なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
カテゴリ
最新記事
fc2カウンター
月別アーカイブ
- 2023/12 (1)
- 2023/11 (13)
- 2023/10 (14)
- 2023/09 (13)
- 2023/08 (13)
- 2023/07 (8)
- 2023/06 (9)
- 2023/05 (9)
- 2023/04 (8)
- 2023/03 (9)
- 2023/02 (8)
- 2023/01 (9)
- 2022/12 (9)
- 2022/11 (9)
- 2022/10 (8)
- 2022/09 (9)
- 2022/08 (9)
- 2022/07 (9)
- 2022/06 (8)
- 2022/05 (10)
- 2022/04 (9)
- 2022/03 (9)
- 2022/02 (8)
- 2022/01 (8)
- 2021/12 (9)
- 2021/11 (9)
- 2021/10 (9)
- 2021/09 (8)
- 2021/08 (9)
- 2021/07 (9)
- 2021/06 (9)
- 2021/05 (8)
- 2021/04 (9)
- 2021/03 (9)
- 2021/02 (8)
- 2021/01 (9)
- 2020/12 (9)
- 2020/11 (8)
- 2020/10 (9)
- 2020/09 (9)
- 2020/08 (8)
- 2020/07 (9)
- 2020/06 (9)
- 2020/05 (9)
- 2020/04 (8)
- 2020/03 (9)
- 2020/02 (9)
- 2020/01 (9)
- 2019/12 (9)
- 2019/11 (8)
- 2019/10 (9)
- 2019/09 (9)
- 2019/08 (7)
- 2019/07 (9)
- 2019/06 (9)
- 2019/05 (9)
- 2019/04 (8)
- 2019/03 (9)
- 2019/02 (8)
- 2019/01 (10)
- 2018/12 (9)
- 2018/11 (10)
- 2018/10 (10)
- 2018/09 (5)
- 2018/08 (4)
- 2018/07 (5)
- 2018/06 (6)
- 2018/05 (2)
- 2018/04 (5)
- 2018/03 (3)
- 2018/02 (3)
- 2018/01 (4)
- 2017/12 (4)
- 2017/11 (3)
- 2017/10 (3)
- 2017/09 (3)
- 2017/08 (1)
- 2017/07 (1)
- 2017/06 (2)
- 2017/05 (1)
- 2017/04 (3)
- 2017/03 (1)
- 2017/02 (2)
- 2017/01 (4)
- 2016/12 (2)
- 2016/11 (1)
- 2016/10 (2)
- 2016/09 (2)
- 2016/08 (2)
- 2016/07 (1)
- 2016/06 (2)
- 2016/05 (5)
- 2016/04 (1)
- 2016/03 (1)
- 2015/11 (1)
- 2015/09 (1)
- 2015/08 (2)
- 2015/07 (1)
- 2015/06 (2)
- 2015/05 (2)
- 2015/04 (1)
- 2015/03 (2)
- 2015/02 (1)
- 2015/01 (3)
- 2014/12 (4)
- 2014/11 (4)
- 2014/10 (4)
- 2014/09 (5)
- 2014/08 (8)
- 2014/07 (6)
- 2014/06 (2)
- 2014/05 (6)
- 2014/04 (3)
- 2014/03 (10)
- 2014/02 (5)
- 2014/01 (15)
- 2013/12 (11)
- 2013/11 (23)
- 2013/10 (16)
最新トラックバック
最新コメント
リンク
検索フォーム
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム
QRコード

8月20日(日)
管理人のおじさんに貰った胡瓜をかじりながらクムトラ千仏洞を見学したあと、午後6時40分スバシ故城を訪ねた。
管理人のおじさんに貰った胡瓜をかじりながらクムトラ千仏洞を見学したあと、午後6時40分スバシ故城を訪ねた。
故城と呼ばれているが、クチャ川を挟んで西岸と東岸の二つに分散して建立された大寺院の跡である。中国語の標識にも、「蘇巴什仏寺遺址亦称・昭怙厘大寺・俗称・蘇巴什古城」と書かれている。前にも書いたように探検家スタインは、玄奘三蔵の記した『大唐西域記』に「荒城の北四十余里、山の入り込みに接し、一つの河を隔てて二伽藍【がらん】あり、昭怙釐【しょうこりん】と名づけ、東西相対す」とあることから、スバシ故城をジャクリ(昭怙厘・雀離)大寺と考え、標識も彼の説によっている。しかし、最近の研究では、キジル千仏洞がジャクリ大寺であるとする説が有力になって来ているそうな。
中国仏教史上の基本史料である『出三蔵記集』には、「王新僧伽藍という寺には九十人の僧がおり、その中に年少の沙門で字を鳩摩羅という者がある。才は大にして高明で、大乗を学んでいる」とあり、王新寺という寺院名も出て来るのだが、スバシ故城がジャクリ大寺でないとすると、この王新寺にあたるのであろうか。ジャクリ大寺か、王新寺か?王新寺か、ジャクリ大寺か?まあ、どっちでもいいか!!
