なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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ドプチェク
ドプチェクは、1921年11月27日にスロヴァキアの貧しい家具職人の子として生まれ、家族とともにソ連にわたり集団農場で暮らし、1938年に帰国した。自動車工として働くかたわら、父も創立者の一人であったチェコスロヴァキア共産党に加わり、1944年のスロヴァキアの対独民衆蜂起に加わわった。
第二次世界大戦ではナチス=ドイツの占領下でレジスタンスに参加。戦後、モスクワの党政治大学で学び、帰国後、スロヴァキア地区の共産党幹部として活躍、1960年代からチェコスロヴァキア共産党中央の幹部となった。ドプチェクは、東欧共産圏の中では突出して工業生産力の高いチェコスロヴァキア社会の中で、当時硬直した国家運営で表面化しつつあったソ連の停滞とは異なる歩みを模索し、経済的自立を探りながら、チェコスロヴァキアの民主化運動の動きを強めていった。
第一書記に就任したドプチェク
1968年、東欧での非スターリン化の流れの中で保守派のノヴォトニーに代わって第一書記に就任、大胆な民主化政策を打ち出し「プラハの春」を指導した。3月には検閲制度を廃止して言論の自由を保障し、ついで4月には新しい共産党行動綱領を決定して「人間の顔をした社会主義」を目指すことを打ち出した。6月には70人あまりの知識人が署名して「二千語宣言」が発表され、ドプチェク路線が広がりを見せ、複数政党の出現にとどまらず、あらゆる面で自由化の動きが強まった。
それに対して危機感を強く持ったソ連のブレジネフ政権は、社会主義国へのソ連の干渉権を正当化するブレジネフ=ドクトリン(制限主権論)にもとづいて、8月にソ連軍を中心としたワルシャワ条約機構5カ国軍をチェコスロヴァキアに進入させ、ドプチェクらを捕らえ、ソ連に連行した。
ドプチェクは大統領スヴォボダとも協力して、ソ連軍とねばり強く交渉し、プラハに復帰、ソ連軍の撤退を認めさせたが、現実的な妥協もはかり、検閲制度の復活など民主化を後退させた。翌1969年、民衆の民主化を求める運動がなお続いたことからソ連が硬化し、ついにドプチェクは退陣、ソ連の意のままに動くフサークに交代した。
晩年のドプチェク
「チェコ事件」で辞任させられたドプチェクは、その地位から降格され、トルコ駐在大使を最後に公職を失い、ブラチスラヴァの営林署に勤務(一説には一時は公園の監視人となったという)。その後、1989年の東欧革命の中で、チェコスロヴァキア民主化運動が起きると、「プラハの春」の再現を求める民衆の期待を受けて再登場、同年12月、共産党政権が倒れると20年ぶりに連邦議会の議長に就任した。
しかし、民主化達成後のチェコスロヴァキアでは、ドプチェクら旧共産党員の排除を要求する右派の勢力が台頭、同時にチェコとスロヴァキアの分離運動も起こり、1992年9月1日スロヴァキア議会は連邦から脱退することを決定した。奇しくも同じ日、ドプチェクは交通事故で瀕死の重傷を負い、11月7日プラハの病院で死去した。享年70歳。チェコスロヴァキア共和国の消滅とともに死去したこととなる。
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ブラント
ブラントの本名はカルル=ヘルベルト=フラーム。1913年12月18日、リューベックの貧しい家庭に私生児として生まれた。教会も私生児には冷たく、近所のルター派教会は私生児であることを理由に洗礼を授けることを拒んだため、母マルタは市内の離れた場所にある同じルター派の教会に幼子を連れて行きブラントはここで洗礼を受けた。
奨学金で高校に進み、在学中にドイツ社会民主労働党(SPD)に入党した。1933年、ヒトラー政権の成立でヴィリー=ブラントと名を変えてノルウェーに亡命、オスロ大学に学び、同国戸籍を取得した。1945年にドイツに帰国し、ドイツ国籍も回復して、SPDの再建に協力、国会議員・西ベルリン市会議長をへて,1957年同市長に選ばれ、政治的名声を確立した。
