なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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バラク=オバマ
バラク=オバマは1961年8月4日にハワイのホノルルに生まれた。父親はケニア生まれのイスラーム教徒、母親はスウェーデン系アメリカ人であるが、バラク自身はキリスト教徒(プロテスタント)である。2歳の時に両親が離婚し、母親がインドネシア人と再婚したことから、バラクは6歳から10歳までジャカルタの小学校に通った。
1971年にハワイに戻り、母方の祖父母のもとで、有名私立の小中高一貫の学校を卒業。コロンビア大学卒業後,ハーバード大学ロースクールで学び,「ハーバード・ロー・レビュー」誌の編集長を務めた。シカゴで弁護士として法律事務所に勤務する一方,貧困層を救済する社会運動に従事した。
2004年イリノイ州選出の上院議員に初当選し、民主党議員として頭角をあらわした。2007年2月10日、地元イリノイ州スプリングフィールドで大統領選出馬を正式表明、「ここ6年間の政府決定や放置されてきた諸問題は、われわれの国を不安定な状態にしている」と述べ、医療保険制度や年金制度、大学授業料、石油への依存度等を、改革が必要な課題として挙げ、建国当初のフロンティア精神へ回帰することを呼びかけた。
大統領就任宣言を行うオバマ(右はミシェル夫人)
2008年1月から民主党の大統領予備選が始まった。オバマは知名度と資金力に勝る元ファーストレディのヒラリー=クリントン上院議員に遅れをとっていた。そんな中で飛び出したのが「Yes We can」の有名なフレーズだ。団結すればアメリカが直面する困難を打ち破れるとのシンプルで力強い呼び掛けは聴衆の心を打ち、「Change」とともにオバマ氏の改革者としてのイメージを植え付けた。オバマがこのフレーズを唱えると、聴衆が呼応して何度も「Yes We can」と繰り返すスタイルが定着していった。
ヒラリー=クリントンとの熾烈な争いは予備選最終日までもつれたが、クリントン候補との接戦を制し、同年8月の民主党大会で正式に候補者指名を受けた。2008年11月の大統領選では、共和党のマケイン候補を大差で破り、2009年1月大統領に就任した。
大統領就任式に集まった200万人の群衆
2009年1月20日、ワシントンD.C.はー7℃という凍てつく寒さだった。それでも、大統領就任式には200万人を越える記録的な人出でにぎわい、オバマ大統領とジョー=バイデン副大統領の4年間の任期の第一歩を飾った。この就任によって、オバマはアメリカ史上初の黒人大統領となった。
「建国精神に立ち返り,合衆国を変革する」との政治信条に基づき、当面する経済危機への対処としてグリーンニューディールなどによる大規模雇用の創出、医療保険制度や年金制度の改革、ブッシュ政権のイラク政策からの転換を打ち出した。
プラハ演説を行うオバマ
2009年4月5日には、プラハで演説し、「核兵器を使用したことがある唯一の核保有国として行動する道義的責任があるとして、アメリカが先頭に立ち、核兵器のない世界の平和と安全を追求する」決意を明言。核兵器をはじめとする戦略兵器の国際的な禁止を提言するなど、リベラル派としての政策を矢継ぎ早に提案した。2009年7月にはメドベージェフ・ロシア大統領と核兵器削減交渉で合意。2009年度のノーベル平和賞を受賞した。
しかし、内政面での最重要政策とした医療保険制度改革は難航、改革法案はかろうじて上院を通過したものの、リベラル派、保守派の双方から反発が起こり、アフガニスタンの泥沼化に有効な歯止めがかからない現状もあって失望感が広がり、就任当初の高支持率は急速に落ち込んだ。
2010年4月、プラハでメドベージェフ・ロシア大統領との間で,核弾頭削減の条約に調印、さらにワシントンで初の核安全保障サミットを開催するなど、核問題では一定の成果を上げた。内政の懸案だった医療保険制度改革法案を成立させたが、2010年の中間選挙で民主党は大敗、野党共和党が下院の過半数を制し、オバマ政権は難しい議会運営を余儀なくされた。
