なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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平成15年8月3日(日)~10日(日)、チベットを旅しました。もう一度行きたいとは思うのですが、日中関係が険悪化し、チベット情勢も不安定な現在では、足を向けにくい土地となってしまいました。
河口慧海【かわぐちえかい】という人物をご存じだろうか?明治33年、大蔵経を求めて単身チベット(西蔵)に密入国した、近代日本の三蔵法師とも呼ばれる黄檗宗【おうばくしゅう】のお坊さんである。 確か中学校の国語の教科書だったと思うのだが、彼の冒険譚【ぼうけんたん】が載っていて、すごい坊さんがいるもんだと感心すると同時に、ヒマラヤの麓にあるという秘境チベットに漠然とした憧れを抱いた記憶がある。高校で世界史を教えるようになって、チベットへの思いはさらに募っていったのだが、そう簡単に行ける国ではなかった。
チベットは7世紀にソンツェンガンポが吐蕃【とばん】王国を建国したのが始まり。唐と友好関係を持ち、唐文化を導入して発展。楊貴妃が原因となった安史の乱以降は、唐を軍事的に圧倒するだけの力を持つ強国となった。9世紀に吐蕃が滅亡したあとは地方政権が割拠したり、モンゴルに征服されるなどしたが、17世紀にダライ=ラマ政権が誕生し、首都ラサは繁栄を取り戻す。しかし、18世紀に清の雍正帝に屈服してしまう。その清が辛亥革命で滅亡した翌年の1912年にチベットは独立を宣言。ダライ=ラマ13世が国旗として制定したのが写真の「雪山獅子旗」だ。チベット民族は亡命している人々も含めると1,000万人以上いる。要するに、チベットはれっきとした独立国だということだ。
しかし、「もともと中国だった」という強引な理屈のもとに、第2次世界大戦終了後の1950年、人民解放軍に進駐・制圧され、チベット自治区として中国の一部にさせられてしまった。その後、独立を求める暴動が頻発し、1989年には戒厳令がしかれるなど、政情は混乱をきわめ、中国政府は外国人観光客の受け入れを堅く拒んできた。別の意味で秘境の国になってしまったのである。しかし、鄧小平【とうしょうへい】により改革・開放政策が進められる中、チベットはしだいに禁断のベールを脱ぎ始めた。
![beijing-anti-sars-ad[1]](http://blog-imgs-61.fc2.com/k/i/n/kintaku3/20140103092512ac9.jpg)
昨年、アジアに魅せられた海外旅行病の仲間の意見が一致し、チベット行きが決定。弾む心で3月から準備を進めたのだが、そこに降って湧いたのが、新型肺炎SARS騒ぎであった(SARSは中国では非典と書きます)。鰻登りで増える中国の患者数、どんどん拡大する感染地域。経由地の上海・成都は渡航禁止になってはいないのだが、「こんな時期に、諦めたら」という、声なき声。「え~い、こうなったらネパール経由でチベットに行くぞ」とまで覚悟を決めたのだが、SARSの流行を未然に防止するとの理由から、中国政府がチベットへの入域を禁止してしまったのである。トホホホホホ。どこまで遠い国なんだ。
半分は諦めかけたのだが、仏(チベットの仏さんかも!)は僕を見放さなかった。猛威を振るった流石のSARSも暑さに弱かったのである。7月に入ると急速に患者数は減り、チベットもようやく門戸を開いてくれた。(つづく)

半分は諦めかけたのだが、仏(チベットの仏さんかも!)は僕を見放さなかった。猛威を振るった流石のSARSも暑さに弱かったのである。7月に入ると急速に患者数は減り、チベットもようやく門戸を開いてくれた。(つづく)
8月3日(日)
かくして、8月3日、名古屋から上海に向かう機上の人となったのであるが、問題がないわけではなかった。SARSの影響で激減した日本人観光客の客足が、夏休みになっても戻らないため、中国東方航空が便数を減らしてしまったのである。そのため、最初から予定の2時間遅れでの出発となり、一抹の不安を抱きながら、午後3時30分、中国東方航空292便(MU292便)で上海へと向かった。
午後4時40分、浦東空港に到着。3年ぶりの上海である。とは言っても、3年前は乗り換えのためだけで、空港からは一歩も出ていない。今回も乗り換えなのだが、到着した浦東空港は国際線専用、虹橋空港で国内線に乗り換えなければならない。
バスの車窓から躍進する上海の鼓動が聞こえてくる。林立する摩天楼、整備された高速道路。そして、高速道路に並行して走るリニア・モーターカー(開業は9月15日だそうで、見えるのはレール?だけ)。89億元(当時のレートで1,335億円)の巨費と中国の威信をかけて造った世界初のリニア・モーターカーである。最高速度450キロで空港と市内を7分(バスだと約1時間)で結び、運賃は片道300元(4,500円)。上海での平均月収が1,500元というから、滅茶苦茶高い乗り物だ。一体どなたが乗るのだろうか?
