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なまぐさ坊主の聖地巡礼

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ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー小さな巨人・鄧小平②

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中国共産党第11期三中全会の鄧小平

 鄧小平は1977年に復活を遂げ、1978年1月の第5期全国人民代表会議(全人代)第1回会議でその主導の下に「近代化された社会主義」を目指す新憲法が採択され、経済発展を目指す改革・開放政策を打ち出した。さらに、1978年12月18日、「歴史的な転換」とも言われる中国共産党第11期三中全会(中央委員会第3回総会)で華国鋒を批判し、代わって実質的に会議をリードした。

 
三中全会における鄧小平演説は、内外に中国が「改革・開放路線」をめざして新たな段階に入ったことを宣言するものであった。それは政治では共産党一党独裁のもとで社会主義体制を堅持しながら、市場経済(資本主義経済)を国内経済のみならず対外経済でも導入するものであった。具体的には人民公社の解体、農産物価格の自由化などの国内経済の自由化であり、外国資本や外国の技術の導入を認めることであり、そのような開放経済の拠点として「経済特区」と設けるこ
とであった。

 鄧小平は内政では当初は表舞台には立たなかったが、1980年には華国鋒首相を辞任させ、権力を集中させた。同時に中国社会主義の柱であった人民公社に対して、その非生産性を批判して、1982年に「人民公社の解体」を断行した。

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鄧小平の日本訪問

 外交面では、1978年8月には懸案であった日中平和友好条約が締結され、同年10月、鄧小平は副首相としてはじめて日本を訪問、同条約の批准書を交換した。

 翌1979年1月1日にはアメリカのカーター大統領との交渉によって、米中国交正常化を実現させ、自らも渡米して科学技術協力協定などを締結した。

 鄧小平の中国が改革・開放政策に転換した1979年、世界では、1月のイラン革命からイスラーム圏の激動が始まり、12月のソ連のアフガニスタン侵攻はソ連崩壊への始まりと同時に新たなアラブ過激派の台頭の要因となった。また同年、イギリスではサッチャー政権が誕生し、資本主義社会は新自由主義の導入による混迷の時代に突入した。

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胡耀邦と趙紫陽

 鄧小平政権下で、「中国独自の社会主義の建設」という理念のもと、1980年代以降の中国経済の驚異的な成長を実現させた。それを支えた実務官僚が、党務の胡耀邦、政務の趙紫陽であった。

 1982年9月、中共第12回全国大会で、胡耀邦が「政治報告」を行い、今世紀末までに80年の工農業生産総額の4倍増の実現……などの目標を掲げた。指導体制としては革命イメージを払拭し、集団指導体制を確立する意味から党主席制を廃止、総書記制を導入し胡耀邦が総書記に就いた。鄧小平自ら最高ポストに就くことを避けたが「最高実力者」であることは誰の目にも明らかで、総書記胡耀邦と国務院総理趙紫陽を左右に従えた「鄧胡趙トロイカ体制」が成立した。

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ゴルバチョフ訪中

 同大会では、外交のウエートも近代建設のために、次第に「世界平和擁護」「平和的国際環境の建設」に移り、「自主独立路線」とともに「平和共存五原則」が強調された。また、台湾問題では従来の「武力解放」政策から、「平和的統一」政策への転換が図られ、香港も含め「一国二制度」による「祖国の統一」が力説された。

 1950年代から続く中ソ対立についても、1989年5月にソ連のゴルバチョフ書記長が中国を訪問して鄧小平と会談、中ソ関係の正常化が実現した。

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鄧小平

 鄧小平の台頭は、経済の近代化にとどまらず、「政治の近代化」=民主化、に進むのではないか、という期待を人々に抱かせた。しかし、鄧小平は「四つの現代化」実現のためには、「四つの基本原則」を堅持しなければならないと力説した。それは、
 1.社会主義の道
 2.プロレタリア独裁(後に人民民主主義独裁と表現)
 3.共産党の指導
 4.マルクス・レーニン主義、毛沢東思想
の四つである。共産党一党支配に対する批判は許さないことを柱とする「四つの基本原則」によって、民主化運動家の魏京生を逮捕するなどきびしい姿勢を貫いた。以後、文学・思想界でも保守派の「ブルジョア自由化反対」と改革派の主張の対立が続く。

 中国共産党内にも「ブルジョア自由化反対」を唱え、改革開放路線を危険視する李鵬などの保守派の勢力も強く、鄧小平は胡耀邦、趙紫陽などの改革派とのバランスを巧みにとりながら、政局の安定に努めたが、ついに子飼いの胡耀邦を改革路線の行き過ぎという理由で解任した。改革開放路線の中で成長した市民はさらに民主化を求め、鄧小平政権との緊張感が高まっていった。

