なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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ご存じマルコ=ポーロ。『東方見聞録』の著者として知らない人はいない。
彼は1254年にヴェネツィアで生まれたが、その前年から話を始めなければならない。父ニコロとその弟マフェオは貿易の旅に出発し、コンスタンティノープルに住み着いた。ここに6年もいたが、政変が起こると予測した彼らは、財産をすべて宝石に換えてその地を離れ、クリミアへと向かった。ここでキプチャク=ハン国のベルケ=ハンに会って宝石を贈り、2倍の値打ちの商品を受け取った。1年ほど滞在し帰ろうとしたが、戦争により交通路が危険になったことなどで東へと向かい、なんと元の都・大都まで行ってしまった。
フビライはポーロ兄弟が話すヨーロッパの様子に大いに興味を持った。そこで、ローマ教皇宛ての親書を二人に渡し、学芸に通じるキリスト教の学者100名と、イェルサレムのキリストの聖墓に灯されているランプの聖油を持参して戻るように命じた。
こうして二人はフビライの正式の使者となり、金の牌子【パイザ】を与えられた。牌子はモンゴルの交通網である駅伝制で使用された通行証のことである。二人はアジア大陸を西に向かいパレスチナまで来たが、ローマ教皇が亡くなり、新しい教皇はまだ決まっていないことを知った。これではフビライの親書を手渡せない。そこで、二人は新教皇が決まるまで待機するために、いったんヴェネツィアに帰ることにした。なんと15年ぶりの帰郷であった。ニコロを待っていたのは、自分の出発後に生まれ、今は15歳になったマルコだけであった。妻は帰らぬ夫を待ちわびて、すでに世を去っていた。
2年が過ぎても新しい教皇が決まらない。もう待てないと判断したニコロは、1271年、17歳になったマルコを連れてイェルサレムに向かい、聖墓のランプの聖油を少しもらい受けた。ここで、運良く新教皇が決まった。教皇にフビライの親書を渡し、フビライ宛ての親書ももらった。100人の学者を希望されたが、どだい無理なので、たった2人のドミニコ会修道士が同行することになった。でも、この二人は途中で怖じ気づいて逃げ帰ってしまう。
フビライに謁見するマルコたち
パミール高原を越え、タクラマカン砂漠南側の天山南路を通って、フビライの夏の都・上都に着いたのは1274年の夏だった。フビライは彼らが約束通り戻って来たことを喜び、聖油と教皇の親書を持参したことでひとまず満足した。マルコを一目見て気に入ったフビライは、マルコに側近として仕えるように命じた。世界史で習ったと思うけど、マルコ=ポーロも色目人【しきもくじん】の一人になったわけだ。結局、マルコは17年間も中国に滞在することになってしまう。この間、マルコは中国各地に派遣されて報告書を提出、フビライの好奇心を満足させた。
やがて望郷の念から帰国を望み、なかなか許されなかったが、元の皇女コカチン姫がイル=ハン国に嫁ぐ際、3人も随行団の一員として帰国が認められた。(ハイドゥの乱で陸路はとれなかった)1292年、一行は泉州(ザイトン)を出航し、マラッカ海峡を通ってイル=ハン国に至り使命を果たした後、1295年にヴェネティアに帰った。結局、マルコの旅は24年間、全行程15,000kmにも及んだ。帰国してから3年後、ヴェネツィアは敵対していたジェノヴァと交戦状態に入った。マルコは兵士として志願し従軍したが、ジェノヴァに捕らえられて捕虜となり、1299年に釈放されている。釈放後の生活については不明なところが多いが、1324年、妻と3人の娘を遺して病死したとされる。
『東方見聞録』
これで終わったら、マルコの名前が世界に知られることはなかった。ジェノヴァの獄中で、マルコは暇つぶしに東方で見聞きしたことを語った。これが評判になり、同囚であったピサの物語作家ルスティアーノが一冊の本にまとめたのが、『世界の記述(東方見聞録)』である。その内容があまりにももの珍しいため、初めは信じられず、マルコには「イル・ミリオーネ(百万男)」というあだ名がつけられた。中国の人口や富の規模について百万単位で物語ったことからきたというが、まあ「大風呂敷」といった意味合いだろう。
ご存じの通り、この書の中でマルコは日本を「黄金の国ジパング」として紹介した。ジパングは中国南部の発音で「日本国」を「ji-pen-quo」と呼んでいたものが訛ったもので、もちろんJapanのもとになった。
