なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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シャイレンドラ朝は8世紀後半、中部ジャワで有力となった大乗仏教王国。シャイレンドラはサンスクリット語で「山からの王」「山の王家」という意味。扶南も「山の王」という意味だったから、何か関係があるのかもね。
海上貿易に従事する港市国家として栄え、一時はベトナム、カンボジアにも進出し、隣接するスマトラ島のシュリーヴィジャヤとも連合したことがあったらしい。また同じ8~9世紀のジャワ島中部にマタラム王国(古マタラム王国)というヒンドゥー教を信奉する国があり、プランバナンという石像のヒンドゥー寺院を築造している。しかし、文献資料が少なく、シャイレンドラ、シュリーヴィジャヤ、マタラムの関係はまだわからないことが多い。
海上貿易に従事する港市国家として栄え、一時はベトナム、カンボジアにも進出し、隣接するスマトラ島のシュリーヴィジャヤとも連合したことがあったらしい。また同じ8~9世紀のジャワ島中部にマタラム王国(古マタラム王国)というヒンドゥー教を信奉する国があり、プランバナンという石像のヒンドゥー寺院を築造している。しかし、文献資料が少なく、シャイレンドラ、シュリーヴィジャヤ、マタラムの関係はまだわからないことが多い。
有名なボロブドゥールはシャイレンドラ朝のダルマトゥンガ王の統治下で、775年頃から建設が始まったとされる。最近の研究では最初はシヴァ教の寺院として計画された可能性が高いそうだ。795年から始まった第2段階で大乗仏教のストゥーパとして建設することになり、820年頃には完成したらしい。建設途中で目的や設計にかなりの変更があったために現在のような複雑な構造になった。
須弥山【しゅみせん】って知ってる?お寺の本堂で仏さんが安置されている壇を須弥壇【しゅみだん】と言うんだけど、この須弥山に由来する名前だ。須弥山はスメール山の音訳で、宇宙の中心に聳える山のこと。ジャワ島には本当にスメル山という山がある。須弥山の周りに4つの大陸があって、僕らが住んでいる世界は南の閻浮提【えんぶだい】というところだ。 ボロブドゥールの最終的な設計がこの須弥山【しゅみせん】を中心とする仏教的な宇宙を表現することを目的としていたことは確かなようだ。
ボロブドゥールの総面積は約1.5万㎡あり、平原の中央の丘に盛り土をして造られた。石材は一定の大きさの安山岩のブロックを組み合わせ、接着剤は一切使わず、ほぞなどで組み合わせ、さらに積み上げて建てられており、内部空間を持たないことが大きな特徴となっている。創建当時はこの安山岩の表面に白色の漆喰が塗られ、さらに彩色もされていたと想像されており、鮮やかな寺院であったようだ。
構造は全9層にまたがっていて、階段ピラミッドのような造りをしている。9層の内訳は1辺120mの基壇1層、方形壇5層、円壇3層となっていて、この基壇・方形壇・円壇は、仏教の「三界」、つまり欲界・色界・無色界を表しているとされ、人は下から上へ登っていくにつれ、欲望にあふれ罪悪に満ちた世界から、禅定に達した世界へと移っていくものとされる。
構造は全9層にまたがっていて、階段ピラミッドのような造りをしている。9層の内訳は1辺120mの基壇1層、方形壇5層、円壇3層となっていて、この基壇・方形壇・円壇は、仏教の「三界」、つまり欲界・色界・無色界を表しているとされ、人は下から上へ登っていくにつれ、欲望にあふれ罪悪に満ちた世界から、禅定に達した世界へと移っていくものとされる。
方形壇には51の回廊があり、その総延長は5kmにも及ぶ。そこに、仏教説話にもとづいた1460面におよぶレリーフ(浮き彫り)やインド神話の伝説の鳥獣が刻まれており、インドのグプタ美術の影響が見られる。なんと、仏教説話のレリーフの人物の総数は1万人ほどにも及ぶと言われる。第2回廊と第3回廊のレリーフは『華厳経』の基づいており、善財童子が53人の賢者を歴訪する旅が描かれている。
