なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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ちなみにペテロはギリシア語で「岩」のことで、イタリア語ではピエトロ、英語ではピーター、ドイツ語ではペーター、スペイン語・ポルトガル語ではペドロ、ロシア語だとピョートルと発音される。
イエスの向かって左に座っている3人を拡大したものだが、 自分のことが言われていると分かっているのか、身を引いているのが裏切り者のユダで、 右手には報酬の銀貨30枚の入った袋を握っている。 ペテロはというと、立上ってナイフを握る右手を腰にあてている。このナイフの角度が不自然だということで、物議を醸しているが、この話はここでは取り上げない。そして、キリストの右隣に座る人物が 12使徒のうち一番年少のヨハネ。どうみても女性に見えるので、『ダ・ヴィンチ・コード』ではマグダラのマリアで、イエスの妻であるとされたが、教会はもちろん認めていない。
こうしてイエスを否定したペテロは他の弟子たちと共にイェルサレムから逃走した。しかし、処刑後に復活したイエスを目の当たりにして、イエスは自分を赦してくれたと信じ、以後は死を恐れぬ指導的使徒として伝道に生涯をかけた。
ペテロは復活したイエスから「私の羊を飼いなさい」と言われ、イェルサレムに最初の教会を建てている。やがてヤコブ(イエスの姉弟)がイェルサレム教団のリーダーとして活躍しはじめると、ペテロはイェルサレムを離れ、各地を巡回するようになる。
ペテロはやがてローマに赴き伝道活動を始めたが、64年ネロ帝によるキリスト教徒への迫害が始まった。キリスト教徒への迫害は日を追うごとに激しくなり、虐殺を恐れた者たちが国外へ脱出する事も当たり前になっていた。ペテロは最後までローマにとどまるつもりであったが、周囲の人々の強い要請により、渋々ながらローマを離れるのに同意した。
夜中に出発してアッピア街道を歩いていたペテロは、夜明けの光の中に、こちらに来るイエスの姿を見る。ペトロは驚き、ひざまずき、尋ねた。
Quo vadis, Domine? (主よ、どこに行かれるのですか?)
イエスはこう答えた。「そなたが私の民を見捨てるなら、私はローマに行って今一度十字架にかかるであろう。」
その言葉を聞いたペテロは逃げようとしていたことを恥じ、「それでは、私も帰ってあなたとごいっしょに十字架にかけられます」と言った。するとイエスは、彼の見ている前で天に昇って行った。ペテロはしばらく気を失っていたが、起き上がると迷うことなく元来た道を引き返し、ネロの兵士たちに逮捕された。処刑のときには、イエスと同じ十字架刑では畏れ多いとして、逆さ十字架にかかって殉教したと伝えられている。
聖人とされて「聖ペテロ」と言われるようになった彼の遺骸が埋められたとされる所に、後にコンスタンティヌス帝が建てた教会がサン・ピエトロ大聖堂である。その後、ペテロが初代ローマ教皇に擬せられサン・ピエトロ大聖堂を中心とした一角はローマ教皇庁が置かれ、現在、ヴァチカン市国となっている。
高さ132.5メートル、幅42メートルのクーポラ (円蓋)の 淵に沿って、「あなたはペテロ、私はこの岩の上に私の教会を建てよう。私はあなたに天国の鍵を授ける。」と書かれている。初めのほうで書いたように、イエスがペテロに語った言葉だ。イエスから天国の鍵を授かった特別の存在ということで、ペテロが初代ローマ教皇とされた。
だから、ローマ教皇の紋章には鍵が描かれている。一つは金の鍵,一つは銀の鍵で、英語ではクロス・キーズcross keysと呼ぶ十字架の形を表し,教皇には天国の扉の開閉権が与えられていることを示している。
写真はベルニーニ作の大天蓋「バルダッキーノ」で、教皇だけがミサができる「教皇の祭壇」を覆っている。そして、祭壇下にはペトロの墓所があるという伝承が伝えられていたが、実際はどうだったのかは長きにわたって謎とされていた。