「ジパングは東海にあるお大きな島で、大陸から1,500マイルの距離にある。…この国ではいたる所に黄金が見つかるものだから、国人は誰でも莫大な黄金を所有している。…この国王の宮殿は、それこそ純金ずくめで出来ている。屋根は全部純金で葺いてあり、宮殿内の数ある各部屋の床も、全部が指2本幅の厚さをもつ純金で敷き詰められている。」
なんと大袈裟な、嘘ばっかり、と思われるかも知れないが、これはマルコが直接見たわけではなく、モンゴル人から聞いた話として書いたもので、マルコがそれを本当に信じていたかどうかは怪しい。黄金の宮殿というと、奥州平泉の中尊寺金色堂が思い浮かぶけど(金閣寺はまだ建立されていない)、これが中国に伝わり、日本は黄金の国であるという伝説が生まれていたのかも知れないね。
アントワープで刊行された活版印刷版『東方見聞録』(1485年刊)
実際に自分で見聞していないものに関しては問題もあるが、その後多くのヨーロッパ人がアジアへ旅行するにつれて、『東方見聞録』の記事の正確さが知られるに至った。これはコロンブスのアメリカ発見の機縁となり、またヘディンやスタインは、その中央アジア探検に、この書を座右から離したことがなかった。
ここで、一つ大きな問題がある。中国の史書『元史』や『新元史』には、マルコ=ポーロの名前がどこにも出て来ないのである。フビライのもとで重要な役を果たしていた人物がなぜ中国の史書に登場しないのか。マルコのほうも、いつ、どんな要件でどこへ行き、どんな重要情報をフビライに提供したのか、という点になると、牢獄では何も語らなかった。史書にも記載されず、自分も口外出来ない仕事と言えば、そう、スパイしか考えられない。マルコ=ポーロは江戸時代の公儀隠密のような仕事をしてたの、かもね。
また、マルコ=ポーロは中国に行っていないとおっしゃる学者もいる。史料に名前が出て来ない他に、17年も中国にいたのに、当時の中国の普通の習慣である茶・纏足【てんそく】のこと、また万里の長城などについても触れていないことが理由だ。そうすると、『東方見聞録』は複数の旅行者の情報をマルコ=ポーロという名に託して作り上げたということになるが、やっぱりマルコ=ポーロが実在したとするほうがロマンがあっていいよね。
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モンゴルの伝説的な歴史書『元朝秘史』の書き出しは次のように始まる。「上天より命【みこと】ありて生まれたる蒼【あお】き狼(ボルテ・チノ)あり、その妻なる惨【なま】白き牝鹿(コアイ・マラル)ありき。大いなる湖を渡りて来ぬ。オノン河の源なるブルカン岳に営盤【いえい】して生まれたるバタチカンありき。」
ここから、「蒼き狼」はモンゴル部族やチンギス=ハーンを指すようになった。
ここから、「蒼き狼」はモンゴル部族やチンギス=ハーンを指すようになった。
チンギス=ハーン、謎の男である。残された彼の肖像画はこの1枚だけ。わずか800年前の人物なのにである。それも後の想像図なので、中国化して描かれているのは間違いない。ある史書には、髪の毛の薄い大男だったと述べられている。
チンギス=ハーン、本名はテムジン(鉄木真)。テムジンはモンゴル語で「鉄の男」という意味なので、日本風に言えば鉄男君だ。テムジンはモンゴル部のボルジギン氏族の長・イェスゲイと妻ホエルンの長男として生まれた。
9歳の時に、母方の一族であるコンギラト部のボルテと婚約した。遊牧民族の間では婚約が成立すると、男の子を女の子の父親が育てるという習慣があったので、イェスゲイはテムジンをボルテの父に預けて帰路についた。しかし、その途中タタール部の宴会に遭遇し、毒入りの馬乳酒を勧められて殺されてしまった。テムジンは急遽家に戻ったが、タイチウト氏族をはじめとする被支配氏族が離反し、テムジン一家は部族から追放されてしまう。
モンゴル高原の過酷な自然環境の中で部族を離れ、家族単位で生活することは至難の業である。6人の弟達と母親を率いる家長となったテムジンでは苦難の道を歩んだ。牧草地を追われての生活は食べ物にも事欠く日々の連続だった。ある時、獲物の分配をめぐり兄弟喧嘩となり、テムジンは2人の弟を殺している。この苦難がこの男をどこまでも辛抱強く、負けず嫌いに、勇敢に、戦闘的に仕立てていった。
