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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー夜空の星をも併合したい・セシル=ローズ

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セシル=ローズ

 セシル=ローズは1853年、イングランド東南部のハートフォードシャーに、牧師の5男として生まれた。16歳の時に結核に罹り、南アフリカ東部のナタールにあって棉花栽培を計画していた兄ハーバートのもとに身を寄せた。

 セシルが19歳の時にローズ兄弟は棉花栽培から手を引き、ケープ植民地北部のキンバリーに移り、発見されて間もないダイヤモンド鉱の試掘を始めた。

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 兄ハーバートは1873年にキンバリーを去ったが、ローズは同地に留まり、ダイヤモンド採掘で着々と成功を収めた。1880年、ローズはチャールズ=ラッドとデビアス鉱山会社を設立、採掘権を買い取ったり、採掘権保有者と合併をはかり、鉱区を拡大して行った。

 1891年には、世界のダイヤモンド生産の90パーセントを占めるまでになった。

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ジョン=ラスキン

 ローズはダイヤモンド業者として不動の地位を確立する一方、母国の名門オックスフォード大学に入学する。日頃から「経歴を作らなければならない」と口癖のように言っていた。鉱山師と学生という二足のわらじをはき、キンバリーとロンドンの間を頻繁に往来し、1881年に8年かかって学士号を取った。

 経歴作りのため8年も通ったオックスフォード大学で、当時の若者に圧倒的人気のジョン=ラスキン教授の教えは、その後のローズの生き方に大きな影響を与えた。

 ラスキンの次の言葉はローズを植民地主義の先兵として、大英帝国の栄光に向けて駆り立てた。

 「開拓者たちよ、もし人あって、報酬を求めることなく、ただイギリスのためにのみその身を銃火にさらすことあれば、この人こそ、イギリスの子孫をして祖国を熱愛させ、かつ熱帯の空の輝き以上に輝かしい祖国の栄光の中に微笑ましめる人であろう」

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 1887年には、ブール人国家のトランスヴァール共和国で発見された金鉱の経営に参加し、さらに電信・鉄道・新聞などの諸企業に投資して90年代の南アフリカ経済を支配した。

 その一方で、ローズはケープ植民地の議員のポストを狙っていた。その手段としてケープタウンの有力紙を買収してあった。豊富な運動資金を使って世論誘導に努めた。ローズはかつて「私は人生において“取引”することのできなかった人をみたことがない」と平然と語っていた。平たくいえば「お金を断られたことがない」と言いたかったようだ。

ローズは1881年に議員になってからも惜しみなく金員をばらまいた。議員の中でも有力な地位につき、1890年、ついに目指すケープ植民地首相の座に就いた。

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 イギリス政府は、カイロとケープ植民地を結ぶアフリカ縦断政策を推進しようとして、ケープ植民地の北方に遠征軍を送り、ポルトガルの勢力を排除し、さらにセシル=ローズを派遣してイギリス領植民地に編入した。

 彼が獲得した地は後に彼の名をとってローデシア(現在のザンビアとジンバブエ)と名付けられた。

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ジェームソン事件

 1895年、ローズはイギリス南アフリカ会社の軍隊の支援を得、友人であるジェームソンにヨハネブルクスで蜂起を煽動させ、トランスヴァール政府を転覆させるという、きわめて粗暴な陰謀を主導した。

 ジェームソンは、実行を延期するよう、また、ヨハネスブルクでの蜂起は実現が不可能であることを確証したメッセージを未然に送ったにもかかわらず、1895年12月29日、「ジェームソン侵攻事件」として後世に名をとどめる奇襲を強行し、兵とともに捕らえられてしまった。

 襲撃失敗はローズには手痛い打撃であった。彼がその陰謀に荷担したことは明らかであったため、1896年1月首相辞任を余儀なくされた。
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アフリカ縦断政策を唱えるローズを描いた当時の風刺画

 ローズは熱心な帝国主義者で、その著書の中で「神は世界地図がより多くイギリス領に塗られることを望んでおられる。できることなら私は夜空に浮かぶ星さえも併合したい」、と豪語した。

