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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー江の南で楊が散れば・隋の滅亡

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 父・文帝を弑逆【しいぎゃく】して帝位についた煬帝は、皇帝の威光・権力を天下に誇示するため、大土木工事を驚くべき物力・人力を投じて行っていく。先ず、毎月200万人を動員して旧洛陽城の西方に東京を築いた。「とうきょう」じゃなくて、「とうけい」。日本の東京も明治の始め頃は「とうけい」と呼んでたんだよ。

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 続いて大運河だ。文帝の時代にすでに淮河【わいが】と長江を結ぶ山陽瀆【さんようとく】(邗溝【かんこう】)は完成しており、煬帝はこれをさらに拡大していった。

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 まず初めに黄河と淮河を結ぶ通済渠【つうさいきょ】が造られ、続いて黄河と天津を結ぶ永済渠【えいさいきょ】、そして長江から杭州へと至る江南河が作られ、河北から浙江へとつながる大運河が完成した。完成は610年のことで、その総延長は2500キロメートルを越える。通済渠の工事には100万人の民衆が動員され、女性までも徴発されて僅か5か月で完成した。中国史上、女性まで労役にかり出した皇帝は他にいない。なお、永済渠はあとで話す高句麗遠征のためのものだ。

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 大運河が完成した605年8月、煬帝は洛陽の顕仁宮から江都までの最初の行幸を行った。大運河沿いには40の離宮が建設されており、文武百官や女官を伴い大運河を遊覧しながら江都まで下って行く。近衛兵を加えると全部で約20万人が随行した。煬帝の乗る龍船は高さ13m、長さ60m、4層造りで、上層には正殿・朝堂があった。護衛船も含めて5100艘余りに上る大船団の長さは90キロに及んだという。

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 船には動力が無いので、民衆に命じて船を曳かせたが、そのために沿道の住民8万人が動員された。その上、沿道250キロ以内の州と県に飲食の提供を命じ、食べきれないものは河岸に埋めたという。このようなぜいたくや浪費は、沿道の官吏や民衆に大きな苦痛を与えた。煬帝は冬を気候の暖かい江都で過ごし、翌年4月に洛陽に帰った。煬帝は江都が大のお気に入りで、3度江都行幸を行ったが、最後に江都で殺されることになる。  

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 612年、煬帝は113万をこす大軍を率いて高句麗親征を敢行した。山東半島では300隻の船を急造し、河南・淮南・江南は兵車5万台の供出の命を受けた。兵以外の軍役労働者の徴発は230万人という数にのぼった。山東の造船工人は悲惨の極みで、昼夜兼行の水中作業で腰から下が腐爛して蛆が生じ、10人に3,4人も死んで行った。こんな残忍な人民酷使をして敢行した対高句麗戦争は、遼東城で前進を阻まれ、退却の際に莫大な損害を被って帰還した。敗戦の報が伝わると、中国各地に反乱が起こったが、そのような情勢を無視して、第2次、第3次の遠征が行われた。しかし、ことごとく失敗に終わり、隋の威信は失墜、急速に民衆の支持を失っていった。

 616年7月、煬帝は周囲の反対を押し切って、3度目の江都行幸を強行する。江都の宮殿では佞臣の献上する江淮の美女で満ち酒宴続きである。反乱軍の進撃、官軍の敗退の報は次々に江都に報ぜられたが、煬帝は千余の美女に囲まれて王杯を離さなかった。ついに、親衛隊の長官であった宇文化及【うぶんかきゅう】兄弟が背いて皇帝に刃を向けた。煬帝は皇帝らしく毒酒による自害を望んだが、身につけていた絹で絞め殺された。

 隋が短命に終わってしまった理由は、ひとえに煬帝の悪政の結果であるが、数字をあげるとこれがはっきりとする。父・文帝は自ら質素倹約て国政を指導した結果、全国の戸数は890万戸となった。これが、煬帝亡き後には僅か200万戸にまで減ってしまっている。ここから彼の諡号が煬帝となったのであるが、「煬」という字には「天に逆らい民を虐げる」という意味がある。

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李淵

 煬帝が江都で50年の生涯を終えた頃、すでに長安は李淵【りえん】によって占領されていた。李淵は煬帝が殺されたことを知ると、恭帝(隋第3代皇帝・煬帝の孫)から禅譲を受けて自ら皇帝となり、唐を開いた。

