なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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19世紀後半、スペインからのフィリピン独立運動が活発となる中で、最初の運動の組織者ホセ=リサールがあらわれた。
ホセ=リサールは5代目世代の華僑系メスティーソ(混血)、ドミニコ修道会所有の農園の小作農であったが、教育の機会に恵まれマニラのサント=トマス大学で医学を学び、21歳でスペインに留学した。マドリッドで同じく留学中のフィリピン人と会い、フィリピン人はスペイン人に劣るのではなく、足りないのはただ教育の機会だけだと考えるようになり、同胞を啓蒙して、フィリピンをスペインの従属から解放することに使命を見出した。
1887年に『ノリ・メ・タンヘレ(私にさわるな)』、1891年に『エル・フィリプステリスモ』を出版し、激しくスペインの支配を告発した。1892年、マニラに戻り、社会改革を目ざすフィリピン民族同盟(リガ)を結成したが、ただちにスペインの総督によって逮捕されミンダナオ島に追放された。1896年、かねて志願していたキューバへの軍医としての派遣を許可され、ミンダナオ島を離れた。
ホセ=リサールは5代目世代の華僑系メスティーソ(混血)、ドミニコ修道会所有の農園の小作農であったが、教育の機会に恵まれマニラのサント=トマス大学で医学を学び、21歳でスペインに留学した。マドリッドで同じく留学中のフィリピン人と会い、フィリピン人はスペイン人に劣るのではなく、足りないのはただ教育の機会だけだと考えるようになり、同胞を啓蒙して、フィリピンをスペインの従属から解放することに使命を見出した。
1887年に『ノリ・メ・タンヘレ(私にさわるな)』、1891年に『エル・フィリプステリスモ』を出版し、激しくスペインの支配を告発した。1892年、マニラに戻り、社会改革を目ざすフィリピン民族同盟(リガ)を結成したが、ただちにスペインの総督によって逮捕されミンダナオ島に追放された。1896年、かねて志願していたキューバへの軍医としての派遣を許可され、ミンダナオ島を離れた。
おりから、1896年8月にカティプーナンが決起した。カティプーナンはホセ=リサールの熱烈な信奉者であるアンドレアス=ボニファシオが組織した秘密結社で、正式には「人民の子らの最も尊敬すべき至高の協会」といい、フリーメーソンに倣った血盟による入会儀式などをもっていた。
これがフィリピン革命の始まりであるが、銃と山刀(ボロ)で武装しただけの革命軍は、内部の連絡ミスもあって、スペイン軍に押され後退した。
これがフィリピン革命の始まりであるが、銃と山刀(ボロ)で武装しただけの革命軍は、内部の連絡ミスもあって、スペイン軍に押され後退した。
リサールもその指導者のひとりとして再び逮捕され、簡単な裁判にかけられた。リサールはこの蜂起には直接かかわってはいなかったが、有罪とされ、1896年12月30日に銃殺刑となった。この日は現在、国民的英雄リサールの命日としてフィリピンの祭日となっている。
アギナドルも華僑系メスティーソで、マニラ郊外カビテの町長を務めていた。ホセ=リサールの「フィリピン民族同盟」に加わっていたが、ホセ=リサール逮捕後、1896年には「カティプーナン」のメンバーとしてフィリピン革命の蜂起に加わった。
しかし、カティプーナンの組織者ボニファシオと対立し、それを反革命として処刑し、革命派のリーダーとなった。
しかし、カティプーナンの組織者ボニファシオと対立し、それを反革命として処刑し、革命派のリーダーとなった。
山中でゲリラ戦を指導し、1897年11月革命政府の大統領を名乗った。ところが、12月にスペインとの間で妥協的な和解案ビアックナバート協約を成立させて多額の援助金と引き換えに戦闘を中止し、香港に亡命した。アギナルドは香港で自転車業を営み、これに伴いフィリピンのスペインからの独立運動もしばらく落ち着くかのように見えた。