東西に分かれたベルリンは、戦後東から西への流出者が増加し、1960年には約20万人が西へ逃れ、1961年7月の1ヵ月間だけで3万人が東ドイツを離れていた。危機感を募ら東ドイツは1961年8月12日深夜から13日にかけて、突然東西ベルリンの境界線近くに壁を建設し、東西ベルリン間の市民の往来は不可能となった。

1961年の連邦議会選挙時に街角に林立した選挙ポスター
CDUのアデナウアーとSPDのブラント
この時、西ベルリン市長ブラントSPD首相候補者でもあり、9月17日に総選挙が行われるのでその選挙遊説中でハノーファーにいたブラントは急遽西ベルリンに戻り、すぐに壁の建設現場に駆けつけた。同じく選挙遊説していたアデナウアー首相はすぐに西ベルリンに行かず、それどころかブラントの出生に絡む問題を取り上げて個人攻撃をして西ドイツ国民から顰蹙をかっていた。
その結果、SPDはほぼ5%の票数増と13名の議席増で36.2%・190議席の得票で躍進した。しかし結局CDUもキリスト教社会同盟(CSU)と合わせて45.3%・242議席の得票で自由民主党(FDP)との連立に成功し、ブラントの政権奪取はならなかった。
その結果、SPDはほぼ5%の票数増と13名の議席増で36.2%・190議席の得票で躍進した。しかし結局CDUもキリスト教社会同盟(CSU)と合わせて45.3%・242議席の得票で自由民主党(FDP)との連立に成功し、ブラントの政権奪取はならなかった。
連邦議会で演説するブラント首相(1971年)
1969年の総選挙ではCDUは第1党だったが過半数はとれず、第2位のSPDと第3位のFDPの連立となり、首相にブラント、副首相兼外相にFDPのシェールが就任したので、ブラント=シェール内閣ともいう。西ドイツでは戦後で初めてSPDの首相となった。首相就任以来、西ベルリン市長時代からの腹心エゴン=バールに立案させ、積極的なソ連=東欧圏との接触を図る東方外交を展開した。
それは西ドイツをドイツ唯一の国家であるとして東ドイツを認めないという従来の基本姿勢を変更し、共産党国家が東隣にあるという現実を認め、そこから変革の糸口をつかもうとする「接近による変化」という発想であった。彼は積極的にソ連、ポーランド、東ドイツを訪問し、それぞれと条約を締結、国交正常化を図った。特に西ドイツ=ポーランド国交正常化条約を締結し、ポツダム協定以来確定していなかったドイツ・ポーランドの国境をオーデル・ナイセ線であることを認め、ドイツに領土拡張の野心がないことを周辺諸国に表明して欧州の安定に寄与した。ソ連との間ではソ連=西ドイツ武力不行使条約、東ドイツとの間では東西ドイツ基本条約を締結した。
東ドイツとの基本条約締結は、それまて相手を国家として存在しない、従って交渉もしない、という態度を改め、話し合いを始めることによって現状に風穴を開け、解決に道を探ろうという、ブラント首相の「接近による変化」の大きな成果であり、当時は誰も実現不可能であろうと考えていた、東西ドイツ統一を導く出すこととなる。

記念碑の前で跪くブラント
ブラントの東方政策は東側とのビジネスとも揶揄するむきもあったが、そのような雑音を押しのけて、彼の「ドイツの過去の犯罪をはっきり認める」倫理的高潔さは世界に感動を与えた。
1970年12月ワルシャワを訪問した折り、かつてのユダヤ人ゲットーでの蜂起の記念碑に花輪を献げたブラントは、雨上がりで濡れているにもかかわらず、コンクリートの地面に突如として跪いて黙祷を献げた。予定外の行動である。かつて自分もその政権のゆえにドイツを追われた人間が、ポーランドで最も残虐をきわめたナチスの行為のゆえに深く頭を垂れた。この態度はなぜ東側と対話をしなければならないかについて、静かだが雄弁な説得力を持っていた。
これらの積極的な東方外交の展開は東西冷戦の変質をもたらし、緊張緩和(デタント)を実現させたと評価され、1971年度のノーベル平和賞を受賞した。ところが1974年に秘書の一人に東独のスパイ容疑が持ち上がり、首相を辞任することとなった。
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マルタ会談でのゴルバチョフとブッシュ(父)
このような大胆な改革を実行したゴルバチョフは「ゴルビー」とわれて人気者になった。特に東欧諸国ではソ連の改革を機にソ連からの自立、民主化が一気にうごき、1989年に東欧革命が起こった。