成人したテムジンはボルテと結婚したが、結婚早々にメルキト部の襲撃を受け、ボルテが略奪されてしまう。実は、テムジンの母ボルテはメルキトの男と結婚していたのを、イェスゲィが略奪して来て自分の嫁さんにしたんで、その仕返しだった。テムジンの盟友(アンダ)であったジャムカなどの協力でボルテを取り返したのだが、その直後に長男が生まれた。当然、メルキトの子ではないのかと疑われた。長男の名前はジュチ。ジュチはモンゴル語で「お客さん」の意味。大事な長男にそんな変な名前つけないよね。きっとテムジンも自分の子では無いと思ってたんだろうね。でも、テムジンはジュチをあくまで長男として扱ったんだよ。
その後、テムジンはジャムカやケレイト部のオン=カンの援助を受けて状況を好転させた。ジャムカとは決別したが、テムジンは、まもなくモンゴル部族長となり、タイチウト氏・タタール部・ケレイト部・西方のナイマン部・北方のメルキト部を撃破。宿敵ジャムカを処刑し、オングート部を服属させ、高原の全遊牧民はテムジン率いるモンゴル部の支配下に入った。1206年、オノン河畔でクリルタイ(部族長会議)を開き、9本の白いトゥク(日本の馬印)を打ち立て、諸部族全体の統治者たる大ハーンに即位してモンゴル帝国を開き、チンギス=ハーンを称した。テムジン46歳であった。「チンギス」はシャーマニズムの最高神「光の神」の意味とされる。
チンギス=ハーンは1211年から国家の存亡をかけた対金戦争を開始。5年間にわたり本拠地に帰ることなく、一枚岩となってひたすら金を攻撃し続け、その首都・燕京を陥落させ、燕雲十六州を支配下に置いた。その後、チンギス=ハーンは西方攻撃に転じ、西遼(カラ=キタイ)を滅ぼしたナイマン部のクチュルクを討ち、西遼に服属していた西ウイグル王国もモンゴルの支配下に入り、ウイグル人はモンゴル帝国を支える官僚層となった。
1218年、モンゴルの通商使節が虐殺されたオトラル事件を機にホラズムに遠征して、サマルカンド・ブハラを破壊、ホラズム=シャー朝を征服。ホラズム=シャー朝の君主アラーウッディーン=ムハンマドは西方に逃れたため、チンギス=ハーンはジェベとスベエデイにこれを追撃させた。アラーウッディーンはカスピ海の島で窮死するが、ジェベ・スベエデイはカフカスを越えて南ロシアにまで侵入した。
チンギス=ハーンの本隊はアラーウッディーンの子ジャラールッディーンを追って南下し、インドに侵入したが、苦戦を強いられて帰還した。その後、ホラズム遠征に対する援軍を拒否した西夏に侵攻し、1227年にこれを滅ぼし、モンゴルへの帰途に就いた。しかし、西夏攻撃中の落馬による怪我がもとで、1227年8月18日、チンギス=ハーンは黄河上流の六盤山【ろくばんざん】の麓で没した。66歳であった。
彼の遺体は故郷のブルカン山に運ばれて葬られたが、その上を騎兵隊が往復して土を踏み固め、墓石も目印も立てずに立ち去った。これが当時の遊牧民の習わしであった。そのため、チンギス=ハーンの墓のありかは現在にいたるまで現在謎のままである。
これ、誰か分かる?そう、源義経だね。義経は、兄の頼朝に追い詰められ、さらに奥州藤原氏の裏切りにあって、文治5(1189)年に平泉・衣川方面で死んだ、というのが通説だ。ところが、これには異説がある。義経は死んでおらず、北海道から樺太を経て大陸に渡ってチンギス=ハーンになったと言うんだ。
平泉を脱出した義経が十数年かけてモンゴルで力を得たとすれば、年代的なつじつまは合う。さっき書いたように、チンギス=ハーンの即位式には九棹の白旗が立てられた。これは、義経が清和源氏(源氏の旗は白)であることと、「九郎」であることを示したと考えられると言う。また。チンギス=ハーンの称号は、「源義経」を音読みにしたゲン・ギ・ケイがモンゴル風に言い換えられたものだと。これには、ちょっと無理があるように思うけどね。
これを最初に説いたのは、シーボルトの大著『日本』だ。その他、小谷部全一郎などいろんな人が義経=チンギス=ハーン説を唱えているけど、どれもこれもこじつけ理論ばっかりだ。これは明治以降、日本が大陸に進出しようとするうちに、これを正当化しようとする人たちが、この義経伝説を利用し、義経のように大陸に渡って活躍する夢を国民に植え付けようとしたしたんだと思う。特に満州事変で日本が満州を侵略しようとした時には、盛んに流布されるようになった。権力者が意図的に広めた伝説だったわけだ。
北海道名物ジンギスカン鍋。名前の由来については諸説あるけど、残念ながらチンギス=ハーンともモンゴルとも何の関係もない。
