なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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ティトー
ティトーは1892年5月7日、オーストリア=ハンガリー帝国構成国のクロアティアで農民の子として生まれた。父親はクロアティア人、母親はスロヴェニア人であった。本名はヨシフ=ブロズといい、ティトーという名前は1934年頃から使い始めた偽名で、「お前があれをしろ」とう横柄な口調からついたあだ名である。
1907年、のどかな田舎から一転して錠前屋の見習として働き出すと、労働運動に関心をもつようになり、1910年、冶金工の労働組合に加入し、クロアチアの社会民主党にも加わった。
1913年の秋から、徴兵により兵役に就き、第一次世界大戦中はロシアと戦ったが、榴弾砲により重傷を負い、ロシアの捕虜となった。病院で数ヶ月療養したのち、1916年の秋、ウラル山脈にある労働収容所に送られた。1917年4月、ティトーは戦争捕虜たちのデモを組織したとして逮捕された。後に脱走して、1917年の7月16日から17日にかけて起きたサンクトペテルブルクでの反政府デモ(七月蜂起)に参加している。警察から逃れるため、フィンランドまで逃げたが、結局捕まった。その後、逃亡に成功し、1917年11月、シベリアのオムスクで赤軍に参加し、1918年春にはロシア共産党に入党した。

ティトーとパルチザン
ティトーは1920年に帰国してユーゴスラヴィア共産党に参加。1928年に逮捕され、5年間投獄された。1934年以降コミンテルンで働き、1936年発生したスペイン内戦では、国際旅団の「ディミトロフ」大隊の指揮官の一人として従軍した。1937年末にユーゴ共産党の書記長に任命されたティトーは、知識人が多くを占める当時の共産党指導部にあって、数少ないたたき上げの労働者の一人であった。
第二次世界大戦中の1941年4月にユーゴスラヴィアはドイツ軍により占領された。ティトーは41年6月から始まるパルチザン戦争の最高司令官として、ボスニアやモンテネグロの山岳地を転々としながら困難な戦いを続けた。1943年5月から8月にかけてドイツの第5次攻勢の際、山中を移動中の最高司令部が爆撃をくらい、イギリスからの連絡将校の一人が死亡、ティトーも大けがを負った。
この間、ティトーの活動は連合国によって直接的に支援されており、1944年6月には、ティトーのパルチザンを支援するために、バルカン半島で活動するイギリス空軍部隊が編成されている。しかし、ティトーがスターリンに接近しようとすることに対して、司令部にいるイギリス軍やアメリカ軍の将校とたびたび険悪になった。
戦争が終結すると、これらの軍隊は撤収し、パルチザンたちはユーゴスラヴィア全域の支配権を確立した。1946年1月31日、新しい憲法によって、6つの構成共和国が定められた。ユーゴスラヴィア連邦の初代首相にはティトーが選ばれた。
ユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国は、「7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字、それでも1つの国家」と言われる複合国家であった。それぞれを確認すると次のようになる。
7つの国境:イタリア、オーストリア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、ギリシア、アルバニアの7ヵ国と国境を接している。
6つの共和国:北から、スロヴェニア、クロアティア、ボスニア=ヘルツェゴヴィナ、セルビア、モンテネグロ、マケドニアの6つの共和国から成る連邦国家である。
5つの民族:スロヴェニア、クロアティア、セルビア、モンテネグロ、マケドニアが主たる民族。これ以外にムスリム人(イスラーム教徒)、ドイツ人、ロマ、など少数民族が存在。
4つの言語:スロヴェニア語、クロアティア語、セルビア語、マケドニア語がある。
3つの宗教:キリスト教のカトリックとギリシア正教、それとイスラーム教。
2つの文字:スロヴェニア語とクロアティア語はラテン文字を使用。他のセルビア人などはロシア語と同じキリル文字を使用。
ティトーとスターリン
