なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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フルシチョフ
フルシチョフは1894年4月17日にウクライナ地方のクルスク県で炭鉱夫の息子として生まれ、15歳の時に鉛管工として働き始めた。ロシア革命以前から労働運動に参加し、1918年にロシア共産党(ボリシェヴィキ)に入党した。内戦後は炭鉱で働きながら労働学校で学び、モスクワ市および同州党第一書記などを務めた。
ついでウクライナ共和国の党書記長を経て、独ソ戦の勃発で陸軍中将に任命され、軍功をあげてウクライナ共和国首相となった。
フルシチョフとスターリン
戦後、モスクワ市および同州党委員会第一書記に復帰、1953年にスターリンの死でマレンコフのあとを継いでソ連邦共産党第一書記に選出され、ブルガーニン首相が就任すると、国際的緊張緩和(雪解け)に積極的方針を採用して、ブルガーニンとともに各国を歴訪した。
1956年2月、ソ連共産党第20回大会においてフルシチョフがスターリン批判の演説を行い、世界を驚かせた。公開の一般演説ではスターリンの名を挙げなかったものの、それまでのソ連共産党の公式見解である戦争不可避論(資本主義陣営との戦争は避けられないとする考え)を批判して、西側との平和共存路線への転換をはかり、また暴力的手段によるのではなく議会制度を通して平和的に社会主義への移行することが可能であることを呼びかけた。
それ自体が画期的な方向転換であったが、さらに大会最終日の2月24日から25日にかけて開かれた非公開の会議で、再び演壇に上がって『秘密報告』と呼ばれる報告を行い、スターリンを名指しで批判した。この秘密報告は、正式にいうと『ソ連共産党第20回大会非公開会議における演説』ということになっており、その表題も『個人崇拝とその諸結果について』というごく穏やかな名前になっている。この非公開の会議には、1355名の決議権をもつ代議員と、81名の審議権だけを持つ代表、計1436名が出席した。内外の記者、外国代表は退席を求められた。代議員もノートをとることを禁じられた。
しかし、アメリカ中央情報局(CIA)が演説内容を入手、6月4日にアメリカ国務省がそれを発表した。翌日『ニューヨーク・タイムズ』が全文を掲載し報道したことから世界中に知れ渡ることになり、世界に衝撃を与えた。
撤去されるスターリン像
1961年にフルシチョフは第22回党大会で再度スターリン批判を行った。この時は報告も新聞に報道された。この時、スターリンの遺体は赤の広場から撤去され、スターリングラードはヴォルゴグラードと改名された。各地のスターリン像も撤去された。スターリンによって粛清された人たちの名誉回復が行われ、その数は500~600万に及んだ。
スプートニク
1957年フルシチョフはモロトフやマレンコフを排除、さらに人工衛星スプートニクの打ち上げに成功するなどを背景に力をつけ、1958年にはブルガーニン首相を解任して自ら兼任した。
スプートニクは世界最初の人工衛星(大気圏外を航行する飛行物体)で、ソ連が1957年10月4日に打ち上げに成功した。スプートニクの打ち上げ成功は、二重の意味で西側諸国にショックを与えた。ひとつはソ連の科学技術の実力を過小評価していたというショック、もうひとつは、ソ連の科学技術に負けたという事実そのものによるショックである。96分12秒で地球を一周する83.6キログラムの人工衛星スプートニクには「ピーッ」という音を発信できる二つのラジオが備えつけられており、この発信音がワシントンDCでもっとも大きく受信できるようになっていた。
アイゼンハウアー夫妻とフルシチョフ夫妻
核開発や宇宙開発でアメリカと対等な力を付けたという自信を背景に、フルシチョフはソ連内部の対米強硬派を抑え、アメリカとの平和共存路線を模索し、1959年にはソ連首相として始めて渡米し、アイゼンハウアーと会談した。
ニーナ夫人を伴って訪米したフルシチョフは、その平和共存路線に沿って国際連合総会で演説し、全面完全軍縮を提案した。また、アメリカのアイゼンハウアー大統領はワシントン郊外のキャンプデーヴィッドにフルシチョフを招き、米ソ首脳の会談が行われた。両者は国際紛争の平和的解決では合意し、アイゼンハウアーの訪ソが約束された。これによって冷戦の緩和が進むかと思われたが、翌1960年5月にU2型機事件が起きて再び緊張状態に戻ることになる。(つづく)