西寺の西方には高さ20mほどの巨大な仏塔跡がある。1978年、この塔の周辺から墓が発見され、棺材の放射性炭素測定から、仏塔は3世紀には建立されていたことが明らかにされている。ということは、羅什の生きた時代にこの塔はすでに存在したことになり、ジャクリ大寺であろうが、王新寺であろうが、この空間に羅什が身を置いていたことは疑いようがない。いま僕の頬をなでている風は羅什の頬もなでたのだろうか。
全盛期には3000人もの僧たちが生活していたというが、今は荒れ果てた広大な敷地に、倒壊した日干し煉瓦の寺院址が点在するのみである。全国重点文物保護単位に指定されているわりには、手入れも行き届いておらず、何十年か後にはすべて崩れ落ちて沙漠に同化してしまうのではないだろうか。
午後7時頃という遅い時間であったためか、見学者はわれわれ一行の他に一組のカップルだけ。夕陽を背にした仏塔がシルエットとなり、余計に寂しさが募る。時の流れとは何と残酷なものか。
しかし、それがこの世の真理であり、釈尊の最後の言葉も、「もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成なさい」であった。
午後7時頃という遅い時間であったためか、見学者はわれわれ一行の他に一組のカップルだけ。夕陽を背にした仏塔がシルエットとなり、余計に寂しさが募る。時の流れとは何と残酷なものか。
しかし、それがこの世の真理であり、釈尊の最後の言葉も、「もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成なさい」であった。
午後7時20分、スバシ故城をあとにしてバザールへ。シルクロードにいるぞ、という実感がわく。ウイグル族の子供たちも、出迎えてくれた。
ナンの売る店、西瓜を無造作に山積みにしてある店。羊の足をぶら下げてある肉屋。
そして、シルクロードと言えばシシカバブ(羊の串焼き)。兄ちゃんが手早くスパイスを振りかけて、焼き上げていく。1串に肉片6切で、2元(30円)。とにかく安くて、美味い。これでビールがあれば最高なんだが、イスラーム圏なのでアルコールはおいてない。 う~ん、残念。

午後8時45分、ホテルに帰って夕食。メインは子羊の丸焼き。遊牧民が客人を迎える際の最高のもてなしが子羊の丸焼き。家長が自らナイフで子羊をさばき、眼肉を客人の皿に取り分けるのが礼儀だが、ここはホテルなのでコックさんにやってもらう。これを気持ち悪いと言ってはならない。その民族の文化なのだから、郷に入っては郷に従え、喜んで食さなければならない。でも、羊が「なんで私を殺したのよ~」と言わんばかりに、恨めしい目で睨んでいるような気がして、なかなか箸がすすまない。でも、思い切って食べてみると、これが実に美味い。だって、鯛でも眼肉が一番美味いと言いますもんね。おまけに1頭につき2個しかない貴重品。僕は6年前に食べているので、今回が初体験の人達に譲った。
でもどうしても譲れないのが、羊の脳味噌。これが濃厚な味でなんとも言えない珍味。鱈の白子をもっと濃くした味というか、白子とチーズのハイブリッドというか、まあ食べてみないと分かんないなあ。とにかく美味いんだって。写真の手は人が食べてるのを、横から頂戴している僕の手。まあ、それくらい美味いんだって。嘘だと思う方は、今度シルクロードに行って食べてご覧。(つづく)
8月21日(月)
午前1時45分起床。とんでもない時間の起床となったのは、クチャ站【たん】(中国では駅のことを站と表記する)午前2時51分発の南疆【なんきょう】鉄道でカシュガル(喀什)に向かうためである。昨夜夕食を済ませて寝たのが、11時半頃だったろうか。3時間ほどしか寝ていないので、とにかく眠い。時間が時間なのでポーターがおらず、皆で手分けしてスーツケースを列車に押し込み、寝ぼけ眼で軟臥車【なんがしゃ】(グリーン寝台)に乗り込み、毛布を被るなり寝てしまった。