夜になると、高速道路はまるでクリスマスのように赤や青のネオンで飾られ、夢の世界を見ているようだ。上海は2010年の万国博覧会開催に名乗りをあげている。そのためのデモンストレーションなのだろうが、外部の者の目で見ると、他にやらなければならないことが山積しているように思うのだが、要らぬお節介でしょうか胡錦涛【こきんとう】(当時の国家主席)さん。
まあ、何はともあれ、腹ごしらえということで、午後6時30分、夕食。ありきたりの無国籍中華料理で。美味くもない、不味くもないという顔で箸を運んでいると、トラベルサライの添乗員・奥村君が「面白いものがありますよ」と声をかけてくる。3年前のシルクロードの旅で羊の眼肉・蛇・サソリなどを食して以来、彼は僕のことをゲテモノ喰いだと思い込んでいる。言い訳に聞こえるかも知れないが、その民族の食事文化に触れることが、その民族を知る最良の方策だと考えているだけで、ゲテモノを選んで食べようとしている訳ではない。しかし、彼の挑発に乗って、はしゃぎながらゲテモノを口に運ぶ僕に皆がカメラを向けることで、ただの食事がイベントと化す。これがツアー旅行を楽しくするコツなのだ。
で、彼が勧めたのが鮮鹿茸血酒。鹿の茸【きのこ】とは中国らしい表現だが、要するに切り取ったばかりで血の滴る鹿の角を白酒【パイチュウ】につけただけのものである。鹿茸【ろくじょう】は中国東北地方に生息する若い雄の満州鹿から取るそうで、人参や豹の皮とともに東北三宝の一つだそうだ。美味くもなんともないが、滋養強壮に効果のある貴重な漢方薬で、長寿不死の神薬とも言われるそうだ。過酷なチベットの旅を乗り切るために、乾杯!

腹も満たされ、鹿茸酒で元気も出た一行は、フライト1時間半前の午後7時45分、虹橋空港に到着。ところが、手続きを済ませ搭乗を待つ我々に成都便延着の知らせが……。出発前の不安は現実のものとなった。遅延の理由は何ら説明がなく、お詫びに菓子と飲み物が配られただけ。中国の航空会社にはお客さんに乗ってもらっているという意識はなく、乗せてやっているという気持ちしかないのか!
