なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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法顕【ほっけん】は南朝の東晋で337年に生まれた。3歳で出家し、20歳で具足戒を受け、正式に僧侶となった。仏教の学究を進めるにしたがい、経典の漢語訳出にくらべて戒律が中国仏教界において完備しておらず、経律ともに錯誤や欠落があるのを嘆き、399年、慧景、慧応、慧嵬、道整等の僧と共に長安からインドへ求法の旅にたった。この時すでに64歳。年齢を考えれば無謀な計画であった。三蔵法師で知られる玄奘がインドに向けて旅立つ230年前のことである。
長安を出た法顕は、砂漠の東端に位置する敦煌【とんこう】から流沙地帯を西に進み、途中タクラマカン砂漠を横断するという無茶苦茶なルートを通っている。
タクラマカンはウイグル語の「タッキリ(死)」「マカン(無限)」の合成語と言われ、「死の世界」「永遠に生命が存在し得ない場所」とされる。法顕は『仏国記』の中で、「沙河には悪霊、熱風多く、皆死に絶え一人も生命を全うするものはない。上には飛ぶ鳥なく、下には走獣なし。見渡す限り渡ろうとせん所を探すも何もなし。死者の枯骨を道標にするだけ」と書いており、行程中の苦しさは何事にも比べられないほどだったようだ。その苦しみに耐え抜き、ようやく西域南道のオアシス都市ホータン(于闐【うてん】)に辿り着いた。 その後、「世界の屋根」と言われるパミール高原を越え、ガンダーラを経て中インドに到達したが、6年もかかる苦難の道のりであった。
アショーカ王宮殿跡の法顕
法顕が訪れたのはグプタ朝のチャンドラグプタ2世の時代であった。法顕は王舎城などの仏跡をめぐり、『摩訶僧祇律【まかそうぎりつ】』などを収集し、さらにスリランカに渡り、「五分律」や「長阿含経【じょうあごんきょう】などを得た。法顕は都パータリプトラで3年間、スリランカに2年滞在し、ようやく旅の目的を達した法顕は、海路をとってマラッカ海峡を通り、413年青州に帰国した。帰国できたのは法顕のみであり、法顕はすでに78歳であった。法顕は著書『仏国記』(『法顕伝』)の中で、チャンドラグプタ2世を超日王【ちょうにちおう】と記している。
インドで仏教研究の中心と言えばナーランダー僧院だが、この僧院は427年にクマーラグプタ1世により創建された。残念ながら法顕帰国後のことであり、法顕はここで学ぶことは出来なかったが、玄奘や義浄はここで学んでいる。仏教学だけではなく、バラモン正統派の教理や哲学、文法学、医学、天文学、数学を学ぶ総合大学で、最多で1万人の生徒と、1,500人の教員がいたというが、1193年にイスラーム勢力によって破壊された。
この時期の仏教美術は、優雅なグプタ式仏像彫刻のような純インド的な仏教美術が完成をみた。教科書的にはマトゥラーで造られたブッダ立像が有名だが、写真はブッダ初転法輪の地サールナートで造られた説法するブッダ像で、仏教美術の最高峰に位置する傑作である。
グプタ様式というと、忘れてはならないのがアジャンター石窟だ。前1世紀のサータヴァーハナ朝に始まるが、本格的に開削が行われたのはグプタ朝と縁戚関係にあったヴァーカータカ朝のもとでのことであった。開削は7世紀頃まで続き、ワゴーラー川沿いの断崖に幅約550mにわたって30の石窟が彫られている。
アジャンター石窟は仏教の衰退とともに忘れ去られていたが、1819年4月、イギリス人士官ジョン・スミスによって偶然発見された。スミスはハイダラーバード藩王国の藩王に招かれて虎狩りをしていたのだが、蔦に覆われた崖に逃げ込んだ虎を目で追っていると、生い茂る蔦の隙間から馬蹄形の窓のようなもの見つけた。ただちに多くの人が動員され、蔦を取り除くと、そこから崖の中腹をくり抜いた多くの石窟が現れた。今でこそ世界遺産となり、たくさんの観光客が押し寄せているが、発見当時はコウモリの住み処となっていたそうだ。見にくいけど、写真よく見てもらうと、ジョン=スミスとサインしてあるのがわかると思う。彼が記念に第10窟の壁面にしたサインなんだけど、当時は貴重な文化遺産に落書きするのは屁でもなかったんだね。
