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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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愛の国ガンダーラへ

 平成18年8月18日(金)~28日(月)、シルクロードからパミール高原を経てガンダーラの仏教遺跡をめぐる旅をしました。タリバーンがガンダーラを制圧している今となっては、二度とかなわない貴重な経験です。
 妙応寺で発行している季刊紙『僧伽(サンガ)』に平成18年10月~21年1月に発表した紀行文に、加筆修正したものです。なにしろ7年も前のことで記憶があやふやですが、写真のデータを手がかりに、脳味噌をしぼりながらの執筆になります。ご高覧あれ!



2006_0824シルクロード 本淳0019 

 鳩摩羅什【くまらじゅう】。(写真はクチャの羅什像)。1600年ほど前の弘始8(406)年5月、サダルマ・プンダリーカ・スートラを中国語に翻訳し、『妙法蓮華経』として完成させた訳経僧である。
 羅什の詳しい生涯についてはおいおい語ることになるだろうが、シルクロードの町クチャ(昔の亀茲【きじ】国)に生を受けた羅什は、13歳の時、大乗仏教の師・須利耶蘇摩【すりやそま】から法華経の原本を渡され、東方に弘めるよう委嘱されたという。その後、祖国が滅び、妻帯を強制されて破戒僧となるという屈辱を味わいながらも、少年の頃の志を捨てることなく、45年後に見事にそれを成し遂げた。死に臨んで、「自分の翻訳は決して間違ってはいない。」との言葉を残したと言われる。

 羅什の生地であるクチャを初めて訪ねたのは平成12年であった。この時は法華経が漢訳された長安(現在の西安)を起点に、シルクロードを西に進み、クチャで旅を終えた。亀茲国が前秦の将軍呂光【りょこう】に滅ぼされたのは羅什34歳の時であった。囚われの身となった羅什は幾多の困難を経て、51歳の時長安に迎えられたのであるが、羅什の生涯で一番辛い旅の跡を逆にたどったことになる。

 ご存じだとは思うが、2500年前に釈尊によって説かれた仏教は、ガンダーラからパミール高原を越えてシルクロードに入り、中国・朝鮮半島を経て6世紀の日本に伝えられた。これには、1000年という歳月とともに、身命を惜しまぬ多くの僧侶の高き志が必要であった。インドからシルクロードに仏法を伝えた名も無き僧侶達。中国に仏法を伝えた鳩摩羅什をはじめ安世高【あんせいこう】・仏図澄【ぶっとちょう】といった多くの西域僧。有名な玄奘【げんじょう】(三蔵法師)のほか法顕【ほっけん】・宋雲【そううん】といった、インドに経典を求めた求法僧。

 長安からクチャを経てガンダーラに至る道は仏法伝来の道であるとともに、求法の道でもあった。今回の旅はその後半、クチャからガンダーラへの旅である。

 いざ行かん、愛の国ガンダーラへ! (つづく)
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【 2013/12/20 16:13 】

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カラチは今日は雨だった!

8月18日(金) 
 
 朝6時30分に家を出て、小松から成田空港へ。全日空の小松・成田便(ANA-3118便)は、わずか50人乗り。ボーディングブリッジやバスを使わず、空港の隅にポツンと駐機している飛行機まで歩いて乗り込む。まるで外国の地方空港のようだ。でも、このほうが今から飛行機に乗るぞという実感があり、楽しい。
 正午には北は北海道、南は鹿児島から集まった18名の強者(ちなみに年齢は20歳から77歳まで)が成田空港に集結。午後2時発のパキスタン航空853便(PK-853)で出発予定、しだいに胸が高まってくる。いよいよ搭乗手続きが始まった。ところが、チェックインカウンターの女性スタッフが、「出発地のカラチが豪雨のため、4時間ほど遅れて出発しました。出発予定が今のところ午後6時30分になっておりますが、宜しいでしょうか?」とおっしゃる。