ビンラディン襲撃作戦をリアルタイムで視聴するオバマ
上下院選挙では、下院共和党多数、上院民主党多数のねじれ現象を解消できず、就任式直後に直面した「財政の崖」への対策で共和党の説得が難航、2期目の主要課題に掲げた銃規制強化や移民制度改革、地球温暖化対策などは下院を握る共和党の反対で進まなかった。
2011年5月、ビン=ラディンの奇襲・殺害作戦に成功、支持率を回復。経済の回復傾向もあって、比較的堅実な支持率を維持し、共和党ロムニーと対決した2012年秋の大統領選で勝利し再選を果たし、政権2期目に入った。
上下院選挙では、下院共和党多数、上院民主党多数のねじれ現象を解消できず、就任式直後に直面した「財政の崖」への対策で共和党の説得が難航、2期目の主要課題に掲げた銃規制強化や移民制度改革、地球温暖化対策などは下院を握る共和党の反対で進まなかった。
日米首脳会談
2014年4月訪日して行われた日米首脳会談後の共同声明で、アメリカ大統領としてはじめて「尖閣諸島は日米安保の防衛義務の範囲」と明言した。
オバマとラウル=カストロ
2016年3月20日、オバマは現職の大統領として1928年以来88年ぶりにキューバを訪れている。
↓ ランキング挑戦中 Brog Rankingのバナーをポチッと押してね! 2014年12月17日、オバマとキューバ国家評議会議長ラウル=カストロは国交正常化交渉の開始を電撃発表。2015年7月1日、アメリカとキューバは54年ぶりに国交を回復することで正式合意した。オバマとカストロが親書を交わし、大使館を相互に開設することで一致した。キューバとの国交回復はオバマ政権最大の外交成果とされる。
2016年3月20日、オバマは現職の大統領として1928年以来88年ぶりにキューバを訪れている。
ジョージ=W=ブッシュ
ジョージ=W=ブッシュは1846年7月6日にコネチカット州でジョージ=ブッシュの長男として生まれた。ブッシュ家は まさに政治一家と言え、祖父も政治家、父も政治家、そして息子も政治家、弟のジェブ=ブッシュもフロリダ知事となっている。
父の先例に倣ってイェール大学に通い、1968年に歴史学士号を取得した(そのくせに、アラブについては何も知らない)。1968年5月に進行していたベトナム戦争の真っ只中にブッシュは適性検査の筆記試験で下から25番目の成績で、合格の最低点だったにも拘わらず、テキサス空軍州兵に認められた。ハバード大学でMBAを取得、後にテキサスの石油工業会社に就職。共和党の大統領は産業資本家の後押しを受ける人物が多かったが、ブッシュ親子のように自らが産業資本家になる例は現代特有の現象である。
大統領選の討論会で民主党のゴア候補と
ブッシュは1994年にテキサス州知事に当選、2期目途中で知事を辞任し、2000年の大統領選挙に共和党から出馬。民主党のゴア候補と歴史的な接戦を演じ最高裁の判決で大統領となった。
アメリカ大統領は一般投票で州ごとに複数の選挙人が選挙され、選挙人の投票で過半数を得た者が選ばれる。選挙人は州ごとの「総取り方式」で勝った方がその州の全選挙人を獲得する。そのため、一般投票の総計で多くても、選挙人による選挙で選ばれないことがあり得る。2000年選挙は民主党ゴア候補が一般投票では5099万票、共和党ブッシュ候補が5045万票で、ゴア候補が約50万票多かったが、選挙人選挙ではゴア=266人、ブッシュ=271人でブッシュ候補の勝利となった。
このようなケースは過去に3回あったが、今回はフロリダ州の一般投票が僅差であり、ゴアは一部地域で票集計で誤りがあったとして再集計を要求した。州最高裁は再集計を決定したが、連邦最高裁(共和党寄りの右派が判事だった)が再集計は違憲の判決を行い、ブッシュの勝利が確定した。この1ヶ月にわたる騒動は世界中が注目し、「ブッシュは法律上正当な大統領ではない」などの声も残った。
