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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー光の神アフラ=マズダ・ゾロアスター教

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 前550年にアケメネス家のキュロス2世はメディアを滅ぼして独立王国を樹立、さらにリディア・新バビロニアを滅ぼした。続くカンビュセス2世が前525年にエジプトを征服し、オリエント統一を成し遂げた。

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ダレイオス1世の謁見図

 アケメネス朝全盛期の国王がダレイオス1世である。中央集権体制を確立し、エーゲ海からインダス川にいたる最大領土を実現した。帝国を20の州にわけ、サトラップを任命して統治させ、「王の目」「王の耳」と呼ばれた巡察使を派遣して、サトラップの動向を監視させた。

 幹線道路の整備にも力を入れ、「王の道」と呼ばれた。都のサルデスから小アジアのサルデスに至る道路は約2500kmにもおよび、111の宿駅が設けられた。普通は90日かかる行程を早馬では7日で飛ばすことが出来たという。

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 ダレイオス1世が建設したのがペルセポリスの宮殿。アケメネス朝の王は春はスサ、夏はエクバタナ、冬はバビロンで過ごし、その度に宮廷も宝物庫も王とともに移動した。ペルセポリスの用途はよく分かっていないが、新年の祝い(イランの新年は春分の日に始まる)を執り行う場であり、諸民族からの貢納を受け取り、アケメネス朝の王権が神から与えられたことを確認する聖域であったと言われている。この宮殿はアレクサンドロス大王によって焼かれた後は使われることはなく、廃墟となってしまった。現在立っている柱の多くは修復されたものである。

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 ダレイオス1世というと、ローリンソンが楔形文字を解読する際に手がかりとしたベヒストゥーン碑文が有名である。写真はダレイオス1世の戦勝記念碑文のレリーフ。左から3番目がダレイオス1世で、誰かを踏みつけているのが分かるかな。

 実はカンビュセス2世の没後、王統が絶えたため、帝国のあらゆることろで、自ら王と称して反乱をを起こす者が続出した。ダレイオスはこの反乱を鎮圧して、王位を簒奪した。ダレイオスが踏みつけているのが反乱軍の王ガウマータで、右には首に縄をかけられて引き据えられた9人の王が描かれている。

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 その上に彫られている像があるんだけど、見難いので、別の画像で説明するね。羽根の真ん中に光輪があって、そこにおっさんがいるけど、これがゾロアスター教の最高神であるアフラ=マズダだと言われてきた。でも、ゾロアスター教を国教としたササン朝ではこの像は描かれておらず、またヘロドトスもペルシア人は寺院も建てず神像も持たないと言ってるから、どうも違うみたいだ。


 ただ、この碑文では、彼がアラフ=マズダに深い帰依を表明し、自分が王位に就いたのもアフラ=マズダの恵みだと述べているので、アフラ=マズダを信仰していたのは確実だ。

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 ゾロアスター教は、基本的には光明神(善神)であるアフラ=マズダを最高神とする一神教である。また、偶像ではなく、火を最高神の神聖な象徴として崇拝するので拝火教とも言われる。光明神アフラ=マズダに対して常に敵対するのが暗黒神(悪神)であるアーリマンだ。世界を善神と悪神の戦場とみるから、昼と夜の交替もこの2神の抗争と考える。世界の歴史は1万2000年続き、やがて終末には救世主が現れて最後の審判が下され、アーリマンは打ち負かされるとする。そのような世界観はその後のユダヤ教やキリスト教などの一神教に影響を与えたと考えられている。

ちなみに、哲学者ニーチェの著書『ツァラトゥストラかく語りき』のツァラトゥストラはこの宗教の創始者であるゾロアスターのことだよ。

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タタ・モータースのトラック

 ササン朝の滅亡後、イランではイスラーム教が主流になり、ゾロアスター教はほぼその力を失った。しかし、その一部がインドに逃れ、ムンバイを中心にパールスィーと呼ばれる独自のカーストを形勢している。パールスィーはペルシア人という意味だ。現在、パールスィーは約25万人ほどいる。彼らは経済活動に優れており、インド最大の財閥であるタタ=グループの創始者ジャムシェトジー=タタもゾロアスター教徒だ。タタ=グループは現在はムンバイを中心に100社、58万人を雇用、製鉄・自動車・電力会社を主力に約10兆円を売り上げている。