 またローズは人種差別主義者でもあった。彼はアングロサクソンこそ最も優れた人種であり、アングロサクソンにより地球全体が支配されることが人類の幸福に繋がると信じて疑わなかった。


 ローズは生涯独身であったため、遺産の大半600万ポンドは、遺言により各種公共事業に寄付されたが、重要な寄付の一つにオックスフォード大学ローズ奨学資金がある。そのため、大学の学寮のひとつオリオル・カレッジでは正面玄関上部に巨大なセシル=ローズ像が立っている。

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オックスフォード大学のローズ像

 2020年6月、米国ミネアポリス近郊でおきた白人警官による黒人男性ジョージ=フロイド暴行死亡事件に端を発した一連のデモがその人種差別の起源でもある欧州、英国へと飛び火し、各地で奴隷貿易や白人至上主義に関連した銅像がデモ参加者や暴徒によって引きずりおろされたり、落書きされたり、ブリストル湾に投げ込まれたりした。

 オックスフォード大学内のローズ像は、すでに2016年に学生の中から植民地主義者・差別主義者の銅像は撤去すべき、との声が起こっていたが、その時は大学当局はそのまま保存すると決定していた。しかし、今回の運動の盛り上がりを受け、銅像を撤去する決定を下した。

 元英国保守党のダニエル=ハンナンはツイッタ―上で「(奨学金制度による)ローズの寛大さは、何千人もの若者が教育を享受することを可能にしました。ローズの死からわずか5年後に最初の黒人学生が奨学金を得てもいる。恩人をこのように扱う大学にだれが寄付をしますか?」と述べた。

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【 2021/04/06 05:08 】

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世界史のミラクルワールドー極悪非道な国王・レオポルド2世②

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レオポルド2世

 レオポルド2世のコンゴ進出は、すでにアフリカ分割を進めていたイギリス・フランスなどの利害と対立することとなって、コンゴ問題は国際的な紛争となった。

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ベルリン会議

 そこで、ドイツ帝国の宰相ビスマルクが調停し、1884~85年のベルリン会議が開催された。

 この会議ではコンゴの領有を認められたレオポルド2世は、1885年には「コンゴ自由国」として独立国家の形態をとることとしたが、それはレオポルド2世を元首とする私有領の性格が強いものであった。

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コンゴ自由国

 コンゴ自由国の首都はレオポルドビル(現在のキンシャサ)と名づけられた。レオポルド2世はベルギー本国では立憲君主として憲法上の縛りがあるが、私領であるコンゴではそのような権力の制限は一切なく、専制君主として君臨した。

 コンゴ統治を委ねられた直後のレオポルド2世は巨額の私費や国内外の投資家の投資を募ってコンゴの近代化を推進した。ベルギー本国の75倍もの国土があり、かつジャングルや山岳のせいで踏破が困難なコンゴの地にマタディ・レオポルドヴィル鉄道をはじめとする近代的な鉄道網を敷設した。

 また、他の列強とも協力の上で要塞を建設し、黒人を捕らえて売却しようと企むアラブ人奴隷商人の取り締まりを強化した。レオポルド2世はこうした活動のために私財のほとんどをつぎ込んでおり、自らの生活も切り詰めなければならないほどだった。

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『パンチ』誌の風刺画

 だが、まもなくレオポルド2世は利益の回収を最優先にするようになった。1891年と1892年の勅令によって最も収入が期待できる象牙と天然ゴムを自分の独占事業にし、とりわけ1890年代半ばから急速に需要が高まっていた天然ゴム採取を急がせた。

 1893年まで250トン足らずだった天然ゴム生産量を1901年には6000トンにまで高めさせた。しかし、それは先住民の過酷な労働の上に成り立っていた。

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手を切り落とされたコンゴ人

 最も重要な資源である天然ゴムにはノルマ制が設けられ、生産量が足りない場合には手足切断などの罰が加えられた。過酷な圧政によってコンゴの人口は1885年にコンゴ自由国が建設された時点(3000万人)と比べて70%減少し、900万人まで減少したといわれる。

 歴史学者らによると、現在のコンゴ民主共和国に当たる地域で、レオポルド2世が所有していたゴム園の労働者数百万人が、殺害されたり体を切断されたり、病気で亡くなったりしたという。

