なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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チベット仏教は大乗仏教がチベット固有の土着宗教であるボン教という呪術的な宗教と融合して独自に発達したものである。以前はラマ教と呼ぶ場合が多かったが、「仏教の堕落した形態」とか、「民間信仰の混淆したもの」というニュアンスがあり、偏見に満ちた蔑称なので使うべきではない。
7世紀にチベットを統一した吐蕃【とばん】で国教とされていたが、13世紀にモンゴルのフビライによって征服されてからは元の宮廷によって保護された。フビライの国師となったのが、サキャ派の指導者パスパで、彼がチベット文字をもとに作成したのが写真のパスパ文字である。
ツォンカパ
15世紀初めにツォンカパがチベット仏教の改革を行った。それまでのチベット仏教はボン教の要素が強く、呪術的な現世利益を求めるものであったのに対し、戒律を厳しくし仏教本来の倫理性を強めた。
この教派は戒律を守っていることを示すために、写真のように黄色い帽子を被っていることから、黄帽派(ゲルグ派)と言われた。これ帽子と言ってるけど、坊さんが帽子を被るということはないと思うので、僕ら日本の坊さんが被っている燕尾【えんび】と同じ性格の物だと思う。この黄帽派に対して従来のチベット仏教を紅帽派、ボン教の呪術を続けているのを黒帽派と呼んでいる。
16世紀にモンゴル高原で再び勢力を持つようになったモンゴル人の中のタタール部を率いたアルタン=ハンは、黄帽派の僧ソナム=ギャムツォに深く帰依し、彼にダライ=ラマの称号を与えた。
ダライはモンゴル語で「広大な海」、ラマはチベット語で「師」を意味する。ゲルグ派の宗祖ツォンカパの弟子を1世としたので、ソナム=ギャムツォは最初のダライ=ラマなんだけど、ダライ=ラマ3世とされている。ゲルグ派では妻帯が禁止されているので、ダライ=ラマは転生と言って先代が死んだ時に生まれた者の中から選ばれて継承され、現在は写真のダライ=ラマ14世である。
どうやって次のダライ=ラマを決めるのかというと、ダライ=ラマが没すると、その遺言や遺体の状況などを元に僧たちによって次のダライ=ラマが生まれる地方やいくつかの特徴が予言される。その場所に行って子どもを探し、誕生時の特徴や幼少時の癖などを元にして、その予言に合致する子どもを候補者に選ぶ。その上でその候補者が本当の化身かどうかを前世の記憶を試して調査する。例えば、先代ゆかりの品物とそうでない品物を同時に見せて、ダライ=ラマの持ち物に愛着を示した時、あるいはその持ち物で先代が行っていたことと同様の癖を行ったりした場合に、その子どもがダライ=ラマの生まれ変わりと認定される。
ダライ=ラマ14世も4歳の時にダライ=ラマとして認定され、1940年に即位した。写真はその時のもので、 まだあどけない少年だ。
17世紀中頃のダライ=ラマ5世の時には高僧でありながら同時に政治的統治者でもある地位を占めるようになり、ラサにポタラ宮殿を建造してそこに住むようになった。何でポタラ宮殿というのか知ってる?実はダライ=ラマは観音菩薩の化身とされてるんだけど、観音菩薩の住む聖地をサンスクリット語でポータラカと言って、これのチベット訛りがポタラだ。ポタラ宮殿は観音菩薩の住む聖地ということだね。
ところで、写真は「日光見るまで結構言うな」で知られる日光東照宮だよね。実はこの日光も観音菩薩の住む聖地なんだ。ポータラカを漢字で補陀落【ふだらく】と表記したんだけど、これが訛って二荒【ふたら】、これを音読して「にこう」、ついで別の字が当てられて「日光」となった。
その証拠に日光東照宮のお隣に「二荒山神社」がある。昔は二社共通の拝観券があったんだけど、喧嘩でもしたのか、現在は共通券はない。
