なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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タイ原産の猫はタイ猫じゃなくて、シャム猫と呼んでるけど、タイ人のことを昔はシャム人と言った。タイ人は今タイに住んでるけど、もとからタイに住んでいたわけじゃない。もともとは中国の四川地方や雲南地方に住んでいたんだ。それが、13世紀にモンゴルの南下に押されてインドシナ半島に移住し、先住民と同化しながら定住したとされる。
はじめカンボジア(真臘)のアンコール朝に従属していたが、1257年ごろにスコータイを都としてスコータイ朝を起こした。スコータイは「幸福の夜明け」の意味だ。
ラーマカムヘーン王
第3代国王がラーマカムヘーン王。「ラーマのような強者」の意味で、ラーマはもちろん『ラーマーヤナ』の主人公ラーマのことで、理想の君主を意味する。その業績からタイ史上最高の王(タイ3大王)の1人に数えられ、大王(マハーラート)の尊称で呼ばれ、2013年から発行されている20バーツ紙幣の裏面にその肖像が使用
されている。
されている。
彼の最大の功績は1283年に、カンボジアの文字をもとに独自のタイ文字をつくったことだ。また、王はスリランカの大寺派仏教に深く帰依し、上座部仏教を立国の精神に掲げた。王は民衆に仏教の教えを説くことともに、自身も寄進を行い、僧侶たちの説法にも耳を傾けた。こうした仏教の保護事業は、スコータイ以後のタイの諸王朝にも引き継がれた。
しかし、スコータイ朝は1351年に南のアユタヤにアユタヤ朝が起こると次第に衰退し、15世紀には地方政権として存続するだけとなった。
ラーマーティボーディー1世
アユタヤ朝の建国者ウートンは即位してラーマーティボーディー1世を名乗った。チャオプラヤ川下流のアユタヤは水上交通の要衝である。米・獣皮・象牙・綿花・香辛料などの輸出を盛んに行い、チャオプラヤ川に面した港からバンコク湾にでて南シナ海からベンガル湾を通じてインドと、さらに中国とも交易を行った。典型的な港市国家である。また、上座部仏教を保護し、都のアユタヤをはじめ各地に仏教寺院が建設された。
1432年に東のアンコール朝を壊滅させ、1438年には北方のスコータイ朝を併合して強大となり、16世紀からはポルトガルとの交易も始まった。さらに、17世紀中頃までに、オランダ、フランスも加えてさかんに貿易が行われ、1680年代には親フランス政策をとりルイ14世の宮廷に使節を派遣している。
アユタヤは国際商業の中心地として栄え、日本人町も建設された。アユタヤ日本人町は14世紀頃に始まったと思われるが、日本の戦国時代には主君を失った浪人が流れてくるようになり、急激な膨張がみられるようになった。この傾向が特に強くなるのが関ヶ原の戦い、大坂の役などの後である。
当時ビルマのタウングー朝からの軍事的圧力に悩まされていたアユタヤは、このような実戦経験豊富な日本人兵を傭兵として雇い入れることでこれを阻止しようとしたねらいがあり、これが浪人のアユタヤ流入を生んだ。この日本人傭兵隊の勢力は200あるいは800人とも言われる勢力に膨張し、政治的にも大きな力を持つようになった。
日本人町跡
このような軍事的背景とは別に日本は朱印船貿易により、貿易面においてもアユタヤ日本人町は発展を遂げ、アユタヤ日本人町の人口は8000人程と考えられている。
山田仁左衛門長政
タイで活躍した日本人として知られているのが山田長政である。長政は駿河の人で、沼津藩の駕籠かきをしていたが、1612年頃にタイに渡った。近隣諸国と戦火を交えていた国王を援助し、国王ソンタムの信任を得てアユタヤの日本人町の頭領となり、1628年にはタイで最高の官位であるオヤ・セナピモクとなった。国王が没したあと王位継承争いに巻き込まれ,南方のリゴール太守に左遷され、隣国パタニの侵入軍と戦ったが負傷。タイ人がその傷口に塗った毒薬で殺されている。
