なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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ソンツェン=ガンポはラサ南東のチンワで部族長ナムリ=ソンツェンの子として生まれた。本名はティ=ソンツェン。ソンツェン=ガンポは後世の人間による尊称。後のダライ=ラマと同じく観音菩薩の化身とされた。政敵に毒殺された父に代わって王位に就き、ガル=トンツェンという知謀の宰相を得て勢力を拡大、チベット高原全体をほぼ征服し吐蕃【とばん】王朝を確立した。
634年にソンツェン=ガンポは初めて唐に入貢して公主の降嫁を願い出、当初は唐の太宗も王女の入嫁に同意していた。しかし、吐谷渾【とよくこん】(黄河上流青海地方にあった国で、鮮卑族出身者がチベット人を支配していた)に親唐の政策を採る政権が樹立されると唐はチベットへの入嫁を拒否し、吐谷渾に王女を送った。これに怒ったソンツェン=ガンポは吐谷渾を攻撃し、638年には唐にも侵入した。結局、唐と吐谷渾は賠償金を支払って謝るはめになった。
文成公主
638年、ソンツェン=ガンポの息子グンソン=グンツェンが即位し、640年に唐の太宗は文成公主をその妃として降嫁させた。皇帝の娘を公主と言うんだけど、太宗の実の娘ではない。降嫁した文成公主は王子マンソン=マンツェンを産むが、結婚して3年後に旦那が落馬が原因で23歳で急死。お父さんのソンツェン=ガンポが復位して、3年後に公主と再婚した。息子の嫁さんと再婚するなんて儒教道徳ではあり得ないことだが、チベット人には関係ねぇ~。
文成公主が旦那の死後に建てた寺がラモチェ寺(中国名は小昭寺)で、唐から連れてきた工匠たちによって建設されたという。
ラモチェ寺の本尊が文成公主が中国から持参したという黄金の釈迦牟尼仏像で、12歳のお釈迦さんの姿をかたどったものとされる。でも、お顔があまりにもチベット的で、中国から持って来たという話はかなり怪しい、と僕は思う。実は、文成公主が中国から密かに持って来たものがある。それは繭だ。これによってチベットで養蚕が始まったんだってさ。他にも、文成公主とともに製粉、紙作り、酒造りなどの技術を持つ中国人職人がチベットに移り住んだので、多くの中国の文物がチベットにもたらされた。だから、文成公主は仏さまみたいにお祀りされており、チベット人の厚い信仰の対象となっている。
黄金の釈迦牟尼仏像はラモチェ寺からトゥルナン寺に移されて、トゥルナン寺の本尊として祀られている。トゥルナン寺は一般的に本堂に相当する部分の名称であるジョカンと呼ばれることが多く、中国名では大昭寺。ラサの中心にあり、いつも五体投地する信者さんで溢れている。
この写真もソンツェン=ガンポなんだけど、両側に王妃がおいでになる。向かって右手が文成公主で、左手はネパールから嫁に来たティツィン王女(赤尊公主)だ。トゥルナン寺を建てたのがティツィン王女で、文成公主がこれを助けたと伝えられている。こうしてチベットには中国仏教とインドの仏教が持ち込まれ、両者が混合した独自のチベット仏教が成立することになる。
これチベット文字でオムマニベメフムと書いてある。オムマニベメフムは、「蓮華にある宝珠に幸いあれ」という意味の呪文で、チベットの人はしょっちゅうこれを呟いている。かのオウム真理教の「オウム」と「オム」は同じ意味だ。
ソンツェン・ガンポが、自国の文字を造るために人材をインドに派遣した伝承が残っている。その旅路は苦難に満ちたものであり、チベット人にとってインドの文字は難解だったが、知識を会得して帰国した大臣トンミ=サンボータがインドのブラーフミー文字をもとにチベット文字を発明したと伝えられてる。
唐蕃会盟碑
8世紀に起きた安史の乱を自力で鎮圧できなかった唐は、ウイグルの力を借りてやっとのことで反乱鎮圧に成功する。ところが、これが周辺民族に唐の弱体化を露呈することになり、吐蕃は唐に侵入し、一時長安を占領した。そうした緊張状態が半世紀余り続いたのだが、821年に両国は和解した。これを記念して建てられたのが「唐蕃会盟碑」で、トゥルナン寺の前にある。平成15年にトゥルナン寺を参詣した際に見ようと思いながら、チベットの子供達と遊んでいて見るのを忘れたという苦い思い出がある。この碑文は対等な両国関係をうたっているが、実質的は唐が下手に出て結んでもらった平和条約だ。こうして富強を誇った吐蕃であったが、9世紀後半には王家が東西に分裂して衰退し、877年に滅亡した。
