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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー波瀾万丈の人生・セルバンテス

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セルバンテス

 セルバンテスはイダルゴ(下級貴族)の家の次男として、1547年9月29日にマドリード近郊のアルカラ=デ=エナーレスで生まれた。父は外科医であり、祖先を1492年以前にさかのぼるとユダヤ人だったとして、セルバンテスはコンベルソ(カトリックに改宗したユダヤ教徒)もしくは新キリスト教徒ではないかという研究者もいる。

 少年時代から、道に落ちている紙切れでも字が書かれていれば手にとって読むほどの読書好きであったが、父の仕事がうまくいかず、バリャドリード、コルドバ、セビーリャと各地を転々とする生活であったので、教育をまともに受けられなかった。だが1564年ごろ、マドリードに転居したセルバンテスはルネサンスの人文学者ロペス=デ=オヨスに師事する。オヨスは1568年に出版された詩文集にてセルバンテスを「わが秘蔵の弟子」と呼び、高く評価した。

 1569年に教皇庁の特使であったアックアヴィーヴァ枢機卿の従者としてローマに渡り、ナポリでスペイン海軍に入隊するまでの生い立ちについては、あまり解明されていない。

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レパントの海戦

 1571年、24歳の時にスペイン最盛期の象徴であるレパントの海戦に参加したが、被弾して左腕の自由を失った。しかし、その後も4年間従軍を続け、チュニスへの侵攻にも参加している。

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バルバリア海賊との海戦

 ところが、本国へと帰還する途中、バルバリア海賊に襲われ捕虜となってしまう。このとき仕官のための推薦状を持っていたことが仇になり、とても払えない巨額の身代金を課され、アルジェで5年間の虜囚生活を送った。この間、捕虜を扇動して4回も脱出を企てるがことごとく失敗。このとき処刑されなかった理由は、推薦状により大物と見られていたためと思われるが、定かではない。

 三位一体会(キリスト教の慈善団体)によって身請けされ本国に戻ったが、仕官を願うも叶わず、1585年に最初の作品牧人小説『ラ=ガラテーア』を出版するが、あまり評価されなかった。

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アルマダ海戦

 1585年に父親ロドリーゴが亡くなると、セルバンテスの家庭は本人・姉・妹・姪・妻・娘(私生児)の6人家族となり、稼ぎ手の少ない家計は逼迫した。18歳年下の富農の娘と結婚したが、妻に嘲られて文筆生活を中断し、生計のために無敵艦隊の食料調達係の職を得てスペイン各地を歩き回って食料を徴発するが、教会から強引に徴発したかどで投獄され、さらに翌年アルマダの海戦で無敵艦隊が撃破されたため職を失ってしまった。

 その後なんとか徴税吏の仕事に就くが、税金を預けておいた銀行が破産、併せて負債として30倍の追徴金を背負わされ、未納金につき1597年に投獄される。

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『ドン=キホーテ』の表紙

 1605年、獄中で執筆したと思われる『才気あふれる郷士ドン=キホーテ=デ=ラ=マンチャ』をマドリードで刊行して一躍有名となった。『ドン・キホーテ』は出版されるやいなやたちまち大評判となり、同年中に6版が重ねられた。『ドン・キホーテ』の成功にもかかわらず、版権を安く売り渡していたため、生活面での向上は得られなかったが、その後も創作活動は続けられた。

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『ドン=キホーテ』の挿絵

 この不朽の名作『ドン=キホーテ』は、政治・道徳の退廃した時代にあっては、崇高な理想も現実と衝突して無惨に敗北することを風刺したもので、騎士ドン=キホーテと従者サンチョ=パンサの2人を巧妙に描き分けた。笑いとペーソスに満ち、豊かな筋・場面の急速な転換・669人という多数の登場人物の描き分け・各地の地理や風俗描写など、スペインのルネサンス文芸を代表するとともに、近代小説の祖となった。ただ、セルバンテス自身は詩人を志したといわれ、これがいわば手すさびの作品であったことは皮肉である。

