なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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ヘンリ6世のこの病は、おそらく母方の祖父で、その死の前の30年間にわたって断続的に精神錯乱を起こしたシャルル6世から遺伝していたと考えられる。
シェークスピアの『ヘンリ4世』には、臨終の床に王冠を置いて眠っているヘンリ4世のところへ、王子ヘンリ(5世)が忍んできて、王がもう死んだものと思い、その王冠を持ち去る場面がある。目を覚ました王は王冠のないことに気づき、王子を呼んで叱りつける。
「お前は待ちかねておるのか、まだその時は来ないのに……俺がこの王冠を得るまでには、いろいろ横道へも入り、曲がった間道をも通った。…俺のとしてはそれが暴力で奪った栄誉のように見えた…この王冠を手に入れた手続きをば、神よ、赦させられませ…」というのである。
つまり、ランカスター家には王位簒奪者の意識があった。
ばら戦争の名称は、2つの王家の紋章であるヨーク家の白ばら、ランカスター家の赤ばらに由来する。もっとも、ランカスター家の赤ばらの使用は戦争最末期であり、この名称は19世紀の小説家ウォルター=スコットの『ガイアスタインのアン』降に広く用いられるようになった。世界史上最も美しい名前の戦争だが、最も見難い戦争である。
その後、一進一退の内戦を繰り広げ、1460年にはヨーク家リチャードが戦死する。その子エドワードは、有力貴族ウォーリク伯の支援を得て逆襲し、61年にロンドンに入り、貴族たちに推戴されて王位につきヨーク朝が成立、エドワード4世となった。敗れたヘンリ6世とマーガレットはスコットランドに逃れた。
前国王である夫のヘンリ6世をスコットランドにおいて、フランスに渡ったマーガレットはルイ11世に支援を要請、またエドワード4世と仲違いしたウォーリク伯を味方にして、1470年にイングランドに上陸、虚をつかれたエドワードはブルゴーニュ公シャルルを頼ってネーデルラントに逃れた。
マーガレットはヘンリ6世を復位させたが、1471年3月エドワードがルイ11世と対立していたブルゴーニュ公の援軍を得て戻ってくると、国内の貴族とロンドン市民の支持を受けてヘンリ6世を再び捕らえ、ロンドン塔に幽閉した。
1483年、エドワード4世が死に長子エドワード5世が12歳で王位を継承したが、その前に立ちはだかったのが叔父の護国卿グロスター公リチャードである。せむしでびっこの凄まじい権力欲の持ち主であったリチャードは、エドワード5世と弟のリチャードをロンドン塔に幽閉し、王位を簒奪した。それがリチャード3世で、シェークスピアの『リチャード3世』の主人公として、暴君として描かれている。
ロンドン塔に幽閉された後のエドワード5世と弟リチャードの消息は、現在に至るまで判明していない。 1483年の夏ごろまではロンドン塔の庭で遊ぶ兄弟の姿が見られたが、次第にその姿を見ることは少なくなり、1484年の春には兄弟は既に殺されたという噂が市内に広く囁かれるようになったと『ロンドン年代記』(1512年頃)にある。
当時は2人の兄弟を殺害したのはリチャード3世と考えられていたが、現在の研究ではヘンリ7世が2人の運命に深く関わったとする説も有力である。事の真相ははっきりしないが、リチャード3世だけでなく、ヘンリ7世にとっても2人の兄弟は邪魔な存在であったことだけは確かである。
リチャード3世の王位簒奪と残虐な行いに反発した貴族は、ランカスター家の縁者でブルターニュに亡命していたテューダー家のヘンリが1485年にイングランドに上陸すると、一斉にそれを支持した。
ヘンリはウェールズの軍勢などを兵力として、8月にボズワースの戦いでリチャード3世を破り、ヘンリ7世として王位について、新たにテューダー朝を開いた。
ヘンリ7世は翌年、ヨーク家のエリザベスと正式に結婚し、ここにばら戦争は終わりを告げた。