2006_0823シルクロード 文子0001 
 宜しいも何も、ほかの飛行機に乗るわけにはいかないのだから、素直に「はい」と答えた。すると彼女、「ほんのお詫びの気持ちです」と言って、渡してくれたのが空港内で使える1,000円の食事クーポン券。4時間半遅れのお詫びがたったの1,000円と思いながらも、有り難く頂戴した。 
 時間は有り余るほどにある。まあ、日本最後の食事をゆっくり楽しもうと、川エビの唐揚げと鶏の照り焼きで生ビールとお酒をいただき、天ざる蕎麦で腹を満たした。締めて4,100円。1,000円貰ったばっかりに、よけいに高付いたじゃないか。
 ゆっくり、ゆっくりお酒を飲んだはずなのに、食事が終わってもまだ午後1時。ほろ酔い加減で空港内のお店を見て回ったが、すぐに飽きてしまい見学デッキに出た。離発着する飛行機を写そうと思ったのだが、なにしろ暑い。吹き出て来る汗に閉口し、ビル内に戻った。まだ、午後2時だよ。も~、なんとかしてくれ~。

 結局、6時間遅れの午後8時出発となった。思い出すのが、3年前のチベット旅行。帰りの上海空港で、6時間も待たされた。あの時は機材が不調だとか何とかいう理由で、ろくな説明もなかったが、今回は天候不良と理由もはっきりしているので腹は立たない。しかし、参加者全員の疲れ切った顔に、一抹の不安が見て取れる。(この不安が見事に的中するとは、この時誰一人知るよしもない)

 我々が今から訪ねるのはアッラーの神を信ずるイスラーム教の世界だ。何があろうともアッラーがお護り下さるに違いない。インシャラー(神の思し召しのままに)だ!

2006_0823シルクロード 文子0002 2006_0823シルクロード 文子0003

 午後9時楽しいお食事の時間。イスラーム教の国らしく、マトンの洋風料理とカレー。僕はカレーを選んだ。食べ始めたから撮影していないのに気付いたんで、汚らしくなってご免なさい。どんだけ腹減ってたんだろう。食事が終わって、免税店で買った山崎12年物を皆に回したら、8人の胃袋に入って、あっという間にカラ。トホホ。
 午後10時5分、北京空港に到着。北京空港は流石にゴージャス。トイレに入ったら、「小心地滑」と書いてあったので、一瞬「空港で地滑りが起きた?」ってなんだ、と思ったが、すぐに「床が滑りますので、ご注意下さい」の意味だと納得した。中国を旅行していて面白いのは、日本と違った漢字の使い方を発見したり、とんでもなく略した簡体字が読めたりした時が最高。ちなみに「佳能」でキャノンだからね。
 予定では国内線に乗り換えてウルムチまで行くことになっていたが、急遽予定を変更して北京空港近くの国都大飯店に泊まることになった。ホテルに到着したのが現地時間の午後11時30分。自宅を出てから18時間もかかってしまい、さすがに疲れました。(つづく)
【 2013/12/17 11:43 】

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羅什の故郷クチャへ!

8月19日(土)

 急遽泊まることになった国都大飯店は「シノ・スイス・ホテル」の別名を持つ、ヨーロッパ風の4つ星ホテルで、「味彩」という名前の日本料理コーナーもある。しかし、相変わらず漢民族の従業員の態度が悪い。「お前ら、泊めてやる。有り難く思え」と言わんばかりの顔で、挨拶すらろくにしない。『お前ら、客に対して「おはようございます」くらい言えよ!日本語知らないんだったら、「称好(ニイハオ)」でもいいし、「グッドモーニング」でもいいぞ。』と、心の中でつぶやいた。
 その上、フロントで人民元に両替したら、一人に十分程かかり、長蛇の列が出来てしまう始末。本当に中国人は計算が出来ない。あまりに時間がかかるので、何人分かまとめて両替した。こんなことで再来年のオリンピック本当に大丈夫なんだろうかと人事ながら心配したけど、まあ表面的には成功しましたね。ちなみに10,000円が670元。

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 午前8時50分、中国南方航空で新疆ウイグル自治区の首都ウルムチ(烏魯木斉)へ。機内食は清真と書かれたヌードル。清真はイスラーム教のことなので、チキンのスパゲッティですな。

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 成田・北京間は3時間だが、北京・ウルムチ間は3時間半かかる。やはり中国の大地は広大だ。眼下には延々と続くゴビ砂漠の褐色の世界が広がり、その中に毛細血管のような筋が幾筋も見える。乾河道【かんかどう】だ。天山山脈の雪解け水が流れた跡で、今は一滴の水も流れていない。まさに死の世界だ。

