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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドートルコ人の父・ムスタファ=ケマル

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ムスタファ=ケマル

 ムスタファ=ケマルは1881年に現在はギリシア領となっているサロニカ(テッサロニキ)に生まれた。ムスタファは「選ばれし者」の意味で両親の命名、ケマルは「完全な」の意味で、幼年兵学校の教官が与えたもの。ムスタファ=ケマルで名を表しており、当時のトルコ人に姓はない。1934年に彼自身が創姓法を制定することになる。

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青年トルコ革命でミドハト憲法の復活を祝うリトグラフ

 1905年、ケマルは陸軍士官学校・陸軍大学を卒業して軍隊に入ったが、ちょうどその年に日露戦争で日本が勝利した。それに刺激されたケマルは、1907年にオスマン帝国の改革運動である「統一と進歩委員会」(青年トルコ)に加入したが、その中心人物エンヴェル=パシャとは生涯友好的ではなかった。

 軍人として活躍を続け、トリポリでのイタリア=トルコ戦争、数度にわたるバルカン戦争に従軍した。

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ガリポリの戦い

 青年トルコ政権のもとでオスマン帝国が第一次世界大戦に参戦し、ドイツ・オーストリアの同盟国側の一員として戦うことになると、ケマルは前線に出て戦い、1915年4月のガリポリの戦いではイギリス軍とANZAC(オーストラリア・ニュージーランド連合軍)の上陸を阻止し、名声を上げた。

 この時、ケマルは兵士に対し、「自分は諸君に対し攻撃は命じぬ。死を命じる!」といって兵士を鼓舞したと言う。

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メフメト6世

 その後、西アジア戦線でイギリスに支援されたアラブ軍との戦闘に専念した。しかし、大戦の形勢は次第に不利となり、1918年10月、スルタンのメフメト6世は連合軍に降伏、イスタンブルはイギリス、フランス、イタリア、ギリシアの連合軍に占領され、エンヴェル=パシャなどは国外に逃亡し青年トルコ政権は崩壊した。

 一方、シリアのアレッポでは、ケマルの率いるオスマン帝国軍は連合軍に対する降伏を拒否して抵抗を続けた。

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サカリャ川の戦い

 講和に反対してイスタンブルを追放になっていたケマルは1919年にトルコに戻り、抵抗運動を組織した。まずアナトリアのムスリム農民を国民軍に組織し、ついでいくつかの準備会議を経て、1920年4月にアンカラにトルコ大国民議会を招集(アンカラ政府)し、トルコ革命が開始された。

 大国民議会のもとにアンカラ政府と国民軍が組織されたが、この段階ではまだイスタンブルにオスマン帝国のスルタン政府と帝国議会は存在しており、イスタンブル側はただちにアンカラ政権を否認、ケマルの行動を国家に対する反逆として死刑を宣告し、「カリフ軍」を組織して派遣し、トルコ人同士が内戦で戦うこととなった。

 一方、イギリスのロイド=ジョージ首相の支持を受けたギリシア軍が、1919年5月アナトリア西部のイズミル地方に侵入し、ギリシア=トルコ戦争が始まっていたが、ケマルは1921年8月、サカリャ川の戦いでギリシア軍を大破して、国民軍最高司令官としてガージーの称号を得た。
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凱旋したケマル

それに対してイスタンブルのオスマン帝国政府は、1920年8月に連合国との間で講和条約としてセーヴル条約を締結、それは帝国の領土を小アジア西部に限り、他の地域をイギリス、フランス、イタリアによって分割するという、トルコ人国家の消滅に近い屈辱的な条約だったので、ケマルの率いるアンカラ政府軍は、セーヴル条約破棄を掲げて、オスマン政府軍との戦いをさらに展開した。

 1922年11月、オスマン政府軍を圧倒し、実力によって国権の最高機関となったトルコ大国民議会は、スルタン制の廃止を決定、最後のスルタン・メフメト6世はマルタに亡命した。これによって36代、600年近く続いたオスマン帝国の滅亡は正式に決まった。ただし宗教的権威としてのカリフの存在は認められ、アブデュルメジト2世を新カリフとして選出した。

 権力を掌握したアンカラ政府は、セーヴル条約を破棄すべくイギリス、フランス、イタリアと交渉し、1923年7月に新たな講和条約としてローザンヌ条約を締結することに成功した。

