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なまぐさ坊主の聖地巡礼

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ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドーテディベアを生んだ大統領・セオドア=ローズヴェルト

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セオドア=ローズヴェルト(1902年撮影)

 1858年ニューヨークの名門に生まれたセオドアは、博物学好きで喘息に苦しむ虚弱な子供であった。彼は体力の無さに応じて生涯の奮闘を決心した。彼は自宅で学習し、自然に情熱を抱くようになる。大学はハーバードに入学し、そこで海軍への関心を高めるようになり、ハーバード卒業から1年後の1881年、彼は最年少議員としてニューヨーク州下院に選任された。

 1882年には「The Naval War of 1812」を出版し、歴史家としての名声を確立した。1884年2月14日、母と出産直後の妻を同じ日に失い、家を出奔、バッドランズで数年間生活した後、ニューヨークに戻って市警察の腐敗と戦うことで名声を得た。

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キューバに侵攻する「ラフ=ライダーズ」

 共和党員として地方議員やニューヨーク市公安委員長などを務めていたが中央政界では無名であったローズヴェルトが脚光を浴びるようになったのは、1897年にマッキンリー大統領の下で海軍次官に抜擢されてからであった。彼は共和党に属し、熱心に海外膨張主義を主張し、特にカリブ海への勢力拡大、中国市場に参画するためにハワイおよびフィリピンの領有を画策していた。

 彼の進めた膨張政策は1898年のアメリカ=スペイン戦争(米西戦争)を実現させたが、彼はその際には「義勇騎兵隊ラフ=ライダース」を率いてキューバに侵攻し、名声を高めた。

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マッキンリー

 19世紀の最後で、次の世紀の指導者を選出する大統領選挙は1900年に行われた。共和党からは帝国主義政策を推進したマッキンリーが再出馬、対抗する民主党からは40歳の若さが売り物のブライアンが立ち、フィリピンや中国への帝国主義進出を舌鋒鋭く批判した。

 それを受けて選挙戦の前線に立ったのが副大統領候補セオドア=ローズヴェルトだった。彼はまだ41歳、若い二人の舌戦が大統領選挙を大いに盛り上げた。

 セオドアは米西戦争では自ら義勇兵を率いてキューバに乗りこみ「帝国主義者」を自称して憚らず、「偉大な文明国の膨張は、常に、法と秩序と正義の勝利を意味する」と主張し、フィリピンをフィリピン人に返せというブライアンの主張に対しては「フィリピンをフィリピン人に返すなら、アリゾナをアパッチ族に返さなければいけない」と反論した。

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ブライアン

 ブライアンは「帝国主義は、現在我々の国を脅かしている最も危険な罪悪である」と訴えたのに対し、セオドアは「私はいかなるときも膨張に賛成である。我が国の兵士が戦い血を流してきた血で、我が国の旗を引き下ろすことはしたくない」と訴えた。

 このアメリカ全土を熱狂にまきこんだ1900年の大統領選挙は、マッキンリーとセオドア=ローズヴェルトの共和党が勝利した。

 ただし、この時の選挙は現代と異なっていた。まず女性に選挙権は認められていなかった。また黒人選挙権は南部における様々な規制法によって実質的に行使できなくなっており、この年、最後まで残っていたノースキャロライナ州選出の黒人下院議員ジョージ=ホワイトが立候補を断念、以後28年間、黒人がアメリカ議会で演説することはなかった。

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1904年の風刺画「棍棒外交」

 1901年9月6日、マッキンリーが暗殺されたため、憲法の規定によりローズヴェルトが大統領に昇格した。なお就任時の42歳と10ヶ月は史上最年少である。内政では、革新主義の高まりを背景にトラスト規制などの改革政治を推進した。外政では力を背景とした実力外交を展開、「棍棒外交」と言われた積極的なカリブ海政策を進めた。「棍棒外交」は本人の言葉である「speak softly and carry a big stick(棍棒を携え、穏やかに話す)」にちなむ。