 誰かが歌い出した。「江【かわ】の南でやなぎが散れば 河北【きた】じゃすももの花ざかり」

 煬帝の姓である楊は「やなぎ」のこと。柳という字もあるが、これは「しだれ柳」のこと。楊は中国では「カワヤナギ」のことで、楊枝【ようじ】の材料となる。自らの姓が「やなぎ」だから、煬帝は運河沿いに日よけのために柳の木を植えた。一方の李淵の李は「スモモ」のこと。「桃李もの言わざれども下自ら蹊【こみち】を成す」という言葉があるよね。『史記』李将軍伝賛に出てくる言葉で、徳望のある人のもとには人は自然に集まることの喩えで、俳優の松坂桃李の名前はお父さんがこの言葉からつけたんだけど、知ってた?

 話が横道に逸れてしまったけど、中国の皇帝はヤナギさんからスモモさんに代わったって訳だ。

元貞皇后 
 元貞太后

 李淵の母親である元貞太后の父は独孤信。独孤と言えば前回登場した文帝の皇后であった独孤伽羅がいたよね。彼女は元貞太后の妹なんだ。

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 系図を見ての通り、独孤信の長女は北周の明帝の皇后、4女は唐の高祖の皇太后、7女は隋の文帝の皇后になってるから凄いすよね。李淵と煬帝は従兄弟どおしだったから、文帝に寵愛されて16歳で隋に仕官し、出世を重ねた。李淵の祖父は西魏に仕えた豪族であり、漢化の進んだ鮮卑系と考えられる。北魏から隋唐にいたる王朝は、王室も外戚もいずれも北魏を建てた鮮卑系拓跋【たくばつ】部の有力者の出身であり、拓跋国家と呼ばれる。

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李世民

 ところで、李淵に挙兵を勧めたのは次男坊の李世民【りせいみん】であり、父を助けて創業の大功を挙げた。唐が開かれると李世民は宰相となり、軍事的にも大きな功績をあげた。

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李建成

 こうなると、黙ってはいられなかったのが兄の李建成【りけんせい】だ。長男なので皇太子に立てられてはいたが、いつ何時その地位を弟に奪われるかも知れない。そこで、たびたび李世民を父に誣告【ぶこく】し陥れようとした。

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 ところが、626年6月4日、長安の宮城北門の玄武門で、先手を打った李世民に襲撃され、弟の李元吉とともに李世民に射殺されてしまう。3日後の6月7日には李世民は皇太子となり、2ヶ月後の8月9日には帝位について父の高祖は太上皇帝に祭り上げられてしまった。こうして即位したのが唐の第2代皇帝の太宗【たいそう】であり、「貞観【じょうがん】の治」と呼ばれる唐帝国繁栄の時期を出現させることになる。

 次男坊が兄弟を殺し、父親を排斥して帝位に就いたのは煬帝と同じじゃないか。煬帝を暴君に仕立て上げたのは、自分を正当化するために太宗がやったことかも知れないね。

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【 2018/11/27 08:12 】

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世界史のミラクルワールドー恐妻家・文帝と馬鹿息子・煬帝

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宣帝

 鮮卑族の王朝である北周の第4代皇帝の宣帝、名は宇文贇【うぶんいん】。北魏の太武帝に続き仏教を弾圧(三武一宗の法難)したことで知られる武帝の長男で、578年に20歳で即位した。宣帝は周囲から皇太子としての資質を疑問視されており、父武帝から厳しい教育を受けた。酒を禁じられ、過ちがあると仮借なく鞭の折檻を加えるなど冷酷なまでに厳しく育てられた。そんな父親を心の底から怨んでいた宣帝は、武帝が死ぬや、父から受けた鞭で打たれた傷痕を撫でながら、「死ぬのが遅い」と罵ったという。また武帝の通夜が済まないうちから、武帝の宮人たちに淫行を迫ったともいう。