燃えさかる世界貿易センタービル
就任後まもない2001年9月11日、ニューヨークの世界貿易センタービルやワシントンの国防省(ペンタゴン)に対する同時多発テロが発生、テロとの戦いを全面に掲げ、10月にテロの首謀者と断定したビン=ラディンの潜伏先としてターリバーン政権のアフガニスタンを攻撃した。
アフガニスタンにはアメリカの支援によって新政権が樹立されたが、安定した状態を取り戻すことはできず、またイスラーム過激派による反米テロも世界各地で起こり、ブッシュ政権はテロとの戦いを続けることとなった。
イラク戦争
2002年1月の一般教書演説で、イラク・イラン・北朝鮮を「悪の枢軸」国家と非難し、さらに同年9月20日には「アメリカ合衆国の国家安全保障戦略」(一般にブッシュ=ドクトリンといわれる)を発表し、テロリストとの戦いでは「先制的攻撃」が許容されるという、いわゆる先制攻撃論を明確にした。
その上で、イラク共和国のサダム=フセイン政権が国際テロ組織を抱え込み、大量殺人兵器を開発しているとして、2003年3月にイラク侵攻を開始(一般にこの戦争をイラク戦争という)、サダム=フセイン政権を倒した。イラク戦争にはイギリスのブレア政権なども追随し、日本の小泉政権も自衛隊をイラクに派遣(非戦闘地域のサマワ地区に活動を限定した)したが、フセイン政権がターリバーンを匿っていることと大量殺戮兵器を隠匿している証拠は見つからなかった。
ハリケーン・カトリーナ
イラクには新政府が樹立されたが、宗派(スンナ派とシーア派)対立、民族対立(クルド人問題)、イスラーム過激派によるテロが相次ぎ、解決のめどが立たず、2004年、ブッシュは再選を果たしたが、2期目はイラク戦争の長期化、2005のハリケーン・カトリーナ来襲の祭の不手際で人気を落とし、2006年10月の中間選挙では大統領のイラク政策に批判的な民主党が上院・下院ともに制した。
大統領として最後の演説を行うブッシュ
ブッシュ(子)大統領時代のアメリカ外交においては国連決議を抜きに有志連合という形でイラク戦争に踏み切ったことに典型的に見られるように、国際連合と多国間協議を軽視してアメリカだけで単独で行動する、単独行動主義(ユニラテラリズム)が顕著になった。
それは以前から懸案であり、国際社会から期待を寄せられていた包括的核実験禁止条約(CTBT)への批准を拒否しづけたこと、2001年12月に旧ソ連との迎撃ミサイル制限条約(AMD)から一方的に離脱したことなどの安全保障に関することだけではなく、2001年3月の京都議定書からの離脱、2002年5月の国際刑事裁判所(ICC)参加への署名撤回、など人権や環境問題にも及んだ。これらは、アメリカの外交政策の長い歴史の中での孤立主義(モンロー主義)か国際協調かという二極へのブレのくり返しのうち、孤立主義に大きくブレた時期と言える。
2008年にはサブプライム問題から急激な金融危機(リーマン=ショック)が発生し、同年11月の大統領選挙では共和党の後継者マケインが、民主党のオバマ候補に敗れ8年間の共和党政権は終わりを告げた。
靴を投げつけられたブッシュ大統領
ブッシュ大統領は退任間近な2008年12月14日、イラクを予告なしに訪問。年末で国連安保理決議による駐留期限が切れるので、新年1月からのアメリカ軍のイラク駐留に関する協定をマリキ首相と署名した。署名後の記者会見の席上、イラク人記者が立ち上がり、アラビア語で「別れのキスだ。犬め!」、「夫を失った女性、親を失った子どもたちからの贈り物だ」などと叫びながら左右の靴を一つずつブッシュ大統領に投げつけた。とっさに身をかがめてよけた大統領は「靴のサイズは10だった」と冗談を言って余裕を見せた。
この記者は拘束されたが、アラブ各地からは英雄視され、エジプトの富豪は娘の婿にしたいと申し出たという。
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ビル=クリントンは1946年8月19日にアーカンソー州で生まれた。ビルが誕生する約3カ月前に父親が交通事故で亡くなり、ビルが4歳の時に母親が再婚した。義父のロジャー=クリントンは強度のアルコール中毒で、自宅内で頻繁に暴力をふるい、ビル少年は不遇な少年時代を送った。