 すでにマッキンリーの時にプラット条項を強制していたキューバは、ローズヴェルトに代わってから、1902年にキューバ共和国として独立したが、事実上保護国の立場に置かれた。彼はさらに、パナマ運河建設権の獲得など帝国主義政策をとった。日露戦争、モロッコ事件では調停役をつとめ、1906年のノーベル平和賞を受賞している。

ダンロード 
タフト

 その人気にもかかわらず、彼は1908年の大統領選へ出馬しないことを決定した。代わりに、彼の政策を継続してくれるだろうと考え長年の友人タフトを支持した。

 しかしながら、タフトの勝利後に、ローズヴェルトは、タフトが自分の政策に反する考えを持つことが分かり、1912年の大統領選挙に革新党(進歩党とも訳す)を結成して臨んだが、民主党のウィルソンに敗れ再任はならなかった。

 ウィルソンの内政での革新政策は支持したが、外交政策、特に国際連盟加盟に反対し、これを阻止した。

ダウンド 
『ワシントン・ポスト』紙の挿絵

 1902年の秋、ローズヴェルトは趣味である熊狩りに出かけたが、獲物をしとめることができなかった。そこで同行していたハンターが年老いた雌熊(一説には傷を負った子熊)のアメリカグマを追いつめて最後の1発を大統領に頼んだが、ローズヴェルトは「瀕死の熊を撃つのはスポーツマン精神に反する」として撃たなかった。
 
 このことが同行していた新聞記者のクリフォード=ベリーマンによって記事にされ、『ワシントン・ポスト』紙に挿絵入りで掲載された。この挿絵のベアは「ベリーマンベア」と呼ばれた。

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テディベア 

 このローズヴェルトの逸話に触発されて、ロシア移民モリス=ミットムがアイデアル社を興し、熊の縫いぐるみを製造したのが、アメリカ国内初のテディベア・メーカーと言われている。ちなみに、「テディ」はローズヴェルトの愛称である。

 一方、同じ頃にドイツのマルガレーテ=シュタイフの興したシュタイフ社によって、元々はローズヴェルトの逸話と無関係に1902年に作られた熊の縫いぐるみが大量にアメリカに輸入されており、その発注が1903年3月のライプツィヒのトイ・フェアへの出典に端を発するなど公的記録が残されていることから、世界初のテディベアメーカーとしてはシュタイフ社とする説もある。

 
いずれにしても、テディベアという呼称は新聞記事が最初であり、独占的な商標でないことに変わりはない。

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【 2021/03/26 05:09 】

アメリカ近現代史  | コメント(0)  | トラックバック(0)  |

世界史のミラクルワールドー新聞が起こした米西戦争・マッキンリー①

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マッキンリー

 マッキンリーは1843年にオハイオ州ナイルズに生まれ、同地で教師をしたのち南北戦争に北部側で従軍。少佐で除隊し、法律を学びなおして弁護士を開業した。

 共和党の活動に参加、下院議員となり、下院歳入委員長として保護関税政策をとって「マッキンリー関税法を成立させた。1896年にオハイオ州知事から大統領選挙に出馬、共和党と資本家の提携に成功して勝利を得た。

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マッキンリーのキャンペーンバッジ

 現代のアメリカの大統領選挙では、候補者のキャンペーンバッジが盛んに使われている。それが登場したのが1896年の大統領選挙で、共和党のマッキンリーと民主党のブライアンが、ニュージャージー州の徽章業者ホワイトヘッド&ホーグ社が作ったものを使ってからであった。

 小さな肖像写真をセルロイドのシートで覆い、裏側に金属のリングをはめてボタンに固定するもので、直径1インチ(2.54センチ)程度のものだった。大統領ひとりだけのものと正副大統領を並べたもの(上の写真)があった。

 1900年の大統領選挙でもマッキンリーはキャンペーンバッジを作っている。これ以後、どの候補者にとってもバッジはなくてはならない選挙アイテムとなった。

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カメハメハ王

 マッキンリー大統領の外交政策は、19世紀末の帝国主義列強の中でも際だって積極的な海外進出であり、アメリカが帝国化する画期となった。

 まず、1898年にハワイを併合する。ハワイは1778年にイギリスのジェームス=クックが発見。1795年から1810年までに初代カメハメハ王がハワイ諸島を統一して「ハワイ王国」を建設した。ハワイ王国は立憲君主政をとり、諸外国とも外交関係を持つ独立国家であった。