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中国では官吏を選任することを、「推挙された者を選挙する」意味で選挙といわれた。漢の武帝の時代の郷挙里選、三国時代の魏の九品中正は他薦制のため、有効な人材登用には至らなかった。そこで隋の文帝は、門閥貴族による高級官僚独占の弊害を改めるため九品中正を廃止して、学科試験による官吏登用制度を始めた。その制度が唐の時代に「科目による選挙」という意味で「科挙」と言われるようになった。
科挙が、誰でも受験でき(と言っても、もちろん男性だけだが)、公平で客観的な官吏登用制度としての形態を整えたのは宋の時代であった。宋の科挙制の特徴として、それまでの明経科などの諸科が廃止され、進士科に統一された(王安石の改革)こと、試験内容が経義(経書の解釈)・詩賦(作詩)・論策(論文)の三分野となったこと、厳格な試験体制の整備(不正防止の徹底)がなされたことなどがあげられるが、最も重要な意味を持ったのは最終試験としての殿試が設置され、三段階選抜方式が完成したことである。
殿試が始まったきっかけは973年の科挙だった。この年の合格者を講武殿で太祖が謁見した際、中にはなはだ不作法・無教養な者が2名おり、そのうちの1名は試験の総責任者・李昉【りぼう】と同郷であり、しかも不合格者から李昉は不正をしているとの提訴があったことから、全面的な再試験となり、太祖自らがこれに臨んで先の省試の不正が明らかになったことに始まる。宮廷の殿中で行われることから殿試と呼ばれ、清代の1905年に科挙が廃止されるまで続いた。
殿試が始まったきっかけは973年の科挙だった。この年の合格者を講武殿で太祖が謁見した際、中にはなはだ不作法・無教養な者が2名おり、そのうちの1名は試験の総責任者・李昉【りぼう】と同郷であり、しかも不合格者から李昉は不正をしているとの提訴があったことから、全面的な再試験となり、太祖自らがこれに臨んで先の省試の不正が明らかになったことに始まる。宮廷の殿中で行われることから殿試と呼ばれ、清代の1905年に科挙が廃止されるまで続いた。
皇帝が合否の最終決定権をもったことは、及第者がその恩義に感じ、天子の門下生として終生忠誠をつくすことにつながり、官僚制下の集権体制の確立と皇帝独裁の強化に大きく貢献した。
科挙に合格し順調にいけば政府高官として国政に参加できる。そうなると、実入りも多い。だから、みんな試験に狂奔したため、たいへん狭き門であった。それだけに受験勉強も半端ではない。男の子は3歳には、もう母親から漢字を教えられ、6歳からは塾で『四書五経』を丸暗記させられた。これらの文字の数は43万字にものぼり、これを全部暗誦【あんしょう】してしまうと、この数倍の注釈や、目を通すべき歴史・文学などの書物を勉強し、その上、作詩・作文を練習し、問題の解答練習もやった。
これは清代の乾隆37(1772)年の殿試において「第一甲第一名進士」に合格した金榜【きんぼう】という人物の答案。どう、素晴らしい達筆ですよね。実はこれも合格の条件。字の汚い奴は絶対合格しない。だから、習字の勉強もしなければならない。
ちなみに、他の行より2文字飛び出ている行が4行あるけど、これを擡頭【たいとう】と言う。「皇帝」とか敬意を表さなければならない言葉が文中に出て来たら、改行した上で通常の行よりも2字分上から書き出すのが決まり。下の方にあると恐れ多いということだ。
ちなみに、他の行より2文字飛び出ている行が4行あるけど、これを擡頭【たいとう】と言う。「皇帝」とか敬意を表さなければならない言葉が文中に出て来たら、改行した上で通常の行よりも2字分上から書き出すのが決まり。下の方にあると恐れ多いということだ。
さあ、しっかり勉強して自信がついたら、いよいよ受験だ。時代によって試験の回数が違うので、最も過酷だった清の時代で説明しよう。基本的に試験は3年に1回しか実施されないから、不合格だったら3年浪人だから辛いよ。
まず、国立学校を受験する。試験は3段階の学校試と、県試・府試・院試がある。院試に合格すると「生員」となり、これで科挙の受験資格が与えられる。
さあ、いよいよ科挙に挑戦だ。まず地方試験である郷試。郷試は各地の貢院で行われた。貢院は各省の省府にある常設の建物で、内部には「号舎」と呼ばれる長屋みたいな建物があり、これが連続している。
まず、国立学校を受験する。試験は3段階の学校試と、県試・府試・院試がある。院試に合格すると「生員」となり、これで科挙の受験資格が与えられる。
さあ、いよいよ科挙に挑戦だ。まず地方試験である郷試。郷試は各地の貢院で行われた。貢院は各省の省府にある常設の建物で、内部には「号舎」と呼ばれる長屋みたいな建物があり、これが連続している。