同年11月にベルリンの壁が開放されて、ドイツ統一が実現したことを受けて、12月のブッシュ(父)・アメリカ大統領とのマルタ会談で冷戦の終結を宣言した。さらに懸案のアフガニスタン撤退を決断した。それによって1990年のノーベル平和賞を受賞した。
エリツィン
しかし、経済面での改革は必ずしも成功といえず、市場経済への移行も十分でなく経済は停滞した。ゴルバチョフは憲法を改正して共産党一党支配を改め大統領制に移行させ、1990年3月に人民代表者会議でソ連邦大統領に選出された。このような強権的な改革は、共産党保守派の反発を強めることとなり、またロシア大統領のエリツィンなど改革派は改革の不十分を批判するようになった。
そのような混乱の中で、1991年にまずバルト3国の独立宣言の動きが表面化した。ゴルバチョフはソ連邦の構成国の自治権を認めながらソ連邦の維持を図ろうと、新連邦条約を構想し、事態を収束させようとした。保守派はそれが実現すればソ連邦の解体の第一歩となることを恐れ、ゴルバチョフの排除を模索した。
クーデターの実際のシナリオをつくったのはゴルバチョフの古くからの同志ルキヤノフ書記だった。彼らは8月19日、クリミア半島の保養地で新連邦条約草案を作成していたゴルバチョフを監禁し(最近明らかになったことは監禁ではなく、自分の意志でモスクワに戻らなかったともされている)、健康上の理由で辞任したと発表、ヤナーエフを大統領代行にして権力を掌握したと発表した。
反クーデタ派の勝利を祝うエリツィン
しかし、モスクワ市民、メディアは一斉にクーデタ反対に立ち上がり、ロシア大統領エリツィンが市民の先頭に立ってクーデタ部隊の行動を阻止し、軍の主流もクーデタ不支持に転じたため失敗し、首謀者は逮捕された。
ゴルバチョフは解放されたものの、実権はクーデタ鎮圧に成功したロシア大統領エリツィンに移った。共産党の権威は全く落ちていたので、ゴルバチョフはやむなく同年8月24日、書記長を辞任し、共産党そのものの解散を勧告、それによってソ連共産党は解党された。
ゴルバチョフはなおもソ連邦の維持を図ったが、1991年12月8日にロシア、ウクライナ、ベラルーシのスラヴ系3共和国首脳がミンスク郊外に集まって1922年のソヴィエト連邦条約の無効を宣言し、代わって独立国家共同体(CIS)を創設することで合意した。
12月25日、ゴルバチョフ大統領が辞任、12月26日にソ連最高会議がソ連の消滅を宣言した。こうしてソ連邦は1922年以来、69年の歴史に終わりを告げた。
90歳になったゴルバチョフ
ソヴィエト連邦の崩壊を不本意な形で迎えたゴルバチョフにとって、年金生活入りすることは論外であった。ゴルバチョフの政治への参加を求める声は多く、また世界中の財団や基金の代表への就任や、広告への出演の声がかかった。 1996年6月、ロシア大統領選に出馬したが、約38万票、0.5%の支持しか得られず、落選した。
2001年11月、ロシア社会民主党党首に就任したが、2004年5月には同職の辞職を発表、事実上の政界引退となった。しかし、2007年に社会民主同盟(社会民主連合)、2008年には3度目の政党であるロシア独立民主党を結成している。なお、2019年に中距離核戦力廃棄条約が失効した際には、条約の失効は新たな軍拡競争を生み出すと懸念を表明、全ての国が核兵器の廃絶を宣言すべきだと述べている。
2021年3月2日には90歳の誕生日を迎えた。
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ゴルバチョフ
ゴルバチョフは1931年3月2日、ロシア南部、北カフカースの農民の子として生まれた。この地の自立的なカザーク(コサック)農民は農業集団化と飢饉による打撃を受け、抵抗が激しかった地域である。ゴルバチョフの父はコルホーズ議長であったが、一族は1932~33年の飢饉にあい、2人の祖父も抑圧の犠牲になっていた。
農村出身でしかも抑圧された地域からでてきた新指導者は、それまでの共産党官僚、軍や治安機関出身者、巨大な官庁利益を背景としたテクノクラートとは異なった背景と経歴を有していた。
アンドロポフ チェルネンコ
ゴルバチョフはモスクワ大学法学部とスタブローポリ農業大学で学んだ。1966年スタブローポリ市党委員会第一書記をかわきりに、地方党役員をつとめ、1978年に農業担当の党中央委員会書記に抜擢され、1980年10月の中央委総会で49歳の若さで政治局員に昇格した。
