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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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法華経方便品第2 私にとって声聞は存在しない

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仏立像(インド・マトゥラー博物館蔵)

 その時、世尊に次の思いが生じた。『私は最上の法を語る時が来た。私は、そのため
 にこの世に生まれてきたのだ。その最上の覚りを今、私は説き示そう。

 今、この世において現象的な特徴にとらわれて愚かな見解を持ち、心に増上慢ぞうじょうまん
 を抱いた無知なものたちにとって、このことは信じ難いことであろう。けれども、こ
 れらの菩薩たちは私の説法を確かに聞くであろう』

 またその時、私は、すべての臆病な心を捨て去って畏れる心がなく、歓喜して、人格
 を完成された人の息子(菩薩)たちの中で法を説き、まさにそれらの菩薩たちを覚り
 の達成へと教化するのである。
 
 このようなブッダの息子たちを目の当たりにして、あなた(舎利弗の)疑念もまた取
 り除かれたであろう。そして、汚れのないこれらの1200人の阿羅漢たちは、すべて世
 間においてブッダとなるであろう。

 あたかも、それらの過去の保護者たちや、未来の勝利者たちにとって、ものごとの本
 性がそうであるように、まさにそのようにブッダである私にとってもまた、ものごと
 の本性は、二者択一という誤った考えを離れているのである。私は今、あなたにそれ
 を説き示すことにしよう。

 いつか、どこかで、かろうじて、牡牛のように勝れた人たちの世間への出現がある。
 しかしながら、無限の視力を持つもの(であるブッダ)が世間に出現されても、いつ
 かある時、このような法が説かれるだけなのである。

 このような最上の法は量り知れないほど長い時間のうちにも極めて得難いであろう。
 また最上の法を聞いてその法を信ずるこのような衆生は、極めて得難いであろう。

 あたかも、得難い
優曇華うどんげの花が、いつか、どこかで、かろうじて現われるように。そ
 の優曇華の花は、人間にとって心にかなった美しい姿を持つものであり、神々に伴わ
 れた世間の人々にとって希有なものであろう。

 けれども、この法が雄弁に語られたのを聞いて、歓喜し、讃嘆の言葉を一言でも語る
 ならば、その人は、一切のブッダに供養をなしたことになでるあろう。それは、この
 優曇華の花のことよりもさらに希有であると私は言うのだ。

 あなたは、ここにおいて疑念と疑惑を取り除くがよい。法の王である私は告げる。
 『私は最高の覚りに向けて教化するのであり、私にとって、この世に声聞と言われる 

 人は誰一人として存在しないのだ。〔なぜなら、彼らも菩薩であるからだ〕』と。
 
IMG_0001_NEW_0001_convert_20140619151440.jpg
舎利弗(中村晋也作『薬師寺・釈迦十大弟子』)

 舎利弗よ、このことはあなたにとって秘要の教えであるべきである。また、私に属す
 るこれらのすべての声聞たちも、また最も重要な人たちであるこれらの菩薩たちも、
 私のこの秘要の教えを受持するべきである。

 理由は何か〔時代、衆生、煩悩、見解、寿命に関して〕5種類に汚濁した時代には、
 衆生は卑しく堕落していてこの世において愛欲によって盲目となり、愚かな考えを
 持っていて、それらの衆生には覚りを求める心は全くないからである。

 そして、『私の乗り物は、ただこれ一つである』と、その勝利者が説かれても、それ
 を聞いて未来の世における衆生は当惑しこの経を
誹謗ひぼうして地獄に落ちるであろう。

 その一方で、
慚愧ざんきの念を持ち、清らかで、最も勝れた最高の覚りを求めて出て立った
 衆生のために私は、畏れなきものとなって、一つの乗り物について限りのない讃嘆を
 説くのだ。

 指導者たちの教えはこのようであり、これが最も勝れた巧みなる方便である。まさに
 これは、多くの深い意味が込められた言葉によって語られていて、習学の未熟なるも
 のには、理解し難いのである。

 だからこそ、世間の人々の教師であり、保護者であるブッダたちの深い意味が込めら
 れた言葉を知って、疑惑を捨て、疑念を取り除くならば、あなたがたは、ブッダとな
 るであろう。だから、あなたがたは歓喜を生じなさい」

 以上が、聖なる「白蓮華のように最も勝れた正しい教え」という法門の中の「巧みなる方便の章」という名前の第2章である。

 (方便品第2おわり)