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 ところが、そんな中に明らかに道路だと思われる真っ直ぐな線が1本走っており、やがて一面褐色の世界にポツンポツンと点在する緑が見えてきた。オアシスだ。こんな過酷な世界にも人は住んでいるんだ、などと景色を見ながら考えているうちに、午後12時30分。ウルムチ空港に到着した。

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 空港で我々を迎えてくれたのが、現地ガイドの趙戈莉【ちょうかり】さんという28歳(女性に年齢を聞くのは失礼なので、推定年齢です)のお嬢さん。「戈莉」というのは「ゴビ砂漠に咲く、一輪のジャスミンの花」という意味だとおっしゃったが、とてもそうは見えない逞しい女性だ。それでも今年の10月には結婚されるそうだ。(アッ、この言い方失礼かな?)
 彼女はシボ族だそうだ。中国には漢民族のほかに55の少数民族が住むが、シボ族はそのうちの一つで、人口は20万人弱。彼女の話では、お祖父さんが革命時代に国民党員だったために左遷されて新疆に来たということだが、共産党は国民党員の抹殺を図ったはずであり、左遷は考えられない。シボ族は、その昔北魏【ほくぎ】を建国した鮮卑【せんぴ】族の子孫と考えられており、清の乾隆帝【けんりゅうてい】時代に新疆の守備のために旧満州の地から強制的に移住を命じられた。その末裔だと思われるが、自分達の歴史を素直に語れない悔しさが、学習意欲をかき立てたのか、日本語は上手だし、知識も豊富だ。ともかくも彼女は中国・パキスタンの国境まで案内してくれる。

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 午後1時30分、航空酒店餐庁で昼食。我々のグループに無くてはならないものが酒。新疆啤酒でまずは乾杯!啤酒(ピーチュー)はもちろんビールのことです。
 午後3時、ウルムチ空港から72人乗りのプロペラ機で天山山脈を横断し、コルラ(庫爾勒)へ。途中かなり揺れた。ウルムチ・コルラ間は476キロあるので、車だと8時間ほどかかるが、飛行機だとひとっ飛びで、約1時間でコルラに到着。


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 午後4時20分、空港を出てバスでクチャ(庫車)に向かう。クチャまで280キロ。窓外の景色は延々と続くゴビ砂漠。時々タマリスク(紅柳)の木が見える。バスは順調にとばしていたんだが、とばし過ぎて午後6時40分スピード違反で捕まってしまった。制限時速40キロのところを、53キロで走って、罰金は200元(3,000円)。日本と違って、その場で現金払い。そのまま公安警察官のポケットに入ってしまうのではないかと、ついつい疑ってしまう。対不起【ドイブチ】(ごめんなさい)
 このあと運転手さんが慎重になり、安全運転に徹したので、クチャに到着したのは、夕陽がようやく沈んだ午後9時40分になってしまった。えっ、夕陽が沈むのそんなに遅いのって?中国の時刻はすべて北京時間になっているけど、クチャと北京では実際には2時間の時差があるので、午後9時40分は日本時間の午後6時40分になるからですよ。

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 写真は途中の町でバスの中から写したんだけど、ウイグル族のお祖父ちゃんと孫。なんか、いいよね。今日のお泊まりは庫車飯店貴賓楼で~す。中華たらふく食って、おやすみなさ~い。(つづく)

【 2013/12/16 14:36 】

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タクラマカンの秘宝・キジル千仏洞

8月20日(日)

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 今日は鳩摩羅什の命日である。その日に、私は羅什生誕の地クチャにいる。そうなるように日程を組んだ訳ではないのに、やはり日頃の精進が生んだ結果であろうか!?ま、それは冗談であるが、感慨深いものがある。

 羅什の父・鳩摩羅炎【くまらえん】(クマーラヤーナ)は天竺【てんじく】国(インド)で代々宰相をつとめる名家の出身であった。しかし、彼は宰相の地位を辞退して出家し、葱嶺【そうれい】(パミール)を超え、亀茲国(現在のクチャ)にたどり着いた。
 彼に一目惚れしたのが亀茲国王・白純の妹の耆婆【ぎば】(ジーヴァ)であった。白純に懇願された鳩摩羅炎は還俗し、耆婆と結婚。二人の間に生まれたのが鳩摩羅什である。西暦350年のことであった。