アギナルド邸での独立歓喜の様子(5ペソ紙幣)
1898年2月15日にスペイン領キューバのハバナ湾でアメリカ海軍のメイン号が爆沈した事件を契機にアメリカ合衆国はスペインに宣戦を布告、米西戦争が勃発した。アメリカの援助で帰国したアギナルドは、戦争後の独立の約束を得てアメリカに協力、フィリピン軍を率いてスペイン軍と戦った。
1898年6月12日、アギナルドはフィリピン共和国の独立を宣言、マロロスで議会を開催し初代大統領に就任した(第1次フィリピン共和国=マロロス共和国)。
1898年6月12日、アギナルドはフィリピン共和国の独立を宣言、マロロスで議会を開催し初代大統領に就任した(第1次フィリピン共和国=マロロス共和国)。
しかし、8月の米西戦争後のパリ講和会議でフィリピンは2000万ドルでアメリカに売り渡されることとなった。フィリピンを手に入れたアメリカは12月21日、マッキンリー大統領が「友愛的同化宣言」を発してフィリピン独立を否定し、直ちに植民地化を開始した
1899年2月、アメリカの背信的攻撃を受けたことを契機として、アギナルドは今度はアメリカからの独立戦争を戦うこととなった。
1899年2月、アメリカの背信的攻撃を受けたことを契機として、アギナルドは今度はアメリカからの独立戦争を戦うこととなった。
フィリピン人を銃殺するアメリカ軍
アメリカ軍の近代兵器に対してゲリラ戦で抵抗を続けたが、ついに1901年3月アギナルドはアメリカ軍に捕らえられ、2年以上に及んだ米比戦争は終わった。この戦争では、フィリピン軍の戦死者1万2000人、アメリカ軍の戦死者4000人を出している。
また、アメリカ軍により抵抗するフィリピン人60万人が虐殺された(150万人とも)とも言われている。
アギナルドは国民に対してアメリカのフィリピンにおける主権を認める宣言を出すことで釈放され、長い年金生活に入った。第二次世界大戦中には一時日本と結んで独立を図ったこともあるが失敗、1964年2月6日、94歳で亡くなった。
アーサー=マッカーサー=ジュニア
ちなみに、米比戦争時のフィリピン駐留アメリカ軍司令官アーサー=マッカーサー=ジュニアは、後に連合国軍最高司令官を務めたダグラス=マッカーサーの父である。
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スカルノは1901年にジャワ島南部のスラバヤに生まれた。父はジャワの下級貴族の出身で小学校教師、母はバリ人貴族の出身でヒンドゥー教徒だった。オランダ語による西洋式教育を受けてバンドン工業大学を卒業した。
在学中からオランダに対する民族運動に参加していたスカルノは、1927年にオランダ留学から帰国した同志らとともにインドネシア国民党を結成した。その後スカルノはインドネシアの独立と民族の統一を訴えるために各地で積極的に集会を開催し、壇上での熱のこもった演説で聴衆を魅了し、「民族の指導者」として認められるようになった。
在学中からオランダに対する民族運動に参加していたスカルノは、1927年にオランダ留学から帰国した同志らとともにインドネシア国民党を結成した。その後スカルノはインドネシアの独立と民族の統一を訴えるために各地で積極的に集会を開催し、壇上での熱のこもった演説で聴衆を魅了し、「民族の指導者」として認められるようになった。
1929年12月にオランダ植民地政府に逮捕されて禁固刑を受けたが、1931年2月に恩赦をあたえられて出獄。しかし、1933年8月にはふたたび逮捕され、フローレス島のエンデに、続いて1938年2月スマトラ島のベンクルに流刑となった。この流刑地となったベンクルでは、後に第1夫人となるファトマワティと出会い、結婚している。