ちゃんと説明しろ、(まあ、中国語で説明されても分からないのではあるが。)と叫んだところで飛行機が飛ぶわけでもなく、ただ黙って待つしかない。
結局、2時間遅れの午後11時20分に上海を出発。成都空港に降り立ったのは、日付が変わった午前1時40分、ホテルのベッドに潜り込んだのが午前3時半(日本時間午前4時30分)。過酷な一日であったが、これはまだほんの序章に過ぎなかったのである。
(つづく)

結局、2時間遅れの午後11時20分に上海を出発。成都空港に降り立ったのは、日付が変わった午前1時40分、ホテルのベッドに潜り込んだのが午前3時半(日本時間午前4時30分)。過酷な一日であったが、これはまだほんの序章に過ぎなかったのである。

8月4日(月)
成都は三国志の時代の蜀【しょく】の都、劉備玄徳【りゅうびげんとく】や諸葛孔明【しょかつこうめい】の活躍した舞台である。 「蜀の桟道【さんどう】」という言葉などから山間の小都市というイメージを持っていたが、現在は都市部だけで人口250万人を超える超大都会である。昨夜というか今朝、降り立った空港にしても、3年前に訪れた敦煌空港程度かと思っていたがとんでもない。小松空港など足下にも及ばない大空港であった。
我々が泊まっているのは成都総府皇冠假日酒店。漢字で書くとどこのホテルかさっぱり分からないが、ホリデイイン・クラウンプラザ・ホテル。
空港から30分ほどのビジネス街にある33階建ての5ツ星ホテルだ。1996年の開業だから、部屋も新しくて綺麗だ。午前7時30分、4時間ほどの睡眠でたたき起こされて、4年前の1999年に世界遺産に登録された「大足石刻【だいそくせっこく】」に向かった。成都には武侯祀がある。三国時代の授業で羽毛扇を手に話をするくらい敬愛してやまない孔明先生を祀った廟だ。本来ならそっちのほうに行きたいのだが、団体旅行なので我が儘は言えない。大足石刻は40カ所余りに分布する石刻群の総称であるが、時間の関係もあり宝頂山石刻のみを参観することにした。
午前8時30分、ホテルを出発。大足は重慶市の郊外にあり、成都から片道350キロ。案内役を務めてくれたのは現地添乗員の胥璽【しょじ】君。偉くなりたいとの思いから、学生時代に親が付けてくれた名前を捨てて、自ら璽(皇帝の印章のこと)と名乗ったという変わり種だが、日本語は堪能である。
バスに乗ってすぐ、同級生の役人が豊かな生活をしているだの、役人の給料が上がった分だけ税金が上がったという愚痴を聞かされる。その上、ガイド証明書を携帯していないと罰金が1万元だが、役人に袖の下を渡すと2,000元になるという裏話まで飛び出す始末。よっぽど役人が嫌いなようである。後日、彼の思いが爆発することになるのであるが、この時は誰も知るよしもない。
バスに乗ってすぐ、同級生の役人が豊かな生活をしているだの、役人の給料が上がった分だけ税金が上がったという愚痴を聞かされる。その上、ガイド証明書を携帯していないと罰金が1万元だが、役人に袖の下を渡すと2,000元になるという裏話まで飛び出す始末。よっぽど役人が嫌いなようである。後日、彼の思いが爆発することになるのであるが、この時は誰も知るよしもない。
もちろん高速道路を使ったのだが、観光バスは時速90キロに制限されているため、4時間半もかかって午後2時に大足に到着。大足賓館で遅い昼食をとったんだけど、レストランの受付の女の子がピョオリャン(綺麗な子)だったので、無理を言って記念撮影。(こらっ、鼻の下伸ばしてんじゃないの!!)
その後、宝頂山に向かったのだが、これが大変な悪路。もともと道路が良くないところへもってきて、観光客の増加に対応するため道路工事が行われているので、あちこち穴だらけ。バスは右に左に、前に後ろに、大きく傾き、むち打ち症になりそうだ。30分をかけて漸く宝頂山に辿り着いた。
その後、宝頂山に向かったのだが、これが大変な悪路。もともと道路が良くないところへもってきて、観光客の増加に対応するため道路工事が行われているので、あちこち穴だらけ。バスは右に左に、前に後ろに、大きく傾き、むち打ち症になりそうだ。30分をかけて漸く宝頂山に辿り着いた。
