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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー偉大なる文字ハングル・李朝世宗

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倭寇

 高麗は元に服属していたので、元が明に滅ぼされそうになると、高麗内部でも親元派と親明派の対立が生じた。また海岸部は倭寇の侵略を受け、高麗政府にはそれを鎮圧する力がなく、人民の中に不満が高まっていた。

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李成桂

 高麗の武将・李成桂は元朝末期の紅巾軍の一部が高麗に及ぶとこれらを撃退し、南方海上での倭寇の討伐に功績をあげて名声が高まった。1388年、高麗の政権を握っていた親元派は、倭寇の鎮圧で人望のあった李成桂に命じて国境の明の拠点を攻撃させることとした。李成桂は反対したが、やむなく出征した。

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 鴨緑江までくると夏の増水期のため濁流が渦巻いていた。ようやく中州の威化島【ウィファド】まで渡ったが、次々と兵士が流されていくのを見て、全軍に撤退命令を出し、急遽都・開京(開城)にもどり、親元派政権を武力で倒し新しい王を立てた。これが李成桂の「威化島の回軍」である。

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威化島の回軍

 李成桂は直ちに土地改革に取り組み、高麗の貴族の私有地を没収、権力を集中した上で、1392年王位につき(太祖)、都を漢城(漢陽・現在のソウル)に定め、国号を朝鮮とした。朝鮮という国号は明の皇帝朱元璋から下賜されたものであり、高麗は成立時から明を宗主国とし、その属国という立場をとった。

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 高麗の第4代国王が世宗。名君の誉れが高く、大王と称せられ、現在韓国の1万ウォン紙幣の肖像に使われている。李成桂は高麗の国教が仏教であったことから、儒教を崇拝し、仏教を弾圧した。この政策は血みどろの後継者争いに苦しんだ李成桂が晩年仏門に帰依したため一時中断されたが、世宗の時代に本格化され、激しい廃仏政策が行われた。その結果、新羅・高麗時代に国家の保護を受けて繁栄していた仏教勢力はこの時期に著しく衰退し、山間などで細々と続くのみとなった。
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復元された集賢殿

 世宗は太宗の3男で、王位に就くはずではなかったが、優れている世宗に王位を継がせたいと考えている父親の気持ちを察した兄2人が王位を譲ったという。1418年、21歳という若さで即位した世宗が最初に行った仕事が、集賢殿【チッピョンジョン】という研究機関の設置であった。

 集賢殿という名の官庁は高麗時代にもあったが、諸官庁の統廃合を経て、長く有名無実化していた。世宗は、これを学問を研究する官庁として復活させ、若く学識に富んだ官員たちを送り込んだ。王が設置したアカデミーのような知の機関が誕生したのである。

 世宗自らも学問研究の中心にいて、部下に命じて研究させるだけでなく、世宗自身がその課題に夢中になり、研究の進捗に胸を踊らせた。研究に一定の成果が出ると、知識は天下に広く明らかにされ、まさに、世宗ルネサンスとも呼ぶべき絢爛たる科学文化の華が開いたのである。その中から、天文観測器、日時計、水時計がつくられ、気象台も設けられた。雨量を図る測雨器も発明された。

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 世界初の金属活字を使用したのは高麗であったが、その素材は分かっていない。1403年に李朝第3代の太宗の命令で、官立の鋳字所が建てられた。素材は銅・鉄・鉛が用いられた。世宗の時代には活字・印刷技術がさらに発展し、『高麗史』『治平要覧』『八道地理志』などが編纂された。 

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 世宗の最大の功績が朝鮮の国字である「訓民正音」【くんみんせいおん】の制定である。世宗は儒教経典をひろめ、民衆を朱子学で教化しようとして、漢字の音だけで朝鮮語をあらわす吏読【イドウ】という方法で印刷をしていたが、庶民は漢字が読めなかった。そこで世宗は、朝鮮語をそのまま文字に表すことができるよう、新たな文字を作るように集賢殿の学者に命じた。この世宗自身のアイディアから始まったのが訓民正音の創造であった。

 写真は1446年に公布された「訓民正音」の序文であるが、その中で世宗は、「わが国の語音は中国とは異なり噛み合っていないので、愚かな民たちは言いたいことがあっても書き表せずに終わることが多い。予はそれを哀れに思い、新たに28文字を制定した。人々が簡単に学習でき、また日々の用に便利なようにさせることを願ってのことである」と述べている。

 世界でも非常に珍しい文字の誕生である。何が珍しいのかって?世界中で使われている文字は自然に発達していったもので、誰がいつ発明したのかなんて分かっていない。誰がいつ、どんな意図で作り出したかという記録が残っているのは、訓民正音だけですからね。
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 「訓民正音」は「民を訓【みちび】く正しい音」の意味で、主に民衆の間で使用された。しかし、中国の従属下にあり漢字が重視されたため、当初は公文書に採用されることはなく、使用者に対する弾圧も起きた。1894年にようやく公文書に採用され、20世紀初頭になってハングルと呼ばれるようになった。ハングルは「偉大な文字」という意味だよ。

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韓国の町並み ちょっとだけ漢字

 ちなみに、韓国では今でも漢字を使ってるけど、北朝鮮では漢字は廃止されてしまっている。もともと漢字文化圏だった中国・朝鮮・日本のなかで、まともに漢字使ってるのは日本と台湾だけ。中国は漢字似て非なる簡単体字使ってるしね。東アジアがみんな漢字を使えばもう少し意思の疎通も出来そうだと思うけど、悲しいね。