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ムンバイの「沈黙の塔」

 ゾロアスター教では、死体は不浄なものとされる。だから、ササン朝時代には死体は路傍に放置し禿鷹に食わせるか、カラカラに乾燥させるかして骨だけにしてから、摩崖横穴に放り込む曝葬が行われていた。でも、現在ではさすがに路傍に放っておけないので、死体を高い塔の上部において禿鷹が出入りできるような施設が造られている。これを「ダフマ」、英語では「沈黙の塔」という。気持ち悪~。

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 ゾロアスター教は日本に何の関係もなさそうだけど、それがそうでもないんだ。写真は東大寺二月堂の「お水取り」(正式には修二会【しゅにえ】)のシンボルのような行事で、二月堂の舞台で火のついた松明を振り回す「お松明」だ。火の粉が散って迫力があるよね。これどうもゾロアスター教の影響らしい。推理作家の松本清張が『火の路』で唱えた説なんだけど、僕は正しいと思ってる。

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 僕らぐらいの年配の人だったら、「東芝のマツダランプ」という電球があったのを覚えていると思う。子供心に東芝なのに、なんで松田のランプなんだと思っていたら、これが何とMAZDA Lampで、MAZDA はアフラー=マズダのことなんだ。アメリカのゼネラル・エレクトリックからライセンスを得て、東芝が販売していた。アフラ=マズダは光の神だから、電球にはばっちりのネーミングだ。

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 MAZDAと言えば、このエンブレムを思い出すよね。ご存じの通り、自動車メーカーのマツダ株式会社のものだ。創業者である松田重次郎の姓と、アフラ=マズダにちなみ自動車産業界の光明となるよう願って綴られたんだってさ。日本にも結構ゾロアスター教の影響があるんだね。

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【 2019/05/05 05:17 】

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世界史のミラクルワールドー出エジプト・モーセ

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 ヘブライ人は「川の向こうから川を超えて来た者」という意味の他称で、自らはイスラエル(「神に勝つ者」の意味)と称した。ユダヤ人と呼ぶ場合が多いが、これは民族名ではなく、ユダヤ教の信者のことである。

 『旧約聖書』では、族長アブラハムに率いられ、ウルを出てパレスチナに定着したと書かれている。パレスチナで牧畜に従事していたヘブライ人は飢饉に見舞われたため、その一部は豊かなエジプトに移動して、農耕生活を営むようになった。しかしエジプトのファラオが彼らを奴隷として都の造営などに使役するようになり、彼らは苦しい境遇に置かれるようになった。ヘブライ人をその窮地から救ったのがモーセである。

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 写真はミケランジェロ作のモーセ像だが、頭に角が2本生えている。こんなことになったのは、ヴルガタ訳の描写をもとにしたためだと言われている。正しい訳は「モーセは光輝いていた」なのだが、ヘブライ語には母音を表す文字が存在せず、ヘブライ語で「輝く」を意味する語は「角」という意味にも解釈できるそうで、「モーセには角が生えていた」という訳になっちゃったんだって。

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 さあ、いよいよ「出エジプト」(イクソダス)のお話だが、ここからは1956年製作のハリウッド映画「十戒」の画像を中心にしてお送りする。モーセを演じたのは往年の大スターであるチャールトン=ヘストンだ。

 『出エジプト記』によれば、モーセはヘブライ人のレビ族の父アムラムと、アムラムにとって叔母にあたる母ヨケベドとの間に生まれ、兄アロンと姉ミリアムがいた。モーセが生まれた当時、ヘブライ人が増えすぎることを懸念したファラオはヘブライ人の男児を殺すよう命令した。出生後しばらく隠して育てられたが、やがて隠し切れなくなり、パピルスのかごに乗せてナイル川に流された。

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 たまたま水浴びしていたファラオの王女が彼を拾い、水からひきあげたのでマーシャー(ヘブライ語で「引き上げる」の意味)にちなんで「モーセ」と名づけた。

