オスマン帝国の領土内ではアラビア半島のワッハーブ派の蜂起と、バルカン半島におけるギリシア人・セルビア人の民族独立運動が始まっており、ムハンマド=アリーは当初はオスマン帝国に協力してこれらを抑える上で大きな力を発揮した。

 1818年 アラビア半島に進出、ワッハーブ王国(第一次)を滅ぼした。実際にはムハンマド=アリーの長男イブラーヒームが率いるエジプト軍が、近代的な装備によって、ワッハーブ王国の土豪軍を破った。


ダウ 
ナヴァリノの海戦

 オスマン帝国の要請により参戦したギリシア独立戦争は1829年に終わった。「帆船時代最後の大海戦」と目されるナヴァリノの海戦で、エジプトとオスマン帝国の連合艦隊は英仏露3国の艦隊に敗北した。そこでは4分の3の艦隊を失い、6000人の「トルコ人」が戦死している。

 しかし、長男イブラーヒームの勇戦などもあって、ギリシア独立戦争の主役としてのエジプトの名声はむしろ赫々と輝き、クレタ島・キプロス島を総督として支配する権利を得た。

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ナヴァリノの海戦敗北後、海軍の再建を支持するムハンマド=アリー

 ムハンマド=アリーは、最終的にオスマン帝国との戦争に踏み切った。オスマン帝国に対してギリシア独立戦争の際の出兵の代償としてシリアの行政権を要求し、それが拒否されたことから、1831年、長男イブラーヒームをシリア・アナトリアに進撃させた。こうして、第1次エジプト=トルコ戦争が始まった。

 ムハンマド=アリーは優位に戦い、シリア総督の地位をかねることをオスマン帝国に認めさせたが、イギリス・フランスなどがエジプトの台頭を警戒して干渉し、

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第2次エジプト=トルコ戦争の降伏交渉を行うムハンマド=アリー

 1839年、第2次エジプト=トルコ戦争となり、今度はムハンマド=アリーはイギリス軍に敗れた。1840年にロンドン会議が開催され、翌1841年、エジプトはシリアからは撤退する代わりに、ムハンマド=アリーはオスマン帝国からエジプトとスーダンの総督の地位の世襲権を認められ、ここに正式にムハンマド=アリー朝が成立した。

モスク 
ムハンマド=アリー=モスク

 ムハンマド=アリーはその後、一時精神を犯された時期もあったが引き続き政務を執った。しかし、1847年頃から老衰の兆しが見られるようになり、1848年4月5日に総督の地位を長男イブラーヒーム=パシャに譲った。

 しかし、イブラーヒーム=パシャは同年11月20日に結核により死去。その跡を継いだのは次男アフマド=トゥーソンの子アッバース=パシャであった。実孫アッバース=パシャに対するムハンマド=アリーの評価は極めて低く、イブラーヒーム=パシャの死を知ったムハンマド=アリーは、「これで、我々が築き上げてきたものはすべて台無しになるだろう」と嘆いたという。実際にアッバース=パシャはそれまで推し進められてきた近代化政策を否定する方針を打ち出した。

 ムハンマド=アリーは1849年8月2日、アレクサンドリアで死去。遺体はカイロのムハンマド・アリー・モスクに安置された。享年80歳。

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【 2021/01/15 05:14 】

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さよならミャンマー

8月23日(金)


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 午後3時20分、アウンサン・マーケットへ。正面中央のドームのある入口の建物は、イギリス植民地時代の1926年に建てられたそうだ。

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 2階建ての建物とその周囲には1000を超える店舗が所狭しと並んでいて、迷子になりそうだ。日本人女性がミャンマーの伝統菓子をアレンジしたクッキーが有名らしく、皆さんその店に行ってしまった。僕はまったく興味がないので、奥さんとブラブラ。チャットがまだ余っているので、欲しくもないのに、シュエダゴン・パゴダのマグネットを1,300チャット(100円)、Tシャツを5,000チャット(385円)で買った。

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 奥さんも同様にチャットを無くすために、チンロン・ボールと竹編みの籠を買った。

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 その後、向かいにあるスーパーマーケットへ。皆さんへのお土産用にアラビカコーヒーなどを買い、空港へ。

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 午後6時、空港前にある「シーズンズ・オブ・ヤンゴン・ホテル」内にある中華料理店「多縁閣」で夕食。

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 まずは、魚の蒸し料理。

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 肉じゃがかな。

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 昆布のスープ。

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 鶏の蒸し料理。

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 椎茸と豆腐のあんかけ。

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 瓢箪か? 