中華人民共和国は「チベットはもともと中国の領土だった」としてチベットを力ずくで支配しているが、チベットは紛れもない独立国である。
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602年に河南省で生まれた玄奘【げんじょう】は、5歳の時に母、10歳の時に父を亡くした。11歳の時、すでに出家していた兄を頼り洛陽の浄土寺に身を寄せ、13歳で出家。各地の寺に師を求めて仏教教義を研究したが疑問が多く、ついに、直接インドに赴くことを決意し、隋に替わって新しく成立した唐に出国の許可を求めた。しかし、当時は唐王朝が成立して間もない時期で、国内の情勢が不安定だった事情から何度申請しても出国の許可が下りなかった。
629年8月、玄奘は国禁を犯して密かに出国、単身インドに向けて出発した。玄奘28歳。役人の監視を逃れながら河西回廊を西に進み、玉門関の手前、瓜州【かしゅう】を発ち草原に入った時、年老いた胡人に西域行きを止められた。玄奘は言った、「貧道爲求大法 發趣西方 若不至婆羅門國 終不東歸 縱死中途 非所悔也」(私は大法を求めんがために西方に発とうとしているのです。もしバラモン国に至らなければ、けっして東に帰って来ません。たとえ中途で死んでも悔いはありません)と。
玉門関を過ぎると、広大なゴビ砂漠が広がる。食糧も水も底をつき、魑魅魍魎【ちみもうりょう】に襲われるが、奇跡的にゴビ砂漠を抜けた。
高昌故城
その年の暮れに、高昌【こうしょう】国(トルファン)に至った。熱心な仏教徒であった国王の麹文泰【きくぶんたい】は、玄奘の講義を受け、その学識の高さに感銘。「国民全員が帰依するから国師として一生留まって欲しい」と懇願したが、玄奘が断ると、一室に閉じ込めてしまった。何としても旅立つ玄奘の決意は変わらず、断食で抵抗すると、王は根負けして、インドからの帰りには3年間高昌国に立ち寄るという約束で、出発を許してくれた。
王は20年間の旅費を布施し、玄奘を抱きしめて泣きながら見送ってくれたが、この約束はついに果たされることはなかった。やがて玄奘がインドでの学びを終え帰路につく1年前に、高昌国は唐に滅ぼされ、王も死んでしまっていたのである。
鳩摩羅什【くまらじゅう】の故国・亀茲【きじ】国(クチャ)に2カ月滞在した後、玄奘は西域の商人らに混じって天山山脈に挑んだ。天山は夏でも雪がとけない極寒の氷山。強風が吹けば、砂や石が飛んでくる。眠ろうにも渇いたところはない。遭難覚悟の7日間の旅であった。
王は20年間の旅費を布施し、玄奘を抱きしめて泣きながら見送ってくれたが、この約束はついに果たされることはなかった。やがて玄奘がインドでの学びを終え帰路につく1年前に、高昌国は唐に滅ぼされ、王も死んでしまっていたのである。
鳩摩羅什【くまらじゅう】の故国・亀茲【きじ】国(クチャ)に2カ月滞在した後、玄奘は西域の商人らに混じって天山山脈に挑んだ。天山は夏でも雪がとけない極寒の氷山。強風が吹けば、砂や石が飛んでくる。眠ろうにも渇いたところはない。遭難覚悟の7日間の旅であった。
命からがら天山山脈を越えた玄奘は、イシク・クル湖に出た。さらにシルクロードを西へ進み、石国(タシケント)・康国(サマルカンド)を通り、鉄門にさしかかる。鉄門はサマルカンドとトハリスタンとの間にある狭く険しい道のこと。インドに至る要害で、両側の崖が鉄色を帯び、鉄の門を設けてあった。
平山郁夫筆「大唐西域壁画」より「バーミアン石窟」
鉄門を抜けて現在のアフガニスタンに入った玄奘はバーミヤンを訪れている。玄奘は『大唐西域記』に、「二体の大仏は金色に輝き、王城や伽藍が甍を連ねており、300メートルもの巨大な涅槃像があった」と記している。僕も一度は見たいと思っていた大仏だが、2001年にターリバーンにより爆破されてしまった。クソッ

平山郁夫筆「大唐西域壁画」より「ナーランダの月」
玄奘はさらにガンダーラを通って、インダス河を渡り、カシミールに入った。鳩摩羅什も若い頃に仏教を学んだ地だ。その後、祇園精舎やカピラ城、ルンビニー園などのブッダゆかりの地を巡礼した後、目的地であるナーランダ僧院に辿り着いた。玄奘31歳の時である。
ナーランダ僧院では5年間にわたり、シーラバドラ(戒賢)に師事して唯識【ゆいしき】の教学をきわめ、ハルシャ=ヴァルダナ王にも会見。さらにインド各地に求法と仏蹟巡礼の旅を続けた。645年、膨大な経典をたずさえて再び陸路で帰国したが、長安を出て17年の歳月が流れていた。
