なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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明の征服をくわだてた豊臣秀吉は、1587年に対馬の宗氏に命じて、朝鮮国王の入貢と明への先導を求めた。朝鮮がこれを拒否すると、秀吉は出兵の準備を始め、1592年4月、加藤清正ら西日本の大名を主力とする15万余の大軍を釜山に上陸させた。文禄の役の始まりである。この戦役を朝鮮では壬辰【じんしん】倭乱と呼ぶ。
この戦争に大義名分はなく、戦国時代の日本を統一した豊臣秀吉が、更なる領土拡張をめざして朝鮮を侵略したものであり、さらに秀吉の構想では明を征服し、天皇を北京に移すというものだった。豊臣秀吉の個人的な野望から始まった侵略戦争であったが、その背景には天下統一によって部将たちが新たな恩賞を得ることができず、不満が生じることを恐れた事が考えられる。豊臣政権は戦争を継続して新たな恩賞を与えることで成り立っていた。
朝鮮側の不意をついたことと、鉄砲の威力で日本軍は圧倒的に優勢で、まもなく漢城を陥れ、加藤軍は登満江【とまんこう】まで進出した。しかし、朝鮮の民衆も加わって抵抗が激しくなり、両班層や僧侶が指導する義兵が挙兵して抵抗し、明が援軍を派遣して平壌を奪還したため、前進が止まり、苦戦に陥った。碧蹄館の戦いで勝った日本軍は戦線を持ちこたえたが、戦線は膠着し、長期戦に転じた。
釜山・龍頭山公園の李舜臣像
その間海上では李舜臣【りしゅんしん】の指揮する朝鮮水軍が日本の水軍を各地で破り、制海権を握ったため、日本軍は補給に苦しむこととなった。
この海戦で活躍したのが亀甲船【きっこうせん】である。もともとは接舷して切り込んで来る倭寇への対策から開発されたものであったが、李舜臣が改良して実戦に使えるようにした。尖った鉄錐【てっすい】を植えた厚い木材の屋根で亀の甲羅のように甲板が覆われていたことから、この名がある。
屋根を被せることで敵が乗り込めないようにし、船の左右にたくさんの櫂をつけて速力を早めて敵に近寄り、無数の銃眼から鉄砲や矢を射るようにした。さらに、舳先には口を開けた竜頭をすえ、上からも砲火を浴びせられるようにした。李舜臣はこの亀甲船と、潮の流れをうまく利用して日本海軍を翻弄した。李舜臣は1598年の海戦で戦死したが、現在にいたるまで救国の英雄として尊敬されている。
秀吉は明との講和を図ったが、秀吉の講和条件は無視されて交渉は決裂。秀吉は1597年に再び14万余の兵を送った(慶長の役、朝鮮では丁酉倭乱)。しかし、日本軍は苦戦をしいられ、翌年秀吉が病死したため全軍撤退した。
京都に「耳塚」という塚があり、五輪塔が建っているのをご存じだろうか?しかし、これは「耳塚」ではなく「鼻塚」である。国内の戦いの場合は論功行賞の証拠品として首を塩漬けにして持ち帰り、首実検がおこなわれる。でもこれだと、朝鮮半島から持ち帰るには嵩張ってしまうので、秀吉は鼻を持ち帰るように命じた。耳だと二つあるから駄目。持ち帰った鼻の数によって何人の敵を倒したか分かるというわけだ。ところが、誰の鼻かは分からない。そこで、殺した兵士だけでなく、生きている捕虜や一般人の鼻をそいで日本に送ったと言うんだ。そのため戦争後も鼻なして歩いている人がいた、と言うから残酷な話だ。その鼻を供養したのが「耳塚」、いや「鼻塚」だ。
李参平
日本兵が朝鮮半島から持ち帰ったのは鼻だけじゃない。日本兵は引き上げるに際して5~6万の朝鮮人を捕虜として連行したが、その中には優れた陶工や活版工が含まれ、日本の文化の発展に寄与することとなった。特にこの戦争は「やきもの戦争」とも云われ、有田焼、唐津焼、萩焼、薩摩焼などはこのとき連れてこられた朝鮮陶工が始めたものである。その一人、李参平は佐賀の有田に移り住み、1616年に日本で初めて磁器を製造した。これが有田焼の始まりで、日本の陶磁器の歴史で重大な変化の一つとされている。
その他にも織物や金属活字、儒学などが日本にもたらされるているが、これは「文化の略奪」である。われわれ日本人はそのことを真摯に受け止め、反省しなければならない。
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