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トルコ共和国の成立を宣言するケマル

 1923年10月29日、トルコ大国民議会はトルコ共和国の樹立を宣言し、ケマルを初代大統領に選出した。

 共和国政府は精力的に法整備、統治機構の改廃を進めた。その際、ケマルが最も心を砕いたことは、イスラーム国家としての性格をなくし「世俗化」を実現することであった。その決意のもとで次々と改革が実行される。

 「世俗化」の象徴がカリフ制廃止だった。さすがにカリフ制の廃止に対しては国内だけでなく、世界のイスラーム圏でカリフを擁護するヒラーファト運動が沸き起こったが、ケマルの決断は揺るがず、1924年3月3日、トルコ大国民議会は圧倒的多数でカリフ制度の廃止を決定した。

ダウンード 
アブデュルメジト2世

 最後のカリフ、アブデュルメジト2世は国外追放となった(オリエント急行でスイスに向かった)。最終的には1926年には最初のトルコ共和国憲法に含まれていたイスラーム教を国教とする条項が削除され、トルコ共和国はイスラーム圏で最初の世俗的な国家となった。

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ローマ字を教えるケマル

 ケマルが実施した近代化政策には太陽暦の採用(イスラーム暦の廃止)・一夫一婦制の採用・女性参政権の実施・トルコ帽やチャドルの廃止など多岐にわたる。

 また、トルコ語を国語として制定、文字はアラビア語を廃止してローマ字をもとに新たに制定し、みずから先頭にたってローマ字を国民に教えた。

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アタチュルク廟

  1934年には創姓法が施行されて、西欧諸国にならって国民全員が姓を持つよう義務付けられた。「父なるトルコ人」を意味するアタテュルクは、この時にムスタファ=ケマルに対して大国民議会から贈られた姓である。

 1938年11月10日、イスタンブル滞在中、執務室のあったドルマバフチェ宮殿でアタチュルクは死亡した。死因は肝硬変と診断され、激務と過度の飲酒が原因とされている。彼は生前、医者に「肝硬変はラクのためではない」と診断書を書かせようとしたが、純エタノールにして毎晩500ミリリットルは呑んでいたと言われ、明らかに死因の一部である。

 ちなみに、ラクはトルコの蒸留酒のことで、アルコール濃度は50%とかなり強い酒だ。アタチュルクはイスラームの教えを守って禁酒していれば、肝硬変で死ぬことはなかった。世俗化が裏目に出たわけだ。

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アヤソフィア

 トルコ共和国政府は1935年2月1日、アヤソフィアを世俗的な博物館とすることを決定し、以来多くの外国人観光客を魅了してきた。

ダウンド 
エルドアン大統領

 ところが、イスラーム回帰を進めるエルドアン大統領は2019年3月、アヤソフィアをモスクへ戻す方針を宣言し、トルコ政府は2020年5月29日、アヤソフィアを会場にコンスタンティノープル征服567周年記念式典を開いた。ここでイスラム教の聖典『コーラン』を朗読し、ギリシャ共和国政府は「世界中のキリスト教徒への侮辱」と抗議した。

 ありがたいことに、「モスク化」後も外国人観光客も礼拝以外の時間帯は観覧できる。それも無料で。しかし、無料化によりトルコ政府は年間60億円の入場料収入を失うことになった。

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【 2021/05/25 05:06 】

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世界史のミラクルワールドー誇り高きターバン集団・シク教

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『KESARI/ケサリ 21人の勇者たち』より
 
 シク教はインドでヒンドゥー教を改革したナーナクがはじめた宗教。ナーナクはイスラーム教の影響を受けてヒンドゥー教の改革を掲げ、一神教信仰、偶像崇拝の否定、カーストの否認などを説いた。

 シク教はパンジャーブ地方では大きな政治勢力となり、ムガル帝国に抵抗し、さらにイギリスの侵略ともシク戦争を戦った。2019年公開のインド映画『KESARI/ケサリ 21人の勇者たち』は、イギリス統治下にアフガニスタンから攻めてきた1万人にのぼる軍と戦い、サラガリ砦で殉職した21人のシク教徒兵士を主人公とする物語だ。

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ナーナク

 ナーナクは1469年4月15日に現在のパキスタンのタルワンディーという小さな農村のヒンドゥー教徒の家庭に生まれた。家は上位カーストに属し、父はイスラーム教徒の地主の会計官を務めていた。ナーナクは8歳で村の学校に入れられたが、わずか10歳で形式的な教育に興味を失って学校を捨て「聖なるもの」を瞑想することに集中した。