二人の結婚により2つのばらはめでたく合併したが、両陣営に分かれて乱世を泳いでいた大貴族たちは自滅の道をたどり、世は絶対主義へと進んでいったのである。
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フランスではシャルル6世(狂気王)が脳神経疾患が昂じ、その弟オルレアン公ルイと従兄弟のブルゴーニュ公ジャンが権力を競い合った。1407年、ブルゴーニュ公がルイを暗殺したため、「ブルゴーニュ派」(東部・北部が基盤)と「オルレアン・アルマニャック派」(西部・南部が基盤)の内乱となった。
ブルゴーニュ派はイギリスと結び、シャルル6世を担いでその娘カトリーヌとヘンリ5世と結婚させ、シャルル6世の死後はヘンリ5世がフランス王に就くことが約束された。
ところが、1422年8月31日ヘンリ5世は赤痢で死亡してしまう。わずか34歳だった。そして、シャルル6世も10月21日、ヘンリ5世の後を追うように病死した。その結果、ヘンリ6世が生後9カ月でイングランド王、その2カ月後にはフランス王位も継ぐことになった。
一方、シャルル6世の息子シャルルもアルマニャック派の支持のもとでシャルル7世としてフランス王位を継承することを宣言したが、ブルゴーニュ派はこれを否認し、シャルル7世は正式にフランス王として即位することができなかった。彼はアルマニャック派以外からは相変わらず王太子、あるいは侮蔑的に「ブールジュの王」と呼ばれた。
シャルル7世は母イザボーや重臣までが敗北を見越してイギリス側に内通し、宮廷内は分裂、1428年には最後の城オルレアンも包囲され、事態は絶望的となった。オルレアン市民とアルマニャック派貴族は必死に抵抗を続け、都市を死守する。しかしイングランド軍の攻撃も、またそれ故に一段と激しい。イギリス側の軍勢は数千、フランス側はほぼ1000、ここからしても陥落はもはや時間の問題のようにも思われた。
しかし、奇蹟、現在の私たちにの眼からはまさに奇蹟としか表現できない事態が突如として現れた。史上にその名も高いジャンヌ=ダルクの登場である。
羊飼い娘ジャンヌは1412年頃のある年の1月6日、東部のシャンパーヌ地方とロレーヌ地方の境にあたるドンレミの農家に生まれた。13歳頃のある日曜日のこと、教会の鐘が鳴りやむ頃に、彼女は天使たちの麗しい合唱が響き渡るのを聞いた。そしてそれとともに聖カトリーヌと聖マルグリートを従えた大天使ミカエルの姿が彼女の頭上に現れた。ミカエルは彼女に告げた、「フランスへ行け」、「オルレアンの町を救うべし」と。
神の声は、その後もまますす激しく彼女をせき立てた。1429年、こうして彼女は神のお告げをかたく信じて立ち上がる。王太子シャルルの許可を得、将軍たちとともに兵を従えた彼女は、破竹の勢いで軍を進め、イングランド・ブルゴーニュ同盟軍に致命傷を与えた。
1429年5月8日、ジャンヌ=ダルクの到着後9日間で、7カ月間に及んだオルレアンの囲みはついに解かれた。それは、宗教的信仰と侵入者を打破しようとする熱情に支えられたジャンヌにより、そして彼女の率いるたった200人の軍勢の加勢により、成し遂げられたものであった。東西に流れるロアール川を挟んで、北フランスと南フランスとに分かれていたイングランド勢力を合体しようとしたイギリス側の野望と機会は、ここに永久に消滅した。情勢はまさにこの時から一変したのである。
彼女はさらにランスへと進撃を続けた。ここは代々フランス国王が戴冠式を挙行する由緒ある都市である。1429年7月17日、王太子シャルルの戴冠の儀は、ランス大司教の手により、荘厳なうちにも感動的に執り行われた。まことの国王シャルル7世は、こうしてジャンヌ=ダルクによりフランスに与えられたのである。
しかし、彼女には大きな悲劇が待ちかまえていた。1430年、彼女は不運にもコンピエーニュでブルゴーニュ派に捕らえられてしまう。