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【 2022/04/29 05:22 】

第2章 巧みなる方便(方便品第2)  | コメント(0)  | トラックバック(0)  |

法華経方便品第2 成道後の初転法輪の回想

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菩提樹(インド・ブダガヤ)

 その私は、その菩提樹の下の覚りの座において覚って後、まるまる三七日さんしちにち、すなわ
 ち21日の間、そこに坐っていたそこにおいてまさにその菩提樹の木を仰ぎ見なが
 ら、実にこのようなこの道理について熟慮したのである。

 私は、その樹木の王である菩提樹を瞬きもせず仰ぎ見て、私は、その菩提樹の下で瞑
 想をしてはそぞろ歩きするのだ。『これは、卓越した希有なる知である。しかしなが
 ら、これらの衆生は迷いによって盲目であり、無知である』と。
 
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梵天勧請(1世紀、ガンダーラ出土)

 その時、ブラフマー神梵天ぼんてん)が、私に懇願する。また、シャラク神帝釈天たいしゃくてん
 と四天王自在天大自在天、さらに多くの風を司るマルット神の群れが、

 すべて合掌して、尊敬を持って立ち、私が説法すること懇願した。そこで、私はその
 意義を考える『私はどうしようか?私は覚りについての諸々の称賛の言葉を語るが、
 これらの衆生は諸々の苦によって征服されている。

 それらの愚かなものたちは、私の説いた法に対してののしりの言葉を発する。罵りの言
 葉を発して後に、悪しき境遇に陥るであろう。従って私にとっては、決して何も言
 わないほうがいいのだ。まさに今、私は安らかに滅度に入るべきである』と。

 しかしながら、過去のブッダたちを思い浮かべつつ、『それらのブッダたちの示され
 た巧みなる方便のように、今、私もまたこのブッダの覚りを3つの種類に分類して説
 いてから、ここに示すことにしよう』と。

 この法について私は次のように考えた。すると、十方におられる他のブッダたちは、
 その自分の身体を私の前に現わし『素晴らしいことです』という声を発せられた。

 『世間の指導者の先端にいる高貴なる賢者よ、あなたは、この世においてこの上な
 い知に達して、世間の指導者たちの巧みなる方便について熟慮しつつ習学しておら
 れる。

 私たちもまた最高の位を覚ったその時、教えとしての乗り物を3つの種類に分類し
 て、〈あなたたちは、ブッダになるであろう〉と説くのだ。実に心の卑しい傾向を
 持つ無知な人間たちは、それを信じようとしないのである。

 それ故に私たちは、その原因を把握することによって巧みなる方便を用いつつ、そ
 れらの無知な人間たちが、ブッダになるという結果を願うようになることを広く称
 讃しながら、多くの菩薩たちを教化するのである』と。

 また私(世尊)は、その時、牡牛のように勝れた人たちの快い声を聞いて、心が高
 揚していて、それらの保護者たちに言った。『最も勝れた説法者である偉大なる聖
 仙たちよ、私はあなたがたにもちろん敬礼いたします。

 賢明な世間の指導者たちが語られるように、そのように私もまた実行するでありま
 しょう。私もまた、この恐ろしい激動の時代のただ中で、衆生の汚辱の真っただ中
 に生まれてきたからです』

 
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初転法輪像(インド・サールナート)

 まさにそれ故に、舎利弗よ、私はその時、そのことを知って、ヴァーラナーシーへと
 出て立ったのだ。その近郊の鹿の園(鹿野苑ろくやおん)において私は、5人の男性出家者たち
 に対して、ものごとが煩悩の火の消滅した安らぎの境地にあることを方便によって説
 いたのである。

 
そこにおいて、私の真理の車輪は転じられた。そして、ニルヴァーナ(涅槃ねはん)という
 言葉が世間にあることとなった。同様にアルハット(阿羅漢あらかん)という言葉、ダルマ(
 法)という言葉、そしてサンガ(
僧伽そうぎゃ)という言葉も世間に存在することになっ
 たのである。

 私は、長い歳月の間、教えを説き、また安らぎの境地を説き示した。そして私は常に、
 『これが、生存領域を循環する輪廻に伴う苦しみの終わりなのだ』と、このように告
 げるのである。