羅什も7歳で出家しているが、母の強い願いによるものであった。そして、9歳の時に母とともに辛頭河(インダス川)を渡り、罽賓【けいひん】国(現在のカシミール)に留学している。羅什親子がどの経路をたどったか知られていないが、恐らく我々がこれからとるルートとほぼ同じであったはずだ。我々のように列車・バスを利用する旅と違い、徒歩での旅は9歳の羅什にとってはなはだ困難なものであったに相違ない。天山南路は極度の乾燥地帯をたどっている。1日10キロも歩けただろうか。クチャ・カシュガル間だけで750キロ、恐らく2カ月ほど要したと思われるが、我々はたったの9時間ほどでカシュガルに到着した。
午前1時45分起床。とんでもない時間の起床となったのは、クチャ站【たん】(中国では駅のことを站と表記する)午前2時51分発の南疆【なんきょう】鉄道でカシュガル(喀什)に向かうためである。昨夜夕食を済ませて寝たのが、11時半頃だったろうか。3時間ほどしか寝ていないので、とにかく眠い。時間が時間なのでポーターがおらず、皆で手分けしてスーツケースを列車に押し込み、寝ぼけ眼で軟臥車【なんがしゃ】(グリーン寝台)に乗り込み、毛布を被るなり寝てしまった。
南疆鉄道はウルムチ・カシュガル間1558キロを結ぶ鉄道路線で、1999年に全線が開通している。往年のシルクロード天山南路に沿っており、砂漠地帯を貫く過酷な大地の中を二階建ての列車が走る。6年前はクチャからウルムチまでの夜行列車を利用したのだが、石油会社の要人が乗るという理由で、一方的に軟臥車を硬臥車(一等寝台)に変更させられた嫌な思い出がある。
羅什の母・耆婆は羅什が5歳の時に出家している。夫の鳩摩羅炎も兄である亀茲王・白純も猛烈に反対したが、彼女の意志を覆すことは出来なかった。僧侶であった鳩摩羅炎を還俗させてまで結婚に踏み切った彼女が、なぜ出家したのであろうか?羅什には弗沙提婆【ふさだいば】という弟がいたが、幼くして亡くなったようで、それが動機であったのかも知れない。鳩摩羅炎は再び僧侶となることも許されず、王室の庇護も失い、どこともなくその姿を消すことになったと伝えられている。
羅什も7歳で出家しているが、母の強い願いによるものであった。そして、9歳の時に母とともに辛頭河(インダス川)を渡り、罽賓【けいひん】国(現在のカシミール)に留学している。羅什親子がどの経路をたどったか知られていないが、恐らく我々がこれからとるルートとほぼ同じであったはずだ。我々のように列車・バスを利用する旅と違い、徒歩での旅は9歳の羅什にとってはなはだ困難なものであったに相違ない。天山南路は極度の乾燥地帯をたどっている。1日10キロも歩けただろうか。クチャ・カシュガル間だけで750キロ、恐らく2カ月ほど要したと思われるが、我々はたったの9時間ほどでカシュガルに到着した。
カシュガルは古くは疏勒【そろく】国と呼ばれ、シルクロードの要衝として栄えた。玄奘三蔵もインドからの帰りに訪れており、かのマルコ=ポーロもやって来ている。
午後12時20分、色満賓館(セマン・ホテル)に到着。さっそく、ウイグルの美しい娘さん達が踊りで我々を出迎えてくれた。
色満ホテルとは何とも艶っぽい名前のホテルだが、元ロシア領事館として使用されていた格式のある三ツ星ホテルだ。
しかし、格式があるということは古いということでもある。部屋に入って、案外綺麗だなと思ったまでは良かったんだけど、用を足した後、案の定流れない。悪戦苦闘しても流れない。紙は仕方ないとして、取り敢えず何とか自分の分身を処理して、修理をお願いした。すぐに来てくれたのだが、結局流れない。
でも、腹は立たない。腹が立つどころか、これも旅の楽しみの一つになってしまっている。毎回きちんと流れるほうが異常なのかも知れませんよ!!