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胡耀邦の追悼集会

 1899年4月15日、リベラルな指導者として人気の高かった胡耀邦前総書記が死去すると北京の学生・知識人たちは追悼集会を催したが「独裁主義、封建主義打倒」「憲法の基本的人権擁護」などを叫ぶ民主化一般の運動へと拡大していった。鄧小平は学生運動を「党の指導と社会主義を根本から否定することである」と決めつけたが、学生はこの当局の決定に反発、また趙紫陽は「学生運動は動乱ではなく、愛国的な民主運動である」と発言し、党内の対立(鄧小平ら長老派、李鵬ら保守派と、趙紫陽ら改革派)が表面化した。

 五・四運動の70周年記念日にあたる5月4日には北京の学生・市民10万人がデモと集会を行い、さらに、運動は拡大し天安門広場で100万人といわれる大集会が開かれ、北京の交通や日常生活は麻痺した。ちょうどこのとき、ソ連のゴルバチョフが訪中していた
世界の報道機関の取材陣が北京に詰めかけていた。そのため事件はそこに居合わせた世界のジャーナリストによって映像と共に世界に中継されて伝えられた。

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学生たちと話をする趙紫陽

 5月19日午前4時に趙紫陽は天安門広場で絶食を続ける学生たちの前に向かい、「我々は来るのが遅すぎた。申し訳無い」と声を詰まらせながら約8分間拡声器を手に学生たちに絶食をやめるよう呼びかけた。趙紫陽が公の場に姿を見せたのは、これが最後となった。6月23日・24日の両日に開催された第13期4中全会で、“動乱を支持し、党を分裂させた”趙紫陽は党総書記就任直後から4つの基本原則から逸脱し、ブルジョア自由化に寛容だったとされて党の全職務を解任されたが、党籍のみ、そのままとされた。

自宅軟禁下に置かれたものの、外出は比較的自由で趣味のゴルフなどを楽しんでいたが、2005年1月17日に死去した。一説には鄧小平は「六四天安門事件で武力弾圧に反対した罪を認めるなら復帰を許す」という手紙を趙紫陽に3度送ったものの、趙紫陽は「反対は信念に基づいたもの」としていずれも拒否したと言われている。

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炎上する人民解放軍の装甲車

 5月20日、建国史上初めて首都北京に戒厳令が施行された。これに対して学生・市民らは当局の軍事行動を阻止すべく市内に入る各要所にバリケードを築き、さらに人民解放軍への直接説得活動を続けるなどして根強い抵抗を示した。戒厳令施行から約2週間、当局は鎮圧行動に出ることができず、両者は対峙状況を続けた。学生・市民を支持する声は海外にも広がったが、鄧小平は一切の妥協を拒否した。

 6月3日未明ついに戒厳令部隊が出動して抵抗する学生・市民に発砲、その死者は4日までに一説では2000名前後、その後の当局の発表でさえ、軍側も合わせて死者319名、負傷者9000名に達した。活動家の多くが捕らえられ、あるいは国外に逃亡した。一般の人々は口を塞いでしまい、再び重苦しい中で日々を送ることを余儀なくされた。6月4日は、後にこの事件を六四天安門事件というようになるなど、記憶される日付となった。
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戦車隊の前に立ちはだかって抗議する青年

第2次天安門事件が世界に報じられたとき、一枚の報道写真が強い印象をあたえた。それが上の写真である。戦車の前に一人たつ若者を捉えたこの写真は「タンクマン」と呼ばれて有名になり、翌1990年の世界報道写真賞を受賞した。撮影したのはニューズウィークの報道カメラマン、チャーリー=コールだった。

 友人がコール氏から聞いた話によると、この写真は天安門広場に面したホテルのバルコニーから300mmのレンズで撮ったもので、撮影からほどなく、部屋に入ってきた当局者に連行され、カメラのフィルムは引き出されてしまった。だが、この写真が写っていたフィルムは、トイレのタンクのふたの裏にテープで貼って隠していたため無事だった。それを下着に入れてAP通信の北京支局までたどり着き、電送してもらったという。

 この事件は外国報道機関によって世界中のテレビに民衆弾圧の映像が流され、「民主主義への挑戦」「人権弾圧」と受け止めたアメリカなど西側諸国は、中国に対する「経済制裁」を課すことを決め、日本も同調して第3次対中円借款供与を中断した。中国はこれを内政干渉と反発、「中国の改革開放路線は不変である」と力説した。おりからの東欧革命の進行、11月のベルリンの壁の開放も中国への国際圧力を強めることとなった。