 
 また舎利弗よ、私はその時、両足で歩くもののうちで最上の人たちの、数え切れない
 ほど多くの息子(菩薩)たちが最高で最上の覚りへ向けて出て立ったのを見るのだ。

 そして、勝利者たちの法を巧みなる方便によってかつて多種多様に聞いた人たちは、
 すべてまさに私のそばに近づいてから、敬意を持って合掌して立った。(つづく)


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【 2022/04/26 05:20 】

第2章 巧みなる方便(方便品第2)  | コメント(0)  | トラックバック(0)  |

法華経方便品第2 種々の方便によって衆生を喜ばせる

 ダウンロード (4)
シャンティ・ストゥーパ(インド・ラダック)

 また、その世間においてそれらのブッダたちの面前で法を聞くか、聞き終えた衆生
 や、さらに布施をなし、戒を実行し、忍耐によってあらゆる修行を完成し、

 努力精進と禅定において奮励し、あるいはこれらの法を智慧によって熟慮し、種々
 の善行をなす人たちは、すべて覚りの獲得者となった。

 また、それらの勝利者たちが完全なる滅度に入った後で、誰であれ、それらの勝利
 者たちの教えに携わり、その教えのもとで堪え忍び、教導される衆生のすべては、
 覚りの獲得者となった。

 また、それらの勝利者たちが完全なる滅度に入られた後で、誰であれ、それらの勝
 利者たちの遺骨への供養をなし、宝石からなる何千もの多くのストゥーパを造る人
 たち、さらには金や銀、また水晶のストゥーパ

 また、瑪瑙 めのうのストゥーパ、そして猫目石や真珠からなるストゥーパ、同様に最も美
 しい瑠璃 るりのストゥーパ、サファイアのストゥーパを造る人たちもまた、すべて覚り
 の獲得者となった。

 誰であれ、岩の中にストゥーパを造る人たち、栴檀 せんだん沈水香 じんすいこうのストゥーパを造る人
 たち、松の木のストゥーパを造る人たち、また、誰であれ、木材の組み合わせから
 なるストゥーパを造る人たち

 煉瓦で造られた、あるいは泥土を積み重ねた勝利者たちのストゥーパを喜んで造り
 またストゥーパを目的として砂を集めて塔となし、荒野や険難の所に造らせる大人
 たち
 あるいはまた、誰であれ、砂礫 されきを集めて塔となし、勝利者のストゥーパになぞらえ
 て、あちこちで遊んでいる子供たちーそれらの大人や子供たちは、すべて覚りの獲
 得者となった。

ダウンロード
ガンダーラ仏(東京国立博物館蔵)

 まさにそのように、誰かある人たちに仏像を意図して32種類の身体的特徴を具えた宝
 石造りの像を造らせた人たちもまた、すべて覚りの獲得者となった。

 そこにおいて、誰であれ、七宝、あるいは銅や、真鍮しんちゅうからなる人格を完成された人
 の像を造らせた人たちは、すべて覚りの獲得者となった。
 
 誰であれ、鉛や、鉄、あるいは泥土によって、あるいは漆喰しっくいを塗り固めて、人格を完
 成された人たちの見るも美しい像を造らせた人たちはすべて覚りの獲得者となった。

 壁画において幾百もの徳のある相を具え完全円満なる身体を持った像を造る人たち、
 また自ら進んで描いたり、あるいは人に描かせたりする人たちは、すべて覚りの獲得
 者となった。
 
 そこにおいて、誰であれ、学びながら、また遊びの喜びを楽しみながら爪や木切れで
 壁にブッダの像を造った大人や、子供たち、

 それらの大人や子供たちもまた、すべて慈悲の心を持つものとなり、それらすべてが
 数え切れないほど多くの生命あるものたちを救った。それらの人たちは、すべて多く
 の菩薩たちを教化しつつ、覚りの獲得者となったのである。
 
 また、ブッダたちの遺骨や、ストゥーパに、あるいは泥土で造られた像、またブッダ
 の像が描かれている壁、土砂で造られたストゥーパに花や香りを供えた人たち、

 また、その時そのストゥーパのところで、妙なる響きを持つベーリーという小鼓や、
 螺貝、パタハという小鼓といった楽器を演奏した人たち、また最も勝れた最高の覚り
 への供養を実施するために太鼓を鳴り響かせた人たち、
ダウンロード (6)
ヴィーナー(琵琶)