 そのようなナーナクには奇跡を起こしたという伝承が数多く残されている。たとえば、ある日牛に牧草を食べさせながら瞑想にふけるうちに、牛が隣人の麦畑に入り、麦を食べてしまった。怒った隣人が村長に訴えたので皆で見に行ったところ、麦はすべて元通りになっていた。人々は驚き、神の奇跡だと認めた。

 またある夏の日、ナーナクは木の下で寝込んでしまい、太陽が真上で照らすまでになった。ナーナクがそれでも眠っていると、インドでもっとも恐ろしい毒蛇であるコブラが穴からはい出してきて鎌首をいっぱいにひろげ、ナーナクの顔を太陽の光から守ったのである。これを見た人が村の人たちに伝え、ナーナクは聖者と見られるようになった。

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  ナーナク自身はあるとき川に沐浴にゆき、形態がなく一切の事物を超越した「絶対真理」を体得し、その真理を人々に伝えることを天職とせよ、という声を聞く。かれは「ヒンドゥー教徒もイスラーム教徒もいない」人類すべてが分かち合える「唯一なる真理」のメッセージを人々に送るため、妻と2人の子をおいて旅に出て、それ以後25年間、インド中だけでなく、イラクからサウジアラビアまでを経巡り、イスラーム教の聖地メッカも訪れた。彼は他の宗教を否定するのではなくそれを超えた真理に従順になり、慈悲の心を持つことが大切であると説いた。彼の自由で、普遍的なメッセージに心酔した人々は、ナーナクをグル(師)とし、そのシーク(弟子)となったことから、シク教という宗教名が生まれた。

 ナーナクは晩年はパンジャーブに帰り、ラヴィ川の右岸で定住し、一つの村を起こして信者の共同体を作った。そこに集まった人々は誓願を立てたわけでもなく、僧や尼僧のような修行をしたわけでもなかった。シク教には僧院はなく、彼らの共同体は日常の職業に従事しながら互いに助け合う場所であった。その共同体生活のなかから、シク教では「平等・友愛・謙遜」という価値観が形成され、社会奉仕が重要な宗教的要素として発展していく。

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ハリマンディル・サーヒブ(黄金寺院)

 シク教の総本山はアムリットサールにあるハリマンディル・サーヒブで、日本では黄金寺院と呼んでいる。ここでは毎日10万食におよぶ食事が無料提供されている。この共同食道は「グルカ・ラングル」と呼ばれ、シク教の「カースト、肌の色、信条、年齢、性別、社会的地位に関係なく、すべての人は平等である」という教義を守るために500年間続けられている習わしだ。

 シク教は「人間が子宮の中にいるうちは、カーストなどありはしない」と教える。地位や性別、年齢に関係なく、ともに料理をし、同じ床に座って食べ、後片付けをする。誰もが公平に働き、おなかを満たし、幸せな気分になる。それ自体が「聖なること」なのだ。

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  シク教は既存教団や国家からは厳しい宗教的迫害を受けた。グルのなかには第5代のグル=アルジュンがムガル帝国のジャハンギール帝によって、第9代のテーグ=バハードゥルがアウラングゼーブ帝によってそれぞれ処刑された。特に17世紀にアウラングゼーブ帝のイスラーム教強制政策が始まると、シク教徒は自己防衛のために武装を開始した。1699年に第10代のグル=ゴービンド=シングは信者を一種の戦闘集団であるカールサー(清浄なる者たちの意味)を組織し、その構成員たちにシク教徒以外の者との違いを明確にするために5つのシンボルを与えた。

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 この5つのシンボルは頭文字がKで始まるので「5つのK」として知られ、現在でもシク教徒が守らなければならないこととされている。

 ①Kesh(ケーシュ):髪を切らず長く伸ばさなければならない。髪も髭も伸ばしたままにする。伸ばした髪は神が意図する姿の受容に対するシンボルである。

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 だから、髪の毛は写真のようにとんでもない長さになってしまうので、ターバンをしていないと纏まらないため、ターバンを着用するようになった。

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 ターバンは写真のように着用する。シク教徒の人口は2400万人で、インドの全人口の約2%しかいない少数派にも関わらず、日本ではインド人=ターバンというイメージが定着している。その理由は、シク教成立時から裕福で教養があり教育水準の高い層の帰依者が多かったことから、世界的に活躍するシク教徒が多いため、職務等で海外に渡航したインド人にターバンを巻いたシク教徒を多く見かけたからだと言われている。