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シェークスピア

 セルバンテスは1616年4月23日に亡くなったが、イギリスのシェークスピアと死亡した日が同じであるとされることが多い。しかし、当時はヨーロッパ大陸とブリテン島とで異なる暦を使用しており、実際には同じ日ではない。これは、1582年にローマ教皇がユリウス暦からグレゴリウス暦へ暦の変更を決定し、大陸のカトリックやプロテスタントの国々が順次変えていったのに対し、当時のイギリスは、カトリック教会の権威が及ばないイギリス国教会が優勢だったために新しいグレゴリウス暦を受け入れることが遅れたからである。

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【 2020/01/08 05:35 】

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世界史のミラクルワールドーわが命つきるとも・トマス=モア

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トマス=モア(ホルバイン作)

 トマス=モアは1478年、ロンドンで弁護士・判事の子に生まれ、オックスフォード大学で神学を学んだが、父の希望で弁護士となった。

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エラスムス(ホルバイン作)

 モアは若い頃、ロンドンにきたエラスムスと知り合い、生涯の友情を結んだ。エラスムスの『愚神礼賛』はロンドンのモアの家で書かれ、モアに献呈されている。エラスムスは旅行中に着想した諷刺文をわずか1週間程度の短期間で一気に書き上げたと言われている。

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ホルバイン

 ちなみに、トマス=モアとエラスムスの肖像は、どちらもドイツ生まれの画家ホルバインの作である。スイスのバーゼルでエラスムスと出会ったホルバインは、1526年にエラスムスの紹介で、トマス=モアを頼ってロンドンへ渡り、1536年には年30ポンドの契約でイングランド王ヘンリ8世の宮廷画家となった。ホルバインはヘンリ8世から大いに気に入られたようで、ヘンリ8世自身の肖像画をはじめ宮廷の関係者たちの肖像画を多数製作している

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『ユートピア』

 その後モアは政界に入って下院議員・ロンドン副長官を務め、ヘンリ8世の信任を得てナイトに叙された。1515年、外交交渉の一員としてオランダに渡り、アントウェルペンに滞在中に『ユートピア』を書き始め、翌年ロンドンで発表した。『ユートピア』は理想社会を託した架空の島名で、「どこにもない」の意味である。

 モアは『ユートピア』でイギリス社会の不合理・不正、特に当時の「エンクロージャー(囲い込み)」を激しく批判し、「優しい羊どもが人間を喰い荒らしている」と表現した。

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ヘンリ8世(ホルバイン作)

 『ユートピア』を発表した翌1517年、ルターが「九十五カ条の論題」で教会・教皇を批判し宗教改革が始まった。宗教改革の嵐がイギリスまで及ぶと、宗教界は大きく揺らぎ始めた。司法関係の要職に就いたモアは、ローマ教皇から「信仰擁護者」とされたヘンリ8世を支持し、宗教上の異端を激しく糾弾、カトリック思想への強烈な忠誠を尽くした。

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カザリン

 ところが、ヘンリ8世は男子世継ぎを得るため王妃カザリンとの離婚騒ぎを起こす。1529年、王の離婚許可を教皇に交渉して失敗したウールジーの後を受けて、モアは俗人としては初めて大法官に就任、ますますヘンリ8世の信任は深まった。

 しかし、モアはローマ教会の認めない離婚は不可であるとし、さらにヘンリ8世がローマ教会からの分離を図った首長法(国王至上法)の制定に対しても、俗人が教会の首長となることは不可能であるとして賛成せず、1532年に大法官を辞任した。

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ロンドン塔

 その後もモアは王の設立した国教会や首長法に反対したため、査問委員会にかけられ、反逆罪とされて1534年4月17日、ロンドン塔に幽閉された。

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モアの逮捕と処刑

 1535年7月6日、15ヶ月近く幽閉されていたため見るかげもなくやつれていたモアはついに処刑のために塔から引っ張り出された。その朝、ヘンリの使いが来て、刑場で群衆に向かって余り物をいわないようにとの命令を伝えた。

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「モア家の人々」(ホルバイン作)右から2人目がマーガレット