アジャンター石窟で一番有名なのが第1窟の蓮華手菩薩だ。右手に黄色い蓮の華を持ってるので、そう呼ばれている。チャイティヤと呼ばれる塔院の本尊であるストゥーパの左側に侍り、S字型体にひねった姿勢をとって描かれている。顔よりも大きな宝冠やネックレスが印象的な装身具、隈取りや巧みな肉感表現で、この画法はアジア各地に伝播し、その後の仏教絵画に多大な影響を与えた。
法隆寺金堂6号壁阿弥陀浄土図
法隆寺の金堂壁画はアジャンター石窟と作風が類似していることでも知られるが、直接影響を受けたものではなく、敦煌莫高窟の影響によるものと思われる。しかし、残念なことに1949年1月26日、不審火によって金堂が炎上。壁画は焼け焦げてその芸術的価値は永遠に失われてしまった。この事件をきっかけに文化財保護法が制定され、壁画が焼損した1月26日は文化財防火デーとなっている。
アジャンター石窟の70km南にあるのがエローラ石窟。アジャンター石窟は仏教のみの遺跡であるが、エローラ石窟は8世紀を中心とした仏教・ヒンドゥー教・ジャイナ教の遺跡である。写真はヒンドゥー教寺院のカイラーサナータ寺院。エローラ石窟の第16窟だが、石を積み上げて造ったのではなく、一つの岩山を100年かけて掘り抜いて造ったというから、びっくりだよね。

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前180年にマウリヤ朝が滅亡して以来、インドは約500年の分裂状態が続いたが、4世紀に入り、マウリヤ朝と同じマガダを拠点としたグプタ朝が起こった。その創始者もマウリヤ朝と同じ、チャンドラグプタ1世を名乗っている。都も同じパータリプトラ。チャンドラグプタ1世は320年にガンジス川流域を統一、「インドのナポレオン」と呼ばれた第2代のサムドラグプタは北インドをほぼ統一し、続くチャンドラグプタ2世の時には、かつてのアショーカ王の支配領域と同じ広さを支配し、全盛期を迎えた。
『ラーマーヤナ』
クシャーナ朝の異民族支配を一掃したグプタ朝の下で、民族意識の高まりとともに、一時影響力を失いかけたバラモンが復活し、インド古典文化の黄金時代を迎えることになった。宮廷ではサンスクリット語が公用語とされ、カーリダーサがサンスクリット語で戯曲『シャンタラーク』を著すなど、サンスクリット文学が盛んになった。また、『マヌ法典』によりヴァルナ制が強調され、サンスクリットの二大叙事詩『マハーバーラタ』や『ラーマーヤナ』などが長い時間をかけてほぼ現在伝えられるような形に完成した。
ハヌマーン
『ラーマーヤナ』の主人公はコーサラ国の王子ラーマ。ランカ島(スリランカ)に住む魔王ラーヴァナに妻シータ姫を奪われたが、猿王ハヌマーンの助けを得てこれを取り返すというお話。猿・犬・雉を連れて鬼ヶ島に鬼退治に行った桃太郎のお話の原形ではないかとも言われている。この猿王ハヌマーンはヒンドゥー教の神となって信仰され、インドの街角に赤い顔をして立っている。
ブラフマー神
さて、そのヒンドゥー教はバラモン教に仏教や先住民の土着信仰が融合されて成立したもので、いわゆる三大神を見るとそれがよく分かる。まず、その一つが創造神のブラフマー神。ウパニシャッド哲学でいう宇宙の根本原理であるブラーフマナーが神格化したもので、バラモン教出身の神さまだ。三大神に数えられてはいるが、その重要性は低くあまり人気がない。その理由は後でね。
ヴィシュヌ神
次に、ヴィシュヌ神は宇宙を護持する神として崇拝されている。慈悲深い神で、仏教の慈悲の影響も考えられる。主要な土着神を化身として取り込んだので、クリシュナを始めとしてたくさんの化身を持っており、先ほどのラーマは7番目、わがブッダは9番目の化身である。だからヒンドゥー教徒の立場からすれば、僕たちはブッダの姿をとったヴィシュヌ神を拝んでいることになる。
タイの国章 インドネシアの国章
ヒンドゥー教の神さまにはヴァーハナという乗り物があり、ヴィシュヌ神のヴァーハナはガルーダという鷲だ。タイとインドネシアではガルーダが国章となっており、インドネシアの国営航空会社はガルーダ・インドネシア航空だ。このガルーダが仏教の守護神となったのが迦楼羅【かるら】といって、これが天狗になったとも言われている。
シヴァ神