当時は敵の手に落ちた捕虜の身内が身代金を支払って、身柄の引き渡しを要求するのが普通だった。ジャンヌの身代金は1万エキュ。シャルル7世は身柄引き渡しに介入せず、彼女を見殺しにした。シャルル7世はジャンヌによって王冠を与えられたにも拘わらす、冷酷にも「小娘一人の命ですめば安いものだ」とうそぶいていたという。母国フランスから見捨てられたも同然だったジャンヌは、幾度か脱走を試みているが失敗。結局はイングランドが身代金を払って、彼女の身柄を引き取った。
1431年1月9日、パリ大学神学部の要求により、ルーアンでジャンヌの異端審問裁判が開始された。当時異端の罪で死刑となるのは、異端を悔い改め改悛したあとに再び異端の罪を犯した時だけだった。
ジャンヌは改悛の誓願を立てた時に、それまでの男装をやめることにも同意していた。女装に戻ったジャンヌだったが、数日後に「大きなイギリス人男性が独房に押し入り、力ずくで乱暴しようとした」と法廷関係者に訴えた。このような性的暴行から身を守るためと、ドレスが盗まれてほかに着る服がなかったために、ジャンヌは再び男物の衣服を着るようになった。
1431年に行われた異端審問の再審理で、ジャンヌが女装をするという誓いを破って男装に戻ったことが異端にあたると宣告され、異端の罪を再び犯したとして死刑判決を受けた。
1431年5月30日、ジャンヌの火刑が執行された。場所はルーアンのヴィエ=・マルシェ広場で、高い柱に縛りつけられたジャンヌは、立会人の2人の修道士に、自分の前に十字架を掲げて欲しいと頼んだ。一人のイングランド兵士も、ジャンヌの服の前に置かれていた小さな十字架を立てて、ジャンヌに見えるようにした。
「邪宗、異端、背教者、偶像崇拝者」などと書かれた紙帽子をかぶせられ、処刑台にのぼったジャンヌは、火焔が身体を包むほどになっても、最後まで自分のしたことが神の命令によるものであったことを叫び続けていた。そして大天使ミカエル、聖カトリーヌ、聖マルグリートの名を呼び、「イエス!」の一言とともに、哀れなこの19歳の処女はそのドラマチックな一生を花と散らせたのであった。
そして火刑に処せられて息絶えたジャンヌが実は生き延びたと誰にも言わせないために、処刑執行者たちが薪の燃えさしを取り除いて、黒焦げになったジャンヌの遺体を人々の前に晒した。さらにジャンヌの遺体が遺物となって人々の手に入らないように、再び火がつけられて灰になるまで燃やされた。灰になったジャンヌの遺体は、処刑執行者たちによってセーヌ川へ流された。
ジャンヌ=ダルクの顔だちがどんなであったかは、残念ながらはっきりしない。しかし、体つきは大柄で健康的であり、心は天使のように優しくて繊細であった。戦闘中に1本の矢が彼女の肩に刺さった時、血が流れ滴るのを見て彼女は泣いたという。痛ましくも輝かしい数々の事跡やその他彼女をめぐる多くの事柄は、今もなお謎であり、神秘のヴェールに包まれている。
ジャンヌの痛ましい悲劇を眼のあたりにして、フランスはようやく無気力から立ち上がった。彼女を裁いて死に至らしめたブルゴーニュ派の人々も、自分たちの同盟者が言語や風俗、習慣の違った「外国人」であることをやっと意識するようになった。党派を超えたフランス人としての国民感情が、祖国愛が、ジャンヌの死をきっかけとして、人々の胸にしっかりと抱かれ始めたのだった。アルマニャック派とブルゴーニュ派は、こうして1435年のアラス条約でついに和解する。
翌年、パリは心からフランス国王シャルル7世を迎え入れ、「フランス国民」は一致団結して、ノルマンディー地方から、またギエンヌ地方からイギリス人を追い払った。そして、わずかにカレーだけを残して、1453年ついに百年戦争は終結を告げたのである。
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百年戦争は1337年から1453年までフランスを戦場に、イングランドとフランスの間で断続的に行われた。戦争が長期にわたった原因は,イングランド王がフランス国内に領土を有し、フランスの王位継承権を争ったことにある。イングランドのウィリアム1世によるノルマン=コンクェスト以来,イングランド王が同時にフランス王の封臣として大陸に封土を有したことにより、以前から両国はこの問題で確執を繰返していた。さらに中世最大の毛織物生産地であるフランドルをめぐる両国の対立、またワインの特産地で当時イングランド領であったギエンヌ地方の領有問題がからんでいた。