 成長したモーセは、あるとき同胞であるヘブライ人がエジプト人に虐待されているのを見て、ヘブライ人を助けようとしたが、はからずもエジプト人を殺害してしまう。これが発覚し、ファラオに命を狙われたモーセは逃れてミディアンの地(アラビア半島)に住んだ。

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 ミディアンではツィポラという羊飼いの女性と結婚し、羊飼いとして暮らしていたが、ある日燃える柴のなかから神に語り掛けられ、ヘブライ人を約束の地(聖書中では「乳と蜜の流れる地」と言われている現在のパレスチナ周辺)へと導く使命を受ける。神からの啓示を受けたモーセは、ヘブライ人を率いパレスチナを目指してエジプト旅立つ。

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 これを逃がすまいとしてファラオの軍があとを追うのだが、ファラオの名はラメセス。ラメセス2世のことだろうが、これを演じたのがユル=ブリンナーだ。ヘブライ人たちはやがて「葦の海」に出る。恐らく今の紅海のことだろうね。前は海、後ろにはファラオの軍が迫って来る。絶体絶命のピンチだ。

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 しかし、モーセが神に祈ると、神は火の柱でラメセスの軍の進攻を妨げ、その後海を二つに割り、ヘブライ人たちをその海の中にできた廻廊を歩かせて対岸まで逃れさせた。暫くして火の柱が消え、道が開けたエジプト軍がヘブライ人を追って、海の中にできた廻廊を進むと、モーセは再び神に祈りを捧げ、今度は廻廊が海に戻り、あっと言う間にそこは海の中となってラメセスの軍は彼だけを残して波間に消えていった。公開当時はこの特撮シーンが話題になったんだけど、今観るとちんけだ。まあ、60年も前の映画だから仕様がないけどね。

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 その後、モーセは40日間シナイ山に籠り、やがて光が岩に十の戒めを刻んでいく。こうして、モーセは神ヤハウェから「十戒」を授かった。

 1.汝は私の他に、何者をも神としてはならない。
 2.汝は自分のために刻んだ像を造ってはならない。
 3.汝は、汝の神・主の御名をみだりに唱えてはならない。
 4.安息日を覚えて、これを聖とせよ。……
 5.汝の父母を敬え。
 6.汝殺すなかれ。
 7.姦淫をしてはならない。
 8.汝盗むなかれ。
 9.隣人について偽証してはならない。
 10.汝の隣人の家をむさぼってはならない。

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 その後数十年にわたりシナイ半島の荒野を彷徨った後に、120歳(?)になったモーセは自分の後継者としてヨシュアをたてて亡くなる。指導者となったヨシュアはジェリコ(エリコ)の戦いに勝利してカナーンを征服し、ヘブライの12部族にくじ引きで定住地を与えたという。

 その後ヘブライ人はそれぞれの族長に率いられて統一国家をつくることはなかったが、海の民の一派であるペリシテ人が現在のガザを中心とした東海岸に侵入してヘブライ人を圧迫するようになった。それに対抗するため、ヘブライ人の統一が進み、前11世紀末にサウルによって統一されてヘブライ王国が成立した。

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ミケランジェロ作ダヴィデ像

 前1000年に第2代の王となったダヴィデがペリシテ人を破り、さらに周辺を征服した。ヘブライ王国は次のソロモン王の時に全盛期となり、王はイェルサレムにヤハウェ神殿を建設したが、その死後、北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂し、イスラエル王国はアッシリアに滅ぼされ、ユダ王国も新バビロニアのネブカドネザル2世に滅ばされてしまう。

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 ユダヤ人は前6世紀末にイェルサレムの神殿を中心に神政政体を確立。さらに前2世紀に再び王国(ハスモン朝)を建設したが、前63年以来ローマの支配下に入った。その後、ローマと戦ったが(ユダヤ戦争)、70年にイェルサレムが陥落、ユダヤ人は各地に離散(ディアスポラ)した。この時に神殿も破壊され、現在は「嘆きの壁」と呼ばれる神殿の外壁だけが残っている。

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 余談になるが、2017年5月、アメリカのトランプ大統領がこの「嘆きの壁」を訪問、さらに2018年5月にはアメリカ大使館をテルアビブからイェルサレムに移した。アメリカ国内のユダヤ人の協力なしでは選挙に勝てない。そのために親イスラエル政策をとるトランプだが、これでは、いつまで経っても中東に平和が訪れることはない。