昼食中、隣に座っていたT君が突然飛び上がった。何事かと思ったら、どうも太股を虻【あぶ】に噛まれたらしい。この人は虫に好かれているらしく、インド旅行の時もベッドに潜んでいた壁蝨【だに】どもに血を吸われてボコボコにされたことがある。だんだん腫れて来て、痛みもひどくなって来たので、病院に連れて行ってもらうことになった。
彼からあとで聞いたのだが、病院には女性のスタッフしかいなかったそうだ。彼がズボンを脱いで患部を見せようとすると、恥ずかしがって「止めてくれ」と言われたそうだ。結局ズボンを下からまくり上げるという困難な方法で患部を見て貰ったそうだが、さすがイスラーム圏である。カシュガルに住むウイグル族はイスラーム教徒で、イスラーム教徒には、父親と夫以外の男性に肌を見せてはいけないという戒律がある。「男女七歳にして席を同じくせず」の世界にあって、男のパンツ姿を見るなんて、とんでもないことなのである。(つづく)
でも、腹は立たない。腹が立つどころか、これも旅の楽しみの一つになってしまっている。毎回きちんと流れるほうが異常なのかも知れませんよ!!
昼食中、隣に座っていたT君が突然飛び上がった。何事かと思ったら、どうも太股を虻【あぶ】に噛まれたらしい。この人は虫に好かれているらしく、インド旅行の時もベッドに潜んでいた壁蝨【だに】どもに血を吸われてボコボコにされたことがある。だんだん腫れて来て、痛みもひどくなって来たので、病院に連れて行ってもらうことになった。
彼からあとで聞いたのだが、病院には女性のスタッフしかいなかったそうだ。彼がズボンを脱いで患部を見せようとすると、恥ずかしがって「止めてくれ」と言われたそうだ。結局ズボンを下からまくり上げるという困難な方法で患部を見て貰ったそうだが、さすがイスラーム圏である。カシュガルに住むウイグル族はイスラーム教徒で、イスラーム教徒には、父親と夫以外の男性に肌を見せてはいけないという戒律がある。「男女七歳にして席を同じくせず」の世界にあって、男のパンツ姿を見るなんて、とんでもないことなのである。(つづく)
8月21日(月)
罽賓【けいひん】国(現在のカシミール)で3年間小乗仏教を学んだ羅什は、亀茲への帰途立ち寄った疏勒【そろく】国で須利耶蘇摩【すりやそま】と出会い、大乗仏教を学んだ。羅什は、「私が昔、小乗を学んだのは、黄金を知らない人が鍮石【ちゅうせき】(真鍮のこと)をもって最高と思い込んでいたようなものだ」と嘆じ、大乗仏教に目覚めた。
須利耶蘇摩は左手に法華経を持ち、右手で少年羅什の頭を3回撫でながら、こう言ったという。
『仏日西に入って遺耀【いよう】まさに東に及ばんとす。この経典東北に縁あり。汝慎んで伝弘せよ』
日本が中国の東北にあたることから、日蓮聖人は「この経典東北に縁あり」との記文に感涙されたのであるが、僅か13歳の少年が中国への法華経伝道を委嘱されたのである。その疏勒国こそ、このカシュガルなのだ。しかし、現在は法華経どころか仏教遺跡も殆どなく、イスラーム教一色の世界である。
礼拝堂では、熱心なイスラーム教徒がお祈りを捧げている。うちの寺のお檀家さんにも見習って欲しいもんだ。あっ、別に寺に金持って来いという意味じゃなくて、いつも生活の中に祈りの時間を持って欲しいという意味ですよ。
この美しい女性は受付にいたお姉さん。ウイグル族の伝統である矢絣模様の服がよくお似合いですが、よ~く顔をご覧下さい。気がつきました。そう、眉毛がつながってます。自然に毛がはえてつながっているんじゃなくて、書いているんだそうです。初め見たときはギョッとしますけど、これがウイグル族にとっては美しく見えるんでしょうね。