宝頂山石刻は南宋の1179年から1249年までの70年間にわたり、名僧趙智鳳の指揮によって計画的に造営されたため、他の中国の石窟と違って同じものはなく、ひとつの流れになっているそうだ。参道は500メートル余りあり、磨崖像は1万体にも及ぶそうだ。
全長31メートルの釈迦涅槃像や千手観音像は確かに圧巻ではあるが、敦煌の莫高窟に比べると芸術性では見劣りする。その上、西域の香りのする莫高窟と違い、純粋に中国的なのだ。四川は道教の中心地であったこともあり、多分にその影響を受けているようで、何となく違和感がある。特に顎髭【あごひげ】を伸ばしたお釈迦さまの像には、思わず吹き出しそうになってしまった。
昨年訪れたインドのアジャンタ石窟と同じように湾曲する渓谷に沿って彫られているのだが、規模的には小さく、そこに彩色された仏像が溢れんばかりに並べられており、息苦しさを感じる。
その上、気温は37℃。湿度は測りようがないが、推定99%。とにかく暑い。拭いても拭いても汗が噴き出す。まるで、サウナにでも入っているようだ。約1時間の参観であったが、どっぷり疲れてしまった。往復10時間もかけて見る価値があったかどうか疑問が残った。
大足石刻の参観が予想以上に時間がかかったので、ホテルに帰らず直接、陳麻婆豆腐店へ。午後9時という遅い夕食になってしまった。
麻婆豆腐は料理の鉄人として知られる陳建一の父・陳建民氏が日本に紹介した成都の名物料理。これを食べずして、四川料理を語ることなかれ、という代物である。唐辛子と山椒をふんだんに使っており、辛い上に舌が痺れ、汗が噴き出す。大足での大汗には閉口したが、美味い料理でかく汗は気持ちがいい。
そこへ、添乗員の奥村君がにこにこ顔で出してきたのが、どぶの臭いがするという臭豆腐。鼻を近づけて一瞬ためらったが、ここで逃げては男が廃る。息を止めて、口に放り込み、紹興酒で一気に流し込んだ。あ~臭っ。
さあ、明日はいよいよチベットだ。(つづく)
そこへ、添乗員の奥村君がにこにこ顔で出してきたのが、どぶの臭いがするという臭豆腐。鼻を近づけて一瞬ためらったが、ここで逃げては男が廃る。息を止めて、口に放り込み、紹興酒で一気に流し込んだ。あ~臭っ。

さあ、明日はいよいよチベットだ。(つづく)
8月5日(火)
午前5時起床、6時にホテルを出て空港へ。毎日寝不足で、ふ~らふら。午前7時30分、いよいよチベット自治区の首都・拉薩【ラサ】に向けて出発。成都・拉薩便は午前7時20分を始発に、10分おきに4便もある。豊かになった中国人の国内観光ブームがおきているからだ。
飛行機は飛び立って20分もしないうちに大雪山脈にさしかかる。1934年、国民党に追われた中国共産党の紅軍は、中国南部の瑞金【ずいきん】から西北部の延安【えんあん】に拠点を遷した。長征【ちょうせい】と呼ばれるが、距離にして1,250キロ、地球の一周の約3分の1にあたる。その間に、紅軍は24の川を渡り、18の山脈を越えた。その一つが、7,556メートルのミニヤ・コンカ峰を最高峰として4,000メートル級の山々が連なる大雪山脈である。彼らは高山病や寒さ・飢えに苦しみ、時には自分の排泄物までをも食料として、この山脈を越えた行ったのだ。『中国の赤い星』を書いたエドガー・スノーは、2年以上におよんだ逃避行を「長征に比べれば、ハンニバルのアルプス越えは、休日のピクニックに過ぎない」と表現した。苦難の末に延安に到達した紅軍は、やがて国民党を破り、1949年に中華人民共和国を樹立する。その共産党が、今や帝政時代の官僚と何ら変わりない振る舞いをしているのは、歴史の皮肉である。
たぶん、真ん中が不動明王。左手は3面8臂だから、日本だと馬頭観音ということになるんだけど、馬の顔が見えない。右手はターラ菩薩かな?分かりませ~ん。
午前5時起床、6時にホテルを出て空港へ。毎日寝不足で、ふ~らふら。午前7時30分、いよいよチベット自治区の首都・拉薩【ラサ】に向けて出発。成都・拉薩便は午前7時20分を始発に、10分おきに4便もある。豊かになった中国人の国内観光ブームがおきているからだ。