さあ、そして三大神の中で最大、最強の神がシヴァ神だ。シヴァ神はインダス文明の頃から信仰されていたようで、土着信仰出身の神だ。宇宙を破壊し焼き尽くす役割を演ずるとともに、破壊した宇宙を再び創造する慈悲深い神でもある。つまりブラフマー神の役割まで取っちゃったわけだ。ブラフマー神が要らなくなったわけだ。
シヴァ神はヒマラヤ山中で苦行しつつ天の聖河ガンガーの水を頭髪の中に受け止めて、大洪水から人間世界を守る神である。その頭髪を伝わって落ちた水がガンジス川なんだそうで、頭の天辺から噴水みたいに吹き出しているのがそうだ。
シヴァ神のヴァーハナ、乗り物は左にいる白い牛のナンディ。最も崇拝するシヴァ神の乗り物だから牛も神さま扱いされて、インド人は絶対に牛を喰わない。
シヴァ神はヒマラヤ山中で苦行しつつ天の聖河ガンガーの水を頭髪の中に受け止めて、大洪水から人間世界を守る神である。その頭髪を伝わって落ちた水がガンジス川なんだそうで、頭の天辺から噴水みたいに吹き出しているのがそうだ。
シヴァ神のヴァーハナ、乗り物は左にいる白い牛のナンディ。最も崇拝するシヴァ神の乗り物だから牛も神さま扱いされて、インド人は絶対に牛を喰わない。
シヴァ神は舞踏の創始者ともされ、ナタラージャ(舞踏者の王)の別名でも呼ばれていて、世界史の教科書に載っているのはこっちの姿がほとんど。この写真は4本腕、3眼のシヴァ神が陶酔状態でエネルギッシュに踊る姿を現している。踊るシヴァ神を取り巻く円形の火炎は宇宙の破壊を、手の形は保存を、右手に持つ小太鼓は創造をそれぞれ意味し、宇宙の破壊・維持・創造が永遠に繰り返されていくという宗教思想がこの像に表現されている。
カーリー パールヴァティ
シヴァ神は地方的に信仰を集めていた多数の神を自分の一族として抱え込むという方法で、信者の輪を広げた。シヴァ神の奥さんとして有名なカーリーはもともと地母神であり、髑髏のネックレスをしているように、シヴァ神の恐ろしい面を代行した。また、もとヒマラヤ山脈の住民に信仰されていた山の女神パールヴァティも妃神とされたが、彼女は優しい豊穣の女神である。
カーリーを祀った寺院がコルカタ(カルカッタ)にあり、コルカタはカーリーが訛った地名である。この寺院の近くで「死を待つ人々の家」を開設し、道端で亡くなっていく人々に救いの手を差し伸べ、ノーベル平和賞を受賞したのがマザー=テレサであった。
シヴァ神は地方的に信仰を集めていた多数の神を自分の一族として抱え込むという方法で、信者の輪を広げた。シヴァ神の奥さんとして有名なカーリーはもともと地母神であり、髑髏のネックレスをしているように、シヴァ神の恐ろしい面を代行した。また、もとヒマラヤ山脈の住民に信仰されていた山の女神パールヴァティも妃神とされたが、彼女は優しい豊穣の女神である。
カーリーを祀った寺院がコルカタ(カルカッタ)にあり、コルカタはカーリーが訛った地名である。この寺院の近くで「死を待つ人々の家」を開設し、道端で亡くなっていく人々に救いの手を差し伸べ、ノーベル平和賞を受賞したのがマザー=テレサであった。
シヴァ神とパールヴァティーの息子で、学問・商売の神として日本でも人気のあるのがガネーシャだ。なんで像の頭になったかは省くとして、足許に鼠がいるのにお気づきだろうか。ガネーシャのヴァーハナ、乗り物は鼠だ。像が鼠に乗るというのは違和感があるが、崇拝する鼠を食べる猫をインド人は嫌う。だから、インドで猫を見かけることはめったにない。ちなみに、ガネーシャは仏教とともにわが国に渡来し、歓喜天【かんぎてん】になっている。
長くなったので、グプタ朝時代の仏教については次回お話するね。
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クシャーナ朝の時代にギリシア文化(ヘレニズム文化)の影響をうけて、ブッダの彫像が出現したことはよく知られている。いわゆるガンダーラ美術の誕生だ。ブッダが亡くなって500年後のことである。それまで仏像は存在しなかった。仏教はユダヤ教やイスラーム教のように偶像崇拝を禁止しているわけではないが、恐らく、ブッダがあまりにも尊くて、像には表現できないと考えたんだろう。じゃあ、仏教徒は何を崇拝の対象にしていたのだろうか?