 ②Kangha(カンガー):身を整えるために木製の櫛を携行する。櫛は人々の身体と魂を清浄に保つシンボルである。

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 ③Kara(カラー):右腕に鋼鉄製の腕輪をつける。力強さと揺るぎない結束を象徴する。

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 ④Kachera(カッチャー):ゆったりした半ズボン状のズボン下を着用する。これは高潔な人生を歩み、レイプもしくはその他の性的搾取をやめることを人に思い出させる下着である。

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 ⑤kirpan(キルバーン):自分自身を防衛するとともに、宗教、人種、信条によらず他人を保護し、不正に対する闘争を象徴する剣を常に携行する。

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マンモハン=シン

 著名なシク教徒として、前インド首相のマンモハン=シン(任2004~14年)がいる。総選挙で勝利したインド国民会議総裁はソニア=ガンディーであったが、イタリア生まれであったことから首相就任を固辞したしたため、シンがインド独立以来初めてのヒンドゥー教徒以外の首相となった。

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タイガー=ジェット=シン

 もう一人、「狂える虎」と呼ばれた悪役プロレスラーのタイガー=ジェット=シンがいる。リング上でサーベルを振りかざす姿で一世を風靡した。

 二人とも「シン」という名前だが、実はシク教徒の男性はすべて「シン」(正しい発音はシング)という名字を持つ。「シン」は「獅子のような心を持った」という意味である。

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【 2019/11/20 05:38 】

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世界史のミラクルワールドー因果は巡る・ムガル帝国③

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ジャハンギール

 1605年に即位したジャハンギールであったが、1610年頃から病気の発作を起こすようになり、ムガル帝国の国政は宰相イティマード=ウッダウラや皇帝の妃ヌール=ジャハーン、その弟アーサフ=ハーンに握られていった。

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ヌール=ジャハーン

 1612年、宰相イティマード=ウッダウラが死ぬと、ヌール=ジャハーンが事実上の皇帝のように振舞うようになり、その専横が目立った。ジャハンギールは彼女を重用し、皇帝の勅令には彼女の名も記され、その名を刻んだ硬貨を鋳造させた。このように帝国の国政は乱れ、ジャハンギールの長男フスロー、次男のパルヴィーズ、3男のフッラム、4男のシャフリヤールの間で、帝位継承をめぐる争いが発生した。

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シャー=ジャハーン

 兄と弟を殺害し、熾烈な皇位継承争いを勝ち抜いたのが3男のフッラムで、1628年シャー=ジャハーンと名乗ってアグラで即位した。シャー=ジャハーンとは「世界の皇帝」の意味である。

 シャー=ジャハーンはイランのサファヴィー朝からカンダハルを一時奪回し、デカン高原にも版図を広げたが、これは一面で晩年の財政難を引き起こした。内政では灌漑事業を進め、官吏の綱紀を正し、財政を豊かにし、学者・文化人を保護して文化の発展に寄与するなど盛時を迎えたが、ヒンドゥー寺院を破壊し、イスラーム・ヒンドゥー両教徒相互の結婚を禁止するなど、イスラーム化を強行した。

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ムムターズ=マハル

 ムムターズ=マハルは宮廷の大富豪アーサフ=ハーンの娘で、本名はアルジュマンド=バーヌー=ベーグという。ムムターズ=マハルとはペルシア語で「愛でられし王宮の光彩」「宮廷の選ばれし者」を意味する言葉であり、ジャハンギールから授けられた称号である。

 ムムターズ=マハルは17歳でシャー=ジャハーンに嫁いだ。夫に深く愛され、14人の子女をもうけ、1630年に第14子を生んだあと 産褥死してしまう。まだ36歳の若さであった。

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タージ=マハル

 シャー=ジャハーンはその死を大いに悲しみ、彼女の廟として建立したのがタージ=マハルである。 基壇の大きさは95m四方、本体は57m四方で、高さ67m、四隅のミナレットの高さは43m。それらすべての外壁が象嵌彫刻の施された白大理石で覆われている。1632年から22年の歳月をかけ、延べ2万人の職人によって造営されたと言われる。
 
