FC2ブログ

なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

カテゴリ

最新記事

fc2カウンター

Facebook

月別アーカイブ

最新トラックバック

最新コメント

リンク

検索フォーム

RSSリンクの表示

ブロとも申請フォーム

QRコード

QR

タージ・マハルとアグラ城

 
 平成20年2月23日(土)~3月3日(月)、インドとネパールを旅しました。平成15年のチベットと平成18年のパキスタンの旅では紀行文を残したのですが、6回目のインドということもあってか最初から書く気がなく、何も記録が残っていません。残っているのはトラベルサライの奥村君がまとめた簡単な日程アルバムと、写真に記録されている日付・時間と、曖昧な記憶だけ。という訳で、脳味噌を絞りながら書き綴っていきますので、ご愛読いただければ幸いです。合掌



2月23日(土)

 
午前9時、関西空港に15名の旅行仲間が集結。添乗員の奥村君はネパールで添乗中のため、バンコクで合流する。スーツケースはABC宅配サービスで自宅から空港に送ったんだけど、空港で受け取ってびっくり。キャスター部分がスーツケース本体に陥没してしまっている。宅配の兄ちゃんが落としたに違いない。代わりのスーツケースを貸してくれるというが、空港内で荷物を詰め替えるのも面倒だし、どうせ向こうに行けばポーターが運んでくれるんだから、ということで、そのまま壊れたスーツケースを持って行った。でも、やっぱり素直に借りとけば良かった。ポーターがいない所では自分が持たなくてはいけない。その重いこと。しょっぱなからこんな状態で、一抹の不安を覚えながら飛行機に乗ったんだけど、その不安は見事に的中することになる。

P1000011 新 P1000009 新 
 
 午前11時10分発のタイ航空623便(TG-623)でタイのバンコクへ。約6時間半のフライトで、午後3時40分、スワンナプーム空港に到着した。デリー便に乗り換えるまで4時間もあるので、足裏マッサージへ。年齢とともに足が浮腫むようになり、飛行機を降りたら足はパンパン。足裏マッサージをしてもらうと実に気持ちが良いが、しばらくするともとに戻ってしまう。午後7時に奥村君と落ち会う予定だったが、カトマンズからの飛行機が遅れ、安全検査が終わった後にようやく彼は現れた。午後7時50分発のタイ航空315便(TG-315)でデリーへ。

P1000086.jpg 

 午後10時45分、デリーのインディラ・ガンディー国際空港に到着。我々を迎えてくれたのは現地ガイドのクルディープ・ディクジット君。彼に案内してもらって空港近くのセントール・ホテルへ。日本時間だと日付が変わった午前2時過ぎ。くたびれ果てて、ベッドに潜り込んでバッタンキュー。お休みなさい。

2月24日(日)

 朝食を食べにレストランに行ってびっくり。僕のお寺と背中合わせのE寺さんのご住職が昨晩遷化【せんげ】されたという連絡が入ったそうだ(僕はこのころ携帯を持たなかった)。昨日は同行しているN上人に葬儀の出座依頼があったそうで、ご自分のお檀家さんの葬儀をすませた晩にお酒を飲んだあとお風呂に入って、奥さんが見つけた時はお風呂に浮いていたそうだ。僕の長男もご遺体をお風呂からあげるお手伝いをしたそうで、大変だったみたいだ。その長男が今E寺の住職を務めているのは不思議なご縁だ。本当は葬儀のお手伝いをしなくてはいけないのだが、帰国するのは無理。遙かインドから手を合わせて増円妙道を祈るしかない。

 それにしても、我々が海外旅行にでかけた時に限って、お檀家さんやご住職さんがお亡くなりになる。(まあ、2月と8月という人間が一番亡くなる時期に旅行しているからかも知れないが。)僕の場合、6回目の海外旅行まででお檀家さんが2人亡くなっており、打率3割3分3厘だと言っていた時期があった。だから、海外に出かけるのは冷や冷やものだったんだけど、長男が葬儀の導師を出来るようになって安心して出かけられるようになってから、どなたも亡くなっていない。皮肉なもんだ。今回が9回目なんで、打率は下がって現在2割2分2厘。

2008_03022008インド・ネパール0002 

 午前8時30分、バスでアグラへ。アグラまで188キロ、国道2号線(アジア・ハイウェイ、GTロード)をバスはひた走る。ホテルの前に花で飾られた車があった。今日は日曜日だし、このホテルで結婚式があるんだろう。平成14年にインドを旅した時は、披露宴に飛び入り参加させてもらうという幸運に恵まれたが、今はインドの結婚式シーズンなんで、またどっかで結婚式に出合うかも知れない。

P1000014.jpg 

 途中、ダップチック・レストランで休憩。小さい舞踏家が我々を迎えてくれた。チップはずんといたよ。


アグラ昼飯 

 午後1時、アグラに到着。宿泊することも考えていたタージ・ビュー・ホテルで、まずは昼飯。もちろんビールつき。


P1000024.jpg 

 午後3時、いよいよタージ=マハル。この赤砂岩の門をくぐれば……。


P1000030.jpg
 
 ワーオ、何回見ても凄いっすね。でも、3回目ともなると、感動はいまいち。

P1000044.jpg 

 驚いたのは人の数。僕が最初に来た平成5年には見物客はまばらだったんだけど、来る度に人が増えて、今回は日曜日とあって人、人、人でごった返している。長蛇の列に並び、入場するまでに30分以上かかった。

c0067690_189581 新 ムムターズ=マハル 新

 4本のミナレット(光塔)があるのでモスクだと思っている人がいるが、ムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンが愛するムムターズ・マハルのために造った霊廟、すなわちお墓だ。ムムターズ・マハルは本名アルジュマンド・バーヌー・ベーガム。ムムターズ・マハルは“宮廷の選ばれし者”という意味の称号。写真を見ての通りの可愛子ちゃんで、シャー・ジャハーンに愛されて18年間に14人の子供を産み、産褥【さんじょく】熱で37歳で亡くなった。おー、愛しのマハルちゃん、可哀想に。僕が君を愛していた証拠を見せよう、ということで、22年の歳月と2万人の職工に命じた造らせたのがタージ・マハル。恐らく世界で一番豪華なお墓だろう。でも、考えてごらん。お前が悪いんだろう。一夫多妻制で他にも奥さんはいたのに、ムムターズ・マハル一人に毎年のように子供を産ませて。本当に愛してるんだったら、もっといたわってやれば良かったんだよ。