写真はブッダが悟りを開いたブッダガヤにある仏足石。ブッダの足跡を石に刻んだものだ。お花が供えられているように、今でも信仰の対象になっている。
もう少し分かりやすいように、拓本の写真を挙げてみた。扁平足だけど、これはブッダの身体的特徴の一つなんだ。いろんな模様が描かれている。真ん中にあるのが、前にもお話したブッダの説法を表す法輪だ。初期の仏教徒はこれをブッダだと思って拝んでいたんだ。
この写真は有名なサーンチーのストゥーパ。世界史の教科書にも写真が掲載されているよね。前3世紀にアショーカ王が建立したものだけど、四方に塔門が配置されている。なんだか、日本の鳥居に似ているけど、その起源ではないかとも言われているんだ。この塔門にブッダの伝記や本生図(ブッダの前世でのエピソード)が彫られている。
写真は降魔成道【ごうまじょうどう】といって、ブッダが悟りを開くのをマーラ(悪魔)が邪魔しようとしているところだ。さて、ブッダはどこにいるでしょうか?はい、一番左のほうに丸いものがあるよね。これ実は菩提樹なんだ。ブッダは菩提樹の下で悟りを開いたんだったよね。菩提樹でブッダをシンボライズしたわけだ。
有名なアジャンター石窟の第9窟と第26窟。右の第26窟はストゥーパの前に仏像が安置されているけど、左の第9窟は仏像がないよね。ということは、仏像が誕生する前に第9窟が造られたということで、この時代はストゥーパをブッダそのものとして礼拝していたわけだ。こうして初期の仏教徒は仏像ではなく、仏足、法輪、菩提樹、ストゥーパをブッダとして拝んでいた。
それが1世紀になっていよいよ仏像が登場してくるわけだけど、それにはギリシア人が大きく関わっていたようだ。アケメネス朝を滅ぼしたアレクサンドロス大王は各地にアレクサンドリアを建設し、ギリシア人を集団移住させた。大王の死後、多くのギリシア人は帰国したが、前250年頃ディオドトスがセレウコス朝から独立し、バクトリア王国を建設する。
メナンドロス
前200年頃に即したデメトリウス1世はマウリヤ朝の滅亡で混乱するインドに侵入し、ガンダーラ地方を制圧した。これ以降、インドにおけるギリシア人勢力をインド=グリーク朝と呼ぶが、メナンドロスのもと最盛期を迎えた。メナンドロスはローマ世界でも知られ、プルタルコスもストラボンも偉大な王として記述している。また、インドではミリンダ王といわれ、仏僧ナーガセーナに宗教論争を挑んで破れ、仏教に帰依したと伝えられる。
写真は2006年にガンダーラを訪ねた時に、地元の農民から買ったコインで、デメトリウス2世のものと思われる。
このコインを買った場所がタキシラのシルカップ遺跡だ。ギリシア人が建設した都市遺跡で、アクロポリスにみたてたハティヤール山の麓に碁盤の目状に都市がレイアウトされており、仏教寺院のほかに、ジャイナ教・ゾロアスター教の寺院もある。
タキシラのジョーリアン遺跡のメインストゥーパやその周りにある奉献ストゥーパの基壇には漆喰【しっくい】で造られたストゥコ像が溢れている。上の段はブッダ像であるが、下の段にいるのは天を背負う役目を負わされたギリシアの神アトラスで、インドとギリシアの融合がみられる。
バラモン教にはカースト規制があるから異邦人である彼らは信仰出来ない。そこで、ガンダーラに入ったギリシア人たちは次第に仏教を信仰するようになった。ブッダの像が欠けた仏伝図は不自然である。そこで、ブッダの像はストゥーパや僧院の装飾として彫られた仏伝図の中に、弟子や信者らに混じってごく自然に姿をみせるようになった。
その後、ブッダの姿が他の人物より大きく彫られるようになり、さらに単独のブッダ像の出現となった。緑灰色の硬い石に彫られたブッダや菩薩の像には、彫りの深い顔、流れるような頭髪、衣のひだの線など、ギリシア的な技法の影響が強く認められる。