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【 2019/05/01 05:48 】

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世界史のミラクルワールドー古代オリエント最大の戦い・カデシュの戦い

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ボアズキョイ遺跡

 ヒッタイト人は古代オリエント世界に登場する最古の印欧語族である。その故郷は不明であるが、前1900年頃、西アジアに起こった広範囲な民族移動の動きの一つとしてアナトリア中部に移住したようだ。

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ハットゥシャシュの獅子門

 前1680年頃、ハットゥシリ1世がハットゥシャシュ(現在のボアズキョイ)を首都として王国を建設した。1905年から翌年にかけて、ヴィンクラーが率いるドイツの調査隊がトルコの首都アンカラの東のボアズキョイを発掘。巨大な建造物の遺構とともに大量の粘土板文書も発見された。それを解読することによって、この遺跡がヒッタイトの都、ハットゥシャシュであること判明したのだが、詳しいことは後でお話する。

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 ヒッタイトは世界史上初めて鉄を生産した民族としてその名を知られているが、1938年にトルコのアランジャホユックの遺跡から黄金で装飾された鉄剣が発見され、この定説が覆された。材料は「隕鉄」つまり隕石だと考えられるが、前2300年頃のもので、ヒッタイト人がアナトリアに入植する以前のことである。世界最古の鉄を製造したのはハッティ人だった。

 ハッティ人は『旧約聖書』のヘテ人をもとにイギリスのアッシリア学者が命名したものだが、ヒッタイト人以前にこの地に住んでいた人々を指し、彼らは印欧語ではない言葉を使っていたようだ。ヒッタイト人はこのハッティ人の製鉄技術を受け継いで、前1200年頃に「海の民」に滅ぼされるまで、これを独占した。

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 前1595年にムルシリ1世がバビロン第1王朝を征服、西アジアに鉄器をもたらした。ヒッタイトの強大な軍事力の原動力となったのが鉄製の剣と戦車だった。

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 写真は前にもお話ししたシュメール人の戦車だ。シュメール人の戦車は2枚の板を接合した車輪を用いた4輪戦車で、4頭のロバの一種が引いていた。これだと、儀式の行進に使われる程度で実戦にはむかない。

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 それに対してヒッタイトの戦車はというと、写真を見てお分かりの通り、6本スポークの車輪を使用し、2頭立ての馬に引かせた軽快な2輪戦車だった。この馬と戦車がヒクソスによりエジプトにもたらされた。後に、ミタンニから独立したアッシリアは、スキタイ人など遊牧民から騎馬先述を取り入れて軍事大国となり、前7世紀に初の「世界帝国」を形成することになる。

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 ヒッタイトは前1286年にシリアに進出したエジプト新王国とシリアのカデシュで激突した。古代オリエント最大の戦いであるカデシュの戦いである。

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アブ=シンベル神殿のラメセス2世像

 カデシュはエジプトとヒッタイトの勢力圏のちょうど中間に位置し、東地中海世界の交易の要衝であった。当時のエジプトのファラオはラメセス2世、これを迎え撃ったヒッタイト王はムワタリだった。
 
 エジプト軍は50人で編成された小隊を基本に、5小隊で中隊、20中隊つまり5000人で1師団が組織され、ラメセス軍は4師団、総計2万の編成であった。ラメセス2世は直属師団を率い、捕虜の偽情報をつかまされてカデシュの北に進出した。東側から現れたヒッタイトの戦車隊2,500両がエジプトの後続師団を急襲、エジプト軍は混乱に陥った。しかし、海岸部からの援軍が駆けつけ、なんとか危機を切り抜けた。

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戦車に乗り弓を引くラメセス2世

 
この勝利をアメンの加護として、ラメセス2世はアブ=シンベル神殿を含む5つの神殿の壁面に詳細な碑文を残した。また、神殿の壁画には巨大なラメセス2世が敵を討つ姿が描かれた。

