なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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ソウルに突入する北朝鮮戦車隊
1950年6月25日、金日成の率いる北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)軍が軍事行動を開始し、北緯38度線を越えて韓国に侵攻した。南北いずれが先に仕掛けたか、議論があったが、現在は北朝鮮の金日成が、中国革命に続いて朝鮮半島でも社会主義による統一国家の建設を目指し、武力統一をはかったものと考えられている。
国際連合の安全保障理事会は緊急会議を開催し、即時停戦と北朝鮮の撤退勧告を決議した。この時、常任理事国のソ連は中国代表権問題で他の4常任理事国と対立して安保理をボイコットし欠席していたので、ソ連抜きの安保理決議となった。アメリカのトルーマン大統領は緊急を要すると判断してアメリカ軍を単独で派遣することを決意、日本駐留のアメリカ軍に出動を命じた。
国際連合の安全保障理事会は緊急会議を開催し、即時停戦と北朝鮮の撤退勧告を決議した。この時、常任理事国のソ連は中国代表権問題で他の4常任理事国と対立して安保理をボイコットし欠席していたので、ソ連抜きの安保理決議となった。アメリカのトルーマン大統領は緊急を要すると判断してアメリカ軍を単独で派遣することを決意、日本駐留のアメリカ軍に出動を命じた。
破壊されたソウル市内の建物
北朝鮮軍は28日、ソウルを占領したが金日成の期待した南朝鮮の人民蜂起は起きなかった。その後も北朝鮮軍の進撃は続き、大田で米軍を破り、半島南端の釜山に迫った。
7月7日、国連安保理は国連軍の派遣をソ連欠席のまま決定、米軍のマッカーサー元帥を統一司令官に任命した。国連軍とはいえ、その9割はアメリカ軍によって構成されているというのが実態だった。
7月7日、国連安保理は国連軍の派遣をソ連欠席のまま決定、米軍のマッカーサー元帥を統一司令官に任命した。国連軍とはいえ、その9割はアメリカ軍によって構成されているというのが実態だった。
韓国に到着したマッカーサーを迎える李承晩
9月15日、マッカーサーは北朝鮮軍の背後を突くべく、仁川上陸作戦を展開し、形勢を逆転させ、ソウルを奪回した。さらにアメリカ軍は38度線を越えて北上したため、10月20日には平壌を陥落させた。
中国人民義勇軍の兵士
それに対して毛沢東の中華人民共和国政府は北朝鮮支援を決意し、大量の中国人民義勇軍(人民志願軍)を送った。義勇軍は当初前線に投入された部隊だけでも20万人、後方待機部隊を含めると100万人に達した。中国軍の参戦によってアメリカ軍は後退し、38度線の南に押さえこまれ、ソウルを放棄した。
朝鮮休戦協定調印式
第二次世界大戦終結の5年目に起こった朝鮮戦争は、「冷戦の中の熱戦」として第三次世界大戦の危機となった。国際世論がイギリスなどを動かし、世界戦争の再発は回避された。しかし、現地司令官のマッカーサーは北朝鮮を支援する中国大陸に対して原爆の使用を計画し、一時は核戦争の勃発が危ぶまれた。
休戦を決意したトルーマン大統領はマッカーサー司令官を解任(1951年4月)、長い休戦交渉の結果、1953年7月27日、南北朝鮮代表、米中代表などが板門店で朝鮮休戦協定に調印した。朝鮮戦争の休戦成立には、同年1月のアメリカのアイゼンハウアー大統領就任、3月のソ連のスターリンの死去という米ソの政権交代が大きく作用していた。
