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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー遼と西夏・莫高窟第17窟の謎

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耶律阿保機

 耶律阿保機【やりつあぼき】は契丹【きったん】の8部族の一つ、迭刺【てつら】部の族長。本名はチュエリだが、「簒奪者」を意味するアブーチと呼ばれるようになり、その音訳が阿保機である。耶律はヤールートの音訳で、契丹の氏族名である。頭が禿【はげ】てるように見えるけど、これは契丹族のヘアースタイル。日本の侍も兜で頭が蒸れないように天辺を剃ってるから、同じようなもんだ。

 契丹(キタイ)は遼河上流のシラムレン川とラオハムレン川流域で活動していた遊牧狩猟民族で、イスラーム圏やヨーロッパではキタイが訛ったカタイ(Khatai)の名で中国を呼んだ。これが、英語で「中国」を意味する Cathay の語源となった。Cathay はあまり使わないけど、香港の航空会社キャセイパシフィックがあるよね。

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 阿保機は他の7部族の族長を次々とだましうちにして契丹族を統一し、916年に皇帝(カーン)を称して、契丹国を建国した。さらに、阿保機は周辺の征服に乗り出し、突厥、タングート、ウイグルなどの諸民族を制圧、926年には渤海を滅ぼし、中国への進出を図ったがその年に病没した。

契丹文字 

 また、阿保機は920年に契丹文字を作成している。これは唐王朝が滅亡し、周辺諸民族が独自の文化を形成していった中で起きた文化現象の一つで、日本でも漢字をもとに仮名文字の作られている。契丹文字も漢字を参考に作られた表意文字だが、現存する資料が少なく、解読はまだ完全には行われていない。

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石敬瑭

 阿保機が渤海を滅ぼした頃、中国北部 を支配していたのが五代の後唐である。936年に 石敬瑭【せきけいとう】が後唐を滅ぼして後晋を建国したが、この時に契丹の援助を受け、見返りとして燕雲十六州(先の地図も参考)を割譲し、絹布30万匹の贈与を約束した。ところが、次の皇帝が約束を守らなかったため、契丹は後晋を攻撃し、946年にこれを滅ぼしてしまった。

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 燕雲十六州を獲得し中国の一部を支配することなった契丹は、937年に国号を中国風に遼と改めた。彼らの出身地は遼河上流だからね。燕雲十六州は万里の長城の南側にあるため軍事上の要地であり、またこの地域は良質の鉄鉱石と石炭の両方を産出したため、経済的価値も小さくなかった。そこで、後周や宋は何度かこの地域の奪回を試みたが、失敗した。結局、1004年に宋の真宗は遼の聖宗と澶淵【せんえん】の盟を結び、国境を現況で確定するとともに、宋が遼に対して兄となること、 毎年絹20万疋・銀10万両を歳幣として遼に贈ることを約束させられた。まあ、簡単に言えば、金で平和を買ったわけだ。

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李元昊

 その頃に、さらに宋を圧迫する奴が登場してくる。李元昊【りげんこう】だ。李元昊はチベット系のタングート族だが、ご先祖さんが唐に降って李姓を賜った。李元昊は1038年に興慶【こうけい】を都として皇帝を名乗り、大夏(中国は西夏と呼んだ)を建国した。大夏の攻撃に手を焼いた宋は、1044年に慶暦【けいれき】の和約を結び、宋を君、西夏を臣と位置付け、宋は毎年銀5万両、絹13万匹、茶2万斤を贈ることなどを約束した。遼と大夏に贈る莫大な歳弊が宋の財政を圧迫し、やがて王安石の改革が実行されることになるが、この緊張状態は女真族の登場によって新たな段階に入っていく。

西夏文字 

 李元昊も漢字の要素を組み合わせて西夏文字を作ったが、契丹文字と違いほぼ解読されている。中国人を意味する「漢人」に当たる文字は、「小偏に虫」という差別的な構成で表記される。中国人を「小さい虫」と呼んで馬鹿にしている態度は、北魏の孝文帝と比べると雲泥の差があるよね。