 ちなみに、「カ・メハメハ」はハワイ語で「孤独な人」、「静かな人」の意である。

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リリウオカラニ

  ハワイは長い間、ヨーロッパ列強と日本が狙っていた。アメリカ人宣教師は19世紀初頭、すでに渡来し、アメリカ人は砂糖利権の開発に参加していた。19世紀の終わり、アメリカ人は土着の支配者の政治に不満を持つようになり、1893年彼らはリリウオカラニ女王に対し反乱をおこし、彼女に退位をせまり、共和政をうちたてた。

 彼らはハリスン大統領の時、アメリカとの併合を交渉し始めた。しかし民主党クリーブランド大統領は帝国主義的併合をきらい、その計画を阻止した。1897年6月マッキンリー大統領はアメリカ人の支配下にあるハワイ政府と2度目の併合条約を結び、その批准を待つうち、スペインとの戦争が始まった。

 併合推進者たちはその計画が挫折するのを恐れ、条約という形ではなく両院における合同決議という形で1898年7月7日可決させ、それを待って8月12日ハワイは正式に併合された。その後1900年に准州として政府形態を与えられる。

 ちなみに、リリウオカラニは皆さんご存じの「アロハオエ」の作曲者としれも知られている。

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爆沈するメイン号

 1898年2月、当時スペイン領だったキューバのハバナ沖に停泊していたアメリカの軍艦メイン号が突然爆沈し、266名の乗組員が死亡した(この中には8名の日本人コックとボーイが含まれていた)。

 爆沈の原因は明らかではないが、アメリカ国内の世論はスペインの謀略であるという見方が強くなった。

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当時の新聞記事

 この頃アメリカで生まれた新聞は、部数拡大のために、事実の裏付けのない記事を載せていた。他の新聞より多く売りたいために誇大な見出しを付け、口調はエスカレートする。

 当時、2大イエローペーパーといわれたのが、今もアメリカのマスコミ界に君臨するハースト系の「ジャーナル」紙と、優れたジャーナリズム活動に贈る賞に名が残るピュリッツァーの「ワールド」紙である。

 ピュリッツアーは、「この時は戦争になって欲しかった。大規模な戦争ではなくて、新聞社の経営に利益をもたらすほどのものを」と公然と語っている。

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メイン号と爆沈した後のメイン号(右)

 ハーストは早くから、有名なジャーナリストを特派員としてハバナに派遣していた。この特派員は「一発の銃声も聞かないので、帰国しようと思う」と連絡をしてきたが、ハーストは「しばらく待て。私が戦争を用意する」と電報を打ち、「本紙の特派員は、キューバ反乱軍に接触した」と、嘘の記事を掲載する。

 こうして、「メイン号を忘れるな、スペインをやっつけろ!」という大合唱が起こり、一部の膨張主義者にとって好都合となった。

 湧き起こる世論に押されてり、マッキンリー大統領も開戦を決意し、1898年4月に議会が宣戦を布告し、アメリカ=スペイン戦争(米西戦争)が始まった。新聞が「死の商人」と化し、戦争を起こしたのだ。

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アメリカ=スペイン戦争

 アメリカ海軍はラテンアメリカの各地、太平洋のフィリピンとグアムなどスペイン植民地のスペイン基地を攻撃、スペイン軍と戦闘の結果、4ヶ月でアメリカの勝利となった。

 1898年12月に講和が成立し、パリ条約でキューバの独立は承認され、アメリカはフィリピン・プエルトリコ・グアムを領有した。これはアメリカが行った帝国主義戦争であり、これによって海外に植民地をもつ国家として一躍世界の強国となったのである。

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グアンタナモ基地

 なお、アメリカ=スペイン戦争の時、アメリカがキューバに上陸した地点を、戦後に永久租借とした。キューバが社会主義国となってもアメリカは返還せず、グアンタナモ基地として使用し続けている。(つづく)

