なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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さらに、アジタよ、良家の息子であれ、良家の娘であれ、もしも誰かある人が、他の男に次のように言うとしよう。『おお、友よ、あなたは来るがよい。そして、「白蓮華のように最も勝れた正しい教え」という名前の法門を聞くがよい』と。そのように言われたその男が、その人の勧めに従って、瞬時の間でもこの法門を聞くならば、その法門を聞くことを勧めたその人は、その勧めた行為によって形成された〔善い果報をもたらす〕善根によって、ダーラニーを獲得している菩薩たちと出会うことを得るであろう。
その人は、愚鈍でなく、明敏な能力(利根 )を持ち、智慧を具えていて、その人は、幾100・1000もの生存のうちにも、悪臭を発する口を持つことなく、悪臭を発することもない。その人には、舌の病もなく、口の病も存在しない。その人は、黒ずんだ歯、不揃 いの歯、黄ばんだ歯、形の悪い歯、隙間のある歯、抜け落ちた歯、湾曲した歯を持つことがない。垂れ下がった唇、内側にめり込んだ唇、分厚い唇、裂けた唇、黒い唇、歪んだ唇、黒い唇、醜い唇を持つこともない。その人は、扁平になった鼻、湾曲した鼻を持つこともない。その人は、長い顔、歪んだ顔、黒い顔、醜い顔を持つこともないのだ。
しかるに、アジタよ、その人は繊細で美しい舌や、歯、唇を持ち、高い鼻を持ち、全体的に卓越した顔を持ち、美しい眉 を持ち、大変に広い額 を持っている。また、その人は、完全に満たされた人の特徴を具えているのだ。そして、教化し指導してくれるブッダに会うことを得て、速やかに世尊であるブッダたちと出会うことを得るであろう。
アジタよ、見るがよい。一人の衆生にこの法門を勧めただけでさえも、これほど多くの福徳を生み出すのである。ましてや、恭敬して聞き、恭敬して読誦 し、恭敬 して説き示し、恭敬して説き明かす人については言うまでもないことである」と。
その時、世尊は次の詩を述べられた。
「この法門を順次に連続して語り継いで、その50番目の人が、この経のうちのただ一
つの詩でさえも聞いて、喜んで受け容れ、清らかな心を生ずるならば、その福徳がい
かに大きいものであるかを聞くがよい。
ある人が、幾コーティ・ナユタもの衆生に常に布施をなす人であり、既に私が譬喩で
示した人たちのすべてを80年の間、満足させるとしよう。
それらの人たちに老齢が近づいていることや、皺 があり、足がよろつき、頭が白くな
ったのを見て、その布施をなす人は『ああ、何とまた、あらゆる衆生は実に欺 かれて
いるのだ。だから、私は直ちに、法によって教示しよう』と考えるであろう。
その布施する人は、今、それらの人たちに法を説いて、その後に安らぎの境地を説き
明かすであろう。『あらゆる存在は、水の泡や。陽炎 のようなものである。速やかに
あらゆる存在を厭 うべできである』と。
それらのすべての衆生は、まさにその布施をなす人のもとで、法を聞いて、同時に汚
れを滅し、阿羅漢となり、〔輪廻における〕最後の身体を持つものとなるであろう。
中断なく連続して語り継がれたこの法門のうちの一つの詩を聞き、喜んで受け容れる
としよう。実にその人は、その布施をなす人よりもずっと多くの福徳があるであろう。
先の布施をなす人の福徳の集まりがどれほど多くても、その50番目の人の福徳のわず
かな部分にも及ぶことはないである。
その人は、愚鈍でなく、明敏な能力(利根 )を持ち、智慧を具えていて、その人は、幾100・1000もの生存のうちにも、悪臭を発する口を持つことなく、悪臭を発することもない。その人には、舌の病もなく、口の病も存在しない。その人は、黒ずんだ歯、不揃 いの歯、黄ばんだ歯、形の悪い歯、隙間のある歯、抜け落ちた歯、湾曲した歯を持つことがない。垂れ下がった唇、内側にめり込んだ唇、分厚い唇、裂けた唇、黒い唇、歪んだ唇、黒い唇、醜い唇を持つこともない。その人は、扁平になった鼻、湾曲した鼻を持つこともない。その人は、長い顔、歪んだ顔、黒い顔、醜い顔を持つこともないのだ。