2008_03022008インド・ネパール0024 

P1000039.jpg 

 いま、ムムターズ・マハルはタージ・マハルの中で、シャー・ジャハーンと並んで静かに眠っている。みんな一生懸命に写真を撮ってるんで言わなかったんだけど、このお墓はレプリカ。本当のお墓は地下にある。平成5年に来た時は地下にも入れてくれたんだけど、最近は入れてくれない。地下のお墓は撮影禁止だったんだけど、警備の兵隊さんが指一本立ててウインクしたんで、1ドルあげて写真撮らせてもらった。いい加減な国だけど、中国もパキスタンもみんな一緒。お堅いことは言わない。

 それではしばらくタージ・マハルの写真をお楽しみ下さい。

P1000045.jpg 
誰しもがやる馬鹿なことを奥さんもしました。

2008_03022008インド・ネパール0010 
隣の人が邪魔するので真ん中に入らない。

2008_03022008インド・ネパール0006 

2008_03022008インド・ネパール0019 2008_03022008インド・ネパール0020

2008_03022008インド・ネパール0017 

2008_03022008インド・ネパール0028 

 お楽しみいただけたでしょうか。

P1000050.jpg 

 午後5時、アグラ城へ。アグラ城は赤砂岩で造られた城塞で、ムガル帝国第3代皇帝アクバル(シャー・ジャハーンのお祖父ちゃん)が建てた。

2008_03022008インド・ネパール0031 2008_03022008インド・ネパール0030

 ムガル帝国はイスラーム教の国。アクバルはヒンドゥー教徒へのジズヤ(人頭税)を廃止するなど、イスラーム教徒とヒンドゥー教徒との宥和に努めた皇帝なので、嫁さんもラージプート族というカチコチのヒンドゥー教徒から迎えている。だから、アグラ城にはインド様式が随所に見られる。

2008_03022008インド・ネパール0037 
 サリーを着た美人だったらもっといい写真になったのに!

imagesCAX0MRUZ 新   

 1657年にシャー・ジャハーンが病床に伏すと、長男ダーラー・シコーが後継者として指名された。ところが皇位継承争いが起こる。三男坊のアウラングゼーブが4男坊と組んで挙兵、長男と次男を倒し、ダーラー・シコーを処刑。長男のくせにだーらーしな~い。アウラングゼーブは協力した4男坊も後に殺害。そして父ちゃんをアグラ城の「囚われの塔」(ムサンマン・ブルジュ)に閉じこめて、自分はデリーの「赤い城」(レッド・フォート)に行ってしまう。そして、父ちゃんが1666年に死ぬまで、ダーラーを偏愛したとして恨みの手紙を送ったり、宝石を取り上げたり、さまざまないやがらせをしたそうな。嫌な奴ちゃな。
P1000060.jpg 

 僕がいるのがシャー・ジャハーンが閉じこめられていた部屋。窓から何を覗いているかって。これ、これ。

P1000057.jpg 

 そう、タージ・マハル。シャー・ジャハーンは死ぬまでの8年間、窓から毎日タージ・マハルを覗いては亡き妻を偲んで涙にくれていたそうだ。なんとも可哀想だが、シャー・ジャハーンはジャハンギール帝の3男坊で、兄弟・甥っこを殺して即位した人物。因果は巡るというやつで、自業自得だ。

 さあ、明日はいよいよ王舎城だ。(つづく)


スポンサーサイト



【 2014/03/17 17:00 】

インド・ネパール  | コメント(0)  | トラックバック(0)  |

王舎城(ラジギール)


2月24日(日)


 タージ・マハルとアグラ城を十分に堪能した後、インド料理の夕食をすませ、アグラ発午後8時30分のシャタブジ急行でデリーに戻る。午後10時40分デリー到着。昨晩も泊まったセントール・ホテルへ。

2月25日(月)

4694[1] 

 午前11時30分発のインディアン航空(IC-809)でビハール州の州都パトナへ。午後2時30分パトナ着。パトナの昔の名前はパータリプトラ。世界史で習ったマウリヤ朝やグプタ朝の都となった町だ。ここから南東に100キロ離れたラジギールへ専用バスで向かう。午後3時にパトナを出て、ラジギールに午後6時45分に到着した。宿泊するのはいつもお世話になる法華ホテル。

ホッケ 晩飯

 このホテルは日蓮宗の信者さんが日本人観光客のために建てたホテルで、畳の部屋に大浴場もある。夕食はご覧の通り、天ぷら・冷や奴・茄子の田楽と、完全日本食。初めてインドに来た時は、カレーの毎日に飽きた頃にこれをいただいてホットしたものだ。でも今回は旅の初めのほうなので、いまいち有り難みがない。今日は移動するだけの一日。インドは広いね~。

2月26日(火)

ホッケ 朝飯 

 法華ホテルの朝食はおかゆです。夕べ飲み過ぎましたので、大変助かります。

P1000084.jpg
七葉窟の道すがら現地の子供と記念写真

 ラジギールの昔の名前はラージャグリハ。ラージャ(王)の住むところ(グリハ)で、漢訳仏典では王舎城。現在の名前ラージギルは、ラージ(偉大な)ギリ(丘)という意味。今ではすっかり寂れているが、釈尊に帰依したビンビサーラ(頻娑婆羅)王やその子アジャータシャトル(阿闍世)王の時代、マガダ国の都が置かれていた。