 また、心地よく鳴り響くヴィーナーやシンバル、パナヴァという太鼓、ムリカンダと
 いう小鼓、ヴァンシャという笛、あるいは極めて優美なエーコーツァヴァンシャーと
 いう楽器を演奏した人たちは、すべて覚りの獲得者となった。

 鉄の鈴や、水、あるいはたなごころを太鼓のように打ち鳴らし、人格を完成された人たち
 の供養のために、甘く魅力的な歌を歌う人たち

 それらの人たちは、人格を完成された人たちの遺骨に対してどんなにわずかであれ、
 ただ一つの楽器でさえをも演奏して、その遺骨への多くの種類の供養をなしてから、
 この世間においてすべてブッダとなった。

 また、人格を完成された人たちを壁に描いた像を、ただ一つの花によって供養したと
 しても、また、心が悩乱している人たちが供養したとしても、それらの人たちは多く
 のブッダたちに続けてお会いするであろう。

 そのストゥーパに対して両手で完全な合掌をなすか、あるいは片手で手刀を切るよう
 にして挨拶をなすか、あるいは頭をわずかの時間でも下げ、ただ一度でも身体を屈め
 る人たち、

 その時、悩乱した心であっても、遺骨を安置したそれらのストゥーパに対して『ブッ
 ダに敬礼きょうらいいたします』と一度でも言う人たちは、すべて直ちにこの最高の覚りに達
 した。

ダウンロード
礼拝する人々

 その時、その時代に、それらの人格を完成された人たちが、すでに完全なる滅度に入
 られた後にせよ、あるいはまだ世間に存在しておられる時にせよ、それらの人格を完
 成された人たちの法の名前だけでも聞いた衆生は、すべて覚りの獲得者となった。

 考えることもできないない多くの未来のブッダたちは、その数を量ることもできない
 が、それらの勝利者で最上の世間の保護者たちもまたこの方便を説かれるであろう。

 それらの世間の指導者たちには、無限の巧みなる方便が具わっている。その方便によ
 って、それらのブッダたちは、この世において数え切れないほど多くの生命あるもの
 たちを汚れのないブッダの知へと導かれるであろう。

 それらのブッダたちの法を聞いて、一人の衆生でさえもブッダにならないということ
 は、いかなる時にも決してないのだ『私は、まず自分で覚りの獲得のために修行し、
 次いで他の人たちにも覚りの獲得のために修行させるのだ』。これこそが、ブッダた
 ちの誓願である。

 未来の世において、ブッダたちは多くの法への入口を説き示されるであろうが、この
 一つの乗り物を説き明かしつつ、まさに法について語られるであろう。

 十方におられる多くのブッダたちは、最高の境地を覚っておられ、巧みなる方便を説
 き、多種多様な乗り物を示して、ただ一つの乗り物を説き明かされるのである。

 そして、勝利者の王の中の指導者である私もまた今、衆生に幸福を得させるためにこ
 の世に生まれて、このブッダの覚りを、数え切れないほど多くの教化方法を遂行する
 ことによって説き示すのである。

 私は、生命あるものたちの信順の志や傾向を知ってから、多くの種類の法を説き、種
 々の方便によって生命あるものたちを喜ばせるのだ。これが、私の独自の知の力であ
 る。

ダウンロード
六道輪廻図(チベット)

 智慧と福徳を欠き、6種の生存領域の循環(六道輪廻ろくどうりんね)に落ち込み、険難の所に閉
 じ込められ、さらには苦しみの連続に陥った心の貧しい衆生を私もまた見る。
 
 それらの心の貧困な衆生は、あたかもヤクが尻尾に対して執着しているように、欲望
 に対して執着していて、この世において、あらゆる時に愛欲によって盲目となり、偉
 大なる遺徳を持つブッダを求めることもなく、苦しみの終わりに達するための教えを
 模索することもないのだ。

 それらの心の貧困な衆生は、6種の生存領域に心が閉じ込められており、誤った考え
 方の中にあって動じることなく、苦によって苦を追い求めている。けれども、それら
 の心の貧困な衆生に対する私の同情は力強いものである。(つづく)

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【 2022/04/22 05:18 】

第2章 巧みなる方便(方便品第2)  | コメント(0)  | トラックバック(0)  |

法華経方便品第2 三乗の方便によって一乗を明かす

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舎利弗(中村晋也作『薬師寺・釈迦十大弟子』)