チベット仏教のNO1がダライ=ラマなら、NO2がパンチェン=ラマ。チベット第2の都市シガツィエのタルシンポ寺(写真)の高僧で、こちらは阿弥陀如来の化身とされており、もっぱら信仰上の指導者として崇拝されてきた。NO1が菩薩の化身で、NO2が如来の化身だというのは、なんか逆転してるみたいだけどね。パンチェン=ラマも、ダライ=ラマと同じように不死不滅の活仏として転生を繰り返しており、現在は11世なのだが、実はここに大きな問題がある。
そのパンチェン=ラマ10世が1989年に53歳という若さで急死したのである。暗殺されたという話もあるが、ご覧の通りかなりのメタボであり、心筋梗塞か脳梗塞による急死と考えられる。死因はまあともかく、6年後の1995年5月、ニマという当時6歳の少年が、ダライ=ラマ14世により、その生まれ変わりと認定された。ところが、その3日後にニマ少年は何者かによって誘拐され、今もって行方不明なのである。
同じ年の11月に中国政府がノルブ少年をパンチェン=ラマ11世と認定したことで、誘拐犯は明白である。現在北京で教育を受けているノルブ少年(もう29歳だから少年じゃないか)は、この後、中国政府の意向に添いながらチベットに君臨するのだろうが、卑劣な中国共産党には心底腹が立つ。

そんなこともあり、2014年9月、ダライ=ラマ14世は「私はもう生まれ変わらない」と宣言した。だから、14世が亡くなったら、チベット人の心の拠り所であるダライ=ラマはいなくなってしまう。
※チベットは現在、中国共産党による不当な支配を受けている。本来なら中国史に入れるべきではないが、諸般の事情により近世中国史として扱った。
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乾隆帝
雍正帝は1735年に在位13年で亡くなり、第4子弘暦【こうれき】が跡を継いだ。最盛期の清朝を統治したのが第6代乾隆帝【けんりゅうてい】である。雍正帝の精力が主に内政に集中されたのに対し、乾隆帝の時代は再び外征に力が注がれた。
彼は晩年、自らを「十全老人」と称したが、これは彼がその治世に10回の戦争を行い、それにすべて勝利したことを自賛したものである。彼の言う「十全の武功」とは、①1754年のジュンガル部出征、②58年のジュンガル部への再征、③59年のウイグル族征服、④49年の苗【ミャオ】族制圧、⑤76年の苗族への再征、⑥69年のビルマ遠征、⑦88年の台湾の反乱の鎮定、⑧89年のベトナムの服属、⑨90年のネパールの征討、⑩92年のネパールへの再征、の10回の軍事行動を言う。ところがこの10回とも乾隆帝は一度も出陣していない。自ら軍隊を率いて出征した康煕帝とはだいぶちがっていた。またこのうち実質的な勝利といえるのは①②③、つまり後年の新疆【しんきょう】省設置につながる戦役くらいで、その他は人命と莫大な戦費を費やしながら勝利とは言えない、実質を伴わないものだった。それでも現在の中国が領土権を主張する範囲は全てこの時の大清帝国の領土に入っている。
清では3年に1度、八旗兵を総動員した閲兵式【えっぺいしき】、軍事演習が行われた。この行事に招いた藩部・属国の代表に清の勢力の偉大さを見せつける目的もあった。上の図は即位4年目の1739年、完全武装で閲兵式に向かう29歳の乾隆帝の姿を描いたものだ。威風堂々と馬を進ませる乾隆帝の自信に満ちあふれた表情をよくとらえている。
鎧には黄色の地に竜など瑞祥を示す多くの模様が施されているが、描かれている竜は5本の爪と2本の角を持っている。5本爪の竜は皇帝しか用いることは出来ない。また、黄色は皇帝のシンボルカラー。だから、庶民が黄色の衣服を着ることは厳しく制限されていた。あっ、そう言えば、紫禁城の瓦も黄色だよね。
カスティリオーネ
この絵を描いたのがイタリア出身のイエズス会士カスティリオーネ、中国名は郎世寧【ろうせいねい】だ。1724年雍正帝はキリスト教を禁止し、宣教師をマカオに追放したが、北京の宮廷にいる宣教師は引き続き仕えることができたので、カスティリオーネも残り、1766年に北京で亡くなっている。