しかし、1939年以降、ローマ教皇ピウス12世は考古学者のチームに地下墓所の学術的調査を依頼した。すると2世紀につくられたとされるトロパイオン(ギリシャ式記念碑)が発見され、その周囲に墓参におとずれた人々のものと思われる落書きやペテロへの願い事が書かれているのが見つかった。さらにそのトロパイオンの中央部から丁寧に埋葬された男性の遺骨が発掘された。この人物は1世紀の人物で、年齢は60歳代、堂々たる体格をしていたと思われ、古代において王の色とされていた紫の布で包まれていた。
1949年8月22日のニューヨーク・タイムスはこれこそペテロの遺骨であると報じて世界を驚かせた。さらに1968年にパウロ6世はこの遺骨が「納得できる方法」でペテロのものであると確認されたと発表した。もちろん考古学的には上記の「状況証拠」しかないので、真偽については半世紀以上が経過した2010年代になっても論争が続いている。
当該遺骨は発掘後、専用の棺が作られてそこに納められた上で、地下墓所に設けられた専用の施設に安置されている]。通常は一般には非公開であるが、教皇フランシスコはこの公開を許可し、2013年11月24日、前年10月から行われていた信仰年の締めくくりミサの中で、この棺が初めて公開された。
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48年、彼女は愛人の富裕な貴族シリウスと正式な結婚を思い立ち、クラウディウスを除こうとする陰謀を企てた。しかし、解放奴隷のナルキッススに探知され、ついに彼女は愛人とともに処刑されたのである。
クラウディウスがバラスの勧めで新しく妃としたのは姪の小アグリッピナで、母アグリッピナの野心に燃えた血をうけ、それを着々と実行に移す女であった。クラウディウスはメッサリナとの間に一男一女、すなわちブリタニクスと娘オクタウィアをもうけ、ブリタニクスは元首(プリンキパトゥス)の後継者とみなされていた。
しかし、小アグリッピナは夫を説きつけて、自分と前夫との間の子をクラウディウスの養子とし、未来の元首とすることに成功した。これがネロであった。さらに小アグリッピナは息子をオクタウィアと結婚させたが、彼女はそれでも安心しなかった。ナルキッソスが依然ブリタニクスの肩を持っていたからである。ついに54年、彼女は他人に心を動かされやすい夫の気持ちが変わるのを恐れて、茸料理に毒を盛り込んだ。しかし、それに失敗すると、彼女は皇帝の主治医を買収し治療処置と見せかけて毒を塗った鵞鳥の羽を夫の喉に差し込ませ、ついに64歳の皇帝をあの世に追いやった。
やがて、後の皇帝オトーの妻ボッパエア・サビナがネロの愛人となり、気位の高い母を消すことを唆した。解放奴隷あがりの海軍司令官が悪役を引き受け、彼女をナポリ湾に招待し、転覆しやすいボートに乗せて人知れず溺死させようとしたが、この時は失敗に終わり、後に彼女の家を襲って惨殺した。59年のことであった。小アグリッピナがネロの命を窺っていたためだと公表し、元老院や輿論の前を取り繕った。彼女の過去を知る世人はこの説明に半信半疑であった。
ついでネロはオクタウィアを離婚し、オトーをイスパニアのルシタニア知事に体よく赴任させてボッパエア・サビナと結婚した。オクタウィアは初めカンパーニャに追放されたが、民衆の同情が寄せられると、不義と反逆の罪をきせられて、パンダテリア島に流され、後についに処刑された。
64年7月、ローマ市は下町から出た怪火によって数日間燃え続け、市街の大半が焼失した。ネロはこの時ローマ市南方の海岸都市アシティウムの離宮にいたが、すぐ帰還して消火と罹災者救護、さらに市街の復興に努力した。しかし、彼の平生の行いが悪いためか、彼が市街の燃えるさまをバルコニーから眺めトロイア滅亡の詩を口ずさんだとか、また新市街建設で名をあげるため旧市街に放火して焼き払わせたとかいう忌まわしい噂がたち、民衆が暴動を起こしそうになった。