高校在学中の1963年の夏にボーイズ・ステイトで選出されたアーカンソー州上院議員としてボーイズ・ネイションに参加し、ホワイトハウスに招かれてケネディ大統領と握手する機会を得ている。
高校在学中の1963年の夏にボーイズ・ステイトで選出されたアーカンソー州上院議員としてボーイズ・ネイションに参加し、ホワイトハウスに招かれてケネディ大統領と握手する機会を得ている。
ジョージタウン大学を卒業後、22歳の時にホワイトハウス実習生になり、ローズ奨学生としてオックスフォード大学へ2年間留学したことで徴兵を免れた。徴兵を逃れたにも関わらず、イギリスではしばしばベトナム反戦運動に参加していた。さらにイギリスでマリファナを吸引したことが後に明らかにされている。
弁護士時代を経て、1974年の中間選挙で下院議員選挙に民主党から出馬したが、共和党の現職候補に僅差で敗北。その翌年にヒラリーと結婚した。1977年アーカンソー州司法長官選挙に勝利し、翌1978年にはアーカンソー州知事に当選、32歳の若手知事として話題になった。
1992年11月の大統領選挙に民主党から出馬したが、1980年代に低迷した民主党は、従来のリベラル色、労働組合色を薄め、新保守主義に傾斜し、経済政策も「大きな政府」から市場経済重視の「小さな政府」論に転換していた。クリントンはそのようなニュー民主党のホープだった。アーカンソー州の知事の時代に、南部の保守層にも支持を広げ、黒人層や共和党政権からの転換を望む国民の期待を担って現職の共和党ブッシュ(父)を破り、当選した。戦後生まれでベビーブーム世代の最初の大統領、カーター以来の民主党大統領の誕生である。
大統領就任式で宣誓するクリントン(右はヒラリー)
1993年1月に大統領に就したが、1994年の中間選挙は上下両院とも共和党が制したため、その政策はより中道色を強めた。経済面ではIT(情報技術)産業の発展に支えられて好景気に恵まれ税収が増え、また支出を押さえたため1998年に29年ぶりに財政黒字に転換した。
夫人のヒラリー=クリントンは2008年の民主党大統領候補に名乗りを上げたがオバマに敗れ、2009年発足のオバマ政権で国務長官に就任した。
ラビン首相(左)、クリントン大統領(中央)、アラファト議長(右)
外交面ではオスロ合意をもとにイスラエルのラビン首相とパレスチナ解放戦線のアラファト議長の和平を、アメリカが「お墨付き」を与えるという形でパレスチナ暫定自治協定を1993年に実現させた。しかし、1995年にラビン首相が暗殺され、パレスチナ和平は遠のいてしまった。
1995年7月には懸案であったベトナムとの国交回復に踏み切り、戦闘終了20年目にしてベトナム戦争の完全な終結をもたらした。
廃墟と化したコソヴォ
東ヨーロッパではユーゴスラヴィアの解体後、民族間の対立が激化していた。クリントンは旧ユーゴのボスニア紛争でも介入し、1995年末に和平協定を成立させた。1999年のコソヴォ紛争ではNATO軍とともに人道的介入と称してセルビアへの空爆に踏み切った。
ソマリア内戦で米軍が苦戦した泥沼の市街戦(映画『ブラックホーク・ダウン』より)
対ラテンアメリカ外交では、懸案の北米自由貿易協定(NAFTA)を、共和党の合意を得て、1994年1月の発効に漕ぎ着けた。これについてはメキシコで激しい反対運動が起こった。
アフリカでは東アフリカのソマリアで1991年から続いていた内戦が深刻化し、ここでも人道的支援と称して米軍を派遣したが18人の海兵隊員が殺害されて世論が後退し、1994年春までに撤退させた。この失敗のため、ルワンダでの大量虐殺に対しては介入を躊躇し、被害を拡大させてしまった。
対ラテンアメリカ外交では、懸案の北米自由貿易協定(NAFTA)を、共和党の合意を得て、1994年1月の発効に漕ぎ着けた。これについてはメキシコで激しい反対運動が起こった。