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楊麗華

 宣帝の皇后となったのが楊麗華【ようれいか】。楊堅【ようけん】と独孤伽羅【どっこから】の長女である。

文帝 
楊堅

 楊堅は後漢の名門楊氏を遠祖とすると伝えられるが、北方異民族の血も混ざっていると推測されている。父親の楊忠は西魏の八柱国大将軍・独孤信に従った軍人で、やがて自らも八柱国大将軍に次ぐ十二大将軍となった。独孤信の七女が独孤伽羅である。楊堅は娘・麗華が皇后になったことで、自身は上柱国・大司馬となって権力を振るった。

静帝
静帝

 一方、宣帝は在位1年にも満たない579年に、位を7歳の太子にゆずって静帝(お母さんは楊麗華ではない)とし、自ら天元皇帝と称した。天子たる責任を回避して道楽に専念するためである。5人の皇后を立后し、酒色に走った。人民は皇帝の奢侈淫蕩のための土木工事に労役として駆り立てられた。580年、無軌道な隠居皇帝が22歳で死ぬと、外戚楊堅に実権が帰したのみならず、国民の信望すら彼に移っていった。

 581年2月、楊堅は静帝から禅譲させて即位した。これが隋の初代皇帝・文帝である。文帝という諡はその政治が儒教理念からみて高く評価されたためであり、仁慈の君とされているが、即位した翌月には静帝を殺している。わずか9歳であった。もちろん北周の皇族の宇文氏一門を皆殺しにしてしまうことも忘れなかった。


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 文帝は589年に南朝の陳を滅ぼして、約370年ぶりに南北統一に成功。内政では新都・大興城【だいこうじょう】(長安)の造営・運河の開削、均田制・府兵制・租庸調制の体系化、九品中正を廃止し科挙を創設するなど、中央主権化に努めた。また、倹約を旨に政務に励み、国力を充実させて、その治世は「開皇の治」と称された。

 ちなみに、楊堅の北周時代の爵号は隨国公なので国号は「隨」となるのが本来であった。しかし、「隨」に含まれる辵(しんにょう)部に「走る」という意味があるので、王朝が走って早く滅びてしまうと、楊堅は縁起を担いで辵部を取ってしまった。それが「隋」という字なんだ。知ってた?ところが、隋は南北統一からたった30年で滅びてしまう。

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楊広(煬帝)

 それもこれも、こいつのせいだ。文帝の次男坊の楊広、後の煬帝【ようだい】である。楊広は幼い頃から気どりやの美男で賢く、陳討伐の際には、討伐軍の総帥として赫々たる武勲を残したこともあり、お母さんの自慢の息子であった。お母さんは誰だっけ?

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 そう独孤信の娘・独孤伽羅だったよね。14歳で楊堅に嫁ぎ、楊堅が皇帝となり皇后に立てられた。文帝には男の子が5人いたんだけど、全員独孤皇后の産んだ子だ。これ中国では大変珍しいことなんだけど、それにはもちろん訳がある。

 独孤皇后は楊堅に嫁いだ時、自分以外の女に子を生ませぬよう、夫に誓約させた。皇帝となった文帝がある女性を寵愛したことがある。ところがそれを知った皇后が密かにその女を殺してしまった。文帝は嘆き怒って、単騎で宮中を飛び出し、山谷の間に入ってしまう。嫁さんを追い出したのではなく、自分が家を出てしまったわけだ。何とも情けない。侍臣が皇帝を追いかけて、「陛下は一婦人のために天下を軽んじられますな」と諫めた結果、文帝は宮廷に戻り、皇后も泣いて詫びたので、二人は仲直りをした。そんな事件もあったので、文帝は後宮に寵愛したい美人がいても、皇后の監視が厳しくて手が出せなくなったという訳だ。

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楊勇

 皇帝だけではない。皇后は自分の王子でも家臣でも、妾に子を産ませた者を憎み卑しんだ。楊広は蓄妾を憎む母の前では、後宮の女に子が出来てもすべて育てず、王妃以外に女なしと装っていた。一方、皇太子であった長男坊の楊勇と言えば、母がもらってやった妃元氏を疎んじて、他の女に熱中するようになった。おまけに妃元氏が急死する事件が起きたことで、独孤皇后は太子が豚犬にも等しい女を可愛がって妃元氏を毒殺したと思い込んでしまう。こんなことで、楊勇を廃嫡して庶民の身分に落とし、楊広を皇太子とした。


