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なまぐさ坊主の聖地巡礼

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ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー平和を紡ぐ人・ガンディー③

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塩の行進

 反英闘争を一部の党派的な運動ではなく、大衆的なものにするためにガンディーが着想したのが塩税反対を掲げることであった。暑いインドでは、塩は想像以上の必需品である。しかも塩は自然の恵みであり、外国政府が高い税金をかけて専売に付すべきものではない。ガンディーの鋭い直感力は、国民の誰もが問の意味を了解できる塩税の拒否を選び出したのである。彼はひとたび国民の目を一つの法律の不正に向けることができれば、帝国主義のからくりを容易に理解させうるものと考えた。

 1930年3月12日未明、ガンディーは78人の精選された弟子たちを連れて、アフメダバードのアシュラム(道場)を出発し、ボンベイ近くのダンディー海岸まで360キロの行程にのぼったのである。

 一行のなかには、学者あり、ジャーナリストあり、織工あり、そして賎民もいた。年齢もガンディーの61歳から16歳の少年まで含まれていた。長い杖を手に持って隊列の先頭を行く半裸の指導者の姿は、ネルーの表現を借りれば、しっかりした足取りで、平和的な不屈の面差ししで歩いて行く人の姿であり、実に感動的な光景であった。ひと目ガンディーの姿を見んものと、幾千、幾万もの老若男女が、毎日毎日ガンディーの通過する沿道に集まって待ちかまえた。

ダウンード 
ダンディーの海岸で塩の塊を拾うガンディー
 
 ……行進は24日間続き、4月6日早朝にダンディー海岸に着いたガンディーは、海水で沐浴して身を浄め、祈りを捧げ、海岸に散在する小さな塩のかたまりを拾い集めた。この簡単な所作を合図に、第2次非暴力・不服従運動(第2次サティヤーグラハ運動)の幕が切って落とされたのである。

 
塩という生活必需品をイギリスが専売にし、重税を課していることは植民地支配の不正義の典型である、という分かりやすい訴えはたちまち民衆の心をつかんだ。

 イギリス官憲は警棒を振るってそれをやめさせようとしたが、ガンディーとその支持者は血を流しながら無抵抗で塩を作り続けた。その姿は全世界に報道され、ガンディーは一躍、その非暴力・不服従とともに知られるようになった。

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第2回英印円卓会議

 運動の高揚を憂慮したインド総督アーウィンは英印円卓会議の開催を提唱、国民会議派は話し合いを拒否したが、ガンディーはアーウィンとの会談に応じ、塩の自由生産などの妥協を引き出したのでロンドンに渡り、1931年9月7日に始まった第2回円卓会議に出席した。

 そこで統一インドの即時完全な自治を要求したが、ムスリムや不可触民の代表はイギリスの提案する分離選挙を受け容れようとしてガンディーは孤立、失意の内にインドに戻り闘争再開を宣言、まもなく逮捕された。
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アンベードカル

 イギリスはマクドナルド裁定という分離選挙を導入し、不可触民をも分離選挙区を認めようとすると、ガンディーはそれを不可触民への差別を固定化するものとして獄中で無期限の断食を慣行、不可触民の代表のアンベードカルも妥協して不可触民の分離選挙は実現しなかった。

 これを機会にガンディーは不可触民の問題を真剣に解消しようと、彼らをハリジャン(神の子)と呼んでその解放を呼びかけた。しかし、国民会議派主流は完全自治の実現という政治目標から離れていくガンディーを批判するようになり、ガンディーもハリジャン運動に軸足を移したため1934年に第2次非暴力・不服従運動の停止を宣言した。
 
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不可触民

 出獄後のガンディーはインド農村を廻り、熱心に不可触民の解放を人々に説いて回った。イギリスは翌1935年に新インド統治法を制定、地方自治を大幅に認め、それに基づいて37年に選挙が行われると、ガンディーは国民会議派の選挙参加を支持し、国民会議派も地方政権に参加することによって状況を変革させることをめざした。

 しかし、37年に実施された選挙で大幅に得票して各地で国民会議派政権が成立し、事実上の与党に変身した。またそのことは少数派のムスリム連盟に危機感をもたらし、対立はさらに深刻になった。