共産党指導者としてソ連とは協力関係にあり、始めはソ連社会主義の模倣に過ぎなかったが、スターリンの個人崇拝には批判的でソ連共産党と対立し、1948年にはコミンフォルム除名という試練を受けることとなった。コミンフォルム除名後の試行錯誤の中から、ソ連を反面教師としてさまざまな実験を続けることになる。それはパルチザン戦争時に勝るとも劣らないほどの困難であった。
彼が目指したのは、「独自の社会主義」を形作る自主管理であり、非同盟であり、1970年代以降の連邦制であった。クロアチア人とスロヴェニア人を両親とする個人的な生い立ちもあり、ティトーは民族問題にも取り組み、自国の共産党をまとめ、ユーゴスラヴィア国家の統一も維持することに成功した。
ティトーは国際社会では非同盟主義を掲げ、エジプトのナセル、インドのネルー、中国の周恩来らとともに第三世界のリーダーとして活躍し、1961年には第1回非同盟諸国首脳会議を首都ベオグラードで主催した。アジア・アフリカ諸国を中心に25ヵ国が参加した。こうしてティトーはネルー、周恩来、ナセルらとともに非同盟主義のリーダーとして、世界的に重要な立場に立った。
また、1953年にスターリンが死去するとソ連との関係を改善し、1955年にフルシチョフがユーゴを訪問し国交を正常化させた。しかし、同年結成されたワルシャワ条約機構には加盟しなかった。1968年のチェコ事件では、ソ連のブレジネフ政権がブレジネフ=ドクトリン(制限主権論)を掲げて軍事介入したことに対しては強く批判した。
ティトーの国葬
ティトーの自主管理社会主義は「友愛と統一」で多民族国家ユーゴの維持を図ろうというものであった。1960年代には緊張がゆるみ、加えて自主管理社会主義が実質化され、分権化が進むと、民族問題が再燃した。ティトーは民族・共和国間の均衡をとることによって問題の解決に当たったが、その民族政策は結局のところ、ユーゴスラヴィアの解体、そして民族対立による凄惨な内戦に帰結してしまった。
1970年にはクロアティアで市民、学生が自治を要求してストライキを行うなど、民族主義の動きが表面化した。ティトーの連邦政府は運動を抑えつけるとともに自由化を分権化を明確にした新憲法を1974年に制定したが、一方でティトーは議会において終身大統領に選出され、統合の象徴を強化する措置がとられた。しかし、この憲法は各共和国が自立する根拠を与えることとなる。
ティトーが1989年に87歳で死去すると、重しがはずれたようにユーゴスラヴィア連邦内の共和国で民族主義が再燃する。ティトー批判は死後すぐではなく、1980年代後半になり、とりわけセルビアにおいて顕著になった。「74年憲法体制」といったティトーの「遺産」も批判の対象とされるようになり、ジャーナリズムでは「ティトーの第二の死」という表現が好んで用いられた。パルチザン戦争の英雄であり、カリスマ性を備えたティトーに対する、人々の敬愛の念や親しみの感情がすっかり消え失せ、ティトーという呼称ではなく、ブロズという本姓でかれを冷たく呼ぶようになっていく。
1991年のスロヴェニア・クロアチアの独立宣言からユーゴスラヴィアは一挙に解体に向かうことになる。その間、分離に反対するセルビアとの激しい内戦(ユーゴ内戦・ボスニア内戦)が1995年まで続いた。セルビアとモンテネグロは新ユーゴスラヴィア連邦を作ったが、それも2006年に分離したため、連邦国家ユーゴスラヴィアは完全に消滅した。
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フランクリン=ローズヴェルト
第二次世界大戦中の連合国の戦後処理構想のなかで、ローズヴェルトの果たした役割は非常に大きい。まず、日本軍の真珠湾攻撃に先立ち、1941年8月9日、大西洋上でチャーチルと会談し、大西洋憲章を発表。ファシズムとの戦争という戦争目的で一致した。
1941年12月7日の真珠湾攻撃を受けて日米開戦、さらに11日ドイツ・イタリアとに宣戦布告を行うと、22日にチャーチルとアルカディア会談を行い、太平洋戦争勃発への対応と対ドイツ作戦、合同参謀本部の設置、連合国共同宣言などで合意した。
1941年12月7日の真珠湾攻撃を受けて日米開戦、さらに11日ドイツ・イタリアとに宣戦布告を行うと、22日にチャーチルとアルカディア会談を行い、太平洋戦争勃発への対応と対ドイツ作戦、合同参謀本部の設置、連合国共同宣言などで合意した。

カイロ会談でチャーチル・蔣介石と