1942年、日本軍による占領の直前に脱走し、日本の軍政下ではインドネシア側の指導者として日本軍に協力した。日本の降伏で、1945年8月17日、ハッタとともに独立宣言を敢行し、共和国初代大統領に選ばれた。
しかし、オランダが再植民地化を図って軍事行動に出たため、軍事闘争の最高指揮をとり、1949年末、独立を確立した。
しかし、オランダが再植民地化を図って軍事行動に出たため、軍事闘争の最高指揮をとり、1949年末、独立を確立した。
1955年4月18日~24日、ジャワ島のバンドンで史上初のアジア=アフリカ会議が開催された。議長を務めたスカルノは、この会議を「世界人口の約半数の13億(当時)を占める有色人種の代表による、世界最初の国際会議」と述べ、第三世界のリーダーとしての存在を世界に示した。
会議には29ヵ国(そのうち23ヵ国がアジア)が参加し、日本もオブザーバーとして参加した。インドのネルー、中国の周恩来、ビルマのウー=ヌー、スカルノなどが中心となって議事を運営し、民族・宗教・社会制度などの相違を超えて結束を図ることを目指し、会議は共同声明として「平和十原則」を発表して閉会した。
会議には29ヵ国(そのうち23ヵ国がアジア)が参加し、日本もオブザーバーとして参加した。インドのネルー、中国の周恩来、ビルマのウー=ヌー、スカルノなどが中心となって議事を運営し、民族・宗教・社会制度などの相違を超えて結束を図ることを目指し、会議は共同声明として「平和十原則」を発表して閉会した。
スカルノは1961年には第1回非同盟諸国首脳会議に参加した。このように国際政治では華々しく活躍し、そのカリスマ的指導力が際だっていたが、実際の国内政治では国民に約束した「貧困からの解放」は進まず、多くの政党が乱立して不安定になっていた。
議会制民主政治が危機を迎えると、スカルノは「指導される民主主義」を唱え、軍部と共産党の勢力を基盤に1963年から独裁権力を握り、憲法を改定して終身大統領に就任し、首相も兼ねることとなった。
彼が提唱した民族主義(国民党)、宗教(イスラーム教)、共産主義(共産党)の三者の協力体制をナサコム(NASAKOM)という。またスカルノは、1963年にマラヤ連邦が北ボルネオのサラワクとサバを併合してマレーシア連邦が成立し、国連に加盟したことに反発して、1965年には国連を脱退した。
議会制民主政治が危機を迎えると、スカルノは「指導される民主主義」を唱え、軍部と共産党の勢力を基盤に1963年から独裁権力を握り、憲法を改定して終身大統領に就任し、首相も兼ねることとなった。
彼が提唱した民族主義(国民党)、宗教(イスラーム教)、共産主義(共産党)の三者の協力体制をナサコム(NASAKOM)という。またスカルノは、1963年にマラヤ連邦が北ボルネオのサラワクとサバを併合してマレーシア連邦が成立し、国連に加盟したことに反発して、1965年には国連を脱退した。
しかし、1965年に共産党系の軍人が起こした九・三〇事件のクーデタ失敗を機にナサコム体制が崩れ、実権を軍を背景としたスハルトに奪われ、失脚した。
1968年、 第2代大統領となったスハルトは、スカルノの社会改革路線と共産圏よりの外交を改め、「開発」路線と親米路線をとることとなる。
1968年、 第2代大統領となったスハルトは、スカルノの社会改革路線と共産圏よりの外交を改め、「開発」路線と親米路線をとることとなる。
スカルノは「国父」としての地位は保ったものの、全ての役職をはく奪され自宅に事実上の軟禁状態におかれ、さらにデヴィ夫人たちと多くの家族が国外に政治亡命、離散するという失意の状況におかれたまま、1970年6月21日にジャカルタで死去した。
インドネシア第5代大統領(任期2001~2004年)を務めたメガワティは、スカルノと第一夫人ファトマワティの間に生まれた長女である。
デヴィ夫人
なお、現在日本のテレビのバラエティ番組で活躍するデヴィ夫人は、スカルノの第3夫人だった。インドネシアはイスラーム教だから妻は4人まで許されている。