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【 2021/03/19 05:09 】

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世界史のミラクルワールドー奴隷解放の父・リンカン②

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サムター要塞攻防戦

 1860年11月のリンカンの大統領当選に南部諸州は直ちに反応、12月に分離を決定し、翌年2月にはジェファソン=デヴィスを大統領に選出、「アメリカ連合国」を発足させた。アメリカ連合国の首都は初めはアラバマ州モントゴメリーであったが、間もなくヴァージニア州のリッチモンドに遷された。

 3月に合衆国第16代大統領として就任したリンカンは南部諸州の分離独立を認めず、対立は決定的となり、1861年4月13日、サムター要塞の攻防戦で火ぶたを切り南北戦争へと突入、リンカンは軍の最高司令官として戦争指揮に当たることとなった。 


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南北戦争時のアメリカ合衆国

 リンカンは連邦政府による合衆国の統一を重視し、南部の分離独立を認めず、開戦に踏み切ったが、戦闘が始まってからも黒人奴隷解放には明確な態度を示さなかった。北部の急進的な奴隷解放論者はあいまいなリンカンの態度を非難している。

 リンカンの思惑の一つは、奴隷廃止を明確にしてしまうと、奴隷州でありながら中立を守っている南部4州(デラウェア、メリーランド、ケンタッキー、ミズーリ)を敵に回してしまうことを恐れたことがあげられる。特にメリーランドは首都ワシントンの北にあるので、その帰趨は重大な意味を持っていた。1862年3月には、黒人奴隷制の漸進的廃止(1900年までに、有償で廃止)を打ち出し、南部諸州を引き留めようともしたが、それは中立4州の反対で実現しなかった。

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リー将軍

 はじめは、騎馬の戦闘力に長ける南部人を組織し、リー将軍などの有能な指揮官がいたので南軍が軍事的に優勢であり、北軍は苦戦を重ねた。リンカンは強硬な奴隷制即時廃止論者と中立諸州の奴隷制継続の要求にはさまれて、窮地に追いやられた。

 1862年のホームステッド法で西部農民の支持を取り付けることに成功したが、イギリスとフランスが非公然ながら南部を支持、支援する情勢であったので、不利な状況が続いていた。

 
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閣僚に奴隷解放宣言の初稿を提示するリンカン

 リンカンは戦争目的を単なる内戦ではない、大義名分を掲げる必要に迫られた。開戦から1年あまりたってから奴隷解放に踏み切ることを決断、1862年9月に「奴隷解放宣言の予備宣言」を公布し、翌1863年1月1日を以て、交戦中の南部諸州の黒人奴隷を無償で、即時に解放すること明らかにした。

 イギリスはすでに1833年に奴隷制度廃止を実現しており、大規模な奴隷制度を維持していた国は、先進諸国にはアメリカを除いてすでに無くなっていた。リンカンが奴隷解放を戦争目的に掲げたことによって、イギリスが南部支持から北部支持に転換するなど、ヨーロッパ諸国は明確に北部支持に踏み切ることができた。また、国際的な支援によって北軍の士気も上がり、リンカンの戦略は成功した。

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ゲティスバーグの戦い

 1863年7月、ペンシルヴェニア州のゲティスバーグで、南軍7万5000と北軍8万8000が激突した。3日間の激戦で南軍を撃退し、それによって北軍は南部への侵攻ルートを確保することができた。両軍の戦闘員16万3000人の、4分の1が犠牲となった。

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ゲティスバーグでの演説

 その戦いの4ヶ月後の1863年11月19日に行われた戦没者墓地奉献式で、リンカンは有名な演説を行った。このゲティスバーグ演説は、272語1449字という約2分間の極めて短いスピーチであったにもかかわらず、リンカンの演説の中では最も有名なものであり、また歴代大統領の演説の中でも常に第一に取り上げられるもので、独立宣言、合衆国憲法と並んで、アメリカ史に特別な位置を占める演説となっている。