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江沢民

  鄧小平は経済改革の実行者という面と保守的な人権抑圧の権力者という面を併せ持つ指導者であった。第2次天安門事件で中国の開放路線は一時停滞したが、鄧小平は後継者として実務派の江沢民を指名した。江沢民は改革・開放路線を推し進め、イギリスと交渉して「一国二制度」による香港返還を約束させ、1990年代から現在に至る驚異的な経済成長をもたらした。

 鄧小平死後の21世紀の中国は、現在の習近平政権に見られるように社会主義市場経済の枠組みを超えた資本主義大国化が進む一方、反比例的に政治の強権化が強まり民主化が押さえ込まれているようだ。その矛盾を隠すように軍事力の増強による覇権の拡張へと向かっているとも感じられる。鄧小平の時のボタンの掛け違いが、やがて大きな混乱となって爆発するのではないか、中国の抱える香港との一国二制度や台湾との関係などが引き金になるのではないか、「大国」となった中国の今後に危惧が感じられる昨今である。

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【 2021/11/02 05:13 】

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世界史のミラクルワールドー小さな巨人・鄧小平①

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八路軍時代の鄧小平(1938年)

 鄧小平は1904年8月21日に四川省広安県に裕福な地主の家に生まれたが、洪秀全や孫文と同じく、客家の出身といわれている。ちなみに16歳で故郷を出たあと、死ぬまで一度も帰郷することはなかった。

 1920年、16歳でフランス「勤工倹学」(働きながら学ぶこと)に参加し、パリなどで苦学しながら中国共産党に入党した。同じころ勤工倹学でフランスに渡り共産党の活動を始めた先輩が周恩来であった。1926年にはモスクワを経由し、1927年に中国に戻ると、国民党による激しい弾圧が始まっており、広西地方でゲリラ戦を指導することとなった。長征中の1935年、遵義会議では毛沢東を支持、それ以後共産党の中枢として、抗日戦争、国共内戦を戦い、特に八路軍の副指揮官としての活躍は広く知られた。1949年の中華人民共和国建国後は国務院副総理や党の総書記を務め、党の実務面で毛沢東を支えた。

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毛沢東とフルシチョフ

 身長150センチと小柄ながら頭の回転が速く、眼光人を刺す如く鋭かったことから「唐辛子風味のナポレオン」、「鄧矮子(チビの鄧)」と呼ばれたりもした。毛沢東からも目置かれており、毛は鄧小平を評して「綿中に針を蔵す」、つまりあたりや柔らかいがシンには鋭いものをもっているといっている。

 また1957年に鄧小平らを率いてソ連に行き、フルシチョフにあったとき、鄧小平を「あのチビを甘く見てはいけませんぞ。彼は蔣介石の精鋭百万をやっつけたのです」と紹介したという。

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鄧小平と劉少奇

 しかし、1958年からの「大躍進」運動の総括をめぐって対立が始まり、批判が強まることを警戒心した毛沢東が文化大革命を開始すると、劉少奇と共に資本主義への道を歩む走資派、実権派として激しく批判され、文革期を通じ2度の失脚と復活を繰り返すこととなる。(長征期に親ソ派から、毛沢東に近いと言うことで主流派をはずされたことも加えれば、生涯に3度失脚した。)

 最初の失脚は文革初期の1966年10月。毛沢東により、劉少奇と共に走資派・実権派として自己批判させられて役職を解任された。
1968年には全役職を追われ、さらに翌年、江西省南昌に追放された。「走資派のトップ」とされた劉少奇は文化大革命で非業の死を遂げるが、鄧小平は「あれはまだ使える」という毛沢東の意向で完全な抹殺にまでは至らず、党籍だけは剥奪されなかった。南昌ではトラクター工場や農場での労働に従事するが、与えられた住居には暖房設備もなく(南昌は冬は極寒の地である)、強制労働は過酷なもので、鄧は何度か倒れたが砂糖水を飲んで凌ぐことしか許されなかった。

 林彪事件後の中国経済立て直しを目指した周恩来の努力で、1973年3月に復活したが、文化大革命を推進する四人組とは対立が深まった。1975年1月に全人代の「政府報告」でかつての周恩来の提起を継承して「農業、工業、国防、科学技術」の「四つの現代化(近代化)」の提唱を行ったが、江青など四人組の抵抗を受けた。