カスティリオーネと言えば円明園【えんめいえん】の設計に加わったことでも知られてるよね。円明園はフランスのヴェルサイユ宮殿を範としたバロック式庭園として建造され、中国最初の噴水を持つ庭園として貴重な文化財となった。しかし、1860アロー戦争の時、北京を攻撃したイギリス・フランス軍が北京を占領した際、跡形もなく焼き払われた。両軍兵士は略奪の痕跡を消すために火をつけたというから非道い話だ。円明園は長い間廃墟として放置されててきたが、最近はイギリス・フランス軍の蛮行の歴史的な記録として破壊された状態のまま整備され、公開されている。
また、乾隆帝は詩作を好み、生涯の詩作10万首と言われるが、学問も非常に大切にし、学者を総動員して大部の書物を編纂させた。中でも圧巻は『四庫全書』である。全国の書物を提出させ、4部門(経書・史書・諸子・文集)に分類して筆写したもので、紀昀【きいん】をはじめ360余人の学者が編纂に当たり、10年の歳月を費やして完成させた。なんと全部で79,070巻、230万ページ、36,382冊もあり、文字数にして10億字という、気の遠くなるような分量だ。これを7部作らせたんだけど、印刷じゃないよ、全部手書き。ただ残念なことに、太平天国や義和団事件などの戦乱によって失われたものが多い。
四庫全書編纂のために全国から書籍を集めたとき、江南地方からの提出が少なかった。明朝の基盤であった地域なので、反清朝の文言のある書物が多いためではないかと疑った乾隆帝は、さらに強く書物の提供を命じた。その結果、多数の反清朝の言辞や文言が見つかり、それらはすべて焼き捨てた。ということは、『四庫全書』編纂の目的には、反満州人、反清朝の書物を探し出し、取り締まるという文字の獄につながる目的もあったということだ。
ヘシェン(和珅)
これらの軍事的・文化的な成功により康煕・雍正・乾隆の三世の春の最後である乾隆帝の治世は清の絶頂期と称えられる。自らも「史上自分ほど幸福な天子はいない」と自慢していたという。乾隆帝は1796年、在位60年で祖父康煕帝の在位を越えるのをはばかって嘉慶帝【かけいてい】に譲位したが、太上皇帝としての訓政3年を加えると63年となり、中国史上最も長期間君臨した皇帝となった。その一方で退廃の芽生えもあった。乾隆帝は奸臣のヘシェン(和珅)を重用し続けた。
ヘシェンは宮廷で乾隆帝の輿【こし】の担ぎ手として仕えた際に、その好男子ぶりが皇帝の目に留まり、スピード出世を果たした。1776年には軍機大臣に任ぜられ,爾来20余年その地位にあった。その間多くの要職を兼ね,乾隆帝の娘を息子の嫁に迎え、貪欲な収賄を続け、官界を汚職の巷【ちまた】と化した。1799年乾隆帝が死ぬと直ちに罪を問われ,自殺させられた。在職中多額の賄賂をむさぼり取り,没収された財産は8億両にのぼったという。なんと国家予算の15年分だ。当時、「和珅がころんで嘉慶帝が腹一杯」という民謡がはやったんだってさ。 中国では2015年に周永康が汚職で失脚してるけど、昔から汚職天国だったんだ。
写真は「国よりも豪邸」と言われたヘシェンの邸宅跡。この豪邸は当時「和第」と呼ばれていたが、1851年、咸豊帝【かんぽうてい】の弟にあたる恭親王奕訢【えききん】が持ち主となりその時に名が「恭王府」と改められた。
「恭王府」内部
恭王府の敷地面積は約3.1万㎡。な、な、なんと、9,400坪だよ。これが全部賄賂で造られたんだから、嫌になりますね。
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康煕帝【こうきてい】には35人の男子があり、そのうち成年にいたったのは20人であった。康煕帝の皇太子問題は、彼の晩年に暗い影を落とすことになったのだが、その発端は、1667年、彼が22歳の時に、満1歳になったばかりの胤礽【いんじょう】を皇太子に立てたことに始まる。胤礽には兄の胤禔【いんし】がいたが、胤禔は皇后の子ではなかったため、康煕帝は嫡長子を皇太子に立てるという漢族王朝の伝統に従って、皇后から生まれた第2子の胤礽を皇太子としたのである。