 その無法な植民地支配は国際的な非難を浴びたため、1908年にはベルギーは正式にコンゴ自由国を併合し、「ベルギー領コンゴ」として管理することとなった。

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ヴィルヘルム2世

 ドイツ帝国のヴィルヘルム2世は、フランスと戦争になることを決意したが、先手を取ってフランスに侵攻するには中立国ベルギーを通過しなければならない。それは国際的に非難されることになるので、1904年に密かに国王レオポルド2世をベルリンに招き、「世にもやさしい態度で」彼を誘った。

 「長身で、黒いスペード型のヒゲをつけた堂々たるレオポルド2世は、情婦、金銭、コンゴでの残虐行為、その他いろいろのスキャンダルから生まれた悪人の風貌を身につけていた。オーストリア皇帝フランツ=ヨーゼフ1世に言わせるとレオポルドは「真底から悪玉」だった。……数々の不徳のなかでも、ひときわ目立っていたのが貪欲さだったので、その貪欲さが常識をうち負かしてしまうだろうとカイゼル(ヴィルヘルム2世)は考えた。」

 ヴィルヘルムはレオポルドに、その先祖のブルゴーニュ公の領地だったフランス西部のアルトワ、仏領フランドル、仏領アルデンヌなどをあわせてブルゴーニュ公国を再興してやろうと持ちかけた。あっけにとられたレオポルドは、15世紀の昔と違うから、閣僚と議会が同意しないだろう、と答えた。するとヴィルヘルムは持ち前の癇癪を起こし、国王たるもの、議会の言い分を聞くとは何事か、と叱りとばした。そして「ヨーロッパの戦争で、わしにつかないものは、みんな敵にまわしてやる」と言い放った。

ロード  
1940年5月、ベルギー西部を進むドイツ戦車

 悪人の国王と癇癪持ちの皇帝の妙な会談だったが、案の定、ドイツ=ベルギー同盟は実現しなかった。

 その後もドイツはベルギーを軽視する風は改まらなかったが、レオポルド2世が1909年に死ぬと、彼とは似ても似つかぬ甥のアルベールが国王となった。第一次世界大戦がはじまり、ドイツがシュリーフェン計画にもとづいて、ベルギー侵攻を開始すると、国王アルベールは敢然と抵抗し、全土が占領されても降伏せず抵抗を続けた。

ウンロード  
レオポルド2世の崩御

 壮年期に長男レオポルドを水難事故で失い、以降も後継者の男児に恵まれなかった王妃や家族との疎遠のためか、1900年頃からブランシュ=ドラクロワと愛人関係になり、彼女との間に私生児の男子を2人儲けている。だがこの愛人関係も国民の批判の的となり、レオポルド2世の人望はさらに低下した。

 1909年12月初め、腸閉塞で重体となった。王妃には1902年に先立たれており、死期を悟ったレオポルド2世はカトリック司祭を召集して愛人ブランシュとの結婚を強行した。その結婚から数日後、ブランシュが見守る中、74歳で死去した。しかしベルギーの法律ではこの結婚は無効とみなされており、ブランシュはレオポルド2世の死去後ただちに宮廷を追われている。

 王位は弟フランドル伯爵フィリップの子アルベール1世が継いだ。

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レオポルド2世の葬列

 レオポルド2世は自身の葬儀を簡素なものにとどめ、また葬列も省略するよう遺言していた。しかし伯父から甥へという微妙な王位継承であったので、先王を粗末に扱ったという批判が起こるのを恐れたアルベール1世は盛大な国葬を挙行させた。

 だが、そのころには公私にわたるスキャンダルのせいで国民からほとんど敬意を持たれていなかったレオポルド2世の葬列は群衆のブーイングに晒され、中にはレオポルド2世の棺に唾を吐きかける者まであったという。

ダウン
亡くなったジョージ=フロイドさん

 2020年5月25日、アメリカのミネアポリスで起きた、白人警官の拘束によって黒人ジョージ=フロイドさんが死亡した事件をきっかけに、黒人差別に対する抗議が世界中に巻き起こり、さらに黒人奴隷制度とそれを生み出したアフリカ植民地支配という歴史に対する抗議に発展した。欧米各地で黒人奴隷制や植民市支配にかかわって顕彰された人物の銅像が引き倒されたり、破壊される事態が続いた。