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周恩来への追悼の言葉を述べる鄧小平

 両者の対立が深まる中、翌1976年1月に後ろ盾の周恩来が死去し、北京の民衆が反四人組の声を上げて1976年4月、天安門事件(第1次)が起きた。民衆の反政府活動を警戒した毛沢東によって鄧小平は、混乱の責任をとらされる形で再び解任され、2度目の失脚。近代化路線は再び挫折した。

 鄧小平はいろいろおもしろい発言を残している。その中で最も有名なのが「白猫黒猫論」だろう。1962年7月7日、共産主義青年団の若者に対して語った言葉の中に、「白い猫であれ、黒い猫であれ、ネズミを捕ればよい猫だ」という四川地方のことわざを引いて(実際には白猫ではなく黄猫だそうだが)、蔣介石軍を破ったときの経験から、物事にとらわれてはいけない、状況次第で現実に対応し、結果がよければよい、と説いたとされている。

 毛沢東的な階級闘争のイデオロギーにとらわれるなという鄧小平の現実主義を言っているとして当時から人々に受け止められたが、鄧小平は盛んにその発言を打ち消したという。

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鄧小平と華国鋒(1978年の中央工作会議)
 1976年9月の毛沢東死去の後、華国鋒政権のもと、鄧小平の復活への待望論が高まった。鄧小平は二度、華国鋒に書簡を送り、華国鋒を指導者として絶賛し、自己の誤りを反省していることを伝えた。

  1977年7月、中共第10期三中全回は、「四人組」の党からの永久追放とともに鄧小平の全職務の回復を決定した。これによって鄧小平は中央政治局常務委員、党副主席、国務院副総理、中央軍事委員会副主席兼総参謀長に復帰し、華国鋒、葉剣英に次ぐナンバー3の地位を確保した。 (つづく)

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【 2021/10/29 05:12 】

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世界史のミラクルワールドー不倒翁・周恩来

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1917年の周恩来

 周恩来は1898年3月5日に江蘇省の比較的豊かな都市知識人の家庭に生まれたが、父の代に貧困に陥り、養子に出されるなど苦労をした。天津の南開学校に学んで学業優秀だったので、当時の多くの青年と同じく留学を目指したが、旅費が安あがりな日本を選び、1917年に東京にやってきた。

 19歳だった周恩来の1918年の日記が公刊されている。周恩来は東京に下宿し、日本語の習得のための東亜学院で学びながら浅草や早稲田を歩きまわっている。その留学中にロシア革命を知り、また『新青年』を読み、祖国の現状を強く憂えるようになった。当時は日清戦争後の中国人青年の日本留学の最盛期で、周恩来も留学生仲間と議論をしながら政治活動に開眼していった。

 同じ留学生で早稲田大学や慶応義塾に入学するものも多かったが、経済的に余裕のない周恩来は官立学校入学を目指した。官立学校合格者には中国政府から学費と生活費が援助される制度があったからだ。そこで、東京高等師範学校(後の東京教育大、現在の筑波大)と第一高等学校(後の東大教養学部)を受験したのだが、いずれも失敗し、挫折する。日記の中で自分の勉強不足、特に日本語の学習の不足を嘆いている。

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五・四運動

 1918年5月にシベリア出兵にともなう日華陸軍共同防敵協定の秘密交渉を知り、「二十一か条要求」の一環だととらえた中国留学生の中に、抗議のために一斉に帰国する運動が起きる。周恩来も授業ボイコットなどに加わりながら、河上肇の著作を通じてマルクス主義を知ったようだ。

 祖国に帰り政治活動に身を投じようと考えた周恩来は、1919年5月9日に天津に戻った。すでに5月4日、二十一カ条の要求受諾に抗議する
五・四運動が始まっており、7日の「国恥記念日」には全国で学生と労働者が決起した。周恩来は帰国するとすぐ南開学校の学生集会に出席、学生運動の先頭に立った。

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埔軍官学校での周恩来

 1920年1月、デモ隊を指揮した周恩来は逮捕され、半年間留置された後、南開大学から渡航費用を支給され、同年11月、フランスに渡り、働きながら学ぶという「勤工倹学」に加わりった。鄧小平もその仲間だった。

 フランスで本格的にマルクス主義を学び、1921年に中国共産党に入党した。帰国後、孫文の第1次国共合作により国民党に協力することとなり、周恩来は黄埔軍官学校の教官となった。その校長は蔣介石であった。国共分裂の時は上海でストライキを指導したが、蔣介石の弾圧を受けて撤退、その後南昌での暴動などを指導した。