 途中で長女のマーガレットはモアの姿を群衆にまじってじっと見ていた。その際やせ衰えたモアに一人の婦人がすすみよって葡萄酒をすすめたが彼はそれを辞退した(マーガレットその人であったかもしれない。)モアはゆっくり断頭台にのぼり、ひざまずいて・・・・「詩編」51編を誦した。いよいよ最後になった時、モアはその場にいた人々に向かって「どうか私のために祈って下さい、そして私が聖なるカトリック教会の信仰を持ち、またその信仰のために、ここに死刑に処せられると言うことの事実の証人となって下さい。」といった。

 また伝説的な物語として、一度首きり台に首を横たえてから、また急に首斬人に向って「一寸まってくれ、髯をのけるから。この髯だけは大逆罪を犯していないからね。」といったという話がある。かくして、「法の名の下に行われたイギリス史上最も暗黒なる犯罪」が行われた。

 モアの頭はロンドン橋の上に曝された。モア家には、こういう話が伝わっている。ある日、彼の娘のひとりが橋の下を通りすがりに、父親の頭を仰ぎ見て、こう言った。「あのおつむりは、なんど私の膝の上で眠ったことでしょう。どうか神様、下を通ります私の膝に、あのおつむりを落として下さいませ。」彼女の願いは叶えられて、頭は彼女の膝の上に落ちた。そして今は、カンタベリー大聖堂の納骨所におさめっれている。

 モアは1935年にカトリック教会の殉教者として列聖され、死後400年を経て聖人となった。

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【 2020/01/05 05:33 】

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世界史のミラクルワールドーそれでも地球は動く・ガリレイ

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ガリレオ=ガリレイ

 ガリレイは1564年にトスカーナ大公国領ピサで生まれた。ガリレイ家はフィレンツェに古くから伝わる名家ではあったが、ガリレオが生まれたころは裕福とはいえなかった。 有名な音楽家であった父の医学を学ぶようという希望から17歳でピサ大学に入学したが、のち数学・物理学に転向した。

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 1583年、大学在学中のガリレイはピサ大聖堂内部のランプが揺れるのを見て、振り子の長さが同じ場合、大きく揺れているときも、小さく揺れているときも、往復にかかる時間は同じだ、と気づいた。「振り子の等時性」の発見である。しかし、これは後世に伝わる逸話で、どのような状況で発見したかは不明である。この法則を用いて晩年、振り子時計を考案したが、実際には製作はしなかった。

 1589年、25歳でピサ大学教授となったガリレイは、当時物理学の分野で最高権威とされたアリストテレスの著作を批判する見解を発表したが認められず、1592年にヴェネツィア共和国内のパドヴァ大学教授に転じた。

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ピサ大聖堂と斜塔

 1605年、「落体運動の法則」を発見する。 落体の運動は、アリストテレスによって「落ちる物体の速度は、その物体の重さに比例する」とされており、いかなる学者もこれを否定することがなかった。 なぜなら鳥の羽がゆっくり落ちることは視覚的に確認でき、これが大きな説得力になっていたためである。 ガリレイは空気の抵抗に着目し、表面積が大きく軽い物体は空気抵抗によりゆっくり落ちるのだろうと仮定した。

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 ピサの斜塔の頂上から大小2種類の球を同時に落とし、両者が同時に着地するのを見せ、これを証明した。アリストテレスの間違いがこれほどはっきり照明されたことは、かつて一度もなかった。しかし、この有名な故事はガリレオの弟子ヴィンチェンツォ=ヴィヴィアーニの創作で、実際には行われていないとする研究者も多い。

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  1609年の夏、45歳のガリレイは、オランダで発明された望遠鏡に2つの凸レンズを組み合わせて天体観測に使えるように改良した。ガリレイがその望遠鏡を天空に向けたとき、宇宙に関する古い観念を捨て去り、コペルニクスの理論を一層有利にする事実が明らかになった。例えば、完全な球体と考えられていた月の表面はでこぼこした不規則な形をしていた。金星を観測すると、月と同じように満ち欠けが見られ、自分で光っているのではなく太陽の光が反射していることが判った。そして、それは地球ではなく太陽の周りを回っていることの証であった。