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 午前8時40分、ホテルをバスで出発。運転手はウイグル族のアリムさん。1時間半かかって、「タクラマカンの秘宝」と言われるキジル千仏洞に到着。今にも崩れ落ちそうな崖の側面に236の窟が確認されているが、敦煌の莫高窟と比べると、仏像の類はほとんど無く、壁画もわずかしか残っていない。偶像崇拝を嫌うイスラーム教徒による破壊もその原因の一つであるが、案内してくれた葛軍【かつぐん】さん(男らしい名前ですが女性です)が、「綺麗ナ壁画ハドイツガモッテイキマシタ」と何遍も繰り返したように、ル・コックが率いたドイツ探検隊の仕業である。文化財保護の名目で、壁画を剥がしてドイツに持ち帰ったのである。学問に名を借りた泥棒じゃないか、と声を荒げたくなるが、日本の大谷探検隊もやったことなので、あまり大きな声では怒れない。

 『高僧伝』は、羅什の母が妊娠中に雀離【じゃくり】大寺(昭怙厘【しょうこり】大寺)に詣でて、我が子のつつがなき出生を祈ったと伝えている。イギリスの探検家スタインは、今日の午後に訪ねるスバシ故城を雀離大寺と考えたが、最近の研究ではキジル千仏洞がそうであるらしい。
 とするならば、幼い羅什も母に手を引かれてキジル千仏洞に参詣したはずであるし、長じてからはここで説法もしたであろう。その頃に穿【うが】たれていたのがどの窟であるか分からないが、1600年余り前に羅什がこの空間に身を置いていたことは間違いない。
 
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 (写真撮影は禁止されているので、図版から拝借しました)

 葛軍さんが一生懸命に壁画の説明をしてくれるのだが、恐らく内容は6年前と同じ。説明はそっちのけで、羅什と同じ空間に自分の身を委ねている幸せをかみしめた。

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 キジル千仏洞の見学を終えて、昼食の前に手洗いを済ませておこうと、トイレに行った。案の定、大きいほうのトイレにもドアが無く、開けっぴろげ。おまけに通路側に顔を向けて用を足すので、「こんにちわ」と挨拶が出来るから、称好(ニーハオ)トイレと言うんだって。障害者用のトイレもあったけど、同じ。まあ、確かに通路側に尻を向けていたら、後ろから襲われるかも知れないから、前を向いていたほうが安全なのだが?やっぱ、ドア付けたら。そのほうが、皆安心して用が足せると思うけどね。中国のトイレについて語り出したら、1日あっても足りないくらい。これくらいにしておこう。

 昼食はウイグル料理のラグメン。ラーメンと同じ語源らしいが、ラーメンとは似ても似つかぬ代物で、日本のうどんに羊肉と野菜を炒めたものをかけたものだ。しかし、こらが結構いける。皆さんは添乗員の奥村君(いつも通り旅行社はトラベルサライ)が日本から持ってきた麺つゆでうどんだけを食べたほうが美味しいとおっしゃるが、イタリア料理のパスタに醤油をかけて美味いと言っているのと一緒。醤油や鰹節の出汁が美味いのであって、麺との相性は決して良くない。僕は肉野菜炒めソース掛け麺ばかりを食べた。(つづく)
【 2013/12/15 06:59 】

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無茶苦茶なクチャのおじさん

8月20日(日)

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(玉を探す奥さん)

 キジル千仏洞からクチャの町へ帰る途中、塩水渓谷のビューポイントでしばし撮影タイム。天山山脈が川に浸食されて渓谷をつくり、地表に白く塩分が噴出しているため塩水渓谷と呼ばれている。断層が縦に走った奇岩が延々と続く。7000万年前にインド・プレートとユーラシア・プレートが衝突してヒマラヤ山脈ができたそうだが、大陸同士のぶつかり合いが如何に凄まじいものであるかが実感できる。いにしえのシルクロードはこの塩水渓谷沿いにあったそうで、かの玄奘三蔵もインドへの往路、ここを通っている。
 6年前も同じ場所で休憩し、添乗員の奥村君からこの川で玉が採れると聞いて、あるはずがないと思いながらも河原まで降りて探した経験がある。

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(玉を品定めをする奥さん)