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長征時の周恩来と毛沢東

 国共内戦が激化して共産党が瑞金を放棄すると同行し、長征に参加した。その途次の遵義会議で共産党の路線をめぐる親ソ派と毛沢東派の対立では毛沢東を支持、その有力な同調者となった。延安の本拠地でも毛沢東に次ぐ指導力を発揮、1936年の西安事件では党を代表して蔣介石を説得、抗日民族統一戦線の結成を実現させた。

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周恩来とネルー

 1949年10月1日の中華人民共和国の成立により、毛沢東主席の下で国務院総理となり、朝鮮戦争後の米ソ冷戦の谷間で積極的な外交戦略を展開、1954年のインドシナ・朝鮮問題のジュネーヴ会議では中国の指導者として初めて国際舞台に登場し、優れた外交手腕を発揮した。

 さらに1955年4月、インドのネルーとチベットの問題で協議して、「平和五原則」の合意に達し、1955年4月18日にはその理念を柱にインドネシアのバンドンでアジア・アフリカ会議を成功させ第三世界のリーダーとなった。しかし現実にはインドとの関係は悪化し、中印国境紛争が起こっている。

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日中国交正常化交渉を行う田中角栄と周恩来・毛沢東

 以後、主として中国の外交面での活躍が続き、その開明的な姿勢と調整能力で国民の信頼を受け、米中国交回復の交渉に当たり、1972年には訪中した日本の田中角栄首相と日中国交正常化を行い、日中共同声明を締結し、日本との戦争状態を終わらせた。

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プロレタリア文化大革命

 1965年頃から、毛沢東がプロレタリア文化大革命を推進すると、それに同調したが、時にその行き過ぎを抑える役割を演じ、推進派の林彪や四人組からは批判された。林彪事件後は積極的に経済の立て直しに乗りだし、1973年には鄧小平の復権に動き、文化大革命による混乱や経済、生産の停滞を克服する道を探ろうとした。しかし、その動きは毛沢東から疑いで見られ、四人組は、周恩来・鄧小平の経済建設路線を文化大革命路線の否定となることを恐れ、周・鄧に対してブルジョア階級に妥協し資本主義を復活させるものとの批判を強めた。

 1973年の「批林批孔」運動は、ブルジョワ階級への全面的な政治闘争を優先すべきだと主張する四人組が行った林彪と孔子批判に名を借りた周恩来・鄧小平批判であった。しかし、
文化大革命において多くの共産党の実務的な幹部が、実権派・走資派として批判されて失脚する中、周恩来は強い民衆の支持を背景に権力中枢にとどまり、「不倒翁」として生涯を全うすることとなる。
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鄧小平と周恩来

 1975年に周恩来は鄧小平とともに「四つの現代化」を提唱し、農業・工業・国防・科学技術での技術革新を取り入れて文化大革命によって停滞した国民生活の立て直しに着手しようとした。それに対して毛沢東は水滸伝の宋江を「投降した修正主義」と論評することによって、宋江=文革を否定する投降派=鄧小平という図式で暗に批判した。それを受けた四人組は「『水滸伝』批判」のキャンペーンを行い、また四人組グループに近い毛沢東の甥、毛遠新が名指しで鄧小平を批判した。これらの動きに同調した毛沢東は、鄧小平はずしを決断した。

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天安門広場の人民英雄紀念碑に捧げられた周恩来追悼の花輪

 1976年1月8日、周恩来が77歳で死去した。後に病名は膀胱ガンであったことが明らかにされた。その遺骸は本人の希望により火葬され、遺骨は飛行機で中国の大地に散布された。これらは生前に妻の鄧穎超と互いに約束していたことであった。四人組によって遺骸が辱められることを恐れたためと言う。周の葬儀には孫文の妻・宋慶齢も参列した。

 1月15日、天安門広場でその追悼大会が開かれた。そこで弔辞を述べた鄧小平はその直後に権力の座から引きずり降ろされ、再び人々の前から姿を消した。周恩来・鄧小平の路線を支持する北京の民衆は、その後四人組への反発を強め、同年4月5日に天安門で大規模な周恩来追悼集会を開いたところ、四人組政府は弾圧を強行、第1次天安門事件が発生した。これは民衆暴動「事件」として扱われ、鎮圧されたが、政権内部では次第に反四人組、反文化大革命の気運が高まり、翌1977年には四人組は追放され、華国鋒政権が成立して鄧小平も復権、文化大革命も収束を迎える。