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【 2019/04/10 14:05 】

中世朝鮮史  | コメント(0)  | トラックバック(0)  |

世界史のミラクルワールドーブッダの力を借りて・高麗

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王建

 王建は朝鮮半島の西南海岸地方で商業・貿易にかかわった地方豪族で、開城【ケソン】に生まれた。新羅末期の反乱軍の指導者・弓裔【きゅうえい】の武将として頭角を現し、弓裔が地方政権を樹立するとその首相格となった。弓裔が暴君化して部下の人望を失うと、周囲から推されて918に王位に就き、高麗を建国、開城を都とした。935年に新羅を滅ぼし、936年には百済の残存勢力を平定して朝鮮半島を統一した。

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 開城は1945年以降、北朝鮮統治下にある。板門店の北8㎞にあり、南北共同の工業団地「開城工業地区」が2004年から運営されていた。しかし、長距離ミサイル発射・核開発を受けて南北関係が悪化し、2016年に韓国側に閉鎖措置にとられため、同地区で韓国企業による工業生産は停止している。

 高麗は高句麗の再興という意識からつけられた国号で、かつて日本では高句麗とともに高麗を〈こま〉と呼んだ。英語のKoreaは高麗の朝鮮語音コリョのなまったものである。

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 初期の高麗は豪族の連合政権としての性格が強かったが、10世紀末頃の成宗時代には政治の基礎も固まった。しかし、固定し貴族化した官人層は互いに派閥を形成し、反乱が相次いだ。この間に外には契丹や女真の圧力が加わり、特に契丹軍は一時王都を陥落させたこともある。こうした内外の政情は次第に武人の勢力を高め、なかでも崔【さい】氏一族は国王の権威をしのぐほどの有力者になった。王氏政権が武人崔氏によって左右されていた頃、侵入したのがモンゴル軍であった。

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 崔氏は国王を連れて1232年に都を開城から江華島に移した。モンゴル軍が海戦には不向きと判断したためである。しかし、3年間も徹底抗戦を行ったため、国土と国民はモンゴル軍に蹂躙され、荒廃してしまう。

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 1247年の第4次侵攻を皮切りにモンゴル軍の侵入は毎年継続して行われた。高麗は徹底交戦をしたものの、結局、1259年に崔氏政権は打倒され、高麗はモンゴル帝国に降伏した。こうして30年近くに及ぶ高麗の抵抗は終わり、高麗はモンゴルの属国となった。1269年、元宗は江華島を退去して開城に還都し、ここに約40年にわたった江華島政権も終了した。

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 しかし江華島からの退去に従わない武人は、1270年に新たに珍島を本拠地に抵抗を続けた。三別抄【さんべっしょう】の乱である。別抄とは臨時編制の精鋭部隊のことで、崔氏政権が警護のために組織した左右の二別抄と、モンゴル軍の捕虜となりながら脱出してきたものを集めて編成した神義軍をあわせて三別抄と呼んだ。

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 モンゴルは高麗政府軍と連合して1年にわたる猛攻により、1271年に珍島を陥落させたが、三別抄の残党はなおも南の済州島に移ってさらに抵抗した。

 三別抄は日本にも救援を要請したが、鎌倉幕府は事情を理解できず、協力することはなかった。反乱は1273年、モンゴル軍・漢軍(旧金朝の兵)・高麗軍の併せて1万の総攻撃を受け、済州島が陥落し、あしかけ4年にわたった反乱は収束する。そしてその翌年、元は同じく漢軍・高麗軍を動員して、最初の日本遠征を実行した。

 三別抄の乱が、モンゴルの日本征討を大幅に遅らせ、また征討軍を疲労させて日本に向かう勢いを弱めたことは間違いない。神風だけで日本が助かったわけじゃない。

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  高麗では、仏教が護国の宗教として厚く保護され、歴代の国王も深く帰依して各地に寺院を建立し、仏教は隆盛をきわめた。写真は高麗版大蔵経だ。大蔵経とは一切経とも言われ、経(ブッダの教え)、律(僧侶の生活規範)、論(経の注釈書)の「三蔵」と解説書などをすべて含む仏教典籍の総称である。

 高麗版大蔵経は第8代顕宗の時代に着手され、60数年を経て第13代宣宗の1087年に完成した。ところがその版木は、1232年のモンゴル軍侵攻の際にすべて焼失してしまった。

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 そこで、崔氏政権が1236年に着手し、16年がかりで高宗時代の1251年に完成させたのが、世界遺産になっている高麗版大蔵経で、現在は海印寺の大蔵経経板閣に保管されている。

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 坊さんが手に持っているのが高麗版大蔵経で、縦が約24cm・横が約70cm・厚さが約4cmの白樺でできた版木で、なんとこれが81,258枚もある。そのため、八萬大蔵経とも呼ばれている。

 モンゴルの第3次侵攻により国土と国民が蹂躙され、荒廃した大変な時期に、なぜ版木の復元を行ったのだろうか?それは国家滅亡という最大の国難を前にし、ブッダの力を借りてモンゴル軍を撤退させようとしたからなんだ。最初の刊行の時には60数年もかかっているのに、戦時中でありながらたった16年で彫り上げたパワーには驚かされるが、残念ながらブッダの加護は得られなかった。

※王建の肖像は韓国テレビドラマ『太祖王建』から拝借しました。

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【 2019/04/07 14:17 】

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