ナーランダ僧院では5年間にわたり、シーラバドラ(戒賢)に師事して唯識【ゆいしき】の教学をきわめ、ハルシャ=ヴァルダナ王にも会見。さらにインド各地に求法と仏蹟巡礼の旅を続けた。645年、膨大な経典をたずさえて再び陸路で帰国したが、長安を出て17年の歳月が流れていた。
写真は世界史の資料集にもよく掲載されている玄奘の像だけど、恥ずかしながら長い間中国で描かれたものだと思い込んでいた。ところがこれ鎌倉時代の日本で描かれたもので、東京国立博物館が所蔵している。経典をぎっしり積み込んだ笈【おい】を背負って、脚絆【きゃはん】を着け、草履を履いた旅姿で描かれている。よく見て欲しいんだけど、首に髑髏【どくろ】を繫【つな】いだ首飾りを下げ、腰には刀を差し、右手には払子【ほっす】、左手には経巻を持ってるよね。それじゃ、上部の円形の大きな笠から吊り下げられている物は何だ?分かるかな?これ、香炉なんだ。背中に背負ってる経典が虫に喰われないように香を焚きながら帰ったんだってさ。
でも、この絵は間違い。玄奘が持ち帰った経典は背中に背負って運べるような分量じゃなくて、馬20頭が必要だったんだって。
でも、この絵は間違い。玄奘が持ち帰った経典は背中に背負って運べるような分量じゃなくて、馬20頭が必要だったんだって。
そのころ太宗は国勢発展を意図して641年からヴァルダナ朝に外交使節を送っていた。643年にはインドに派遣していた王玄策らがブッダ説法の遺跡などを巡礼し仏典を得て帰朝し、インドブームがわき起こった。その直後に思いも掛けない玄奘からの手紙が届いたる。「私は国禁を犯して出国しましたが、おびただしい書籍や珍宝をもって、ただいま于闐【うてん】(ホータン)まで帰ってまいりました。」これを読んだ太宗はたいそう(駄洒落)喜んで、早速迎えの者を遣わした。
太宗はその労をねぎらって玄奘三蔵の号を贈るとともに、勅命によって経典の翻訳にあたらせた。玄奘がモデルになった『西遊記』があるから、三蔵法師というと玄奘のことだと思ってるかも知れないけど、三蔵法師は固有名詞じゃない。経・律・論の三蔵に通達している学僧に対する尊称だから、三蔵法師は何人もいて、鳩摩羅什も三蔵法師だよ。
玄奘は持ち帰った経巻の訳業を太宗に願い出たが、許可に当たって西域の詳細な報告書を提出するよう命じられ、編纂したのが『大唐西域記』であり、帰国の翌年に成立している。玄奘が歴訪した110カ国および伝聞した28カ国の事情が述べられており、貴重な史料となっている。
また、玄奘は亡くなるまでの約18年間に、『大般若経』600巻を含めて75部1335巻の漢訳を完成させた。羅什の訳が35部294巻だから、いかに大規模な翻訳事業か分かると思う。玄奘の訳風は逐語訳で「新訳」と称され、羅什のものを「旧訳」【くやく】と読んで区別する。
翻訳事業はまず弘福寺、ついで大慈恩寺で行われたが、大慈恩寺は648年に皇太子の李治(後の高宗)が亡き母の追善供養のために建てた寺で、玄奘が上座として迎えられた。652年、玄奘がインドから持ち帰った経典や仏像などを保存するために境内に大雁塔【だいがんとう】が建てられた。長安のシンボルとも言えるこの塔は当初5層であったが、武則天の時代に改修されて、現在は7層64メートルある。木製の階段が螺旋状に頂上まで続いていて登ることが出来る。階段は般若心経の文字数と同じ265段。平成12年に上まで登ったが、二日酔いで傾斜のきつい階段を登るのはえらく大変だったのを今でも覚えている。
平山郁夫画伯の「大唐西域壁画」を2枚紹介したけど、この壁画どこにあるか知ってる?写真は薬師寺の玄奘三蔵院伽藍の玄奘塔。その北側にある大唐西域壁画殿に描かれた全長約37メートルという大壁画で、壁面13面に7場面が描かれている。構想30余年、実制作20年という期間を経て、平成12年12月に完成させた超大作だ。玄奘塔は玄奘三蔵の頂骨を真身舎利【しんじんしゃり】として安置したお堂で、正面の扁額には「不東」の文字が刻まれている。
じゃ、なんで玄奘三蔵が薬師寺に祀られているか分かる?薬師寺の宗派は法相宗【ほっそうしゅう】だけど、法相宗は唯識宗【ゆいしきしゅう】とも言って、玄奘がインドから唯識説を中国に伝え、その弟子の慈恩大師基が開いた宗派なんだ。だから、薬師寺にとって玄奘は事実上の宗祖なんだよね。
じゃあ、なんで薬師寺に玄奘の頭蓋骨があるのか?