康熙帝は胤礽を非常に可愛がり、遠征中に自筆の手紙を何度も差し出したり、一緒に狩りに行ったりした。また、成年しても爵位や領民を与えず、部屋住まいにした。これは帝位を円滑に継がせたいための処置であった。ところが、ジュンガル部のガルダン=ハン討伐で他の皇子たちが功績を挙げたので、6人に爵位と八旗や領民を与えた。旗は元来はそれぞれ独立した部族集団であり、後金のハンや清朝初期の皇帝は満州族の部族長の合議で選ばれており、皇帝が皇太子と定めても帝位を継げる保証は必ずしもなかった。そのため、各旗の旗人は壮烈な党派争いを演じ、陰謀が巡らされた。また、満州族には長子相続という慣習がなく、中国式の皇太子の地位など皇子たちには納得がいかず、兄弟みな同格だと認識していた。
一方、特別扱いされて成長した胤礽は、康煕帝の意に反して高慢貪欲で、徒党を集めて勢力を振るいたがり、康煕帝の身体の不調に際しても心配の色すら見せない。そうした胤礽の性格から父と子は次第に不和となっていった。
そうした中、1703年に胤礽の後ろ盾でもあったソンゴトゥがクーデターで失脚すると、胤礽は孤立して自暴自棄となった。1708年秋、内モンゴルに赴いていた際に、康熙帝は同行していた胤礽を跪かせ、泣きながら激しく叱責し、逮捕させた。康熙帝は、悲観のため不眠症となった。その後、北京への帰還の際に皇太子を正式に廃した。
一方、特別扱いされて成長した胤礽は、康煕帝の意に反して高慢貪欲で、徒党を集めて勢力を振るいたがり、康煕帝の身体の不調に際しても心配の色すら見せない。そうした胤礽の性格から父と子は次第に不和となっていった。
そうした中、1703年に胤礽の後ろ盾でもあったソンゴトゥがクーデターで失脚すると、胤礽は孤立して自暴自棄となった。1708年秋、内モンゴルに赴いていた際に、康熙帝は同行していた胤礽を跪かせ、泣きながら激しく叱責し、逮捕させた。康熙帝は、悲観のため不眠症となった。その後、北京への帰還の際に皇太子を正式に廃した。
第8皇子胤禩
胤礽が廃された後、皇長子胤禔が第8皇子胤禩【いんす】を新たな皇太子に推薦した。しかし、胤禩が反胤礽の中心人物であったことを知り、康熙帝は怒って貝勒【ベイレ】の爵位を取り上げた。さらに、第3皇子胤祉【いんし】が、胤禔はチベット増に頼んで廃太子に呪詛を仕掛けたと直訴した。調べたところ、廃太子の部屋に呪詛の証拠が見つかり、胤禔は群王の爵位を取り上げられ、監禁された。
その後、胤礽に会うと別人のように穏やかになっていたので、康熙帝は1709年春に再び胤礽を皇太子に立てた。しかし、胤礽が諸大臣との宴会を通じて皇太子党なるものを築いたことを知ると、康熙帝は歩軍総領トホチらを処刑し、胤礽は康熙1712年に再び廃されて幽閉された。これ以後、後継者問題に懲りた康熙帝は二度と皇太子を立てなかった。2度も皇太子を廃された奴は他にいないんじゃないかね。
第14皇子胤禵
その後康煕帝の死にいたるまで、次の皇帝の座をめぐって皇子たちの間には激烈な暗闘が行われた(九王奪嫡)。元々は皇后の産んだ第14皇子の胤禵【いんだい】が有力な帝位継承候補であったとされる。
その中で第4皇子の胤禛【いんしん】は有力候補にもはいらず比較的目立たなかったが、1722年、康煕帝の死後に後継者として発表された。皇太子を指名しないまま臨終を迎えた康煕帝は、側近の臣下の手をとり、その手のひらに四と書いた。それは第4皇子を指名したのであろうとされ、即位したのが雍正帝であった。実は十四と書いてあったのを、侍臣が指を曲げて隠したとか、なめて消してしまったとかの噂も流れ、「雍正簒位」として民間に広まることとなる。
第13皇子胤祥
即位後、雍正帝は兄弟のうち有力な者を捕らえ、第8皇子胤禩をアキナ(阿其那=犬)、第9皇子胤禟をサスヘ(塞思黒=豚)と改名して幽閉し冷酷に排除した。なんとも子供じみたことをやるよね。また、皇帝の諱を忌避する風習から、雍正帝に忠誠を尽くした第13皇子胤祥【いんしょう】除く兄弟の字を胤から允に改称させた。