その後も、1943年1月、カサブランカ会談でチャーチルとシチリア上陸作戦の検討、無条件降伏の原則の表明した。その後もイギリスとは頻繁に作戦上の調整を行っている。1943年11月、カイロ会談ではチャーチル・蔣介石との間で対日戦争の戦後処理方針を決定し、カイロ宣言を発表した。続いてテヘラン会談ではじめてスターリンを加えた米英ソ三国首脳会談に参加し、第二戦線問題とポーランド問題、ソ連日本参戦問題を検討した。
1944年には6月にノルマンディー上陸作戦を敢行してヨーロッパで反撃を開始、さらに太平洋で日本軍を追い詰めていくなか、7~8月には、アメリカの主導で、ブレトン=ウッズ会議で戦後の国際経済体制、ダンバートン=オークス会議では国際連合規約の草案検討がそれぞれ実務者間で開催された。
ヤルタ会談の三巨頭1944年には6月にノルマンディー上陸作戦を敢行してヨーロッパで反撃を開始、さらに太平洋で日本軍を追い詰めていくなか、7~8月には、アメリカの主導で、ブレトン=ウッズ会議で戦後の国際経済体制、ダンバートン=オークス会議では国際連合規約の草案検討がそれぞれ実務者間で開催された。
ローズヴェルトは39歳の時にカナダの冷たい海で泳いだことがきっかけでポリオに罹り、下肢が不自由になって車いすがなければ1mも歩けなかった。1944年11月に戦争完遂を掲げて4期目の大統領選挙に立候補した時には63歳であったが、医師団の一人の心臓医学専門家は、ローズヴェルトの血圧が異常に高いことに警告を発していた。
就任時は136/78mmHgだった血圧は1937年には162/98mmHg、1941年には188/105mmHgと昇り続け、1944年4月には200/108mmHgとなり、心尖拍動が左前腋窩線に位置するまで心臓も拡大し続けた。1944年の春から咳が続き、鬱血性心不全と診断されジギタリスの服用で軽快しましたが、アメリカ史上初の大統領4選を目指して遊説中の1944年11月の血圧は260/160mmHgにも達していたのである。
しかし、主治医のマッキンタイヤー軍医は健康診断の結果として大統領の服務に十分耐えられる健康体であると診断し、心臓専門医の意見は無視された。こうしてローズヴェルトの真の健康状態は伏せられたまま大統領選挙で国民は彼を4たび大統領として選出した。大戦末期の戦争指導と、スターリンやチャーチルと渡り合うという国際会議の連続は、彼の体力を急速に奪っていった。
ヤルタの位置
1945年2月4日から11日にかけてクリミア半島の避暑地ヤルタで、ローズヴェルト・チャーチル・スターリン三巨頭による会談が行われた。開催地のヤルタはソ連の領土で、スターリンは自分の庭で会議を開くという政治的に有利な立場にあった。さらに、スターリンは自国内移動のため健康面でも有利だった。チャーチルは約3000km、ローズベルトにいたっては約9000kmの道のりを経て開催地に到着しなければならなかった。
リヴァディア宮殿
この時、ローズヴェルトはアメリカからヤルタまで10日間かかっている。巡洋艦で大西洋を横断して地中海のマルタ島へ、飛行機に乗り換えてヤルタへ、さらに自動車で会談場であるヤルタ郊外のリヴァディア宮殿に到着した。会談場に到着した時点でローズヴェルトは疲労困憊の状態にあった。
虚ろな表情のローズヴェルト
この時のローズヴェルトの血圧は300/170 mmHgもあり、その虚ろな表情から体調は最悪であったことがわかる。日本の運命を決めたこの重要な会談で、ドイツが降伏した2~3カ月後に、ソ連が対日参戦すること、その見返りとして南樺太と千島をソ連に引き渡すこと、さらに東ヨーロッパはソ連の支配下に入ることなど、ソ連にとって一方的に有利な約束がなされた。
肉体的にも精神的にも限界の状態で、一方的にスターリンに攻め込まれた。チャーチルがいくら奮闘しても、これでは老練なスターリンに抗すべくもなかったのである。
寒冷地での一週間に及ぶ会談から帰国したローズヴェルトはウォーム・スプリングズで静養生活に入った。しかし、1945年4月12日の昼食前に脳溢血のため63歳で死去した。死亡日の血圧は300/190 mmHg。第二次世界大戦の終結とその勝利を目前にした死であった。
大統領が現役で、しかも大戦の最中に死去したことは、大統領としてふさわしい健康状態であったか、その健康管理は適切であったか、疑問が出されたが、何故か大統領のカルテは紛失し、事実を究明することはできなかった。
昆明におけるフライングタイガース