デヴィ夫人の日本名は根本 七保子。赤坂の有名高級クラブ「コパカバーナ」で働いていた19歳の時に、インドネシアへの開発援助に伴い、「東日貿易の秘書」という名目で、1959年スカルノのもとに送り込まれた。インドネシアに渡って数年は愛人の1人であったが、1962年にスカルノと正式に結婚、4人の夫人のうちの第3夫人となった。
デヴィ夫人の日本名は根本 七保子。赤坂の有名高級クラブ「コパカバーナ」で働いていた19歳の時に、インドネシアへの開発援助に伴い、「東日貿易の秘書」という名目で、1959年スカルノのもとに送り込まれた。インドネシアに渡って数年は愛人の1人であったが、1962年にスカルノと正式に結婚、4人の夫人のうちの第3夫人となった。
スカルノとの間には、一人娘のカリナがいる。
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ホー=チ=ミンは1890年5月19日に生まれたと言うが、正確にはわからない。また30年間も海外で革命運動に従事して「放浪の革命家」と呼ばれ、その間、パリ、モスクワ、広東でいくつかの偽名を名乗っていた。
本名はグエン=シン=クン( 阮生恭)といい、最も好んで使った偽名がグエン=アイ=クォック(阮愛国)だった。ホー=チ=ミン(胡志明)と言う名は、1942年に中国に潜入したときに使ったものである。
彼はフランスや中国で獄中生活を送り、何度か死亡説が流れるなど、ベトナム本国での活動歴は少なかったが、1945年9月2日のベトナム民主共和国の独立宣言の時、初めて国民の前に姿を現し、その熱弁と親しみやすい顎髭を生やした風貌から「ホーおじさん」(ベトナム語では「バック=ホ」)と慕われている。
本名はグエン=シン=クン( 阮生恭)といい、最も好んで使った偽名がグエン=アイ=クォック(阮愛国)だった。ホー=チ=ミン(胡志明)と言う名は、1942年に中国に潜入したときに使ったものである。
彼はフランスや中国で獄中生活を送り、何度か死亡説が流れるなど、ベトナム本国での活動歴は少なかったが、1945年9月2日のベトナム民主共和国の独立宣言の時、初めて国民の前に姿を現し、その熱弁と親しみやすい顎髭を生やした風貌から「ホーおじさん」(ベトナム語では「バック=ホ」)と慕われている。
ホー=チ=ミンはベトナム中部のゲアン省ナムダン県で生まれた。父の儒学者、グエン=シン=サックの影響を受け、幼少から論語の素読を学んで中国語を習得した。父が阮朝の宮廷に出仕するようになると父とともに都のフエに移り、ベトナム人官吏を養成する国学でフランス語も学ぶようになった。しかし、在学中に農民の抗税運動に携わったためにフランス当局から目を付けられて退学処分となった。
その後、船の見習いコックとして採用された21歳のホー=チ=ミンは、1911年6月5日、サイゴンを出帆してフランスへ渡った。ロシア革命の影響でマルクス=レーニン主義に近づき、1920年12月フランス共産党の創立大会に参加、機関誌『ル=パリア』の編集に活躍した。
1923年ソ連に渡り、第5回コミンテルン大会でアジア担当の常任委員に選出され、コミンテルンの指示によって広東に赴き、1925年、広州でベトナム青年革命同志会を創立、さらに1930年香港でベトナム共産党を結成した。
その後、船の見習いコックとして採用された21歳のホー=チ=ミンは、1911年6月5日、サイゴンを出帆してフランスへ渡った。ロシア革命の影響でマルクス=レーニン主義に近づき、1920年12月フランス共産党の創立大会に参加、機関誌『ル=パリア』の編集に活躍した。
1923年ソ連に渡り、第5回コミンテルン大会でアジア担当の常任委員に選出され、コミンテルンの指示によって広東に赴き、1925年、広州でベトナム青年革命同志会を創立、さらに1930年香港でベトナム共産党を結成した。