雍正帝
皇位継承の暗闘を経験したことから、雍正帝【ようせいて】は皇太子を擁立しない方針を決めた。代わりの後継者指名法として、皇位継承者の名前を書いた勅書を印で封印した後、紫禁城乾清宮の玉座の後ろにある「正大光明」と書かれた扁額(順治帝の揮毫)の裏に隠し、崩御後に一定人数が立ち会った上で勅書を開く、という方法を考案した。これを「密勅立太子法」(太子密建)と言う。
それまでは皇太子の周りに次代の権力の座を狙って集まって来る者が追従を繰り返すことによって皇太子の性格が歪んだり、皇帝派と皇太子派の派閥争いが起きる弊害があったが、こういった事態を封じ、皇帝の専制君主の座が確立した。この方法により、清代には暗愚な皇帝が比較的出なかったと言われる。
雍正帝と言えば、「文字の獄【もんじのごく】」でも有名だよね。1726年、科挙の試験である郷試において、内閣学士の査嗣庭が出題した『詩経』の一節である「維民所止」(これ民のおるところ)という4字が、維は雍の、止は正の首をはねたものだとして、査嗣庭は投獄され病死、死体はさらし者とされた。さらにその息子も死刑、一族も投獄されたり、流罪に処されるという非常に厳しい処分を受けている。
雍正帝は「歴史上まれにみる徹底した独裁君主」であったが、単なる恐怖政治家ではなく、史上まれに見る勤勉な皇帝でもあった。毎日夜遅くまで政務に当たり、大量の上奏文にいちいち目を通し、全て自分で硃批【しゅひ】(皇帝自身による朱墨による諾否、その他の書き込み)を満洲語で書かれた上奏文なら満洲語で、漢文で書かれた上奏文なら漢文で書き込み、一日の睡眠時間は4時間に満たなかったという。
45歳で即位してから13年。1735年、働き続けた雍正帝は58歳で崩御した。仕事中毒とも言えるような働きぶりにからくる過労死だったかもね。
※肖像の写真は中国歴史ドラマ「宮廷女官若曦」から拝借しました。
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鄭成功
鄭芝竜【ていしりゅう】の通称は一官(老一官)で、外国人にはイークァンと呼ばれていた。鄭芝竜は福建省の出身で、泉州府の厦門【アモイ】島、金門島などを根拠地に密貿易を行っており、政府軍や商売敵との抗争のために私兵を擁して武力を持っていた。まあ簡単に言えば海賊の親分なんだが、日本の平戸で田川七左衛門の娘マツと結婚した。1624年、二人の間に生まれたのが鄭成功【ていせいこう】で、幼名は福松と言った。福松ちゃんは幼い頃は平戸で過ごしていたが、7歳のとき、単身福建省の父の許におもむいて名を森【しん】と改めた。南京の太学で学び、15歳のとき、院考に合格し、泉州府南安県の生員になっている。
隆武帝
1644年に崇禎帝が自殺して明が滅亡すると明の王室の一部は鄭芝竜を頼り、明の復興を策して清朝に抵抗した。鄭芝竜・成功親子は福建で明の皇帝一族の唐王・朱聿鍵【しゅいついん】を立てて隆武帝として擁立した。
鄭成功が父の紹介で隆武帝に謁見した際に、朱姓を賜っている。隆武帝は眉目秀麗でいかにも頼もしげな成功のことを気入り、「朕に皇女がいれば娶わせるところだが残念でならない。その代わりに国姓の『朱』を賜ろう」と言ったという。彼は畏れ多いということで朱姓を使わず、鄭成功と名乗った(成功の名もこの時に賜ったもの)が、以後人からは「国姓を賜った大身」という意味で「国姓爺【こくせんや】」と呼ばれるようになる。
隆武帝の軍勢は北伐を敢行したが大失敗に終わり、隆武帝は殺され、父鄭芝竜は抵抗運動に将来無しと見て清に降った。父が投降するのを鄭成功は泣いて止めたが、鄭芝竜は翻意することなく、父子は今生の別れを告げる。
その後、鄭成功は広西にいた万暦帝の孫である朱由榔【しゅゆうろう】が永暦帝を名乗り、各地を転々としながら清と戦っていたのでこれを明の正統と奉じて、抵抗運動を続ける。そのためにまず厦門島を奇襲し、従兄弟達を殺す事で鄭一族の武力を完全に掌握した。鄭成功は、東シナ海・南シナ海での交易から得られる潤沢な資金を財政基盤として、1659年には長江をさかのぼって南京にまで迫り、海戦に慣れない清軍を悩ませた。