ネロに罪があったかどうか真相は不明だが、ネロはこの噂を消すため側近の進言によって、放火をキリスト教徒のせいにし、彼らを十字架につけたり、火あぶりとしたり、獣の皮をかぶせて猛犬に噛み殺させたりした。ネロはこの見世物のために庭園を開放し、競馬を催し、おどけた服装をして野次馬に加わり、自分で戦車を走らせたりした。したがって、暴君ネロの名を高からしめたこの迫害はキリスト教の信仰のせいではなく、放火罪が表向きの理由となっているわけである。キリスト信者は、密かに集まって礼拝をし、一般のローマ人と親交や社交を共にしなかったので、陰謀を企み、魔術を行い、人肉を食い、近親姦にふけっているとローマ人に誤解され、ローマの伝統と良俗の敵であるとして憎まれていたのを利用したのであろう。この迫害でペテロもパウロも殉教している。
翌65年には元老院議員ピソの陰謀が暴露し、かつてのネロの指南番セネカとその甥の詩人ルカヌス、ネロの親友で小説『クォ・ヴァディス』の主人公として理想化された「優雅の判定人」ペトロニウスもそのうちに数えられた。人生の短さと無欲を説くストア哲人で同時に南海貿易などで巨富をなしたセネカは、入浴して血管を太くし、毒を注射してわが生命のおもむろに消えゆくさまを書記に筆記させた。ルカウスは自作の詩『ファルサリア』の中の死にゆく兵士の条【くだり】を口ずさみながら死んだ。
政治に飽きたネロは、ギリシア文化の愛好者として、ローマにスポーツや芸術のコンクールを導入した。彼自身、稀有の天才詩人と信じ込み、とりまき連のおべっかだけでは満足せず、民衆の喝采を求めて歌手として劇場に出演したりした。66年末から翌年にかけてギリシアを巡遊し各所旧跡を訪ねた。ギリシアの4大祭典がこの1年間にまとめて開催され、ネロは戦車競争に出場して失敗したが、八百長で優勝者になった。
しかし、暴君の支配も長くは続かなかった。68年にはガリア知事ヴィンデクスが反乱を起こした。彼はまもなく敗死したが反乱は各地の軍隊に広まり、ネロは失脚し、イスパニアのタラコネンシスの知事ガルバが皇帝に担ぎ上げられた。近衛軍はネロを見捨て、元老院は彼を公敵と宣言した。ネロはローマ市を脱出したが、ついに観念して忠実な解放奴隷の介錯を受けて喉を突いた。彼が最後に残した言葉は、「なんと私とともに芸術家が消え去ることよ!」であった。享年30歳。
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ところで、ある高名な学者は貨幣に刻まれたカエサルの顔に注目する。前44年に鋳造されたものであるが、この横顔には死相があらわれているという。カエサルの究極の狙いはどこにあったのか。彼は一人支配の君主たらんとしたのか、その問題はすでに同時代の人びとの懸念にまでさかのぼる。しかし、並ぶ者なき権勢を誇ったカエサルは、まさにその頂点をきわめながら、暗く疲れ果てていたように見える。
もはやカエサルの独裁が一時的なものという幻想はくだけた。元老院保守派は共和政国家の名のもとに団結する。前44年、パルティア遠征への出発を3日後にひかえた3月15日、元老院の会議がポンペイウス議場に招集された。
ある占い師はカエサルに、「3月15日まで注意してください」と忠告していた。当日、カエサルはその占い師に向かって、「この詐欺師め、何事もなく3月15日が来たではないか」とからかう。占い師は「でも3月15日はまだ過ぎていません」と答えたという。まるでゴシップ週刊誌の記者のようにスエトニウスはその話を伝えている。
1カ月前の2月15日のルペルカリア祭の際に、民意打診の奇妙な演出が行われている。フォルムに集まった民衆を前に、コンスルのアントニウスがカエサルにうやうやしく王冠を捧げた。ところが予期された民衆の拍手は起こらなかった。カエサルはとっさの気転で王冠を辞してその場をつくろった。
