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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドーオランダの奇跡・グロティウス

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グロティウス

 グロティウスはオランダ独立戦争最中の1583年4月10日、オランダのデルフトの名門の家に生まれた。本名はフーゴー=デ=フロートといった。たいへんな神童で、8歳の時に彼の弟が亡くなっているが、それを嘆き悲しむ父親を慰めるためにラテン語の詩を書き、市長である父親を喜ばせたという。

 11歳でライデン大学に入学。ギリシア語も学び、数学・哲学・法学の論文を書いて、14歳で大学を卒業。名前もラテン風にグロティウスと名乗った。

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アンリ4世

 15歳の時、オランダ使節団の随員としてフランス国王アンリ4世のもとに使いし、国王から「オランダの奇跡」と讃えられ、帰途オルレアンで法学博士の学位を受けた。16歳で弁護士となり、24歳で検察官、30歳でロッテルダム市の市長に選ばれて政治家としてキャリアを積んでいった。

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『海洋自由論』

 グロティウスが22歳の時から執筆したのが主著のひとつ「海洋自由論」である。きっかけは1603年に起きたマラッカ海峡でのオランダ船によるポルトガル商船の拿捕事件であった。この事件は1494年に締結されたトルデシリャス条約を根拠に世界を二分し、独占的な交易権を主張するスペイン・ポルトガルへの新興海運国オランダのあからさまな挑戦だった。

 ポルトガルはこれに抗議し「東インドでの航行・交易は自国の固有の権利」と主張。グロティウスは、オランダ東インド会社の依頼でこの主張に対する弁護書を執筆し、これに手を加えて1609年に刊行されたのが『海洋自由論』であった。

  その中で彼は「海洋には境界がない。ゆえに誰にも帰属せず、どの国も排他的な権利を主張できない」と明快に宣言した。オランダはこれを論拠に独占を主張するスペイン・ポルトガルに真っ向から対決し、さらにイギリスとも対立していくことになる。

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オラニエ公マウリッツ

 1619年、36歳の時にグロティウスは政争に巻き込まれて逮捕された。グロティウスの巻き込まれた政争とは実質はカルヴァン派内の宗教対立であった。オランダはカルヴァン派(ゴイセン)が優勢であったが、予定説を巡って厳格に解釈して一切を神の選択に委ねるという主流派(オラニエ派)と、緩やかに解釈して人間の自由意志を重視するアルミニウス派が対立するようになった。各州の議会の中心勢力である都市貴族層の中にはアルミニウス派の影響力が強く各州の自由を主張したが、主流派は厳格なカルヴァン主義で連邦の宗教を統制しようとした。

 主流派はオラニエ家第2代総督マウリッツと結んでついに1617年の連邦議会で教義の統一を図った。その結果はオランダ連邦7州の4対3で主流派が勝利を占めた。ホラント州はオルデンバルネフェルトを中心に連邦は信仰まで統制すべきでないと反対した。

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マリア

 グロティウスもそれに同調した。主流派はアルミニウス派を裁判にかけ、オルデンバルネフェルトは死刑となり、グロティウス終身刑に処されてローフェスタイン城に幽閉された。1621年、妻マリアの助けによって、書物を運ぶ木箱に身を潜めて脱獄に成功し、本1冊を胸に携え、一路パリへと亡命した。

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ルイ13世

 パリに到着したグロティウスに対しフランス王ルイ13世は年金を与え、その生活を賄った。グロティウスはフランスにおいて、彼自身の著作の中で最も有名となる哲学の作品集を完成させることとなったのである。

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『戦争と平和の法』

 パリで執筆活動に専念していたグロティウスが、1625年、42歳の時に著したのが主著『戦争と平和の法』である。三十年戦争の最中、その惨禍を見たグロティウスが、人類の平和の維持の方策を模索し、自然法の理念にもとづいた正義の法によって為政者や軍人を規制する必要があると考え、また国家間の紛争にも適用される国際法の必要を説いた。これは、後の国際法の成立に大きな影響を与え、『海洋自由論』の思想も合わせてグロティウスは「自然法・国際法の父」と言われている。