その間、鄭成功は5回にわたって日本の徳川幕府に手紙を送り、援兵を請うている。これを「乞師【きっし】」という。当初幕府の内部には出兵に賛成する者もいた。しかし、慎重論もあり、幕府は長崎の中国商人などから積極的に情報を集めた結果、清の優勢を知って、明清交代に介入しない方針に決定してしまう。何とも弱腰で情けないね。
海外貿易に依存する鄭成功の財源を断つため、清は1661年には遷界令【せんかいれい】を発して、福建・広東を中心とする沿海の住民を20キロ以上内地に強制移住させ、沿岸を無人地帯にして鄭氏勢力と住民との接触を絶とうとした。当時、内地の永暦政権も滅亡に貧しており、形勢の不利を見て取った鄭成功は、海外に新たな拠点を作るべく、1661年台湾に侵攻した。
写真は2012年に台南市で復元された鄭成功時代の古帆船。長さ30メートル、幅7.6メートル、排水量138トンの大型ジャンク船だ。約1億台湾元(約2.7億円)の政府補助を受け、鄭成功の出生地である長崎県平戸市の松浦史料博物館にある「唐船の図」を元に復元した。竣工後に台湾一周、その後は長崎への航海も予定されていたんだけど、試験航行を行った際、主帆柱が折れてしまったため、計画はおじゃんに。修復されたという話も聞かないし、その後一体どなったんだろうね。
ゼーランディア城
当時の台湾はオランダ東インド会社が統治していた。1623年に台湾に進出したオランダが最初に築いた要塞がゼーランディア城だ。ゼーランディアは「海の国」と言う意味で、ニュージーランドは「新しい海の国」という意味なんだよ、知ってた?
鄭成功は1661年に澎湖諸島を占領した後に同3月30日からゼーランディア城を攻撃、翌1662年2月21日にこれを落としてオランダ人を一掃し鄭氏政権を樹立した。鄭成功はゼーランディア城を安平城と改称し、鄭氏政権3代にわたって支配の居城とし、「王城」と呼ばれるようになる。これにより、38年間に及んだオランダの台湾支配が終わり、オランダはバタヴィアへと撤退した。
日本の統治時代にオランダ時代に築城された城砦はほぼ完全に姿を消すこととなった。戦後、国民党政府は城址を安平古堡【アンピンコホウ】と命名し、僅かに残る城址を保護している。ちなみに、地図の中の年表にあるプロビンシア城(赤嵌楼【せきかんろう】)は、台湾統治の行政機関が置かれていた城。ご参考までに。
康煕帝
台湾に足場を築いた鄭成功であったが、わずかその4カ月後の6月23日に熱病で亡くなってしまう。39歳という若さだった。そのあとは子の鄭経【ていけい】が厦門から移って意志を継いだ。鄭氏台湾は3代、22年にわたったが、鄭成功の孫の代で内紛により弱体化し、1683年に康煕帝【こうきてい】によって征服されてしまう。1681年には三藩の乱も鎮圧されており、清に対する漢人の抵抗は終わった。
近松門左衛門
ところで、鄭成功の別名である国姓爺って聞いたことあるよね。そう、近松門左衛門の代表作『国性爺合戦』だ。「姓」の字が「性」になってるけどね。初めは人形浄瑠璃の作品だったけど、後に歌舞伎化された。
「国性爺合戦」虎狩りの段
『国性爺合戦』は鄭成功をモデルとする混血児和藤内(和でも唐でもないという洒落)の活躍を描いた戯曲は、平戸の和藤内が日本に逃れてきた明の皇女を助けて大陸に渡り、明の遺臣呉三桂と協力して韃靼兵(清軍)と戦い、明室再興の宿願を達成し、その功績によって国性爺といわれる、という話になっていて、史実とは随分違っている。1715年、大坂の竹本座で初演され、17カ月のロングランという大成功を収めた。僕も一度観てみたいと思ってるけど、なかなか実現しない。