それから1カ月、カエサルはイタリア内では独裁官、イタリアの外では王になる、という妥協案を出すつもりでいた。彼の着席するのを待って一人の嘆願者が進み出た。願いを容れられないで、彼はカエサルの衣を捉えた。それを合図に、共謀者の一味が取り囲み、剣をふりかざしてカエサルに襲いかかった。傷にひるまずに身をかわして抵抗したカエサルであったが、ブルートゥスを認めた時、顔を上衣で覆い、「お前もか、わが子よ」と叫び、力尽きて政敵であったポンペイウスの立像の下に斃れた。
実はカエサルとポンペイウスが対立した時、ブルートゥスはポンペイウス側につき、ファルサロスの戦いの後、カエサル軍に捕らえられている。しかし、カエサルはこれを許し自分の部下として、わが子のように可愛がった。懐の深さを物語るカエサルの態度であるが、そんなことから「わが子よ」という言葉になったのかも知れない。
ブルートゥスとカッシウスを首謀者に60人以上の同志を集めた暗殺計画は見事に成功した。元老院は自由の再来に沸きかえり、陰謀の仲間は共和政擁護の英雄として歓呼されるーブルートゥスやカッシウスのこの目算は誤りであった。
20日、カエサルの葬儀がフォルムで行われた。カエサルの受けた傷は23カ所。民衆はその血まみれの外衣を見て昂奮した。アントニウスの追悼演説と、彼が発表したカエサルの遺言は、いっそう民衆を動かした。市民のめいめいに相当の遺贈が約束されていたのである。独裁官への追慕は暗殺者への憤りにかわった。カエサルの屍を焼く火は、暗殺者たちの家の焼き打ちの火になりかねなかった。ひどい見込み違いにブルートゥスとカッシウスの一味はローマを逃げ出さねばならなかった。ブルートゥスは前42年、フィリッピの戦いでオクタウィアヌス・アントニウス連合軍に敗れ、自刃する。
十分に経験を積んだ38歳のアントニウスは、力づくで権力を握ろうとしているかのようだった。共和政国家を堅持する元老院保守派は警戒心を強める。なかでも喜び勇んで政界に復帰したキケロは、アントニウスへの誹謗の熱弁をふるった。その『フィリッピカ』と呼ばれる演説の狙いは、脅かされる自由を守り共和政国家を甦らせることにあった。だが、底流にはアントニウス個人へのひどく感情的な嫌悪感が流れている。
しかし、その演説はキケロにとって致命的だった。カエサル殺害者の処刑をめぐってオクタウィアヌスと元老院との対立が明らかになると、カエサルの武将だったレピドゥスの仲介でオクタウィアヌスとアントニウスは和解に達する。前43年、三者会談の結果、第2回三頭政治の密約が生まれた。彼らが共通の敵とする「処刑者リスト」の中にキケロの名が記されていた。首都を逃亡したキケロにアントニウスの刺客が追いすがり、キケロは64歳の生涯を閉じる。
その頃たまたま妻を失ったアントニウスにオクタウィアが嫁ぐ。オクタウィアはオクタウィアヌスの姉であり、寡婦だったが、美人の誉れ高い女性だった。この結婚によって両者の結びつきはますます強まるかに思えた。しかし、この姻戚関係のおかげで、かえって両者は亀裂を深めることになる。歴史は思わぬところに落とし穴を仕掛けるものである。
カエサルが殺害されると、クレオパトラは息子カエサリオンを連れ急いでエジプトに戻った。カエサリオンのためにエジプト王国を守ること。そのためには世界の趨勢を的確に読みとらなければならない。恐らくそれが彼女の念頭に去来する思いだったのではないだろうか。
そのころ名声の高いアントニウスが、クレオパトラをキリキアのタルソスに呼び寄せる。中年で男盛りのアントニウスもまた、すぐに華麗なクレオパトラの魅力にとりつかれてしまった。彼女にうつつを抜かし、アレクサンドリアに同行、政治のことなどすっかり忘れてしまったかのようだった。二人の間には3児が生まれる。そんな噂はたちまちイタリアにも届く。しかし、妻オクタウィアは夫の不実をとがめず、弟に哀願して両者の間をとりなした。前37年、タレントゥムの契りが約束されたが、それも束の間のことだった。翌年頃から夫の態度はますます冷淡になり、前35年にはるばる会いに来たオクタウィアを拒否するほどだった。