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【 2021/10/26 05:17 】

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世界史のミラクルワールドー文化大革命の狂気Ⅱ・毛沢東⑦

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林彪

 文化大革命が進行する中で、林彪と江青などの四人組は毛沢東を神格化し、その庇護の下で権力を維持し続けた。

 林彪は抗日戦争期の八路軍の指揮官として活躍し、中華人民共和国建国後は人民解放軍を背景に中国共産党の中枢に参画した。朝鮮戦争には仮病で従軍を免れ、多くの優秀な軍人が戦死した後に林彪が軍の実権を握ったとも言われている。 

 1959年、廬山会議で彭徳懐国防相が解任され、その後任の国防相となってから、毛沢東の忠実な追従者となり、『毛主席語録』を兵士に配ってその宣伝に努めた。

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中共第9回全国大会での毛沢東と林彪

 1969年4月、13年ぶりで開催された中共第9回全国大会は「文化大革命の勝利の大会」と位置づけられ、文革の節目となった。大会に出席した代表のほとんどは、毛沢東、林彪、江青らの指名による者であった。また軍人の台頭が目立った。そしてこの大会で、林彪は「党規約」の中に「毛沢東同志のもっとも親密な戦友であり、後継者」と明記された。

 しかし、劉少奇国家主席の失脚によって空席となっていた国家主席の廃止案を毛沢東が表明すると、林はそれに同意せず、野心を疑われることになる。

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墜落現場

 1971年9月に南方を視察中の毛沢東が林彪らを「極右」であると批判し、これを機に毛沢東暗殺を企てるが失敗し(娘が密告したためとの説がある)逃亡。1971年9月13日に中国人民解放軍が所有する旅客機で山海関空軍基地を強行離陸し、ソ連に向けて逃亡中にモンゴル人民共和国のヘンティー県イデルメグ村で墜落死した。

 燃料切れとの説・逃亡を阻止しようとした側近同士が乱闘になって発砲して墜落したとの説・中ソ関係悪化を恐れた当時のソ連が入国拒否の最終的意思表示(武力行使)としてミサイル撃墜した説がある。なお逃亡の通報を受けた毛沢東は「雨は降るものだし、娘は嫁に行くものだ。好きにさせれば良い」と言い、特に撃墜の指令は出さなかったといわれる。この林彪事件後は四人組が実権を握るようになった。

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周恩来と鄧小平

 1972年2月にはアメリカ大統領ニクソンの訪中が実現、それまで長く対立していたアメリカとの国交正常化に大きく前進した。しかし、国内政治では、毛沢東は四人組を牽制する形で周恩来を依然として重用し、1973年には鄧小平を復権させた。こうして文化大革命の背後で、江青・四人組グループと周恩来・鄧小平グループの暗闘が始まった。

 周恩来・鄧小平は文化大革命の行き過ぎを是正して、国民生活の再建を実現するための経済復興を図ろうとしたが、四人組は1973年に批林批孔運動を開始し、その矛先を周恩来・鄧小平に向けた。

 さらに1975年、周恩来は鄧小平と結んで、「四つの現代化」を提唱すると、毛沢東は『水滸伝』の主人公宋公を信念を曲げた修正主義として論じることによって、鄧小平を暗に批判し、四人組がそれに同調して鄧小平非難を展開した。
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天安門広場の人民英雄紀念碑に捧げられた周恩来追悼の花輪

  1976年に「不倒翁」といわれた周恩来が死去すると、北京で四人組に反対し、周恩来・鄧小平の路線を支持する市民が暴動を起こした。これが第1次天安門事件である。毛沢東は、民衆の反政府活動の盛り上がりを恐れ、鄧小平を民衆扇動したとして再び失脚させ、四人組を擁護した。しかし、そのころすでに80歳を超えていた毛沢東は、次第に事態を統制する力を失っていった。

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毛沢東の死去

 1976年1月の周恩来に続き、7月6日に人民解放軍の創設者朱徳が死去、7月28日には唐山地震が起こり死者24万という惨事となった。まだその動揺が収まらないなか、1976年9月9日午前零時、毛沢東が82歳で生涯を閉じた。その日の午後3時、全国、全世界に伝えられた。

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審判を受ける四人組

 毛沢東の死後、激しい権力闘争が展開され、結局四人組は10月6日に逮捕され、文革穏健派の華国鋒が党主席・党中央軍事委員会主席に就任した。華国鋒の就任は毛沢東の指名があったとされているが、そのもとで文化大革命の継続か方針転換か、をめぐる激しい争いが始まった。華国鋒政権の手によって復活した鄧小平の影響力が強まって中国は改革開放路線をとることとなり、1977年に文化大革命は終了を宣言した。