ローズヴェルトは日本軍によって追い詰められた重慶の蔣介石政権に対し援蔣ルートを通じて盛んに支援を続け、さらにアメリカの退役軍人を中心とする義勇軍「フライングタイガース」を中華民国へ派遣したが、戦闘機(100機)やパイロットはアメリカ政府が用意しており、実質、義勇軍の名を借りたアメリカの対日戦闘部隊であった。
1940年9月、日本が援蒋ルートの遮断を狙ってフランス領インドシナ北部に進駐、さらにアメリカを仮想敵国とする日独伊三国同盟を結成したことにより日米関係は決定的に悪化した。
1941年4月から日米交渉が開始されたが、7月に日本がさらに南部仏印進駐に踏み切ったことに対し、アメリカは日本への石油輸出を禁止し、日本はABCDラインによる包囲網と捉えて反発を強めた。アメリカは中国などからの撤兵、満州の放棄などを要求するが、日本軍は武力解決の道を選び、12月7日(日本時間8日)、真珠湾攻撃を実行した。
12月7日は日曜日だった。朝7時55分、攻撃が始まると教会に行く準備などをしていた人びとは、一瞬、訓練かとも思ったが、すぐに日本軍の空襲だと判った。ハワイの人びとにとってもその日は忘れられない日となった。停泊中のアリゾナは爆撃による火災が弾薬庫に引火して大音響とともに転覆し、逃げ遅れた乗組員1177人が艦とともに海底に沈んだ。攻撃は二波におよび午前10時頃終わった。日本軍による数時間の攻撃で死亡した人の数は2488人にのぼった。その大半は軍関係者であったが、一般市民も46人が犠牲となった。
宣戦布告と攻撃と同時に行う予定であったが、実際には攻撃開始より1時間後に宣戦布告が届いたため、アメリカ側はこれを奇襲と受け取った。ローズヴェルトは日本のだまし討ちであるとして非難し、国民に「パール・ハーバーを忘れるな!」と呼びかけ、それまで参戦に消極的だった国民の戦争意欲を高めた。
ローズヴェルトは翌8日に議会に臨み、宣戦布告を求める演説の中で、パール・ハーバー奇襲を許した日が将来「汚名のうちに生きる日」になると断言し、抗戦の強い意志を表明し、日本に宣戦布告。日本の同盟国ドイツ・イタリアもアメリカに宣戦布告したため、アメリカは参戦して、枢軸国との全面戦争に突入した。日本の真珠湾奇襲はローズヴェルトに参戦の口実を与える結果となった。
アメリカの参戦は、従来の孤立主義から転換することであり、アメリカの外交政策の大きな変化であって、それ以後のアメリカは、大戦を通じて積極的に連合国のリーダーシップをとるようになっていく。
ローズヴェルトは翌8日に議会に臨み、宣戦布告を求める演説の中で、パール・ハーバー奇襲を許した日が将来「汚名のうちに生きる日」になると断言し、抗戦の強い意志を表明し、日本に宣戦布告。日本の同盟国ドイツ・イタリアもアメリカに宣戦布告したため、アメリカは参戦して、枢軸国との全面戦争に突入した。日本の真珠湾奇襲はローズヴェルトに参戦の口実を与える結果となった。
アメリカの参戦は、従来の孤立主義から転換することであり、アメリカの外交政策の大きな変化であって、それ以後のアメリカは、大戦を通じて積極的に連合国のリーダーシップをとるようになっていく。
炎上する真珠湾上空を飛行する九七式艦上攻撃機
ローズベルトは真珠湾攻撃が迫っているとの情報を受け取っていながら、わざと行動を起こさなかったとする陰謀論がある。
もちろん、日本軍による米英攻撃の可能性は、日米交渉が行き詰まるなかで予想された事態であったし、ローズヴェルト政権は、「マジック」と呼ばれた暗号解読によって、日本側が野村・来栖両大使に送った日米交渉打ち切りの電文を前日の夜には傍受していた。チャーチルも12月2日には日本の開戦間近との情報をつかみ、ローズヴェルトとチャーチルに通知していたが、それは日本軍によるタイ南部のクラ地峡攻撃を予想するものであった。
大統領側近のホプキンズの後の証言でも、当時のローズヴェルトは、日本がフィリピンやハワイではなく、フランス領インドシナやタイを攻撃することを予想し、その場合、果たして議会や世論が合衆国の参戦に賛成するかどうか苦慮していたという。つまり、日本軍による真珠湾攻撃は、米英にとって予想外の「奇襲」だったようだ。