晩年のシャージャハーン 
晩年のシャー=ジャハーン

 ムムターズ=マハルの死後、シャー=ジャハーンは側室を増やし、多数の家臣の妻と関係を持つようになった。シャー=ジャハーンは、20年以上にわたりこのような生活を続けたため、1657年に重病となった。そして、その病状に回復の見込みがないとわかると、その4人の息子の間が帝位をめぐり激しく争うこととなった。

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アウラングゼーブ

 シャー=ジャハーンは長男ダーラー=シコーを後継者としていたが、次男のベンガル太守シャー=シュジャー、3男のデカン太守アウラングゼーブ、4男のグジャラート太守ムラード=バフシュはこれを認めていなかった。

 1657年、父のシャー=ジャハーンが重病との報せが入ったとき、アウラングゼーブはデカン太守として都を離れていた。後継者争いは熾烈で、他の3人の兄弟の誰かがこのままでは皇帝になる。急遽都に戻ったアウラングゼーブは、ただちに父を監禁し、他の兄弟を殺して第6代の皇帝になった。父シャー=ジャハーンと同じ道を辿ったことになる。
 
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アグラ城から見たタージ=マハル

 廃帝シャー・ジャハーンは、1658年以降アグラ城のムサンマン=ブルジュ(囚われの塔)に幽閉され、亡き愛妃の眠るタージ=マハルを眺めながら、1666年に74歳で死去した。

 シャー=ジャハーンは自らの墓として「黒いタージ」を計画していた。鏡に映したかのように、ちょうどタージ=マハルのヤムナー河対岸に黒大理石で自らの廟墓を建て、その二つを大理石の橋でつなぐ予定であった。しかし、その夢は幻に終わってしまった。

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 シャー=ジャハーンの遺体は慣習に従い、王宮の壁が破られたのち、その破れ目から川の船に移された。そして、その遺体は川を渡って愛妃の眠るタージ=マハルに運ばれ、ムムターズ=マハルの遺体の横に安置された。(写真はレプリカ。本当の棺は地下に安置されている。)

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 アウラングゼーブは、熱心なスンナ派イスラーム信徒であったので、ムガル帝国のアクバル以来の方針を転換し、ヒンドゥー教徒との融和策を放棄、ジズヤの復活、ヒンドゥー寺院のモスクへの建て替えなどを強行した。(ヒンドゥー教だけではなく、イスラーム教以外の宗教、仏教やジャイナ教も否定され、寺院が破壊されたり仏像が壊されたりした。)その強硬姿勢は非ムスリムの激しい反発を買い、デカンのマラーター王国、パンジャーブのシク教などの勢力が一斉に反旗を翻した。

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シヴァージー

 マラーターの英雄といわれたのが、シヴァージーで、ゲリラ戦法によってムガル帝国に抵抗した。アウラングゼーブはマラーター王国討伐に全力を挙げ、自らもデカンに出兵した。シヴァージーは一旦捕らえられたが脱出し、マラーター勢力を結集してムガル帝国にあたるためヒンドゥー帝国の建設をめざし、1674年にマラーター王国をデカン高原西部に建国した。シヴァージーはムガル帝国との間で果敢な戦いを展開したが、1680年に赤痢が原因で死亡し、以後マラーター王国は急速に力を失っていった。

 1707年、デカン遠征の途中、アウラングゼーブは89歳で没した。その死後は、ムガル帝国の求心力は急速に失われ、イギリス・フランスの植民地侵略が始まる。


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【 2019/11/17 05:48 】

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世界史のミラクルワールドー偉大なる皇帝アクバル・ムガル帝国②

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アクバル

 ムガル帝国第3代皇帝アクバルは初代皇帝バーブルの孫にあたるが、父フマユーンが一時帝位を追われて亡命中に生まれた。1556年、父フマーユーンの急死を受けて即位した時は、まだ14歳たらずだった。その頃、その支配領域はパンジャーブの一部に限られ、カーブルやデリー、アグラには独立した勢力が存在していた。

殺害されるバイラム=ハーン 
殺害されるバイラム=ハーン

 アクバルを助けたのがバーブル以来の家臣バイラム=ハーンであり、その計略によってデリーとアグラが奪回できた。その結果バイラム=ハーンの専横が目立つようになり、1560年後宮勢力に後押しされたアクバルの宮廷革命が成功し、バイラム=ハーンは追放された。バイラム=ハーンはメッカ巡礼のためアラビア半島をめざすが、彼に個人的な恨みを持つアフガン人によって殺害された。