カペー家のフランス王シャルル4世が嗣子を残さず没すると、イングランド王エドワード3世はその母がフランスのカペー家の出身であることを理由に王位を要求、フランスの貴族はエドワードの王位請求を退け、シャルルの従兄バロア伯をフィリップ6世として王位につけ、これにより両者の間に対立が生じた。戦争は両国の国内問題ともからみ合って、戦争と和平とをたびたび繰返しつつ継続した。
面白いのは、イングランド王の紋章や国王旗であるにもかかわらず、その優位の位置(左上)にまずフランス王の紋章を置き、劣位の位置にイングランドの紋章を置くという組合せになっていることである。その意味は「われはまずフランス王であり、次いでイングランド王である」ということだ。紋章や旗だけでなく、国王の正式称号もまずフランス王であり、次いでイングランド王の順になっていた。さすがにヘンリ4世の1395年からは、まずイングランド王の称号をとなえるようになった。歴代国王はフランス王の紋章を、ジョージ3世の1801年まで、実に461年間手放さなかった。
1338年、エドワード3世が軍を率いて大陸に上陸、1339年に百年戦争の火蓋が切って落とされた。イングランド軍はなかなか戦果をあげられなかったが、1840年6月イングランド海軍がゼーラント(現オランダ)のスロイス(フランス語ではエクリューズ)港を奇襲し、フランス海軍は全滅。ドーバー海峡の制海権を制したインランド軍は雪崩のようにフランスに攻め込んでいった。
右手のイングランド軍が持っているのが長弓(ロングボウ)、左手のフランス軍が手にしているのがクロスボウで、中国では弩【ど】よ呼ばれていたものである。機械仕掛けの弓で、射程、威力、命中精度に勝っていたが、1分間に1、2発程度しか発射できない。これに対し、ロングボウは1分間に6 ~ 10発の発射が可能であり、速射性能で大きく勝り、両者の差は明白で、クロスボウ部隊は散々に打ち負かされた。
東京上野の西洋美術館の庭には、フランス政府の好意によって日本に返還されたロダンの名彫刻「カレーの市民」が飾られている。それは身にぼろを纏い、無帽に裸足という哀れな姿で、首には太い縄をかけられ、手に鍵束をたずさえた6人の男の群像である。この人たちはこれからエドワード3世の陣営に、カレー市降伏の人質として送られるところである。
イングランド軍によるカレーの包囲は1346年9月に始まり、11カ月にわたって続いた。市民の老若男女は死力を尽くしたが、フランス王の援軍は姿を見せず、敵中突破の脱出にも失敗した。飢餓と絶望にさいなまれた末、カレーがついに開城を申し出た。長期の頑強な抵抗に激怒していたエドワード3世は市民の皆殺しを要求した。
しかし、交渉に当たったウィリアム=マーニーなどの忠告により、市民を助ける代わりに主要な6人の市民が代表として、無帽、裸足で首に処刑のためのロープをまいて出頭するよう命じた。これを受けて、ユスターシュ=サンピエールを始めとした6人の市民が勇敢に名乗りを上げ、指示された通りの装いで城門の鍵を持って王の元に現れた。王は彼らの処刑を命じたが、王妃フィリッパの涙ながらの取り成しにより、彼らの命を助けた。フィリッパは彼らを丁重にもてなしカレーに帰らせたという。
以降、カレーは百年戦争を通じて重要なイングランドの拠点であり続け、百年戦争後も1558年までイングランド領だった。
クレシーの戦いでは16歳ながら一部隊を率いて白兵戦を経験し、以後もカレー包囲戦やウィンチェルシーの海戦などに参加し、いずれも勝利を収めている。
ポワティエの戦いは、イングランド王軍が明らかに劣勢だったが、フランス王軍はクレシーの戦いと同じ轍を踏み、またも大敗北を喫した。この敗戦でジャン2世はイングランド王軍の捕虜となり、ロンドンに連行された。ジャン2世の身代金は200万エキュと定められたが、当人は自らの価値はもっと高いと不服を述べて、倍の400万エキュとなった。