これをアレクサンドロス大王の東方遠征の影響とするのはフランスの美術史家フーシェの説だが、今日ではすでに時代遅れである。ガンダーラ美術が誕生するのは東方遠征から400年も後のことである。現在の研究では、ガンダーラの仏教美術にはギリシア、イラン、ローマという三つの文化が影響を与えていると見るのが有力である。
また、ガンダーラ仏の誕生とほぼ同じ時代に、ガンジス川上流域のマトゥラーにおいても、赤砂岩という特産の石を材料とした純インド風の仏像彫刻が出現した。このマトゥラーにおける仏像の出現をガンダーラに先行するとみる学者もいるが、ガンダーラで1世紀末にまず仏像が造られ、そのニュースを聞いたマトゥラーの住民が、2世紀初頭に、インドの伝統技術を用いて仏像製作に踏み切ったとするのが自然だろうね。
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クシャーナ朝は中央アジアの大月氏国の支配を脱した同じイラン系民族のクシャーナ族が、西北インドに侵入してつくった国家であり、中国の史書(漢書)にも貴霜として現れる。
月氏はもともと中国の西、陝西・甘粛地方に住んでいたが、前2世紀後半に匈奴に敗れて西方のバクトリア(現在のアフガニスタン)に大移動し、大月氏国を建てた。漢の武帝が同盟しようとして張騫を派遣したあの大月氏国である。
クジューラ=カドフィセス
大月氏国は国土を有力な5諸侯に分けて統治させていたが、この5諸侯については、大月氏の一族と見る説と、土着のイラン系有力者と見る説とがある。そのうちの一つであるクシャーン人の首長クジーュラ=カドフィセーとが1世紀の中ごろ、他の4諸侯を制圧して王を名乗り、西方のパルティアと戦った。
続いて北インドのインダス川流域にも進出し、ガンダーラ地方を制圧した。大月氏はイラン系の遊牧民であったが、ガンジス川流域に支配を及ぼすことによって、次第にインド化し、仏教も取り入れるようになった。
カニシカ王
2世紀半ばに即位し、クシャーナ朝全盛期を築いたのがカニシカ王である。彼は首都をガンダーラ地方のプルシャプラ(現ペシャワール)に置き、中央アジアからガンジス川中流域にいたる広大な領土を統治した。また一族郎党を引き連れて、夏はアフガニスタンの高原へ、冬はインド平原へと移動したという。ガンジス川上流域の都市マトゥラーは副都となった。
写真はマトゥラー近郊の遺跡から出土したカニシカの銘をもった石彫立像である。頭部を欠いてはいるが、中央アジア風の外套を身につけてベルトをしめ、フェルトの長靴を履いており、「遊牧民らしい出で立ち」となっていてクシャーナ朝が本来遊牧国家であったことをよく示している。
ところで、クシャーナ朝では2代目のウィマ=カドフィセース以後、それまで高額貨幣として使われてきた銀貨に代わり金貨が大量に発行されるようになった。当時、ローマは「パクス=ロマーナ」の時期でインドとの貿易が最盛期であった。ところが、南インドからは大量のローマ金貨が出土するが、北インドからはほとんど発見されない。ということは、クシャーナ朝の金貨はローマ金貨を鋳なおして発行したと推測される。
上に並べたのは金貨の裏面に登場する神々である。左からブッダ、シヴァ神、イラン系のマオ(月神)。カニシカ王はミトラ神などのイラン系を中心に、ギリシア・ローマ系、インド系の神々を採用していて多彩であり、宗教的には寛容策が取られていたようである。
カニシカ王は初め仏教を軽視していたが、後に心を改め、首都の近郊に大塔を建立し、またカシュミールで開かれた第4回仏典結集を援助したと伝えられている。さらに、ガンジス川中流域に兵を進めた際、莫大な貢納金を免除するかわりに学僧として名高いアシュヴァゴーシャ(馬鳴【めみょう】)を譲り受けて、都に伴い厚く敬ったという。
カニシカ王の大塔については、法顕や玄奘も旅行記の中で記している。法顕によれば、塔の高さは40余丈、宝石で飾りたてられ、インドで最も壮麗な仏塔であったという。1909年、直径86メートルもあるこの大塔の遺跡から写真の仏舎利容器が発見された。