 それはこの戦いでの戦没者を悼み、建国以来のアメリカ合衆国のなかでのこの勝利の意義を述べたもので、末尾を次のように締めくくった。

 「これらの名誉の戦死者が最後の全力を尽くして身命を捧げた、偉大な大義に対して、彼らの後をうけ継いで、われわれが一層の献身を決意するため、これらの戦死者の死を無駄に終わらしめないように、われらがここで堅く決心するため、またこの国家をして、神のもとに、新しく自由の誕生をなさしめるため、そして人民の、人民による、人民のための、政治を地上から絶滅させないため、であります。」

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 リンカンの暗殺

 1864年の大統領選挙で再選されたリンカンは、1865年3月、二度目の就任演説で、「いかなる人にも悪意を抱かず、すべての人に慈愛をもって、神が示し給う正義によって、我らの着手した事業の完成に努力しようではありませんか。」と呼び掛けた。だが、これが彼の遺言となる。

 翌1865年4月9日、アポマトックスにおけるリー将軍の降伏で、ほぼ戦争は北軍の勝利に終わった。両軍併せて61万8000人、北軍は36万人、南軍が25万8000人の戦死者を出した。62万に近い死者の数は、第一次世界大戦の約11万、第二次世界大戦の約32万と比べてあまりも大きい。アメリカが体験した戦争の中でもずば抜けて大きな犠牲者の数であった。

 南北戦争が終了したそのわずか5日後の1865年4月14日、復活祭の前の金曜日(グッドフライデー)に、リンカン夫妻はワシントンのフォード劇場に「わがアメリカのいとこ」という喜劇を見に行った。ボックス席で観劇中に、密かに入り込んだ男が至近距離からピストルを発射、リンカンの頭部に命中した。

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ウィルクス=ブース

 犯人はウィルクス=ブースという俳優で、狂信的な南部の支持者だった。リンカンを殺し、ボックスを乗り越えて舞台に飛び降り「暴君の運命はこうだ!」と叫びながら、外に飛び出し、馬で逃亡した。4月25日、ヴァージニアで発見されたが抵抗したため撃たれ、翌日死亡した。

 この暗殺は単独犯ではなく、共謀した仲間は国務長官シューアードが自宅で寝ていたところを襲撃し重傷を負わせた。その仲間も逮捕され、裁判にかけられて死刑または投獄された。

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ケネディ

 在任中の大統領が殺害されたのはこれが初めてだったので、アメリカ全土が震撼した。リンカンが当選したのは1860年であったが、その100年後の1960年に当選したケネディ大統領も、同じように衆人環視の中で狙撃されて死んだ。その他、両者の暗殺にはいくつかの共通点があり、アメリカの歴史の一つの謎とされている。

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リンカン記念堂のリンカン像

 奴隷解放宣言と南北戦争の勝利により、リンカンは「偉大な解放者」the Grate Emancipator となり、アメリカ合衆国憲法修正第13条も各州で批准され、全アメリカで300万人と言われる黒人奴隷の解放は実現していった。

 しかし、アメリカの黒人奴隷解放は順調に進んだわけではなく、黒人差別が現実の問題として深刻となってゆき、現代においてもなお、真の解決には至っていない。

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【 2021/01/12 05:03 】

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世界史のミラクルワールドー奴隷解放の父・リンカン①

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リンカン

 エイブラハム=リンカンは1809年2月12日、ケンタッキーの田舎の丸太小屋で生まれ、川船乗り、製粉業、郵便局長などをしながら1834年ホイッグ党員としてイリノイ州議会の議員に当選、この間独学で法律を学び1836年に弁護士資格も取得した。1846年には連邦下院議員に当選、アメリカ=メキシコ戦争では戦争反対の演説をしたが、戦勝に沸く世論から非愛国者とみなされ、一時中央政界を退いた。

 その後の10年はイリノイ州のスプリングフィールドで弁護士を開業し、企業弁護士として活躍しながら正義感から貧者に対しても真剣な弁護に取り組み「正直者のエイブ」と言われた。

