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なまぐさ坊主の聖地巡礼

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ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー現代の活火山・パレスチナ⑤

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嘆きの壁

 イスラエルは、聖地イェルサレムを首都と定めたが、旧市街を含む東イェルサレムはヨルダンの支配下に置かれ、「嘆きの壁」に近づくことはできなかった。「嘆きの壁」はヘロデ王がイェルサレム神殿の増改築を行った際、構築した神殿の丘西側擁壁の一部で、現在残っている壁の地上部分は、長さ約50メートル、高さ約20メートルあり、ユダヤ教の聖地となっている。

 
イスラエルは1967年の第3次中東戦争でイェルサレム全域を実効支配するに至り、聖地を取り戻した。「嘆きの壁」の前では今でも四六時中、ユダヤ教徒の男女が大勢群がって、泣きながら大きな声で祈りを捧げている。

 1980年には改めて首都であることを宣言して国会、政府機構を移転させた。しかし、国際社会はイェルサレムをイスラエルの首都と認めておらず、ほとんどの国は大使館などはテルアビブに置いている。

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自身の署名が入った「大使館移転の宣言文」を掲げるトランプ大統領

 アメリカも大使館はテルアビブに置いていたが、2017年1月就任したトランプ大統領は方針を転換、2018年5月14日に大使館をイェルサレムに移転させた。多くの国はまだ追随していないが、イェルサレム首都問題は中東問題の焦点のひとつとなっている。トランプ大統領はアメリカの中のユダヤ人社会を支持基盤としていると言われており、ユダヤ人寄りの外交政策が目を引く。

 トランプは同じ5月の8日にイラン核合意からの離脱を表明し、イラン=イスラーム共和国との関係が一気に悪化しているが、これもイランの核開発に強く反発するイスラエルの意向に沿うものと考えられる。

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署名式に臨むバーレーン外相、イスラエル首相、トランプ大統領、UAE外相

 トランプ政権は2020年8月、再びイスラエル寄りの外交姿勢を明らかにし、アラブ産油国のひとつアラブ首長国連邦(UAE)との間を仲介し、両国の国交樹立を実現した。これはイスラエルにとってアラブ諸国の中ではエジプト、ヨルダンに次ぐ、3番目の国交樹立(イスラエルの承認)となり、イスラエル包囲網の一端に風穴を開けたこととなり、国内で汚職問題などで不人気の続くネタニアフ政権にとっても得点となる。11月に大統領選挙を控えたトランプ政権にとってはユダヤ系アメリカ人、キリスト教福音主義派などの支持を維持するための手段という面が強い。

 続いて9月11日には、トランプ大統領はイスラエルとバーレーンとの国交正常化を仲介したと発表した。バーレーンのハマド国王は、イスラエルとパレスチナの和平合意も必要と述べているが、イランの脅威を感じている点はUAEと同じで、イスラエルのネタニヤフ首相とアメリカのトランプ大統領にとっては外交上の得点としたいという三者の思惑が一致した結果であろう。アラブ諸国は公式にはイスラエルに対して1967年の第3次中東戦争以降の占領地の返還、東イェルサレムを首都とするパレスティナ国家の樹立を和平の最低条件としているが、イスラエルはアメリカの仲介を得て、アラブ諸国を徐々に懐柔し国家存立を既成事実化しつつあるといえる。

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ネタニヤフ

 2021年6月、イスラエルで約15年にわたって政権を維持してきたリクードのネタニヤフ首相が退陣した。3月に行われた総選挙でリクードの敗北を受け、安定多数を占めた政党がないことから連立政府を樹立することになったが交渉が難航していた。ようやく6月2日夜に交渉がまとまり、反ネタニヤフでまとまった8党が連立内閣で合意したためである。新首相は極右政党ヤミナの党首ベネットが就任するが、連立に参加するのは右派、中道、労働党、さらにアラブ系政党までを含んでいる。

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イスラエル、ガザに侵攻

 退陣することになったネタニヤフは、1996~99年に最初の首相をつとめ、その時期には1993年のオスロ合意で進展すると思われた中東和平を、アラブ過激派の活動が活発になったことを受けて転換させ、再び緊張状態に戻した。いったん政権から去ったが、その後もイスラエル国家の防衛を最優先させる軍備増強を主張、随一のタカ派として保守派の強い支持を受け、2009年に政権に復帰、そのころ、ガザ地区で台頭したハマスをイランが支援しているとして、イランを特に敵視する姿勢が目立つようになった。イランでも保守派のアフマディネジャド大統領が核開発を民生用と言いながら開発を進めたため、イスラエル側でも核開発の疑惑が強まり、緊張が高まった。