1982年に急死したブレジネフのあとを継いだアンドロポフと、続くチェルネンコ政権下で“ナンバー2”の書記として活躍し、次第に共産党内の地歩を固めていった。
事故直後のチェルノブイリ原子力発電所
1985年3月、チェルネンコの急死を受けてソ連共産党書記長に選出され、短期間で最高権力に登りつめた。モスクワ大学を卒業した最初の書記長でもあり、党首脳、閣僚、軍首脳などの人事異動を断行、共産党官僚政治の打開に取り組んだ。
就任直後の1986年4月26日、当時ソ連(現在のウクライナの首都)のキエフの北方、チェルノブイリ原子力発電所の4号炉炉心が溶融、大量の放射性物質が飛びちり、原発史上最大の大放射能汚染事故となった。
事故はその徳碁には直後は公表されず、翌日スウェーデンで異常な放射能物質が検出され、28日ソ連がはじめて事故を公表した。死者の数は5月の鎮火後には31人と発表されたが、その後も地域住民や作業員の死亡が続き、公表数値は最終的には4万人に達したとされたが、現在にいたるまでその実数は不明である。死者を約30万人、被害者を数百万人とする推定もある。
事故後も残った原子炉は稼働していたが、2000年にすべてが停止、チェルノブイリの住民もほとんど移住し、現在はゴーストタウンとなっている。原子炉は現在コンクリート、さらにシェルターで覆われているが、そのコンクリートの劣化などから新たな被害が心配されている。
事故の報告が硬直したソ連の組織の中でゴルバチョフの元に届かず、対策も後手に回り国際的な非難が起こった。ゴルバチョフはソ連社会の行き詰まり解消のためにすでに情報公開(グラスノスチ)を提唱していたが、原発事故により管理体制の欠陥がさらに明白になり、ゴルバチョフに「ペレストロイカ(改革)は革命である」とまで言わせ、大胆な改革に乗り出すことになった。
国内の経済では市場経済の導入を図った。1987年には独立採算制を導入、同年11月のロシア革命70周年を迎え、記念演説でスターリンを名指しで批判した。1988年10月には最高会議幹部会議長(元首)を兼任し、権力を安定させた。
INF全廃条約に調印するゴルバチョフとレーガン
外交でも新思考外交を展開し就任した1985年11月19日にレーガン大統領とジュネーヴで会談を行った。その上で、1987年12月8日にアメリカとのINF全廃条約を締結し、核戦争の回避へと舵を切った。
INFは中距離核戦力のこと。戦略核兵器(相手の政治中枢を破壊する目的の核兵器。およそ米ソ国境間の距離5500kmを超えてとばすもの)と戦術核兵器(敵部隊との遭遇戦で使用する核兵器)との中間にある核兵器という意味で、米ソ本国よりもその中間にあるヨーロッパ地域で配備されていた。この条約で全廃が約束されたが、トランプ大統領は2019年2月に離脱手続きに踏み切り、8月に失効した。
続いて1988年に新ベオグラード宣言を発表して、ブレジネフ=ドクトリンを撤回し、制限主権論を放棄することを表明した。これは東欧諸国のソ連離れを加速させ、東欧革命を誘発することとなる。
また、1989年5月にはソ連首脳としては30年ぶりに中国を訪問し、中ソの国交を正常化させた。このゴルバチョフの訪中は、中ソ対立を終わらせ、国際情勢の大きな転換をもたらした。中国も転換期を迎えており、ゴルバチョフが北京に滞在中に天安門事件(第2次)の騒乱が起こったが、鄧小平政権はそれを力で押さえつけた。(つづく)
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ソ連上空で撃墜されたU2型機の残骸
1960年5月1日、ソ連上空を飛行していたアメリカの偵察機ロッキードU2型機が、ソ連の地対空ミサイルによってウラル上空で撃墜された。パイロットはパラシュートで脱出し一命を取り留めた(自殺用の硬貨内蔵の毒薬を所持していたが、これを使用しなかった)が、村民に捕えられ、公開裁判にかけられ、スパイ行為を行っていたことを自白し、アメリカ側のスパイ行為の実態が明るみに出た。
フルシチョフはアメリカのスパイ行為であると激しく非難し、前年の自身のアメリカ訪問の返礼としてのアイゼンハウアーのソ連招待をキャンセル、予定されていたパリでの巨頭会談も中止された。この事件を機に、米ソの平和共存は暗礁に乗り上げ、1960年代は再び東西冷戦の緊張が高まった。その現れが翌1961年の東側によるベルリンの壁の構築であった。