 1850年代に入ると、アメリカ合衆国の北部と南部で、奴隷制の拡大を認めるか阻止するかで激しい対立が生じた。リンカンは黒人奴隷制については奴隷制即時廃止論(アボリショニスト)には混乱を招くとして反対し、南部諸州の奴隷制維持は認めるがその北部への拡大には反対して漸進的に廃止に持っていくのがよいと考えていた。

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ストゥ

 そうした中で、1851年にストゥの『アンクル=トムの小屋』が発表され、1852年5月に単行本として出版されると、たちまちベストセラーとなって最初の10年で30万部を売り尽くした。黒人奴隷のおかれた状況を愛情を持って描いたこの作品は奴隷制反対運動の高揚をもたらし、政界から離れていたリンカンにも刺激を与えた。

 1854年、民主党の奴隷制拡大論者が提案したカンザス・ネブラスカ法が成立し、北部の新しい州に奴隷州を造ることはできないと定めたミズーリ協定が破棄されてしまう。こうして奴隷制拡大派が優勢になると、危機感を強めたリンカンは政界に復帰.。1854年、上院議員選挙にイリノイ州から立候補したが敗れてしまう。

 後日談になるが、リンカンが大統領になってから、ホワイトハウスに招かれたストゥは大統領から、次のような言葉で迎えられている。

 「あなたが、この大きな戦争をひき起こした本をお書きになった小さなご婦人なんですね――」と。

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綿花プランテーションの黒人奴隷

 リンカンは地方議会議員であったときからホイッグ党の党員であったが、ホイッグ党は黒人奴隷制問題が深刻となると、奴隷制度拡大反対か、即時廃止か、維持拡大容認か、などで党員の意見が割れ、内部が混乱して弱体化した。

 リンカンは、黒人奴隷制度の拡大を認めることは、アメリカ合衆国という国家の中に、相容れない社会が二つ固定されることになるとして否定し、「すべての人は平等に造られている」という独立宣言の原則で成り立っているアメリカ合衆国の統一を維持するために1856年、共和党の結成に加わった。

 このリンカンの理念をよく示しているのが、1858年6月のスプリングフィールドにおける共和党州大会での演説「分かれたる家は立つこと能わず」である。

 「この(奴隷制度)拡大運動はやむどころか、ますます昂じてきました。思うに、この動きは、将来危機にまで押し進められ、それを切り抜けるまではやむことがないでしょう。「分かれたる家は立つこと能わず」(マルコ伝3の25)、半ば奴隷、半ば自由の状態で、この国家が永く続くことはできないと私は信じます。私は連邦が瓦解するのを期待しません――家が倒れるのを期待するものではありません。私の期待するところは、この連邦が分かれ争うことをやめることです。それは全体として一方のものとなるか、あるいは他方のものとなるか、いずれかになるでしょう。」

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大統領就任式

 1860年11月の大統領選挙で共和党候補として当選、翌年3月、第16代アメリカ大統領に就任した。共和党としては最初の大統領であった。

 当時、アメリカ合衆国はアメリカ独立革命ともいわれる建国以来80年に近づこうとしていたが、1840年代以来の急速な西部開拓によって国土が膨張した一方、工業化が進んだ北部と、黒人奴隷労働に依存する大農園を基盤とした南部との違いが明確となり、それに建国以来の連邦主義と反連邦主義(州権主義)の対立、保護貿易か自由貿易かという経済政策上の対立などが加わって南北の対立が鮮明となっていた。

 リンカンは北部を基盤とした共和党に属し、連邦主義、奴隷制度拡大に反対という政治的立場にたち、南部を基盤とし州権主義、奴隷制度維持を主張する民主党と対立したが、彼自身は南部の出身で中西部で育ち、極端な奴隷解放論者でもなく、分離主義者でもない中間的立場であったこと、民主党が奴隷制拡大を強硬に主張する南部民主党と奴隷制が維持できれば共和党と妥協してもよいと考える北部民主党に内部分裂していたことが大統領に当選できた理由であった。

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ジェファソン=デヴィス

 1861年3月4日、リンカンは大統領就任演説をおこない、そこで南部に対し黒人奴隷制廃止を迫る干渉はしないこと、自分の使命は合衆国を分裂の危機から守ることであることを訴え、最後に次のような言葉で結んだ。