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レジスタンス運動
フランス解放後に臨時政府がフランスの統治を行うこととなり、制憲議会は満場一致でド=ゴールを臨時政府の主席に選出した。ド=ゴールは国内でレジスタンスを続けた共産党系の勢力が力を付けることには警戒し、1944年8月20日、臨時政府の主席に就任した。しかし、共産党、社会党が議会で多数を占めるようになると、各政党との政策不一致を理由に1946年1月20日突如辞任し、いったん政界の表面から退いた。
しかし、反共・反ソ勢力の中心となり、1947年に「フランス国民連合(RPF)」総裁として復帰、憲法改正による大統領権限の強化を実現し集権的な権力の下でのフランスの再生を主張し、支持を集めていった。
アルジェリア戦争
1948年にフランス植民地のアルジェリアでベン=ベラを指導者として民族解放戦線(FLN)が結成され、1954年11月1日に武装蜂起し、アルジェリア戦争が始まった。フランス人入植者は「フランス人のアルジェリア」と唱えて、当局もアラブ人の独立運動を厳しく弾圧し、双方のテロが繰り返された。
フランス国内ではその対応をめぐって対立が生じ、アルジェリア問題が深刻化した。国内の第四共和政政府は独立容認に傾いたが、現地のフランス人入植者(コロン)と現地軍は反発し、より強力な指導力を持つ政府の出現を望むようになった。
1958年5月、国政府に反旗を翻してアルジェ政庁を占領し、ド=ゴールを首班とする政府の樹立を要求するという事件が起こった。第四共和政の下で対立を繰り返していた諸政党は対応するすべが無く、ド=ゴールの登場を要請、それを受けて6月1日ド=ゴールは首相に就任、挙国一致内閣を組織し、アルジェの反乱軍には統治権を認めて事態を収拾した。
憲法改正を成立させたド=ゴール
同年9月、ド=ゴールの起草した第五共和政憲法が国民投票で80%の支持を得て成立、同年の総選挙でもド=ゴール派の新共和国連合が第一党となり、10月、大統領選挙でも圧勝したド=ゴールは第五共和政の初代大統領となった。
ところが、ド=ゴール大統領は 一転して「アルジェリア人のアルジェリア」を実現させる方向をとった。軍部保守派、現地軍の反対を抑え、1960年にはアルジェリアの独立の可否を国民投票にかけ、賛成多数の支持を受けて解放戦線(FLN)との交渉を開始し、1962年7月エヴィアン協定を締結、独立戦争の和平を実現させた。協定に基づいてアルジェリアで住民投票が行われ、独立賛成が圧勝して、同年アルジェリア民主人民共和国が成立した。
1960年にド=ゴールがアルジェリアの独立を容認することに転じたことは、多のアフリカの民族独立運動に大きな影響を与え、一気に独立の気運が高まり、イギリスなどもそれに押される形で次々とアフリカ諸国の独立が実現し、アフリカの年と言われることとなる。

フランス初の核実験
アルジェリア独立によって旧フランス植民地帝国は解体したが、ド=ゴールは失われた大国フランスの威信の回復を目指して「フランスの栄光」を掲げ、1960年には核実験を強行、1962年10月には大統領を国民が直接選出する憲法改正を国民投票にかけて成立させ、1965年には大統領に再選された。
国内に確固とした基盤を築くと、強大な大統領権限を行使し、NATO軍事機構脱退、アメリカのベトナム政策を批判し、中華人民共和国を承認するなど、ド=ゴール外交といわれるアメリカに追随しない独自の外交路線を展開した。また、イギリスはアメリカの「トロイの木馬」と評し、アメリカのヨーロッパへの発言力強化につながるとして、イギリスのヨーロッパ経済共同体(EEC)加盟に反対した。
五月危機
このようなド=ゴールの政治は、ド=ゴール主義(ゴーリズム)と言われ、当初は国民的な支持を受けていたが、権力が長期化する中で、経済成長は続いたが格差の拡大や若者の疎外感が深まり、1968年55月のいわゆる五月危機という学生、労働者の反体制運動が激化ししてその権威が揺らいだ。
一旦は乗り切ったド=ゴールは国民に信任を問う意味で、地方制度の改革と上院改革を内容とする憲法改正を提案し、国民投票にかけることとした。危機にあっては強い指導者ド=ゴールを支持した国民であったが、政治の新しい展開には80歳近い老人に見切りを付けていた。
ド=ゴール