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木星の衛星

 望遠鏡による最も大きな発見は、木星の4つの衛星の発見であった。それは、全ての天体が地球の周りを回っているとした天動説が誤っていることを指摘し、 星々が動いているのではなく地球が動いているのだとしてコペルニクスの地動説を支持するものであった。彼は様々な発見を含む観測結果をまとめて『星界の報告』を発表した。

 さらに、望遠鏡での観測で太陽の黒点を観測した。これは、太陽ですら完全なものではないという疑惑を投げかける発見になった。ちなみに、ガリレイは晩年に失明しているが、望遠鏡で太陽を観察したのが原因であったと考えられている。

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ジョルダーノ=ブルーノの火刑

 ガリレイは1597年にケプラーに宛てた手紙の中ですでに地動説を信じていると記しているが、17世紀初頭まではそれを公言することはなかった。しかし、木星の衛星、金星の満ち欠け、太陽黒点の証拠から、地動説が正しいと確信したガリレイは、この後、地動説に言及することが多くなった。しかし、それはガリレイに危険が迫ることでもあった。

 1600年には地動説を主張したために、ドミニコ派の修道士ジョルダーノ=ブルーノが宗教裁判にかけられ、異端として火刑に処せられている。

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ガリレオ裁判
 
 1616年、ガリレイはローマの異端審問所に召還されて第1次宗教裁判にかけられ、ガリレイは自説の発表と教授を禁止され、あわせてコペルニクスの地動説もローマ教皇の禁書目録に加えられることになった。しかし、ガリレイは、聖書に書いてあることは古代のヘブライ人の見解にすぎず、キリスト教の教えそのものではないと割り切り、自己の研究を続け、1632年には『天文対話』を発表した。その書は天動説と地動説に立つ二人の学者の対話を通じて、天動説を批判し、地動説の正しさをわかりやすく論証したものであった。彼はこの書を、学者だけでなくあらゆる人たちが読めるようにイタリア語で出版した。

 それに対してイエズス会の宣教師たちはガリレイが1616年の裁判の決定を守っていないとして、強硬に非難した。そのため翌年、ローマで第2次宗教裁判にかけられることとなり、すでに70歳になっていたガリレイはローマに連れて行かれ、監禁状態で裁判が進められた。本人欠席のまま審理が進められ、ほとんど弁解の機会は与えられず、1632年6月22日の判決はガリレイの説を異端説であると断定し、『天文対話』も禁書目録に入れられ出版が禁止された。ガリレイは、地球が動くという説を放棄する旨が書かれた異端誓絶文を読み上げた後、「それでも地球は動く」と呟いたと伝えられるが、これは伝説である。

 ガリレイは1642年に77歳で息を引き取ったガが、家族の墓地に葬ることも、弔辞を読むことも、碑を建てることも禁止された。

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ヨハネ=パウロ2世
 
 1979年11月10日、ローマ教皇ヨハネ=パウロ2世は、アインシュタイン生誕100年の祝典のなかで、「ガリレオの偉大さはすべての人の知るところ」と題する講演を行い、ようやくガリレオ裁判の見直しに着手した。そして、1983年に裁判が誤りであったことを表明、翌年調査委員会も同様の結論に達し、ガリレイは約350年ぶりに無罪が確定した。

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【 2020/01/01 06:13 】

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世界史のミラクルワールドー聖母の画家・ラファエロ

ラファエロ 
ラファエロ 

 ラファエロは1483年に中部イタリアのウルビーノに生まれた。。父親はウルビーノを治めていたモンテフェルトロ家に仕える画家兼詩人であったが、ラファエロ11歳の時に亡くなった。その母もすでに8歳の時に亡くしている。孤児になったラファエロは若くしてペルージャの画家ペルジーノの工房に入り徒弟となった。ペルジーノはフィレンツェのヴェロッキオ工房に学び、レオナルド=ダ=ヴィンチの兄弟子にあたる人であった。
 