この頃、オクタウィアヌスには、もう一つ厄介な仕事があった。ポンペイウスの遺児の一人セクストゥスがローマ海軍を手に収めていた。しかもシチリア島を拠点に海賊行為によって穀物輸送を脅かすのである。海賊退治で勇名を馳せた武将の息子が海賊として有名になったのだから、皮肉と言えば皮肉である。幸いオクタウィアヌスには、有能な部下にして親友のアグリッパがいた。このアグリッパの艦隊が前36年の海戦でセクストゥスを破る。この大勝利によってオクタウィアヌスの声望が高まった。西地中海の制海権を手に収め、やがてレピドゥスをも失脚させてしまう。三頭政治は消滅し、イタリアと西方属州のすべてがオクタウィアヌスの手の中に転がり込んでしまった。
もはや広大な地中海世界にあってオクタウィアヌスに対抗しうる者は、姉婿アントニウス以外にいなかった。前34年、そのアントニウスがこともあろうにローマの東方属州の要地をクレオパトラに寄贈することが白日のもとにさらされる。それはローマ市民に対する裏切り以外の何物でもなかった。前32年、ついにアントニウスのオクタウィアとの離縁が伝えられると、彼の遺言状なるものが公表された、そこにはクレオパトラの子を相続人に指名すると書かれていたという。ローマの民衆は怒り狂い、憤慨の炎が燃える。さまざまな噂が飛び交うなか、反アントニウスと反クレオパトラの嵐はオクタウィアヌスを支持する声のうねりとなっていく。
翌年、オクタウィアヌスはアレクサンドリアを陥落させる。アントニウスは自殺し、クレオパトラも捕虜としてさらし者になることを恐れ、自害して果てる。毒蛇に胸を噛ませたという伝説は彼女の死の直後から生まれている。やがてクレオパトラの遺児カエサリオンも殺され、プトレマイオス朝エジプトは滅亡した。それは、ローマにおける100年の内乱に終止符を打つものでもあった。
共和政末期の最後の局面において、夫と弟の間で揺れ動いたオクタウィアの気持ちはどんなものであったのだろうか。彼女は何も語っていない。しかし、伝えられるところでは、彼女はアントニウスの血が流れる子供のすべてを引き取って育てたという。自分の産んだ子はもちろんのこと、アントニウスの前妻との子供も、そしてクレオパトラとの間に生まれた子供ですらも例外ではなかった。流血の激動期に一輪の花が咲くように、その美談は人の心を打つのである。
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カエサルはさらに征服を進め、ブリテン島にも2度ほど渡った。前53年にはガリア北部のトレウェリ族やエブロネス族を討伐する。前52年、アルウェル族のウェルキンゲトリクスに率いられた原住民部族の蜂起はガリア全土をまきこんだ。だが、カエサルはアレシアの包囲戦において絶妙な用兵戦略でほぼ制圧してしまう。翌年にも戦闘はくすぶっていたが、そこでローマの対ガリア戦争は終結した。今やカエサルは戦利品と徴税で膨大な借財に対処できるばかりか、大富豪となったのである。政界工作の費用と子分のごとき軍隊の維持費。そのための資金はもはや十分だった。
カエサルのガリア遠征中、ポンペイウスはほとんどローマにいた。閥族派はもはやカエサルこそが元老院体制を脅かしているのだと気づくようになる。彼らはしだいにポンペイウスに好意を寄せる。首都ローマの混迷が深まる中で、閥族派の支持を集めてポンペイウスは前52年には三度コンスルに選出された。しかも、その非常事態のためか、共和政の歴史のなかでも前例のない同僚なしのコンスルであった。
これに対して、カエサルの軍事指揮権はもはや終わりに近づいていた。その任期が切れれば、彼は武装解除しなければならない。軍隊を解散してただの一市民としてローマに帰還するか、それとも元老院の命令を無視して武力に訴えるか。道は二つに一つであった。