1969年4月に実施された国民投票はド=ゴール提案は反対52%で否決された。国民投票で信任を問うというド=ゴール政治の敗北であり、「英雄の時代」は終わったと言える。ド=ゴールは直ちに辞任を表明し、辞職後18ヶ月経たない1970年11月9日に死去した。
次期大統領選挙は1969年6月に行われたが、左派陣営は分裂していたため、ド=ゴール派のポンピドゥーが当選、ド=ゴール政治を継承することとなった。
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ダンケルク撤退(映画『ダンケルク』より)
1939年9月ポーランドを征服したドイツは、翌1940年4月から新たな攻勢に出て、デンマーク・ノルウェー・オランダ・ベルギーを相次いで降伏させ、フランスが万幅の信頼を寄せていたマジノ要塞線も、急降下爆撃機、機械化部隊、戦車などによる息もつかせぬドイツ軍の波状攻撃、いわゆる「電撃戦」の前には一たまりもなかった。ドイツ戦車団は無人の野を行くように進撃し、鉄道の線路という線路に沿って避難民の洪水が続く。こうして、ドイツ軍はまるで「ナイフでバターを切るように」フランスを切断し、戦局はもはや絶望的となった。
1940年5月末から6月初めにかけて、英仏軍34万はダンケルクに集結、かろうじてイギリス本土に退却し、「奇跡の撤退」と言われた。ドイツの大戦果を目の当たりにして、その勝利を信じたイタリアは6月10日、英仏に宣戦布告。そのドイツ軍は14日パリを占領、すでにボルドーに逃れていたフランス政府は17日、ペタン新首相のもとにドイツに休戦を求める。22日休戦協定は調印され、フランス本土は占領地域と自由地域に二分されることになった。
これより先、16日夜ロンドンからボルドーに帰っていたド=ゴール将軍は、翌17日そのロンドンに亡命する。彼は国防次官として、イギリスと協力しつつ抗戦を続けることに努力していたのである。
シャルル=ド=ゴールは1890年11月22日にリールで生まれた。父のアンリは医学・理学・文学の3つの博士号を持つ学者だったが、普仏戦争に騎兵中尉として参戦して負傷、祖国の敗戦を経験している。そのため、幼少のド=ゴールを度々戦跡に連れて行くなどの軍人教育を行った。1909年陸軍士官学校を卒業したシャルルは、第一次世界大戦ではペタン大佐(後に元帥)の部下として活躍した。
のち戦術理論家として台頭、彼が予見した電撃戦はナチス=ドイツによって実際のものとなった。第二次世界大戦中の1940年6月に国防次官に任命され、フランス史上最年少の49歳で少将になったばかりであった。
シャルル=ド=ゴールは1890年11月22日にリールで生まれた。父のアンリは医学・理学・文学の3つの博士号を持つ学者だったが、普仏戦争に騎兵中尉として参戦して負傷、祖国の敗戦を経験している。そのため、幼少のド=ゴールを度々戦跡に連れて行くなどの軍人教育を行った。1909年陸軍士官学校を卒業したシャルルは、第一次世界大戦ではペタン大佐(後に元帥)の部下として活躍した。
のち戦術理論家として台頭、彼が予見した電撃戦はナチス=ドイツによって実際のものとなった。第二次世界大戦中の1940年6月に国防次官に任命され、フランス史上最年少の49歳で少将になったばかりであった。
この17日、ド=ゴールはイギリスのスピアーズ将軍を見送る振りをして小型飛行機に近づき、それが動き出す瞬間に機体へと飛び込んだ。「飛行機はフランスの警官と役人たちが、呆気にとられている間に空に舞い上がった。ド=ゴールはこの小さな飛行機でフランスの名誉を運んで行った」と、チャーチルはその回顧録に書いている。
一方、ド=ゴール自身は、スピアーズと同道して、前夜自分をイギリスから運んできた飛行機でまたイギリスへ帰った、出発はロマンティシズムも困難もなしに行われたと、淡々と記している。
なお、ド=ゴールの夫人と子供たちは、ぎりぎりのところでブレスト港を出る最後の船でイギリスに渡航することが出来たという。
6月18日、ド=ゴールはBBCラジオを通じ、この戦いが世界戦争であること指摘しつつ、フランス国民に呼びかけた。ー「最後の言葉は述べられたのか?希望は失われたか?敗北は決定的か?否!……フランスは孤立してはいない!……何ごとが起ころうと、抵抗の炎は消えてはならないし、また消えさることはないであろう」。
やがてド=ゴールはロンドンに「自由フランス」を組織して、自ら主席となり、イギリスの支援のもとに対独抵抗を続ける。本国では死刑を宣告されていた彼ではあったがー。フランスに残っていたド=ゴールの母は病床で息子の放送を聞き、7月中頃に他界した。