玄奘の遺骨は長安・興教寺の舎利塔に納められてたんだけど、宋の時代に長安から南京にもたらされた後、太平天国の乱で行方不明になっちゃった。ところが、日中戦争最中の1942(昭和17)年南京を占領していた日本軍が、偶然にも土木作業中に玄奘の頭骨を納めた石棺を発見した。頭骨は当時の南京政府との間で応酬を経た後、分骨することで決着を見、日本では現在、さいたま市の慈恩寺に奉安されている。その一部が1981(昭和56)年に薬師寺に分骨され、玄奘塔に安置されたってわけだ。薬師寺に行くことがあったら、是非玄奘三蔵院にもお参りしてね。
ちなみに、遺骨発見当時の南京政府の主席は汪兆銘【おうちょうめい】。日本の傀儡政権が分骨を認めたんであって、俺たちゃ決して認めないぞ、ということで、現在の中国は玄奘の遺骨を返せと言っている。どうする?
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ちなみに、遺骨発見当時の南京政府の主席は汪兆銘【おうちょうめい】。日本の傀儡政権が分骨を認めたんであって、俺たちゃ決して認めないぞ、ということで、現在の中国は玄奘の遺骨を返せと言っている。どうする?
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玄宗は宮廷の女禍を一掃し、意気と情熱に燃えて政治の革新に乗り出して、「開元の治」と称揚される実績をあげた。しかし、開元の年号が29年で終わりを告げる頃には、玄宗もいつしか遊惰安逸に流れ、奢侈を好む凡庸な君主になりさがっていた。
玄宗は寵愛した武恵妃が没すると、武恵妃の産んだ息子・寿王【じゅおう】の妃であった楊玉環【ようぎょっかん】に目をつけ、740年に息子と離縁させる。玄宗55歳、楊氏21歳の秋であった。いったん女冠(道教の尼)として改めて後宮に召して太真の名を与え、745年には貴妃(後宮で皇后に次ぐNO2)の称号を与えて溺愛したのは745年のことであった。息子の嫁さんを取り上げて自分のものにするなんて不道徳なことは漢民族はしない。玄宗も北方民族の出身だから、そんなの関係ね~。
楊貴妃は美貌に加えて歌舞音曲の才能が溢れていたから、色好みの玄宗は楊貴妃との逸楽に溺れた。白居易の『長恨歌』にいう、「(楊貴妃は)天生の麗質、自ら棄て難く、一朝、選ばれて君王の側に在り、 眸【ひとみ】を迴らせひとたび笑えば百媚【ひゃくび】生じ、 六宮【りくきゅう】の粉黛【ふんたい】も顔色なし。春寒くして浴を賜う華清の池 、温泉の水、滑にして凝脂に洗ぐ。侍児、扶け起こすも嬌々として力無く、始めて是、新たなる恩沢を承【う】けん時ぞ……」と。
楊国忠
玄宗が楊貴妃を溺愛したため、楊貴妃の一族はみな高位にのぼった。なかでも、又従兄弟の楊国忠は 学問を好まずに酒とばくちを好み、一族の嫌われ者であったが、楊貴妃のお陰で出世を重ね、752年に李林甫を蹴落として宰相の地位に上り詰めた。
安禄山
安禄山【あんろくざん】は本姓を康という。康国はサマルカンドのことなので、父親はイラン系のソグド人と考えられる。母親はトルコ系の突厥【とっけつ】人だが、子供がないことを悲しみ突厥の戦神・軋犖山【アツルクザン】に祈って生まれたので、幼名を軋犖山と名づけた。父に早く死別し、母が突厥人の安氏と再婚したので、連れ子だった彼も安姓を名乗ることになった。
安禄山が14歳も年下の楊貴妃の養子になりたいと願い出ると、玄宗は喜んでこれを許した。昔の中国には、洗児【せんじ】という行事があった。これは、生まれて3日目の赤ちゃんを湯に入れて、お客様を招き誕生を祝う宴のことだ。751年1月3日に宮中でこの洗児が行われた。金銀刺繍で飾られた豪奢なオムツをはかされ、官女たちがかつぐ輿に乗せられて登場したのが、なんと安禄山だ。彼の誕生日は1月1日。母となった楊貴妃が息子のために洗児をやったということだ。いい年をした200キロもある巨体のおっさんがオムツ姿で官女に担がれた輿に乗っかっている。安禄山は芸人じゃないよ、今で言えば国境警備軍の隊長の地位にある軍人だよ。ところが、それを見た玄宗は怒るどころか、ご褒美に金銀財宝や豪邸をプレゼントしたんだって。本当に世も末だね。