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若き日の江青

 1980年には「林彪・四人組裁判」が実施され、江青・張春橋は死刑判決、姚文元は懲役20年、王洪文は無期懲役の判決を受けた。こうして文化大革命の申し子である四人組は敗者となった。

 江青は1930年代には藍蘋【らんびん】という芸名の上海の映画スターであった。革命運動に関わり、1937年秋に延安に行って不倫の上で毛沢東と結婚し、その4人目の妻となった。この時に江青と名を変えている。その間の経歴はあまり知られていないが、相当スキャンダラスだったらしく、文化大革命中にその素性を知っている映画人が多数迫害され、口を封じられたという。

 毛沢東夫人という立場を利用して、急速に政治に介入し、林彪や毛沢東の取り巻きであった四人組の他の仲間と権力の奪取を図り、ついには女帝とまで言われるようになった。逮捕後の裁判中も江青は、大声でわめきちらし、自分の無罪を主張した。後に無期に減刑されたが、1991年5月14日、癌の療養のため病気治療仮釈放中に北京の居住地で首吊り自殺した。古新聞の片隅に書かれた「毛主席 あなたの生徒 あなたの戦友が いま…会いに行きます」というのが遺書であった。(おわり)

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【 2021/10/22 05:20 】

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世界史のミラクルワールドー文化大革命の狂気Ⅰ・毛沢東⑥

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毛沢東

 1959年の中国共産党の幹部会である廬山会議では、彭徳懐による毛沢東批判が行われ、自己批判を迫られた毛沢東は 国家主席の地位を劉少奇に譲り、党主席にとどまったがその権力を失う危機に至った。自らは党主席として権力の維持を図ったが、党内に劉少奇に続き、鄧小平らの実権派が台頭、荒廃した農村と工業を復興させるための改革が始まった。

 しかし、1966年、毛沢東は権力回復をねらい、劉少奇・鄧小平らの追い落としにかかる。

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姚文元

 契機となったのは、姚文元【ようぶんげん】の論文であった。1965年11月10日、姚文元は上海の新聞『文匯報』に「新編歴史劇『海瑞罷官』を評す」を発表し、京劇『海瑞罷官』に描かれた海瑞による冤罪救済は反革命分子らの名誉回復を、悪徳官僚に没収された土地の民衆への返還は農業集団化・人民公社否定を意図するものと批判し、毛沢東はまもなく、本来は無関係だった彭徳懐解任と海瑞の罷免を強引に結びつけ、『海瑞罷官』は彭徳懐解任を暗に批判した劇という印象が急速に形成された。

 こうして、「ブルジョワ的」文芸作品に対する取り締まりが強化から文化大革命が始まり、1966年5月には、中央文化大革命小組が設立され、実権派の打倒と徹底的な革命を主張する政治運動が発動された。

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『毛主席語録』を読む紅衛兵1966年

 1966年6月1日に『人民日報』は「横掃一切牛鬼蛇神」(一切の牛鬼蛇神を撲滅せよ)という社説を発表した。この社説の中で「人民を毒する旧思想・旧文化・旧風俗・旧習慣を徹底的に除かねばならない」(これを「破四旧」と呼ぶ)と主張した。この社説を反映して、各地に「牛棚」(牛小屋)と呼ばれる私刑施設が作られた。

 1966年8月の第8期中央委員会総会第11回総会において、「プロレタリア文化大革命についての決定」が決議され、文化・社会の社会主義化の徹底が要求された。この文化大革命を担ったのが、『毛主席語録』を携え、赤い腕章をつけた紅衛兵と呼ばれる学生・生徒である。

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天安門広場を行進する紅衛兵

 衛兵候は最初,清華大学の付属中学の学生たちによって1966年5月につくられた。同月 25日北京大学の7人の学生と教師により初めて実権派批判の大字報 (壁新聞) が出され、6月1日毛沢東に認められて全国にラジオ放送されて以来,たちまち全国の中学 (高校) 、大学の学生によって大字報の嵐が広まった。

 6月13日には大学入試延期の決定が出され、学生の「造反有理(造反には理由がある)」が認められたが、その後、実権派が学校に工作組を派遣して運動の弾圧をはかった。この工作組との闘争のなかで紅衛兵が組織された。

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紅衛兵の歓呼に答える毛沢東

 8月18日初めて全国の紅衛兵が北京に集り天安門で毛主席と接見し,20日より「四旧」打破を叫んで街頭に進出し,文化財や書物を破壊したり暴力を行なったりして文革推進の先頭を走った。最初毛主席は彼らを支持し、11月までに前後8回 1300万人の接見を行なった。