クシャーナ朝により、仏教にとっては新天地であったインダス川流域にも仏教が広まっていった。こうした時代背景の中で、それまでの出家者中心の仏教に対抗するかたちで、在家信者の立場を重視する大乗仏教の運動が興った。大乗仏教の成立については、従来は平川彰の仏塔(ストゥーパ)信仰の集団から誕生したという説が有力であったが、最近はこれに対する異論も多く、さらなる研究の成果が待たれる。
新しい仏教を推し進める人々は、自分たちの仏教を、万人の救済をめざす大乗(マハーヤーナ)、「救済のための大きな乗り物」と称した。「マハー」はジャイナ教の開祖マハーヴィーラのところで出て来たが、「大きい」と言う意味だ。「摩訶不思議」という言葉の「摩訶」はマハーの音訳だ。彼らは、自己の解脱【げだつ】をめざす伝統的な仏教を、独善的な小乗(ヒーナヤーナ、小さな乗り物)と呼んで軽蔑した。初期の大乗仏教徒はえらい好戦的だったんだね。
小乗仏教という言い方が有名だけど、これは大乗仏教からの蔑称だから、現在は使わない。伝統的仏教は20の派に分かれていたんで部派仏教と呼ぶことにしており、スリランカに伝わったのはそのうちの上座部だ。部派仏教には説一切有部なんてのもあって、部派仏教=上座部じゃないよ。
大乗運動を担ったのは、菩薩と自称する者たちであった。菩薩とは「ボーディ(悟り)を求めて努力するサットヴァ(存在)」という意味を持つサンスクリット語の音を漢字に写したものだ。部派仏教にも菩薩はいるが、それは悟りを開く前のブッダのことで、当然一人しかいない。でも、大乗仏教では悟りを求めて努力する人はみんな菩薩だ。そして、その努力とは自分を犠牲にして他人の利益に務めること(利他行【りたぎょう】)であると主張した。
大乗運動を担ったのは、菩薩と自称する者たちであった。菩薩とは「ボーディ(悟り)を求めて努力するサットヴァ(存在)」という意味を持つサンスクリット語の音を漢字に写したものだ。部派仏教にも菩薩はいるが、それは悟りを開く前のブッダのことで、当然一人しかいない。でも、大乗仏教では悟りを求めて努力する人はみんな菩薩だ。そして、その努力とは自分を犠牲にして他人の利益に務めること(利他行【りたぎょう】)であると主張した。
菩薩というと、一番有名なのが観音菩薩だよね。写真は法隆寺夢殿の救世観音だけどね。その他に「三人寄れば文殊の智慧」の文殊菩薩、弥勒菩薩、普賢菩薩などたくさんの菩薩がいる。こうした菩薩が生み出されたのは、自己を犠牲とする菩薩行の実践は、普通の人間にはきわめて困難だからだ。そこで、菩薩行をすでに十分に積んだ偉大な菩薩を生み出した。その慈悲におすがりして、現世・来世の利益を得ようとしたわけだ。
写真はササン朝のナルセ1世のレリーフで、真ん中に国王を挟んで、右が太陽神のミスラ、左が慈悲の女神で水の神であるアナーヒターだ。ともにゾロアスター教の神としてササン朝で厚く信仰された。弥勒はマイトレーヤの音写でミスラ(ミトラ)と語源が同じなので、弥勒菩薩の救世主的性格はミスラから受け継いだ可能性がある。また、観音菩薩はしばしば水瓶【すいびょう】を持つ女性的な姿で表現されることから、水の神アナーヒターに関係すると見られる。
それから、僕たちの住む娑婆世界ではブッダはすでに世を去り、次のブッダである弥勒の出現には56億7000万年という気の遠くなるような年月を待たねばならない。そこで、阿弥陀仏をはじめとしてたくさんのブッダも考え出された。
この阿弥陀も「アミターバ(無量光)」ないし「アミターユス(無量寿)」と呼ばれ、光明を信仰するゾロアスター教の影響で誕生した可能性がある。「空【くう】」の思想で大乗仏教を理論化したナーガルジュナ(竜樹)が南インドの出身なので、南インドで大乗運動が展開されたとみるむきもあるが、西方宗教の影響を強く受けたと考えれば、西北インドが大乗仏教発祥の地であると僕は考えている。