それ以後、安禄山が頻繁に楊貴妃の居室に出入りして二人で夜を明かすこともあり、二人の醜聞が世間に流れていても、玄宗は全然疑おうとはしなかった。それも安禄山を信じていたというより、愚直な蕃人だからと安心してたんだろうね。
安禄山【あんろくざん】は本姓を康という。康国はサマルカンドのことなので、父親はイラン系のソグド人と考えられる。母親はトルコ系の突厥【とっけつ】人だが、子供がないことを悲しみ突厥の戦神・軋犖山【アツルクザン】に祈って生まれたので、幼名を軋犖山と名づけた。父に早く死別し、母が突厥人の安氏と再婚したので、連れ子だった彼も安姓を名乗ることになった。
6カ国語に通じる商人であったが、節度使(辺境の募兵集団の指揮官)の幕僚となって武人として台頭、中央の官僚に賄賂を贈って昇進を重ねた。政敵を追いやることしか考えていない時の宰相・李林甫は、中国人高官が節度使として辺境で勢力をもつことを恐れた。そこで、節度使にはことさらに異民族や身分の低い者を登用したので、742年安禄山は平盧【へいろ】節度使となった。
安禄山は超メタボで、腹の肉は膝まで垂れ下がり、330斤(195キロ)あったというから、逸ノ城なみだ(ちなみに逸ノ城は227キロある)。彼が帯を締める時は、3,4人の附人が手助けをし、附人の2人はその巨大な腹を持ち上げ、宦官の豬児【ちょじ】が頭でそれを支えている間に締めたという。その巨体でよたよた歩く姿が、なんとなくおかしいということで、楊貴妃はじめ女官たちには大ウケ。
ところが、こんなデブのくせに、玄宗の前でテンポの速い胡旋舞【こせんぶ】を舞う時は、まるで疾風のようだったという。逸ノ城も見習わねばね。
また、こいつは口が上手い。そのでかい腹を見て、ある時玄宗が訊ねた。「お前の腹の中には何が入ってるんだ?」
禄山は、「ただ赤心(忠誠)のみが入っています。」と答え、玄宗はたいそう喜んだそうだ。
ところが、こんなデブのくせに、玄宗の前でテンポの速い胡旋舞【こせんぶ】を舞う時は、まるで疾風のようだったという。逸ノ城も見習わねばね。
また、こいつは口が上手い。そのでかい腹を見て、ある時玄宗が訊ねた。「お前の腹の中には何が入ってるんだ?」
禄山は、「ただ赤心(忠誠)のみが入っています。」と答え、玄宗はたいそう喜んだそうだ。
安禄山が14歳も年下の楊貴妃の養子になりたいと願い出ると、玄宗は喜んでこれを許した。昔の中国には、洗児【せんじ】という行事があった。これは、生まれて3日目の赤ちゃんを湯に入れて、お客様を招き誕生を祝う宴のことだ。751年1月3日に宮中でこの洗児が行われた。金銀刺繍で飾られた豪奢なオムツをはかされ、官女たちがかつぐ輿に乗せられて登場したのが、なんと安禄山だ。彼の誕生日は1月1日。母となった楊貴妃が息子のために洗児をやったということだ。いい年をした200キロもある巨体のおっさんがオムツ姿で官女に担がれた輿に乗っかっている。安禄山は芸人じゃないよ、今で言えば国境警備軍の隊長の地位にある軍人だよ。ところが、それを見た玄宗は怒るどころか、ご褒美に金銀財宝や豪邸をプレゼントしたんだって。本当に世も末だね。
それ以後、安禄山が頻繁に楊貴妃の居室に出入りして二人で夜を明かすこともあり、二人の醜聞が世間に流れていても、玄宗は全然疑おうとはしなかった。それも安禄山を信じていたというより、愚直な蕃人だからと安心してたんだろうね。
754年、玄宗が安禄山を宰相に任用しようとしたが、楊国忠の反対にあって実現しなかった。これを恨んだ安禄山は、755年11月、玄宗より逆賊・楊国忠を討てとの密使を受けたと称し、史思明【ししめい】らとともに、20万の兵を率いて立ち上がった。安史の乱(755~763年)の始まりである。
范陽で兵を挙げた反乱軍は僅か1月で唐の副都である洛陽を陥落させ、756年1月、安禄山は大燕聖武皇帝を名乗り燕国の建国を宣言した。唐軍は洛陽から潼関まで退いたが、司令官封常清は敗戦の罪で、高仙芝は退却と着服(これは冤罪であった)の罪で処刑された。高仙芝といえばタラス河畔の戦いでアッバース朝と戦った高句麗出身の武将として有名だよね。