アメリカでは大統領が1961年1月にアイゼンハウアーからケネディに交代した。、当時深刻さを増していたベルリン問題の解決に向けて、6月3日から4日にかけてウィーンで米ソ首脳会談が行われた。ソ連はドイツからのアメリカ軍の撤退を要求、アメリカが拒否したため話し合いは決裂し、それを受けて東ドイツ政府はベルリンの壁の構築に踏み切ったのである。
ベルリンの壁
冷戦下でドイツは東西陣営に東ドイツと西ドイツで分裂していたが、往来が自由であった西ベルリンと東ベルリンの境界線を経由して東側から西側への人口流出が続き、東ドイツに深刻な影響を及ぼした。東ドイツは自国の体制を守るべく、1961年8月13日、突如として東西ベルリン間の通行をすべて遮断し、西ベルリンの周囲をすべて有刺鉄線で隔離、のちにコンクリートの壁を作った。
壁の建設は一気に行われたわけではなく、数度にわたって造り替えられ、最終的に壁の総延長は155kmに及んだ。最終段階の壁では高密度の鉄筋コンクリート製のものが二重に建てられており、その2枚の壁の間は数10メートルの無人地帯となっており、一定間隔の監視塔が設置され、東ドイツ当局が監視の目を光らせており、壁を越えようとするものがいればすぐに分かるようになっていた。8月24日、ベルリンの壁で初の犠牲者が出た。それ以後、1989年に壁が撤去されるまでに約200人が脱出を試みて東ドイツ警察に射殺されたという。
キューバ革命に成功したカストロ
1959年にキューバ革命を成功させたカストロが反米姿勢を強めてソ連に接近すると、フルシチョフはは第三世界への支援と核戦力の強化によって対米優位を得ようとしてキューバに核ミサイルを配備した。
1962年、アメリカがキューバへのソ連のミサイル配備を非難、キューバを封鎖したためのキューバ危機となり、核戦争の勃発の危機が高まった。フルシチョフは妥協してキューバからミサイル基地を撤去し、翌1963年には部分的核実験停止条約締結に合意し、アメリカとは「敵対的平和」の状態に入った。
ハンガリー反ソ暴動
東欧圏では、スターリン批判を機にフルシチョフのもとで非スターリン化が進み、ソ連国内の「雪どけ」と東欧に自由化を求める運動が起こったが、国内の自由化に対しては行き過ぎを厳しく対処し、また東欧諸国の動きに対してはポーランド反ソ暴動とハンガリー反ソ暴動のいずれも力ずくで抑えつけた。
一方でフルシチョフを批判してソ連と袂を分かつ形となった中国共産党の毛沢東との論争「中ソ論争」を展開し、中ソ対立を招いた。フルシチョフは1959年に中ソ技術協定破棄を通告、毛沢東は独自の核開発を進めることとなり、1964年には中国の核実験を強行した。
ブレジネフ
フルシチョフは地方の労働者出身で、長く農民運動に携わり、1930年代にはモスクワ市長として経験を積んだ、現場の政治家であり、その親しみやすい風貌からも民衆に人気があった。しかし、キューバ危機や中ソ対立の処理でのつまづきに加えて、国内では党機構改革の失敗・農業生産の停滞・独断専行などに対する批判が高まってブレジネフらの工作で、1964年ついに首相辞任に追い込まれた。
引退後のフルシチョフは、公式には1966年まで党中央委員会のメンバーとしての地位はあったものの、年金と運転手つき自動車を与えられ、モスクワ郊外の国有ダーチャ(別荘)に住まわされた。移動の制限は受けなかったが、ダーチャの至るところに盗聴器が仕掛けられており、生活は当局の監視下にあったため、事実上軟禁状態にあった。
年金生活中、フルシチョフは回想をテープに録音し、息子のセルゲイらがテープをタイプライターで書き起こした。国家公安委員会(KGB)はテープと原稿を押収したが、すでに テープと原稿のコピーは既にアメリカのタイム社にひそかに送られており、セルゲイは西側での出版という形でKGBに報復した。
7年間の年金生活の後に、フルシチョフは1971年9月11日にモスクワの病院で死去した。享年77歳。しかし歴代の要人が埋葬されている赤の広場脇には埋葬されず、モスクワにあるノヴォデヴィチ修道院の墓地に埋葬された。
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