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チャンドラ=ボース

 1939年、第二次世界大戦が勃発した。第二次世界大戦は、国民会議派を中心としたインドの独立を目指す運動に、深刻な分裂を生じさせた。

 イギリスは戦争遂行にインドの人的、経済的資源が不可欠だったので、直ちに参戦させた。それに対して国民会議派は独立の好機であるのに、イギリスがそれを認めず一方的に戦争に協力させようとしているとして反発し、地方政権から引き上げ、戦争への非協力を打ち出した。ガンディーはさらに積極的な戦争反対の立場から非協力を貫くことを主張して個人的な非暴力・不服従運動を開始した。

 しかし、ネルーらはファシズムとの戦いを優先してイギリスへの協力を主張し、また有力な指導者の一人だったチャンドラ=ボースはむしろ「敵の敵は友」と考え、ドイツと結んでイギリスと戦うことを主張した。

 このように戦争への対応をめぐって意見が分裂していたところに、1941年12月、太平洋戦争が勃発、日本軍がマレー半島からビルマに進出、インドにも脅威となってきた。ガンディーは日本の中国侵略を非難し、日本に対しても非暴力による抵抗を決意した。

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ジンナー

 国際世論もインド独立を支持する声が強まり、アメリカ・中国からもイギリスに対してインドの独立を認めるよう圧力がかかり、チャーチル首相はやむなくクリップス特使を派遣してインドの戦争協力を取り付けようとした。

 しかし、クリップス提案も即時独立ではなく、戦後の独立を約束するに過ぎなかったのでガンディーらは交渉を拒否、ついに1942年8月、イギリスに対して「インドを立ち去れ(クィット・インディア)」と宣言、民衆には「行動か死か」と迫って非協力を呼びかけた。イギリスは直ちにガンディーらを反戦宣伝の理由で逮捕した。

 こうしてストライキや街頭行動を展開し、多くの逮捕者が出た。しかし、44年に日本のインパール作戦が失敗したため、インドを立ち去れ運動は停止された。

 この間、ジンナーの指導するムスリム連盟は一貫してイギリスの戦争に協力、国民会議派を非難して、1940年にはパキスタン決議で分離独立を明確にした。このようなコミュナリズムの対立に心を痛めたガンディーは熱心に両教徒の融和を説いた。

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分離独立に賛成するネルー

 第二次世界大戦末期に成立したイギリスのアトリー内閣は、インド問題の最終的解決を掲げ、戦後の1947年7月、イギリス議会がインド独立法を可決した。しかしガンディーの必死の説得にもかかわらず、国民会議派はムスリムとの分離独立を容認し、ついに同年8月、インドとパキスタンは分離独立した。

 8月15日にデリーで開催されたインド連邦独立式典にはガンディーの姿はなく、彼はベンガル地方でムスリムとの対話を試み続け、ヒンドゥー教徒の思い上がりを戒めていた。しかしそのような姿勢はヒンドゥー教急進派にとってはムスリムに妥協しすぎると写り、1948年1月30日、狂信的なヒンドゥー教徒の青年によって暗殺された。

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 ガンディーの暗殺現場

 1948年1月30日午後、国民会議派全国委員会に対する提案をビルラー邸で書き終えたガンディーは、そのあとパーテルと会って少し遅れ、いくらか急ぎ足でいつも夕べの祈祷会に向かった。「そのとき、ひとりの若者が人込みをかきわけてガンディーに近づいた。若者はガンディーの前にぬかずくように跪くと、ガンディーの心臓をめがけてピストルを3発発射した。ガンディーはそのまま、崩れ落ちるように倒れた。〝ヘーラーム(おお、神よ)〟という呟きを残して。

 ガンディーを暗殺した若者はゴードセーというマハラーシュトラのバラモンであり、ヒンドゥーの右翼組織、ヒンドゥー=マハーサバー(大協会)の一員だった。ガンディーのムスリムへの態度があまりに寛容であることに強い不満を抱いていたのだった。