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「反革命分子」に自己批判を迫る紅衛兵

 文化大革命で「走資派」とされた人に対する紅衛兵らの糾弾は、大きな三角帽子をかぶせ、腰をかがめて頭を下げ、両腕を後ろに伸ばす、「ジェット式縛り上げ」の姿勢をとらせ、長時間にわたって自己批判を迫るものであった。紅衛兵は、1966年から1968年にかけて実権派打倒に猛威を振るい、文化大革命期間中に出た死亡者、行方不明者(数百万人とも数千万人ともいわれる)の一部の虐殺に加担したとも言われている。また、当時は中華人民共和国の成立に貢献した政治家や知識人も弾圧を受けた。その1人である彭徳懐も逮捕されて拷問を受け、それが原因で死亡している。

 実権派打倒に大きな力となった紅衛兵であったが、権力闘争に利用する価値がなくなると、狂信的な紅衛兵残党の追放を画策した毛沢東によって知識青年上山下郷(下放)運動が展開された。農村支援の名目のもとに約1600万の学生が農村や辺境に駆り出され、多くの学生は過酷な環境に適応できなかったために亡くなった。紅衛兵運動から下放収束までの間、中華人民共和国の高等教育は機能を停止し、この世代は教育上および倫理上大きな悪影響を受けた。

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劉少奇

 1959年に毛沢東に代わって国家主席に就任した劉少奇は、1962年から経済の再建にとりくみ、鄧小平とともに毛沢東路線の修正を図って資本主義の部分的復活をめざした。しかし、1966年8月1日「プロレタリア文化大革命の決定」が採択され、劉少奇は党内序列を2位から8位に格下げされ、さらに10月には鄧小平とともに「自己批判書」の提出を余儀なくされ、事実上の軟禁状態となった。

 こうして劉少奇は共産党の実権を奪う実権派であり、「資本主義の道を歩む」走資派の中心人物とされ、厳しい批判の矢面に立たされることとなった。1967年4月1日には『人民日報』は劉少奇を「党内最大の実権派、中国のフルシチョフ」とレッテル貼りをし、9月には北京の要人居住区から追放され、家族とも引き離され、10月には「帝国主義の手先、現代修正主義、国民党反動派の手先」として党からの「永久除名」が決定された(鄧小平は除名ではなく、留党監察とされた)。

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糾弾される劉少奇

 自宅監禁状態であった劉は病の床に就くが、散髪、入浴ともに許されず、警備員からも執拗な暴行や暴言を受けた。劉の部屋には劉を非難するスローガンを記した紙が壁中に貼り付けられた。治療する医師からは、病状の回復のためにはがす提案もされたが受け入れられなかった。党からの永久除名は劉の誕生日にラジオで放送され、劉はそれを聞くことを強要された。それ以降、劉は言葉を発しなくなった。過去の病歴のため劉はいくつかの薬を常用していたが、それも取り上げられた。多くの歯は抜け落ち、食事や服を着るのにも非常に長い時間がかかった。1968年夏に高熱を発した後はベッドに横たわる状態となったが、身のまわりの世話をする者はなく、衣服の取替えや排泄物の処理などもされない状態であった。

 1969年10月17日、河南省開封市に移送。寝台にしばりつけられて身動きができぬまま、暖房もないコンクリートむき出しの倉庫部屋に幽閉された。受け持った地元の医師が求めた高度な治療に対し、上部機関は「ありふれた肺炎治療薬」のみを投与するよう指示した。限られた治療の中で病状は悪化し、11月12日に没した。享年70歳。

 白布で全身を包まれた遺体は、開封の火葬場にて「劇症伝染病患者」という扱いで、死の約2日後の深夜に火葬に付された。遺骨は火葬場の納骨堂に保管され、その保管証には死亡者氏名「劉衛黄」(この名前は劉少奇の幼名だったという)と記されていた。劉の死は当初は高級幹部以外の国民や国外にはほぼ秘匿され、外部からは生死不明の状態が続いた。

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王光美

  夫人の王光美も紅衛兵によってピンポン球で造ったネックレスを首からかけさせられ、つるし上げを受けた。それは、かつて彼女が国家主席夫人としてビルマに行ったときネックレスをして宴会に出席したことを、毛沢東夫人の江青が嫉妬してそれを批判し、彼女は資本主義者だと言うことになり批判を受けたのだった。(つづく)

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【 2021/10/19 05:15 】

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