↓ ランキング挑戦中 Brog Rankingのバナーをポチッと押してね! ヌルハチの死後、ハンの位についたのは、ヌルハチの第8子、ホンタイジであった(ハンとしてはスレ=ハンという)。本名はヘカンというらしい。お母さんはヌルハチの3番目の正妃・エホナラ(葉赫那拉)氏。ずっと後に「葉赫那拉の呪い」が出てくるんで、ちょっと覚えておいてね。
ところで、ホンタイジという名前は漢語の「皇太子(ホサンタイズ)」からきたと言われているが、これは彼の母が高貴な家柄の出身だったためで、彼が皇太子としてヌルハチから指名されていたということではない。そもそも漢族と異なり、北方民族にはハンが生前に皇太子を指名するという風習はなく、ハンが死んだあとの後継者は、有力な氏族長たちにより、もっとも有能な者が推戴されることになっているのである。
ところで、ホンタイジという名前は漢語の「皇太子(ホサンタイズ)」からきたと言われているが、これは彼の母が高貴な家柄の出身だったためで、彼が皇太子としてヌルハチから指名されていたということではない。そもそも漢族と異なり、北方民族にはハンが生前に皇太子を指名するという風習はなく、ハンが死んだあとの後継者は、有力な氏族長たちにより、もっとも有能な者が推戴されることになっているのである。
当時の後金は連年の戦争で生産が減少し、李朝(朝鮮)との交易が絶え、明とも交戦中という危機的状況であった。ホンタイジはモンゴル高原を迂回して明を攻める戦略をたて、内モンゴルを攻略してチャハル部を平定し、同部に代々伝えられてきた元朝の玉璽【ぎょくじ】を手に入れた。1636年、これを機に女真族の王朝である金の後継者という意味を込めた「後金」という国号を廃止し、新たに「大清」という国号を採用し、「皇帝」の地位に即いた。満州人、モンゴル人、漢人を包含する帝国の支配者たることを対外的にも宣言したのである。
さらに李朝を服属させ、モンゴル諸部を平定。中国風の官制を導入し、漢人も登用して、清朝300年の基礎を築いた。こうして次第に女真社会の部族制の伝統から脱して、中国全土を支配する体制を整え、国力の充実を背景に明への圧力を強めた。1638年には征服地を管理する中央官庁として理藩院も設けられた。
その後、ホンタイジは一時的に侵攻して北京を脅かしたが、明側も山海関の防衛を固めたため、その支配は山海関の内側におよばなかった。山海関を境界とする明と清のにらみ合いは膠着状態となる中、ホンタイジは1643年8月9日に清寧宮で倒れ、急死した。51歳であった。恐らく脳出血だったろうと言われている。
ホンタイジの後を継ぐ者として最も実力を有していたのはホンタイジの弟ドルゴンであり、これに対抗したのがホンタイジの長男ホーゲであった。ドルゴンはホーゲを蹴落とし、自らが実権を握るために、ホンタイジの第9子で僅か6歳のフリン(不倫を連想しちゃ駄目よ)を皇帝に推し、自らはその摂政となった。
こうして清の第3代皇帝に即位したのが順治帝【じゅんちてい】であった。治世の初めは叔父ドルゴンが専権を振るったが、1651年ドルゴンの死によって親政を開始し、漢人官僚を重用、儒教を国政の中心に据えるなど、中国的君主の色彩を濃くした。しかし、愛妃ドンゴ氏を亡くしてからは気落ちし、1661年に天然痘で急死する。24歳での若すぎる死であった。
山海関
話をもとに戻すね。摂政となったドルゴンは山海関【さんかいかん】に全軍を投入して明への侵入をはかった。山海関は「天下第一関」と称される、万里の長城の東端(本当は虎山長城なんだけどね)。この東の地域を「関東」と言って、日本の関東軍の名前はこれに由来するんだ。日本の関東地方とは関係ないからね。
軍事要衝として山海関の防備はきわめて厳重で、1622年には駐屯する守備隊は兵79,869人、馬匹12,760頭の記録が残っている。不落の要塞で、東北方面から侵入する満州民族を防ぐ最後の砦だった。
軍事要衝として山海関の防備はきわめて厳重で、1622年には駐屯する守備隊は兵79,869人、馬匹12,760頭の記録が残っている。不落の要塞で、東北方面から侵入する満州民族を防ぐ最後の砦だった。
呉三桂