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もちろん、日本軍による米英攻撃の可能性は、日米交渉が行き詰まるなかで予想された事態であったし、ローズヴェルト政権は、「マジック」と呼ばれた暗号解読によって、日本側が野村・来栖両大使に送った日米交渉打ち切りの電文を前日の夜には傍受していた。チャーチルも12月2日には日本の開戦間近との情報をつかみ、ローズヴェルトとチャーチルに通知していたが、それは日本軍によるタイ南部のクラ地峡攻撃を予想するものであった。
大統領側近のホプキンズの後の証言でも、当時のローズヴェルトは、日本がフィリピンやハワイではなく、フランス領インドシナやタイを攻撃することを予想し、その場合、果たして議会や世論が合衆国の参戦に賛成するかどうか苦慮していたという。つまり、日本軍による真珠湾攻撃は、米英にとって予想外の「奇襲」だったようだ。
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フランクリン=ローズヴェルト
ローズヴェルトは1933年に市場の拡大と日本・ドイツへの牽制の意味から、ソヴィエト連邦を承認した。
この頃、ヨーロッパにおけるドイツ・イタリア、アジアにおける日本のファシズムの台頭が急激になり、ナチス=ドイツのヒトラーによる再軍備、イタリアのムッソリーニ政権によるエチオピア侵入、日本の満州事変から満州国建国と緊迫した情勢が続いた。
この頃、ヨーロッパにおけるドイツ・イタリア、アジアにおける日本のファシズムの台頭が急激になり、ナチス=ドイツのヒトラーによる再軍備、イタリアのムッソリーニ政権によるエチオピア侵入、日本の満州事変から満州国建国と緊迫した情勢が続いた。
しかしアメリカの世論はこの段階でも孤立主義の伝統が根強く、アメリカ議会は1935年に中立法を制定して参戦を否定し、ローズヴェルトもこの段階ではその規定に従って中立を守り、直接介入は慎重に回避した。
その一方で、それまでのアメリカのカリブ海外交の強圧的態度を改め、善隣外交を展開、キューバのプラット条項の廃止などを実現した。また、1934年には議会でフィリピン独立法が成立し、10年後のフィリピンの独立を認めた。
その一方で、それまでのアメリカのカリブ海外交の強圧的態度を改め、善隣外交を展開、キューバのプラット条項の廃止などを実現した。また、1934年には議会でフィリピン独立法が成立し、10年後のフィリピンの独立を認めた。
隔離演説をするローズヴェルト
ファシズム国家の侵略行動は続き、1936年にはドイツのラインラント進駐、イタリアはエチオピア併合、さらにスペイン戦争、1937年には日本軍が盧溝橋事件・第2次上海事変で中国本土への侵攻を開始し日中戦争が始まるという世界戦争の危機が高まった。
その事態を受けて、ローズヴェルトは1937年10月にシカゴで演説し、暗にドイツ・イタリア・日本を危険な感染症にかかった患者にたとえて隔離すべきであるいう「隔離演説」(または防疫演説)を行い、世界の注目を浴びたが、この段階でもアメリカ国内の世論は戦争への参加に批判的であった。
1936年は大統領選挙の年だった。ニューディールが「左傾」したため、ローズヴェルトの評価は大きく分かれるものとなった。保守派は彼を激しく非難し、財界人も批判を強めていた。
しかし、一般民衆はローズヴェルトを支持していた。ローズヴェルトはわずか2州を落としたのみで、選挙人票で523対8という史上最高の得票差による勝利を得た。一般投票でも、共和党のランドンに1100万票の大差をつけ、2775万票、率にして61%を獲得した。この比率は、1964年のジョンソン圧勝まで破られなかったのである。
しかし、一般民衆はローズヴェルトを支持していた。ローズヴェルトはわずか2州を落としたのみで、選挙人票で523対8という史上最高の得票差による勝利を得た。一般投票でも、共和党のランドンに1100万票の大差をつけ、2775万票、率にして61%を獲得した。この比率は、1964年のジョンソン圧勝まで破られなかったのである。
1939年9月1日、ヒトラーがポーランドに侵攻して第二次世界大戦が勃発してからは、ファシズムに対する闘いを支援する姿勢を強め、中立法を改正してイギリスへの事実上の武器輸出を開始し、以後は参戦の機会を待った。
ローズヴェルトはさらに1944年に戦争の継続という特例から四選に出馬し当選する。これは戦争中の特別のケースとはいえ、長すぎるという批判があり、1951年の憲法修正22条で明確に三選は禁止された。