1943年、連合軍がアフリカを制圧するとともに、ロンドンの自由フランス本部はアルジェに移り、臨時政府ともいうべき国民解放フランス委員会が結成され、ド=ゴールはその主席となった。一方、フランス国内のレジスタンス諸勢力はパリで全国抵抗評議会(CNR)を結成、内外抵抗運動に統一が出来た。翌1944年になると、地下軍事組織が統合されてフランス国内軍が生まれた。
そして、6月6日のあのノルマンディーに上陸した連合軍に呼応して、この国内軍は各地で蜂起する。彼らの活動がなければ上陸軍の勝利にはもっとも時間がかかり、もっと多くの犠牲が出たであろうとは、アイゼンハウアーの言葉である。
そして、6月6日のあのノルマンディーに上陸した連合軍に呼応して、この国内軍は各地で蜂起する。彼らの活動がなければ上陸軍の勝利にはもっとも時間がかかり、もっと多くの犠牲が出たであろうとは、アイゼンハウアーの言葉である。
コルティッツ将軍
1944年8月、連合軍の進撃の前にヴィシー政府は解体し、19日、およそ2万人というドイツ守備隊に対してパリ市民は武装蜂起を始め、22日から市街戦は激しくなった。しかし、ドイツ軍司令官コルティッツはパリを愛するがゆえに、ヒトラーの徹底的抗戦命令にもかかわらず、無益な流血や破壊を避けようとした。
24日夜9時20分頃、フランス軍ルクレール師団の先頭部隊は市庁(CNR本部)前の広場に達する。ラジオはこれを告げ、教会の鐘は夜空に鳴り響き、窓には燈火が輝き、思わずもラ=マルセイエーズの合唱ーだが、まだドイツ兵がいるのだ!開かれた窓めがけて銃弾が飛んでくる。パリはまた闇と静寂にかえる……。
翌25日朝、ルクレールの本隊が到着、『タイムズ紙』の従軍記者が書いたという、「私は恋する若者たちの顔を見たことがあるし、心やすらかに神に祈る老人の顔を見たこともある。しかし、今朝パリ市民の顔に輝いたような喜びの顔は、今まで一度も見たことがなかった」。
25日午後3時過ぎ、コルティッツはパリ警視庁でルクレールを前に降伏文書に署名、今や4年間の「鈎十字」の支配は終わり、エッフェル塔に、凱旋門に、大三色旗が翻った。一方、同じ午後、ド=ゴールは「アスパラガス」とあだ名されたその193センチの長身を、抵抗運動開始以来初めてパリに姿を現した。そして、晩夏の陽もすでに落ち、夕闇が濃くなろうとする7時15分、広場を埋める民衆の熱狂のうちに、彼は市庁舎へ入って行った。そこでCNRの指導者が待ち受けていたのである。
8月26日午後、ド=ゴールは凱旋門の無名戦士の墓に花輪を捧げた後、シャンゼリゼの大通りを行進して市民の歓呼にこたえた。「15時、凱旋門からノートルダム寺院まで、パリの全市民はド=ゴール将軍に喝采を送る。ルクレールの兵士たちよ、アメリカの友人たちよ!みずからを解放したパリは諸君を歓迎し、諸君に感謝の言葉を贈る!」
その日のパリの強烈な熱狂は、一つの大きな「溜息」のようなものであった。(つづく)
8月26日午後、ド=ゴールは凱旋門の無名戦士の墓に花輪を捧げた後、シャンゼリゼの大通りを行進して市民の歓呼にこたえた。「15時、凱旋門からノートルダム寺院まで、パリの全市民はド=ゴール将軍に喝采を送る。ルクレールの兵士たちよ、アメリカの友人たちよ!みずからを解放したパリは諸君を歓迎し、諸君に感謝の言葉を贈る!」
その日のパリの強烈な熱狂は、一つの大きな「溜息」のようなものであった。(つづく)
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チャーチル
ウィンストン=チャーチルは1874年11月30日、マールバラ公爵の孫として生まれたが、ラテン・ギリシアの古典語が不得意で大学に進まず、陸軍士官学校を卒業した。キューバ反乱やインドでの植民地戦争・南アフリカ戦争などの従軍記を発表して文名を得た。
1900年、保守党の議員となったが、1904年保護関税政策に反対して自由党に移り、1906年以降、植民地省次官・商務大臣・内務大臣・植民地大臣を歴任、1911年には海軍大臣となった。
1914年に第一次世界大戦が始まると、ロイド=ジョージは参戦に反対したが、チャーチルは熱烈に参戦を希望し、ドイツがロシアに宣戦布告した8月1日には独断で海軍動員令を出した。8月2日にドイツ軍がベルギーの中立を犯して同国に侵攻を計画していることが判明すると、ロイド=ジョージも参戦派に転じ、アスキス内閣は8月4日にドイツに対する宣戦布告を決定、この時チャーチルは幸せそうな顔つきで大股で歩いて閣議室へ向かったという。