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 海老の塩茹。どれもこれも美味い。ミャンマーで食べた料理の中で中華料理が一番美味かったというのは、なんとも皮肉なもんだ。

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 午後7時30分、夕食を済ませ空港へ。午後9時45分、全日空814便は定刻通りテイクオフ。

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 午後10時30分、軽食。ポテトチップスをつまみにウィスキーのロックをダブルで。ほろ酔い加減で、おやすみなさ~い。

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 おはようございます。軽い朝食は、「鶏肉と野菜煮」か「プレーンオムレツ グリルベーコン添え」を選べますが、僕はオムレツをチョイス。

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 夜が明けて来ました。午前7時に成田到着。羽田を経て、午前11時30分、小松に到着。濃密な一週間でした。次回はベトナムとカンボジアとのこと。期待してお金を貯めましょう。でも、2021年にコロナ騒ぎが終息してるのかな~。(おわり)

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【 2020/04/21 05:24 】

パゴダの国へ  | コメント(0)  | トラックバック(0)  |

シュエダゴン・パゴダ②

8月23日(金)

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 暫く休んだんで元気出ました、次行きましょうか。こちらではお説教ですね。聴衆がえらいたくさんいて、静かに耳を傾けていますね。僕もたまに説教するけど、これぐらいいてくれると張り合いがありますね。

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 なかなか偉いお坊さんみたいですね。長老と呼ばれる坊さんなんでしょうか。日本でも最近テーラワーダ仏教の名で上座部仏教の人気が上昇して来ている。瞑想も人気あるしね。でもね、上座部仏教ではブッダになることを目指さない。それはやはりブッダ釈尊の本意ではないと思うよ。

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 少しお話しを聴いてみた。でも、ミャンマー語だから分かる訳がない。大きな図も示されているけど、文字も読めない。右上が1で時計回りに1→2→3→4となってるから、「生老病死」の話しか、「苦集滅道」の四諦の話しかね。なんも分からないんで、5分ほど聴いて諦めた。

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 鐘を衝く奥さん。

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 僕は写真を撮るのに余念がない。

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 お顔の白いブッダ像。

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 こちらは寝釈迦。足許が見えないから断定できないけど、目をパッチリ開けておいでだから、涅槃像ではなく、横になっているブッダだ。日本には寝釈迦像はないけど、スリランカでもたくさん見た。ここも信者さんでいっぱいだ。

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 大仏塔。何遍見ても飽きることはない。

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 こちらの祠にはたくさんの仏旗がかかっている。仏旗は世界仏教徒連盟(WFB)が結成され、スリランカでの第1回世界仏教徒会議が開かれた1950年に、正式に「国際仏旗」として採択された。

 『小部経典』の「無礙解道【むげげどう】」に、ブッダが力をはたらかせる時、ブッダの体から青・赤・白・樺(橙)および「輝き」の6色の光が放たれる、と書かれていることに由来するデザインなんだけど、知ってた?

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 深々と頭をさげて、何をお祈りしているのだろうか。

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 こりゃまた、でかい銅鑼だね~。

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 高さ10m以上もあるブッダ像。紐を引っ張ると、ブッダの頭の上にある布が前後に揺れて、ブッダに風を送る。僕も紐を引っ張って、ブッダを煽いであげた。

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 シュエダゴン・パゴダの北東に安置されているガルーダ。僕の誕生曜日である日曜日の守護動物だ。ガイドのゼイヤ君に正式なお参りの仕方を習って、やってみた。

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 まずは祭壇に置かれた仏像に水をかける。

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 本当は年齢の数をかけるのが正式らしいが、66杯のかけると時間がかかるので、1杯を10杯分として、12杯水をかけた。次に仏像の背後に安置されている守護神に水かける。

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 最後に守護動物に水をかけてお参りして、お終い。昨年は喉頭蓋炎などというとんでもない病気にかかり、喉に穴を開ける羽目になったので、無病息災をお祈りした。

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 若いカップルが花を手に一生懸命祈っている。子供が授かるようにお願いしているのかな。


 1時間ほどかかって1周したが、何体の仏像があったのだろうか。腹一杯になっちゃった。ゲップ。さあ、あとは買い物だけだ。(つづく)

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テーマ:海外旅行 - ジャンル:旅行

【 2020/04/17 05:34 】

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