朝鮮戦争の戦死者の数ははっきりしないが、ロシア史料では北朝鮮、中国の死傷者は200万~400万、韓国40万、アメリカ14万といわれる。アメリカの推定では、中国兵90万、北朝鮮兵45万が死傷。約40万の国連軍兵士も死傷。うち3分の1ちかくが韓国兵で、米軍の戦死者は5万4000人であった。ソ連は航空部隊を提供、航空機335機と飛行士120名が失われた。その他、1000万人以上の離散家族を生んだ。
戦争後の金日成は反対派(親ソ派、親中国派)を排除しながら労働党内の独裁的な地位を固め、独自の理念として主体(チュチェ)思想を掲げた。ソ連、中国とも一線を画し、1972年からは国家主席として個人崇拝を強いて権力を維持した。この間、南側に対するスパイ、テロ活動を続け、1970年代には日本人などの拉致事件も引き起こした。
1974年には息子の金正日【キム=ジョンイル】を後継者に指定、1994年に82歳で死去した。息子の金正日(1998年より国家元首)は冷戦時代の終了にもかかわらず依然として反米姿勢を崩さず、「先軍政治」と称する軍事優先と個人崇拝を続けた。
1970年代後半から80年代に金日成から金正日への父子間での権力委譲を合理化するため、この一家の先祖の顕彰が盛んに行われるようになった。
シャーマン号事件
たとえば、1866年にアメリカの商船シャーマン号が通商を求めて大同江に侵入したシャーマン号事件(辛未洋擾【しんみようじょう】)の時、「決起した人民の先頭には、敬愛する首領キム=イルソン主席の曾祖父である金膺禹【キム=ウンウ】先生が立っていた」(1976年刊行の朝鮮大学校の教科書『朝鮮史』)とされた。
しかし、シャーマン号焼き討ち事件で人民の先頭に立って戦った人物は朴春権をはじめ何人かは知られていたが、金膺禹という人物はそれまで全く知られていなかった。
三・一独立運動
また、1919年の三・一独立運動を指導したのは「金日成主席の尊父で不撓不屈の反日革命闘士であり、朝鮮民族解放運動の卓越した指導者である金亨稷【キム=ヒョンジク】先生」(同書)とされ、さらに金日成の母方の祖父や伯父の名さえ出てくるが、三・一運動のジャンヌ=ダルクといわれる柳寬順などよく知られた33人の民族指導者は無視されている。
このような歴史の改ざんをするところに、『オンドル夜話』の著者尹学準氏は「朝鮮社会のヤンバン志向=血統重視の“伝統”」の反映を見、『両班』の著者宮嶋博史氏は「その発想法は韓国における有力な同族集団の祖先顕彰と同じものであり、儒教的な祖先崇拝の観念が認められる」と一致した観測をしている。朝鮮の儒教と両班の「伝統」は北朝鮮でも脈々と続いているということであろうか。
テポドン発射
国際的な孤立を深めた北朝鮮は、先軍政治の思想をさらに先鋭化させ、軍事国家としてその実力を国際的に認めさせるための戦略を採った。北朝鮮は独自に核開発に乗り出したが、アメリカ及びIAEAから核開発疑惑を指摘されたため、NPTを脱退した。
北朝鮮の核開発を抑止する目的で2003年から「六者協議」(北朝鮮、韓国、アメリカ、ロシア、中国、日本)が始まったが、北朝鮮側の強硬姿勢は変わらず、2006年10月には核実験を強行したため2007年を最後に開催されなくなった。
さらに2009年にはテポドンなど、北米大陸に到達する大型ミサイルの実験を行い、アメリカおよび日本が硬化し緊張が高まった。国際社会は表向きには中国も含めて北朝鮮に対する経済封鎖を行い、その核開発を抑えようとした。
金正恩
金日成の生家
金日成【キム・イルソン】は出生名・金成桂【キム・ソンジュ】で、1912年4月15日に平壌西方にある万景台で貧農の子として生まれ、幼い頃満州に移住した。吉林中学在学中から共産主義運動に加わって投獄された。中学を中退後、1932年に中国共産党に入党、豆満江沿岸で抗日遊撃隊を創建し、金日成を名乗った。