1940年11月、ローズヴェルトはアメリカ史上初めて、大統領として三選された。)憲法は大統領の三選を禁じてはいなかったが、初代大統領の例にならって、あえて三選に挑む例はなかった。ギャラップ世論調査では、ローズヴェルトが三選に立候補したら彼に投票するかという問に、イエスが47%、ノーが53%だった。
しかし、ともかく彼は1940年11月にアメリカ史上初の三選を果して、1941年1月(従来の就任式は3月4日。当選から就任までの期間が長すぎたので、彼は第1期就任中に大統領就任式を現在のように1月20日に改めた)に三度目の就任式に臨み、有名な「四つの自由」演説を行った。言論および表現の自由、信教の自由、欠乏からの自由、恐怖からの自由など、ファシズムから守らなければならない四つの自由をあげて、民主主義国家としての道義的な戦争目的を明らかにしたのだ。
しかし、ともかく彼は1940年11月にアメリカ史上初の三選を果して、1941年1月(従来の就任式は3月4日。当選から就任までの期間が長すぎたので、彼は第1期就任中に大統領就任式を現在のように1月20日に改めた)に三度目の就任式に臨み、有名な「四つの自由」演説を行った。言論および表現の自由、信教の自由、欠乏からの自由、恐怖からの自由など、ファシズムから守らなければならない四つの自由をあげて、民主主義国家としての道義的な戦争目的を明らかにしたのだ。
ローズヴェルトはさらに1944年に戦争の継続という特例から四選に出馬し当選する。これは戦争中の特別のケースとはいえ、長すぎるという批判があり、1951年の憲法修正22条で明確に三選は禁止された。
ローズヴェルトは1941年3月に武器貸与法を制定して事実上の参戦を果たした。また同年年8月9日にはイギリス首相チャーチルとの大西洋会談を行って、ファシズム国家との戦争という目的で一致し、早くも戦後における国際平和を維持できる機構の創設で一致し、その構想から国際連合が生まれることとなった。
それでも正式な参戦は出来ないでいた。それは、国内には孤立主義に固執する保守派や、ソ連の共産主義を危険視してナチス=ドイツを支持する勢力も一定程度存在したためである。ローズヴェルトは、国論が参戦で一致出来るチャンスを待っていた。(つづく)
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しかし、すでにその頃アメリカの農業生産は過剰となり、いろいろな救済案も成功せず、農産物価格の下落はやまなかった。それにもかかわらず1929年3月の大統領就任演説でフーヴァーは、「私はわが国の前途に不安を覚えない。それは希望に輝いている」と述べていた。
取り付け騒ぎでアメリカ連合銀行に集まった群衆
1929年10月21日月曜日、世界資本主義の中枢、ニューヨークのウォール街の株式取引所で株価の大暴落が始まった。一時的なことであろうという投資家たちの楽観を尻目に、23日事態はさらに悪化し、大金融家たちの買い支えも効果がなかった。
そして、24日の「暗黒の木曜日」がやってきた。取引所では人びとが押し合い、わめきあい、ひっきりなしにかかっている電話は、ことごとく「売り」である。この日一日で約1300万株が売られ、(前日のおよそ倍)、中にはいくら値を下げても、買い手がつかない株も少なくなかった。この日に自殺した投資家が11人ほどというニュースも流れ、高層ホテルで部屋を求めると、「お休みになるのか、窓を利用なさるのか」と聞かれる有様であった。しかも29日は「最悪の日」となり、1640万株が売りに出された。
アメリカでは、1929年9月が株価上昇のピークだったが、11月になると株価指数は3分の2になり、さらに2年半も下落し続け、株価が底に達した1932年6月には、ピーク時の6分の1弱になっていしまった。このような株価下落は平均の数字であり、個々の株ではさらに激しい下落を示すものも珍しくなかった。世界最大の鉄鋼会社だったUSスチールの株は、以前の12分の1の22ドルに、最大の自動車会社ジェネラル・モーターズの株は9分の1の8ドルに下がった。こうして、株の値上がりで一財産築いた人びとが、一夜にして財産を失い、家財道具を売り払うようになった。
イギリスのある失業者

フランクリン=ローズヴェルト
フランクリン=ローズヴェルトは1882年1月30日にニューヨークで生まれた。第26代大統領セオドア=ローズヴェルトは遠い従兄にあたる。フランクリンは若いころからセオドアを目標として政治家を志し、ハーヴァード大学とコロンビア大学で法律を学び、第一次世界大戦では民主党のウィルソン大統領の下で海軍次官補を務めた。1921年頃小児麻痺にかかって両足の自由を失い、松葉杖の生活になったが、政界に復帰し、1928年にニューヨーク州知事に選出された。