P1000087.jpg 

 ラジギールはもう6回目の訪問なのに、まだ一度も訪ねたことのない仏跡がある。法華ホテルから見えるにもかかわらず、時間がないことを口実に行かなかった場所。それは第一結集が行われた七葉窟【しちようくつ】だ。朝食を終えて出発まで2時間以上あるので、思い切って行ってみることにした。みんなを誘ったんだけど、嫌がって誰も来ない。ガイドのディクジット君には気の毒だが、僕と奥さん二人だけを案内してもらった。

P1000085.jpg  
 結集【けつじゅう】は経典編纂委員会のこと。第一結集は釈尊が涅槃【ねはん】に入られた年に、この七葉窟に釈尊の優れた弟子500人が集まって開かれた。マハーカッサパ(大迦葉【だいかしょう】)が司会役を務め、ウパーリ(優波離)が律を、アナン(阿難)が経を暗誦した。この時、アナンは出席者に釈尊がどのような教えを説かれたかを紹介する際に、「私はこのように聞きました。」から始めたので、ほとんどのお経は「如是我聞」で始まる。仏教教団にとってそんな重要な集会が開かれたのが、この七葉窟だ。

P1000083.jpg 

 歩き始めてすぐに後悔した。昨日のお酒が残っている上に暑い。汗だくのふらふら。30分以上かかって漸く到着した。眼下には法華ホテルが見える。みんな、部屋で寝そべってるんだろうな~。罰当たりめ!!

 洞窟が7つ並んでいるので七葉窟と言うんだけど、本当にここに500人もの人が集まれたんだろうか?。奥行きは6キロもあるなんて話もあるけど、そんな中に多くの人間が入ったら、さぞかし息苦しいだろうし。地震で崩れたから現在の規模になったという話も聞いたことあるけど。まあ、疑うのはやめましょう。ここに釈尊の高弟が集ったのは事実だ。そう考えると、僕もその集会に参加していたような気になって、ありがたくなり、合掌。疲れました。

P1000093.jpg 

 午前9時30分、ホテルを出て竹林精舎へ。精舎【しょうじゃ】(ビハーラ)は簡単に言えばお寺。コーサラ国の都・舎衛城【しゃえいじょう】にあった祇園精舎が有名だけど、仏教のお寺第一号はこの竹林精舎。迦蘭陀【からんだ】長者が所有していた竹林を釈尊に寄進し、ビンビサーラ王が伽藍を建てたと言われている。もちろん今は伽藍が残っている訳ではなく、竹だけが生い茂っている。(それにしてもインドの竹は密集して生えており、あまり風情がない。)釈尊は80年の生涯を遊行された方だから一箇所に長くとどまることはなかった。ただ、6~8月の雨期の季節には遊行は困難で、その間居住するために建てられた出家者用の建物が精舎。だから、伽藍と言えるほど立派なものではなく、木造の掘っ立て小屋だったはずだ。小学生の遠足だろうか。たくさんの女の子達に囲まれて、つい頬が緩んでしまった。

P1000098.jpg 

 午前10時20分、リフトに乗ってラトナギリ(多宝山)へ。リフト?って思うでしょ。もちろんスキーをするためではありません。聞いたところによると、このリフトは日本山妙法寺さんが多宝山の頂上に平和記念仏塔を建てた際に、資材を運ぶために設置したものらしい。仏塔建築が終われば取り壊す予定だったが、インド側に頼まれてそのまま残したら、一躍インド人の人気観光スポットになった。そりゃそうだよね。ビハール州はインドの中でも一番貧しい地域で、娯楽施設なんて全くないもんね。この日もお詣りのためか、リフト目当てか分からないけど、たくさんの人が来ていた。

P1000102.jpg

 多宝山の平和記念仏塔は藤井日達上人が「仏教西漸」を願って建立されたもの。奥さんが神妙に手を合わせてますが、それ僕に向かって合掌してますよ。まあ、それほど僕が有り難い存在だということか?(笑)

P1000104.jpg 

 さあ、これから遙か下に見える霊鷲山【りょうじゅせん】に向かいます。普通なら、霊鷲山の麓からビンビサーラ王が釈尊の説法を聞くために造ったと言われるビンビサーラ・ロードを登るんだが、今回は多宝山から尾根伝いに霊鷲山まで下っていく。

P1000103.jpg

 こんな道を下ること30分。ようやく霊鷲山に到着。

P1000105.jpg 

 中には道楽して一旦リフトを下り、駕籠で登って来た不埒な奴が。誰だっ。駕籠は500ルピー(現在800円)で、体重により割り増し料金を取られます。

P1000108.jpg 
釈尊が法華経を説かれた香室
 霊鷲山はサンスクリット語でグリドラ・クータ。法華経には音訳した耆闍崛山【ぎしゃっくせん】の名でも登場する。グリドラははげ鷲のこと。名前の由来は頂上部にある岩が鷲の姿に似ているからという説と、昔ここが鳥葬が行われた場所であったからという説がある。釈尊は死体置き場で修行されることが多かったので、恐らく後者の説が正しいと思うが、いずれにしてもこのお山は釈尊が法華経を説かれた場所。(真宗のお坊さんは観無量寿経を説かれた場所だとおっしゃるでしょうね。)

 霊鷲山に初めて登ったのは平成5年。夜明け前にビンビサーラ・ロードを登り、ご来光を拝みながら唱題した時、まぶたの裏に釈尊のお姿を見て、涙が止まらなかったことを思い出す。平成9年に登った時には父親の遺骨を1片、ここに葬った。平成23年に亡くなった母の遺骨も持って来なくては。でも、息子たちは僕が死んだ後、遺骨を持ってここまで来てくれるだろうか?