えらく朝の早い便だと思われるだろうが、日中になって気温が上がると、空気が薄くなって揚力が下がり、飛行機が飛べなくなるそうだ。それもそのはず、ラサの標高は3,650メートル。富士山とほぼ同じ高さに位置するのだ。
機上から望むミニヤ・コンカ峰
飛行機は飛び立って20分もしないうちに大雪山脈にさしかかる。1934年、国民党に追われた中国共産党の紅軍は、中国南部の瑞金【ずいきん】から西北部の延安【えんあん】に拠点を遷した。長征【ちょうせい】と呼ばれるが、距離にして1,250キロ、地球の一周の約3分の1にあたる。その間に、紅軍は24の川を渡り、18の山脈を越えた。その一つが、7,556メートルのミニヤ・コンカ峰を最高峰として4,000メートル級の山々が連なる大雪山脈である。彼らは高山病や寒さ・飢えに苦しみ、時には自分の排泄物までをも食料として、この山脈を越えた行ったのだ。『中国の赤い星』を書いたエドガー・スノーは、2年以上におよんだ逃避行を「長征に比べれば、ハンニバルのアルプス越えは、休日のピクニックに過ぎない」と表現した。苦難の末に延安に到達した紅軍は、やがて国民党を破り、1949年に中華人民共和国を樹立する。その共産党が、今や帝政時代の官僚と何ら変わりない振る舞いをしているのは、歴史の皮肉である。
雲海から顔を覗かせる峰々を身ながら、そんなことを考えているうちに、1時間半余りでクンガ空港に到着した。夢にまで見たラサである。タラップを降りて、チベットの大地を踏みしめた。頬にあたる風が心地よい。
添乗員の奥村君は、とにかくゆっくり行動するようにと注意を促す。空気中の酸素濃度が地上の80%しかないのだ。確かに心臓の鼓動が少し速くなったような気はする。
空港で出迎えてくれた現地ガイドの李玉峰さん(なかなかのチベット美人だと思ったら、重慶の人だった)の案内で、バスでラサ市内へと向かった。バスはヤルツァンポ川の支流キチュ川沿いに走る。ヤルツァンポ川はチベット人にとって母なる川。遠くカイラスに源を発し、チベット高原を東に流れ、やがてプラマプトラ川と名前を変えて南流し、バングラデシュでガンジス川と合流する大河である。
川岸や、家々の屋上や岩山と、いたる所で五色の旗が風にはためいている。魔除けと祈りのためにかけられた、経文を記したタルチョと呼ばれる旗だ。タルチョが一度風になびけば一度読経したことになるのだという。五色は赤・白・青・黄・緑で、赤が火、白が雲、青が天空、黄が大地、緑が川を意味しているそうだ。
ラサへの途中、ネタンの磨崖大仏に立ち寄った。 岩に白い紙くずのようなものが貼りついているが、チベット文化独特のカタと呼ばれるスカーフである。 ファッション的な使い方ではなく、相手へ渡す事で心からの敬意を現すの為のもので、仏さんにもお供えする。
釈迦牟尼仏の高さは10メートル弱。日本の仏さんと違い極彩色に彩られており、なんとなくユーモラスなお顔だ。白いのはお香を焚くための献香炉。
ここの岩山にもタルチョがはためいている。
たぶん、真ん中が不動明王。左手は3面8臂だから、日本だと馬頭観音ということになるんだけど、馬の顔が見えない。右手はターラ菩薩かな?分かりませ~ん。
抜けるような青空に、ぽっかり浮かぶ白い雲。雲の影を映す岩山と、その懐に点在する緑の農地。チベットらしい車窓の風景に食い入るように見入っているのだが、いつしか睡魔が襲ってくる。ここ数日の疲れと酸欠状態のため、いやが上にも眠気をもよおすのだ。そこに「寝てはダメですよ」の声が飛ぶ。起きている間は身体が順応して高地での呼吸をするが、眠ることで地上での呼吸に戻ってしまい、血中酸素が不足して高山病を引き起こすのだそうだ。高山病にかかると、頭痛・倦怠感・食欲不振。吐き気といった症状が現れ、ひどい時には死に至る。昨日から予防のために「高原安」という、そのものズバリという名前の薬を飲んではいるが、やはり心配である。心配ではあるが眠い。雪山で遭難したパーティのように、お互いに「眠っちゃいかん」と励まし合いながら、1時間40分もかかってバスは漸くホテルに着いた。(つづく)
8月5日(火)