写真は楷書の四大家の一人である顔真卿【がんしんけい】の「千福寺多宝塔碑」。当時、楊国忠と対立して平原郡太守に左遷されていた顔真卿は、義勇軍を率いて反乱軍と戦い、唐朝のために気を吐いた。剛直な性格のために、時の権勢家と合わず、安史の乱後の785年には、藩鎮・李希烈の反乱に際し使者となった。李希烈は自分の部下になるよう再三にわたって説得したが、断固これを拒否したため殺され、中国史でも屈指の忠君とされる。
ちょっと話が逸れちゃったので、本題に戻そう。やがて潼関が陥落し、反乱軍が長安に迫ると、玄宗は慌てふためいて西方に逃れ、蜀をめざして都落ちした。756年6月13日の黎明、玄宗は楊貴妃、楊国忠、宦官の高力士らを従えて近衛兵に守られて宮門を出た。翌日、長安から西へ75キロの馬嵬【ばかい】に至ったが、乱の原因となった楊国忠を強く憎んでいた兵士達は、楊国忠を惨殺、さらに「賊の本」として楊貴妃を殺害することを要求した。玄宗は「楊貴妃は深宮にいて、楊国忠の謀反とは関係がない」と言ってかばったが、高力士の進言によりやむなく、楊貴妃に自殺を命ずることを決意し、最後の別れをした。楊貴妃は 高力士に伴われて仏堂に入り、仏前で高力士によって絞殺された。ときに楊貴妃37歳。
決起以来、目が悪くなっていた安禄山は、この頃に失明してしまう。超メタボだったから、糖尿病からくる網膜症だろうね。その上、悪性のできものまで出来て、そのストレスから周りの人間に当たり散らすようになり、部下に見放されてしまう。757年1月5日、安禄山は二男の安慶緒【あんけいちょ】によって大きな腹をブスリと刺されて、あっけない最期を迎えた。皇帝を名乗ってから一年、55歳であった。
これに反発した安禄山の盟友・史思明は唐に寝返って節度使に任じられた。しかし、758年に再び背き、安慶緒を殺して大燕皇帝を称した。ところが、761年、末子の史朝清を後継ぎにしようとしたために長男の史朝義によって殺されてしまう。
762年10月、ウイグルの援軍を得た唐は、洛陽の奪回に成功。史朝義は敗走し、范陽に逃れようとしたが、763年1月に追撃され、自殺。こうして8年に及ぶ安史の乱はようやく終結した。
唐はその後も1世紀に渡って存続するが、安史の乱以後は各地の節度使(藩鎮)が自立し、朝廷の力は弱体化した。
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これに反発した安禄山の盟友・史思明は唐に寝返って節度使に任じられた。しかし、758年に再び背き、安慶緒を殺して大燕皇帝を称した。ところが、761年、末子の史朝清を後継ぎにしようとしたために長男の史朝義によって殺されてしまう。
762年10月、ウイグルの援軍を得た唐は、洛陽の奪回に成功。史朝義は敗走し、范陽に逃れようとしたが、763年1月に追撃され、自殺。こうして8年に及ぶ安史の乱はようやく終結した。
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武周革命の陰の立役者は薛懐義【せつかいぎ】という謎の怪僧である。洛陽の薬売りから,武后の愛人となり,その勧めで僧侶となった男で、洛陽の白馬寺を修復してその寺主となった。彼は「大雲経」を偽作し、「太后は弥勒仏の下生なり,まさに唐に代わって帝位に即くべし」と宣伝し、全国の各州に「大雲経」を奉安する大雲経寺を造らせた。
竜門石窟の奉先寺にある高さ17mの盧舎那仏【るしゃなぶつ】の石像は、高宗の発願で造営されたが、像の容貌は武則天をモデルにしたと言われている。だが、彼女は弥勒仏の生まれ変わりとされたので話がおかしい。
写真は武則天が作成させた、いわゆる則天文字。今使っているのは、水戸光圀の「圀」という字だけだ。これは本来の「國」という字が、「もんがまえ」の中の「或」が「惑」に通じるというので、これを嫌って「八方」に変えた。武則天自身の名前「照」は「曌 」となった。「空」の上に「日」「月」であり、この字は武則天のためだけの文字である。「〇 」は何かわかる?これ、ゼロじゃなくて、星のことだよ。
武則天は改元好きでも知られており、皇帝時代だけでも13回改元している。普通元号は漢字2文字だが、天冊万歳・万歳登封・万歳通天と4文字のものもある。日本の元号にも天平感宝とか天平勝宝とか4文字の元号があるけど、この時の天皇は誰?そう、聖武天皇や孝謙天皇だ。聖武天皇の皇后で孝謙天皇のお母さんは誰?