 舎利弗よ、私もまた今、正しく完全に覚った尊敬されるべきブッダであって、多くの人々の安寧のために、多くの人々の幸福のために、世間の人々に対する憐みのために、神々と人間といった衆生の大集団の利益と安寧、幸福のために出現したのだ。

 また私は、種々の信順の傾向を持ち、種々の素質と考えを持った衆生の意向を理解して、種々の教化方法を遂行することによって法を説くのだ。舎利弗よ、私もまた、衆生にただ一つの乗り物、すなわち一切知者の智慧を終着点とするブッダに到る乗り物について法を説くのだ。言い換えれば、まさにブッダの知見によって衆生を教化することであって、衆生にブッダの知見を開示し、ブッダの知見に入らせ、ブッダの知見を覚らせ、ブッダの知見の道に入らせる法を私は衆生に説くのだ。

 舎利弗よ、今、私のこの法を聞くこれらの衆生もまた、すべてがこの上ない正しく完全な覚りの獲得者となるであろう。

 舎利弗よ、それは、次のように知られるべきである。

 『十方の世界のどこにおいても、第二の乗り物を設定することはなく、第三の乗り物についてはなおさらのことであ。る』と。

 ところで、実に、舎利弗よ、ブッダたちが時代の濁りの中で出現し、あるいは衆生の濁りの中で、あるいは煩悩の濁りの中で、あるいは見解の濁りの中で、あるいは寿命の濁りの中で出現する時、このような時代の混乱という濁りの中では、多くの衆生が貪欲であり、善い果報をもたらす立派な行ないが乏しいので、舎利弗よ、ブッダたちは巧みなる方便である3つの乗り物を教示することによって、ただ一つのブッダに到る乗り物(一乗)を説かれるのである。

ダウンロード (2)

 その場合に、舎利弗よ、ブッダに到る乗り物について教化するブッダのこの行為について聞くこともなく、達することもなく、理解することもない声聞、あるいは阿羅漢、あるいは独覚たちは、ブッダに属する声聞でも、阿羅漢でも、独覚でもないと知られるべきである。

 ところで、舎利弗よ、男性出家者であれ、女性出家者であれ、阿羅漢の位であると自認し、この上ない正しく完全な覚りへ向けての誓願を抱くことなく、『私はブッダに到る乗り物から捨てられている』と言うならば、また『私の身体の最終的な涅槃は、これ程のものである』と言うならば、あなたはその人を高慢なものと知るがよい。

 舎利弗よ、あなたたちは、これらのブッダの法を信じ、私を信じ、信頼すべきである。実に舎利弗よ、ブッダたちに妄語 もうごは存在しないのである、舎利弗よ、乗り物はこの一つだけ、すなわちブッダに到る乗り物だけなのだ」

ダウンロード (10)

 そこで、世尊はその時、まさにこの意味を重ねて示しつつ、次の詩を述べられた。 

 「その時、慢心にとらわれ、信のない男女の出家者・男女の在家信者たちは、5000人
 を下らなかった。

 穴のあいた学問を身に着けた愚かな知性のものたちは、その欠陥を自覚することな
 く、欠点を保持したまま退出した。

 それらの愚かなものたちを集会の中のかすであると知って、世間の保護者である私は、
 その5000人の退出を黙認した。その人たちがこの法を聞くとしても、その人たちに
 有益なことはないからだ。
 
 私の集会は、清められ、不要な籾殻 もみがらがなくなり、確実なものとなった。価値のないも
 のが、すべていなくなって、この集会は最良のものとなった。

 舎利弗よ、最上の人たちが、この法を完全に覚られたということ、また、指導者であ
 るブッダたちが、幾百もの種々の巧みなる方便によって説法されるということを、私
 から聞くがよい。

 それらのブッダたちは、この世で種々の信順の志を持ち数え切れないほど多くの生命
 あるものたちの考えや、行ないがどのようであるかを知り、またそれらの人々の種々
 の行ないや、それらの人々が過去においてなした善い行ないを知って、説法するので
 ある。
 
 私もまた、種々の語源的説明や、理由の説明によって、それらの生命あるものたちに
 この法を得させるのであり、因縁や幾百もの譬喩によって私はそれぞれに応じてあら
 ゆる衆生を満足させるのである。

 数え切れないほど多くのブッダたちのもとにおいて、劣ったものを喜び、無知で、修
 行もせず、生存領域を循環する輪廻に執着し、非常に苦しんでいる人たちに私は安ら
 ぎを説くのだ。