 1504年、21歳のラファエロはフィレンツェに移住した。そのころのフィレンツェは独裁者メディチ家を追放し、共和政国家を再建、ダ=ヴィンチ(51歳)とミケランジェロ(28歳)が活躍しているルネサンスの最盛期であった。

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「ベルヴェデーレの聖母(牧場の聖母)」

 ラファエロはダ=ヴィンチやミケランジェロの影響を強く受け、一連の『聖母子像』を描いて、「聖母の画家」としての名声を確立した。

 ラファエロは短期間に作品を仕上げる天才(その点でダ=ヴィンチが遅筆であったことと対照的)とされ、多くの注文主が殺到した。『聖母子像』など大量に残る作品はそのような注文によって描かれたものであるが、それはラファエロの工房で分業制によって描かれたものであった。

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教皇ユリウス2世

 1508年の終わりごろにラファエロはローマへと居を移し、結果として残りの生涯をローマですごすこととなった。ラファエロがローマを訪れたのは、ローマ教皇ユリウス2世からの招きによるものであり、おそらくは当時サン=ピエトロ大聖堂の建築を任されていた建築家で、ウルビーノ近郊のラファエロの遠縁ではないかと考えられているブラマンテからの推挙によるものだった。ローマ教皇の招致を受けてからも数ヶ月間ローマで逡巡していたミケランジェロとは違って、ラファエロはすぐさまヴァチカンへと向かい、ヴァチカン宮殿のローマ教皇の専用図書室のフレスコ壁画制作依頼を受けた。このローマ教皇からの絵画制作依頼は、ラファエロにとってそれまでにない程の極めて重要なものだった。

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教皇アレクサンデル6世

 専用図書室には複数の部屋があり、すでにほかの画家が弟子たちとともに内部装飾を手がけている部屋もあった。これらの部屋には、枢機卿時代のユリウス2世と激しく対立していた先々代のローマ教皇アレクサンデル6世の出資による壁画や紋章などがすでに描かれていた。ユリウス2世による図書室の装飾は、これらアレクサンデル6世の痕跡をヴァチカン宮殿からすべて消し去ることを目的としていた。

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「アテナイの学堂」

 ラファエロは26歳で「署名の間」に『アテナイの学堂』を完成させた。『アテナイの学堂』は盛期ルネサンスの古典的精神を見事に具現化した作品であり、そこにラファエロは多くのギリシアの学者を描き込んだ。中心の二人はプラトンとアリストテレスで、左のプラトンは右手で天上を指し「イデア論」を主張していることを示しており、アリストテレスはそれに対して右手で地を指し示し「形相」を説いたことを示している。またラファエロはこれらの歴史上の人物を描くのに、同時代の芸術家をモデルにしている。例えば、プラトンはレオナルド=ダ=ヴィンチ、哲学者ヘラクレイトスはミケランジェロ、数学者エイクレイデス(ユークリッド)はブラマンテをモデルにしたと言われている。

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 一般的に知られている人物に番号を付した。(  )内でラファエロがモデルにしたと思われる人物名を示した。ただし、この人物比定はラファエロ自身が言っているのではなく、あくまで推定である。さらに詳細に否定を行っている美術史家もいるが、ここではよく知られた人物に絞った。

①プラトン(レオナルド=ダ=ヴィンチ)  ③ソクラテス  ④エピクロス  ⑤ピタゴラス  ⑥ヒュパティア:4世紀、アレクサンドリアの女性数学者、415年、キリスト教徒に虐殺された。(一説にこのモデルはラファエロの愛人マルガリータだという)  ⑦パルメニデス  ⑧ヘラクレイトス(ミケランジェロ) 

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 ②アリストテレス  ⑨ディオゲネス  ⑩エウクレイデス(ブラマンテ)  ⑪ゾロアスター:天球儀を持って、プトレマイオスと対話している。⑫プトレマイオス:地球儀を持っている。  ⑬プロティノス  ⑭ラファエロ本人が顔を出している

 
 依頼主であるユリウス2世は1513年に死去したが、ラファエロはメディチ家出身の次代ローマ教皇レオ10世ともさらに良好な関係を築き上げ、壁画制作も引き続きレオ10世のもとで続けられた。