ホッケ 昼飯 


 一旦ホテルに戻り昼食を取った後、午後1時45分、バスでブダガヤへと向かった。(つづく)


【 2014/03/16 15:40 】

インド・ネパール  | コメント(0)  | トラックバック(0)  |

釈尊成道の地ブダガヤ


2月26日(火)


P1000116.jpg 

 ラジギールを出て2時間あまり、午後4時にブダガヤに到着。最初にスジャータ村を訪ねた。スジャータ村はネーランジャラー川(尼蓮禅河【にれんぜんが】)の東岸にあり、釈尊の時代はセーナ村といったが、現在はスジャータ村と呼ばれている。スジャータは成道前の釈尊に乳がゆを供養して釈尊の命を救った少女の名前。「褐色の恋人スジャータ」という「めいらくグループ」が発売しているコーヒーフレッシュがあるが、乳つながりで命名されたそうだ。

a0274401_6453716[1]  
 29歳で出家された釈尊はスジャータ村の南にあるウルヴィルヴァーの林で、6年間の苦行に打ち込まれたと伝えられる。苦行の原語はサンスクリット語のタパスで、本来「熱、熱力」を意味する言葉。身体を傷めつけて精神を鍛えることによって、身体の中に特殊な熱力、神通力が蓄積されると考えられていた。釈尊は一粒のゴマや米などによって日を過ごされたり、食をまったく断たれたりして、座ろうとすれば後ろへ倒れ、立とうとすれば前に倒れるほど厳しい苦行に励まれました。

 その結果、有名なパキスタンのラホール博物館の苦行像のようなお姿になってしまわれます。眼窩【がんか】恐ろしく骸骨のように大きく落ちくぼみ、身はやせ細り、肋骨が1本1本浮き出て血管が走り、腹部は木の空洞のように深くくぼみ、腕は枯れ枝のように細く、死ぬ寸前の状態になってしまわれます。

P1000110.jpg 
畑の向こうに前正覚山【ぜんしょうがくざん】が見える

 しかし、釈尊が求めていた人生の苦を根本的に解決する智慧は得られません。苦行は心身を極度に消耗するのみであるとして苦行を捨てられた釈尊は、ネーランジャラー川で沐浴されます。この時、セーナ村の少女スジャータが乳がゆを釈尊に供養し、これによって釈尊は体力を回復されました。

P1000115.jpg
スジャータ・ストゥーパ

 スジャータは古代インドの女性名で、“良い生い立ち、素性”を意味するそうだが、僕は世界史の授業で彼女をシュードラの娘として紹介している。バラモン・クシャトリヤ・ヴァイシャ・シュードラの4階級からなるヴァルナ制では、穢れということを重視するので、階級の違うものが同じ場所で食事をしたり、階級の下位の者から食事を受け取ってはならない。釈尊はもちろんクシャトリヤだから、シュードラの娘スジャータが差し出す乳がゆを受け取って食してはならない。だから、乳がゆを食べられたということは、ヴァルナ制、つまりカーストを否定する高らかなる宣言であった、と。

P1000113.jpg 

 スジャータの徳を讃えて造られたストゥーパは8~9世紀に建立されたものと言われているが、この場所にスジャータの住まいがあったそうな。スジャータがいなかったら、釈尊も命を失っていたかもしれない。そう考えると、スジャータは仏教の恩人だ。で、その乳がゆというものを平成9年に来た時に食べさせていただいたが、残念ながらそんなに美味しいものではなかった。

P1000130.jpg P1000121.jpg

 午後4時20分、ブダガヤの大菩提寺(マハー・ボディー寺)に到着。大菩提寺は釈尊成道の地に建てられたお寺で、2002年にユネスコの世界遺産に登録された。世界遺産になる前はバスから降りた途端に、土産物屋がマンツーマンでくっついて来て商売をした。「センシェイ、コレ安イネ。コレ、ジェンブデ1,000エンネ。買ウ?」「要らない。」「ソンナコト言ワナイデ、買ッテ。コレモ付ケテ、ジェンブデ1,000エ~ン。」「ナヒーン、チャヒエ(要らない)。」金魚の糞みたいにずっとついて周り、ゆっくりお詣りすることもできなかったが、今では敷地内から土産物屋は排除されているので、落ち着いてお詣りすることができる。

 本堂にあたる大精堂は52メートルあり、13世紀にイスラーム教徒が侵入した際にこれを土で覆い隠して守ったそうだ。バーミヤンの大仏を破壊したタリバーンのことを考えると、隠していなければ破壊されていたに違いない。重機もない時代にこんなでかいものを隠すための土を運ぶ作業がいかに大変だったか、当時の人々の信仰心の厚さが忍ばれる。

P1000134.jpg P1000117.jpg

 1876年にビルマ王が3人の官吏を派遣して、600年以上埋没していた基底部を発掘。その後、インド政府も黙って見過ごすことができなくなり、1863年にイギリスのアレキサンダー・カニンガムの指導のもとが発掘に着手。カニンガムはインダス文明のハラッパー遺跡の発掘でも知られる考古学者で、インド考古局を設立たことでも知られる。さらに1881年にベーグラーが金剛宝座を探りあて、その下から仏舎利【ぶっしゃり】(釈尊のご遺骨)を発見した。大精堂は土に埋もれていた分、周りのほうが高いので、階段を降りて参拝する。

P1000127.jpg

 東側の正面入り口から中に入ると、正面に西壁を背にした2メートルほどの釈迦像が目に飛び込んでくる。降魔成道【ごうまじょうどう】 の釈尊の姿で、9~10世紀ころの作とされる。本来は黒石であったらしいが、ミャンマーの信者さんによって金箔で覆われて、金ピカピンになった。日本人からすると、要らんことすんなちゅ~の、と言いたくなる。