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ガンディーの葬儀

 翌1月31日、ガンディーの死を弔う国葬が行われ、200万人以上の人々が8キロにも及ぶ葬儀の列を作った。遺灰はヤムナー川とガンジス川、そして南アフリカの海に撒かれた。

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【 2021/05/14 05:16 】

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世界史のミラクルワールドー平和を紡ぐ人・ガンディー②

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ガンディー

 第一次世界大戦の終結に伴い、連合国はセーヴル条約の過酷な要求をオスマン帝国のスルタン政府に突きつけ、カリフの権威は危機に陥った。その時、インドのイスラーム教徒(ムスリム)の中に、イスラーム世界の最高権威であるカリフを援護すべきであるという運動が起こった。

 それをヒラーファト運動という。ガンディーはサティヤーグラハを掲げて反英闘争を展開する上で好機と捉え、イスラーム教徒とヒンドゥー教徒が協力してイギリスに対する新たな「非協力」戦術を提起した。

 国民会議派も1919年末、春に惨劇のあったアムリットサールで大会を開き、イギリスに対するあらゆる非協力を決定し、宗教の壁を越えて1920~21年に「非協力運動」という反英闘争が盛り上がった。

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チャルカを廻すガンディー

 ガンディーが粗末な綿布の衣装(ドーティ)をまとい、手紡ぎ車(チャルカ)の前で糸を紡いでいる写真をよく見かける。

 これは、国民会議派のスローガン、国産品愛用(スワデーシ)を具体化しようとしたガンディーが進めた、カーディ(手織り布地)運動の象徴だった。ガンディーはすでに全く忘れられていた手紡ぎ車で綿布を織る技術を再現しようとして奔走し、そのやり方を学び、自ら紡ぐことでその運動を広めようとしたのだった。

 カーディを着た素足のガンディーが手紡ぎ車を回す姿は、民衆に広く運動の本質を教える方法となった。

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タゴール

 全国でイギリス製綿布を焼き捨てたり、役人は仕事を休んだり、学校は自主的に休校したりするなど、非協力運動を進めた。1913年にアジア人初のノーベル賞(文学賞)を受賞した詩人タゴールは、非協力運動の行き過ぎを危惧してガンディーを批判した。それに対してガンディーは「タゴールも紡ぐがいい。他の人々と同じように!」といって反論した。

 しかし、タゴールの危惧したように、高揚した民衆の中に次第に非暴力の枠を逸脱する者が現れた。1922年2月5日に連合州のチョウリ=チョウラという村で警官の発砲に怒った民衆3000人が警察署を襲撃、22名の警官を殺害するという事件が起きた。

 知らせを聞いたガンディーは大きな衝撃を受け、会議派に対して運動の中止を命じた。この突伝の中止に多くの国民会議派の活動家はとまどい、民衆は憤激した。またムスリムは聖戦(ジハード)を放棄するものとして非難した。しかし、ガンディーの決意は固く、こうして大きな成果はなく収束に向かい、ガンディー自身も逮捕されて運動は終わった。


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ロシア革命

 また、トルコではカリフが退位したためにヒラーファト運動も目的を失い、再びヒンドゥーとムスリムの対立(コミュナリズム問題)が深刻になっていった。ガンディー自身も1922年から24年まで獄中で暮らし、紡ぎ車で糸を紡ぐことと読書ですごした。

 1920年代には、ロシア革命とソ連の出現の影響もあって、社会主義・共産主義・労働運動などの新しい運動がインドにも生まれ、ガンディーにも影響を与えたが、ガンディーは一貫して反近代、反西欧の姿勢を守り、戦争や革命に対しても非暴力の立場から常に反対を続けた。

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サイモン

 1927年、イギリスはインド統治法改正のための憲政改革調査委員会(サイモン委員会)を発足させたが、そこにはインド人は一人も含まれていなかった。このことでインドでは再び反英気運が盛り上がり、各地で「サイモン帰れ!」の大合唱が起こった。

 インド国民会議派でも対抗して独自の憲法草案の作成に入ったが、段階的な自治の実現を目指す穏健派と、即時に完全な自治の実現を要求する急進派が対立し、また統一政府を志向する国民会議派に対して、分離選挙に固執するムスリムも反発、運動は分裂した。