ダウロード
ペンキを塗られたレオポルド2世の銅像

 ベルギーにおいても、6月に入り、レオポルド2世のブリュッセル王宮前の銅像などが激しい抗議に晒され、ペンキで汚される事件がおこった。

 国王像の撤去を求める声が高まり、地元当局は銅像を撤去した。

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フィリップ国王

 おりしも、コンゴは1960年に独立し、2020年が独立60周年に当たっており、6月30日、ベルギーのフリップ国王はコンゴ民主共和国大統領に書簡を送り過去の植民地支配にたいして「遺憾の極み」であると表明した。

 フィリップ国王はレオポルド2世の名には触れなかったものの、当時「暴力的で残虐な行為があり、それが私たちの共通の記憶に重くのしかかっている」と述べ、「それに続く植民地時代も、苦痛と屈辱をもたらした」と認めた。

 フィリップ国王はあらゆる形態の人種差別に立ち向かっていくと表明し、植民地支配の記憶が静まるよう、ベルギー議会が提起したこの問題に対して反省を促していきたいと語った。

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【 2021/04/02 05:03 】

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世界史のミラクルワールドー極悪非道な国王・レオポルド2世①

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リヴィングストン 

 ディヴィット=リヴィングストンはナイルの源流を求めてヴィクトリア滝を発見したほか、アフリカ大陸の南半で3万マイルに及ぶ未知の地域を踏破し、完全な記録を残した大探検家として知られるが、冒険的な探検家ではなく、黒人奴隷制を廃止する熱意に燃え、キリスト教の福音主義運動にもとづく伝道師としてアフリカに渡ったのであった。

ダロード 
ンガミ湖に到着

 スコットランドのグラスゴー南西部の紡績工場で働く10歳の少年工だった時、奴隷貿易を知ってショックを受け、敬虔な長老派信者であった彼は医療伝道師を志し、時間をかけて医学・神学を学んだ。南アメリカで伝道生活を行っている時に、住民の言語・習俗、未知の地域への関心に目覚めたのだった。

 1849年のンガミ湖の発見で王立地理学協会との結びつきが生まれ、以来地理的探検にのめり込むことになった。

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奴隷貿易

 探検の間も、リヴィングストンは奴隷貿易廃絶への初志は忘れなかった。キリスト教と文明、そしてなによりも内陸部への有利な交易ルートの発見こそが奴隷貿易を無くす道であるというのが、彼の信念であったが、時にはヴィクトリア朝人独特の「たくましいキリスト者精神」で、腕ずくで奴隷キャラバンから犠牲者を解放したりもした。

 ザンジバルでは彼の努力でその没年である1873年に奴隷制は廃止されている。

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 1866~73年のナイル水源探検では、奴隷商人に買収されたポーターに医薬品を持ち逃げされて病に倒れ、数年間行方知れずになった。

 イギリス国内では消息を絶ち、死亡説まで流れているリヴィングストンを探索する動きも出ていたが、過酷な旅に加えて現地での妨害もあり、失敗続きであった。

ダウンド 
スタンリー

 1869年10月、『ニューヨーク・ヘラルド』の経営者であるジェームズ=ゴードン=ベネット=ジュニアは、ヨーロッパ滞在中に、特派員の1人であるヘンリー=スタンリーに電報を送り呼び寄せた。

 スタンリーはリヴィングストン捜索の依頼を承諾し、莫大な資金提供と、発見が成功した際の報奨金を約束された。

 スタンリーはただちに出発したが、他の取材のためパレスチナ、エジプト、インドなどを訪れていたため、リヴィングストンのいる辿り着いたのは1871年11月10日であった。

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リヴィングストンとスタンリーの対面

 スタンリーはウジジ近辺でリヴィングストンの従者と遭遇し、従者に導かれて本人と対面した。骸骨のようにやせ衰えた姿を見てスタンリーが発した「リヴィングストン博士でいらっしゃいますか?」は、後にイギリスで思いがけず人と対面した時の慣用句として使われるようになるほど、劇的なエピソードとして伝えられた。