しかるに、アジタよ、その人は繊細で美しい舌や、歯、唇を持ち、高い鼻を持ち、全体的に卓越した顔を持ち、美しい眉 を持ち、大変に広い額 を持っている。また、その人は、完全に満たされた人の特徴を具えているのだ。そして、教化し指導してくれるブッダに会うことを得て、速やかに世尊であるブッダたちと出会うことを得るであろう。
アジタよ、見るがよい。一人の衆生にこの法門を勧めただけでさえも、これほど多くの福徳を生み出すのである。ましてや、恭敬して聞き、恭敬して読誦 し、恭敬 して説き示し、恭敬して説き明かす人については言うまでもないことである」と。
その時、世尊は次の詩を述べられた。
「この法門を順次に連続して語り継いで、その50番目の人が、この経のうちのただ一
つの詩でさえも聞いて、喜んで受け容れ、清らかな心を生ずるならば、その福徳がい
かに大きいものであるかを聞くがよい。
ある人が、幾コーティ・ナユタもの衆生に常に布施をなす人であり、既に私が譬喩で
示した人たちのすべてを80年の間、満足させるとしよう。
それらの人たちに老齢が近づいていることや、皺 があり、足がよろつき、頭が白くな
ったのを見て、その布施をなす人は『ああ、何とまた、あらゆる衆生は実に欺 かれて
いるのだ。だから、私は直ちに、法によって教示しよう』と考えるであろう。
その布施する人は、今、それらの人たちに法を説いて、その後に安らぎの境地を説き
明かすであろう。『あらゆる存在は、水の泡や。陽炎 のようなものである。速やかに
あらゆる存在を厭 うべできである』と。
それらのすべての衆生は、まさにその布施をなす人のもとで、法を聞いて、同時に汚
れを滅し、阿羅漢となり、〔輪廻における〕最後の身体を持つものとなるであろう。
中断なく連続して語り継がれたこの法門のうちの一つの詩を聞き、喜んで受け容れる
としよう。実にその人は、その布施をなす人よりもずっと多くの福徳があるであろう。
先の布施をなす人の福徳の集まりがどれほど多くても、その50番目の人の福徳のわず
かな部分にも及ぶことはないである。
中断なく連続して語り継がれた法門の中の一つの詩でさえも聞いて後、その人には、
このように、その量を計ることもできない限りない多くの福徳があるであろう。まし
てや、私の面前で聞く人は、なおさらである。
そこで、また一人の衆生にでさえも、『行って、法を聞くがよい、実にこの経は、幾
コーティ・ナユタもの多くの劫を経ても極めて得難いものである』と語り、勧める人、
その人から、さらにまたこの経を聞くことを勧められたその衆生が、この経を瞬時で
さえも聞くとして、あなたは、この経を聞くことを勧められたその人の行ないの果報
についてもまた聞くがよい。その人には、いついかなる時も決して口の病気はないの
だ。
その人の舌もまた、いかなる時にも決して痛むことはなく、その人の歯は、抜け落ち
ることも、黒くなることも、黄色くなることも、不揃いになることも決してない。醜
い唇を持つことも決してないのだ。
顔は、決して歪んでいたり、やつれていたり、長かったりすることはなく、その人に
は、いかなる時にも決して扁平した顔があることはない、鼻や、同様に額も、歯も、
唇も、顔全体が端正に整っているのだ。
だから、その人は、常に人々に対して好まれる容貌を持つのである。しかも、いつい
かなる時も決して口が悪臭を放つことはなく、その人の口には、この世における青睡
蓮 の芳香のように、常に香りが漂 っているのである。
意志堅固な人が、この「白蓮華のように最も勝れた正しい教え」という経を聞くため
に家から出て、精舎に行くとしよう。そこに行って、その人が瞬時でもこの経を聞く
としよう。その清らかな心を持つ人の果報を聞くがよい。
その人の身体は、大変に輝いていて、その意志堅固な人は、馬の車によって巡歴し、
また、宝石で造られた高大な象の車に乗って、経巡り行くであろう。
その人は、この世において荘厳され、多くの人たちに牽 かれる輿 を得るであろう。法
を聞くために精舎に行くだけでも、その人にはこのように立派な果報が生ずるのであ
る。
その人は、その集会の中に坐って、その人のなした清らかな行ないによって、その人
は、シャクラ神(帝釈天)の座席、ブラフマー神(梵天)の座席、転輪王の座席を獲
得したものとなるであろう」
このように、その量を計ることもできない限りない多くの福徳があるであろう。まし