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宣華夫人

 602年、厳格な独孤皇后が50歳で亡くなると、文帝は長い間窮屈な思いをして皇后に頭があがらなかったのが、今こそ解放されたと思い、若い江南の美人二人を寵愛した。その一人宣華夫人は南朝陳の宣帝の娘だ。しかし、文帝はすでに60歳を越えていた。無理が祟ったのか、2年して病気に罹り危篤となり、仁寿宮で病床についた。


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 宣華夫人と楊広が夜を徹して看病していたが、朝になって着替えに出た宣華夫人に楊広が関係を迫り、陳氏はこれを拒んで文帝のところに逃げ帰った。文帝が怪しんで問い質すと、宣華夫人は楊広の無礼を訴えた。文帝は「畜生、何ぞ大事を付するに足らん。独孤、誠に我を誤てり」といって激怒し、侍臣に廃太子の楊勇を召し出すよう命じた。

 これを聞いた楊広は腹心の者を病室に入れ、夫人をはじめ看病している後宮の者をみな別室にさがらせた。その後で、俄に文帝は崩じたのであった。時に64歳。その夜、楊広と宣華夫人は関係した。こうして即位したのが第2代皇帝の煬帝であり、即位後、文帝の遺詔と称して楊勇を自殺させ、10人の子もことごとく殺害され、楊勇の血筋は断絶した。

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【 2018/11/24 05:12 】

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世界史のミラクルワールドー異民族の花盛り・五胡十六国

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司馬炎(武帝)

 266年、司馬炎【しばえん】が魏を滅ぼして晋【しん】を建国し、武帝となった。司馬炎は諸葛亮と5度に渡って戦った司馬懿の孫にあたり、祖父さんの遺産で皇帝になったようなもんだ。晋は280年に呉も滅ぼして三国時代に終止符を打ち、中国の再統一を果たした。

 魏は建国わずか46年で滅びたわけだが、武帝はその原因を王室の一族を政権から遠ざけていたことだと考え、司馬氏一族を各地に封建して王とした。しかし、これが裏目に出てしまう。

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 せっかく統一を果たしたが、その後が良くない。武帝は国政に関心を示さなくなってしまう。女子の婚姻を禁止して、自分の後宮に入れるための女子を5000人選んだ。さらに呉の後宮にいた5000人も自分の後宮に入れた。合計1万人もの宮女を収容した広大な後宮を、武帝は毎夜、羊に引かせた車に乗って回った。この羊の車が止まったところの女性のもとで、一夜をともにするのである。そこで、宮女たちは自分のところに皇帝を来させようと、自室の前に塩を盛っておいた。羊が塩をなめるために止まるからである。よく料理店の店先に人寄せのための縁起担ぎとしての盛り塩がしてあるけど、これが起源なんだってさ。

司馬衷
司馬衷(恵帝)

 武帝は長年の荒淫がもとで病没し、息子の司馬衷【しばちゅう】(恵帝)が即位したが、これがまたお馬鹿さん。ある時、華林園で蛙の声を聞くと、恵帝は側近の者へ「この蛙は公事のために鳴いているのか、それとも私事のために鳴いているのか」と尋ねた。すると、ある者がからかって「公有地にいる時は公のために、私有地にいる時は私のために鳴いているのですぞ」と返したという。

 また、天下が荒れ果てて民衆が飢餓に瀕している時、恵帝は「(穀物がないのならば)何故肉粥を食べぬのか」と言ったと伝えられてる。これ、ヴェルサイユ宮殿に押しかけて、「パンよこせ」と騒いでいるパリの母ちゃん連中に、「パンがないなら、ケーキを食べなさいよ」と言ったマリ=アントワネットと一緒じゃん。

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 そんなわけで、政治の実権は皇后である賈南風【かなんぷう】とその外戚が掌握した。この女、容貌醜く背が低く色が黒い上に、嫉妬深いときているから始末が悪い。恵帝がまだ皇太子の時代に、恵帝の子を妊娠した妾に嫉妬し、胎児ごと殺してしまった。皇后となってからは、邪魔な奴は皆殺し、思うがままに政治を操った。淫乱も凄まじく、街中で美少年を見つけると竹箱に入れて誘拐し、これと交わった後は、ことの発覚を恐れて彼らは殺された。