金日成とカーター特使
また、北朝鮮の核開発疑惑が浮上し、IAEAの査察を拒否、1993年にはNPTから脱退した。クリントン政権は経済制裁を発動、両国関係は緊張したが、特使としてカーター前大統領を派遣し、金日成との交渉が成立して、北朝鮮にエネルギーの提供の代償として核開発を凍結させた。しかし北朝鮮の核開発疑惑はその後も続いている。
クリントン大統領と不倫相手のモニカ=ルインスキー
クリントン大統領のアーカンソー州知事時代の不正疑惑の捜査過程でとんでもない副産物が出てきた。女性インターンのモニカ=ルインスキーと大統領のホワイトハウスでの性的行為が発覚したのだ。
1998年1月、クリントンはテレビで全国民に否定したが、独立検察官の詳細なレポートが出され、認めざるを得なくなった。その年の末、下院は大統領弾劾裁判を決め、翌年1月上院で弾劾裁判が行われた。焦点は、クリントンの行為を大統領として認められないとするか、大統領の職務を遂行する能力とは関係がないとみるかであったが、裁判は大統領の無罪を判決した。夫人のヒラリーが、夫の愚行にめげずに、保守派の陰謀であると訴えたのが功を奏したのだ。
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1998年1月、クリントンはテレビで全国民に否定したが、独立検察官の詳細なレポートが出され、認めざるを得なくなった。その年の末、下院は大統領弾劾裁判を決め、翌年1月上院で弾劾裁判が行われた。焦点は、クリントンの行為を大統領として認められないとするか、大統領の職務を遂行する能力とは関係がないとみるかであったが、裁判は大統領の無罪を判決した。夫人のヒラリーが、夫の愚行にめげずに、保守派の陰謀であると訴えたのが功を奏したのだ。
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ジョージ=ブッシュ
ジョージ=ブッシュは1924年6月12日にマサチューセッツ州で銀行家(後に上院議員)の子に生まれた。高校卒業後に国への義務を果たすべく海軍に志願し、第二次世界大戦中、海軍最年少(18歳)のパイロットとして活躍した。
戦後、復員してイェール大学を卒業。石油会社に勤務したのち自ら石油会社をおこし、共和党の下院議員として政界に入った。国連大使・共和党全国委員長・北京連絡事務所長(事実上の駐中国大使)・中央情報局(CIA)長官を歴任。1980年、大統領選挙の共和党候補指名争いでレーガンに敗れ、レーガン大統領の副大統領となった。
大統領就任式
2期8年にわたってレーガン大統領の副大統領を務めた後、満を持して出馬した1988年の大統領選挙で共和党候補に指名され、民主党のデユカキス候補に地滑り的勝利をおさめた。2期目を務めている現職の副大統領としては、実にジョン=アダムズ以来192年ぶりに2人目の大統領当選者で、「副大統領は長く務めるほど大統領選挙が不利になる」というジンクスを覆した。
レーガン政権の新保守主義、新自由主義といった経済理念を継承し、「小さな政府」を掲げ財政赤字解消に努めたが、それには失敗した。議会では民主党が多数を占め、ブッシュ政権の内政は見るべきものはなかった。
マルタ会談
外交面では、1989年の東欧革命で東ヨーロッパの社会主義国が相次いでソ連圏から離脱、11月にはベルリンの壁の開放が現実のものとなり、それらを受けて年末にゴルバチョフとの間でマルタ会談を行い、冷戦の終結を宣言した。
さらに1990年の東西ドイツの統一、1991年のソ連の解体という激動が続き、東西冷戦時代は急激に消滅した。
パナマ侵攻
冷戦の終結によって共産主義陣営との戦争の危機は去ったが、ブッシュのアメリカは新たな戦いを開始した。1989年末にはパナマのノリエガ将軍を麻薬取引などの不正を行っているとして軍隊を派遣して逮捕するというパナマ侵攻を実行し、世界を驚かせた。