1348~49年の黒死病の流行は農民の動向を不穏にした。フランスでは敗戦とからまったジャックリーの乱が1358年に起こったこともあり、1360年にブレティニーの和約が結ばれ、百年戦争の第一段階が終わった。
ブレティニーの和約の結果、幾人かの王族が代わりに人質になることで、ジャン2世は解放されてフランスに戻ったが、資金集めは難航した。このため人質の拘留は延長されたが、人質達は自由な行動が許されていたため、1363年に人質の1人でジャン2世の次男アンジュー公ルイ1世がフランスに逃げ戻った。
ジャン2世は騎士道精神にあふれ、善良、お人良しと評された人物で、これを聞いて驚きと怒りを示し、自らの誓いと名誉を守るために、1364年にイングランドに戻った。ジャン2世はイングランドで騎士道精神に富んだ名誉を守る人物として称賛、歓迎され、その年に捕囚のまま亡くなった。
ヘンリ2世は、母から引き継いだイングランドとフランスのノルマンディーに加え、父からフランスのアンジュー伯領を相続、さらにフランスのアキテーヌ地方(ギエンヌ)の有力諸侯アキテーヌ伯の娘エリアノール(フランス王ルイ7世と離婚した)と結婚し、アキテーヌ(ギエンヌ)地方を所有することとなった。つまりイギリス王ヘンリ2世はイングランドからフランスのピレネー山脈に至る、英仏海峡をまたぐ広大な領土を支配した(これをアンジュー帝国ともいう)。
また、ノルマン朝のイギリス王と同じく、イギリス王としてはフランス王と同等であるが、同時にフランス国内の領主としてはフランス王の家臣であるという二重の関係を持った。1156年にはイングランド王ヘンリ2世は、アンジュー伯・ノルマンディー公・アキテーヌ公アンリとして、フランス国王ルイ7世に対して、封建的主従関係にあることをあらわす「臣従礼」を行っている。しかし、当時フランス王のカペー朝の直轄領はパリの周辺だけに限られており、ヘンリ2世のフランス内の領地の方が圧倒的に多いのが実態であった。
またヘンリ2世はイングランド王と言いながら、実際にはフランスのアンジュー伯領で暮らすことの方が多く、在位35年のうち、イギリスで暮らしたのはわずか13年であった。ヘンリ2世が王妃エリアノールとの間にもうけた子がリチャード1世とジョン王などであったが、彼らにもフランス内の領地が継承されていく。
父王ヘンリ2世は王妃アリエノールと不仲になり、幼少期に母親からの愛情を受けることが少なかった末子のジョンを最も愛した。1169年、ヘンリ2世はフランス王ルイ7世との協約で、大陸の所領をジョン以外の3人の息子に分割した。当時まだ2歳にもならなかったジョンはその分与から除外され、父ヘンリ2世はジョンに「領地の無いやつ」(John the Lackland)とあだ名をつけ憐れんだ。日本語ではこれを「欠地王」と訳す。領地を大幅に失ったため、「失地王」との日本語表記もあるが、Lacklandの訳語としては正しくない。

ジョンは兄であるリチャード1世が戦いに明け暮れ、長くイングランドを留守にしたため、イングランド王の勢力を削ごうとするフランス王フィリップ2世にそそのかされて王位簒奪を夢見ていた。本来なら王位につく可能性は少なかったが、リャード1世が戦死してから状況が一変する。
リチャードは即位当初、弟ジョフロワの遺児アーサーを王太子になぞらえていた。しかしその後、アーサーはフィリップ2世に臣従してフランスの宮廷で育ち、さらにリチャードの臨終時にはまだ12歳であったため、リチャードは最終的に遺言でジョンを後継者に指名した。前王の重臣ヒューバート=ウォルターをはじめとする、フィリップ2世の干渉を憂慮したイングランド国内の諸侯もアーサーを排除し、結局ジョンがイングランド王位を継承した。