美しいと言えば、このアパク・ホージャ墓に葬られている香妃【こうき】も絶世の美女だったらしい。本名はバエルカンで、宮中での呼び名は容妃。体から麝香【じゃこう】の香りがすることから香妃と呼ばれていたそうな。政略結婚で清朝の乾隆【けんりゅう】帝に嫁がされ、29歳の若さで北京で没したと伝えられる香妃は、最後までウイグル族としての誇りを持ち続け、乾隆帝を拒んだために死を賜わったともいわれている悲劇の女性である。亡くなった後、特製の輿にのせられ、124人の人々に担ぎつがれ3年半かかってカシュガルに戻って来たと言い伝えられている。
でも、これはあくまでも伝説。歴史上の容妃は、乾隆15年(1750年)宮中に入り、乾隆53年(1788年)に55歳で亡くなっており、 遺体は清の東陵の裕陵妃園に葬られている。
罽賓【けいひん】国(現在のカシミール)で3年間小乗仏教を学んだ羅什は、亀茲への帰途立ち寄った疏勒【そろく】国で須利耶蘇摩【すりやそま】と出会い、大乗仏教を学んだ。羅什は、「私が昔、小乗を学んだのは、黄金を知らない人が鍮石【ちゅうせき】(真鍮のこと)をもって最高と思い込んでいたようなものだ」と嘆じ、大乗仏教に目覚めた。
須利耶蘇摩は左手に法華経を持ち、右手で少年羅什の頭を3回撫でながら、こう言ったという。
『仏日西に入って遺耀【いよう】まさに東に及ばんとす。この経典東北に縁あり。汝慎んで伝弘せよ』
日本が中国の東北にあたることから、日蓮聖人は「この経典東北に縁あり」との記文に感涙されたのであるが、僅か13歳の少年が中国への法華経伝道を委嘱されたのである。その疏勒国こそ、このカシュガルなのだ。しかし、現在は法華経どころか仏教遺跡も殆どなく、イスラーム教一色の世界である。
午後3時、市内観光に出発。案内役はウイグル族のアブ◯◯◯◯◯さん。自己紹介されたんだけど、聞き逃してしまった。まあ、アブさんでいいか。
アブさんが最初に連れて行ってくれたのが、アパク・ホージャ墓(別名は香妃墓)。17世紀からカシュガルを支配していたホージャ一族の墓で、5代72人が葬られているそうだ。緑色のタイルが美しい。
礼拝堂では、熱心なイスラーム教徒がお祈りを捧げている。うちの寺のお檀家さんにも見習って欲しいもんだ。あっ、別に寺に金持って来いという意味じゃなくて、いつも生活の中に祈りの時間を持って欲しいという意味ですよ。
左の写真はミナレット。1日5回の礼拝を呼びかけるためのものだが、アブさんの説明によると、ミナレット頂上の丸は下から順にユダヤ教・キリスト教で一番上の三日月がイスラーム教を意味するそうだ。イスラーム教はユダヤ教・キリスト教をムハンマドがアラビア半島版にアレンジしたもので、モーセやイエスを預言者であると認めた上で、自分が最大で最後の預言者であると、おっしゃったから、この順番となった。ちなみに三日月はオスマン帝国のシンボルで、イスラーム教のシンボルでもある。右の写真はモスクに不可欠なメッカの方角を指すミフラーブと呼ばれるくぼみと、ミンバルという説教壇。
これ何だか、分かります?ベッドにしたら、持ち手が付いてるし、屋根があるのは変ですよね。そう、正解。遺体を運ぶための道具、日本で言えば霊柩車。なんで、こんなものがここにあるかというと、昔の日本のようにお葬式はモスクでやるんでしょうね。そのあと、お墓に遺体を運ぶ時に使うんかな。まあ、僕の想像ですけど。
アパク・ホージャ墓のお隣には市民用の墓地があって、長方形は一人用で15,000円、丸いのは家族用で20,000円だって。でも、イスラーム教では火葬は禁止。キリスト教と同じで「最後の審判」があり、亡くなった人もすべて復活して裁かれるため、遺体が絶対に必要。遺体がないと、魂がよみがえろうにも「私の遺体はいったいどこ?」ということになる。そうすると2人埋葬するには2倍の敷地が必要、3人埋葬するには3倍の敷地が必要で、家族用20,000円って変だと思うけど、アブさんの説明はそうでした。