当時この地の防衛を任されていたのが呉三桂だった(いくら探しても大きな画像は見つからなかった)。ところが、1664年李自成が反乱を起こし、40万の軍勢が北京に迫っていた。明の朝廷は呉三桂を平西伯に封じ、北京の防衛に当たらせることとした。そこで、呉三桂は山海関から北京に向かったが、途中で北京陥落の報を受け、山海関に引き返した。山海関において、西から李自成がしきりに呉三桂に投降を呼びかけ、東からドルゴン率いる清軍が迫っており、呉三桂は窮地に立っていた。まさに前門の狼、後門の虎である。さあ、呉三桂の決断や如何に。
この時、父の呉襄をはじめ呉三桂の一族は北京におり、父からの勧告を受けた呉三桂は一時は順への投降を決めていたが、急に翻意してドルゴンに書簡を送り助けを求めたのだ。「いま流賊李自成は天に逆らい皇城を犯しております。どうぞ亡国の孤臣呉三桂の忠義の言葉をお考え下され、速やかに精兵を選んでともに北京を攻め、大義を中国にお示し下さい。わが国もまた国土を割いて、清国に酬いましょう」、と。
ドルゴンは呉三桂の要請を受け入れ、自ら軍を率いて征服の途についた。「仁義の軍を率いて流賊を滅ぼす」という大義名分を得て、山海関内に導き入れられた清軍は、迎え撃った李自成軍に大勝し、北京に向けて進撃した。李自成は、形だけの皇帝即位式をあげたのも束の間、慌ただしく西に向けて北京を脱出せざるを得なかった。北京入城から40日という短い天下であった。李自成は翌年に農民の自警団によって殺害される。
呉三桂が崇禎帝の仇を討ち北京を回復するという噂を聞いて、これを歓迎せんものと待ち受けていた北京の人々の眼前に、5月2日現れたのは、見慣れぬ清の大軍と、それに従う辮髪【べんぱつ】にした呉三桂の軍隊であった。
9月にはフリンちゃんが北京に入城し、皇帝として改めて即位式を行い、年号を順治と定め、北京への遷都を宣言、辮髪令が出された。辮髪はキン肉マンに出てくるラーメンマンのヘアスタイルなんで皆もよく知っていると思うけど、西洋人はこれをピッグテイル pig tail (豚の尻尾とは失礼な)と呼んだ。女真族固有のヘアスタイルだが、敵味方を区別するために、これを漢族にも強制した。漢族は抵抗したが、「頭を残す者は、髪を残さず。髪を残す者は、頭を残さず」と言われたように、従わない者は処刑された。
珍円円
では、呉三桂はなぜ異民族に中国を売り渡すようなことをしたのだろうか?いろいろ説はあるんだけど、実はたった一人の女のためだったんだ。その名を珍円円【ちんえんえん】という。蘇州の歌姫で絶世の美女と称せられた陳円円は、もともと崇禎帝のために皇后の父が買い求めたんだけど、皇帝の寵愛を受けないうちに呉三桂が見初めちゃった。陳円円は呉三桂の父親の屋敷に住んでいたが、北京が李自成軍に占領された際に、李自成の武将である劉宗敏に奪われてしまった。これを知った呉三桂は激怒して、態度を一変させ、清に投降して援軍を乞い、李自成軍に矛先を向けたという。同時代の詩人である呉偉業は「冠を衝く一怒は紅顔の為なり」(呉三桂の怒りは陳円円のためだ)と謡っている。
清軍の北京入城の際に、呉三桂の父や家族らが李自成に殺されているが、その見返りとして呉三桂は平西王に封ぜられ、珍円円を伴って雲南に赴任した。まあ、漢族を裏切って女真族の支配に荷担したということだ。
30年ほど後に呉三桂は平南王の尚可喜【しょうかき】、靖南王の耿精忠【こうせいちゅう】らと三藩の乱を起こす。呉三桂は今度は辮髪を切って清を裏切ることになったのだが、かつて清を助けた呉三桂が今さら「反清復明」と叫んでも、「女のために清に荷担した奴が何言ってやがるんだ」と鼻でせせら笑われてしまう始末だ。反乱は9年に及んだが、自滅の形で失敗に終わった。
陳円円は雲南の宮殿で自殺したとか、殺されたとか、あるいは裏切りを重ねる呉三桂に絶望して出家したなど、さまざまな風説が取りざたされている。
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