ルビコン川という小さな川は、ガリアとイタリアの境界をなしている。そこを越えればカエサルの軍事指揮権は消える。「運命の寵児」を自負したカエサルは、運命の導きに託して「賽(サイコロ)は投げられた」と言いつつ、前49年1月10日、ルビコン川を渡る。それはローマ国法の蹂躙【じゅうりん】であり、内戦の火ぶたを切るものであった。なお、匙を投げるのは、お医者さんです(笑)。
カエサルのおそるべき進軍のなかで、ポンペイウスの呼びかけに応じ抵抗する者はほとんどなかった。元老院の保守支配体制にイタリア中があきあきしていたのかも知れない。イタリア全土で後退を余儀なくなせ、イベリア半島における忠実な軍団もカエサル軍の手によって打倒される。ポンペイウスはもはや東方に拠点を移さざるを得なかった。やがて前48年冬、カエサルの率いる軍団もアドリア海を渡る。軍勢にまさるポンペイウス軍は簡単な相手ではなかった。苦戦を強いられながら、その年の夏、最後の決戦はギリシア北部のファルサロスの野になる。
ポンペイウス軍の歩兵5万、騎兵700、これに対して、カエサル軍の歩兵2万2000、騎兵1000。2倍以上の軍勢を敵にまわしておきながら、カエサルは戦略にまさった。特に騎兵に対して槍を投げずに敵の顔を狙って突き上げる作戦はめざましい効果をおさめる。若さと美貌が売り物の馬上の貴公子たちは顔を狙われてはたまらんとばかり逃げ出してしまった。戦いの大勢は決まる。カエサル軍の大勝利だった。敗走したポンペイウスはかつて恩をかけたことのあるエジプトのプトレマイオス朝に保護を求めて逃れる。しかし、ローマの内乱にまきこまれるのを忌避して、エジプト王は上陸するとすぐにポンペイウスを殺させた。
クレオパトラは絨毯にくるまって廷臣の目を欺し、アレクサンドリアの王宮にいたカエサルの前に現れた。もともと女に甘いカエサルはすっかりその虜となり、アレクサンドリアの市民を相手に戦う始末となった。この時の様子は、プルタルコスの『対比列伝』には次のように書かれている。
「そこでクレオパトラは、腹心のなかからシシリーの人アポロドロスのひとりだけを伴って小舟に乗り込んで、あたりが暗くなったころ王宮に舟をつけた。しかも、他に人目を忍ぶ手立てもなかったので、寝具袋にもぐりこんでその身を長くのばし、アポロドロスがその袋を革紐でしばって、戸口からカエサルのもとに運び入れた。カエサルがこの女性の虜になってしまったのは、蠱惑【こわく】的な姿であらわれるというクレオパトラのこのまず第一の術策のためであったといわれている。」
カエサルはクレオパトラの後見人として実権を握り、また愛人として宮廷生活を送る。二人の間にはカエサリオンも生まれた(カエサルの実子ではないという説もある)。カエサルのアレクサンドリアでのクレオパトラとの生活は9ヶ月に及んだ。彼はいつまでも続けたいと思ったであろうが、その留守中のローマでは従軍の報酬をまだ受けとっていない兵士の不満が強まり、カエサルへの非難が高まっていた。また各地のポンペイウス派の残党の動きが再び強くなっていた。さすがにカエサルはローマへの帰還の声に応えて出発しなければならなくなった。
前47年6月、嘆き悲しむクレオパトラをあとに、カエサルは小アジアのポントス王などを討ってローマにもどり、さらに北アフリカのポンペイウス派の残党を打ち破って、翌年ローマで凱旋式を挙行、そのとき約束通り、クレオパトラをローマに呼んだ。しかし、正妻のカルプルニアがいるのでティベル川の河畔に屋敷を与えて住まわせた。