 2人はタンガニーカの北端までの探検を行うなど、4ヶ月をともに過ごした。スタンリーはリヴィングストンに帰国を強く勧めたが、リヴィングストンはナイルの水源を突き止めるため、さらに探検を続けることを望んだ。

 スタンリーは1872年3月15日、イギリスへ向けて旅立ち、5ヵ月後にリヴィングストンの許に57人の従者と十分な物資を送った。

 8月15日にリヴィングストン一行はバングウェル湖へ向け出発し、翌年4月29日にはバングウェル湖南側の村、チタンボへたどり着いた。しかし、日記に探検の記録を書き付ける余力もないまま、5月1日、マラリアの複合症により息を引き取った。

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スタンリーと原住民の少年

 1874年、スタンリーはビクトリア湖、アルバート湖を経てアフリカを横断しコンゴ川の流路を確認した。999日後の1877年8月9日スタンリーらはポルトガル領であるコンゴ川河口に到着した。356人で出発し114人が生き残り、欧米人はスタンリーのみであった。

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レオポルド2世

 ベルギー国王レオポルド2世は隣国オランダがオランダ領東インド経営で大きな成功を収めていることに刺激を受け、同じような植民地の獲得を目指した。1878年、スタンリーを雇い入れたレオポルド2世は、「文明化をもたらす」という口実でスタンリーを派遣してアフリカ中央部の広大なコンゴ地方を探検させ、植民地を獲得した。

 しかし、ベルギーの議会と世論はレオポルド王2世の行動に反対したため、レオポルド2世はコンゴを個人の私有地として所有することとなった。彼は自己の行動が個人的なものととられることを避けるために、1883年に「コンゴ国際協会」を設立してその保護下で開発を進めることとした。(つづく)

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【 2021/03/30 05:09 】

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世界史のミラクルワールドー中国市場をこじ開けろ!・マッキンリー②

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マッキンリー

 アメリカは1860年代の南北戦争のため、中国大陸への進出が遅れたが、1898年に米西戦争の勝利によってフィリピンを獲得、マッキンリー大統領はそこを足場に中国に進出しようとした。

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 しかし、すでに1898年、イギリス・フランス・ドイツ・ロシアが相次いで租借地を設けるなど、中国分割が進んでいた。

 そこで1899年、アメリカは国務長官ジョン=ヘイが声明を発表し、清国において通商権・関税・鉄道料金・入港税などを平等とし、各国に同等に開放されるべきであると主張した。この門戸開放と機会均等の2原則に加え、さらに翌1900年、ヘイは清国の領土保全の原則を宣言した。

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ジョン=ヘイ

 この三原則を「ヘイの三原則」といい、さらにアメリカ合衆国の中国に対する外交原則を門戸開放政策 Open Door Policy という。門戸開放政策は以後アメリカのアジア対外政策の原則的な要求となり、ロシア・日本の中国大陸への進出に対してもこの原則を掲げて反対した。

 第一次世界大戦が勃発し、日本は中国に対して山東省でドイツ権益の継承などを二十一カ条の要求として突きつけると、アメリカとの調停が必要となり、1917年11月、特使石井菊次郎を派遣して、国務長官ランシングと協議させた。ランシングは、中国の門戸開放・機会均等・領土保全を尊重することを条件に日本の山東省に対する特殊権益を認めた。

 この石井・ランシング協定は、もともと矛盾する内容であるが、曖昧な表現をとることによって、アメリカは中国における日本との対立を避け、ヨーロッパでの世界大戦への参戦を可能にしたのだった。

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博覧会会場で演説するマッキンリー

 マッキンリーは1901年9月5日、夫人と共にバッファローで開催されていたパン・アメリカン博覧会に出席し、関税に対する姿勢と対外貿易に関しての演説を行った。

 翌朝にはナイアガラの滝を訪問し、その後博覧会に戻った。その日の午後、マッキンリーはテンプル・オブ・ミュージックでの歓迎会に出席する予定であった。

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マッキンリーの暗殺

 博覧会会場で、大統領と握手するために列を作っていた人々に混じっていた男が、手に持ったハンカチの下に拳銃を隠し、1mの至近距離で大統領の胸と腹部を撃った。1発目はタキシードのボタンに当たって横にそれ、2発目が腹部に命中した。銃撃の8日後に大統領は死んだが、死因はすい臓壊疽と発表された。