1202年、フランス国王フィリップ2世は、ジョン王のフランス内の所領を奪おうと、彼を結婚問題にかこつけて裁判にかけ、出廷を拒むジョン王から臣下の義務違反の理由で所領を取り上げようとした。ジョン王の結婚問題とは、世継ぎの産まれない前妻を離婚し、アングレーム伯爵家のイザベラ(8歳ぐらいだったという)を強引に妻にした事に対し、イザベラの婚約者がフィリップ2世に訴えことをいう。フィリップ2世は、イングランド王としてジョンの甥アーサーを立てようとしたが、ジョンはアーサーを殺害して王位の保全を図った。
1203年、フィリップ2世はジョンがイングランドに行っている間にフランス軍をノルマンディー、アンジューなどに侵攻させた。それらの現地の領主層の中にはフランス王に忠誠を誓っていたものも多かったので、ジョン王に従っていた城は次々と陥落し、結局ジョンの封地はロワール川以南だけとなった。
1205年、カンタベリー大司教ヒューバート=ウォルターが亡くなると、修道士達が選んだ候補とイングランド王と司教が推薦した候補とが共にローマへ行き、カンタベリー大司教の座を争ったが、教皇権の強化を狙っていたローマ教皇インノケンティウス3世は両者とも認めず、代わりに枢機卿のラングトンを任命した。ジョンはこれを認めず、これを支持する司教たちを追放して教会領を没収したため、1207年にインノケンティウス3世はイングランドを聖務停止とし、1209年にジョンを破門した。
ジョンはこれを無視し、逆に没収した教会領の収入で軍備増強を図ったが、1213年になるとインノケンティウス3世はさらにフランス王のイングランド侵攻を支持し、これに呼応して諸侯の反乱が計画されたため、ジョンはイングランド及びアイルランドを教皇に寄進し教皇の封臣となり、聖ペテロ祭費とは別に年額1000マルクを支払う事を約することにより、破門を解かれた。
教皇と和平が結ばれると、ジョンは再び領土回復を計画し、戦費調達のため封建貴族および都市や国民に対する苛斂誅求がまた激しくなった。1214年、フランスに侵攻したジョンは、ブーヴィーヌの戦いに惨敗を喫して帰国した。しかるに本国では、封建貴族は反国王勢力を結集して、ジョンと一戦を交えるべく彼を待ち受けていたのである。
1215年1月、封建貴族(バロン)の代表はロンドンのラニミードの野で彼らの要求を突きつけた。同年7月15日、ジョンは彼らの要求に屈服し、「バロンの条項」に署名し、貴族の特権を承認した。
保身のため「バロンの条項」への合意を余儀なくされたジョンだが、すぐに不服をローマ教皇に訴えて、イノケンティウス3世に無効破棄を宣言してもらうなど反撃に転じ、再び圧政と恣意的重税を行うようになった。これに憤慨した諸侯たちが再び蜂起して、またもジョンとの間で内乱となり、諸侯がフランス王太子ルイに援軍を求めて招聘したことで第1次バロン戦争が勃発。ジョンは一旦ロンドンから撤退してルイの軍隊と戦いを繰り広げたが、そのさ中に赤痢に罹って1216年10月19日に病没した。
ウィリアム征服王から現在のエリザベス2世にいたる41人のイギリス歴代国王のなかで、ジョンは常に「ワースト1位」の存在である。ジョンが亡くなった直後に聖職者が記した年代記に「無能で、嘘つきで、戦に弱く、卑劣で、かんしゃく持ち」と書かれており、『ロビンフッド』では「悪役」として描かれている。そのためか、イギリス国王で、ジョンを名乗る国王は二度と現れなかった。
この「バロンの条項」を基礎にして作成されたのが大憲章(マグナ=カルタ)である。この大憲章は総数63カ条からなる膨大なものであるが、その大部分は封建貴族、すなわちバロンの封建的特権に関するものであった。
例えばバロンおよび騎士の封土相続料の額が定められ、従軍免除金・国王財政割当援助金は恣ほしいままに彼らに賦課されてはならぬとし、また封土を与えられたことから生ずる当然の義務以上の、過重な奉仕を国王から強制されないと定めて、軍費調達あるいは徴兵のために、ジョンが王権を濫用することを防止せんとするするがごときであり、特に勝利なきフランス遠征を忌避したのであった。また、全ての自由人は同身分のものによる裁判および法律によるのでなければ、みだりに逮捕・監禁・追放されないと定め、ジョンが不当に取り立てたすべての罰金は宥恕されるべきであるとして、ジョンの裁判権濫用を防止せんとしている。