P1000123.jpg 

 大精堂の裏手にわれわれ仏教徒にとって一番大切な聖地がある。釈尊がお悟りを開かれた金剛宝座と菩提樹である。菩提樹は釈尊当時のものではなく、4代目らしい。スジャータの乳がゆ供養を受け体力を回復された釈尊は、瞑想をされようと前正覚山の中腹にある洞穴に入られた。ところが、お坐りになろうとした時、山が3度震動し、山の神が「この地は真理を得るのには適さない山です。 この地の南東にある菩提樹下に向かわれるように」と告げられたとのこと。ちなみに、釈尊がお悟りを開かれたから菩提樹と呼ばれるようになったんで、当時はピッパラ樹とかアシュヴァッタ樹と呼ばれていた。

金剛宝座②
 
 釈尊はこの菩提樹の下で瞑想され、7日目の12月8日、明けの明星が東の空に輝く頃、ついに悟りを開きブッダとなられた。釈尊35歳の時のこと。その場所が金剛宝座と呼ばれているが、現在は石の柵で囲まれており中に入ることは出来ない。平成5年に初めて来た時は中に入れたのだが、オウム真理教の麻原彰晃の罰当たりが金剛宝座に上がり、参詣者によって引き下ろされた事件以降、中に入ることが出来なくなった。えっ、何を悟られたたかって?それはまた、いずれ。

P1000125.jpg

 金剛宝座と菩提樹に向かいお自我偈をお唱えし、高らかにお題目を唱える。至福の時である。涙があふれ、止まらない。この場所に6度も来れたという幸せにただただ感謝である。
 




 ムチャリンダ竜王の池 

 しばらく境内を散策する。大精堂の西側にムチャリンダ竜王が住むという池がある。釈尊は悟りを開かれたあと7日間、菩提樹の下で足を組んだままの姿勢で「解脱の安楽」を心ゆくまで味わわれたという。その後7日間アジャパーニグローダ樹、さらに7日間ムチャリンダ樹の下で解脱の安楽を楽しまれた。ムチャリンダ樹の下にお坐りになられた時、時季はずれの雨が7日間降り続き、冷たい風が吹いたそうだ。その時ムチャリンダ竜王が釈尊の身体を覆って風雨から守ったという言い伝えがある。竜というと中国の竜を思い浮かべると思うけど、漢訳仏典の竜の原語はナーガで蛇のことだ。インドで蛇と言えば、もちろんコブラ。コブラは興奮すると鎌首を広げるから、傘のようになって釈尊の身体を風雨から守ることが出来る。だけど、池の真ん中にわざわざその像を造らなくてもいいんじゃないの。想像するだけでいいの。想像するだけで、十分。

 そのコブラに翌日会うことになるとは、この時は夢にも思わなかった。

アショカ王柱とムチャリンダ 

 大聖堂とムチャリンダ竜王の池の間にアショーカ王柱がある。アショーカ王はマウリヤ朝3代目国王。初めてインドを統一した国王であるが、統一戦争の過程で多くの犠牲者が出たことから仏教に帰依した。アショーカ王は全国8か所に奉納されていた仏舎利のうち7か所の仏舎利を発掘し、新たに8万4千(本当に84,000あるんじゃなくて、たくさんという意味)のストゥーパを建立し分納したと言われる。さらに釈尊ゆかりの地に石柱碑を立てたが、現在でも立っているのはヴァイシャリーのものだけだ。インドの国章にもなっているサールナート博物館にある獅子柱頭も倒れてしまった石柱の頭の部分。ここの石柱も途中で折れていまっているが、アショーカ王柱が立っているということは、金剛宝座を造ったのがアショーカ王であるという証拠だ。その下から仏舎利も出土してるしね。

sujata_hotel_outside[1] 

 大菩提寺をお詣りして幸せな気分で近くにあるスジャータ・ホテルへ。ブダガヤに来たら必ずお世話になるホテルだが、ここのオーナーのプラサド氏は日本人の心をよく分かっている、ということは日本人に対する商売が大変上手な人で、京都で同じ名前のレストランも経営している。

ブダガヤ晩飯 

 今日の晩ご飯はもちろんカレー。バナナの葉の上に乗せられおり、みんな大喜びだったんだけど、YさんとTさん、焼きそばばっかり食べてるね。カレーは口に合いませんでしたか?(つづく)

【 2014/03/05 16:25 】

インド・ネパール  | コメント(0)  | トラックバック(0)  |

鹿野苑と蛇遣い 


2月27日(水) 

 午前6時30分、国道2号線をベナレスに向かう。ベナレスという名称はイギリス植民地時代の英語表記の誤読で、現地名はヴァーラーナシー。でもベナレスのほうが分かりやすいと思うので、こっちを使う。

A1プラザ 

 途中、A1プラザというドライブインでトイレ休憩と昼食。A1プラザはインド有数の財閥リライアンス系のガソリンスタンドに併設されている、日本でいう「道の駅」だ。トイレも綺麗で、気持ちがいい。以前も幹線道路上には、トラック運転手のための「ダーバー」と呼ばれる安食堂があったんだけど、トイレがあっても汚くて使えない場合が多かった。だから、大自然の中のほうが気持ちがいいということで、男はどっかその辺で、女性陣は豆畑の陰で用を足した。もちろん、大きいほうも。これが糞じゃなかった、癖になって、われわれ旅行仲間には、トイレがあってもトイレでしないで青空のもとで、というファンが増えた。ところが、最近のインドでは自家用車で国内旅行する人が増え、それにともなって、この「道の駅」がどんどん増えているそうで、青空のもとで用を足すことがなくなったそうだ。清潔好きの人には朗報だろうけど、なんか残念だな~。