それは、「民主主義」とアメリカの安全を脅かす独裁者に対しては、武力行使を辞さないという、「世界の警察」としてのアメリカの強硬な姿勢を示したものであった。
冷戦終結後のアメリカには世界の秩序を維持する責任と能力があるというブッシュ及び大統領ブレーンの認識に正面から挑戦したのが、イラクの独裁者サダム=フセインであった。1990年8月、サダム=フセインが隣国クウェートに侵攻すると、アメリカは国連に働きかけて軍事制裁を加えることを決意し、湾岸戦争に踏み切った。アメリカを主体とした多国籍軍はペルシア湾岸から上陸してクウェートを解放し、バグダードに迫ってサダム=フセインを降伏させた。しかし、サダム=フセイン政権を倒すには至らず、講和した。
湾岸戦争に対して、アメリカ国民の多くは支持したが、経済の悪化が続くと長期にわたった共和党政権に対する反発が強くなって、1992年の大統領選挙では民主党のクリントンに敗れた。
ジョージ=W=ブッシュ
ブッシュの長男ジョージ=W=ブッシュは2001年に第43代大統領となった。アメリカの歴代大統領の中で親子で大統領に就任したのは2組目で、もう1組は第2代ジョン=アダムズと第6代ジョン=Q=アダムズの親子である。
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若き日のロナルド=レーガン
レーガンは1911年2月6日にイリノイ州で生まれた。アイルランド系の父親はカトリック教会に属していたが、スコットランド系の母親はプロテスタントの熱心な信徒で、母の影響を受けたロナルドは11歳の時にに洗礼を受け、プロテスタントとなった。父はアルコール依存で、母の属する教派は禁酒派だった。幼少の頃のレーガンは教会によく通い、やがて信徒を前に説教をするようになり、後年の彼の演説力が培われた。
大学卒業後の1932年、話術の才能を生かすためにシカゴの大リーグチームであるシカゴ・カブスのラジオアナウンサーとなり、1937年にはワーナーブラザースと契約を結びハリウッド俳優となった。西部劇など約50本の映画に出演し、二枚目スターとして活躍した。レーガンは二流スターに過ぎなかったが、ハリウッドの俳優労働組合の委員長を経験するうち、反共産主義の急先鋒となっていった。当初、民主党員であったが、共和党上院議員マカーシーによる、共産党員やその同調者を追放するマカーシズム旋風の中で、その反共主義に共鳴、1962年に共和党員に転じた。
大学卒業後の1932年、話術の才能を生かすためにシカゴの大リーグチームであるシカゴ・カブスのラジオアナウンサーとなり、1937年にはワーナーブラザースと契約を結びハリウッド俳優となった。西部劇など約50本の映画に出演し、二枚目スターとして活躍した。レーガンは二流スターに過ぎなかったが、ハリウッドの俳優労働組合の委員長を経験するうち、反共産主義の急先鋒となっていった。当初、民主党員であったが、共和党上院議員マカーシーによる、共産党員やその同調者を追放するマカーシズム旋風の中で、その反共主義に共鳴、1962年に共和党員に転じた。
大統領就任式で宣誓するレーガン(中央はナンシー夫人)
その後政界に入って、カリフォルニア州知事を2期務め、1976年の大統領候補指名では当時のフォード大統領に敗れたが、1980年の大統領選挙で民主党の現職大統領カーターに圧勝した。この時、レーガンは69歳で、それまでの大統領で最高齢(これは2017年1月就任したトランプ=70歳に破られ、その後2021年1月に78歳で就任したバイデンが現在最高齢)、そして離婚経験(1949年に女優ジェーン=ワイマンと離婚。彼女はアカデミー主演女優賞も獲得した有名女優だった)のある最初の大統領となった。
レーガンは「強いアメリカ」の再現を掲げ、ソ連との軍事的対決に備えて「戦略防衛構想」(SDI)を打ち上げ、軍事費増大は「小さい政府」による福祉支出削減などによって生み出すという政権構想であった。その政策は、外交・イデオロギー面では、1970年代の緊張緩和の反動として台頭してきた新保守主義(ネオ=コンサバティヴ、略してネオコンという)と、経済政策では新自由主義(ケインズ的な「大きな政府」を批判して、徹底して市場原理に依拠し、通貨供給で景気をコントロールしようという経済思想)をバックボーンとしていた。その姿勢は、次期大統領ブッシュ(G.H.W)=父及びブッシュ(G.W.)=子に継承される。