仏像は第1回廊から第4回廊の壁龕【へきがん】(くぼみ)に432体、3段の円形壇の上に築かれた釣鐘状のストゥーパ72基の内部に1体ずつ納められており、いずれも一石造りによって等身大につくられ、計504体を数える。
ストゥーパ72基は、全体では三重の円を描くように並び、下層より32基、24基、16基あって、釣鐘状の部分が格子のようになっていて、中に祀られた仏像を拝むことができる。
頂上にはひときわ大きなストゥーパがあり、天上をめざしている。この中心塔には仏像は安置されておらず、空洞になっている。何者かが持ち去ったのかと思うかもしれないが、創建当初から空洞であったようだ。これは、大乗仏教の真髄である「空【くう】」の思想を強調していると考えられている。
ボロブドゥールはサンスクリット語で「ブーミサンバラ・ブダラ」(「悟りの因を助ける種々の善法」)と呼ばれていたのが、赤字部分が訛ったものとされる。東の入り口から入り、時計回りに回廊を廻りながら仏教説話を学び、504体の仏像を拝しながら上へ登って行き、最後「空」の思想に触れるという一大宗教世界であったわけだ。
シンガポールに建つラッフルズ像
しかし、10世紀にジャワ島中部のムラピ火山が大噴火を起こし、人々が住めない状況となったため、ボロブドゥールの存在も忘れられ、密林に埋もれてしまった。1814年に当時ジャワ総督代理であったイギリスのラッフルズによって発見され、その後はオランダ植民地政府によって修復が進められたが、かえって遺跡を崩壊させることになり、最近ではユネスコの手で修復工事が行われている。
ところで、ラッフルズと言えば、1819年にジョホール王からシンガポールを買収した人物としても知られているよね。彼の名がつくラッフルズ・ホテルはシンガポールの最高級ホテルで、日本軍統治下では「昭南旅館」と呼ばれた。僕は泊まったことはないけど、テラスでビールを飲んだことはあるよ。
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扶南【ふなん】は東南アジア最古の王朝と考えられる、紀元1世紀末にメコン川下流の現在のカンボジアからベトナム南部にかけて成立した王朝である。クメール語の山を意味するプノムの古語プナムからきた言葉で、その地方の王が「クルング=プナム」すなわち「山の王」と言われていたのを中国人が扶南と書き写したものとされている。建国者はクメール人かマレー人かはっきりしない。
扶南はカウンディンヤというインド人バラモンの王子が、南方より海路やってきて、その地の人民を服従させ、柳葉【りゅうよう】という名の女首長と結婚した、という伝承がある。その後、4~5世紀にヒンドゥー教・シヴァ神信仰・サンスクリットなどを取り入れ、インド化が進んだ。
扶南はカウンディンヤというインド人バラモンの王子が、南方より海路やってきて、その地の人民を服従させ、柳葉【りゅうよう】という名の女首長と結婚した、という伝承がある。その後、4~5世紀にヒンドゥー教・シヴァ神信仰・サンスクリットなどを取り入れ、インド化が進んだ。
聖山バテ山の手前が港市
扶南はタイ湾に面し、当時の海上交易上の最も大きな都市であり、さらにメコン川デルタの肥沃な平野を後背地に抱えていて、地理的条件が非常に良かった。外港であったオケオは現在のベトナム南部にあり、海岸から25キロ内陸に入った地点にある。扶南はメコン川を利用してオケオに内陸の物資を集積し、それを南シナ海交易圏でインドや中国と交易して利益をあげる港市国家であった。
ローマ金貨
オケオは1940年代にフランス人考古学者マルレにより発掘されたが、遺跡からはインド製の仏像やヒンドゥー教の神像、後漢時代の鏡、ローマ帝国の五賢帝時代の金貨などが出土している。