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  このポスター覚えてる?1988年に公開された日中合作の映画『敦煌』のポスターだよね。ご覧になりましたか?李元昊の役を渡瀬恒彦が演じていたの覚えてる?この映画は井上靖の同名の小説を映画化したものだけど、クライマックスは主演の佐藤浩市演じる行徳が敦煌の文化遺産を戦乱から守るために、貴重な書籍や経典を敦煌郊外の石窟寺院に運び出していくシーンだ。実はこの小説は史実をもとにしたフィクションだ。

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 敦煌の莫高窟【ばっこうくつ】には492の石窟があるが、そのうちの第17窟は現在、蔵経洞と呼ばれている。正面に坊さんの像があるけど、もともとは高僧の像を安置する御影堂として造られた窟だった。この窟が見つかったのは1900年のことで、それまでは壁に封じ込められていた。

 当時、王圓籙【おうえんろく】という道教僧が、飢饉のため流浪したすえに莫高窟にたどり着き、そこに暮らしながら、石窟に積もる流砂をほうきで掃き出したり、寄付を募っては修復を加えるなどして過ごしていた。ある時不謹慎にも第16窟の入口付近で煙草を吸っていたら煙が壁に中に吸い込まれていった。変に思って、キセルで甬道を叩いた時に空洞のような響きが返って来た。

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 そこで、壁を壊してみると、なんと壁の向こう側には古文書類が天井まで積み上がった小窟があった。これが第17窟で、蔵経洞と呼ばれるようになった。この発見のうわさは徐々に広まり、1907年に莫高窟を訪れたイギリスの探検家、オーレル=スタインは文書類が予想以上に貴重なものであることを理解すると、王圓籙に僅かな金を渡して数千点もの文書や絵画を手に入れ、自国に持ち帰った。その後、フランスのペリオ、日本の大谷探検隊、ロシア隊などにより、多くの文書類がまたたくまに国外に流出していった。こうして貴重な遺物のほとんどは現地を離れてしまったが、このことが逆に、敦煌に関する研究が「敦煌学」という国際的広がりをもつ研究分野に発展してゆく機縁ともなった。

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 さあ、そこで問題になるのが、いつ、誰が、どのような事情で、ここに大量の経典や絵画を積み上げ、壁をつくって封じたのかということだ。ペリオが唱えた説は、西夏を建てたタングート族が敦煌へ侵入する直前に、敦煌の仏教徒が襲撃に備えて大事な文書類を小さな洞窟に封じ込めた、というものだった。井上靖もこの説に基づいて小説を書いているので、映画でもそのように描かれていた。

 しかし、西夏の支配者は厚く仏教を信奉しており、むしろ莫高窟の造営に力を注いでいるので、この説は疑わしい。そこで出された説は、西夏が攻撃したのではなく、むしろ西夏がイスラームのカラハン朝の侵攻から経典類を守るために封じたという説である。また、蔵経洞から発見された文書類は、経の断片や残巻、紙の両面を使用したものが多いため、焼却するに忍びない使い古された経巻や文書、幡画、仏画を、ひとところに集めて封じ込めたのではないかとする廃棄説もある。結局、決め手となる証拠は見つかっておらず、現在でも謎のままだ。

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 ところで、写真は撮影セットとして日本が敦煌市近郊に造った敦煌古城だ。広さは何と1万㎡もあり、映画の時代背景を出来るだけ忠実に反映して造られた。契約では日本側の条件が他の企業による転用を防ぐため焼却処分するとなっていたのを、現地官庁が「燃やすのなら灰一つ残さず持ち帰れ」とごねて燃やすのを阻止したという話だ。現在は映画やドラマのロケ地に使われたり、観光客から30元の入場料を取って見せたりしているそうだ。ちゃっかりしてるよな。

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2018/12/16 09:38 】

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