号舎は写真のように人がやっと一人入れるくらいの独房みたいな部屋の連続で、部屋の一方の壁はない。試験は3日がかりで行われ、科目ごとの制限時間は特になく、3日以内に全科目の答案を作成すればよいい。
貢院に到着した受験生たちは、まず見張りの兵士によって所持品検査を受ける。もちろん、四書五経の持ち込みは禁止。所持品検査は厳重を極め、筆の軸を割って中を調べたり、食料として持参した饅頭を割って中を調べたり、お尻の穴まで調べられた。所持品検査を終えて入門を許された受験生は一人ずつ号舎に入れられ、試験が終了するまで3日間、号舎から出ることを禁止された。貢院の門はいったん閉められると、試験が終了するまでいかなる理由があっても開かれず、急病で死者が出た場合には塀を越えて搬出しなくてはならなかった。
2泊3日の試験を3回やって、これに合格すると、その翌年に挙人覆試・会試・会試覆試・殿試を受験して、殿試に合格すると「進士」の学位がもらえ、官僚の卵となる。「生員」から「進士」になる倍率はなんと3000倍だった。
これは1256年の科挙合格者名簿。この年にトップ合格したのは、南宋末の宰相として有名な文天祥だったんだけど、成績第一位の者を「状元」【じょうげん】と言う。ただ、これは慣習として呼ばれていた名称で、正式には写真にある通り「一甲第一名」と言う。第2位が榜眼【ぼうがん】、第3位が探花【たんか】。郷試、会試、殿試の全ての試験においてトップ合格だった者を三元と呼ぶんだけど、麻雀の役である大三元は、ここに由来しているんだよ。
それと、名簿には生年月日や出身地だけじゃなく、系図まで記入してあるよね。実力主義だといいつつも、出自が問われているということで、名も無き庶民はいつの時代も不利なんだよな。
これ金榜【きんぼう】と言って、殿試の合格者名を記した黄金の札。金の字が写ってないけどね。金榜と言えば、さっきの答案用紙を書いた人物だったよね。乾隆37年のトップ合格者、つまり状元だ。合格者名簿と同じ名前。金榜(掲示板)に金榜(人名)という名を連ねることになった。しかも、トップで。きっと親は科挙合格を祈ってこんな名前にしたんだろうけど、それを実現しちゃうなんて、凄いよね。
合格者発表の様子を書いた絵だ。合格発表の時には有力者がテントを張り、優秀な人をみつけて婿に迎え入れようとした。そこで、こんな会話がかわされたようだ。「なに、結婚している。では、手切れ金を出すから、是非うちの娘を。その後の援助は惜しみませんよ」。結婚しているからと憮然として断ったという話が伝わるところをみると、ただちに乗り換えた者が多かったみたいだ。
合格は未来への保障でもある。だから、みんなが殺到する。宋の信宗が自ら言っている。いい女性と結婚したければ勉強しろ。金を儲けたければ勉強しろ、と。だが、金榜に名を連ねるのは至難の業だ。時代によって違うが、その平均年齢はおおむね36歳前後。中には曹松【そうしょう】のように70歳を過ぎてようやく合格できた例もあった。曹松は合格してまもなく死んでいる。何のために勉強してきたんだろうと、虚しくなってしまう。
無論、受験者の大多数は一生をかけても合格できず、経済的事情などの理由によって受験を断念したり、過酷な勉強と試験の重圧に耐えられず精神障害や過労死に追い込まれたり、失意のあまり自殺したという鍾馗【しょうき】の逸話など悲話も多い。鍾馗さんは学業成就の神さまとなって端午の節句に飾られるけど、なんで不合格者が学業成就の神さまになっちゃったんだろうね。
合格は未来への保障でもある。だから、みんなが殺到する。宋の信宗が自ら言っている。いい女性と結婚したければ勉強しろ。金を儲けたければ勉強しろ、と。だが、金榜に名を連ねるのは至難の業だ。時代によって違うが、その平均年齢はおおむね36歳前後。中には曹松【そうしょう】のように70歳を過ぎてようやく合格できた例もあった。曹松は合格してまもなく死んでいる。何のために勉強してきたんだろうと、虚しくなってしまう。
無論、受験者の大多数は一生をかけても合格できず、経済的事情などの理由によって受験を断念したり、過酷な勉強と試験の重圧に耐えられず精神障害や過労死に追い込まれたり、失意のあまり自殺したという鍾馗【しょうき】の逸話など悲話も多い。鍾馗さんは学業成就の神さまとなって端午の節句に飾られるけど、なんで不合格者が学業成就の神さまになっちゃったんだろうね。