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グスタフ=アドルフ

 1634年、グロティウスはスウェーデンの申し出を受けて、翌1635年から駐仏スウェーデン大使となったが、グスタフ=アドルフの推薦によるものだった。グスタフ=アドルフは『戦争と平和の法』をつねに携行するほど、グロティウスに惚れ込んでいた。グスタフ=アドルフは三十年戦争の最中の1632年に亡くなり、その遺言によってスウェーデンに雇用されることになったのである。

 1645年、フランスとスウェーデンが相互に大使を召還したとき、グロティウスはいったんストックホルムに帰った。クリスチナ女王からスウェーデンに定住するように勧められたのを断り、その年の8月リューベックに向け出発したが、暴風のため遭難し、上陸後同地に向かう途中、ロストックで8月28日夜半に没した。62年の波瀾万丈の人生であった。



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【 2020/08/25 05:26 】

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世界史のミラクルワールドー革命に生きた新教詩人・ミルトン

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ミルトン

 ミルトンは1608年12月9日にロンドンでピューリタンの家に生まれた。父親は公証人兼金融業者であり、家は裕福であった。

 1625年、ミルトンはケンブリッジ大学のクライスト=カレッジに入学した。学生時代は、「キリストの淑女」「貴婦人」とあだ名され、女性と見紛われるほど、端麗な容姿・容貌であった。在学時から詩作にとりかかったが、本格的に活動を始めたのは大学卒業後である。父の援助で別荘を借り、6年間詩の創作に耽った。

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ガリレイを訪ねるミルトン

 1638年、母と死別したミルトンは、フランス・イタリアなどヨーロッパ諸国を1年かけて周り見聞を広めた。グロティウスやガリレイに会い、カルヴァン主義の都ジュネーヴも訪ね知識を拡げたが、その根幹には強いピューリタンとしての信仰があった。

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チャールズ1世

 この頃イングランドでは、国王チャールズ1世がスコットランドに国教会を強制したため反乱が勃発、1640年4月に11年ぶりに議会を召集して戦費捻出をはかったが失敗。11月には再度議会を召集したものの議会派から強い反発を受け、1642年ついに王党派との内戦が勃発した。

 このピューリタン革命は、ミルトンにも大きく影響を及ぼした。帰国後のミルトンは、国内の動揺を肌で感じ取り、しばらく詩作を中断、一人のピューリタン信仰者として論争を展開、宗教改革の必要をもとに、多くの散文を執筆してイングランド国教会への非難を主張した。

メアリ=パウエル 
メアリ=ポウエルとの出会い

 革命勃発の年、34歳のミルトンは17歳のメアリー=ポウエルと最初の結婚を果たした。4人(1男3女)の子宝にも恵まれたが、家庭を持つことになれず、翌年に夫婦は別居生活となってしまった。

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オリヴァー=クロムウェル

 このときミルトンは離婚の教義や人生の自由についての論文を執筆している。女性が不幸な結婚をしながら教会の離婚禁止の規則に縛られていることを批判し、『離婚論』を著して離婚の自由を主張した。国教会と長老派の多かった議会はこの書を焚書に指定したほどである。

 大きな批判を浴びたミルトンは、当時の王政を批判して革命を成し遂げようとし、王権削減を主張する独立派に加入した。独立派は、あのオリヴァー=クロムウェルが指導していたグループである。

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チャールズ1世の処刑

 議会派がネーズビーの戦いで国王軍を破り、チャールズ1世が処刑されイギリスに共和政がもたらされたが、国王処刑を非難する声も起こった。それに対してミルトンは『国王及び行政者たるものの条件』を書いて「政権を持つものが暴君の責任を追及して、正式な裁判後にこれを廃し、死刑に処すことは合法である」として国王死刑を弁護した。

 クロムウェルはミルトンを外国語秘書官に任命した。しかし、国王処刑に対する非難はくすぶり、チャールズの遺書という偽文書が出版さて彼を宗教上の殉教者に仕立て上げるような論調も出てきた。ミルトンはそれらに反駁する書を次々と発表し、その名声はヨーロッパ全体に広がったが、前から悪かった眼病が過労によってさらに進み、1652年頃にはついに失明してしまう。また同年には離別した妻メアリーと長男に先立たれた。