この美しい女性は受付にいたお姉さん。ウイグル族の伝統である矢絣模様の服がよくお似合いですが、よ~く顔をご覧下さい。気がつきました。そう、眉毛がつながってます。自然に毛がはえてつながっているんじゃなくて、書いているんだそうです。初め見たときはギョッとしますけど、これがウイグル族にとっては美しく見えるんでしょうね。
美しいと言えば、このアパク・ホージャ墓に葬られている香妃【こうき】も絶世の美女だったらしい。本名はバエルカンで、宮中での呼び名は容妃。体から麝香【じゃこう】の香りがすることから香妃と呼ばれていたそうな。政略結婚で清朝の乾隆【けんりゅう】帝に嫁がされ、29歳の若さで北京で没したと伝えられる香妃は、最後までウイグル族としての誇りを持ち続け、乾隆帝を拒んだために死を賜わったともいわれている悲劇の女性である。亡くなった後、特製の輿にのせられ、124人の人々に担ぎつがれ3年半かかってカシュガルに戻って来たと言い伝えられている。
でも、これはあくまでも伝説。歴史上の容妃は、乾隆15年(1750年)宮中に入り、乾隆53年(1788年)に55歳で亡くなっており、 遺体は清の東陵の裕陵妃園に葬られている。
虻に噛まれて病院に行っていたT君が、ウイグル美人2人に囲まれている。有料で一緒にカメラにおさまってくれるそうだ。そう言えば、首里城にもそんな沖縄娘がいたなあ。僕はお金を払わずに、ちゃっかり便乗させてもらった。謝謝。(つづく)
8月21日(月)
午後5時、バザールと職人街へ。カシュガルから東は天山南路を経て西安へ、西はソグディアナを経てイラン、イラクへ、南はインドへ、北はキルギス、カザフスタンへと、まさにここは東西貿易の十字路だった。バザールには多くの人があふれ、活気がみなぎる。説明は要らない。しばし、写真を堪能していただこう。
1時間あまりバザールをうろうろしていたんだけど、僕が買ったのは子供のお土産にウイグルのナイフ1本20元(300円)と、タンバリン型の太鼓200元(3,000円)。買ってきたのは良かったけど、音を出すのが難しくて、結局座敷の違い棚の飾り物になっている。
ここでも、熱心なお祖父ちゃんが静かに祈っている。
午後5時、バザールと職人街へ。カシュガルから東は天山南路を経て西安へ、西はソグディアナを経てイラン、イラクへ、南はインドへ、北はキルギス、カザフスタンへと、まさにここは東西貿易の十字路だった。バザールには多くの人があふれ、活気がみなぎる。説明は要らない。しばし、写真を堪能していただこう。
1時間あまりバザールをうろうろしていたんだけど、僕が買ったのは子供のお土産にウイグルのナイフ1本20元(300円)と、タンバリン型の太鼓200元(3,000円)。買ってきたのは良かったけど、音を出すのが難しくて、結局座敷の違い棚の飾り物になっている。
そして、もう一つ。写真の漢民族のお姉ちゃんから買ったのが竹簡。
後漢の蔡倫による製紙法改良の授業で竹簡の話をするんだけど、いまいち生徒に竹簡をイメージしてもらえない。ならば自分で作ろうとも思ったんだけど、面倒くさい。たまたま店先に見つけたんで聞いてみたら、この姉ちゃん日本円で56,000円だとおっしゃる。何、56,000円!!骨董品じゃあるまいし、冗談言うなよと言ったら、諸葛孔明の「出師【すいし】の表」だから高いんだと。どうせ機械で彫ったんだろうし、中身が何であっても関係ないだろう。すったもんだした挙げ句、結局10,000円で買った。83%も値引きさせると、本当に気持ちいいね。でも、本当は5,000円の品物だったりしてね。でも、そんなことは構わない。とにかく交渉に成功したという達成感。これが病みつきになってしまう。海外旅行の楽しみの半分は買い物になってしまっている。