しかし、1915年ガリポリの戦いで上陸作戦を進めたがケマル=パシャの率いるトルコ軍に敗れ、責任をとり辞職したが、とにかく行動をしていないと済まないチャーチルは、西部戦線に従軍しようとフランスへ向かった。ところが、チャーチルの大隊は戦死者を多く出し過ぎたため大隊指揮官から解任され、結局チャーチルは主要な会戦に参加することなく1916年5月にロンドンに帰国することとなった。帰国したチャーチルは新聞に投書する文筆業で生計を立てるようになる。
戦後は自由・保守連立内閣で陸軍大臣兼空軍大臣・植民地大臣となり、1922年、労働党の進出と自由党の分裂に直面して反社会主義の立場から保守党に復帰した。1924~29年にはボールドウィン内閣の大蔵大臣を務めたが、その後は保守党主流派と意見を異にして閣外にあった。
しかし、1915年ガリポリの戦いで上陸作戦を進めたがケマル=パシャの率いるトルコ軍に敗れ、責任をとり辞職したが、とにかく行動をしていないと済まないチャーチルは、西部戦線に従軍しようとフランスへ向かった。ところが、チャーチルの大隊は戦死者を多く出し過ぎたため大隊指揮官から解任され、結局チャーチルは主要な会戦に参加することなく1916年5月にロンドンに帰国することとなった。帰国したチャーチルは新聞に投書する文筆業で生計を立てるようになる。
戦後は自由・保守連立内閣で陸軍大臣兼空軍大臣・植民地大臣となり、1922年、労働党の進出と自由党の分裂に直面して反社会主義の立場から保守党に復帰した。1924~29年にはボールドウィン内閣の大蔵大臣を務めたが、その後は保守党主流派と意見を異にして閣外にあった。
イギリス本土への爆撃を行うドイツの主力爆撃機
第二次世界大戦直前、破局への空気が重々しく漂っていた頃、ロンドンの劇場でチャーチルと会ったある女性が書いている。「彼はちょっとの間腰をおろすと、前置きもなく問題の核心に触れた。『われわれは戦争をしなければならんでしょう……イギリス帝国はドカンと食らわすでしょう……そこで私は……そう、20歳も若返るような気がしますよ!』ー彼は水からあがった犬のように楽し気に、身体を震わせた」。
1939年9月、開戦とともに64歳のチャーチルは海軍大臣となり、さらに1940年5月10日、弱腰のネヴィル=チェンバレンに代わって首相となった。そして8月、いまや戦いはブリテン島に迫り、「生きるに値すると同様に、死にも値する時が来た」。
ドイツの対英作戦は3段階に分かれていた。まず港・基地・飛行場などの空爆、次に大都市・工場地帯・鉄道の爆撃、こうしてイギリスの全土を麻痺状態にしておいてから。最後に上陸である。後にバトル・オブ・ブリテンと呼ばれるようになるこの戦いにおいて、繰り返される空爆に備え、ロンドンの人口の半分は地下にもぐり、残りの半分は郊外に疎開。チャーチルをはじめ戦時内閣も地下の防空壕に閣議室を設けて、指揮にあたった。
1939年9月、開戦とともに64歳のチャーチルは海軍大臣となり、さらに1940年5月10日、弱腰のネヴィル=チェンバレンに代わって首相となった。そして8月、いまや戦いはブリテン島に迫り、「生きるに値すると同様に、死にも値する時が来た」。
ドイツの対英作戦は3段階に分かれていた。まず港・基地・飛行場などの空爆、次に大都市・工場地帯・鉄道の爆撃、こうしてイギリスの全土を麻痺状態にしておいてから。最後に上陸である。後にバトル・オブ・ブリテンと呼ばれるようになるこの戦いにおいて、繰り返される空爆に備え、ロンドンの人口の半分は地下にもぐり、残りの半分は郊外に疎開。チャーチルをはじめ戦時内閣も地下の防空壕に閣議室を設けて、指揮にあたった。
追い詰められながらも大英帝国の壁を守るチャーチルの図
(政府の戦意高揚プロパガンダ・ポスター)
(政府の戦意高揚プロパガンダ・ポスター)
ドイツ空軍の大爆撃に対し、これまで温存され、満を持していたイギリス戦闘機の抵抗は目覚ましい。航空機の数では劣勢であったが、その性能はイギリスの方が優秀であり、またイギリスのパイロットは技術が優れ、かつ勇敢であった。チャーチル首相は議会で、「かつて人類抗争の場において、これほど多くの人々が、これほど多くのことについて、これほど少数の人々のお陰を受けたことはなかった」と、若いパイロット達に感謝している。