 ネタニヤフ政権は中東和平にも消極的で、むしろ占領したパレスチナ自治区の土地にユダヤ人を入植させ、境界に壁を作る事を進めた。2014年にはガザ地区のハマスと交戦、地上部隊を侵攻させ、2000人以上が犠牲となった。

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アルアクサ・モスク周辺で起きたパレスチナ人とイスラエル警察との衝突

 右派のネタニヤフ政権にたしてトランプ大統領は支持を強め、前述のように2017年にはイェルサレムをイスラエルの首都であると承認、1918年5月にはアメリカ大使館を移転させ、アラブ側は強く反発した。また2020年1月にはトランプ大統領の仲介でアラブ首長国連邦と国交を正常化させ、その後バーレーンなどが続いた。

 2021年5月にはイェルサレムのモスクへの通路を封鎖してパレスチナ人が反発、ガザ地区のハマスが抗議としてロケット弾を撃ち込んだことへの報復としてガザ地区を空爆した。

 このようにネタニヤフは徹底したタカ派としてアラブ、パレスチナ、そしてイランとの敵対関係を強めることで政権を維持してきたが、政権の長期化によって政府内部の腐敗が起こってきた。2020年1月にはネタニヤフ自身が収賄罪で起訴され、内政面ではその腐敗が明らかになって支持に陰りが生じ、それが2021年3月の選挙での与党リクードの敗北の原因となった。

 パレスチナの混迷はまだまだ続く。

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【 2022/01/04 05:16 】

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世界史のミラクルワールドー現代の活火山・パレスチナ④

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シャロン

 パレスチナ暫定自治協定の成立により平和到来の光が見えたように思われたが、湾岸戦争でのアメリカ軍の進駐に反発したアラブ過激派のイスラーム原理主義運動が盛んになり、PLOの和平路線に反発する新たな勢力としてハマスが台頭した。

 イスラエルでは1995年に和平推進派の労働党ラビン首相が暗殺され、右派のリクードが急速に台頭、2000年にはリクード党首シャロンが1000人以上の武装護衛を引き連れてイェルサレムのイスラーム教神殿(岩のドーム)へ立ち入り、「イェルサレムはすべてイスラエルのものだ」と宣言、反発したパレスチナ人による抗議運動である第2次インティファーダが起こった。シャロンは翌年には首相となり、右派リクードを率いて対パレスチナ強硬路線が強まった。

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アッバス首相(左)、ブッシュ大統領(中央)、シャロン首相(右)

 2001年9月、アメリカでの同時多発テロが起こるとシャロン政権はアラブ過激派の行為と断定、その背後にあるとしてPLOに対する対決姿勢を強め、ヨルダン川西岸にいたアラファトを事実上軟禁状態にした。

 一方アメリカはイラク戦争を遂行する上でその大義のためにはパレスチナ和平を進める必要があり、2003年ブッシュ(子)大統領が仲介してシャロン首相とパレスチナ自治政府のアッバス首相の間を仲介し、中東和平ロードマップを作成、国連もそれを支持した。シャロンもガザ地区からの撤退を推進することに転じた。

 このシャロンの姿勢転換にリクード内部からの非難が強まると、シャロンは2005年、リクードから分離し中道政党カディーマを結成した。

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ヨルダン川西岸の分離壁

 イスラエルはガザ地区からの入植者の撤退を表明、2005年8月にそれを実現させた。しかし、さらに広大なヨルダン川西岸地区のイスラエル占領地区ではユダヤ人の入植と、入植地を守るための壁の建設が進められており、対立はかえって激化することとなった。

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イスラエル、南レバノンに侵攻

 パレスチナではイスラーム原理主義の影響を受けたハマスが台頭し、2006年のパレスチナの総選挙で第1党となり政権を担当するようになった。イスラエルではガザ地区撤退を進めていたシャロン首相が2006年1月に脳卒中で倒れ、国内での右派の発言力が強まり、同年8月にはイスラエル軍がレバノン南部を実効支配しているシーア派民兵組織ヒズボラのテロ活動を排除するという理由でレバノン南部に侵攻した。2008年以降、特にガザ地区をめぐっての緊張が深まった。