注意すべきことは、彼ら封建貴族たちが、国王の権力から独立しようとする意図を見せていないことであり、まして彼らは王権を否定しようとするものでもない。むしろ王権の濫用を防止するということは、彼らの利益を守るのと同時に、国王もまた法に従うという原則を確立することによって、イギリス王制の在り方を示唆したのである。この点において大憲章は、イギリス議会主義発展史上の最も重要な、かつ最初の文献であるということができる。
イギリスは立憲主義の国家であるが、単一の憲法典としては成典化されていない。大憲章は権利請願、権利章典などとともに、イギリス憲法を構成する主要な成文法となっている。
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しかし、この事態はまもなくキリスト教社会に混乱と腐敗を生み、しだいにローマへの帰還が望まれるようになる。1377年教皇グレゴリウス11世のとき、ローマ帰還は果たされるが、それはより大きな危機の始まりでもあった。
ところが翌年、教皇グレゴリウス11世が病没、久しぶりにローマで次の教皇を選出する枢機卿会議が開催された。そこではローマの貴族出身の枢機卿とフランス人枢機卿が激しく対立、なかなか決まらないでいると、業を煮やしたローマ市民がローマ教皇庁に乱入、命の危険を感じたフランス人枢機卿たちは逃げだし、残った枢機卿たちがイタリア人でナポリ出身の大司教をウルバヌス6世として選出した。
ところが、このウルバヌス6世は厳格な性格で怒りっぽく、戒律を守らない枢機卿たちを激しく叱責したため、この人選を後悔した。フランス人の枢機卿たちはアナーニに集まり、ウルバヌス6世の選出は外部の圧力に屈した結果であり、結果は無効であると声明を出し、改めて選挙をやり直した。その結果、クレメンス7世が選出された。ウルバヌス6世は当然それを認めず、ローマで教皇として居座ったので、クレメンスはフランス人枢機卿と共にフランスのアヴィニヨンに戻ってしまった。
両教皇はそれぞれ自らの正統を主張し、相互に相手を破門し、ここに西ヨーロッパのキリスト教会は二派に分かれ、教会大分裂(大シスマ)が始まった。
この分裂は教会の威信をはなはだしく失墜させるものであったため、これを統一しようとの機運が起こり、1409年にピサで開かれた公会議では、両教皇の廃位を宣言して新たにアレクサンデル5世を選出したが、両教皇ともこれを認めず、3教皇が鼎立するにいたって事態はますます混乱した。
ウィクリフはオックスフォード大学で神学・哲学を学び、同大学の神学教授となった。彼は教皇が権力争いによって教会大分裂し、教会や修道院の聖職者も豪奢な生活を送っていることに疑問を感じ、教会とはローマ教皇を頂点とした組織のことではなく、救済を約束された人々の集まりそのものであると主張、信仰の唯一の源泉は神の言葉である聖書にあるとし、聖書によらない一切のカトリックの施設・機関・制度を排除し、否定しようとした。
すなわち彼は聖餐のパンと葡萄酒とがキリストの血と肉であること、および聖体にキリストが存在することを否定し、ミサの儀式は福音書に記されていないとして退け、教皇およびローマ教会は、それぞれ最高の指導者・最高の教会ではないと主張した。また教会が財産を所有することは聖書に背くものであり、修道士は悪魔の仲間であると罵っているが、これは教会および修道院の俗化を非難するものである。
また彼は4福音書を英訳し、伝道者を各地に送って布教に努めた。ウィクリフの影響を受けた信者をロラード派(ロラードとはおしゃべりの意味)といわれ、彼等は貧しい身なりで熱心に農村で説教を行った。ワット=タイラーの乱の時の説教僧ジョン=ボールもそのような一人だった。ワット=タイラーの乱が起きるとウィクリフは直接関係はなかったが1381年にオックスフォード大学を辞任した。