 今日の医学の常識では弾丸によるというよりは、手術の不手際によるとみなされている。担当医師団は開腹手術で弾丸を摘出することができなかった。医師団は大統領の肥満のせいにした。

 マッキンリーは郷里オハイオ州のカントンに埋葬され、以後、大統領にはシークレット・サービスに警備されることになった。

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レオン=チョルゴッシュ

 マッキンリー大統領を暗殺した男はレオン=チョルゴッシュといい、ユダヤ系ポーランド移民の子で、28歳であった。21歳の時、アメリカの政府は間違っていると考えるようになりアナーキストのグループに入った。4年前に起こったアメリカ労働運動史上最大の汚点のひとつとされるラティマー炭坑虐殺事件(穏やかな抗議行動中のロシア系炭鉱労働者が大量虐殺された)が複線だった、と言われている。

 その場で取り押さえられたチョルゴッシュは、裁判を認めず、弁護士も頼まず、法廷での発言も拒否した。9月23日の即決裁判で死刑の宣告を受け、10月29日、ニューヨーク州オーバン刑務所内の電気椅子で処刑された。異例の早さだった。彼は最後まで、働く善良な人間の敵を殺したのであり、自らの所業を後悔していないと言い続けた。

 刑務所当局は、遺族の遺体引き渡しの求めを拒み、刑務所内に掘った墓穴に遺体を入れ、上から大量の生石灰と硫酸をふりまき埋めた。遺体は、半日以内で化学分解し、全く跡形を止めなかったと推測される。文字通り、犯人は消されてしまったのである。

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マッキンリー(デナリ)

 ちなみに、植村直己さんが1984年に冬期単独登頂に成功した後、消息を絶った山として日本にもよく知られているアメリカ合衆国アラスカ州のマッキンリーは、6190mの北米大陸最高峰である。

 この山名は1896年に当時の大統領候補だったウィリアム=マッキンリーにちなんだもので、彼は翌年、第25代の大統領に就任した。

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植村直己

 しかし、先住民はこの山を「偉大なもの」を意味する「デナリ」と呼び、聖域としている。アラスカ州政府は1975年からデナリを正式名称に使うよう連邦政府に要求、80年には「デナリ国立公園」を設けた。

 2015年8月30日、ホワイトハウスは、マッキンリーをアラスカ先住民の呼び方「デナリ」に改称すると発表した。アラスカ州政府の40年にわたる要求を受けいれ、31日、オバマ大統領が同州で正式発表をする。ホワイトハウスは改称の理由として、先住民にとって聖域であり、マッキンリー大統領はアラスカに足を踏み入れたことはない、とした。

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【 2021/03/23 05:04 】

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世界史のミラクルワールドー銃弾に倒れた平和行進・血の日曜日事件

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行進する民衆

 日露戦争の最中、旅順が陥落した直後の1905年1月22日(ロシア暦で9日)、ロシア帝国の都ペテルブルクで、ニコライ2世に対して労働者の権利、待遇改善などの経済要求と、立憲政治の実現、日露戦争の停止などの政治要求を掲げた請願が実施された。

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ガポン

 この労働者の請願行動は、ガポンという司祭(聖職者)でありながら労働運動に加わっていた人物に指導されていた。当時ペテルブルクには日露戦争中であったため軍需工場を中心に労働者に対する過酷な労働強化が図られていた。労働組合結成やストライキ権は認められおらず、無権利状態に対する労働者の不満は強まっていた。

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レーニン

 すでに活動をはじめていたロシア社会民主労働党や社会革命党(エスエル)は当局の激しい弾圧を受け、レーニンやプレハーノフもジュネーヴに亡命中であった。

 そのような中、ガポンはペテルブルクの労働運動を合法的な運動として当局に働きかけ、その承認を受けてニコライ2世に対する請願行動を起こそうと計画していた。

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ニコライ2世

 発端はガポンの組織した「ペテルブルク市ロシア人工場労働者の集い」(ガポン組合といわれた)に参加していたプチーロフ軍事工場の労働者4人が些細なことで解雇されたことをきっかけに、全市の労働者のゼネストに発展、指導者のガポンが工場長らの横暴をニコライ2世に直接訴える請願を提案した。