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カエサルの正式名はガイウス・ユリウス・カエサル。ローマ市民の正式名は個人名・氏族名・家族名の3つを順に用いるので、カエサルは日本風に言えば、ユリウス氏族のカエサル家のガイウス君、ということになる。カエサルはエジプトの太陽暦をもとにユリウス暦を定めたが、腹心のアントニウスに提案させて、自分の生まれた月に自分の氏族名Juliusの名をあてはめさせた。だから、英語で7月は July となった。
でも、カエサルは女たらしでありながら、バイセクシャルのいかがわしい噂は絶えなかった。ある演説の中で、「あらゆる女の男であり、あらゆる男の女よ」と揶揄されている。それに借金するのもうまかったらしい。限りなく俗っぽいのだが、物事を成し遂げる決断力と行動力は限りなく卓越していた。
その孫娘と結婚したのは、どうも財産目当てだったようで、その財産を買収や陰謀に使った。ところが、ポンペイアは浮気性で、クロディウスという青年と密通、それが発覚したのでカエサルは38歳の時、ポンペイアを離婚した。なんと、カエサルはこのクロディウスを腹心の部下としてしまった。いかにカエサルが人心をつかむ能力に優れていたかがわかる。
カエサルは当初、ごくありふれた公職経歴を踏襲していたが、30歳頃から平民派支持の姿勢を鮮明に出すようになる。カエサルは弁舌にも優れており、彼の堂々とした話しぶりは多くの人々を引きつけ、大神祇官、法務官を歴任し、そののち属州ヒスパニアで戦果をあげて、前60年ローマに帰還した。閥族派の嫌がらせにあって、利害を一にするポンペイウス、クラッススと協調の密約を結ぶことになる。第1回三頭政治の始まりである。両人の後押しで、カエサルは前59年のコンスルに就任した。
ローマの年号は慣例でコンスル両名の名前で表す。しかし、この年は「ユリウスとカエサルがコンスルの年」と言って、ローマ人はふざけたらしい。同僚コンスルのビブルスはあまりにも格が違いすぎ、不吉なお告げなどを持ち出してへまばっかりしていた。挙げ句の果てに自宅に閉じこもってしまった。だから、すべてをカエサルが取り仕切ったというから、この年をカエサルの氏族名と家族名で記して面白がっていたのである。

カエサルの娘ユリアがポンペイウスに嫁ぎ、両者の絆は深まる。コンスルの任期終了にともない、5年間にわたるコンスル代行の指揮権を獲得した。カエサルの腹心の部下クロディウスは護民官に就任し、ローマ市民を訴訟手続きなしで死刑にした者は追放されるべしという法案を通過させる。それまで野心家クロディウスはキケロに裁判で苦杯をなめさせられていた。そこで好機到来とばかり、カティリーナ一味の裁判でのキケロの主張を逆手にとったのである。キケロは1年間の亡命生活を余儀なくされる。
その後の征服戦争の模様は自著『ガリア戦記』をひもとけばいい。彼のラテン語は簡潔にして要を得ているばかりか、虚飾や情念のまじらない名文の模範と言われる。キケロすら何ら手を加える余地はないと絶賛するほどだった。
当時ガリアの地に住むのはケルト人であり、まだローマの勢力は及んでいなかった。最初の3年間は、不穏な動きをみせるヘルウェティイ族やライン川を越えて侵攻するゲルマン人を撃退する戦いだった。それらの中でも勇猛なベルガエ族を打ち破ったことで、カエサルの名声は高まる。さらに、戦利品の収益がカエサルの財源をうるおし、それをローマ政界にばらまきながら勢力地盤を掌握していった。
同時に勢いづくカエサルへの対抗の動きも目立ってくる。その基板となる三頭政治の同盟関係をぶち壊そうと懸命になっていたのが、復権したキケロであった。カエサルはそうした危険な匂いをすぐに嗅ぎつけ、数日のうちにポンペイウスとクラッススに会見している。前55年、ポンペイウスとクラッススは再び一緒にコンスル職に就き、その後5年間の指揮権をも獲得する。カエサルもまた5年の指揮権を延長され、ここに三頭政治は更新されることになった。
しかし、その関係が決裂する日は着実に近づいていた。
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