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ラメセス2世のミイラ

 ラメセス2世の誇張にもかかわらず、現代の評価では戦争の結果は引き分け程度であったとされている。ヒッタイト側は王子を含む多数が戦死し、カデシュから撤退したが、エジプト側もカデシュを取り戻すことはできなかった。戦闘後、実質的にカデシュを管理下に置いたのはヒッタイトの方であった。

 前1269年、ラメセス2世とヒッタイト王ハットゥシリ3世との間で、シリア・パレスティナとそこを通る交易ルートの支配権を分割保有することに同意する公式の平和条約が締結されたが、これが世界史上初の平和条約である。

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 1887年、前回お話したテル=エル=アマルナで、地元民が楔形文字の刻まれた多数の粘土板を偶然発見した。発見当初は価値の無いもの、あるいは偽物ではないかと思われていたが、大英博物館のW=バッジが購入、彼の卓見によって後に古代オリエント史上最高の資料の一つであることが分かった。「アマルナ文書」である。

 平和条約の内容はカルナック神殿の壁面に彫り込まれているが、「アマルナ文書」の中にもハッティ国とエジプト新王国の間で交わされた書簡が見つかり、長い間忘れられていたヒッタイトの存在が朧気ながら浮かび上がった。

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世界最古の平和条約

 ボアズキョイを発掘したのはヴィンクラーだったよね。アッカド語で書かれた1枚の粘土板を読み始めた彼は、一瞬、我を忘れてしまう。なんと、粘土板文書は世界最古の平和条約に関するものだった。ヴィンクラーはその条約文が、「アマルナ文書」やエジプトのカルナック神殿の壁面に刻まれているものとほぼ同一であることを発見、ここに幻のヒッタイト帝国が甦ったのである。

 ちなみに、ラメセス2世には100人の子供がいて、90歳で死んだんだってさ。

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【 2019/04/28 05:35 】

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世界史のミラクルワールドーアマルナ革命とツタンカーメンの謎

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 アメンホテプ4世はエジプト新王国第18王朝のファラオ(在位前1364年頃~1347年頃)である。アメンホテプ3世の子として10歳で即位したが、首都テーベの神官勢力が王権を凌ぐようなありさまであった。

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ラー

 古王国時代は首都メンフィスの守護神である太陽神ラーが盛んに信仰された。ファラオはラーの化身とされ、ラーを祀る祭殿として巨大なピラミッドが造営された。

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アメン(アモン)

 それが、中王国時代にテーベに首都が遷されると、テーベの地方神であったアメンが国家神として崇拝されるようになり、新王国時代にはアメンがラーと一体化して、アメン=ラー信仰(アモン=ラー)が起こった。

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カルナック神殿のアメン大神殿

 アメン神の加護は、遠征の勝利と史上空前の大帝国の建設をもたらした。ファラオたちはアメンのの恩恵に対する感謝のしるしとしてカルナック神殿へのさまざまな寄進と増改築を行った。その結果、急激に増大した宗教的権威と経済力を背景に、アメン神官団は国政に対する発言権を強め、王位継承をも左右する力を持つようになって行った。このようなアメン神とその神官団の影響力に対して、王権に対抗する勢力と認識したファラオ側の反発が生まれていった。

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 ファラオと神官団の緊張関係が頂点に達しようとした時に即位したのがアメンホテプ4世であった。アメン神官団の存立基盤は国家神としてのアメンだから、これに代わる国家神を作り出せばいいということで、選ばれたのが太陽神アトン(アテン)だった。写真を見てお分かりの通り、もともとは夕日を神格化したものだった。太陽円盤から光が放射線状に出てるよね。アトン信仰を国民に強制し、他の神々の祭祀を停止し、偶像を破壊するなどしたため、多神教ではなく一神教の様相を呈するにいたった。当時、ヘブライ人はエジプトにいたので、アトン一神教をヒントにヤハウェ一神教が生まれた可能性がある。

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 そうすると、アメンホテプの名前がまずい。なにしろ、「アメンが満足する」と意味だからね。そこで、自らの名をイクナートン(「アトンにとって有用な者」の意味)に変更した。都も神官団の拠点であるテーベからアケート・アトン(「アトンの地平線」の意味)に遷した。日本でも寺院勢力が強くなったことから、平城京から平安京に遷都しているけど、それと同じことをやろうとしたわけだ。