 こうした中、クロムウェルは長期議会を解散、終身の護国卿に就任した。権力をにぎったクロムウェルが次第に独裁的になると、ミルトンはクロムウェルに対しても批判的になった。1660年の王政復古後は「国王殺し」の一人として捕らえられ、処刑は免れたものの獄中生活を送った。

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『失楽園』を口述筆記するミルトン

 1663年、ミルトンは詩人としての活動を再始動した。盲目の身であるため、口述による詩作活動となったが、政界にいたよりも充実していた。三度目の結婚生活は成功し、彼の詩作は大作へと展開していった。こうして1667年、ミルトンの代表作であり、ピューリタン文学における不朽の傑作と謳われた一大叙事詩『失楽園』が誕生したのである。

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『失楽園』の挿絵

 『失楽園』はアダムとイヴが悪魔(サタン)の誘惑に負けて禁断の木の実を食べてしまい、楽園を追放されるという『旧約聖書』に題材をとった長編叙事詩で、荒野を彷徨う二人がやがて神の恩寵により、救いを見出すという壮大な構成になっている。このように『失楽園』はキリスト教の根本にある原罪をテーマとしているが、その行間に人間の現実社会や政治に対する幻滅や悲観、そして軽蔑の念が盛り込まれ、警告の書ともなっている。

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【 2020/08/21 05:27 】

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世界史のミラクルワールドー自分の娘と結婚!?・モリエール

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モリエール

 古典喜劇の完成者であるフランスの劇作家・俳優のモリエール。モリエールは家族の世間体をはばかって名乗った芸名で、本名はジャン=バチスト=ポクランといい、1622年1月15日にパリで生まれた。父親のジャン=ポクランは「王室付き」室内装飾業者で、ルイ13世に仕えており、家は豊かであった。

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ルイ=ル=グラン

 モリエールはイエズス会の名門コレージュ=ド=クレルモン(現在のルイ=ル=グラン)で古典語を学び、オルレアン大学で法律を学んで弁護士資格を得た。

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マドレーヌ=ベジャール

  父親の跡を継ぐつもりであったようだが、次第に心変わりし家業を継ぐことを断念し、演劇の世界で生きていく決意を固めた。女優マドレーヌ=ベジャールに出会い、恋に落ちたことが原因であったようだ。モリエールは書面で父親に世襲権を抛棄する旨を宣言し、その権利を弟の一人に譲渡したいと申し出た。そして母親の遺産の一部(630リーヴル)を劇団結成の費用に充てるために至急支払ってくれるよう要求した。商人として社会的地位を一歩一歩高めてきた父親は驚き、親戚共々翻意を迫ったが、モリエールの決意を翻す迄には至らなかった。

 1643年6月30日、マドレーヌを座長格、モリエールを副座長格として、「盛名劇団」を結成し、演劇への第一歩を踏み出した。劇団は客足を支えきれずに解散し、モリエールは同志とともに南フランス巡業の旅に出る。地方貴族の庇護を仰ぎつつ13年にわたってフランス中部・南西部を移動する間、劇団はしだいに実力を増し、リヨンに本拠を置く有力な地方劇団に成長した。モリエールはこの間劇団経営者として頭角を現し、同時にイタリア即興劇の系統を引く演技術・作劇法を身につけたものと推定される。

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オルレアン公フィリップ

 ルイ14世の弟であるオルレアン公フィリップの庇護を受けることに成功し、王弟殿下専属劇団との肩書を獲得し、1658年10月24日にはルイ14世の御前で演劇を行うことができた。

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プチ=ブルボン劇場の様子

 幸いなことに『恋する医者』はルイ14世から絶賛を浴び、大成功のうちに御前公演を終え、王室所有のプチ=ブルボン劇場の使用を許された。

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パレ=ロワイヤル

 翌1659年、笑劇仕立ての斬新な風刺劇『才女気取り』の成功により地歩を築き、ついでアルノルフという個性的な人物の創造によりこの期の頂点をなした『女房学校』によって名声を高めた。モリエールは「優れた劇詩人」の資格で国王より年金を賜り、この間一座はパレ=ロワイヤル劇場に移り、ここを終生の本拠とした。