「意味が分かって使っているのか、おっさん。そんな言葉使うと日本人の機嫌を損ねるぞ」と言ったところで、通じるはずもない。日本人観光客の皆様、外国人に悪い日本語を教えるのは、止めましょう。(つづく)
午前11時40、拉薩飯店に到着。拉薩飯店はラサでもっとも高級なホテルだそうだ。いったん部屋に入って休憩をとった後、まずは腹ごしらえということで、ホテル近くのレストランで昼食。窓の外に子供がやって来て、手を出している。
奥村君が気を利かして、特別料理が登場する。魚の中華あんかけだ。魚が特別料理?と思われる方もあろうが、実はチベット人は魚を食わないのだ。なぜかって?まあまあ、慌てず僕の話をお聞き。
ご存じの方もおいでだと思うが、チベットでは鳥葬が行われている。昨年訪れたインドのムンバイでもゾロアスター教徒が鳥葬を行っている。仏教が入る前のチベットで盛んであった民族宗教のボン教が、どうもゾロアスター教の影響を受けているらしい。それと、仏教なら当然火葬になるのだが、チベットは高地のため木が育たず、木材が貴重であることも影響している。
ご存じの方もおいでだと思うが、チベットでは鳥葬が行われている。昨年訪れたインドのムンバイでもゾロアスター教徒が鳥葬を行っている。仏教が入る前のチベットで盛んであった民族宗教のボン教が、どうもゾロアスター教の影響を受けているらしい。それと、仏教なら当然火葬になるのだが、チベットは高地のため木が育たず、木材が貴重であることも影響している。
チベットの人々は、死んだあとの肉体をほかの生き物に与えることは、この世での最後の施しと考えている。鳥葬は郊外の山上で行われるのだが、ただ遺体を山上に置いて来るだけではない。専門の仕事師がいて、鳥が食べやすいように、爺ちゃん・婆ちゃんの遺体を刃物で切り刻み、骨まで砕いて団子状にし、ハゲタカなどの鳥に喰わせるのである。遺体に群がっている鳥の写真はネットからの借り物。遺体を切り刻んでいる写真もあったが、流石に掲載するのをためらった。(見たい方は、チベット・鳥葬・画像で検索してみてください。)文化の違いとは言え、余り気持ちのいい方法ではない。
普通の人々はこの鳥葬で葬られるのだが、実はそうでない人もいる。たくさんの徳を積んだ偉い坊さんは、もう施しをする必要がないので、火葬とする。特に偉いダライ・ラマのような高僧は、ミイラにして廟塔【びょうとう】(後日、拝ませてもらうことになる)に納める。僕が死んだら、当然火葬にしてもらえると思うんだけど。えっ、お前は鳥葬だって!!
疫病で死んだ人は土葬に、そして、未亡人・子供・乞食の遺体はヤルツァンポ川に流して魚の餌にする。だから、チベットの人々は魚を食べないのだ。
普通の人々はこの鳥葬で葬られるのだが、実はそうでない人もいる。たくさんの徳を積んだ偉い坊さんは、もう施しをする必要がないので、火葬とする。特に偉いダライ・ラマのような高僧は、ミイラにして廟塔【びょうとう】(後日、拝ませてもらうことになる)に納める。僕が死んだら、当然火葬にしてもらえると思うんだけど。えっ、お前は鳥葬だって!!

したがって、目の前の皿に乗っている魚は、昨日まで川底に沈む遺体をつついていたかも知れないのだ。ならば、ならば、ならばこそ、美味いに違いない……。みなさん嫌がって食べようとしない。なら、僕の出番でしょ。ということで、またもフラッシュを浴びながら、箸を運ぶはめになった。
腹ごなしにホテル前の露店を冷やかしに行ってみる。20人ほどのおばはん(失礼、年齢が分からないので)達が。マニ車・ネックレスなど小物を商っている。日本人観光客はそれほど来ていないようで、インドの仏蹟地のように、「ジェンブデ、シェンエ~ン」などといった日本語が飛び交うことはない。片言の英語と電卓での交渉となる。なかなか気さくなおばはんから、銀製(?)のブレスレッドと指輪を、言い値の60元を20元にプライスダウンさせてゲットした。その時、元締めらしきおっさんの口から、「バキヤロウ」の言葉が飛び出した。
「意味が分かって使っているのか、おっさん。そんな言葉使うと日本人の機嫌を損ねるぞ」と言ったところで、通じるはずもない。日本人観光客の皆様、外国人に悪い日本語を教えるのは、止めましょう。(つづく)