この言葉は多くの人々の口にされたが、ある兵舎の給料支払場の窓口に、「いまだかつてかくも多くの人々が、かくも少額のために、かくも長時間待たされたことはない」という意味の紙片が貼られていたという話も伝わっている。
爆撃されたロンドン西部を視察するチャーチル
さて、作戦の第一段階が不十分なままに、ドイツはその第二段階に移った。1940年9月から大空襲が昼夜を分かたず、ロンドンを見舞った。しかし、ここでもイギリス空軍の活躍は目覚ましく、効果的な抵抗を示し、ついにヒトラーはイギリス本土上陸作戦を諦めざるを得なくなった。(一説によれば、イギリスとの妥協を望むヒトラーは、徹底的な対英攻撃の意志がなかったともいわれる)
この時、第一段階の作戦を徹底せず、次の作戦に転じたことは失敗であり、もし、基地・飛行場などの爆撃が続いていたならば、結果はどうなったか分からないと言われている。チャーチル自身も、「戦闘機隊司令部は、9月7日ドイツの攻撃がロンドンに転じたのを見て取り、敵が作戦を変更したという結論を得て、安堵の吐息を漏らした」と書いた。
ヤルタ会談でのチャーチル
チャーチルはフランクリン=ローズヴェルト・スターリンとともに戦争を連合軍の勝利に導いた。1945年、ドイツ降伏後の総選挙では自己の名声を過信して事態を楽観したことなどから労働党に敗れ、アトリーに首相の座を明け渡したが、戦後の冷戦をいち早く見抜き、「鉄のカーテン」なる新語を造って、反ソ政策とヨーロッパの統合を唱えた。1951年の総選挙での保守党の勝利で首相に復帰、次の総選挙前に党首をイーデンに譲って引退した。
貴族に叙されたが、上院に入るのを嫌って辞退、会員議員にとどまった。なお、1951年にサーの称号のみを受けている。散文の名手としても知られ、1953年に『第二次世界大戦回顧録』6巻でノーベル文学賞を受賞した。1965年1月24日、脳卒中により永眠、90歳の生涯を終えた。
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貴族に叙されたが、上院に入るのを嫌って辞退、会員議員にとどまった。なお、1951年にサーの称号のみを受けている。散文の名手としても知られ、1953年に『第二次世界大戦回顧録』6巻でノーベル文学賞を受賞した。1965年1月24日、脳卒中により永眠、90歳の生涯を終えた。
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ドイツ機械化部隊と爆撃機のの電撃戦はポーランドを3週間で消滅させた。ヒトラーの対英和平演説をイギリスは無視したが、軍事行動は緩慢であった。1940年4月、ドイツ軍はデンマーク・ノルウェーを侵略し、5月、西部戦線での大攻勢に成功し、6月、フランスは降伏した。イタリアはこれに先立ち、急いで参戦した。
孤立するイギリスは首相チャーチルの指導下、アメリカからの物資援助を頼りに耐えぬいた。ドイツは海軍力の少なさから対英上陸作戦についに踏み切れず、7月10日からロンドンなどに激しい空爆を行った。イギリス空軍はこのバトル・オブ・ブリテンで活躍し、チャーチルに鼓舞されたイギリス国民も空襲に耐え抜いた。イギリス本土上空の制空権をついに奪えなかったドイツは、全ヨーロッパ大陸の制圧によって、イギリスを屈服させようとした。1940年12月には対ソ戦争が決定、その準備を進めた。
この作戦が「バルバロッサ作戦」と命名されたのは、第3回十字軍の遠征中に不慮の事故で没したが、いつかは蘇ってドイツを救うであろうと民間で伝承されていた皇帝フリードリヒ1世の異名「バルバロッサ(赤ひげ)」に由来する。
孤立するイギリスは首相チャーチルの指導下、アメリカからの物資援助を頼りに耐えぬいた。ドイツは海軍力の少なさから対英上陸作戦についに踏み切れず、7月10日からロンドンなどに激しい空爆を行った。イギリス空軍はこのバトル・オブ・ブリテンで活躍し、チャーチルに鼓舞されたイギリス国民も空襲に耐え抜いた。イギリス本土上空の制空権をついに奪えなかったドイツは、全ヨーロッパ大陸の制圧によって、イギリスを屈服させようとした。1940年12月には対ソ戦争が決定、その準備を進めた。
この作戦が「バルバロッサ作戦」と命名されたのは、第3回十字軍の遠征中に不慮の事故で没したが、いつかは蘇ってドイツを救うであろうと民間で伝承されていた皇帝フリードリヒ1世の異名「バルバロッサ(赤ひげ)」に由来する。