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『女房学校』

 ルイ14世の寵愛を一身に集める彼への嫉妬から、『女房学校』の内容が背徳的として激しい非難・攻撃を浴びた。彼も反論したが、文学史・演劇史からみれば、彼の諸作品は従来フランスの古典悲劇の落とし子として軽くみられていた喜劇を正統な文学の地位まで引き揚げることになった。

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ルイ14世とモリエール

 1664年5月、ルイ14世は新宮殿ヴェルサイユに600人を超える貴族たちを集め、1週間にわたるフェスティバル「魔法の島の歓楽」なる祝祭を開催した。この祝祭はヴェルサイユ宮殿と庭園の素晴らしさを貴族たちに印象付けることで、国王の力を誇示する目的を有していた。モリエール劇団も国王の命令でこの祝祭に参加したが、この祝祭は彼らのための祭りであると言っても過言ではないほど大きな役割を果たした。

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『タルチュフ』

 この催しに『タルチュフ』(三幕)が参加している(ただし今日に残る五幕物『タルチュフ』のパレ=ロワイヤル劇場初演は1667年)。この作品は聖職者を気取る詐欺師の主人公を通じて、当時絶大な権力を握っていた教会側、とくにイエズス会系の結社「聖体秘蹟協会」に代表される聖職者の偽善を鋭くついたため、教会から激しく攻撃されて一時上演を禁止された。人間の自然をゆがめようとするものに注がれるモリエールの批判の目は、こうして教会勢力との対立を余儀なくされたのである。

アルマンド・ベジャール 
アルマンド=ベジャール

 1662年1月23日、40歳のモリエールは20歳のアルマンド=ベジャールと結婚した。モリエールの親友であったニコラ=ボアロー=デプレオーの証言に「モリエールは最初、マドレーヌ=ベジャールに恋をしたが、やがてその娘と結婚した」とあるように、同時代の人々はマドレーヌとアルマンドを親子として考えていた。この当時問題となっていたのは「父親は誰なのか?」という点のみである。

 もし仮に父親がモリエールであるならば、即ちそれは近親相姦の罪を犯しているということであり、現在でも罪となる近親相姦は、17世紀当時は「神と人に対する大逆罪」であり、火あぶりの刑になってもおかしくないほどのものであった。この点は当然、モリエールの敵対者たちに格好の材料を与えることになった。ルイ14世がモリエールの子供の名付け親となったことで、そのような疑いがないことは公式に示されたが、それでも攻撃はやまなかった。

 モリエールはこの若い妻アルマンドの浮気に生涯悩まされることになる。

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『病は気から』17世紀に描かれた挿絵

 1673年2月10日、モリエール最後の作品となる『病は気から』の初演が開始された。初日から興行成績は好調であったが、それとは対照的にモリエールの体調は取り返しのつかない状態にあった。すでに死期は近く、咳も日を追うごとに激しくなっていった。

 持病の胸部疾患をおして主人公を演じたモリエールは、公演の4日目、1673年2月17日、演技中咳の発作に襲われ、舞台を勤め上げるとそのまま倒れ、自宅に運ばれたが大量の喀血ののち息を引き取ったといわれる。51年の波瀾万丈の人生であった。

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【 2020/08/18 05:25 】

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世界史のミラクルワールドーインド版「関ヶ原の戦い」・プラッシーの戦い

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アリーヴァルディー=ハーン

 1700年、アウラングゼーブ帝に派遣されて、ムルシド=クリー=ハーンが財務大臣としてベンガルに着任した。その後昇進した彼は1717年に正式に太守(ナワーブ)に任命され、その後ほぼ四半世紀にわたってベンガルの行政を掌握し、その間にムガル帝国からの独立傾向を強めた。彼が死ぬとその養子が跡を継ぎ、その跡は養子の息子が次いだ。

 しかし、1740年アリーヴァルディー=ハーンが太守の位を簒奪してしまう。17世紀後半以降、イギリスとフランスはインド各地に拠点を築き、そのうちの一つであったベンガルでは、18世紀になるとそれぞれの拠点で睨み合っていた。
しかし、アリーヴァルディー=ハーンはイギリスとフランス、オランダといったヨーロッパ諸国の貿易活動により、ベンガルの経済が支えられていることを知っており、これらの貿易活動を認めていた。そのかわり、イギリス、フランスがヨーロッパでの紛争を持ち込まぬよう最大限努力し、また、外国人がベンガル国内における争いに介入して勢力を拡大しないよう、細心の注意も払っていた。