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王妃ネフェルティティ

 前1364年の冬、イクナートンは王妃ネフェルティティ、長女メリトアテン以下、廷臣たちを従え、新都建設予定地を訪問、建築工事起工の儀式を行った。都にはアトン神の神殿とともに、王宮、王墓、中央官庁街が2年ほどで建設された。現在この地はテル=エル=アマルナと呼ばれている。

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 しかし、イクナートンの死後、その改革が否定されると、この都は王一代で終わり、次の王朝によって破壊され、現在は遺跡が残るのみとなっている。

 アトン信仰は自然神でありながら、愛によって人々を救済するという、普遍的な宗教であり、エジプトと西アジアという異なる民族と文明を内包する地域を支配する専制君主に適した新しい宗教として創り出された。イクナートンはその信仰に基づき、独自の美術表現を推奨し、それはアマルナ美術と言われた。アマルナ美術は写実性を特徴としており、さっきのネフェルティティ像がその代表とされる。

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 イクナートンの死後、僅か9歳で即位したのがトゥトアンクアトン(「アトンの生ける像」の意味)であった。えっ、これ「ツタンカーメンの黄金のマスク」じゃないの?って。そう、ツタンカーメンなんだけど、即位したときは、ツタンカートンだったんだ。即位後まもなく、摂政のアイや将軍ホルエムハブなど側近の意向によってか、名前をトゥトアンクアメン(「アメンの生ける像」の意味)に変えさせられ、都をメンフィスに戻し、アメン神信仰を復活させ、アメン神官団も復職させ、アマルナ革命が挫折してしまった。トゥトアンクアメンを何度も早口で言ってごらん。ほうら、ツタンカーメンになったでしょ。

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 写真はツタンカーメンの玉座に施されたレリーフで、王妃が王に香油を塗ってあげている仲睦まじい様子を表したものだ。ところで、2人の足元をよく見ると、2人とも片方しかサンダルを履いていない。これは「仲のよい2人が1足のサンダルを片方ずつ履く」という当時のエジプトの習慣なんだってさ。

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 写真のツタンカーメンは杖を突いてるけど、彼は身体が弱かったようだ。ファラオは神だから、人間とは結婚出来ない。そのため、近親結婚が行われていた。ツタンカーメンは近親結婚が原因の数々の遺伝的疾患に苦しめられたことが最近の研究で分かってきている。

 彼は左足に先天性内反足の変形を患い、右足も極端な偏平足だったとみられているそうだ。足の変形に加えて無血管性骨壊死といい、徐々に骨が損なわれていく恐ろしい病気にも罹患していたことが最近の研究で分かって来た。その上、マラリアにも罹患していたと考えられるそうだ。

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 ツタンカーメンは世継ぎにも健康にも恵まれないまま僅か18歳でこの世を去った。彼と彼の実の妹でもあった妃との間に授かった2人の娘たちは死産。ツタンカーメンの家系は途絶え、歴史からも抹消されてしまう。

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王家の谷

 ところが、1922年11月、テーベの近くの「王家の谷」といわれるエジプト新王国のファラオたちの王墓が集中している一角で、全く未知の王墓が発見された。それは王墓の中でも小規模なものであったので、盗掘を免れていた唯一の王墓であった。出土したミイラの名札からそれがツタンカーメン王のものであることがわかった。その墓室からはほとんど埋葬時そのままの王のミイラ、それを覆う黄金のマスク、王の玉座、さまざまな装飾品、武器など、5,398点にのぼる副葬品が見つかり、世紀の大発見と言われた。

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 発掘に成功したのは、ハワード=カーターというイギリス人であった。彼はカーナヴォン卿というスポンサーの出資によって16年前からエジプトで発掘に従事していたのだった。ところで、エジプトには、ファラオの墓を暴いた者は呪われるという言い伝えがあった。このツタンカーメン王の発掘でもスポンサーのカーナヴォン卿が翌年4月に急死したほか、関係者が数年の間に相次いで死んだので「ファラオの呪い」ではないか、と話題になった。でも、カーター自身は1939年に病死してるんで、本当にファラオの呪いなんかあるんかね。