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ネルー

  その情勢でガンディーの指導力が再び期待され、彼が再び表舞台に立つこととなり、巧みな調整で1929年12月29日のラホールでの国民会議派大会ではネルーら急進派の意見を実現させ、「「完全独立」(プールナ=スワラージ)」を掲げることになった。

 その背景にはイギリスでマクドナルド労働党内閣が成立したこと、また世界恐慌がインドにも影響し農村の貧困がいっそう深刻になってきたことがある。
 
 こうした中、ガンディーは再びイギリスに立ち向かうことになる。(つづく)

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【 2021/05/11 05:05 】

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世界史のミラクルワールドー平和を紡ぐ人・ガンディー①

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若き日のガンディー

 ガンディーは1869年、インド西部のカチャワール半島の商業カーストに生まれた。マハトマ=ガンディーとして知られるが、本名はモーハンダーズ=カラムチャンド=ガンディー。マハトマは〝偉大なる魂〟の意味で、インドの詩聖タゴールから贈られた尊称である。

 
父親はその地方のいくつかの藩王国の宰相を歴任した。母は熱心なヒンドゥー教徒(ヴィシュヌ派)の信仰を持ち、ガンディーは生涯母を思慕し、菜食主義や断食などの教えを守った。ラージコートで小学校から高等学校まで学ぶ。学校でのガンディーは勉強好きだが内気な少年であったという。

 小学校時代は素行も悪く、悪友にそそのかされて、ヒンドゥー教の戒律で禁じられている肉食を繰り返していただけでなく、タバコにも手を出し、タバコ代を工面する為に召し使いの金を盗み取ったこともあった。

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カストゥルバ

 13歳の時に兄たちと一緒に結婚するが、これは当時の幼児婚の習慣に従ったものであった。妻カストゥルバとの間には18歳の時の長男を含め3人の子供をもうけた。

 1888年、18歳の時に弁護士になることを目指しイギリスに留学する。カーストのメンバーから反対されながら決行したことであった。ロンドン大学などで猛勉強して弁護士資格をとり、一旦帰国し、弁護士として活動を開始した。その条件は身体を牛の糞などで浄め(最も清浄なものとされていた)てカーストに復帰することだったので、それに従った。

 しかし、インドでの弁護士活動は不慣れのためかうまくいかず、傷心のうちに南アフリカで成功したインド人商人の依頼で1893年にアフリカに渡った。

ダウンロー 
ナタール=インド人会議

 当時、南アフリカにはブール人の建てたナタール、トランスヴァール、オレンジ自由国の三国があり、金やダイヤモンドが発見され、インド人移民(印僑)がその労働力として大量にやって来ていた。彼らはクーリー(苦力)といわれて苛酷な年季労働に従い、激しく差別されていた。

 ガンディー自身もダーバンからプレトリアに向かう列車で、乗車を拒否されるという目に遭う。さまざまな差別に逢いながら、インド人唯一の弁護士として差別との戦いが始まる。

 ガンディーはまずインド国民会議派に倣い、ナタール=インド人会議を発足させ、その書記となって1906年、トランスヴァール政府(スマッツ提督)が打ち出した指紋登録法に反対する闘いを始めた。その闘いは登録証を集団で焼き払うというもので、ガンディーが編み出した非暴力・不服従運動の始まりだった。

ダウンード 
『バガヴァッド=ギーター』

 ガンディーはその思想をイギリス人思想家ラスキンの著作から着想を得、ヒンドゥー教の『バガヴァッド=ギーター』に述べられている不殺生(アヒンサー)の精神によって根拠づけ、その運動はサティヤーグラハと名付けられた。

 サティヤーグラハとは‘真理の把持’という意味であるが、その後ガンディーの指導する非暴力・不服従という新たな手法の運動をそのように呼ぶようになる。彼はその理念を主著『ヒンドゥー=スワラージ』(1907年)で明らかにした。

ウンロード 
現在のサーバルマティ・シュラム

 1915年、インドに22年ぶりに帰り、国民会議派の穏健派の指導者ゴーカレーに請われてそれに加わり、アーメダバードにサティヤーグラハの道場(サーバルマティ・シュラム)をつくって活動を開始、各地をめぐって労働者の争議や農民の反税闘争を指導してインド民衆の心をつかんでいった。