 独立自存するものは、ブッダの知を覚醒させることを目的として、巧みなる方便をな
 すのであり、私はそれらの人たちに、『あなたたちも、この世間においてブッダとな
 るであろう』とは、いかなる時にも決して言わないのだ。
 
 理由は何か?保護者は、時を観察して、また機会を観てから、その後に法を説かれる
 からである。今、まさにその機会がようやく得られた。それ故に、私は今、決意を定
 めて法を説くのである、

 9つの部分からなる私のこの教えは、衆生に能力があるか、能力がないかということ
 に応じて説かれたのであり、願いを叶えるもの(=ブッダ)の知に衆生を入らせるた
 めに、私はこの方便を説いたのである。

 私には、数え切れないほど多くのブッダたちのもとで努力をなしたブッダの息子(菩
 薩)たちがここにいる。私は、それらの常に清らかで、明晰で、高潔で、大変に満足
 したブッダの息子たちに諸々の広大な経を説くのである。

 こうして、それらの菩薩たちは、意向を達成するためにも、清められた身体となるた
 めにも、準備が調ったものとなった。私は、それらの菩薩たちに『あなたたちは、未
 来の世において人々の安寧のために慈愛を有するブッダとなるであろう』と告げるの
 だ。

ダウンロード (3)
 
 するとそれを聞いて、それらの菩薩たちのすべては、『私たちはすべて、あらゆる生
 き物の中で最高の人であるブッダとなるでありましょう』と言って、喜びに満ちあふ
 れるであろう。さらに私は、それらの菩薩たちの行ないを知って諸々の広大な経を説
 き示すのである。

 また、この最も勝れた教えを聞き、ただ一つの詩でさえも聞いたり、あるいは受持し
 たりする人たちこそが、世間の指導者の弟子たちであり、それらのすべての弟子たち
 にとって覚りについての疑いは存在しないのである、

 乗り物はただ一つであり、第二のものは存在しない。実に第三のものも世間にはいつ
 いかなる時にも決して存在しない。乗り物が種々に異なっていることを説く人間の中
 の最高の人たちの方便を除いては

 世間の保護者は、ブッダの知を顕示するために世間に出現されるのだ。なすべきこと
 は、ただ一つであって、第二のものは存在しない。ブッダたちが、貧弱な乗り物によ
 って衆生を導かれることはないのである。

 私には、もの惜しみはどこにも存在しない。私には、ねたみも存在しない。また、欲望
 と貪愛 とんあいも存在しない。私にとって、あらゆるものごとは悪が断ち切られている。それ
 故に、世間について覚知していることで、私は目覚めた人、すなわちブッダであるの
 だ。

 私が、このように3つの乗り物を説くということは、私の巧みなる方便である。しか
 し、乗り物はただ一つであり、真実もまたただ一つであって、指導者たちのこの教え
 もまたただ一つなのだ。
 
 過去の世の量り知れないほどの時間に出現されたブッダたちは、譬喩と、因縁、そし
 て幾百もの多くの巧みなる方便によって、多くの浄らかな法を説かれた。
 
 それらのブッダたちは、すべて一つの乗り物を説いたのであり、考えることもできな
 いほど多くの生命あるものたちを一つの乗り物に到らしめ、一つの乗り物の中におい
 て成熟させるのだ。
 
 勝利者たちには、そのほか種々の方便があり、ブッダたちは衆生の信順の志や、考え
 方を如実に知ってから、それらの方便によって神々に伴われた世間において私のこの
 最高の法を示すのである。(つづく)

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【 2022/04/19 05:16 】

第2章 巧みなる方便(方便品第2)  | コメント(0)  | トラックバック(0)  |

法華経方便品第2 ブッダが出現する理由と目的を明かす

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舎利弗(中村晋也作『薬師寺・釈迦十大弟子』)

 そこで、ブッダ釈尊は、舎利弗におっしゃられた。

 「舎利弗よ、私の集会は、価値のないものが立ち去って籾殻 もみがらがなく、浄信の真髄に立った。舎利弗よ、これらの増上慢 ぞうじょうまんのものたちがここから退出したことはよいことである。従って、舎利弗よ、私はこの意味を説くことにしよう。