1639年、江戸幕府の鎖国令により日本人の海外渡航が禁止され、母国との連絡を絶たれたアユタヤの日本人町はその後衰退の一途をたどることになった。
1639年、江戸幕府の鎖国令により日本人の海外渡航が禁止され、母国との連絡を絶たれたアユタヤの日本人町はその後衰退の一途をたどることになった。
1752年にビルマを統一したコンバウン朝が勢力を強め、再び隣接するタイに侵攻、1767年にアユタヤの王宮はコンバウン軍に破壊され、アユタヤ朝は滅亡した。
アユタヤは400年にわたり、都として繁栄し、仏教文化が花咲いたが、このときのビルマの侵攻によって徹底的に破壊されてしまった。ワット・プラ・シーサンペットはアユタヤ王宮内にあった最も重要な寺院で、1448年に建立された。寺院のシンボルである3基の仏塔は3人の王の遺骨が納められている。1767年のビルマ軍による第2次アユタヤ侵攻で破壊されたが、戦後に修復された。
アユタヤの象徴とも言えるのが、ワット・マハタートにあるこの仏頭。1600年代中頃に胴体から地面に落ちたと言われている。その後、木の成長とともに根元にとり込まれ、現在の姿となったと伝えられているが、地面に落ちた理由は分からない。
この仏頭よりも人間の愚かさを示しているのが、敷地内のいたる所にある破壊された仏像だ。頭がことごとく切り落とされている。仏像を破壊した犯人として、われわれがすぐ思い起こすのがイスラーム教徒だ。2001年にターリバーンによってバーミヤン大仏が爆破されたことは記憶に新しい。
しかし、ワット・マハタートの仏像の頭を刎ねたのはイスラーム教徒ではない。仏教国であるビルマのコンバウン朝だ。イスラーム教徒ならまだしも、仏教徒でありながら犯した暴挙は許せない。

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1044年、ビルマ人による、ミャンマー初の統一王国が誕生した。それが、パガン朝だ。首都はイラワディ川上流のパガン。パガンの名称は「ピュー・ガーマ(「ピュー人の村落」の意味)」が転訛【てんか】したものと言われる。
ビルマ人は南詔【なんしょう】国(雲南を支配した国。902年滅亡し、938年これに代わり大理国が成立した)の支配下にあり、ミャンマーは前3000年頃に定住したモン人やピュー人が治めていた。しかし、832年頃に南詔国がピュー人の王朝を滅ぼしたことで有利となったビルマ人が、しだいに南下してピュー人やモン人を駆逐あるいは吸収していった。
ビルマ人は南詔【なんしょう】国(雲南を支配した国。902年滅亡し、938年これに代わり大理国が成立した)の支配下にあり、ミャンマーは前3000年頃に定住したモン人やピュー人が治めていた。しかし、832年頃に南詔国がピュー人の王朝を滅ぼしたことで有利となったビルマ人が、しだいに南下してピュー人やモン人を駆逐あるいは吸収していった。
アノーヤター王
パガン朝の建国者がアノーヤター王(在位1044〜1077年)である。アノーヤター王の最大の功績は、モン人高僧シン=アラハンの勧めによりパガンに上座部仏教を導入したことであった。それまで上ビルマでは、大乗仏教のアリー派が信仰され、権勢を得ていた。このアリー派は密教的ないかがわしい呪術儀礼などを執り行っていたという。王はタトゥンからシン=アラハンを招き、説法を聞いて上座部仏教に帰依し、アリー派を一掃した。
シン=アラハンは高僧としてビルマ仏教の礎を築き、仏舎利と三蔵を入手するために下ビルマ征服を進言した。王は1057年に下ビルマのモン人の拠点タトゥンを攻略し、そのマヌハ王と約3万人のモン人をパガンに連行した。彼らによりパーリ語一切経の招来、仏教倫理の伝授、文字表記の習得、建築工芸の基礎知識などモン文化がもたらされ、パガンの王宮内ではモン文化が風靡していた。