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シラージュ=ウッダウラ

 アリーヴァルディー=ハーンは1756年4月9日に死んだ。それから6月23日に起きたプラッシーの戦いまでの展開は速かった。いわば突風が吹きすぎるように事件が続き、プラッシーの戦いの破局に至るのである。

 アリーヴァルディー=ハーンには跡継ぎがいなかった。そこで彼は娘の子シラージュ=ウッダウラを後継者に指名した。シラージュ=ウッダウラは「国家の光」を意味する称号で、本名はマフムード=アリー=ハーンである。シラージュ=ウッダウラは20歳そこそこの若者だった。彼は何事もないかのように、無事太守の位についたが、その舞台裏では後継争いの陰謀が盛んにめぐらされていた。一方、イギリスとフランスは七年戦争が起こることを予測し、戦争の準備に余念がなかった。

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ミール=ジャファール(左)とその息子

 複雑な経緯があったが、イギリス東インド会社が到達した結論は、シラージュ=ウッダウラは親仏的であり、太守の座から引きずりおろすべきだということだった。他方では、ムルシダーバードの大銀行家ジャガト=セートなどのインド人有力者の間で、アリーヴァルディー=ハーンの義理の兄であるミール=ジャファールを太守に担ぎ出す陰謀が進行していた。

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クライブ

 東インド会社のクライブはミール=ジャファールと密約を結んだ。 クライヴは18歳で東インド会社に雇われた事務官であった。しかし、1751年、第2次カーナティック戦争戦争でイギリス軍が不利な情勢になったとき、志願して500の兵を率いる大尉として敵陣に突入して軍功をあげ、東インド会社軍の司令官となった。

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ミール=ジャファールとクライブ

 クライブは太守の座をミール=ジャファールに約束し、その返礼としてミール=ジャファールは、東インド会社がベンガルで持っている特権をすべて承認し、東インド会社幹部に巨額の金額を支払うことなどを約束したのである。実際、プラッシーの勝利の後、ミール=ジャファールは125万ポンドを越す金額を、東インド会社の社員や軍人「個人」に対して支払ったと推定されている。クライブ一人だけで、23万4000ポンドと、3万ポンドの給与地を受け取ったのだった。

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 プラッシーはカルカッタの北方の村で、現在はポラシという。この近くにベンガル太守の軍が野営していた。それに攻撃を仕掛けるために、クライブはカルカッタを出発した。

 1757年6月23日未明、両軍はプラッシーの野で対峙した。ベンガル太守軍は歩兵5万、騎兵1万8000、大砲40門にフランス兵50名が加わっていた。それに対し、イギリス軍は歩兵950、インド人傭兵(シパーヒー)2100、6ポンド砲8門。兵力では圧倒的にベンガル・フランス連合軍が有利であった。

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 しかし、このときに降ったモンスーンの大雨によって重砲機は火がつかず、しかも、ベンガル太守側の兵士は雨に対する備えがなく、雨にも訓練されていたイギリス軍に圧倒されてしまう。

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プラッシーの戦いでのイギリス軍

 午後になってベンガル太守軍は攻勢に出たが、そこに思いがけない罠が仕掛けられていた。クライブに買収された参謀長ミール=ジャーファルの指揮する主力は戦闘を傍観するだけで動かず、太守の軍のなかで戦ったのは親衛隊とフランス軍だけであった。太守軍が優勢になると、あろうことか参謀長は「明日の勝利を期して」退却を太守に進言した。太守が退却を決意して命令すると前線の兵士は混乱して戦意を失い、戦況は一転してイギリス軍が逆転し、戦いはあっけなく終わってしまう。

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戦闘後、ミール=ジャファールと面会するクライブ

 ようやく気づいた太守はラクダに乗って逃れたが、4日後に捕らえられて処刑された。小早川秀秋の役割を担ったミール=ジャーファルは戦後に新しい太守に任命されたが、カルカッタ周辺のザミンダーリー(地租徴収権)を譲らされ、さらに賠償金支払わされ、クライヴの傀儡にされてしまったことに気がつくことになる。