 ガポン組合の行動は社会主義者に指導された労働運動とは一線を画し、隊列は武装せず、その先頭には十字架を掲げるという平和的なものであった。しかしガポンとその協力者たちはこの請願行動は決死の覚悟で臨む必要があることも理解していた。 

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銃弾に倒れる民衆

 つまり、突発的な衝突事件ではなく、計画され、組織された請願活動であり、武力弾圧も想定されていたのだった。事実、請願行進は市内の各所で行われ、しかも軍隊の発砲にもかかわらず行進を続け、多数の労働者と女性、子供を含むその家族と共に、指導者の何人かも銃弾に倒れた。

 先頭に立っていたガポン自身も銃撃されたが一命を取り留め、、事件後に作家のゴーリキーに匿われて逮捕を免れ、ロンドンに亡命した。

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銃弾に倒れる民衆

 10数万人の労働者とその家族は、幾手にも分かれて冬宮を目指したが、各所で軍の守備隊に阻止された。労働者は武器を持っておらず、ツァーリに対して「プラウダ」(正義)を訴える請願行動であったが、軍当局はコサック兵などを動員して労働者に発砲し、1000人以上が殺害され(当局発表は100人)、2000人近くが負傷した。

 労働者請願行動が、軍隊の発砲によって弾圧された「血の日曜日」の事件は、労働者大衆の中にあったツァーリズムに対する信仰(悪いのは官僚や貴族だ、我々の苦境を救い、不正をただしてくれるのはツァーリだ、という思い)を完全に打ち砕いた。ペテルブルクに続いて、各地で労働者は暴動を起こし、政府当局は苦境に立たされた。

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ポーツマス講和会議

 ロシア社会民主労働党や社会革命党などの社会主義者は、ガポンの武器によらない請願活動については幻想であると批判し、武器の使用と革命への転換を主張していたが、労働者をストライキから請願行動に引っ張っていく力はガポンの方が強かった。社会主義者も血の日曜日事件ではともに戦っているが、まだ革命への主体的力量は整っていなかった。

 一方で日露戦争は次々と敗北を重ねた。1月の旅順陥落に続いて3月には奉天会戦で大敗し、5月には日本海海戦でバルチック艦隊が壊滅した。6月には黒海艦隊所属の戦艦ポチョムキンの水兵が反乱を起こし、オデッサでも市民が蜂起した。このような情勢が続き、ツァーリ政府は兵士の離脱を恐れて、日露戦争の継続を断念し、ポーツマス講和会議に応じ、9月にポーツマス条約を締結した。

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ウィッテ

 講和後もロシアの革命的な動きは続いた。10月にモスクワで鉄道員のストライキをきっかけに、全国でゼネストに突入すると、ツァーリ政府はウィッテを中心に事態打開に動き、10月17日、ニコライ2世の名で「十月宣言」を出し、市民の政治的自由を認めると共に国会(ドゥーマ)の開設を約束した。

 この9月から10月にかけて、各地に新たな革命の主体としてソヴィエトが形成されていった。しかし、12月にモスクワから始まったゼネストは武力で押さえ込まれてゆき、第1次ロシア革命はいったん収束し、翌年から反動期に入っていく。

 十月宣言で一定の改革が打ち出されると、ガポンは期待をして翌年ロシアに戻り、かつての権力によって保証された労働組合運動を再建しようとした。ウィッテもそれを容認し、密かに資金を提供するなど関係を持ったが、そのようなガポンの動きは革命派に裏切りと写り、1906年3月28日社会革命党の会議にガポンを召還し、首に縄を付けて宙づりにして殺した。

 ソ連共産党の正史ではガポンは当局のスパイであったと断定され、日本でも長くそのような評価がされていたが、現在ではガポンの行動をスパイや裏切りととらえるのは誤りであることが明らかにされている。

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2021/03/16 05:14 】

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