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処刑されるアドハム=ハーン

 その後も乳母の一族アドハム=ハーンがアクバルの宮廷で宰相を殺害する事件が起きたが、アクバルは激怒してアドハム=ハーンをヴェランダから突き落とす刑に処した。こうして権臣や後宮の勢力を徐々に抑えたアクバルは次第に権力を掌中に収めた。

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ビハーリー=マルと面会するアクバル

 1562年1月、19歳のアクバルはラージャスタンのアジメールにある聖廟に参拝途上で、帝を待ちかまえていたアンベールの王ビハーリー=マルから臣従の誓いを受け、長女ハルカー=バーイーを嫁がせる申し出を受けた。アクバルはこれを受け容れ、参拝の帰途2月始めに結婚式が行われた。アンベールの王はラージャスタンのラージプートでムガル皇帝に臣従した最初の王となった。

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マリヤム・ウッザマーニー

 王女ハルカー=バーイーはイスラーム教のムガル帝国に嫁いだが、ヒンドゥー教から改宗することはなかった。とはいえ、彼女はムスリム風の「マリヤム=ウッザマーニー」(時代のマリヤ)の称号を名乗り、次の皇帝ジャハーンギールの母となった。また、その兄マーン=スィングはアクバルに仕え、他のラージプート諸侯征服戦の先頭に立って活躍し、アクバル帝の宮廷の「九つの宝石」の一つと言われた。

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アグラ城

 1565年、アクバルはアグラに遷都し、アグラ城を築いた。アグラ城は赤砂岩で築かれた城壁の色から「赤い城」(ラール=キラー)の名でも呼ばれている。イスラーム教とヒンドゥー教との融和を図ったアクバルらしく、アグラ城はイスラーム様式とヒンドゥー様式が融合した建築となっている。

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 1564年アクバルは人頭税(ジズヤ)を廃止するなど、ヒンドゥー教徒との融和を図る一方、1576年までにはベンガル王国を征服して北インドをほぼ平定した。1580年には中央アジア系の貴族の反乱を、ムスリムとラージプート豪族層を結集して平定し、強大な国家を築き上げ、さらに晩年には北部デカンも支配下においた。

 さらに1582年にはイスラーム教にキリスト教・ゾロアスター教などを取り入れた新宗教ディーネ=イラーヒー(神聖宗教)を宣言し、インドの統一的統治権を実現しようとした。文化にも深い理解を持ち、帝国に繁栄をもたらした英明な君主として、マウリヤ朝のアショーカ王と並び称される。まさにアラビア語で「偉大」を意味するアクバルの名にふさわしい、偉大なる帝王であった。


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ジャハンギール

 しかし、3人の男子のうち2人に先立たれ、長男サリームとは敵対するなど、家庭的には恵まれなかった。臨終に際してようやくサリームと和解、1605年10月27日に帝位を譲った。サリームは第5代皇帝ジャハンギールとして即位するが、「ジャハーンギール」は、ペルシャ語で「世界を征服する者」を意味する。

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アクバル廟

 アクバルの遺骸はアグラ近郊のシカンドラーに運ばれて葬られ、その地にアクバル廟が建設された。しかし写真で見ると、フマーユーン廟やタージ=マハルのような壮大なものではない。

 1687年、第6代皇帝アウラングゼーブのヒンドゥー抑圧政策とムガル帝国の地方官の収奪に抗して立ち上がったラージャルームの率いるジャート農民によって略奪され、アクバル帝の遺骨は焼き捨てられたのだという。ヒンドゥー教徒との融和をはかったアクバル帝にとってはひ孫のやったことでとんだとばっちりをうけたことになる。

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【 2019/11/13 05:38 】

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世界史のミラクルワールドーモンゴルの虎バーブル・ムガル帝国①

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バーブル

 バーブルはティムールの5代の孫であり、中央アジアのフェルガナの君主の子として生まれた。母親はモンゴル帝国のチンギス=ハーンの次男チャガタイ=ハーンの子孫であった。つまり、バーブルは「内陸アジアが産んだ2人の世界征服者、ティムールとチンギス=ハーン両者の血を引く、誇り高き王子であった」ことになる。