てや、私の面前で聞く人は、なおさらである。
そこで、また一人の衆生にでさえも、『行って、法を聞くがよい、実にこの経は、幾
コーティ・ナユタもの多くの劫を経ても極めて得難いものである』と語り、勧める人、
その人から、さらにまたこの経を聞くことを勧められたその衆生が、この経を瞬時で
さえも聞くとして、あなたは、この経を聞くことを勧められたその人の行ないの果報
についてもまた聞くがよい。その人には、いついかなる時も決して口の病気はないの
だ。
その人の舌もまた、いかなる時にも決して痛むことはなく、その人の歯は、抜け落ち
ることも、黒くなることも、黄色くなることも、不揃いになることも決してない。醜
い唇を持つことも決してないのだ。
顔は、決して歪んでいたり、やつれていたり、長かったりすることはなく、その人に
は、いかなる時にも決して扁平した顔があることはない、鼻や、同様に額も、歯も、
唇も、顔全体が端正に整っているのだ。
だから、その人は、常に人々に対して好まれる容貌を持つのである。しかも、いつい
かなる時も決して口が悪臭を放つことはなく、その人の口には、この世における青睡
蓮 の芳香のように、常に香りが漂 っているのである。
意志堅固な人が、この「白蓮華のように最も勝れた正しい教え」という経を聞くため
に家から出て、精舎に行くとしよう。そこに行って、その人が瞬時でもこの経を聞く
としよう。その清らかな心を持つ人の果報を聞くがよい。
その人の身体は、大変に輝いていて、その意志堅固な人は、馬の車によって巡歴し、
また、宝石で造られた高大な象の車に乗って、経巡り行くであろう。
その人は、この世において荘厳され、多くの人たちに牽 かれる輿 を得るであろう。法
を聞くために精舎に行くだけでも、その人にはこのように立派な果報が生ずるのであ
る。
その人は、その集会の中に坐って、その人のなした清らかな行ないによって、その人
は、シャクラ神(帝釈天)の座席、ブラフマー神(梵天)の座席、転輪王の座席を獲
得したものとなるであろう」
以上が、聖なる「白蓮華のように最も勝れた正しい教え」という法門の中の「喜んで受け容れることの福徳の表明の章」という名前の第17章である。
(随喜功徳品第18おわり)
(随喜功徳品第18おわり)
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その時、まさに誰かある人が現われて、衆生の福徳を願い、また衆生の幸福を願って、その多数の衆生が願い求めている楽しくて、心にかなったあらゆる快楽、遊び、喜び、享楽を与えるとしよう。その快楽、遊び、享楽のために、一人ひとりの衆生にジャンブー州(閻浮提 ・仏教の世界観で人間が住む大陸)に満々として、金貨、黄金、銀、宝石、真珠、瑠璃 、螺貝 、碧玉 、珊瑚 を与え、また馬の車、牛の車、象の車、そして宮殿や、楼閣を与えた。
アジタよ、このようにして、施主であり、大施主であるその人は、まうまる80年にわたって施物を与えた。そこで、アジタよ、施主であり、大施主であるその人は、次のように考えた。
『私は、実にこれらのすべての衆生を喜ばせ、楽しませ、安楽に生活させた。しかしながら、あなたたちよ、これらの衆生は、皺 がより、白髪頭となり、生まれて80歳の年をとった高齢の老人である。しかも、これらの人たちは死に近づいている。そういうわけで、私は今、これらの人たちをブッダによって解かれた法(真理の教え)と律(出家者の守るべき規則)に悟入させ、導こう』と。
そこで、アジタよ、その人は、それらのすべての衆生を教化し、教化して後に、ブッダによって解かれた法と律に悟入させ、理解させるとしよう。
それらの衆生、その人からその法を聞いた。聞いて後に、一刹那 、一瞬時、一瞬間にして、すべての衆生は、「聖者としての流れに入ったもの」、「天界から人間界にもう一度だけ還って来て覚りを得るもの」、「二度と迷いの世界に還って来ないもの」となり、「二度と迷いの世界に還って来ないもの」の果を得て、煩悩を滅し、禅定に専念し、大いに禅定に励み、8種類の解脱によって禅定を行する阿羅漢 にまでなるであろう。
ところで、アジタよ、あなたは、このことをどう考えるか?施主であり、大施主であるその人は、その理由によって、無量で数えることもできない多くの福徳を生みだすであろうか?