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皇帝から徴税権を与えられるクライブ
 
 1765年、イギリス東インド会社ははムガル帝国皇帝シャー=アーラム2世からにベンガル地方における徴税権(ディーワーニー)を獲得し、単なる貿易商社からインド植民地支配機関へと転換した。

 一方、クライヴは本国に帰ると英雄として迎えられ、男爵となった。ついでベンガル総督に任命され莫大な資財を蓄えることができた。1767年、病気のため職を辞してイギリスに帰ったが、帰国後はインドでの強引な振る舞いと巨額の資財を蓄えたことに非難がわき起こり、議会に喚問されることとなった。その結果無罪にはなったが財産は没収され、1774年、クライヴは世間の冷たい目と病苦のために、ナイフで自らの喉を切って生を断った。

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【 2020/08/15 05:24 】

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世界史のミラクルワールドー地図から消えた大国・ポーランド分割

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アウグスト2世

 北方戦争はポーランドの戦争でもあった。激しい戦争の舞台となったポーランドは飢餓と伝染病にみまわれ、孤独は荒廃した。それ以上に致命的であったのは、その政治的な結果である。ポーランドでは1572年にヤゲウォ朝が断絶してから選挙王制をとってきたが、この時から国王の選出が大国の意向に大きく左右されるようになったのである。

 戦争が始まった時、ポーランド国王の地位にあったのは、ザクセン出のアウグスト2世であった。ロシアのピョートル1世と結んで対スウェーデン戦争に入ったのも束の間、彼はカール12世の軍に敗れ、王位を追われた。

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スタニスワフ=レシチンスキ

 かわってカールの支持を受けて即位したのがスタニスワフ=レシチンスキであったが、スウェーデンの敗退とともに、彼もその地位を追われた。そして、ピョートルの支持をうけてアウグスト2世が復位したのである。

 だが彼の眼は、もともとザクセンのほうを向いており、ポーランドを顧みなかった。そのためアウグストが亡くなった時、ポーランド議会(セイム)は再びスタニスワフ=レシチンスキを選出したのである。

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ポーランド継承戦争

 これにはロシアが、そしてオーストリアも黙っていなかった。アウグストの息子(3世)を担いだのである。ここにポーランド継承戦争が起こった。1733年のことである。この戦争の主役はポーランド人ではなかった。ポーランド支配をもとめる大国間の戦争であった。結局、アウグスト派が勝利を収め、スタニスワフ=レシチンスキは再び野に下ったのである。

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アウグスト3世

 この間、ポーランド国政の無政府化はさらに進行した。アウグトス3世はザクセンの地にあり、ポーランドの政治はポトツキ家とチャルトリスキ家の権力争いと化していた。国会は完全に麻痺し、長年の戦乱と伝染病の流行で農民の困窮は深まり、都市も停滞した。

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スタニスワフ2世

 1763年10月、国王アウグスト3世が亡くなり、後任に選ばれたのはチャルトリスキ家の一門のスタニスワフ=アウグスト=ポニャトフスキ(スタニスワフ2世)であった。32歳の新国王は、実はロシアの女帝エカチェリーナのかつても「愛人」であり、女帝もこれを強く支持した。だがポーランドはロシアの思惑どおりの従順な国になったわけではない。熱意に燃える新国王は、即位するや否や王権の強化などの改革に着手したのである。

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エカチェリーナ2世

 ロシアに無断で、その意向に反して行われた改革に対して、エカチェリーナは当然のごとく圧力をかけてきた。

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フリードリヒ2世

 プロイセンのフリードリヒ2世もロシアの動きを見て、ポーランドがロシアに奪われることを警戒した。フリードリヒ2世はポーランドを餌食にする征服計画を夢みていたが、それを単独で実現することは難しく、ロシアの動きに同調した。もとより、エカチェリーナも野心的な計画を持っていた。

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マリア=テレジア

 また、マリア=テレジアについても「最初はひどく嫌がっていたが、しだいにためらいがなくなり」、オーストリアが列強の中で「最も強欲な国」であることを自ら暴露してしまう。