 2009年3月にはリクードの党首右派のネタニヤフが首相となり、パレスティナのハマスやイランなどの反イスラエル勢力との対決、アラブ・ゲリラ攻撃に対する徹底した反撃などの強硬路線をかかげて長期政権を続けた。

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 イスラエルは周辺をアラブ諸国に囲まれているところから、
高度の軍事国家として装備を最大限現代化している。その核武装については、一切明らかにしていないが、保有は公然の秘密とされている。イスラエルとしては、イランに核武装の疑惑がある以上、自衛のための核保有は当然と意識しているのであろう。そのため、1968年に締結され1970年に発効した核拡散防止条約(NPT)には加わっていない。

 2015年の国連における核拡散防止条約再検討会議において、アラブ諸国が中東の非核交渉開始を提案したことに対して、アメリカが反対したのは、同盟国イスラエルの核保有が明るみに出ることを恐れたためと考えられており、オバマ大統領の非核構想の二枚舌性が露呈した格好となっている。(つづく)

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【 2021/12/31 05:20 】

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世界史のミラクルワールドー現代の活火山・パレスチナ③

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サダト大統領(左)、カーター大統領(中央)、ベギン首相(右)

 第4次中東戦争で衝撃に襲われたのはエジプトの大統領サダトだった。勝利寸前までいったイスラエルとの戦争で逆転を許し、最後は敗れたという事実から、最終的には和平を実現するしかないという方向に大きく舵を切ることになる。

 1977年、サダトは突然イスラエルを訪問、イスラエルの存在を承認し交渉相手として和平交渉に入ることを表明、ついで翌1978年、アメリカのカーター大統領の仲介でイスラエルのベギン首相とのあいだでエジプト=イスラエルの和平を実現し、1979年にエジプト=イスラエル平和条約が成立し、イスラエルはシナイ半島を返還した。
  

 これによって他のアラブ諸国もイスラエルの存在を認め、その消滅をめざすのではなく、共存していくしかないという姿勢に転換した。しかし、パレスチナのアラブ難民の存在は無視されることとなるとして、パレスチナ難民とパレスチナゲリラは激しく反発、パレスチナ解放機構(PLO)は激しいテロ活動に転換する。言いかえれば、イスラエルにとっての敵はPLOだけだという状況が作り出された。

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レバノンに侵攻するイスラエル軍

 PLOは次第に追いつめられ、その本拠をレバノンに移した。1982年6月、イスラエルのベギン政権は、世界の目がイラン=イラク戦争や、フォークランド戦争にむけられているとき、パレスチナ=ゲリラの対イスラエル=テロを根絶することを口実にレバノン侵攻を強行した。これは第5次中東戦争とも言われることがある。

 シャロン国防相が指揮するイスラエル軍はベイルートなどを軍事占領、その結果、PLOはチュニスに撤退し、その力を大きく失うこととなったが、このときイスラエル軍に呼応したレバノン国内のマロン派キリスト教徒による、パレスチナ難民キャンプのアラブ人に対する虐殺行為が行われ、イスラエルに対しても厳しい批判がまき起こり、ベギン首相とシャロン国防相は退陣しなければならなくなった。

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インティファーダ

 1987年にはイスラエルの支配するガザ地区でパレスティナ人の自発的な抵抗運動インティファーダ(第1次)がもりあがる中、PLOのアラファトは1988年に国連で演説し、パレスチナ全体の78%をイスラエルに譲り、残りの22%に相当するヨルダン川西岸とガザ地区に限定した「ミニ国家」を建設することを中心としたイスラエルとの和平交渉に入ることを提唱した。これはパレスチナにおけるに二国家共存をめざす、大きな転換であり、イスラエル側もその受容に傾いた。

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湾岸戦争・砂漠の嵐作戦

 しかし、1989年に始まる東欧革命は、ソ連を中心とした社会主義陣営の崩壊をもたらし、ついには冷戦の終結宣言がなされるに至った。さらにソ連が崩壊したことは、中東情勢にも大きな影響を与えた。米ソの対立という対立軸が失われた冷戦後の世界は、新たな秩序を生み出すのではなく、世界情勢の混迷を生み出し、各地に独自の行動が始まった。