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 写真は戦車にまたがり、弓を引くツタンカーメンの姿だ。従来は病弱な少年王が戦場に出たとは考えられず、この絵はツタンカーメンを美化するために描かれたものだとされてきた。しかし、この通説をくつがえすかもしれない発見があった。それはツタンカーメンの墓が発見された当時から埋葬品のひとつとして収容されたものの、今まで研究対象になっていなかった革製の鎧だ。

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 詳細な調査の結果、鎧には着用による劣化が確認され、当時10代だったツタンカーメンが鎧をまとって戦に出ていた可能性も見えてきた。幾重の疾患を抱えながらなお戦場に出たツタンカーメンが戦車から転落して死亡したとする説も信憑性を帯びてくる。今後の研究成果に大いに期待したいところだ。
 
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【 2019/04/24 10:08 】

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世界史のミラクルワールドー「バベルの塔」と「空中庭園」・バビロン

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 バビロンは現在のイラクの首都バグダードの南方90㎞に位置し、ユーフラテス川をまたぐ都市である。「神の門」を意味するマルドゥク神の神殿があった宗教都市であったが、アムル人のバビロン第1王朝(古バビロニア)の都となってから繁栄した。

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ハンムラビ王

 バビロン第1王朝の第6代国王がハンムラビ王(在位前1792年頃~1750年頃)である。彼は全メソポタミアを統一、運河を含む交通網を整備し商業を発展させ、バビロン第1王朝の全盛期をもたらした。

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 ハンムラビ王と言えば、中学生でも知っているハンムラビ法典である。以前は「世界最古の法典」と言われたが、現在、世界最古の法典とされているのは、ウル第3王朝のウル=ナンム王が制定したもので、その後もシュメール人は数々の法典を編纂した。ハンムラビ法典はこれらのシュメール法典を集大成したものである。

 1901年、フランスの調査隊によりスサで発見されたため、現在はルーヴル美術館が所蔵している。高さ 2.25mの玄武岩の石碑に、楔形文字を用いアッカド語で282条の条文が刻まれている。本来はバビロンにあったものを、エラム人がバビロンを征服した時に戦利品として持ち帰ったようだ。でも、フランスの調査隊も持ち帰っていいんかい。本当はあかんでしょ。

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 最上部に刻まれたレリーフを拡大した。右が普遍的な正義の神でもある太陽神シャマシュで、左に立っているのがハンムラビ王である。シャマシュが手に持っているのがハンムラビ法典で、この法典はシャマシュがハンムラビに授けたものであることを示している。メソポタミアの国王は神の代理人として君臨していたため、「神の掟」としての法律が必要で、数々の法典が作られた、しかし、エジプトでは王は神そのものであったため、「神の掟」は必要ない。だから、エジプトでは法律は制定されなかった。

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 ハンムラビ法典というと、「目には目を、歯には歯を」の復讐法で知られている。量刑が厳しかったように感じるだろうけど、やられたことと同じ仕返しをしろ、それ以上の仕返しはするなということだ。半沢直樹のような「倍返し」は許さない、非常に公平な裁きである。

 後書きでは「強者が弱者を損なうことがないために、身寄りのない女児や寡婦に正義を回復するために、……、虐げられた者に正義を回復するために、わたしはわたしの貴重な言葉を私の碑に書き記し……」と述べており、現代の被害者救済法にあたる条文もあり、社会の弱者の救済を意図する内容を持っていたことは是非知っておいて欲しい。

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 バビロン第1王朝がヒッタイトに滅ぼされた後、バビロニア地方はカッシートの支配を受け、前8世紀の終わり頃にアッシリア帝国に征服された。アッシリアは武断政治を行ったため支配は長続きせず4王国分立の時代となり、バビロニア地方には前625年にカルデア人により新バビロニア王国が建設された。

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ネブカドネザル2世

 新バビロニア王国の第2代国王がネブカドネザル2世。ネブカドネザルは首都バビロンを大規模に拡張し、全市を全長18㎞におよぶ二重の城壁で囲み、その数カ所にいくつかの豪華な飾りを持つ城門を設け、南北に縦断する幹線道路を造った。