 300年、趙王・司馬倫が賈南風を殺害し、帝位を簒奪したが、翌年に一族の諸王も各地で兵を挙げ大混乱に陥り、洛陽は廃墟と化した。いわゆる八王の乱である。面倒臭いが、いちおう8人の名を挙げておこう。 

 ①趙王・司馬倫(司馬懿の9男) ②汝南王・司馬亮(司馬懿の3男)③楚王・司馬瑋(司馬炎の5男) ④斉王・司馬冏(司馬炎の同母弟) ⑤長沙王・司馬乂(司馬炎の6男) ⑥成都王・司馬穎(司馬炎の16男) ⑦河間王司馬顒(司馬懿の弟の孫) ⑧東海王・司馬越(司馬懿の弟の孫)

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 この時、諸王は華北に浸透していた匈奴など異民族と勝手に手を組み、その軍事力を利用したことから、異民族の台頭を招き、匈奴・羯【けつ】・鮮卑・氐【てい】・羌【きょう】のいわゆる五胡【ごこ】が華北に進出。次々と建国し、その数は16カ国となったので、五胡十六国時代というが、うち3カ国は漢族の国なので、正確には五胡十三国である。

 「胡」は中国の北方・西方の異民族に対する蔑称で、日本語では「えびす」と読む。この他に異民族に対する蔑称として「四夷」がある。北狄【ほくてき】・西戎【せいじゅう】・南蛮【なんばん】・東夷【とうい】で、総称して「夷狄」とも言う。漢字を見ての通り、獣や虫けら扱いだ。

 胡がついた言葉をあげると、胡瓜・胡桃・胡椒・胡麻・胡坐などたくさんあるが、これらはすべて異民族由来のものである。皆さん読めますか?読み方は一番最後に挙げておくね。

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劉淵

 306年に恵帝が中毒死し八王の乱は終結し、恵帝の弟が即位して懐帝となる。しかし、晋の国力衰退は明らかであり、これを好機とみたのが匈奴の劉淵【りゅうえん】であった。身長190cmもある大丈夫であった彼は八王の1人であった司馬穎に従い鄴【ぎょう】に駐屯していたが、304年に山西で自立して匈奴大単于を名乗った。劉淵は、かつて冒頓単于が漢と兄弟の契りを結び漢の皇族を妻に娶っていたことから、匈奴と漢とは甥の関係であるとし、自らを前漢・後漢・蜀漢の後継者と称した。そのため、国号を漢と名乗った(劉淵死後に改称して前趙となっている)。この年は、四川地方で五胡の一つ、氐族の李氏が成国を建てており、五胡十六国時代の始まりとされる。

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 司馬騰を破り山西省南部を勢力範囲に収めた劉淵は、308年に平陽を都にして帝位につき、異民族出身者として初めての皇帝となった。しかし、洛陽の陥落を見ることなく、310年に60年の生涯を終えた。

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劉聡

 劉淵のあと長男の劉和が後を継いだが、人望が無く異母弟の劉聡【りゅうそう】が取って代わった。311年、劉聡は石勒・劉曜・王弥らの大軍を洛陽に差し向け、洛陽は略奪暴行の限りが尽くされて都市は焼き払われ、皇族・貴族・市民ら何万人もが殺戮された。懐帝の皇后羊氏はなんと劉曜の妻とされるありさまであった。懐帝は玉璽と共に平陽に連行され、劉聡から屈辱を受け続けて2年後の313年に処刑され、永嘉の乱は終結し、晋は事実上滅亡した。懐帝の後を受けた甥の愍帝【みんてい】は漢に抵抗したが、316年に長安も陥落し晋は名実ともに滅びた。愍帝は懐帝と同じ扱いを受けた上、317年に劉聡によって処刑されたが、わずか18歳であった。

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 晋(西晋)の滅亡後も、華北では五胡の建てた国が乱立し、この情勢は439年に北魏の太武帝による統一まで続く。一方が江南では、晋の王族であった司馬睿【しばえい】が318年に建康を都として晋を再興(東晋)した。東晋は383年に中国統一をめざして南下した前秦の苻堅【ふけん】を淝水【ひすい】の戦いで破り、以後は淮河【わいが】を境界とした南北で対抗するという形勢が定まり、この状態は隋による統一まで続くことになる。