 イラクのサダム=フセインがウエートを侵略したのもそのあらわれであり、それに対して国際連合が機能せず、1991年の湾岸戦争でアメリカ軍を主体とした多国籍軍が侵攻し、勝利者となったことで、中東においてもアメリカの主導権が強まり、それに対する抵抗の動きが新たな対立軸となっていった。

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サダム=フセイン

 1991年の湾岸戦争で、イラクのサダム=フセインは、リンケージと称してパレスチナ問題と関連付け、アラブ諸国の同調を得ようとしイスラエルにミサイル攻撃を行った。イスラエル国内は隣接していない国からの空爆に怯えてパニックに陥り、防毒マスクが飛ぶように売れた。イスラエル軍がイラクに反撃すれば、フセインの思惑どおりアラブ諸国が反イスラエル=アメリカ連合との戦いに同調し、世界戦争に拡大する恐れがあったが、アメリカは強くイスラエルに自重を求め、イスラエルは反撃しなかった。

1991年10月のマドリード中東和平会議
マドリード中東和平会議

 この危機を経たアメリカとイスラエルは、従来のエジプト=イスラエル平和条約のようなものではなく、中東諸国を含む広範な集団安全保障の必要を自覚し、中東和平を前進させることをめざした。そのようなアメリカが主導して開催されたのが、1991年10月のマドリード中東和平会議だった。この会議にはアメリカなど主要国とともに当事国としてイスラエルが参加、そしてパレスチナ人がヨルダンとの合同代表団に加わるという形で参加し、イスラエルとパレスチナ人代表(PLOは除外されていたとはいえ)が国際会議で初めて顔を合わすこととなった。

 しかし、一方の当事者パレスチナ解放機構(PLO)は、湾岸戦争でサダム=フセインのイラクを支持したことから、他のアラブ諸国から非難され、その国際的な地位を低下されていた。そしてマドリード会議にもパレスチナ代表として認められず招聘されなかった。PLOのアラファトはこのような劣勢をはね返すために、大胆な転換を図り、密かにオスロで進められていたイスラエルとの交渉で起死回生を賭けた。

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ラビン首相(左)、クリントン大統領(中央)、アラファト議長(右)

 1993年にノルウェーの仲介でPLOとイスラエルの当事者間の話し合いが初めて行われ、中東和平に関するオスロ合意が成立し、アメリカのクリントン大統領のもとでPLOのアラファト議長とイスラエルのラビン首相(労働党)の両代表が握手しパレスチナ暫定自治協定が成立、1994年にパレスチナにはパレスチナ暫定自治行政府(実体はPLO)が設立されることになった。

 これで、ようやくパレスチナにも平和が訪れると誰もが思ったのだが……。(つづく)


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【 2021/12/28 05:16 】

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世界史のミラクルワールドー現代の活火山・パレスチナ②

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ナクバ

 イスラエルの独立宣言の翌1948年5月15日、周辺のアラブ諸国からなるアラブ連盟はそれを認めず、一斉にイスラエル領内に侵攻し、パレスチナ戦争(第1次中東戦争)が勃発した。イスラエル側はこの戦争を「独立戦争」と称している。イスラエル軍はアラブ諸国の歩調の乱れに乗じて個別に休戦協定を結び、国連のパレスチナ分割案よりも広い領域((パレスチナの3/4)を占領し、独立を確保、さらに国際連合に加盟して国際社会に承認された。 

 5月14日はイスラエルが独立宣言を行った日で、独立記念日とされているが、イスラエル建国のためにパレスチナを追い出された100万にを越える難民にとっては、苦難の始まりを意味していた。現在に続くパレスチナ問題の始まった日でもあり、パレスチナのアラブ人はこの日を「大災厄(ナクバ)」といってその苦難を忘れないようにしている。

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キブツ

 パレスチナ戦争で勝利したイスラエルは、それまでのヨーロッパ各地からだけではなく、中東地域からも多数のユダヤ人が移住してきた。1948年から51年までを「ユダヤ大移民時代」とよび、人口は70万から140万に倍増した。