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 その門の一つ「イシュタル門」は現在、ベルリンのペルガモン博物館に復元されている。

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 ネブカドネザル2世は前586年にヘブライ人のユダ王国を滅ぼすと、住民をバビロンに強制連行した。有名なバビロン捕囚だ。この事件を英語で、「the Exile 」と言う。そう、エグザイルだ。あの人気グループがなんで EXILE と名乗ったのか?理由は分からない。

 捕囚は新バビロニアが滅びる前538年まで約50年程続いた。ヘブライ人はアケメネス朝のキュロス2世に許されてイェルサレムに帰還し、ヤハウェの神殿を再建。ここにユダヤ教が成立するが、これ以降は彼らをユダヤ人と呼ぶ。

 この事件は『旧約聖書』にしか記述がないので、被害者側の証言しかないから、鵜呑みには出来ないが、奴隷のような過酷な状態ではなかったようだ。

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 それでも、異国の地に連れて来られれば、やはり辛い。故郷を遠く離れて生活していたヘブライ人が涙ながらに見上げる空には、天にも届くような聖塔が聳えていた。新バビロニアはシュメール人の真似をしてジッグラトを建設し、ネブカドネザルの時に完成した。その名は『エテメンアンキ』。シュメール語で「天地の基礎となる建物」という意味だ。最下層は正方形で一辺がおよそ90m、全高90mとされている。このジッグラトを見ていたヘブライ人が思いついたお話が、「バベルの塔」らしい。

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 ご存じだとは思うjけど、旧約聖書』の創世記に出てくる「バベルの塔」の話は次のようなものだ。人間が天まで届く塔を建て始めたことに立腹した神は、人々の言葉が一つであるからこのようなことを始めたと考え、「直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう」と、彼らをそこから全地に散らされたので、彼らは建設を止めた。世界中に色んな言語があるのは、そのためなんだというお話だ。主が言葉を混乱(バラル)させたので、この町をバベルと呼ぶようになった、と言うんだが、バベルは恐らくバビロンのことなんだろうね。

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 ネブカドネザルが建てたもう一つ有名な建築物が「空中庭園」だ。古代ギリシアの数学者・フィロンが選んだ世界の七不思議の一つに数えられている。

 ネブカドネザルの王妃アミティスはメディアから嫁いで来ていた。メディアは現在のイランだから、山脈もあり緑が豊かな土地だ。ところが、メソポタミアは見渡す限り茶色の土しかない。望郷の念に囚われたアミティスは、自分の故国メディアの緑の丘や谷を懐かしみ、ホームシックになっちゃった。そこで、ネブカドネザルは彼女の感傷を癒やすためにこの庭園を建設したという。

 遠くから見ると空から吊り下げられているよに見えたというので、「吊り庭」とも言われているが、実際には何層もの階段上に庭園が配置され、様々な種類の樹木、つる植物を植えて、人工の山を造ったようだ。ただ、問題が一つある。庭園の上部までどうやって水を揚げたのかと言うことだが、その仕掛けは分かっていない。

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 ネブカドネザルなんて虐められたユダヤ人以外にはあまり知られていないけど、現代にその名を復活させ、世界中に知らしめたのがイラク大統領だったサダム=フセインだ。1990年、フセインがクェートに侵攻して湾岸戦争が始まった。この時に、フセインは自らを「現在のネブカドネザル王である」と言ったという。ユダヤ人の国、現代のイスラエルを敵視したアラブの独裁者らしい言い方であり、自らを現代のバビロン捕囚を実行できる王であると表明したことになる。だが、イラク戦争でついに捕らえられ、2006年に処刑されちゃった。「おごれる人も久しからず」だ。

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 写真はイシュタル門だけど、屋外にあるし、ベルリンにあるのとちょっと違うよね。おまけにアメリカ兵が写ってる。実はこれ、サダム=フセインが古代バビロン遺跡の地に復元したもで、ベルリンのものの半分の大きさしかない。

 2003年3月にイラクに進攻したアメリカ軍が遺跡付近を駐屯地にしてしまい、取り返しのつかない被害がもたらされたと言われている。現状についての情報はないが、戦争で文化遺産が失われることほど悲しいことはない。

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【 2019/04/21 05:27 】

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