 民族としてはモンゴルの血筋を引くトルコ系民族であり、トルコ語を話し、ペルシア語・アラビア語にも通じていた。彼が創始した国家も、ティムール帝国の後継国家であると同時に、インドでは「モンゴル人の国」の意味で「ムガル帝国」と言われた。ちなみに、バーブルとは「虎」のことである。

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 バーブルは11歳の時、父が事故死したためフェルガナの君主となり、一族間の争いの中で生き残って、ウズベク人のシャイバニによってティムール帝国が滅亡すると、その再興をめざしてサマルカンドを2度にわたって奪還した。しかし、シャイバニ朝と抗争は激しく、1504年、21歳の時にサマルカンドを追われて南のアフガニスタンのカーブルに移り、そこに小王国を築いた。その後、カーブルを拠点にしばしば肥沃な地をねらって北インドに侵入し、勢力を扶植した。

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パーニーパットの戦い

 1526年、43歳になっていたバーブルは、パーニーパットの戦いでデリー=スルタン朝の最後の王朝ロディー朝の王イブラーヒームの軍を破り、デリーに入城しムガル帝国を建国し、初代統治者となった。パーニーパットの戦いでは騎兵に加えて鉄砲隊を編成して、勝利を得た。さらに1527年、ヒンドゥー教徒のラージプート連合軍をハーワヌの戦いで破り、支配権を広げた。

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カーブルの霊廟

  バーブルは1530年、47歳の時アグラで死去した。その遺体はデリーやアグラではなく、かつての根拠地カーブルに埋葬された。バーブルによって創始された段階のムガル帝国の支配領域は現在のアフガニスタンの東部カーブルと、北インドのデリー、アグラ周辺に限られ、またその統治も5年という短期で終わった。

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アクバルとフマユーン

 1530年、バーブルの跡を継いでフマユーンがデリーで即位した。ムガル帝国の支配力はまだ弱く、特にベンガル・ビハール地方のアフガン勢力が強大な敵対勢力であった。1539年と40年の戦いでフマーユーンは敗れ、デリーを放棄してシンド地方に逃れた。デリーにはアフガン系のスール朝が成立し、シェール=シャーがスルタンを称した。

 フマーユーンはシンドからイランに逃れ、サファヴィー朝のスルタンからシーア派の教義を受け入れることを条件に亡命を許された。1545年にシェール=シャーが暴発事故で急死し、スール朝が混乱した隙に、サファヴィー朝の軍事的支援を受けたフマーユーンはインド奪回に向かい、1555年にデリーを奪還した。こうしてインドでスール朝は滅び、ムガル朝が復活した。

 しかしその翌年、フマーユーンは礼拝の時を知らせるアザーンの声を聞いて、急いでモスクに向かおうとして、階段を踏み外して落ち、あっけなく死去してしまった。息子のアクバルが即位したが、まだ14歳の若さであり、ムガル帝国は滅亡の危機を迎えることとなった。

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サイ狩りの様子(『バーブル=ナーマ』の挿絵)

 バーブルは優れた軍事指導者であったが、母語であるチャガタイ=トルコ語の他に、ペルシア語・アラビア語に深い教養を持っていた。彼がチャガタイ=トルコ語で書いた日記風の回想録『バーブル=ナーマ』は、重要な資料であるとともに、トルコ語文学の傑作ともされている。『バーブル=ナーマ』とは「バーブルの書」の意味。

『バーブル=ナーマ』は日録風の自叙伝であるが、人間バーブルの日常生活や感情、その時々の心情が吐露されており、文学書としても優れている。また戦いでの敵の捕虜に対する残虐な仕打ちなど、時代の制約を受けた権力者の生々しい行為が淡々と記されており、興味深い。

 飲酒について次のような記述がある。

 少年時代には飲みたいとは思わなかった。酒の陶酔境をなお知らず、私の父がときどき私に酒を勧めたときにも、なんやかやといい訳をいって飲酒の禁を犯さなかった。……のちに、青年のいっぱん的にもつ強い欲望と、私の個人的にもつ欲求から酒を飲みたいという気持ちが強くなったときも、私にはだれ一人として酒を勧めてくれる者がいなかった。というより、私の心のなかにある酒に対する欲望を知っている者は一人もいなかった。私の心は酒を求めていたが、このような、従来してこなかったことを自分自身で始めることは難しかった。

 このようなモヤモヤした飲酒の欲望は、やがてサマルカンドに続いてヘラートを占領したときに、バーブルに「飲酒の決意」をさせることになる。

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2019/11/10 05:35 】

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