 しかし、ユダヤ人と言っても、戦前のヨーロッパからナチスの迫害を逃れてパレスチナに移住していた「アシュケナージム」と言われる人々と、建国後にアジア・アフリカ地域から移住したユダヤ人との間に、貧富の格差が大きくなり、経済危機が広まった。イスラエルには戦前の入植時代からロシア系ユダヤ人によって社会主義的集団農場であるキブツが作られ、移住者を吸収し、独特の生産と軍事的性格を持つ制度として存在していた。

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ナセル

 1956年10月29日、エジプトのナセル大統領がスエズ運河国有化宣言を発表したことで衝撃を受けたイギリスはフランスとともにイスラエルに出兵を要請した。ベングリオン首相は国力を伸張させる機会ととらえて、エジプトに侵攻した。戦闘ではエジプト軍を圧倒してシナイ半島を占領したが、国際世論は英仏とイスラエルの軍事行動を非難、孤立した三国は撤退した。戦争には勝ったが、ナセルの主張したスエズ運河国有化は認められ、政治的には敗れたこととなり、イスラエルは苦境に立つことになった。

 イスラエルはアメリカ・イギリスからの支援と、西ドイツからの賠償金で経済を維持していたが、軍事優先の財政のためもあって国内の不況が続いた。また、国際政治上の不利も解消されず同情はアラブ側に集まった。1964年にはアラブ人によるパレスチナの解放を目指すパレスチナ解放機構(PLO)も結成され、エジプトとシリアがそれを支援、イスラエルとの関係は悪化した。

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 ヨルダン川の水利を巡ってイスラエルとシリアの間に紛争が生じると、シリアを支援するエジプトのナセル大統領はアカバ湾の入り口を封鎖した。これを反撃の機会ととらえたイスラエルは独自に周辺のアラブ諸国に対する攻撃を開始し、1967年6月5日の第3次中東戦争を起こした。これは、イスラエルが国内の不況と対外的な不利を一挙に解決しようとした軍事行動であった。

 この戦争ではイスラエル軍は奇襲戦法によってエジプト、シリア、ヨルダンという三方のアラブ諸国軍を次々と破り、戦争はわずか6日で決着がついた。イスラエルはこの戦争で、ヨルダン川西岸(東イェルサレムを含む)、ガザ地区、シナイ半島、ゴラン高原を占領、イスラエルの支配地はわずか6日間で4倍以上になった。

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パレスチナ難民

 イスラエルの大勝利は、一方でパレスチナ人にとって新たな苦難の始まりだった。第1次中東戦争でヨルダン川西岸とガザ地区に逃げ込んだ難民のうち約19万人が再度、難民としてヨルダン川東岸へ逃げた。また、ヨルダン川西岸とガザ地区にもともと住んでいたパレスチナ人のうち20万人も、ヨルダン川東岸に難を逃れた。

 1967年末までにはヨルダン川東岸へ逃げてきたパレスチナ人の数は、74万人に膨れ上がった。ヨルダン川西岸、ガザ地区から逃げなかったパレスチナ人110万人はイスラエルの占領下で生活することとなった。

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アラファト

  アラファトは1929年にイェルサレムに生まれ、第1次中東戦争、第2次中東戦争にアラブ軍兵士として参加、1959年頃、数人の仲間と「アル=ファタハ」という武装集団を結成した。アル=ファタハは、パレスチナの解放はアラブ諸国の首脳の政治的駆け引きで実現されるのではなく、パレスチナ人自らが武器を取って立ち上がるしかないと考え、ヨルダンを基地として、シリアからの武器援助を受け、1965年からイスラエルに潜入して破壊活動を開始した。

 1968年3月21日の戦闘で、PLOのゲリラ戦術がイスラエル軍に勝利し、アラファトの名声があがり、翌1969年PLOの議長となり、パレスチナ側の代表格となった。しかし、ヨルダンのフセイン国王は、国内での反体制運動に転化することをおそれ、1970年にPLOに国外退去を要求、アラブ同士の戦闘であるヨルダン内戦が勃発(PLOはこれを「黒い9月」とよんだ)の結果、PLOは拠点をレバノンのベイルートに移すこととなった。

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ミュンヘン・オリンピック襲撃事件

 1970年代にはPLOの主流派を占めたアラファトの属するファタハなどの激しい武装闘争は世界の注目を浴びた。イスラエルのロッド空港での無差別テロ、「黒い9月」グループによるミュンヘン・オリンピック襲撃事件などは国際世論から非難されるようになった。