 玉【たま】ではなく、玉【ぎょく】。「玉石混淆」【ぎょくせきこんこう】や「完璧【かんぺき】の玉。古来から中国人が好む石で、魔除けの効果があるとされた。硬玉である翡翠【ひすい】は宝石とされるが、軟玉である玉は貴石に分類されて、世界的には価値が低い。しかし、中国では翡翠よりも珍重され、特に羊脂玉【ようしぎょく】(羊の脂のように白く、滑らかで艶があるので、この名がある)は高価で、現在の取引相場は1キロ150万円以上で、大きい物は1億円を超えるという。今朝ホテルの売店で買った10グラム程度のペンダントの言い値が780元(11,700円)。2つ買って1万円にさせたが、とにかく高い。
 一行のうち半数の人が河原まで降りただろうか。男性陣は川の水を嘗めてみて、塩分を含んでいるか確かめている。女性陣はと見ると、案の定、目を皿のようにして、川底の玉を探していらっしゃる。女性の宝石にかける執念が如何に凄まじいものであるかが実感できる。有る訳ないじゃ~ないですか。


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 午後2時55分、クズルガハ烽火台【のろしだい】に到着。クズルガハとはウイグル語で「赤い嘴のカラス」という意味だそうだ。クズルガハ烽火台は今から2000年前の前漢時代の烽火台の跡で、高さは16mある。 当時は15キロおきに烽火台が設置されており、異民族の来襲を都に知らせた。近くにクズルガハ千仏洞があるが、6年前に行っているし、たいして見るべきものもないので省略して、クムトラ千仏洞へ。キジル千仏洞の入場料が一人70元(1,050円)なのに対し、こちらはなんと500元(7,500円)。中国農民の平均年収が3,000元というから、われわれ18名が1時間ほど見学しただけで農民3人分の年収を稼ぎ出すことになる。

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 地図を見ておわかりの通り、クムトラ千仏洞はムザルト川沿いにあり、キジル千仏洞の下流30キロの場所にある。船があれば30分ほどで着くらしいが、その船がないのでぐるっと大回りしなければならない。おまけに発電所から先へは車が入れず、ロバ車を使わなければならない。

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 ロバ車のチャーター料が400元で、4人乗りだから一人100元(1,500円)。これも高いと思うが、ロバ車のおじさん達はこの辺りで営業しているのではなく、わざわざクチャの町から3時間半もかけて来たそうだから文句は言えない。
 こんなに費用がかかるのに、クムトラ千仏洞には見るべきものがあまり無い。玄奘三蔵が説法したと伝えられる五連洞にも壁画はほとんど無く、一部の窟は遊牧民が住まいとしていたため、煤【すす】けて真っ黒になっている。

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 ロバ車に揺られること30分。笑顔で迎えてくれた管理人のおじさんに、私だけ握手を求められた。6年経っても顔を覚えてくれていたんだと、やや感激してその手をしっかり握った。感動の再会!ところがいつまで経っても、おじさん手を離さない。みんなは先に行ってしまい、私だけ取り残される格好になった。その時を待っていたかのように、おじさんがシャッターを切る仕草をした。私の前には鉄格子の入った石窟がある。壁画の写真を撮ってもいいと言うのだ。インドのアジャンター石窟寺院では写真撮影が許されていたが、中国の石窟は一切撮影禁止。これは犯罪行為だよと思いながらも、慌ててカメラを構えた。
 ところが慌てているので、どこを写していいのか分からない。迷っていると、おじさんが撮影ポイントを親切に指し示してくれる。午前中キジル千仏洞を案内してくれた葛軍さんら二人のガイドが、引き続き案内役を務めるため新疆亀茲石窟研究所から派遣されて来ている。彼女らに見つかったらえらいことになる。緊張で手が震えてなかなかシャッターが切れない。結局、撮れた写真は2枚だけ。おじさんには100元(1,500円)を要求され、高い写真になってしまった。

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 おじさんの家(官舎?)は千仏洞の中にあり、家族と共に暮らしている。適齢期の娘3人の結婚費用を稼ぐため、時々こんなアルバイトをやっているらしい。足を引きずっているので聞いたら、バイクでこけて怪我をしたという。
 「それきっと千仏洞の仏さまの罰があたったんだよ。こんなアルバイトもう止めなさいよ。それに、そのお腹。明らかにメタボリックシンドロームだよ。気をつけないと娘が結婚する前に死んじゃうよ」とお説教したのだが、日本語が通じるはずもない。ニコニコ笑いながら、自家製のトマトと胡瓜をくれた。(つづく)
【 2013/12/14 14:07 】

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