武則天は改元好きでも知られており、皇帝時代だけでも13回改元している。普通元号は漢字2文字だが、天冊万歳・万歳登封・万歳通天と4文字のものもある。日本の元号にも天平感宝とか天平勝宝とか4文字の元号があるけど、この時の天皇は誰?そう、聖武天皇や孝謙天皇だ。聖武天皇の皇后で孝謙天皇のお母さんは誰?
そう、藤原不比等の娘の光明子、光明皇后だ。聖武天皇のやったことは?はい、東大寺の大仏(盧遮那仏)造立、国分寺・国分尼寺の建立だよね。武則天のやったことに似てない?恐らく光明皇后が武則天の影響を受けて、真似したんだね。
性格は残忍で品行もおさまらず、悪く言われることの多い武則天だけど、門閥貴族に替えて優れた科挙官僚を採用し、多くの書籍を編纂させるなど、優れた政策を行っている。その辺は正当に評価すべきだね。
晩年の武則天が病床に臥せがちとなると、宮廷内では唐復活の機運が高まった。705年1月、中宗を復位させ、ついに皇帝の座を降りた。67歳で即位してから15年、齢83歳となっており、同年12月に亡くなった。
韋后
武則天の死により女禍が去ったかと思われたがそうはいかなかった。第2の武則天になろうとする女が現れる。中宗の皇后である韋后【いごう】だ。中宗は母親の怒りに触れて僅か54日で皇帝の座から引きずり下ろされ、湖北に流され幽閉された。怖い母親はいつ何時刺客を送ってくるかも知れない。恐怖心から自殺しようとしたこともあった。そんな時、いつも中宗を励まし、ともに泣いてくれたのが韋后だった。中宗は「また陽の目を見ることがあったら、お前の望みは何でも叶えてやろう」と約束していた。
安楽公主
ついにその日が来たのである。韋后は何を望んだのか?「私もお母さんのようになりたい」。710年、ついに娘の安楽公主とともに中宗を毒殺、韋后の実子を帝位につけて政権を独占したのである。
李隆基(玄宗)
第2の女禍に対して立ち上がったのが、中宗の弟・睿宗の三男坊・李隆基であった。クーデターを起こし、韋后はじめ韋氏一族やその与党をみな殺しにした。その結果、睿宗が再び皇帝の座につき、隆基はこのときの功績により皇太子に立てられた。これが唐の第9代・玄宗である。
女禍(武韋の禍)を一掃して帝位についた玄宗であったが、彼もまた晩年に女禍に苦しむことになる。言うまでもなく、楊貴妃のことだ。
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女禍(武韋の禍)を一掃して帝位についた玄宗であったが、彼もまた晩年に女禍に苦しむことになる。言うまでもなく、楊貴妃のことだ。
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太宗
唐の第2代皇帝の太宗・李世民は、その威風堂々たる風采、迷信を排斥し、儒教の精神をもって政治の方針としたこと、人材を集めたこと、そして何よりも臣下の諫言を素直に受け入れたことから、中国史上有数の名君の一人と称えられる。そして、中国の皇帝が一番失敗する女性に関しても、己を厳しく律して臨んだ。しかし、女禍の種は太宗本人が蒔くことになる。
太宗は長孫皇后が亡くなった翌637年に、山西出身の14歳の美しい娘を後宮に迎えた。武照、後の則天武后である。ほどなく宮廷に「李に代わり武が栄える」との流言が蔓延るようになると、これを「武照の聡明さが唐朝に災禍をもたらす」との意ではないかと疑い恐れた太宗は、次第に武照を遠ざけていった。649年、太宗の崩御にともない、武照は太宗から受けた寵愛の思い出を胸に抱きしめて、感業尼寺の尼になった。
太宗崩御の後、第9子の李治が即位し高宗となった。実は、太宗は自分の後継ぎのことでたいそう苦労している。当初立太子されたのは長男の李承乾であったが、太宗は第4子の李泰を偏愛していた。このことが皇太子の奇行につながり、最後は謀反を企てたとして廃された。しかも、喧嘩両成敗で李泰も追放されたため、結局おとなしくて気の弱い李治が皇太子に選ばれたのだが、これが武照が台頭する要因となった。すでに、太宗に殺害されることを恐れた武照に籠絡された李治は、妄信的に武照を寵愛するようになっていたのである。