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第4次中東戦争

 1973年10月6日、エジプト大統領サダトはシナイ半島での軍事行動を指令、呼応したシリア軍はゴラン高原でも、一斉にイスラエル軍占領地域への攻撃を開始した。この第4次中東戦争開戦の日はユダヤ教の祝祭日ヨム=キプール(贖罪の日)であった。この日、ユダヤ人は24時間の断食をして、外出せずにじっと静か一日を過ごす。この日を選んでアラブ側が奇襲攻撃をかけたため、不意をつかれたイスラエル軍は後退を余儀なくされ、中東戦争で初めて敗北、後退を経験した。

 第1次中東戦争、第3次中東戦争で領土を拡大し、イスラエルには「不敗神話」が生まれtいたが、その不敗神話が崩れたのである。イスラエルは戦争の初期に苦戦したが、ようやく体制を整えて反撃に転じ、シナイ半島中間で踏みとどまった。その時点でアメリカが停戦を提案、開戦後ほぼ1ヶ月で停戦となった。

 アラブ諸国が石油戦略を採用し、アラブ石油輸出国機構(OAPEC)がイスラエル支援国に対する原油の販売停止又は制限したことによって石油危機(第1次オイル=ショック)が起きるという、より大きな影響を与えた。(つづく)

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【 2021/12/24 05:33 】

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世界史のミラクルワールドー現代の活火山・パレスチナ①

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 パレスチナは古くはカナーンと呼ばれた地。パレスチナとはこの地方に定住した「ペリシテ(フィリスティア)人の地」を意味する。その後この地方は、ローマ・ビザンツの支配を受け、ついでアラブ・オスマン帝国の一部となった。この間、パレスチナは固定した地理的区画の名称ではなく、シャーム(現在のシリア・レバノン・イスラエル・ヨルダンを合わせた地域)の南部地域を漠然とさし示す地名であった。

 しかし、第一次世界大戦後、イギリスが委任統治領を設定する際に、この地域をヨルダン川の東側と西側に分割し、西側をパレスチナ、東側をトランスヨルダンと決めて、委任統治をしいた。そして、ヨルダン川の西側のイギリス委任統治領パレスチナがバルフォア宣言によるユダヤ人国家建設予定地となったのである。

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シナゴーグで祈るユダヤ人

 イスラエルという名称の由来は聖書の記述に遡る。それによると、アブラハムの息子、イサクの息子であるヤコブが、名をイスラエルと改めるように命じられ、その12人の息子が後のイスラエル12部族の祖先となった、とされている。イスラエルと自称する人々は、他の集団からはヘブライと呼ばれた。また、ユダは12部族の一つとその居住地をさす名称であったが、この部族出身のダビデがイスラエルを統一し、エブス人の建設した都市イェルサレムを占領して都に定めた。その後、ユダヤ教を信じる人々が「ユダヤ人」とされ、ヨーロッパでは迫害の的となっていったのである。

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シオンの丘

 1897年、ドレフュス事件に衝撃を受けたヘルツルの提唱で第1回シオニスト会議が開かれた。シオニストとは「シオンの丘」に帰ろうという運動(シオニズム)の活動家のことである。

 シオンはイェルサレムの別名である。ダヴィデ王が建てたイェルサレムの神殿はバビロン捕囚の際に破壊された。その後、再建された第二神殿も紀元70年、ローマ軍により破壊された。しかし、ユダヤ人はいつかメシア(救世主)が現れ、ユダヤ人を救い、イェルサレムに神殿を再建すると、信じ続けてきた。この「約束の地」への思慕の念は、あくまで宗教的な信条だった。巡礼者としてイェルサレムへ行くユダヤ人は絶えることがなかったが、「ユダヤ人国家再建」という思想とは無関係であった。

 「シオンの地」へ帰還し、そこにユダヤ人国家を再建することを目標としたシオニズム運動は政治的運動へと発展し、19世紀末以降、パレスチナの地にヨーロッパからユダヤ人が移民し始めた。パレスチナには細々とではあったが、ユダヤ人が住み続けていた。そんな、パレスチナに1900年代初めまでに約1万人のユダヤ人が移民した。彼らはロスチャイルド家などユダヤ人大富豪の援助を受けてパレスチナの土地を購入し、開拓農村などを建設した。ユダヤ人移民は、第一次世界大戦終了後の1920年代に8万人、1930年には16万人に達した。