世界恐慌の最中の1932年11月に行われた大統領選挙で、ローズヴェルトは民主党から立候補し、全米48州のうち42州で共和党のフーヴァーに勝った。選挙人数では約9割を獲得し、史上最高だった。一般投票では、それまで最高の2281万票(57%強)を獲得し、フーヴァーを700万票も上回った。「フーヴァー以外なら誰でもよい」と言われていたが、1600万人ちかい人々は、以前からの支持政党へ投票したわけである。
1933年3月4日、第32代大統領に就任、1920年代に続いた共和党政権に代わり、民主党の政権を実現した。
選挙中は「ニューディール」の具体的中身はまだ無かったが、当選後に政治や経済の専門家をブレーンとして採用して、総合的な恐慌対策を策定し、3月4日の就任以後、矢継ぎ早に政策を実施に移していった。まず、折からの金融不安を「バンク・ホリデー」と称して銀行を4日間閉鎖し、その間に緊急銀行救済法を成立させて国民にラジオを通して預金を呼びかけ、金融の信頼回復に努めた。
さらに、新政権成立から3週間もたたない3月22日、アルコール分3.2%以下のビール製造を許可し、酒税を徴収する法律が定められ、国民に新しい時代に入ったことを印象づけた。禁酒主義者からみれば不当な法律だったが、相当数の国民を元気づけた。恐慌を一時忘れるには、アルコールは有効だったし、その製造・販売などさまざまな分野で仕事が増えることが確実だったからである。
また彼は、当時マスコミとして広く普及していたラジオを活用し、たびたび「炉辺談話」として国民に直接話しかけて政策の理解を求め、それによって国民の強い支持を受けることとなった。直接語りかけるようなローズヴェルトの、やや甲高いが親しみを感じさせる話し方は、不況で意気消沈しがちな国民を元気づけるうえで非常に有効だった。
こうして株式恐慌に始まり、たくさんの銀行が破産し、1929年から4年ほどの間にアメリカの工業生産は半分以下に減り、失業者は1283万人、全労働者の4人に1人が失業という惨状になった。
恐慌は、まず西半球のアメリカ勢力圏からアジアの植民地・従属国に広がり、さらにヨーロッパの工業国へと波及した。全資本主義国の全経済部門に及び、1929年から32年までに世界の工業生産は半減し、1932年末には全世界の失業者は5000万人を超えたと推定されている。特に恐慌が深刻になったのはドイツであった。1931年5月、オーストリアの銀行クレディット=アンシュタルトが破産し、それを機に中欧諸国の金融恐慌が発生し、ドイツにあった金は国外流出を続け、財政は巨額の赤字となった。特に多額の賠償金と負債を抱えていたドイツはアメリカの支援で経済が成り立っていたので、ドイツ経済も破綻、そのドイツから賠償金を取り立てていたイギリス・フランスの経済も破綻した。
アメリカ発の株式暴落が世界恐慌に拡大した理由は、アメリカ合衆国が第一次世界大戦後、世界最大の債権国となっており、世界経済がアメリカ経済に依存する体質になってしまっていたためであり、アメリカの経済が破綻したことが必然的に世界経済の破綻へとつながってしまった。
恐慌は、まず西半球のアメリカ勢力圏からアジアの植民地・従属国に広がり、さらにヨーロッパの工業国へと波及した。全資本主義国の全経済部門に及び、1929年から32年までに世界の工業生産は半減し、1932年末には全世界の失業者は5000万人を超えたと推定されている。特に恐慌が深刻になったのはドイツであった。1931年5月、オーストリアの銀行クレディット=アンシュタルトが破産し、それを機に中欧諸国の金融恐慌が発生し、ドイツにあった金は国外流出を続け、財政は巨額の赤字となった。特に多額の賠償金と負債を抱えていたドイツはアメリカの支援で経済が成り立っていたので、ドイツ経済も破綻、そのドイツから賠償金を取り立てていたイギリス・フランスの経済も破綻した。

フランクリン=ローズヴェルト
アメリカは1930年6月、スムート=ホーレー法を成立させ、農産物だけではなく工業製品でも関税引き上げを実施した。各国も自国産業を守るために、保護貿易主義に転換したため、世界的な貿易不振が起き、かえって恐慌を長期化させることとなった。またドイツの窮状を救うため、フーヴァー大統領は1931年6月にフーヴァー=モラトリアム(支払猶予令)、を発表し、戦債・賠償金支払いを1年停止することにしたが、タイミングが遅すぎて効果はなかった。