合格したい、でも難しい。そこで、こんなカンニング用品を作った奴がいる。手のひらに収まるほどの小さなカンニング用の豆本や、数十万字に及ぶ細かい文字をびっしりと書き込んだカンニング用の下着が現代まで残っている。厳しい所持品検査が行われるのに、こんな物を試験会場に持ち込めたということは、当然賄賂を使ったということだ。
科挙は皇帝が直々に行う重要な国事だったため、その公正をゆるがすカンニングに対する罰則は極めて重く、犯情次第では死刑に処される場合もあった。賄賂で試験官を買収した大がかりな不正により、多数の関係者が集団死刑にされた事件などの記録も残っている。しかし、科挙に合格できれば官僚としての地位と名声と富が約束されるとあって、科挙が廃止されるまでの約1300年間、厳重な監視にも関わらず様々な工夫をこらして不正合格を試みる者は後を絶たなかった。
幼い頃から勉強するにも金がいる。賄賂を贈るにも金がいる。だから、受験し得る者はいきおい経済力のある者となり、新興地主・富商階層の子弟がその試験を受け、官吏となった。官吏を出した家は官戸といわれ、三代にわたって多くの特権が与えられた。結局、貧乏人は貧乏人のままだ。

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秦檜
北宋を滅ぼした金だが、華北を自力で支配し続ける力も自信もない。そこで、華北に漢人である張邦昌の楚や劉豫【りゅうよ】の斉などの傀儡政権をおいて、ここを統治し、1134年には金・斉連合軍による南伐が行われた。北方の軍事的圧力が高まる中で、南宋では和平派と主戦派が対立するようになった。
和平派の代表政治家が秦檜【しんかい】だ。秦檜は靖康の変の時に、徽宗・欽宗らとともに北方に連行されたが、和平派の金の将軍ダランとの間の黙契によって3年後に南宋に帰国した。ただ一人金の内情を知る者として高宗の信頼を受けて宰相となり、対金和平論を唱えた。
彼は金のもとで暮らした経験があるから、新興国家金の勢い、質実さ、強さを充分見ている。秦檜に言わせれば、金と戦って領土を奪還するなんていうのは、話としては景気がいいが全く不可能。そんなことをしては南宋まで滅びることになる。南北で金と南宋は棲み分けをして、友好関係を築くのが現実的な選択だという訳だ。
秦檜のいうことは、それなりに説得力はあるが、一つ大きな問題があった。それは金の捕虜になっていた秦檜がなぜ南宋に帰ってくることを許されたのか、という疑惑がもたれていたんだ。要するに秦檜は対南宋和平工作のために金から送り込まれたエージェントではないか、ということだ。さらに、秦檜の和平の主張がいくら理にかなっていても、国の半分を奪った相手と仲良くしようというのは、いかにも弱腰でなさけない。
彼は金のもとで暮らした経験があるから、新興国家金の勢い、質実さ、強さを充分見ている。秦檜に言わせれば、金と戦って領土を奪還するなんていうのは、話としては景気がいいが全く不可能。そんなことをしては南宋まで滅びることになる。南北で金と南宋は棲み分けをして、友好関係を築くのが現実的な選択だという訳だ。
秦檜のいうことは、それなりに説得力はあるが、一つ大きな問題があった。それは金の捕虜になっていた秦檜がなぜ南宋に帰ってくることを許されたのか、という疑惑がもたれていたんだ。要するに秦檜は対南宋和平工作のために金から送り込まれたエージェントではないか、ということだ。さらに、秦檜の和平の主張がいくら理にかなっていても、国の半分を奪った相手と仲良くしようというのは、いかにも弱腰でなさけない。
これに対して、あくまでも戦って領土を奪還しようという主戦派の主張は勇ましいから人気があった。この主戦派の代表者が岳飛【がくひ】だ。岳飛は河南省の農民の子に生まれた。幼い頃に父を亡くし、生母の由氏に育てられたという。
岳飛は若い頃に母の手で背中に入れ墨を彫ってもらった。「尽忠報国」の4文字である。この言葉を胸に宋を救うべく、21歳の時、開封を防衛していた宗沢が集めた義勇軍に参加した。岳飛は武勇に優れ、その中で金との戦いなどに軍功を挙げて頭角を現し、北宋滅亡後の1134年には節度使に任命された。岳飛は軍事上の才能では、当時の諸将中匹敵する者が無かったが、朝廷からすれば、最も有能な将軍ほど、また最も危険な存在でもあった。