ベルリンオリンピック開会式のヒトラー
1941年3月、ドイツ軍はユーゴスラヴィア・ギリシアを制圧し、劣勢のイタリア軍を助けてアフリカ戦線でも攻勢に移った。
ところで、1936年にベルリンオリンピックが開催されているが、ベルリンでの開催はナチス政権成立前の1931年に決まっていた。ヒトラーは当初、オリンピックを「ユダヤ主義に汚された芝居だ」とけなしていたが、1934年にイタリアのムッソリーニが第2回ワールドカップ・イタリア大会をファシズムの宣伝に利用して成功したのを見て、「アーリア人種の優秀さを証明する」機会と考えるようになり、また宣伝相ゲッベルスも開催に力を入れたため、全面的なナチス宣伝の大会となった。
ところで、1936年にベルリンオリンピックが開催されているが、ベルリンでの開催はナチス政権成立前の1931年に決まっていた。ヒトラーは当初、オリンピックを「ユダヤ主義に汚された芝居だ」とけなしていたが、1934年にイタリアのムッソリーニが第2回ワールドカップ・イタリア大会をファシズムの宣伝に利用して成功したのを見て、「アーリア人種の優秀さを証明する」機会と考えるようになり、また宣伝相ゲッベルスも開催に力を入れたため、全面的なナチス宣伝の大会となった。
ベルリンオリンピックの聖火リレー
この大会において、プロパガンダ効果を高めることを目的に古代オリンピックの発祥地であるギリシャのオリンピアで聖火を採火し、松明で開会式のオリンピアシュタディオンまで運ぶ「聖火リレー」が初めて実施された。これは彼らゲルマン民族こそがヨーロッパ文明の源流たるギリシャの後継者であるというヒトラーの思想に適った物でもあった。
聖火リレーのコースは、オリンピアを出発してブルガリア、ユーゴスラヴィア、ハンガリー、オーストリア、チェコスロバキアを経由し、ドイツ国内へ入るというものであった。なお、ドイツ政府は聖火リレーのルート調査のためにルート途上の各国の道路事情を綿密に調査したが、バルカン進出の際にこの調査結果を活用したという逸話が残っている。平和の祭典の聖火リレーのルートが「侵略の道」となったのである。
ヒトラー
ヒトラーにとって、ソ連は打倒されねばならぬ存在だった。イギリスが孤立しつつも長期抗戦の態勢に入った時に、二正面作戦の危惧をもつ多くの将軍たちの反対を押し切って、ヒトラーは対ソ戦争を決意した。ウクライナの穀物とカフカスの石油は、ドイツの長期戦を支える資源となるし、ドイツのソ連打倒・大陸制覇はイギリスの抗戦意志を失わせるであろう。共産主義嫌いの英米(当時未参戦)が本格的にソ連と提携はするまい。提携しても、効果的な援助が戦力化する前に、スターリンの圧政でがたがたになっているソ連という建物は「ドアをひと蹴りすれば倒壊する。」
このような予定で、ヒトラーは全ヨーロッパ・ソ連領の征服は約3カ月で可能と考えた。作戦の発動は5月15日と定められたが、バルカン作戦のため6月22日に延期された。その日午前3時15分頃、事前交渉も全然なしに、宣戦と同時に、精鋭な152個師団300万人、戦車3648輌、航空機2300機のドイツ軍がソ連領内に進撃した。
スターリン
スターリンはドイツ軍の侵攻を全く予想していなかった。もちろん諜報部員からの情報は同作戦のほぼ全容をつかんでいた、攻撃開始日も5月15日から6月15日の間とまで予想していたが、スターリンはこれを「ソ連を戦争に引きずり込むための意図的な挑発」として退けていた。
彼はもしドイツ軍がソ連侵攻を図るなら兵士に着せる毛皮の外套が大量に必要になるから、毛皮の値段があがるだろうとして、その値段を調べさせたが、別に急騰していなかった。実はヒトラーがソ連の抵抗力を侮って短期間の勝利を過信し、冬支度を怠ったためである。ヒトラーは19世紀初頭のナポレオンのロシア遠征の失敗に学んでいなかったのである。
準備を怠ったソ連は、初期に壊滅的な打撃を受けた。しかし、イギリスは直ちにソ連と提携し、ソ連軍の抵抗は頑強で、ヒトラーの計画はジリジリと狂いだした。ヒトラーは否応なしに長期戦の泥沼に入り込んでいったのである。
ドイツのⅣ号戦車
1941年10月、ドイツ軍はモスクワに40㎞と迫ったが、赤軍やソ連市民の抵抗によってモスクワは防衛され、そしてロシアの「冬」が来た。ナポレオンを退却させたあの「冬」が猛烈な勢いでやってきた。雪、身を切る風、気温はマイナス20度以下に落ち、ドイツ軍戦車のエンジンは凍りついた。前線では、敵の進撃のみならず寒さを避けるために、疲れはてた歩兵が掩蔽壕を掘る。地面が固く凍りついているので、最初に焚き火をしてから掘りはじめなければならない。司令部の幕僚と後衛部隊は、住んでいるロシア人を雪の中に放り出して農家を占領した。