この大乗仏教は中央アジアを経て中国・朝鮮・日本にもたらされたので、北伝仏教と呼ばれる。一方の上座部仏教は、スリランカからミャンマー・タイ・カンボジアに伝わったので南伝仏教と呼ばれるが、それは11世紀以降のこと。義浄の『南海寄帰内法伝』によれば、シュリーヴィジャヤでは大乗仏教が信仰されていたし、ジャワのボロブドゥールは大乗仏教の遺跡なので、東南アジアに先に伝わったのは大乗仏教だったんだよ。ああ、それとスリランカにも大乗仏教が伝わってるので、注意しとこうね。長くなったんで、ガンダーラ美術については次に書くね。
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前330年にアケメネス朝ペルシアを滅ぼしたアレクサンドロス大王は、さらに東方遠征を進め、ヒンドゥークシュ山脈の北のバクトリアとソグディアナを征服した。その後かれは南に向かい、3万の部隊を率いてインドに入り、前326年2月にインダス川を渡ってタクシラに入城した。タクシラ王は戦わずして軍門に降ったのである。続いてアレクサンドロスは土着勢力を服従させたり滅ぼしたりしながら、パンジャーブの東端近くにまで進軍した。インド軍の主力である象軍には、騎兵隊の敏捷な動きで対抗している。象の群れは騎兵隊の奇襲を受けて混乱し、味方の兵を踏みつけながら逃走した。
その頃、ガンジス川流域を支配していたのは、マガダ国のナンダ朝であった。ナンダ朝は巨富と軍事力によって近隣の諸国を倒し、ついにガンジス川の全流域を支配下に置いた。シュードラ出身とされるこの王朝は旧来の身分秩序を崩し、マウリヤ朝による帝国建設の露払いの役割を果たした。
チャンドラグプタ
前320年ころのマガダ国の辺境で兵を挙げたチャンドラグプタは、都のパータリプトラに攻め込んでナンダ朝を倒し、マウリヤ朝を創始した。彼はその後ただちに西方に進軍して、アレクサンドロスの死後の混乱状態にあったインダス川流域を併合し、さらにデカン方面へも征服軍を送った。ギリシア側の文献によると、チャンドラグプタの軍隊はナンダ朝の軍隊の約3倍、歩兵だけでも60万、騎兵は3万、象は9000、戦車は数千であったという。ここにインド史上初めて、ガンジス・インダス両大河の流域とデカンの一部を合わせた帝国が成立した。
チャンドラグプタはさらに、前305年ころアレクサンドロスの東方領の奪回を目指して侵入してきたセレウコスの軍を迎え撃ち、その進軍を阻んだ。そして、講和条約を結んで、500頭の象と交換に現在のアフガニスタン東部の地を獲得した。4年後にこの象の大部隊は、西アジアの覇権をかけたイプソスの戦いにおいて、セレウコスの勝利に貢献することになる。
また、この講和を機に、セレウコスの娘がマウリヤ朝の後宮に迎えられ、さらに使節の交換も行われた。この時インドに派遣された使節が『インド誌』の著者メガステネースであった。この世の生涯を永遠に輪廻転生する霊魂の一時的な通過期間とみたことから、インド人は歴史書をまったく残さなかった。歴史の記述に情熱を傾けた中国人とは対照的である。そのため、古代インドの歴史については不明な点が多かったのだが、『インド誌』の中でサンドロコットスと呼ばれている人物がチャンドラグプタに比定されたことにより、インドの歴史研究の幕が開けられた。
紀元前304年頃アショーカはマウリヤ朝第2代ビンドゥサーラ王の多数の王子の一人として生まれた。成年に達したアショーカはタキシラで起きた反乱を鎮圧して功績をあげ、父王の死で長兄らとの王位争いに勝って即位した。この時、99人の異母兄弟を殺したと言われる。即位後も暴虐な王として恐れられ、王の通った所はすべて焼き払われ草木が1本も生えていない、と言われるほどの暴君だったと伝えられている。