P1000136.jpg 

 お弁当のほかに南インドのドーサという料理をいただいた。米粉とウラッド・ダールという豆を挽いた粉を使ったクレープのようなもので、皮がパリパリして美味い。

P1000137.jpg 

 午後2時、ベナレスに到着。写真はベナレス駅。駅舎の屋根の上に車輪のようなものが見えると思うけど、これは法輪。そう、ここは釈尊の最初の説法である初転法輪【しょてんぼうりん】が行われた地だ。さっそく初転法輪の地サールナートへ向かう。

P1000140.jpg 
チョーカンディー・ストゥーパ

 サールナートは漢訳仏典では鹿野苑【ろくやおん】。ベナレスの北8キロほどの郊外にあり、釈尊の時代にはその名の通り鹿が住む静かな林で、「仙人の集まるところ」とも言われたように、多くの宗教家が修行する場でもあったそうだ。お悟りを開かれた釈尊はバラモン教の最高神である梵天【ぼんてん】の懇請を受けて、いよいよ伝道の旅に出る決心をされたのだが、ブダガヤからサールナートまでは300キロもある。徒歩だとゆうに10日はかかる。釈尊はなぜそんなに遠いところまで来られたのか?当然、初めての説法をするにふさわしい相手がいたからだ。その相手とは釈尊が苦行を続けていた時に一緒に修行をした仲間5人。この5人は釈尊が苦行を捨てた時に、釈尊が堕落したと考えて、釈尊のもとを去って行った。その5人と釈尊が出会った場所に立つのがチョーカンディー・ストゥーパ 。八角形の塔は1588年にムガル帝国のアクバル帝が父フマユーン帝のサールナート訪問を記念して建てたもんだそうで、仏教とは何の関係ない。5人は「あんな堕落した奴なんかと口聞くんじゃないぞ。しかとしてやろうぜ」と約束したらしいが、釈尊が近づいて来ると、いま交わした約束も忘れて、手厚く釈尊を出迎えたそうだ。よっぽど凄いオーラが出てたんだろうね。

鹿野苑  

 このチョーカンディー・ストゥーパ から800メートルほど離れたところにサールナート僧院跡があり、広さがなんと1万6000坪。東京ドームよりもやや広め。法顕【ほっけん】は『仏国記』に、ここに僧院があったことを記し、玄奘は『大唐西域記』の中で「伽藍は8つに分かれて、1500人の修行僧が住んでいるのを見た」と伝えている。

P1000147.jpg 

 サールナート僧院跡の中でもひときわ目を引くのが、高さ34メートルのダメーク大塔。グプタ朝時代の5世紀に建てられたもののようだが、イスラーム教徒の破壊により痛ましい姿になっている。

P1000143.jpg P1000145.jpg

  ダメーク大塔の建つ場所が、釈尊がアンニャータ・コンダンニャ(阿若憍陳如【あにゃきょうじんにょ】)ら5人の比丘【びく】に初めて説法をしたところと伝えられている。

初転法輪像
初転法輪像(サールナート考古博物館)

 えっ、何を説法されたかって?それは、いずれまたにしよう。5人の比丘の中でコンダンニャが最初に釈尊の教えを理解し、釈尊は「アンニャー・コンダンニャ」「アンニャー・コンダンニャ」と大喜びされたそうで、アンニャータ・コンダンニャと呼ばれるようになったそうな。「アンニャー」は「判った」とか「悟った」という意味。ほかの4人も次々に教えを理解し、釈尊の弟子となり、僧伽(サンガ)が誕生した。サンガは出家者集団のこと。これで仏・法・僧の三宝がそろい、仏教教団が誕生したのである。

12106[1] 

  1905年、この地でアショーカ王の建てた石柱と柱頭が発見された。この獅子柱頭はサールナート考古博物館に行けば見られるんだけど、今回は行かない。四方を向いた四頭のライオンの下に法輪が刻まれており、釈尊が世界の四方に向かって法輪を初めて転じた地点であることを示している。世界史の時間に教えたけど、この獅子柱頭が現在インドの国章になっており、法輪は国旗の真ん中に描かれている。柱頭にライオンを用いているのは、百獣の王であるライオンがひとたび吼【ほ】えれば百獣のすべてが従うのになぞらえて、釈尊の説法を獅子吼【ししく】というからだ。

法輪寺 

 その後、日月山法輪寺さんを参拝。法輪寺さんは日蓮宗のお寺で、無料で泊まることもできる。ただし、条件があって、「1.朝夕のお勤めに参加すること。1.ガンジャ・チャラス等麻薬は一切禁止、持ち込まないこと。1.嘘、おだて、盗みをしないこと。」だそうだ。


P1000151.jpg  

 今晩泊まるラマダ・ホテルに入る前にインドの蛇遣いと一時を楽しんだ。添乗員の奥村君がいつも蛇遣いのおじさんを捜して来てくれる。今回にしき蛇を首に巻いたのは、僕と女性陣のKさんとKさんの3人。この時期は蛇にとっては寒すぎるから、元気がない。だから、あまり動かなくていいんだけど、やっぱり重い。蛇だけにヘビー級だ。みんながギャーギャー騒いだあとで、僕だけ犠牲になった。

P1000162.jpg 

 コブラに手を近づけてみろという。毒牙は抜いてあるのは分かってるんだけど、鎌首もたげて今にも飛びかかりそうになってるんで、おっかなびっくりで手を近づけることが出来ない。おじさん僕の手をつかんで、コブラに近づけた。アイタッ。噛まれちゃった。そんなことはないよね。

P1000158.jpg 

 インドには蛇遣いは25万人もいるんだって。ところが、この25万人の蛇遣いが職を失って物乞い生活してるそうだ。というのは、インドで1972年にヘビの捕獲や飼育を禁じた野生生物保護法の施行された。ずいぶん前のことなんだけど、蛇遣いはインドの伝統芸能なんでしばらくは黙認されていたが、2008年ごろから取り締まりが強化されて、警察に逮捕される者が相次いだそうだ。支援団体が雇用先確保を政府に呼びかけたんだけど、相手にされず、みんな乞食になっちゃったという訳だ。可哀想にあのおじさん今頃どうしてるんだろうか。(つづく)

【 2014/03/04 17:13 】

インド・ネパール  | コメント(0)  | トラックバック(0)  |

ベナレスー祈りと怒り!!!!