 世尊よ、素晴らしいことです」と言うと、舎利弗世尊に耳を傾けた。

 世尊は、次のようにおっしゃられた。

 「舎利弗よ、ブッダはいつかある時、このように法の教授を告げるのである。舎利弗よ、あたかも(3000年に1度しか咲かないとされる)優曇華 うどんげがいつかある時、出現するように、まさにこのようにブッダもまたいつかある時、このように法の教授を告げるのである。

 舎利弗よ、あなたたちは私を信じなさい。私は真実を説くものであり、私はあるがままに説くものであり、私は虚妄 こもうなく説くものである。舎利弗よ、ブッダの深い意味が込められた言葉は理解し難いのである。それは、どんな理由によってか?
 舎利弗よ、私は、種々の語源的説明、教示、言説、譬喩 ひゆといった、いろいろな幾百・千もの巧みなる方便によって法を説き明かしたのだ。舎利弗よ、正しい教えは思議を超えたものであり、思議を超えた領域にあって、ブッダによってのみ知られるべきものである。それは、どんな理由によってか?


 舎利弗よ、ブッダは、ただ一つの仕事のために、ただ一つのなすべきことのために、大きな仕事のために、大きななすべきことのために、世間に出現するのである。
 それでは、舎利弗よ、ブッダが、世間に出現して遂行するべきブッダのただ一つの仕事、ただ一つのなすべきこと、大きな仕事、大きななすべきこととは、何であるか?

 すなわち、ブッダは、衆生をブッダの知見によって教化すること、すなわち衆生にブッダの知見を開示し、衆生をブッダの知見に入らせ、衆生にブッダの知見を覚らせ、衆生をブッダの知見のどうに入らせるという理由と目的で世間に現われるのだ。

 舎利弗よ、私はただ一つの乗り物(一乗)、すなわちブッダに到る乗り物について衆生に法を説くのだ。舎利弗よ、そのほかに何か第二、あるいは第三の乗り物が存在するのではない。舎利弗よ、十方の世界におけるすべてのブッダの場合に、法を法たらしめる根本の理法はこれなのである。それは、どんな理由によってか?

ダウンロード (3)

 舎利弗よ、過去の世において十方の無量の数え切れない世界にいたブッダたちも、多くの人々の安寧 あんねいのために、多くの人々の幸福のために、世間の人々に対するあわれみのために、神々と人間といった衆生の大集団の利益と安寧、幸福のために出現したのだ。
 
 ブッダたちは、種々の信順の傾向を持ち、種々の素質と考えを持った衆生の意向を理解して、種々の教化方法を遂行することによる教説、ずなわち多種多様な因縁、譬喩、拠り所、語源的説明などの巧みなる方便によって法を説いた、そのブッダたちのすべてもまた、舎利弗よ、衆生にただ一つの乗り物、すなわち、一切知者の智慧を終着点とするブッダに到る乗り物について法を説いたのである。言い換えれば、まさにブッダの知見によって衆生を教化することであって、衆生にブッダの知見を開示し、ブッダの知見に入らせ、ブッダの知見を覚らせ、ブッダの知見の道に入らせる法を衆生に説いたのである。

 舎利弗よ、それらの過去のブッダたちのそばで、その正しい法を聞いた衆生もまたすべてが、この上ない正しく完全な覚りの獲得者となった。

 舎利弗よ、未来の世において十方の無量の数え切れない世界にいるブッダたちも多くの人々の安寧のために、多くの人々の幸福のために、世間の人々に対する憐みのために、神々と人間といった衆生の大集団の利益と安寧、幸福のために出現する。


 舎利弗よ、
それらの未来のブッダたちのそばで、衆生がその正しい法を聞くならば、それらの衆生もまたすべてが、この上ない正しく完全な覚りの獲得者となるであろう。

 舎利弗よ、今、現在の世において十方の無量の数え切れない世界に滞在し、存在し、時を過ごしているブッダたちもまた、多くの人々の安寧のために、多くの人々の幸福のために、世間の人々に対する憐みのために、神々と人間といった衆生の大集団の利益と安寧、幸福のために法を説いているのだ。

 舎利弗よ、それらの現在のブッダたちのそばで、その法を聞いているそれらの衆生もまた、すべてがこの上なく正しい完全な覚りの獲得者となるであろう。(つづく)

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【 2022/04/15 05:21 】

第2章 巧みなる方便(方便品第2)  | コメント(0)  | トラックバック(0)  |
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