 
「不満を抱く同胞諸君よ、内乱の重大危局(を避ける鍵)は、私の手にではなく、諸君の掌中に握られております。政府は諸君を攻撃しないでしょう。諸君自らが攻撃者となることがなければ、闘争は起こり得ないでしょう。諸君は、わが国の憲政(ガヴァメント)を破壊しようということを天に誓ったはずもなく、私は「憲法を維持し保護し擁護すべきこと」(憲法第2条1節8項)をきわめて厳重に、宣誓しようとするものであります。(中略)

 われわれは敵同士ではなく、友であります。われわれは敵であってはなりません。たとい感情の緊迫はあったとしても、それでもわれわれの愛の絆を断絶させてはなりません。神秘なる思い出の絃【いと】が、わが国のあらゆる戦場と愛国者の墓とを、この広大な国土に住むすべての人の心と家庭とに結びつけているのでありまして、(この絃が)必ずや時いたって、われわれの本性に潜む、よりよい天使の手により、ふたたび触れ(奏で)られる時、その時には連邦(ユニオン)の合唱(コーラス)が重ねて今後においても高鳴ることでありましょう。」

 
しかし、リンカンの大統領当選で危機感を強めた南部のプランター(農園主)に押された南部諸州が合衆国から離脱。1861年2月に、ジェファソン=デヴィスを大統領としてアメリカ連合国を結成、7月に南北戦争に突入することになる。

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大統領候補のリンカンの肖像

 ところで、リンカンについて我々の多くは顎髭を生やした肖像を思い浮かべる。だが、1860年の選挙戦の時までの彼は髭を生やしていない。

 ニューヨーク州ウェストフィールドでの選挙演説を観た11歳の少女グレース=ベデルの手紙に「貴方はとても痩せているので、顎髭があればもっと立派に見えるでしょ。そうすれば、女性達は夫に貴方に投票するよう勧めるでしょう」とあったため、大統領に当選した後に顎髭を生やし始めた。

 就任式のためにワシントンに向かう彼の列車がウェストフィールドに停車すると、リンカンはグレース嬢と会って、その頬にキスをしたという。(つづく)

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【 2021/01/08 05:12 】

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世界史のミラクルワールドーインディアンを憎んだ男・ジャクソン②

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ジャクソン

 ジャクソン大統領の時期に民主主義が進展したと言われている。それはアメリカでの白人男性普通選挙が各州で採用されるようになったことなどに現れており、ジャクソニアン=デモクラシー(ジャクソン民主主義)といっている。

 ジャクソンの推進した民主主義を支えたのは西部の独立した自営農民と東部の労働者層であり、自立を尊ぶ開拓者精神と権威(エスタブリッシュメント)を嫌う平等主義を共通の心情とするアメリカの「草の根民主主義」の源流であった。

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居留地に向かうインディアン

 しかしその一方で、ジャクソンは「彼らを絶滅から救うために、連邦政府は親切にも新しく居住地を提供し、移動と定着の全費用を支払う」と、人道的立場からの提案としてインディアン強制移住法を制定し、インディアンに対する苛酷な処置をとった。

 インディアン強制移住法は1830年6月23日、下院で賛成102、反対97で成立した。それによって、ジャクソン大統領は、ミシシッピ川以東に住む、チョクトウ、クリーク、チカソー、セミノール、チェロキー(いわゆる開化5部族)、約6万人のインディアンを、必要とあらば強制手段によってミシシッピ以西の地に移住させる権限が与えられた。

 ジャクソンは国防長官らを派遣して、部族ごとに交渉を開始、移住を強制した。まずチョクトウが同意し、続いてクリーク、セミノール、チカソーの各インディアンが相次いで屈服し、1831年暮れから移住が始まった。厳しい冬の集団移住は悲惨の一語につき、食糧も不足する中、氷の上を素足をひきずって幽鬼のような長い列が続いた。