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サン=ピエトロ大聖堂

 1514年のブラマンテ死後はサン=ピエトロ大聖堂の建設の指揮を執り、建築家としても才能を発揮した。  1515年にはレオ10世から「古代遺物監督官」に任命され、古代ローマの建築物の発掘と調査、現物の保存と図面の記録など、現在でいえば文化財保護の仕事もしている。

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「キリストの変容」

 ラファエロは1520年4月6日に37歳で早世した。ほぼ完成に近い状態にあった「キリストの変容」が遺作となった。その死んだ日が自身の誕生日であり、しかも聖金曜日であったことから彼の神格化が始まり、ラファエロの死の瞬間にヴァチカン宮殿の壁にひびが入ったといった伝説も生まれた。

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ラファエロとメディチ=ビッビエーナの墓

 その墓はローマのヴァチカン宮殿の中のパンテオンに作られており、1833年9月に行われた調査ではラファエロの身長は166センチだった。

  ラファエロは生涯結婚していないが、1514年に枢機卿メディチ=ビッビエーナの姪にあたるマリア=ビッビエーナと婚約はしている。この婚約は個人的にも友人だったメディチ=ビッビエーナに押し切られた結果と考えられており、ラファエロ自身はあまり気乗りがしないものだった。その後マリア=ビッビエーナは1520年に死去し、婚礼は行われないままとなったが、ラファエロの隣に葬られた。

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「ラ=フォルナリーナ」

 一方でラファエロは多くの女性と関係を持っていたといわれており、中でもローマ時代のラファエロにつねに寄り添っていたのが、シエーナ出身のパン職人フランチェスコ=ルティの娘マルガリータ=ルティで、「ラ=フォルナリーナ」のモデルは彼女だと考えられている。

 マルガリータ=ルティとの過度な情事が原因で熱病に罹患したが、体調を崩した理由を主治医に説明しなかったために誤った治療を受けたことが死因だとしているが、異論も多い。

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【 2019/12/29 05:25 】

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世界史のミラクルワールドールネサンス最大の巨人・ミケランジェロ

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ミケランジェロ

 ミケランジェロは1475年、フィレンツェ近郊の村で役人の子として生まれ、13歳の時、父の反対を押し切ってフィレンツェのギルランダイオという親方の工房に入り、石工となった。メディチ家の管理する古代彫刻庭園に出入りできるようになり、そこで見た古代の彫刻に見せられるようになり、少しずつ大理石を刻むようになった。

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ロレンツォ

 その時、メディチ家の当主ロレンツォの目にとまり、その館に住み込んで修業することが許された。そこでメディチ家に集まる、フィッツィーノやピコ=デラ=ミランドラなどの著名な人文学者から知的な刺激を受けたようだ。フィレンツェはルネサンスの爛熟期を迎えていた。若きミケランジェロは彫刻の前提として人体研究に興味を持ち、18歳ぐらいから人体解剖を始めている。

  ロレンツォが死んだ後、1494年にフランス王シャルル8世がイタリアに侵入、イタリア戦争が始まる。フィレンツェではサヴォナローラがメディチ家を激しく批判し、追放してしまう。保護者を失った19歳のミケランジェロもフィレンツェを脱出し、ボローニャに逃れた。一旦フィレンツェに戻った後、後に教皇ユリウス2世となる枢機卿に招かれ、1496年にローマに向かった。

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「ピエタ」
 
 ローマ滞在中の24歳のミケランジェロが製作した大理石彫刻のピエタは、その生き生きとしたマリアと死せるイエスの像が忽ち評判となり、鮮烈なデビュー作となった。イエスの母にしては若すぎるマリアであるが、悲しみを湛えて美しく、その衣服の下の身体は「古典的な女性美の頂点」と評される。イエスは左足をやや持ちあげており、死体であることがわかり、解剖学の知見によって生み出された「人間」の姿として横たわっている。