車イス姿のローズヴェルト
フランクリン=ローズヴェルトは1882年1月30日にニューヨークで生まれた。第26代大統領セオドア=ローズヴェルトは遠い従兄にあたる。フランクリンは若いころからセオドアを目標として政治家を志し、ハーヴァード大学とコロンビア大学で法律を学び、第一次世界大戦では民主党のウィルソン大統領の下で海軍次官補を務めた。1921年頃小児麻痺にかかって両足の自由を失い、松葉杖の生活になったが、政界に復帰し、1928年にニューヨーク州知事に選出された。
世界恐慌の最中の1932年11月に行われた大統領選挙で、ローズヴェルトは民主党から立候補し、全米48州のうち42州で共和党のフーヴァーに勝った。選挙人数では約9割を獲得し、史上最高だった。一般投票では、それまで最高の2281万票(57%強)を獲得し、フーヴァーを700万票も上回った。「フーヴァー以外なら誰でもよい」と言われていたが、1600万人ちかい人々は、以前からの支持政党へ投票したわけである。
1933年3月4日、第32代大統領に就任、1920年代に続いた共和党政権に代わり、民主党の政権を実現した。
選挙中は「ニューディール」の具体的中身はまだ無かったが、当選後に政治や経済の専門家をブレーンとして採用して、総合的な恐慌対策を策定し、3月4日の就任以後、矢継ぎ早に政策を実施に移していった。まず、折からの金融不安を「バンク・ホリデー」と称して銀行を4日間閉鎖し、その間に緊急銀行救済法を成立させて国民にラジオを通して預金を呼びかけ、金融の信頼回復に努めた。
さらに、新政権成立から3週間もたたない3月22日、アルコール分3.2%以下のビール製造を許可し、酒税を徴収する法律が定められ、国民に新しい時代に入ったことを印象づけた。禁酒主義者からみれば不当な法律だったが、相当数の国民を元気づけた。恐慌を一時忘れるには、アルコールは有効だったし、その製造・販売などさまざまな分野で仕事が増えることが確実だったからである。
また彼は、当時マスコミとして広く普及していたラジオを活用し、たびたび「炉辺談話」として国民に直接話しかけて政策の理解を求め、それによって国民の強い支持を受けることとなった。直接語りかけるようなローズヴェルトの、やや甲高いが親しみを感じさせる話し方は、不況で意気消沈しがちな国民を元気づけるうえで非常に有効だった。
ローズヴェルトは1933年3月9日から6月16日までのいわゆる「百日議会」で、15にも及ぶ恐慌対策立法を成立させた。ニューディールの主要な内容は、農業調整法(AAA)・全国産業復興法(NIRA)・テネシー川流域開発公社(TVA)・ワグナー法・社会保障法・金本位制停止など、多岐にわたるが、そのねらいは、従来の自由放任主義の原則を改め、政府の積極的な経済介入によって、公共事業などを行って雇用を創設し、労働者保護や社会保障の充実によって弱者を救済して全体的な国内の購買力を回復(内需回復)して、恐慌を克服しようとするものであった。
ニューディールについては、おおむね好意的な評価が為されているが、詳細に見ると問題も多かった。また、政府による経済介入については、当時から社会主義的な手法であるという批判、非難が強かったことも見逃してはならない。
1933年6月12日からロンドン世界通貨経済会議が開催されたが、ここでのローズヴェルトにも問題がある。国際連盟加盟国ではないが参加を要請されたアメリカは、今や世界経済の大国であり世界恐慌の発端となった責任もあることから、積極的に関与することが期待された。まず世界恐慌でドイツの賠償が事実上不可能となったため、ヨーロッパ諸国のアメリカに対する債務返済も不可能なので、それを帳消しにすることが期待されたが、ローズヴェルトはその問題を議題にすることを拒否し、話し合われなかった。また、すでに金本位から離脱していたアメリカの将来的金本位制への復帰を要請されたが、ローズヴェルトはこれも拒否した。その結果、ロンドン世界通貨経済会議は決裂に追い込まれた。
アメリカは世界経済の牽引車であることの自覚を持たず内向けなニューディールに進んでいったのである。(つづく)
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