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チェロキー族

 チェロキー達はその有様を知って、強く移住に抵抗するようになった。チェロキーは議会を有して法律を制定し、独立国家としての体裁をもつチェロキー=ネーションを成立させており、その大統領(!)に選ばれていた指導者ジョン=ロスはたびたびワシントンに赴いてアメリカ政府と交渉したり、裁判に訴えた。アメリカ世論の中にもインディアンに同情的なものもあったが、1832年の大統領選挙でジャクソンが再選され、インディアンの希望は潰えた。

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ジョン=ロス

 ジャクソンの姿勢は、合衆国の内部に別個のチェロキー=ネーションが存在することは許せないという政治的な面が強くなった。特にチョロキー=ネーションを抱えるジョージア州は強くその排除を連邦政府に迫った。そのような中で、チェロキー=ネーションの中に移住を承諾するかわりに良い条件を引き出そうという条件闘争派が生まれ、分裂した。

 条件闘争派はジョン=ロスが捕らえられている間に連邦政府と条約を結び、1837年元旦を期して第1陣が移住地目指して出発した。しかしこのグループはインディアンでも豊かな層で、大部分のインディアンは出獄したジョン=ロスに従って、チェロキー=ネーションを離れようとしなかった。

 1837年に大統領となったヴァン=ビューレンはジャクソンの子分だったのでチェロキーに移住を強く迫り、将軍スコットを派遣した。スコットは軍隊でチェロキーをいったん強制的に収容所に押し込んだ。収容所の惨状を見たジョン=ロスも、移住費用を政府が持つことでついに移住に同意した。

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オクラホマ

 チェロキー=インディアンの移住は1838年9月から1839年3月にかけて、アメリカ東南部のジョージアから、ミシシッピを越え、西部のオクラホマまでの1300キロの距離を、1万3000人を1000人ずつの13集団に分けて行われた。幌馬車が1集団あたり50台、1人に毛布1枚が支給され、途中の食糧調達用に1人あたり66ドルが当てられた。

 しかし、途中で彼等に食料を売りつけた白人の業者が不当に値段を上げたので、たちまち底をつき、インディアンは寒さと飢えでつぎつぎと病に罹った。80日間という移動期間が決められていたので、病人が出てもとどまることができず、うち捨てられた。この悲惨な旅路で、約4分の1が命を落としたという。ジョン=ロスの妻のクオティーも肺炎で死んだ。

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「涙の旅路」

 チェロキー=インディアンが泣きながらたどった西への1300キロの道程を「涙の旅路」 The Trail of Tears と呼んだが、原語では Nuna-da-ut-sun'y で「そこで人びとが泣いたふみわけ道」の意味である。旅路と言っても道があったわけではなく、原野を踏み分けていったので、「涙のふみわけ道」ともいう。

 1839年3月、彼等は目的地オクラホマに着いた。チョクトウ=インディアンの言葉でオクラは「人々」を、ホマは「赤い」を意味する、平原インディアンが生活している場所であった。

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 亡くなったジョージ=フロイドさん

 2020年5月のミネアポリスでの黒人ジョージ=フロイドさんが白人警官に殺害された事件に対する抗議行動は、暴動を各地で誘発しただけでなく、歴史的な人種差別主義への告発として広がっており、各地で歴史上の人物が差別主義者と糾弾され、引き倒されるなどの動きとなって続いた。

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ジャクソンの騎馬像を引き倒そうとするデモ隊
 
 それに対してアメリカのトランプ政権は神経を尖らせ、そのような破壊行動に対しては首謀者を割り出し、逮捕するという大統領令を出した。その一発目で、6月28日、アメリカ司法省はワシントンのホワイトハウス近くにある第7代ジャクソン大統領の騎馬像を引き倒そうとしたデモ隊のリーダー格4人を訴追した、と発表した。

 ジャクソンのインディアン強制移住法は最悪の人種差別政策として糾弾されるべきであろう。当時の事情から言って彼に人種差別の意図はなかった、という弁解論が当然あろうが、大統領という職務は歴史的審判を受けなければならないものだとすれば、現代の価値基準で彼を差別主義と糾弾するのもいたしかたないだろう。

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2021/01/05 05:19 】

アメリカ近現代史  | コメント(0)  | トラックバック(0)  |
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