  この「ピエタ」のマリアが肩からさげる帯には全ミケランジェロ作品中唯一となる署名がある。ミラノから来た見物人がミラノの彫刻家の名前を挙げて自慢しているのを耳にしたミケランジェロが、夜こっそり自分の名前を刻み込んだという。

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「ダヴィデ像」

  フィレンツェではサヴォナローラが異端とされて処刑された後、動揺が続いていた。ようやく1502年、共和政体の維持を掲げたソデリーニが終身執政官に就任して安定を取り戻した。ミケランジェロもその前年にフィレンツェに戻っており、共和国政府から「ダヴィデ像」の政策を委嘱された。ずいぶん前から大聖堂(ドゥオーモ)に放置されていた巨大な大理石を使い、三年がかりで1504年に完成させた。ミケランジェロはまだ29歳であった。

 4メートルを超える巨像は、伝統にとらわれない姿――ヘブライ王国(イスラエル)を侵略しようとするペリシテ人の巨人ゴリアテを一騎打ちで倒した少年ダヴィデの像であるが、ゴリアテを組み伏せている図ではなく、右手に石を持ち、左手で投石用の革紐を肩に掛け、決然と敵を睨んでいる、戦う前の姿であり、しかも裸で立つという――だった。

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 出来上がった「ダヴィデ像」を見上げて、ソデリーニが「すばらしい、しかしちょっと鼻が大きすぎないか」と言ったところ、梯子を架けて上っていったミケランジェロは、鑿をたたくふりをしてあらかじめ掌に握っていた大理石の粉をパラパラと落とした。降りてきて、「あれでどうたい?」と尋くと、ソデリーニは「すごく良くなった」と満足した、という。

 ダヴィデ像は、メディチ家を追放し共和政を守ろうとするフィレンツェ民衆のシンボルとして、政庁(パラッツォ=ヴェッキオ)前のシニョリーア広場に置かれた。しかし1873年にアカデミア美術館の室内に移され、現在シニョリーア広場に置かれているダヴィデ像はレプリカである。


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教皇ユリウス2世

 「ピエタ」と「ダヴィデ像」で若くして名声を得たミケランジェロは、1505年にローマ教皇ユリウス2世に招かれてローマに行き、その墓廟を制作することになった。そのためのさまざまな彫刻をつくっており、『モーセ像』などが残っている。しかし、ユリウス2世は移り気な人で、墓廟用の大理石の代金を支払わず、ブラマンテに委嘱していたサン=ピエトロ大聖堂検知器に回してしまった。嫌気のさしたミケランジェロは、1506年、ローマからフィレンツェに帰ってしまう。

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システィナ礼拝堂

 墓廟に興味をなくしたユリウス2世は今度はヴァチカン宮殿の一部のシスティナ礼拝堂の天井画を描くことを思いつき、ミケランジェロに依頼した。ミケランジェロは本業は彫刻であるとしてラファエロを推薦するなどしたが、教皇は受け付けず、結局1508年5月~1512年10月までかかりっきりで完成させた。

 旧約聖書の創世記から、光と闇の分離、天体と植物の分離、地と水の分離、アダムの創造、イヴの創造、原罪と楽園追放、ノアの燔祭、大洪水、ノアの泥酔(?)とされる天地創造9場面を中心に、周りをさまざまな人物で埋め、フレスコ画の技法で描かれており、「描かれた大理石像」と呼ばれる。

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システィナ礼拝堂天井画

 システィナ礼拝堂の高さ21メートルの天井いっぱいに絵を描くことは想像以上に難事業であった。彼は足場台を工夫しなければならず、それには建築家としての技能が役立った。この天井画は天井全体を立体的に構成しており、絵画と建築、彫刻の総合芸術だったと言うことができる。4年もの間、天井を向いていたために、仕事が終わってからも手紙を読む時などは、みな頭の上にかかげて見なければならなかったという。

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「アダムの創造」

 天井画のうち最も良く知られているのが「創世記」のうちの「アダムの創造」である。神がアダムに向かって手を差し伸べ、神の手がアダムに生命を吹き込む場面が描かれている。このアダムについて、ミケランジェロの弟子ヴァザーリは述べている。「その美しさ、そのポーズと輪郭とは、あたかも人類創造のその瞬間、最初にして至高の創造主によって形造られたかのように見え、神ならぬ1人の人間が絵筆をもって描いたものとは見えない」。
 