※胡瓜【きゅうり】・胡桃【くるみ】・胡椒【こしょう】・胡麻【ごま】・胡坐【あぐら】

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【 2018/11/20 08:19 】

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世界史のミラクルワールドー悲運の破戒僧・鳩摩羅什

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キジル千仏洞に立つ羅什像

 鳩摩羅什【くまらじゅう】、サンスクリット語でクマーラジーヴァ。後秦の時代に長安に来て約300巻の仏典を漢訳し、玄奘【げんじょう】とならび二大訳聖としてその名を知られている。

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 羅什の父・鳩摩羅炎【くまらえん】(クマーラヤーナ)はカシミールの生まれで、天竺【てんじく】国(インド)で代々宰相をつとめる名家の出身であった。しかし、彼は宰相の地位を辞退して出家し、葱嶺【そうれい】(パミール)を超え、亀茲【きじ】国(現在のクチャ)にたどり着いた。彼に一目惚れしたのが亀茲国王・白純の妹の耆婆【ぎば】(ジーヴァ)であった。白純に懇願された鳩摩羅炎は還俗し、耆婆と結婚。二人の間に生まれたのが鳩摩羅什である。西暦350年のことであった。

 羅什の母・耆婆は羅什が5歳の時に出家している。夫の鳩摩羅炎も兄である亀茲王・白純も猛烈に反対したが、彼女の意志を覆すことは出来なかった。僧侶であった鳩摩羅炎を還俗させてまで結婚に踏み切った彼女が、なぜ出家したのであろうか?羅什には弗沙提婆【ふさだいば】という弟がいたが、幼くして亡くなったようで、それが動機であったのかも知れない。鳩摩羅炎は再び僧侶となることも許されず、王室の庇護も失い、どこともなくその姿を消すことになったと伝えられている。

 羅什も7歳で出家しているが、母の強い願いによるものであった。そして、9歳の時に母とともに辛頭河(インダス川)を渡り、罽賓【けいひん】国(現在のカシミール)に留学している。罽賓国で3年間小乗仏教を学んだ羅什は、亀茲への帰途立ち寄った疏勒【そろく】国(現在のカシュガル)で須利耶蘇摩【すりやそま】と出会い、大乗仏教を学んだ。羅什は、「私が昔、小乗を学んだのは、黄金を知らない人が鍮石【ちゅうせき】(真鍮のこと)をもって最高と思い込んでいたようなものだ」と嘆じ、大乗仏教に目覚めた。須利耶蘇摩は左手に法華経を持ち、右手で少年羅什の頭を3回撫でながら、こう言ったという。

 『仏日西に入って遺耀【いよう】まさに東に及ばんとす。この経典東北に縁あり。汝慎んで伝弘せよ』 


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 亀茲国に戻った羅什は、雀離【じゃくり】大寺(昭怙厘【しょうこり】大寺)で大乗仏教を講義し、その名声はやがて中国にも知られるようになった。現在のキジル千仏洞がその雀離大寺であると考えられている。キジル千仏洞はムザト川沿いに3.2kmにわたって開削され、現在、236窟が確認されている。平成12年と18年に2度、この地を訪れることが出来たことは、無上の喜びであった。

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 写真はスバシ故城。ここも雀離大寺の候補にあがっているが、はっきりとしたことは現在でも分かっていない。

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 前秦の国王苻堅【ふけん】が将軍呂光【りょこう】に亀茲国征討を命じた目的は、領土の拡大とともに名僧として名高い羅什を国師として長安に迎えることにあった。呂光によって亀茲国が滅びた時、羅什は34歳。生来、粗暴であった呂光は羅什がまだ若年であるのを知り、羅什をあなどり、彼を跪かせるため邪悪な企みをしかけた。彼に仏の戒律を破らせようと、亀茲王女と結婚するよう強要したのである。羅什は激しく拒んだが、呂光は羅什に無理やり酒を飲ませ、王女とともに密室に閉じ込めてしまった。羅什がはたして本当に女性と関係を持ったのか。真相は羅什本人にしか分からない。しかし、破戒僧の烙印を押されたことだけは紛れもない事実なのである。