諸葛亮のところで紹介した成都にある武侯祠の「出師の表」だけど、これは岳飛の書だ。他の将軍はみな文盲であったが、岳飛は文学の才もあり学者を優遇した。朝廷の最も恐れたのは、このような文武の官僚を併せ指揮する能力を持つ人物である。秦檜は和平交渉を進めるため、岳飛ら主戦派の将軍に対し、それぞれの家軍を解体して中央軍に再編することを伝えた。他の将軍がそれに応じるなか、岳飛は頑強に拒否した。主戦派の筆頭で民衆に絶大な人気を誇った岳飛は高宗・秦檜にとって危険な存在であり、1141年に秦檜は岳飛とその子・岳雲に対し、冤罪を被せて謀殺した(表向きは謀反罪であった。軍人の韓世忠が「岳飛の謀反の証拠があるのか」と意見したが、秦檜は「莫須有(あったかもしれない)」と答えている)。この時、岳飛は39歳、岳雲は23歳だった。
こうした犠牲を払うことにより、1142年、南宋と金の間で紹興【しょうこう】の和議が成立した。その条件は、淮河を境とし、南宋は金に臣礼をとり、毎年、銀25万両・絹25万疋を支払うということであった。国内の主戦派が排除された南宋はこの条件を受けいれ、和平が成立、華北を放棄したことを代償に、平和を実現させた。
浙江省杭州市(南宋の都・臨安)にある岳王廟。岳飛の死から約80年後の1221年、智化寺という寺院に「岳廟」として建てられた。1918年に「岳王廟」として大々的に再建されて、文化大革命中に完全に破壊されたが、正殿などが1979年に再建された。
平成23年に天台山に参詣した折に、岳王廟を訪れ、岳飛の墓に手を合わせた。右手は岳雲の墓。
岳王廟の岳飛像。秦檜により謀殺されたが、のち無実が明らかとなって鄂王【がくおう】を追封され、忠臣として崇められ、関羽とならぶ民族的英雄とされた。坐像の上部には「還我河山」(われに国土をかえせ)の巨額がある。
岳王廟には、後ろ手に縛られ、鎖に繋がれて跪かされている秦檜夫婦の石像がある。岳飛を逮捕したものの、さすがの秦檜も釈放するか処刑するか決めかねていた時、妻の王夫人が「さっさと殺せ」と煽動し、秦檜はやっと決心がついたそうだ。そんなの訳で夫婦揃って土下座している。秦檜は高宗の信任を盾にして反対派を弾圧しては一族の繁栄を図ったため悪評をかい、死後、姦臣・売国奴との烙印を押された。そのため、岳王廟に参詣に来た人々はこの石像を足蹴にし、痰や唾を吐きかける習慣があったそうだ。
しかし、近年は痰や唾を吐くことは禁止されている、と世界史の資料集に書かれている。岳王廟を訪れた最大の目的は、これが事実かどうかを確認することだった。確かに石像の後ろの石垣には「痰を吐くな」と書いてあるし、石像には冊がされている。訪問した日は日曜日だったので大変な数の参詣者がいたが、石像の前でどんな行動をするか、30分ほど観察していた。すると、その中の何人かが大声で秦檜像に向かい凄い剣幕で怒鳴りつけて、痰・唾こそ吐かなかったが、頭を思いっきり引っぱたたいていた。岳飛が殺されてから800年も経ってるのに、中国人というのは恨みを決して忘れないんだね。
秦檜に対する評価は近年大きく変わって来ている。現在は、当時の情勢からすれば秦檜の判断はむしろ正しく、対金講和によって南宋150年の基礎を築いた有能な政治家として評価されている。しかし、無実の人間に謀反の汚名を着せて殺していいはずがない。
※岳飛と秦檜の肖像は中国テレビドラマ『岳飛伝 THE LAST HERO』から拝借しました。
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秦檜に対する評価は近年大きく変わって来ている。現在は、当時の情勢からすれば秦檜の判断はむしろ正しく、対金講和によって南宋150年の基礎を築いた有能な政治家として評価されている。しかし、無実の人間に謀反の汚名を着せて殺していいはずがない。

※岳飛と秦檜の肖像は中国テレビドラマ『岳飛伝 THE LAST HERO』から拝借しました。
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完顔阿骨打【わんやんあくだ】は女真族の完顔部の族長である。女真(ジュルチンの漢訳)はツングース系民族で、松花江中流域で半農半狩猟生活を送っていた。1019年に女真は50余隻で対馬・壱岐に襲来し、島民を殺害、連行するという事件を起こしたが、日本ではこれを刀伊の入寇と言った。高麗で蛮族を意味する刀伊が女真であることは、当時の日本人は誰も知らなかった。