ダウンド 
インド門(ニューデリー)

 第一次世界大戦中、インドは戦後の自治承認を期待し、100万人以上の兵力と3億6000万ポンドの戦費を負担してイギリスに協力した。ニューデリーにあるインド門は、第一次大戦のインド兵戦死者6万人の慰霊のために建設されたものである。

 しかし、大戦後の1919年インド統治法は、州行政の一部をインド人に委ねただけで、自治とは程遠い内容であった。また、これと同時に、逮捕状なしに逮捕し、裁判なしに投獄できる権限をインド総督に与えるローラット法を制定したため、インド各地で激しい反対運動が起こった。

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ガンディー

 これに対し、ガンディーは「われわれはパンを求めて、石を与えられた」として、1919年4月9日、民衆に一斉休業(ハルタール)を呼びかけた。それは一日の仕事を休んで断食することでイギリスに抗議しようとするもので、デリーをはじめ各地で実行された。第1次非暴力・不服従運動(第1次サティヤーグラハ運動)の始まりである。

 それは大きな運動となって行ったが、それに対してイギリス当局は暴力をもって弾圧に当たり、一部では民衆も反撃し、暴力事件に転化してしまった。

 特にパンジャーブ地方のアムリットサールやラホールでは暴徒が銀行や郵便局に放火し、イギリス人を殺害するという事件が起こった。ガンディーはこの暴走を抑えようとパンジャーブに向かったが途中で逮捕されてしまう。

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アムリットサール事件

 1919年4月13日、ガンディー逮捕に憤激したアムリットサールの民衆は、集会禁止にもかかわらず2万人が結集して抗議をはじめたが、それに対してダイヤー将軍の指揮するイギリス軍(ネパール人のグルカ兵が動員された)が無防備の群衆に発砲し、379名を殺害、多数の負傷者を出した(会議派の調査では死者1200名、負傷3600名)。

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無抵抗の民衆を無差別に殺害

 出入り口の一つしかない公園に軍隊と機関銃を配し、高い塀をよじ登って逃げようとする人々に‘弾がなくなるまで’撃ち続けた行為は、イギリス人の残虐さを象徴するものとしてインド人を震え上がらせ、また憤激させた。

 続いて、パンジャーブに戒厳令が敷かれ、無差別逮捕、公開鞭打ちなども行われているのに、何が起こっているのか他州に極秘にされたことも、イギリスへの不信となった。

 さらにこの処理をめぐるイギリス人の態度も、インド人の神経を逆撫でした。たとえばこの事件の責任者ダイヤー将軍には‘帝国の功労者’として一般人から募った2万ポンドが贈られたのであった。

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事件現場に経つ慰霊碑

 ガンディーは、この事態に、自らのサティヤーグラハ運動が十分理解されていなかったことに気づき、「ヒマラヤの誤算」であったとして、一時運動を停止してしまう。

 なぜそれが誤算だったのか、自伝で彼は次のように言っている。

 「考えてみると、早すぎた非服従運動のように私にはみえたからであった。……人が非服従運動の実践に適するようになるには、その前に、国家の法律に積極的かつ尊敬をこめてた服従を行っていなければならなかった。たいていの場合、私たちは、法律に違反すると罰せられる恐れから法律に服従している。

  ……けれどもこのような服従は、サッティヤーグラハに要請されている積極的自発的な服従ではない。サッティヤーグラハ運動者は社会の諸法律をよく理解し、そして彼自身の自由意志からそれに服従する。それはそうすることが、彼の神聖な義務だと考えているからである。このように一人の人が社会の諸法律に忠実に服従しているときに初めて、彼はどの特定の法律が善で公正であるか、そしてどれが不公正で邪悪であるかについて、判断を下すことができる。

 
その時になって初めて、はっきりと規定された状況のもとに、ある法律に対して非服従を行う権利が生まれるのである。私の過ちは、私がこの必要な限定性を守らなかったところにある」(『ガンジー自伝』)(つづく)

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【 2021/05/07 05:10 】

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