2月28日(木)

2008_03022008インド・ネパール0038 
 午前5時30分、ホテルを出てガンジス川のマニカルニカー・ガートに向かう。ベナレスの街中はまだ真っ暗。ガンジス川はサンスクリット語でガンガー。漢訳仏典では恒河【ごうが】と表記し、恒河沙【ごうがしゃ】といえばガンジス川の砂のことで、10の52乗。インド人の単位はスケールが大きい。

2008_03022008インド・ネパール0041 

 ガートはガンガー沿いに続いている階段状のスペースで、巡礼者が沐浴したり、クリーニング屋さんが洗濯する場所になっている。火葬場も併設されていて、ベナレスでは多い日には100体もの遺体が運ばれてくるそうだ。遺体はガンガーに浸されたのちにガートで荼毘【だび】にふされ、遺灰はガンガーへ流される。だから、ヒンドゥー教徒は墓が要らない。したがって、日本みたいに墓地経営でがっぽり儲け、外車を乗り回し、銀座の高級クラブで飲んだくれているような坊さんはいない(もちろん僕のことじゃないよ)。金が無い人、赤ん坊、妊婦、蛇に噛まれて死んだ人はそのまま流されるんだって。火葬場の撮影は絶対厳禁なんで、もちろん写真はないんだけど、ネパールでは撮影自由だったんで、乞うご期待。そんな気持ち悪いもの、誰も期待しないか。(笑)

2008_03022008インド・ネパール0043

 今日も観光客を乗せたたくさんの船が出ている。

ガンジス1 

 僕と奥さんが手に持っているのは、日本風に言えば灯籠流しのミニ版。自分の意志ではなく、強制的に渡される。何かを祈りながら、これをガンガーに流す。平成5年に初めて来た時は真剣に祈ったもんだが、この儀式も4回目なので惰性的にただ水に浮かべた。

2008_03022008インド・ネパール0044 

 ガートには真っ赤な衣装に身を包んだ行者が祈りをささげている。いやー、格好いいね。初めて来た時は珍しくて、沐浴するヒンドゥー教徒の写真を何枚も撮ったもんだけど、もう飽きちゃって、今回撮したのはこれ1枚だけ。ブログ書くこと分かってたら、もっと撮したんだけどね。

ガンジス2 
 このベナレスがヒンドゥー教最大の聖地とされ、多くのヒンドゥー教徒はここベナレスで死ぬことを望む。ここで亡くなり遺灰がガンガーに流されれば、輪廻からの解脱を得られると信じているからだ。聖なる山ヒマラヤに流れを発したガンガーは東に流れてベンガル湾に注ぐのだが、唯一このベナレスで北上(北流)する。北に向かうということはヒマラヤに向かって流れることだから、ガンガーが天に昇っていくイメージと重なり、インド至高の死に場所とされるわけだ。
 深い河

 40代以上の方ならご存じだと思うけど、平成7年に公開された遠藤周作原作の『深い河』。秋吉久美子がここベナレスで沐浴するシーンが話題になった。それから沐浴する日本人の若者が増えたんだけど、ヒンドゥー教を信じてもいない奴が沐浴してどうする、アホか。その上、聖なる川ではあるが、死体は流れるし、生活排水も流れ込んで来て、大腸菌うようよの超汚い川なんだ。病気になっちゃうぞ。

P1000179.jpg 
 平成9年にベナレスに来た時の嫌な思い出がある。当時は海外携帯なんて無いから、日本への連絡はホテルの電話を使うんだけど、これがめちゃ高くて、5,000円位かかった。これが町中のISDという電話屋さんでかけると安いんで、I上人と二人でISDへ。電話をかけ終わってホテルに帰ろうとしたら、髭面のおっさんが流暢な日本語で話しかけてきた。「コノ前、秋吉久美子ガウチノ店来タンダゼ。チョット寄ッテカナイカ?」この声に釣られてのこのことついて行ったら、2階にある店に連れて行かれ、入った途端に鍵を掛けられてしまった。この手の商売は一度ブダガヤで経験していたのに、また引っかかってしまった。何か買うまで返してあたらないということだ。要りもしないシルクのスカーフを1枚買って、這々の体で店から逃げ出したが、皆さんも気をつけましょうね。子供じゃないけど、知らない人について行ったらダメですよ。

P1000182.jpg 

 そんなことを思い出しているうちに、午前6時25分、いよいよ日の出だ。ガンガーの東岸にはまったく人家がなく、死の世界のように映る。そこに生命の象徴のような赤い太陽が昇る。感動的ですらある。最初来た時はもちろんフィルムの時代だったんだけど、昇る太陽の写真だけで36枚撮りを2本も使って、あとから苦笑いだ。来る度に撮る枚数は減って、今じゃデジカメだからなんぼ撮ってもいいのに、今回は7枚だけ。

2008_03022008インド・ネパール0052 2008_03022008インド・ネパール0053
 午前7時、ヒンドゥー教の世界を十分に堪能してホテルに帰る。ガートから大通りに出るまでの道がまた狭い。