 羅什は恥辱にまみれて中国へと連行されることになった。ところが、一行が涼州に至った時、呂光は国王苻堅が殺害され、前秦が滅びたことを知る。帰るに帰れなくなった呂光は、涼州にとどまり自ら後涼を建国する。涼州で幽閉生活を送ること15年。後涼が後秦の姚興【ようこう】に滅ぼされ、羅什は51歳にしてようやく長安に入った。

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 それから59歳で亡くなるまでの8年の間に、『妙法蓮華経』『阿弥陀経』をはじめとする35部294巻の翻訳にあたった。『法華経』の訳出は56歳の時。13歳の時に須利耶蘇摩から法華経の原本を手渡されてから、実に43年の歳月が流れていた。後秦の姚興は10人もの女性を侍らせ、羅什の優秀な頭脳を受け継ぐ子を残させようとしたとも伝えられている。

 羅什は毎朝、弟子たちに講説するたびに、こう述べていたという。「たとえば臭泥の中に蓮華を生ずるがごとし。ただ蓮華をとりて、臭泥をとることなかれ」

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 羅什の遺骨は長安郊外の草堂寺に葬られた。写真が羅什の舎利塔であるが、中国仏教界に大きな影響をもたらした偉大な訳経僧のものとしては、あまりにも小さい。破戒僧だからであろうか。

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【 2018/11/18 05:54 】

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世界史のミラクルワールドー中国人になりたい!北魏孝文帝

太武帝
太武帝

 2世紀半ばから匈奴【きょうど】にかわってモンゴル高原を支配した鮮卑【せんぴ】は、五胡【ごこ】十六国時代には五胡の一つとして内モンゴル・華北に侵入し、慕容【ぼよう】氏の前燕などいくつかの国を建てたが、396年には拓跋【たくばつ】氏の拓跋珪【たくばつけい】(道武帝)が北魏を建国した。439年には第3代の太武帝が北燕、北涼、夏を併合して華北を統一、五胡十六国時代に終止符を打った。太武帝は寇謙之【こうけんし】を重用して道教を保護し、中国史上初めて仏教を弾圧(廃仏)したことで知られる。

文成帝 
文成帝

 太武帝は452年に宦官に殺害されて45歳の生涯を終え、亡き皇太子の嫡男であった拓跋濬【たくばつえい】が文成帝として即位した。文成帝は仏教弾圧を廃止し、曇曜【どんよう】に命じて都の平城【へいじょう】(現在の大同)の郊外に雲崗石窟の造営を始めたことで知られる。

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 文成帝の皇后が文成文明皇后。太武帝の左昭儀(皇后に次ぐ後宮のNO2)であった叔母に従って後宮に入った女性で、14歳の時に文成帝の貴人となり、後に皇后となった。要するにお爺ちゃんのお妾さんを奥さんにしたわけで、儒教では不義にあたるとされるが、彼らは漢民族じゃないからそんなの関係ね~。

 しかし、465年に文成帝はわずか26歳で亡くなってしまう。彼女は悲しみのあまりに文成帝の遺体を火葬する際に火中に身投げしたが救出されて一命を取り止めた。

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献文帝

  文成帝の子・拓跋弘(母は李皇后)が即位して献文帝となり、文明皇后は皇太后となった。以後は馮太后【ふうたいごう】と呼ばれることになる。文成帝はわずか11歳で即位したので、馮太后が実権を握り垂簾聴政【すいれんちょうせい】を行った。

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孝文帝

 しかし、献文帝が成長するにつれて対立が生じ、皇太后は献文帝を脅迫して471年に献文帝の息子・拓跋宏に譲位させた。これが、わずか5歳で即した第6代皇帝の孝文帝である。馮太后はその5年後には献文帝を毒殺して、北魏の全権を掌握、事実上の女帝として政治改革を断行した。均田制や三長制は孝文帝の政策として高校世界史では教えているけど、実は彼女が行ったことなんだ。高校世界史では教えないけど、馮太后は唐を滅ぼして皇帝となった則天武后なみの政治手腕を発揮した女傑なんだ。

 ところで、北魏では外戚の専横を避けるために、皇太子をたてた場合、その生母が殺されることが常であったため(子貴母死)、孝文帝の生母である李氏も、469年に自殺させられており、馮太后と献文帝の対立の直接の原因となっている。