 しかし、ユダヤ人が移民したパレスチナはもちろん「無人の土地」だったわけではない。イギリスの委任統治が始まった1922年当時、パレスチナには約75万人が住んでいたが、そのうちアラブ住民は68万人と圧倒的多数を占めていた。ユダヤ人移民が増えるにつれ、土地を巡るアラブ人との対立が激しくなっていった。このため、イギリスは1939年に両者の調停をはかり、10年後の独立と両民族の共同政権樹立を提案したが失敗に終わった。

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アウシュヴィッツ強制収容所

 ナチスによるホロコーストでヨーロッパのユダヤ人社会は潰滅的な打撃を受けた。ポーランドでは300万人のユダヤ人のうち260万人が殺害された、またルーマニアでは100万人のうち75万人、ドイツ占領下のソ連では250万人のうち75万人が犠牲となり、全体では約600万人のユダヤ人がナチスの犠牲になったと言われる。ナチスの迫害から逃れたユダヤ人はパレスチナに殺到し、1948年にはパレスチナのユダヤ人は65万人に達した。

 第二次世界大戦後、欧米全体が自らの中に潜むユダヤ人に対する残酷な狂気性に愕然とした。その結果、欧米の世論はシオニズム運動に非常に同情的になっていた。ユダヤ人移民の激増により、アラブ人とユダヤ人の対立はますます激しさを加え、各地で衝突が繰り返された。

 1947年2月、イギリスはパレスチナ問題の解決を国連の手に委ねると宣言した。パレスチナにおけるアラブ人とユダヤ人の対立、イギリス政府機関へのテロの増大、欧米諸国の対英批判などに直面したイギリスは、ついにパレスチナ経営を放棄したのである。

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 第二次世界大戦後に繰り返される中東紛争の出発点となったのは、1947年11月29日の国連総会で採択された「パレスチナ分割案」であった。決議案の骨子は、イギリスによる委任統治の終了(イギリス軍の撤退)とパレスチナをアラブ人国家・ユダヤ人国家・イェルサレム特別国際管理地区に3分割するものであった。

 当時パレスチナ総人口の3分の1以下のユダヤ人(土地所有面積では6%)に同地方の56%が与えられ、その区域の人口比はユダヤ人・アラブ人はほぼ1対1となり、紅海の入口(アカバ湾)まで割り込むユダヤ人国家の登場で、アラブ世界が分断されるなど、アラブ側にはとうてい受容しがたい内容であった。米・ソはいち早く支持の姿勢を打ち出したが、在米ユダヤ人機関の予測では必要な3分の2以上の賛成にわずかながら及ばないというものであった。

 それは26日に予定された投票のわずか6時間前であったから、ユダヤ人機関はあらゆる手段を動員してロビー活動を行い、投票日の延長と反対票の可能性のある国に強力な圧力をかけた。ユダヤ人に好意的な国々は投票延期にむけて「マラソン演説」で時間をかせいだ。かくて投票延期とこの国の多数派工作が成功した結果、賛成33カ国、反対13カ国、棄権10カ国で決議案は通過した。

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イスラエル建国を宣言するベングリオン首相

 1848年5月14日、イギリスはパレスチナから撤退し、ユダヤ人は国連分割決議を根拠にただちにイスラエル国の成立を宣言した。それは、ユダヤ人の2000年来の願いが達成された瞬間であった。

 しかし、新しい国の誕生はまた、新しい戦争の始まりでもあった。このあと長く続くことになる中東戦争の始まりである。「もし、1947年の時点でアラブ側が国連分割決議を受け入れていたら、2つの民族はパレスチナで共存できていたし、パレスチナ難民問題やアラブ・イスラエル紛争が起きることもなかったのに」とは今でもよく言われる。特にユダヤ人の側にこうした意見を言う人が多い。

 
しかし、あるパレスチナ人女性が話した。「国連だかなんだか知りませんが、もし国際的に権威のある機関と称するものがある日当然、あなたの家にやって来て、一片の紙を突き出し≪あなたの家の半分は他の人のものになった。ただちに明け渡しなさい≫と言ったら、あなたはどうしますか。決して受け入れないでしょう。私たちパレスチナ人が国連分割決議を受け入れなかったのは当然で、そのことで非難される理由は何もありません」。(つづく)

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2021/12/21 05:15 】

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