シュエジーゴン・パゴダ
アノーヤター王はスリランカに使節を派遣し、有名な仏歯を招来してシュエジーゴン・パゴダに祀ったと言われている。パゴダはミャンマー式の仏塔(ストゥーパ)を意味する言葉だが、これ実は英語なんだぜ。ミャンマー語では「尊敬されるべきもの」を意味する「ゼーディー」又は「プドゥー」と呼ばれている。ミャンマーの人々にとって、パゴダはブッダがいなくなって以来、ブッダに代わるものであり、「ブッダの住む家」であるとされる。従ってパゴダを建てることは、ミャンマーでは「人生最大の功徳」とされ、そうすることにより幸福な輪廻転生が得られるとされている。
アーナンダー寺院
シュエジーゴン・パゴダを完成させたのが、第3代目のチャンシッター(在位1084~1112年頃)で、彼はパガン朝の最盛期を現出させた。王はモン人とビルマ人の融和統合に努め、仏教を篤く信仰し、ビルマ寺院建築の最高傑作アーナンダー寺院を建立した。
1190年にモン人僧侶チャパタがスリランカから4人の僧侶を伴って帰国し、上座部仏教のマハー・ヴィーラ派(大寺派)を伝えた。それまではタトゥン派の上座部仏教が勢力を有していたが、王家が大寺派に帰依することにより、同派を受戒する僧侶が多数にのぼるようになった。その結果、大寺派がそれ以外の派を駆逐してビルマに定着し、ビルマを拠点としてこの大寺派の上座部仏教がシャム(タイ)・カンボジア・ラオスへ陸路や河川路などを通じて積極的に伝播し、どこでも一般大衆の篤い信仰を獲得していくことになるのであった。13世紀は。これまでの東南アジア大陸部の各民族の精神価値体系を上座部仏教に塗り替えてしまうほどの大変革の時代であった。
1190年にモン人僧侶チャパタがスリランカから4人の僧侶を伴って帰国し、上座部仏教のマハー・ヴィーラ派(大寺派)を伝えた。それまではタトゥン派の上座部仏教が勢力を有していたが、王家が大寺派に帰依することにより、同派を受戒する僧侶が多数にのぼるようになった。その結果、大寺派がそれ以外の派を駆逐してビルマに定着し、ビルマを拠点としてこの大寺派の上座部仏教がシャム(タイ)・カンボジア・ラオスへ陸路や河川路などを通じて積極的に伝播し、どこでも一般大衆の篤い信仰を獲得していくことになるのであった。13世紀は。これまでの東南アジア大陸部の各民族の精神価値体系を上座部仏教に塗り替えてしまうほどの大変革の時代であった。
パガン朝の多くの王は仏教に篤く帰依し、僧院生活を送ったり、寺院建立に打ち込んだ。その結果、首都はパゴダで埋め尽くされていった。その数は3000を超えるとも言われる。しかし、こうした出費は国力をおおいに消耗させた。
フビライ
最後の王ナラティハパテ(在位1254~87年)は、6年かかって1284年にミンガラーゼー・パゴダを建立したが、「仏寺成って国亡ぶ」と民衆から言われた王であった。当時中国の元のフビライは雲南地方の大理国を併合し、4回にわたりパガン朝にも入貢と臣服を求めてきた。王はこれを拒絶した。そのため元軍が1287年パガンを攻略し、約250年続いたパガンは崩落した。その後のパガンの王は元朝に従属するかたちで統治を許されたが、シャン丘陵から進出してきた新興勢力のシャン人が上ビルマの政治の実権を握り、パガン朝は1314年に滅亡した。
下ビルマはそれに先立ちモン人が勢力を盛り返し、ペグーを拠点とするペグー朝(1287~1539年)の支配が行われた。 ペグー朝は明やヨーロッパとの通商で繁栄した。象牙、宝石などを輸出し、ヨーロッパからはビロードが、中国からは磁器や香料が、インドからは織布が輸入された。1452~59年には、ビルマ史上唯一の女王シンソーブも誕生し、栄華を極めたが、上座部仏教の平和的な教えもあり次第に軟弱化して行った。
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