 もうひとつ、孝文帝は馮太后の義理の孫にあたるわけだけど、二人は本当の母子だったとする説がある。孝文帝は献文帝が13歳の時の子なんで、子を作るには早すぎるとかいった理由などがあげられてるけど、じゃあ孝文帝の父親は誰だ?ってことになる。でも、謎のままで分かっていない。

 馮太后は490年に49歳で亡くなった。その時の孝文帝の悲しみようは尋常のものではなく、5日は悲しみのあまり食事を取らず、4ヶ月の間、政務を取らなかったと言う。これも、馮太后が孝文帝の実母ではないかと疑わせることになった。

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 馮太后が亡くなって孝文帝の親政が始まった。基本的には馮太后が手がけた改革を継承し、より一層の漢化政策を進めた。漢化政策は簡単に言えば、漢民族に憧れて漢民族になりきろうとした政策のことだ。まず、493年には平城から洛陽への遷都を強行した。この時に孝文帝は反対のあることを予期して、南朝の斉への遠征であるとして洛陽に至った。そこで諸将から南征を諌められるが、それに従う代わりの交換条件と言う名目を持って遷都を実行した。

 無茶苦茶なのは鮮卑の言語・姓名・服装を禁止して中国風に改めさせたことだ。宮廷では鮮卑語の使用は禁止。30歳以下の官吏が鮮卑語を使ったら左遷された。征服した側が自らの言語を強制したというのなら話は分かるが、これじゃあべこべ。それから、姓も漢風にしろってんで、自ら「拓跋」から「元」に改め、臣下たちに対しても半ば強制的に漢風の姓を与えた。

騎馬 

 鮮卑は騎馬民族だ。だから馬に乗りやすい服装をする。

胡服 

 筒袖の上着にズボン、これにベルトをして、ブーツを履くというのが騎馬民族のスタイルだ。これを中国では胡服と言った。これがヨーロッパに入って、それから日本に入って来たんで、日本では洋服と言う。これが野蛮な服装だと言うんで、止めさせた。

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 で、こんな格好になったって訳だ。

 じゃあ、何故そんなに漢民族になりたかったのか?孝文帝は自分たちが漢民族じゃないということは、もちろん分かっている。でも、現実に中国を征服しちゃった。そうすると、なぜ俺たちは中国の皇帝になれたのだろうか、という自分たちの正統性について疑義が生じてしまう。漢民族だったら、自分が皇帝になったのは、前の皇帝が悪政を行なったので、天が怒って風水害を起こし人民を蜂起させて、自分を皇帝に指名してくれたんだ。だから皇帝の姓が変わったんだ。すなわち、易姓革命であるという、大義名分が成立する。だけど、自分たちは漢民族じゃないんで、中国を治める正統性の根拠について悩んだ。その結果、「そうだ、漢民族になりきってしまえばいいんだ。そうしたら易姓革命で天が命じて皇帝になったと、言えるじゃないか」と考えて、強引な漢化政策を進めたという訳なんだ。

 でも、この無茶苦茶な漢化政策に不満を持つ者が反乱を起こす。これは何とか鎮圧したが、孝文帝の死後に六鎮【りくちん】の乱が起き、北魏は東西に分裂することになる。やはり行き過ぎは駄目ですね。

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 写真は文成帝が造営を始めた雲崗石窟第20窟の如来座像で、北魏初代皇帝の道武帝の姿を模したものと言われている。曇曜が建立した大仏はこれをこれを含めて5体あるが、北魏の初代から文成帝までの5人に擬した巨仏とした。これは太武帝の廃仏に懲りた曇曜が、たとえ北魏の皇帝の気が変わっても破壊されないようにするためだったんだってさ。見るからに西域の香りがして、ガンダーラ・グプタ様式の影響が色濃く見られる。

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 雲崗石窟の造営は孝文帝が洛陽に遷都したことで工事が中断され、新たに洛陽郊外の竜門石窟の造営が始まった。孝文帝が漢民族になろうとしたことを受けて、竜門石窟にはインド・西域の影響は希薄となり、中国風の意匠となった。写真は唐の時代に造られた奉先寺の盧舎那仏【るしゃなぶつ】像で、その顔は則天武后の容貌を写し取ったものという伝説があるが、現在では否定されている。

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【 2018/11/14 09:44 】

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