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 1772年、まずロシアとプロイセンとの間で条約が締結され、オーストリアがそれに加わった。3国から領土分割を迫られたポーランド議会は、若干の反対はあったが、翌年領土割譲を承認した。プロイセンは「王領プロイセン」(1466年ドイツ騎士団がポーランドに譲った土地)を領有(中心都市グダニスクは除く)、ロシアはリヴォニアとベラルーシの一部を、オーストリアはガリツィア地方の一部をそれぞれ獲得した。これによってポーランドは領土の30%と、人口の35%を失った。

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ポーランド分割を風刺した図

 上の絵はポーランド分割を風刺した図で、左からエカチェリーナ2世、スタニスワフ2世、ヨーゼフ2世、フリードリヒ2世である。オーストリアでは1765年にヨーゼフ2世が即位しているが、母親のマリア=テレジアが共同統治者として実権を握っていた。

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「5月3日憲法」の制定

 第1次分割ののち、ポーランドは遅まきながら改革の道を突き進んだ。1791年には「5月3日憲法」が制定され、シュラフタ(貴族)による国王選挙と自由拒否権は廃止され、立憲君主政・三権分立・義務兵役制などが定められた。この憲法は、アメリカ合衆国憲法につぐ先駆的なものであった。

 エカチェリーナ2世は、新憲法を「フランス革命の伝染病」だとして嫌悪し、大量のロシア軍を送って弾圧した。ポーランド軍は激しく抵抗したが、ポーランド国王はロシアに妥協して停戦、憲法の停止などを約束した。停戦に反対したコシューシコなどの将校は辞任して亡命した。

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ヴァルミーの戦い

 プロイセンは1792年9月にヴァルミーの戦いでフランス革命軍に敗れていた。しかし、対仏戦争を続行する代償としてポーランド分割を強硬に要求した。対仏大同盟の結成へと動いていたエカチェリーナ2世はその要求を容れ、マリ=アントワネットの嫁ぎ先で革命が進行中のオーストリアがポーランド問題に無関心(バイエルン併合の幻想を抱いていた)を表明すると、1793年1月、ペテルブルクでロシア・プロイセンの2国によるポーランド分割協定に調印した。

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ポーランド議会(セイム)
 ポーランドでは第2回分割を承認するかどうかで議会(セイム)が開かれた。ロシア公使は反対する議員を逮捕し、議場を大砲で包囲した。誰一人として賛成の演説をするものはいなかった。議場は沈黙したまま真夜中まで続いた。議長がついに沈黙は同意の印と見なすと宣言して終了し、これが最後のセイムとなった。

 こうしてロシア軍の監視下の議会は、ロシアとプロイセンへの領土割譲を承認した。ポーランドはロシアにベラルーシ東半とウクライナの大部分、面積にして25万平方キロと人口3000万を、プロイセンにポーゼンとダンツィヒ(グダニスク)を含む5.8万平方キロと人口100万の土地を譲った。残ったポーランド領は20万平方キロの土地に400万の人口に過ぎなくなり、議会は存在するものの招集されないという事実上のロシアの属国と化した。

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コシューシコ

 この第2回分割でポーランドは事実上国家機能を失った。国家消滅の危機に対して、翌1794年、コシューシコらが蜂起したが、期待したフランスの救援が無く、コシューシコ自身も負傷して捕らえられて、鎮圧された。

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コシューシコの蜂起

 コシューシコが蜂起すると、ロシアのエカチェリーナ2世はプロイセンにも鎮圧の協力を要請し、「隣国で突発した火事を、その最小の火花まで消し去るだけでなく、灰殻から新たに燃えあがる可能性を永遠に取り除くために、近隣三宮廷が隣国を領有するときが来ました」と述べた、という。反乱を鎮圧したエカチェリーナはポーランド国王スタニスワフ2世に退位を強く迫り、1795年、ロシア・プロイセン・オーストリアによるでポーランドの最終的分割が行われた。

 この第3回分割で、ポーランドはヨーロッパの地図から消えてなくなった。16世紀には中東欧でもっとも豊かだった大国ポーランドは、こうして悲劇的な結末を迎えたのである。ちなみに、当時ポーランドに住んでいた多くのユダヤ人も、三分割された。次の150年間、「東欧ユダヤ人」はポロムグ、ホロコーストという未曾有の受難の時代を過ごすことになるのである。

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2020/08/11 05:21 】

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