2008_03022008インド・ネパール0054 
 時々、牛に出くわす。それにしても、この牛汚い牛だね、痘痕【あばた】だらけだ。なんてこと言ったら、ヒンドゥー教の神さまに怒られちゃう。なんせ牛は最高神シヴァの乗り物だから、神聖で偉いんだ。

shiva2[1] 
 シヴァ神は破壊の神であると同時に創造の神でもあって、インドで一番崇拝されている神だ。ちなみに頭から噴水みたいなものが出てるけど、これがガンガー。ガンガーはもともと天上を流れていた川。ブラフマー神にお願いして地上にも流してもらうことにしたんだけど、そのままじゃガンガーの落下の衝撃に地上世界が堪えられないんで、シヴァ神がいったん頭で受け止めて髪を伝って地上に流れてるんだって。シヴァ神の横にいるのがナンディという牛の神さま。だからインド人は牛を虐めたり、殺したり、もちろん食べたりしない。牛にとってインドは天国みたいなところなんで、インドには水牛と合わせると2億8000万頭もいるそうだ。だから、町中どこにでも牛がいる。牛は当然ウンチを垂れる。狭い道にウンチがいっぱい落ちている。だから下を見て歩かないと、牛の糞を踏んでしまう。でも下ばっかり見て歩いていると、牛にぶつかってしまう。

 ガンジス3

 時々、お乞食さんにも出会う。奥さん乞食に捕まっちゃった。こんな時は毅然とした態度で断る。でも、今回はハンセン病の乞食には出会わなかったな~。狭い道で手の指が欠けてしまったハンセン病の人に、ニュウッと手を出されると、感染することはないし、差別してはいけないと分かっていても、背筋に冷たいものが走って、自己嫌悪に陥ってしまう。会わなくて良かった。

ガンジス4 
 狭い道をやっと抜けて、サイクルリキシャでバスに。リキシャは日本の人力車からきてるけど、最近人力のものは減っている。
  コスミック
乗るはずだったコスミック航空の機材

 午後2時45分、ベナレス発のコスミック航空(F5)でネパールのカトマンズに飛ぶ予定だった。ところが、4日前に奥村君に機体整備のために運行を取り消したとの連絡が入ったそうだ。慌てた奥村君、急遽、同じ区間を就航するインディアン航空(IC)に予約したんだけど、もう予約がいっぱいの状況。やっと今朝になって我々16人の席が確保できたそうだ。そんな訳で、午前中に空港に行って、空港内のレストランで昼食を済ませた。

 空港内はヨーロッパ人でごった返している。この連中はコスミック航空の2機を使ってカトマンズに飛ぶんだと。これでコスミック航空が定期便を取り消した理由が判明した。奥村君が予約した後にヨーロッパ人の団体の予約が入ったけど、機体が足りない。そこで定期便を取り消しにして、予定より2時間早い臨時便を2機飛ばして、ヨーロッパ人を優先して儲けようとしたんだ。この野郎、同じアジア人のくせして、ヨーロッパに媚び売るんかい。

 泣き面に蜂とは言うが、今度はインディアン航空が16人のうち5人の予約が確認出来ないと言い出した。インドではダブルブッキングは発中後【しょっちゅう】あり、僕も何回か経験している。これが列車だったら、どっちかが立っていれば済むけど、飛行機はそうはいかない。インディアン航空が「修理中の席が4席あるので、到着後にパイロットと相談して飛んでもらう」と言うので、奥村君だけ車で夜通し走ってカトマンズで合流することにして、飛行機が到着するのを待った。ところが、結局1席は壊れていて乗れないという。これじゃ2人が乗れない。奥村君に加え、団長さんか僕が車で追っかけるという手もあったが、急遽全員車でクシナガラまで行くこととなった。それにしてもインディアン航空もいい加減だ。16席確保できないんだったら、最初からそう言えよな。

P1000190.jpg 
 午後2時30分、トヨタ「イノーバ」4台に分乗してクシナガラに向かう。最初の予定ではベナレス→カトマンズ→ポカラとなっていたが、クシナガラで一泊して車で国境を越え、バイラワ空港からポカラ→カトマンズという逆コースととることになった。クシナガラは釈尊の涅槃の地。今回の旅で行く予定にはなっていなかった。きっと釈尊がインドまで来とって、なんでクシナガラに来んのじゃい、と罰をお当てになったのかも知れんな。ベナレス~クシナガラは270キロ。イノーバはひた走る。いつもバスで移動してるから、高い位置から街を眺めてるけど、乗用車だと低い位置になるので目線が変わってなかなかいいや。これも怪我の功名。ものごとは何でもいい方に考える。そうすると、さっきの7個の怒りマークも消えるというもんだ。

P1000191.jpg 

 3時間あまり走って、午後5時50分、ドーリーガートという町に到着。チャイタイムとトイレ休憩をとったが、ここでも結婚式があるみたいだ。花嫁さんの姿を見てみたいが、そんな時間はない。すぐに出発して、クシナガラを目指す。そのうち暗くなって来た。日本みたいに田舎の道も煌煌と街路灯が輝いているという国ではないから、真っ暗け。そこを4台のイノーバがひた走る。ゴン。「おい今の音とショックはなんだ?」「どうも犬をはねたみたいだぞ。」「降りて見なくてもいいんかい。」運転手は知らん顔で走り続ける。なんせ、はねた人間がシュードラだったら警察にも届け出しないという噂のある国だから、犬なんて石ころと一緒なんだろう。おお、恐。

 午後9時45分、ようやくクシナガラのロイヤル・レジデンシー・ホテルに到着。ほとんど休憩を取らずに7時間ぶっ飛ばして、疲れ果てました。おやすみなさ~い。(つづく)

【 2014/03/03 14:34 】

インド・ネパール  | コメント(0)  | トラックバック(0)  |
 | ホーム |  次ページ ≫