そんなアショーカ王にとって転機となったのが、即位8年に行われたデカン高原東北部のカリンガとの戦争だった。カリンガを征服したものの、両軍あわせて数十万の犠牲者を出すという、壮絶な戦いとなった。このことを悔いたアショーカ王は仏教に深く帰依し、征服戦争を放棄すると、仏教の理想を実現するための政策を行った。高校の世界史ではダルマ(法)を理想とする統治を行った、と習ったよね。
仏教に改宗したアショーカ王は、全土を仏塔で飾ろうと思い立ち、ブッダの没後に建てられた8つの仏塔のうちの7塔から仏舎利【ぶっしゃり】(ブッダの遺骨)を取り出して、新たに建立した8万4千の塔に分納した。仏教では「八万四千の法門」なんて言い方もするけど、84,000は「たくさん」という意味で、実際に84,000建てたという意味じゃないよ。
ついで、高僧に案内されてブッダの生涯に関係する聖跡を巡り、石柱や岩壁に法勅を刻んだ。玄奘は『大唐西域記』で、130以上のアショーカ王建立の塔について記しているが、全部がアショーカの塔であったとは考えられない。写真の左はブッダ生誕の地ルンビニーの石柱法勅、右はヴァイシャリーの石柱法勅。ほとんどの石柱法勅は倒壊してしまっており、ヴァイシャリーのものだけが唯一立った状態で残っている。
磨崖法勅は辺境地帯に造られたのでなかなか見ることができないが、平成18年にパキスタンのシャーバーズ・ガリのものをようやく写真におさめることが出来た。
第3回仏典結集の地クムラハールの遺跡
アショーカ王が仏教を大いに保護するのを見て、異教徒や不純な思想を抱く者たちが教団に入って来たため、正しい修行が出来なくなった。そこでアショーカ王は、長老のモッガリプッタを援助して異端的な僧侶を追放させている。教団を浄化したモッガリプッタは、1000人の高僧をパータリプトラの鶏園寺に集めて第3回の仏典結集【けつじゅう】を開催し、そこで確認されたブッダの正説を広めるため、アフガニスタン・シリア・エジプト・マケドニアなどに仏教伝道師を派遣したとされているが、残念ながらこれらの地域に仏教が広まることはなかった。
唯一伝道に成功したのがスリランカ。出家した王子マヒンダと4人の長老が派遣され、スリランカは上座部仏教の中心地となり、ここから東南アジアへと仏教が広まって行った。
アショーカ王は「全ての人民はわが子である」と宣し、民族・宗教・階級を超えて帝国の全構成員に接近しようと試みた。そして、人民を階級に分断するヴァルナ制度や、異民族を劣等視するアーリヤ至上主義は無視した。パレスチナのユダヤ教徒とイスラーム教徒の争い、シリアやイラクにおけるシーア派とスンナ派の争いなど、世界中で宗教の違いから来る紛争が続いているけど、そんな今こそアショーカ王の統治方法を見習ってもらいたいもんだ。
写真はアショーカ王がサールナートに建てた石柱法勅の柱頭部。世界史の授業で習ったよね。サールナートって覚えてるかな。そう、ブッダが初めて5人の修行者に説法した場所だったよね。これを初転法輪【しょてんぼうりん】という。車輪が転がるようにブッダの教えが弘まっていくということで、ブッダの説法を転法輪と言っていて、ライオンの足許の法輪(ダルマ・チャクラ)がそれを表している。
4頭背中合わせの獅子の彫刻は、ブッダの教えが四方に行き渡ることの象徴。ブッダの説法は獅子吼【ししく】とも言われるので、ライオンがそのシンボルだということだね。この柱東部は現在インドの国章として用いられており、10ルピー紙幣の左下にも描かれている
これはご存じインドの国旗だ。中央にある輪は、永遠の真理・正義を表現したものなんだけど、もちろん石柱法勅の法輪を写したものだ。ダルマによる統治というアショーカ王の理想が2200年後のインドで蘇ったということだ。
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