ヒトラーが冬季の軍事行動を再考しなかったがために、兵士たちは恐るべき辛酸をなめるにいたった。「多くの兵は紙で足を包んで動き回る始末、手袋はまったく不足しております」とある装甲軍団の団長はパウルス将軍に書き送った。石炭入れの形によく似た鉄兜を除けば、とうていドイツ国防軍の兵士とは思えない兵士が大勢いた。ぴったりした鋲底の長靴では凍傷にかかりやすいだけなので、彼らは捕虜や民間人の服やブーツをたびたび盗みに行った。
12月6日、ドイツ軍の撤退が始まる。日本が真珠湾攻撃に出るわずか2日前のことであった。
スターリングラード攻防戦 ソ連軍兵士
1942年5月から6月、ドイツ軍は南ロシアで攻勢に移り、大空襲ののち8月末、圧倒的な火砲と戦車によってスターリングラード(現ヴォルゴグラード)を完全に包囲、9月中旬から市内への突入を開始した。それに対してソ連軍と工場労働者、市民は工場や団地の建物に潜み、抵抗を続けた。市街戦では戦車は行動の自由がきかず、狙撃兵が廃墟に隠れてドイツ兵を狙い、その行動を攪乱した。凄惨な市街戦が続く中、10月にはドイツ軍はスターリングラード市街地のほぼ9割を制圧、ヒトラーはスターリングラード陥落を放送さえしたという。しかし、完全に占領することはできず、ヴォルガ川を越えることもできなかった。
焦土と化したこの都市に潜むソ連軍兵士や市民たちは抵抗を続け、それは一日にわずか数メートルの土地を奪い合い、家から家へと虱潰しの戦いであった。
10月から11月と攻防戦は続き、11月19日未明よりソ連軍が反撃を開始した。ドイツ軍(及び枢軸側のルーマニア軍)の外側にソ連軍が現れ、ドイツ軍33万は逆に包囲されることとなった。ドイツ軍総司令官パウスル将軍は補給が途絶えたため撤退を図ったが、ヒトラーはこれを禁じ、狂気のように最後の一兵まで、最後の一発まで、死守することを命じる。無意味、無益であるばかりでなく、不可能であった抵抗……。
包囲から解放されたスターリングラードにて
19431月31日、食糧と弾薬が付き、ついにパウルス将軍はヒトラーの命令に反して降伏を決意、2月2日にソ連軍側に通告し、ここにスターリングラードの戦いはドイツ軍の全面的敗北に終わった。30万のドイツ兵は、20万が死傷し、10万が捕虜となった。ソ連の収容所に連行されたドイツ兵捕虜は15年間抑留され、祖国に帰ったのはわずか6000名と言われている。このドイツの敗北は、第二次世界大戦の帰趨を決することとなり、以後ドイツ軍は後退を開始することとなる。
クルスク戦車戦
1943年7月、モスクワの南方のクルスクで、ドイツ軍は最新鋭の戦車を投入して大機甲部隊をソ連軍に向かわせ、起死回生をはかったが、地雷や対戦車砲によって阻まれ、失敗した。このクルスク戦車戦は史上最大の陸上の戦闘といわれる。
1941年6月から1945年5月までの、約4年間、1416日間にわたって続いた独ソ戦では、ドイツ軍は概数で390万4000人、枢軸側同盟国(ルーマニア、ハンガリー、フィンランド、イタリア)が95万9000人、ソ連軍が1128万5000人を戦死・行方不明で失い(負傷は含まず)、独ソ両国と東欧諸国で1500万人を越える民間人の生命が、戦火の中で失われたと言われている。合計すると約3115万人となるが、これを戦争の日数(1416日)で単純に割ると、一日あたり2万2000人に近い人間が犠牲となった計算となる。(つづく)
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1941年6月から1945年5月までの、約4年間、1416日間にわたって続いた独ソ戦では、ドイツ軍は概数で390万4000人、枢軸側同盟国(ルーマニア、ハンガリー、フィンランド、イタリア)が95万9000人、ソ連軍が1128万5000人を戦死・行方不明で失い(負傷は含まず)、独ソ両国と東欧諸国で1500万人を越える民間人の生命が、戦火の中で失われたと言われている。合計すると約3115万人となるが、これを戦争の日数(1416日)で単純に割ると、一日あたり2万2000人に近い人間が犠牲となった計算となる。(つづく)
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