ローマ教会は彼を異端として弾劾していたが、生前に裁判にかけられることはなく、1384年に死去した。彼の思想は大陸にも伝えられ、当時神聖ローマ帝国の領邦の一つであったベーメン(ボヘミア、現在のチェコ)のプラハ大学ではその支持派と反対派が対立し、支持派のフスがさらに教会批判を展開した。フスの主張は、教会とはその霊魂の救済が予定された者のみによって成立し、教皇の権威はローマ皇帝のそれから生まれた邪悪なもので、教会に服従せよというカトリックの説は人為的に捏造されたものであり、両者はいずれも聖書の権威によるものではない、というものであった。
ジギスムントは神聖ローマ皇帝即位前のハンガリー王であったとき、オスマン帝国のバルカン半島への侵出を阻止するために、ヨーロッパのキリスト教諸侯に十字軍の再編を呼びかけ、ドイツやフランスの諸侯の参加を得て、オスマン帝国領に侵攻し、1396年にニコポリスの戦いでバヤジット1世と戦っている。しかし、オスマン帝国の組織的集団戦に対して十字軍の騎士戦法が通じず、敗北を喫した。ジギスムント自身も捕虜になりかけたが辛くも脱出し、ドナウ川から黒海に逃れ、エーゲ海、アドリア海を通ってハンガリーに逃げ帰った。
会議は1414年から1418年にわたり45回に及んだが、本来の会議は、長年にわたる教皇座の分裂を調停によって和解させ、解決しようとするものであった。1414年には3教皇が出席を求められ、その他の高位聖職者たちも多数出席し、ドイツ・フランス両国王をはじめとして多数のドイツ諸侯および各国王の使節も参集して、キリスト教世界の一大会議の観があった。まず大分裂の解消では、順次3教皇が退位し、1417年マルティヌス5世が唯一のローマ教皇となり、教会の統一に成功した。また教皇権よりも公会議の決定が優先することも決められた。
会議に召還されたフスは自説を主張する機会と考えてそれに応じたが、審問では一切の弁明も許されず、一方的に危険な異端の扇動者であると断じられ、翌1415年7月6日、火刑に処せられた。
フスは武装した男たちによって火刑の柱に連れて行かれた。処刑の場でも彼はひざまずき、両腕を広げ、声高に祈った。フスの告解を聞いて許しを与えよという人もいたが、司祭は、異端者の告解は聞かないし許しも与えない、と頑固に断った。死刑執行人はフスの衣類を脱がし、両手を後ろ手に縛り、首を柱に結び付け、彼の首の高さまで薪とわらを積み上げた。最後になって、ジギスムントの家臣フォン=パッペンハイム伯は、フスに主張を撤回して命乞いするように勧めた。 しかしフスは「私が、間違った証言者に告発されたような教えを説いていないことは、神が知っておられる。私が書き、教え、広めた神の言葉の真実とともに、私は喜んで死のう」と述べて断った。
火がつけられると、フスは声を高めて「神よ、そなた生ける神の御子よ、我に慈悲を」と唱えた。これを3回唱え「処女マリアの子よ」と続けた時、風が炎をフスの顔に吹き上げた。そして、フスを悪魔とみなす敬虔な老婆がさらに薪をくべると、“O, Sancta simplicitas”(おぉ、神聖なる単純よ)と叫んだ。彼はなおも口と頭を動かしていたが、やがて息を引き取った。フスの衣類も火にくべられ、遺灰は集められて、近くのライン川に捨てられた。
すでに死んでいたウィクリフの遺体は掘り出され、改めて火刑に処せられ、遺灰はテムズ川に捨てられた。
教会はフスを火刑にした後、さらにプラハ市を破門、プラハ大学を弾圧した。フスの説を支持したプラハ市民はそれに反発して修道院を襲撃、1419年からドイツ皇帝ジギスムントの派遣したドイツ軍との戦争となった。ジギスムントはフス派に対して「十字軍」と称して鎮圧にあたったが、チェック人の農民が広汎に戦争に参加し、民族の自立を目指して戦ったので鎮圧に失敗。しかしフス派内部にも穏健派と急進派(タボル派)の対立があり、最終的にはジギスムントは穏健派と結んで過激派を制圧して、1436年に和平を実現した。教会はフス派の主張の一部を認め、フス派はジギスムントをベーメン王として承認することで妥協が成立した。
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