クメール人は6世紀以降有力となり、カンボジア王国(クメール王国ともいう)を建設した。中国ではこの王国を真臘【しんろう】と言っている。7世紀に扶南を滅ぼしたが、8世紀に南北に分裂した。802年にアンコール朝のジャヤヴァルマン2世の下で再統一され、26代600年以上繁栄が続いた。
アンコール朝の代々の都であったアンコールは、東南アジア最大の湖トンレサップ湖の北岸にあたる。アンコールは「都市」を意味するサンスクリット語「ナガラ」がクメール語化したもの。9世紀以降、アンコール朝の諸王はこの地を中心にインドシナ半島を広範囲に支配し、道路網を築いた。都の周辺にはバライという貯水施設を多数建設し、水路をめぐらしていた。
アンコールの中心部には都城であるアンコール=トムがあり、その南にアンコール=ワットの巨大な石造建築群が残っている。アンコールとは「都市」、ワットが寺を意味するので「首都の寺」となる。12世紀前半、最大の領土を誇ったスールヤヴァルマン2世が30余年の歳月をかけて建立したものである。その境内では、王はヴィシュヌ神の姿相をもって神格化され礼拝されていた。ということは、アンコール=ワットはヒンドゥー教の寺院だね。
『マハーバーラタ』の一場面
中央と四隅に塔を持ち、周囲の回廊の壁面には『マハーバーラタ』『ラーマーヤナ』の物語が細かにレリーフされており、見る人を圧倒する。
バイヨン寺院のジャヤヴァルマン7世像
1177年にアンコールはチャンパーによりを占領されたが、ジャヤヴァルマン7世が1181年に奪回、首都アンコール=トムを復興させ、アンコール朝全盛期を迎えた。ジャヤヴァルマン7世は仏教を厚く信仰するようになり、アンコール=ワットも仏教寺院として用いられるようになった。
ジャヤヴァルマン7世は国内に道路網を整備し、その道沿いに102の施療院(アーロギャーシャーラ、「病人の家」の意味)を建て、王みずから病人の世話に関わり、年に3回薬や薬草を供与していたという。伝説に拠れば、彼自身が癩【らい】病(ハンセン氏病)を病み、若くして死んだというが、確証はない。
ジャヤヴァルマン7世は国内に道路網を整備し、その道沿いに102の施療院(アーロギャーシャーラ、「病人の家」の意味)を建て、王みずから病人の世話に関わり、年に3回薬や薬草を供与していたという。伝説に拠れば、彼自身が癩【らい】病(ハンセン氏病)を病み、若くして死んだというが、確証はない。
アンコール=ワットは東南アジアの文明を代表する遺跡であり、現在のカンボジア王国の国旗にも用いられている。
ジャヤヴァルマン7世の死後、アンコール朝の衰退が始まった。14世紀にはタイのアユタヤ朝が勃興し、その侵攻を受けるようになり、1432年にアンコールを放棄してプノンペンに首都を遷した。そのため、アンコール=ワットは荒廃し、ジャングルの中に埋もれてしまい、さらにカンボジア内戦期(1970~80年代)にはポルポト派による破壊が行われ、荒廃が一層進んだ。現在はユネスコを中心とした保存・修復事業が展開されている。
実はアンコール=ワットには日本人の落書きが14カ所も残っている。その一人の「肥州の住人藤原朝臣森本右近大夫一房」は、父儀大夫の菩提を弔い、老母の後生を祈るため、はるばる数千里の海上を渡り、寛永9(1632)年正月にこの寺院に到来し、仏像4体を奉納した、と墨書している。上の写真は見にくいけど、その落書き。森本右近大夫の子孫は岡山に現存し、彼の墓も京都で見つかったが、位牌には森本左大夫となっている。彼が落書を残した1632年には日本人の海外渡航禁止令が出されており、彼も帰国後は名前を変えなければならなかったらしい。
当時は徳川家康の朱印船貿易が盛んに行われ、カンボジアにもたくさんの日本町がつくられていた。日本人はこの地を「祇園精舎」と思い込んでいたようで、水戸の彰考館には「祇園精舎の図」としてアンコール=ワットの図面が残されている。
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