日本軍がベトナムに進駐した1941年に、雲南省から国境を越えて30年ぶりにベトナムに戻った。ここでベトナム独立のための統一戦線組織「ベトナム独立同盟会」(通称ベトミン)を組織して、その主席に就任し、これまでベトナムを支配してきたフランスに替わり、新たにベトナムの事実上の宗主国的存在になった日本に対する武装闘争の準備に着手した。
しかし、ベトミンは軍事力が弱く、1942年8月に中華民国に赴いて、日本軍と戦っていた蔣介石に協力を求めようとした。この時から、従来の「グエン=アイ=クオック」ではなく「ホー=チ=ミン」の名を使うようになった。
中華民国との協力関係を結ぼうとしたが、1942年8月、中国国民党によって逮捕され、1943年9月までを牢獄で過ごすことになる。周恩来の助けで釈放され、1944年にようやく根拠地に帰った。
このアメリカの介入は、1965年2月7日のアメリカ軍による北ベトナム空爆(北爆)から本格的なベトナム戦争へとエスカレートして行く。
しかし、ベトミンは軍事力が弱く、1942年8月に中華民国に赴いて、日本軍と戦っていた蔣介石に協力を求めようとした。この時から、従来の「グエン=アイ=クオック」ではなく「ホー=チ=ミン」の名を使うようになった。
中華民国との協力関係を結ぼうとしたが、1942年8月、中国国民党によって逮捕され、1943年9月までを牢獄で過ごすことになる。周恩来の助けで釈放され、1944年にようやく根拠地に帰った。
1945年8月15日、大日本帝国がポツダム宣言を受諾した旨が短波放送による玉音放送で伝えられ、ベトナムが事実上無政府状態となると、8月16日に国民大会を開催して臨時政府となるベトナム民族解放委員会を選出し、全国総蜂起のアピールを発した。
こうして、ベトミンの指導下における「八月革命」が始まった。8月19日ハノイで蜂起が起き、8月23日には阮朝の首都であるフエでも蜂起が発生してベトミン軍が権力を掌握。サイゴンでも8月25日に民衆蜂起が発生。ベトミンはベトナム全土を掌握していった。8月27日、民族解放委員会が改組されてベトナム民主共和国臨時政府が成立し、ホー=チ=ミンは首相兼外相に選出された。
こうして、ベトミンの指導下における「八月革命」が始まった。8月19日ハノイで蜂起が起き、8月23日には阮朝の首都であるフエでも蜂起が発生してベトミン軍が権力を掌握。サイゴンでも8月25日に民衆蜂起が発生。ベトミンはベトナム全土を掌握していった。8月27日、民族解放委員会が改組されてベトナム民主共和国臨時政府が成立し、ホー=チ=ミンは首相兼外相に選出された。
8月30日にバオ=ダイが退位し、日本の傀儡国家となっていた阮朝・ベトナム帝国が滅亡した。かくして大日本帝国政府が停戦に署名して第二次世界大戦が終わった同年9月2日、ホー=チ=ミンはハノイにおいてベトナム民主共和国の独立を宣言し、大統領に就任した。
1945年12月17日、植民地支配の復活をもくろむフランス軍がベトナム民主共和国軍への攻撃を開始。12月19日、ホー=チ=ミンは『全国民に抗戦を訴える』を発表して抗戦を開始し、インドシナ戦争が開始された。
当初フランスは首都ハノイを押さえ優位であったが、ベトミン軍のゲリラ攻撃に悩まされ農村部を支配できず、戦闘の長期化に国内にも厭戦気運が高まってきた。1949年にフランスはバオ=ダイを擁立してベトナム国を樹立した。
アメリカ(トルーマン政権)は当初、フランスの植民地主義を批判し、援助に積極的でなかったが、1949年10月、中華人民共和国が成立するとアジアの共産主義化を恐れ(ドミノ理論)、ベトナムのフランス軍を全面支援することとなり、インドシナ戦争は一挙に国際的な問題と化した。
当初フランスは首都ハノイを押さえ優位であったが、ベトミン軍のゲリラ攻撃に悩まされ農村部を支配できず、戦闘の長期化に国内にも厭戦気運が高まってきた。1949年にフランスはバオ=ダイを擁立してベトナム国を樹立した。