午後6時30分、エイティガール・モスクへ。エイティガール・モスクはは新疆ウイグル族自治区最大、いや中国最大のモスク。明代の1442年頃に建てられ始め、その後何度か改修されて現在の姿になったそうだ。とにかく、でかい。8,000人収容できるそうだが、8,000人が一斉に礼拝する姿は壮観だろうね。
ここでも、熱心なお祖父ちゃんが静かに祈っている。
一端ホテルに戻って、午後8時30分、夕食会場へ。食事の前にウイグル族の踊りを堪能。でも、なんでウイグル族の女の子って可愛い子が多いんだろうね。やっぱ、東西を行き来する多くの民族の血が混じったからだろうか。
可愛い子と一緒に踊りた~い。6年前にクチャでウイグルの踊りを鑑賞した時にも踊りの輪に入るようお誘いがあったんだけど、理性と引っ込み思案な性格が邪魔をしてとうとう舞台に上がれなかった。そんなことでは駄目だ、という心の奥底からの叱責が聞こえる。「え~い、旅の恥はかき捨てだ!」と、思い切って舞台に上がった。あいつが舞台に上がったのならと、グループのみんなが舞台に上がり大舞踏会となった。
踊り終えて、ウイグル美女に囲まれて記念撮影。鼻の下が伸びてま~すね。こらっ、後ろの二人、ちゃんと前向け。夕食は茸づくしの火鍋。いや~、これが辛くて、辛くて、美味~い。腹一杯いただきました。
たらふく酒も飲んだはずなのに、ウイスキー、焼酎、つまみを持ち寄ってテラスで大宴会。おい、もう午後の11時だぞ。いつまで飲むんじゃい。あ~あ、日付が変わっちゃったじゃないの。
日中部屋を留守にしている間にトイレを治しておくよう頼んでおいたのだが、やはりちゃんと流れない。こんな部屋にあたったのが、ウンの付きだ!(つづく)
たらふく酒も飲んだはずなのに、ウイスキー、焼酎、つまみを持ち寄ってテラスで大宴会。おい、もう午後の11時だぞ。いつまで飲むんじゃい。あ~あ、日付が変わっちゃったじゃないの。
日中部屋を留守にしている間にトイレを治しておくよう頼んでおいたのだが、やはりちゃんと流れない。こんな部屋にあたったのが、ウンの付きだ!(つづく)
8月22日(火)
今日は国境の町タシクルガン(塔什庫爾干)に向かう。今回の旅行で迎える最初の難所である。(まあ、すでに6時間遅れという苦難は味わっているのだが。
カシュガルの町の標高は1,200メートル。これから4,100メートルの峠を越え、標高3,200メートルのタシクルガンの町まで、「世界の屋根」と呼ばれるパミール高原をひた走ることになる。
日本では経験できない高度の世界に入っていくので、高山病の危険性があるのだ。高山病は頭痛・吐き気・眩暈【めまい】など二日酔いの症状とよく似ているが、死に至ることもある怖い病気だ。3年前にチベットを旅した時に軽い症状を経験したが、今回も軽くすむかどうかは分からない。酸素不足が原因だから、深酒は禁物。毎晩へべれけになるまで飲んでしまう我々一行も、タシクルガンの町では自重しなければならない。
というわけで、昨晩はウイグル美人と踊ったあと、ホテルのテラスで盛大な二次会を行った。「明日の晩は飲めないから」という理由で鯨飲し、高山地帯に入る前から、もう高山病状態になっている。
今日は国境の町タシクルガン(塔什庫爾干)に向かう。今回の旅行で迎える最初の難所である。(まあ、すでに6時間遅れという苦難は味わっているのだが。
カシュガルの町の標高は1,200メートル。これから4,100メートルの峠を越え、標高3,200メートルのタシクルガンの町まで、「世界の屋根」と呼ばれるパミール高原をひた走ることになる。
日本では経験できない高度の世界に入っていくので、高山病の危険性があるのだ。高山病は頭痛・吐き気・眩暈【めまい】など二日酔いの症状とよく似ているが、死に至ることもある怖い病気だ。3年前にチベットを旅した時に軽い症状を経験したが、今回も軽くすむかどうかは分からない。酸素不足が原因だから、深酒は禁物。毎晩へべれけになるまで飲んでしまう我々一行も、タシクルガンの町では自重しなければならない。