高宗が父帝の菩提を弔うために、後宮の美女たちが出家している感業尼寺に行幸すると、武照は帝を前に声をあげて泣いた。深く感動した高宗はこれをいたわり、彼女を再び後宮に迎え入れた。この時、武照は33歳、高宗は28歳だった。これが、せっかく檻の中に繋いだ牝のライオンを連れ出してきたような結果になってしまう。
これ、よく考えてみれば、お父さんのお妾さんを自分のお妾さんにした訳だ。儒教道徳を重んじる漢族なら不道徳極まりないことで考えられないことだが、李氏は北方民族出身だから、そんなの関係ね~。
王皇后
実は高宗に武照の入宮を推薦したのは王皇后である。高宗の寵愛を蕭淑妃【しょうしゅくひ】からそらすためだった。武照が昭儀(後宮における上から5番目の地位)として後宮に入宮すると、高宗の寵愛は王皇后の狙い通り蕭淑妃からそれたが、王皇后自身も高宗から疎まれるようになった。
やがて武照は女児を産んだ。嫉妬している皇后がその室に見舞いに行った。武照はわが子を殺して褥【しとね】で覆い高宗の来御【らいぎょ】を待った。高宗が褥をとると、児は死んでいた。武照はさっき皇后が見えた時には元気であったのにと驚きかつ悲しみ泣いた。高宗の武照への愛情はいよいよ深まり、王氏を廃して武照を冊立しようとした。
これに反対したのは、高宗の伯父にあたる長孫無忌【ちょうそんむき】と褚遂良【ちょすいりょう】の二人だけであった。褚遂良は南朝の出身で虞世南【ぐせいなん】、欧陽詢【おうようじゅん】とともに初唐三大家の一人とされ、写真の「雁塔聖教序碑【がんとうせいきょうじょひ】」は楷書の傑作として有名だ。僕も書道を習っていた時はこれを臨書したもんだ。
655年、武照を皇后に冊立する詔書が出され、「陰謀下毒」の罪により王皇后と蕭淑妃の2名は庶民に落とされ、諫言した長孫無忌と褚遂良を蹴落とされた。あとは宮廷内部の真空地帯である。何一つ妨げになるものはなかった。皇太子であったおのれの実子二人をはじめ、太宗、高宗の兄弟一族70余人、宰相・大臣級の高官36人を皆殺しにしてしまった。
655年、武照を皇后に冊立する詔書が出され、「陰謀下毒」の罪により王皇后と蕭淑妃の2名は庶民に落とされ、諫言した長孫無忌と褚遂良を蹴落とされた。あとは宮廷内部の真空地帯である。何一つ妨げになるものはなかった。皇太子であったおのれの実子二人をはじめ、太宗、高宗の兄弟一族70余人、宰相・大臣級の高官36人を皆殺しにしてしまった。
年下の夫を持った女の嫉妬心を怖ろしい。高宗が廃皇后の幽閉の室を見舞ったことを知ると、武后は怒って、廃皇后を鞭打ち、手足を切って酒樽に放り込ませ、「骨まで酔わせてあげよう」と言った。蕭淑妃も同様の憂き目にあった。蕭淑妃は、「願わくば阿武(武后)老鼠【ろうそ】となれ、われ猫となってその喉を食らわん」と罵った。武后はその後、宮中で猫を飼うことを禁じたそうだ。これって、漢の呂后の真似したんだよね。なんとも怖ろしい。中国三大悪女に数えられるわけだよね。
664年、武后の宮中での専断に怒った高宗が廃后を画策して失敗して以来、高宗が政務を執る時は武后が背後の簾の内からそのすべてに関与するようになった。いわゆる垂簾【すいれん】政治である。
664年、武后の宮中での専断に怒った高宗が廃后を画策して失敗して以来、高宗が政務を執る時は武后が背後の簾の内からそのすべてに関与するようになった。いわゆる垂簾【すいれん】政治である。
683年、生来、癲癇【てんかん】に苦しんでいた高宗が56歳で没すると、武后が産んだ中宗が即位した。しかし、彼は武太后の怒りに触れて僅か54日の後に廃されてしまう。
武太后は中宗の弟を睿宗【えいそう】として即位させたが、政治には関与させず、簾中から政治を執り行った。690年、関中の人民900余名の嘆願によるかたちで国号を周と改めて自ら聖神皇帝を称し、睿宗を後嗣とした。いわゆる「武周革命」であり、中国史上唯一の女帝の出現であった。女帝を嫌う中国では、皇帝になっても則天武后と読んできたが、最近は武則天と呼ばれることが多い。
※人物の肖像は主に中国テレビドラマ『武則天』から拝借しました。
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