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 写真は1982年公開のアメリカ映画『E.T.』のポスター。『E.T.』はスティーヴン=スピルバーグ監督の出世作となった作品。E.T.を乗せて空へと駆け上がる自転車、ふれあう指の先と先.....。もうお分かりだと思うが、監督は明らかに「アダムの創造」からヒントを得て、このシーンを考え出した。

クレメンス  
教皇クレメンス7世

 1513年、次の教皇となったレオ10世はメディチ家の出身であったので、ミケランジェロにフィレンツェに帰り、メディチ家礼拝堂(サン=ロレンツォ教会)を制作せよと命じた。その制作は延々と続き、1523年に教皇となったクレメンス7世(同じくメディチ家出身)の時にも継承された。

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「最後の審判」

 1533年、教皇クレメンス7世は、ミケランジェロにシスティナ礼拝堂の奥の壁に「最後の審判」を描くことを依頼した。1534年、58歳になっていたミケランジェロはフィレンツェを離れ、ローマに居を移した。この年、ローマ教皇はパウルス3世(トリエント公会議の主催など対抗宗教改革を推進した教皇)のもとで作業が進められることとなり、1541年に完成した。

 この壁画は、それまでにない巨大さと、ダイナミックな人物表現で人々を驚かせ、現代の見る人々をも驚嘆させている。中央のイエスとマリア以外にそれぞれ十二使徒など聖書の登場人物を描いていると思われるが、説明的ではないので誰が誰であるかは結局はわからない。

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ミノス

 この「最後の審判」のフレスコ画がほぼ出来上がったとき、それを見に行ったパウルス3世から意見を求められたヴァチカン宮殿の式典長ピァージョ=ダ=チェゼーナは、こんな性器を露出した裸体ばかりの絵は神聖な礼拝所にふさわしくないと非難した。それを聞いたミケランジェロは、地獄の番人ミノスの顔をこの式典長に似せて描いたというのである。異様な耳をしたミノスは全裸であるばかりでなく、大蛇に身体を縛られ、ペニスは蛇に喰いつかれている。ミケランジェロの陰惨なユーモアとしかいいようがない。

 ミケランジェロの「最後の審判」に対し、殉教者や聖なる処女を娼婦のような裸体で描いているという非難はその後も続いた。その非難はミケランジェロがルター派的であるというものだった。しかし、ローマ教皇パウルス4世が、もとのかれの弟子ヴォルテッラに命じてこの壁画の裸体に布を描きそえさせたとき、ミケランジェロは何も言わなかった。民衆は、それからヴォルテッラを“さるまた屋”と呼んだ。後に教皇クレメンス8世がまたこの壁画を塗りつぶさせようとしたときは、ローマの聖ルカのアカデミアが抗議して、これを行わせなかった。

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バルトロマイ

 中央のイエスの右下に描かれているのは、イエスの使徒の一人であるバルトロマイ
皮剥ぎの刑で殉教したといわれ、ミケランジェロも剥がれた自分の皮とナイフを持った姿で描いているが、この皮の顔はミケランジェロの自画像になっている。

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サン=ピエトロ大聖堂

 1546年にミケランジェロは、それまでブラマンテ、ラファエロらが40年以上にわたって続けてきた、ヴァチカンのサン=ピエトロ大聖堂改築の設計とドームのデザインを一任された。最終的にミケランジェロはドームの完成を待たずしてこの世を去っているが、存命時にはドーム下部と支持環まで着工済みであり、ドーム全体の基本的なデザインはすでに完成していた。

 ミケランジェロは1564年、88歳でローマで死去した。フィレンツェを愛したミケランジェロの遺言どおりに、遺体はローマからフィレンツェへと運ばれて、サンタ・クローチェ聖堂に埋葬された。

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2019/12/25 05:58 】

近世ヨーロッパ史  | コメント(0)  | トラックバック(0)  |
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