というわけで、昨晩はウイグル美人と踊ったあと、ホテルのテラスで盛大な二次会を行った。「明日の晩は飲めないから」という理由で鯨飲し、高山地帯に入る前から、もう高山病状態になっている。
午前9時50分、ホテルを出発。バスでタシクルガンへ向かう。カシュガルからパキスタンのスストまで案内してくれる現地ガイドさんはアブドライムさん。映画俳優にしてもいいような、苦み走ったいい男である。あれっ、昨日1日カシュガルを案内してくれたのはアブ◯◯◯◯◯さん。お二人を区別するために、昨日のアブさんをアブさんA、アブドライムさんをアブさんBと呼ぶことにした。もちろんアブさんBもウイグル族である。
イスラーム教徒にはアブドッラー、アブドルアジーズ、アブドルラハマーンなど、アブドのつく名前が多く、アブさんだらけになってしまうのだが、アブドは「奴隷」のこと。アブドッラーは「神の奴隷」という意味の凄い名前なのだ。そう言えば、往年のプロレスラーでいつもおでこから血を流していた、アブドッラー・ザ・ブッチャーというのがいましたよね。
イスラーム教徒にはアブドッラー、アブドルアジーズ、アブドルラハマーンなど、アブドのつく名前が多く、アブさんだらけになってしまうのだが、アブドは「奴隷」のこと。アブドッラーは「神の奴隷」という意味の凄い名前なのだ。そう言えば、往年のプロレスラーでいつもおでこから血を流していた、アブドッラー・ザ・ブッチャーというのがいましたよね。
1時間ほど走り、ウイグル族最後のバザールであるウーパール村で休憩。沿道には西瓜・ハミ瓜・リンゴなどを並べた果物屋や、血の滴る羊の太股を何本もぶら下げている肉屋などが軒を連ね、結構な賑わいである。ちなみにラグビーボール大のハミ瓜が1個22.5元(340円くらい)とお安い。
ウイグル族の主食はナンというパンなのだが、これを焼くところも見学させてもらった。インドのナンは日本のスーパーでも売っているのでご存じの方も多いと思うが、こちらのナンはインドのナンと違い、丸くて食感もガチっとした歯ごたえがある。ゴマ風味でなかなか美味しいものだ。大きい物は直径30センチほどもあり、とても一人で食べられるものではない。ところが、中国人ガイドの趙戈莉さんが、これをいくつも買い込んでいるのである。今日の昼飯?そんなはずはない。じゃ、誰が食べるんだろう?タシクルガンのホテルへの手土産かな。と、いろんな事を考えたのだが、まさかこのナンが後に我々を救うことになるとは、この時誰一人知るよしもなかったのである。
バスはガイズ川に沿って走り、やがて崑崙【こんろん】山脈の山並みに入り、しだいに高度を上げていく。午前11時55分、維他克(漢字とウイグル文字しか書いてないから何て読むのか分からない)で休憩。対岸にオイタグ山が見える。鉄分を多く含んでいるので、真っ赤っか。トルファンの火焔山【かえんざん】も真っ青だ。
しばらく進むと、川の対岸にキャラバンサライ(隊商宿)の跡が見える。2000年前に造られたものだというから、羅什や玄奘が泊まった可能性もある。
ホテルを出て4時間、午後1時30分に標高3,100メートルにあるブロン湖に到着。「黒い湖」という意味だそうだが、対岸にある雪山のように見える砂山が湖に映えて美しい。当然、撮影タイムとなったが、景色のいい所には必ず土産物屋がいる。
この辺りに住むのはキルギス族。ウイグル族と同じトルコ系の人々だ。冷やかしの積もりで見て歩いたが、結局フェルトで作ったキルギス族の帽子を1,000円で買うことになった。早速かぶってバスに戻ったら、「なんでそんな物買うの?」という冷たい視線。世界史の授業でかぶって見せると、生徒が喜ぶんですよ~だ。