アメリカ(トルーマン政権)は当初、フランスの植民地主義を批判し、援助に積極的でなかったが、1949年10月、中華人民共和国が成立するとアジアの共産主義化を恐れ(ドミノ理論)、ベトナムのフランス軍を全面支援することとなり、インドシナ戦争は一挙に国際的な問題と化した。
1954年、停戦交渉がジュネーヴで開催され、その最中の5月にフランス軍がディエンビエンフーの戦いで敗北。7月21日にジュネーヴ休戦協定が成立して和平が実現した。
これによってフランスはインドシナから完全に撤退することとなったが、替わってアメリカがその空白を埋めるべく、進出してきた。アメリカは和平に反対してジュネーヴ休戦協定に参加せず、むしろ1955年には南ベトナムに傀儡政権ベトナム共和国(南ベトナム)を樹立して介入し、ホー=チ=ミンのベトナム民主共和国(北ベトナム)と敵対させ、和平協定で約束された統一選挙の実施を拒んだ。
これによってフランスはインドシナから完全に撤退することとなったが、替わってアメリカがその空白を埋めるべく、進出してきた。アメリカは和平に反対してジュネーヴ休戦協定に参加せず、むしろ1955年には南ベトナムに傀儡政権ベトナム共和国(南ベトナム)を樹立して介入し、ホー=チ=ミンのベトナム民主共和国(北ベトナム)と敵対させ、和平協定で約束された統一選挙の実施を拒んだ。
北爆開始
このアメリカの介入は、1965年2月7日のアメリカ軍による北ベトナム空爆(北爆)から本格的なベトナム戦争へとエスカレートして行く。
ホー=チ=ミンは「抗米救国」の先頭にたったが、アメリカ軍の撤退と戦争の勝利・南北の統一の成功を見ることなく、1969年9月2日、独立記念日に心臓発作で亡くなった。享年79歳。
祖国と人民への信頼を最後まで持ち、無私の奉公・優れた実践で「ベトナム建国の父」と呼ばれている。
ホー=チ=ミンは個人崇拝につながる墓所や霊廟の建設を望んではいなかったがその意向は無視された。政治局の決定により遺骸はレーニンに倣い永久保存(エンバーミング)され、南北統一後のハノイ市のバディン広場に建設されたホー=チ=ミン廟に安置された。
ホー=チ=ミンはスターリンや毛沢東、金日成のような神格化を嫌い、過去の私生活をいっさい公表していない。しかし、かえってそのことが彼を謎に包まれた“神様”のような存在にしてしまった。
色々ささやかれている噂のなかで、とくにベトナム共産党が毛嫌いしているものに、女性関係がある。かつてホー=チ=ミンは自分が犯した二つの過ちを大衆に向かって率直に告白したことがある。
一つは、煙草の喫い過ぎであり、もう一つは結婚しなかったことである。ベトナム共産党の公式解釈ではホー=チ=ミンは生涯独身で通し、すべての人生を革命と民衆解放に捧げた、とされている。だが、革命家のグエン=チ=ミンカイとは事実上の夫婦であったとか、中国で革命運動を行っていた時、中国共産党の仲介で中国人女性・曾雪明と密かに結婚して子どもを二人もうけた、という噂が根強く残っている。
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色々ささやかれている噂のなかで、とくにベトナム共産党が毛嫌いしているものに、女性関係がある。かつてホー=チ=ミンは自分が犯した二つの過ちを大衆に向かって率直に告白したことがある。
一つは、煙草の喫い過ぎであり、もう一つは結婚しなかったことである。ベトナム共産党の公式解釈ではホー=チ=ミンは生涯独身で通し、すべての人生を革命と民衆解放に捧げた、とされている。だが、革命家のグエン=チ=ミンカイとは事実上の夫婦であったとか、中国で革命運動を行っていた時、中国共産党の仲介で中国人女性・曾雪明と密かに結婚して子どもを二人もうけた、という噂が根強く残っている。
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