女真を統一した阿骨打は遼からの独立をめざし、1115年に遼軍を破り、国号を金として皇帝となった。遼に苦しめられてきた宋は阿骨打の威勢を聞いて遼を挟撃しようと図り、1120年に金と海上の盟といわれる同盟を結んだ。地図を見てお分かりの通り、海上ルートを使わないと宋と金は秘密交渉が出来なかったから、海上の盟という。遼が滅びた暁には、長城以北の占領は金にまかせるが、長城以南つまり燕雲十六州は宋がもらう。そして、今まで遼に贈っていた歳弊の絹30万匹・銀20万両は今後は金に贈るという内容だ。交渉が纏まらないうちに金は軍事行動を開始し、破竹の勢いで遼軍を破り、遼の西京つまり大同を陥れた。宋による燕京への攻撃が同時に開始されるはずだったが、宋軍は方臘【ほうろう】の乱など国内の内乱鎮圧に振り向けられていたため到着が遅れた上に、弱体化した宋軍は連戦連敗。結局、金に援軍を要請するはめになった。金軍はこの要請に応え、たちまち燕京を陥落させてしまい、宋軍は何の役にも立たなかった。で、結局宋が手に入れたのは、金に略奪されて空城になった燕州など6州のみで、その上燕京攻撃の代償として金に対して銀20万両、絹30万匹、銭100万貫、軍糧20万石を支払うことになった。それでも都では国初以来の宿願の一部が達成されたというわけで、お祭り騒祝宴が開かれた。
なお、金は1125年に今度は西夏と同盟して遼を滅ぼしている。
徽宗
この時の宋の皇帝が徽宗【きそう】である。徽宗と言えば、風流天子として知られ、書・画に優れ、院体画の第一人者として史上に不朽の名作を残している。
世界史の教科書にも掲載されている「桃鳩図」は徽宗の代表作だ。これ中国にあると思ってる人が多いと思うけど、実は日本の国宝なんだぜ。かの足利義満や井上馨も所蔵していたことがあり、現在は個人の所蔵となっている。贋作だという話もあるけどね。
花石綱
絵画についてはプロ級の腕前の徽宗だが、政治には熱意がなく、明代の小説『水滸伝』における悪役として有名な蔡京【さいけい】を宰相に任じ、自らは書画・骨董に凝り、美女を漁り、道教を信じて豪奢な生活で国費を乱費した。(『水滸伝』については明史で書く予定)また、紙幣の乱発・重税の加徴・専売の強化・花石綱【かせきこう】(庭園を造るために江南から調達させた珍花・名木・奇石などのこと)などで国民に負担を強いたため、農民反乱である方臘の乱も起きた。
欽宗
燕雲16奪還に失敗した宋は、金に占領された残りの州の奪還を計画し、こんどは遼の敗残軍と密かに結んで金への攻撃を画策した。伝統の「「夷を以て夷を制する」策略である。しかしこの陰謀は金に露見し、阿骨打の後を継いだ太宗(呉乞買・ウキツバイ)が首都・開封【かいほう】を攻撃してきた。徽宗は「己を罰する詔」を出して長男の欽宗に譲位し、鎮江まで逃げ出す始末だ。しかし、後に開封に連れ戻されて幽閉されてしまう。
欽宗は首都を包囲した金軍と、領土の割譲、賠償金の支払いなど屈辱的な内容の講和を結んだ。しかし、これに反発する主戦派により講和が守られなかったため、金軍は総攻撃を命じた。40日間余りの攻防戦の結果、1126年11月に開封が陥落。徽宗・欽宗以下の皇族と官僚など、3000余人が捕らえられて北方に連行(二帝北行)され、1127年北宋は滅びた。これが「靖康の変」である。徽宗・欽宗は五国城(黒竜江省)に幽閉されたまま帰国の願いもかなわず没し、徽宗の遺体は南宋と金の和平成立で返されたが、欽宗の遺体が返されることはなかった。また、同じくこの事件で宋室の皇女たち(4歳から28歳)全員が連行され、金の皇帝・皇族・将兵らの妻妾にされるか、官設の妓楼である「洗衣院」に入れられて娼婦となった。
こうして、宋はいったん滅亡したが、この変の際に都にいなかった欽宗の弟の康王が江南に逃れて即位し(高宗)、都を臨安(現在の杭州)に定めた。これを南宋という。南宋は豊かな江南の経済力と地の利、その後の金の軍事力の弱体化に助けられて、その後1世紀半ほど生き延びることができた。
こうして、宋はいったん滅亡したが、この変の際に都にいなかった欽宗の弟の康王が江南に逃れて即位し(高宗)、都を臨安(現在の杭州)に定めた。これを南宋という。南宋は豊かな江南の経済力と地の利、その後の金の軍事力の弱体化に助けられて、その後1世紀半ほど生き延びることができた。
NHKドキュメンタリー「中国王朝 よみがえる伝説」で紹介されたように、徽宗は美におぼれて政治をおろそかにした「亡国の天子」として蔑まれてきたが、最近その実像に新しい光が当たりつつある。徽宗は、福祉の充実に力を注ぎ、身分の低い高齢者のための養護施設「仁先院」、貧困者の医療施設「安済坊」、身分の低い人たちの共同墓地「漏沢園」を各地に造るなど、国民思いの皇帝でもあったのだ。
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