1937年6月、金日成のパルチザン部隊が朝鮮咸鏡南道の普天堡(ポチョンボ)の町に夜襲をかけた事件(普天堡の戦い)を契機に、25歳の金日成は名を知られるようになり、「白頭山の虎」と呼ばれた。国境を越えて朝鮮領内を襲撃して成功した例は稀有だったこと、それが大きく報道されたこと、日本官憲側が金日成を標的にして「討伐」のための宣伝を行い多額の懸賞金をかけるなどしたことが、金日成を有名にしたともいわれる。
日本側はパルチザンを根絶すべく、満州に掃討部隊を派遣。その結果、金日成の仲間の多くが死に、パルチザン勢力は見る見る弱体化していった。1940年末には、金日成にとって状況は危機的となり、ついに彼は、部隊を小グループに分散させて、アムール川を渡り、ソ連領に身を隠す決断をする。
第88旅団幹部合影。前列右から2人目が金日成。
ソ連に越境した金日成はスパイの容疑を受けてソ連国境警備隊に一時監禁された。その後、東北抗日聯軍で金日成の上司だった中国人の周保中が彼の身元を保証して釈放される。1940年12月のハバロフスク会議を経て、金日成部隊は周保中を旅団長とするソ連極東戦線傘下の第88特別旅団に中国人残存部隊とともに編入され、金日成は第一大隊長(階級は大尉)となった。彼らはソ連ハバロフスク近郊の野営地で訓練・教育を受け、解放後には北朝鮮政府の中核とななった。
1945年10月14日の民衆大会に出席した金日成
1945年8月、ソ連軍が北緯38度線以北の朝鮮半島北部を占領した。金日成は9月19日にウラジオストクからソ連の軍艦プガチョフに搭乗して元山港に上陸し、ソ連軍第88特別旅団の一員として帰国を果たした。同年10月14日に平壌で開催された「ソ連解放軍歓迎平壌市民大会」において、金日成は初めて朝鮮民衆の前にその姿を現した。12月17日に開催された朝鮮共産党北部朝鮮分局の第3回拡大執行委員会において、金日成が責任書記に就任。1946年5月には北部朝鮮分局を北朝鮮共産党と改名し、同年8月末には朝鮮新民党と合併して北朝鮮労働党を創設し、金枓奉が党中央委員会委員長、金日成が副委員長に就任した。
ソ連は朝鮮半島の統一を望まず、アメリカもまた朝鮮半島の分断を容認した。1948年に入り、アメリカ占領下の南朝鮮で単独選挙が実施され、8月15日に大韓民国が成立すると、ソ連占領下の北朝鮮でも国家樹立への動きが高まっていった。9月9日、ソ連の後押しで朝鮮民主主義人民共和国が建国され、金日成は首相に就任。さらに翌1949年6月30日、北朝鮮労働党と南朝鮮労働党が合併して朝鮮労働党が結成されると、その党首である中央委員会委員長(1966年10月12日より総書記)に選出された。
金日成
ところで、「白頭山の虎」と呼ばれた金日成と、写真の金日成は別人だという説があるのはご存じだろうか。日本統治下の朝鮮半島において、抗日独立運動に挺身する「キム=イルソン将軍」の伝説があったことには、多くの証言がある。キム=イルソン将軍について巷では、「日本陸軍士官学校を出ている」「義兵闘争のころから1920年代まで活躍した」「縮地の法を使い、白馬に乗って野山を駆けた」「白頭山を根城にして日本軍と戦った」などと言われていた。
金日成が初めて北朝鮮の民衆の前に姿を現したとき、「若すぎる」「朝鮮語がたどたどしい」という声があがった。南朝鮮を信託統治していたアメリカ軍は、1948年8月1日に作成した資料で、金成柱が抗日闘士として名を挙げた「金日成」の名を騙っているとしている。(つづく)
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