レーガンは「強いアメリカ」の再現を掲げ、ソ連との軍事的対決に備えて「戦略防衛構想」(SDI)を打ち上げ、軍事費増大は「小さい政府」による福祉支出削減などによって生み出すという政権構想であった。その政策は、外交・イデオロギー面では、1970年代の緊張緩和の反動として台頭してきた新保守主義(ネオ=コンサバティヴ、略してネオコンという)と、経済政策では新自由主義(ケインズ的な「大きな政府」を批判して、徹底して市場原理に依拠し、通貨供給で景気をコントロールしようという経済思想)をバックボーンとしていた。その姿勢は、次期大統領ブッシュ(G.H.W)=父及びブッシュ(G.W.)=子に継承される。
「プラザ合意」の会場となったニューヨークのプラザホテル
具体的経済政策としてはいわゆる新自由主義に基づき、「サプライサイド」(供給側)経済を唱え、減税による景気浮揚をはかった。支出の削減では社会福祉関係の予算を大幅に削減した。減税は企業や富裕層には有利であり、社会福祉予算削減は低所得者層に犠牲を強いることとなった。
このようなレーガンの経済政策は「レーガノミクス」と言われた。しかし国防費は削減されず、財政赤字は解消されなかった。また、輸出も伸びず、1985年には1914年から続いた債権国の地位から債務国に転落し、貿易収支も赤字に転じ、財政赤字と貿易赤字の「双子の赤字」に悩むこととなり、1985年9月22日、先進5ヵ国によるプラザ合意によってドル安に是正されて救済された。内政面では右よりの政策が目立ち、男女平等や人工中絶には反対の姿勢を見せ、最高裁判事には保守派を任命した。
レーガン・ゴルバチョフ会談(1985年)
外交政策では、レーガンはアメリカの大国主義と反共産主義の姿勢を明確にし、ソ連を「悪の帝国」とよびSDIを推進したため、「新冷戦」をもたらした。しかし、「双子の赤字」に象徴されるアメリカ経済の落ち込みが明確になると、レーガンは反ソ強硬姿勢の転換を余儀なくされていった。
おりからソ連でも従来の硬直した社会主義経済が行き詰まって危機的な状況となり、1985年にゴルバチョフが出現し、ペレストロイカが始まった。このように米ソ双方で従来の強硬姿勢を改めざるを得ない状況が出現し、1985年11月19日に両首脳はジュネーヴサミットで初めて会見、首脳会談を行った。
ジュネーブ会談では一転してレーガンは核戦争での不戦を誓い、科学や文化でのソ連との交流に合意した。このレーガンの対話路線への転換は、ゴルバチョフ書記長の新思考外交と一致し、1987年12月8日には中距離核戦力(INF)全廃条約に調印するというところまでいった。

グレナダへパラシュート降下するアメリカ陸軍のレンジャー部隊
しかし、一方で前任のカーター外交を軟弱と批判し、「強いアメリカ」の復活を訴えて当選したため、伝統的なカリブ海政策を復活させ、親米政権に対する左派ゲリラの活動が強まったニカラグアやエルサルバドルに介入した。
また、1983年にはグレナダ侵攻を行った。特にニカラグアの親米勢力(コントラ)への武器支援を続け、その過程でイランに秘密に武器を売却し、それで得た資金をコントラに横流ししたのではないか、という「イラン・コントラ事件」が起こり、大統領の関与も疑われたが、その証拠は出なかった。
レーガンと中曽根首相
日本の中曽根首相とは政治信条に近いものがあったらしく、「ロンとヤス」と呼び合う仲だったという。
また退任後、アルツハイマー症にかかったことを明らかにしたことでも話題となった。2004年6月5日、93歳で死去。大統領経験者としては最高齢であった。
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