世尊からこのように言われて、偉大な人である弥勒菩薩は、世尊に次のように申し上げた。
「世尊よ、これはその通りです。人格を完成された人よ、これはその通りです。世尊よ、まず第一に、安楽をもたらすあらゆるものをそれほど多くの衆生に与える施主で、大施主であるその人は、まさにその理由によって、多くの福徳を生み出すでありましょう。ましてや、それらの衆生を阿羅漢の位に立たせる人が多くの福徳を生み出すということは、言うまでもないことであります」
弥勒菩薩からこのように言われて、世尊は、偉大な人であるアジタ菩薩に次のようにおっしゃられた。
「アジタよ、私は、あなたに告げ、知らせよう。施主であり、大施主であるその人が、すべての衆生に安楽をもたらすあらゆるものによって、400・1000・阿僧祇 もの世界を満たし、すべての衆生を阿羅漢の位に立たせ、福徳を生み出すとしよう。一方、この法門を連続して順次に聞いて達した50番目の人が、この法門から一つの詩でも、一つの句でも耳で聞いて、喜ぶとしよう。
〔後者の〕この50番目の人が、この法門から一つの詩でも、一つの句でも聞いて喜んで受け容れることに伴っている福徳を生み出す行ないの内容と、〔前者の〕施主であり、大施主であるその人が、布施することに伴い、阿羅漢の位に立たせることに伴っている福徳を生み出す行ないの内容とでは、〔後者である〕その中断なく連続して語り継がれたこの50番目の場合のほうが、その〔前者の〕場合よりもずっと内容が富んでいるのである。
アジタよ、このようにして、施主であり、大施主であるその人は、まうまる80年にわたって施物を与えた。そこで、アジタよ、施主であり、大施主であるその人は、次のように考えた。
『私は、実にこれらのすべての衆生を喜ばせ、楽しませ、安楽に生活させた。しかしながら、あなたたちよ、これらの衆生は、皺 がより、白髪頭となり、生まれて80歳の年をとった高齢の老人である。しかも、これらの人たちは死に近づいている。そういうわけで、私は今、これらの人たちをブッダによって解かれた法(真理の教え)と律(出家者の守るべき規則)に悟入させ、導こう』と。
そこで、アジタよ、その人は、それらのすべての衆生を教化し、教化して後に、ブッダによって解かれた法と律に悟入させ、理解させるとしよう。
それらの衆生、その人からその法を聞いた。聞いて後に、一刹那 、一瞬時、一瞬間にして、すべての衆生は、「聖者としての流れに入ったもの」、「天界から人間界にもう一度だけ還って来て覚りを得るもの」、「二度と迷いの世界に還って来ないもの」となり、「二度と迷いの世界に還って来ないもの」の果を得て、煩悩を滅し、禅定に専念し、大いに禅定に励み、8種類の解脱によって禅定を行する阿羅漢 にまでなるであろう。
ところで、アジタよ、あなたは、このことをどう考えるか?施主であり、大施主であるその人は、その理由によって、無量で数えることもできない多くの福徳を生みだすであろうか?
世尊からこのように言われて、偉大な人である弥勒菩薩は、世尊に次のように申し上げた。
「世尊よ、これはその通りです。人格を完成された人よ、これはその通りです。世尊よ、まず第一に、安楽をもたらすあらゆるものをそれほど多くの衆生に与える施主で、大施主であるその人は、まさにその理由によって、多くの福徳を生み出すでありましょう。ましてや、それらの衆生を阿羅漢の位に立たせる人が多くの福徳を生み出すということは、言うまでもないことであります」
弥勒菩薩からこのように言われて、世尊は、偉大な人であるアジタ菩薩に次のようにおっしゃられた。
「アジタよ、私は、あなたに告げ、知らせよう。施主であり、大施主であるその人が、すべての衆生に安楽をもたらすあらゆるものによって、400・1000・阿僧祇 もの世界を満たし、すべての衆生を阿羅漢の位に立たせ、福徳を生み出すとしよう。一方、この法門を連続して順次に聞いて達した50番目の人が、この法門から一つの詩でも、一つの句でも耳で聞いて、喜ぶとしよう。
〔後者の〕この50番目の人が、この法門から一つの詩でも、一つの句でも聞いて喜んで受け容れることに伴っている福徳を生み出す行ないの内容と、〔前者の〕施主であり、大施主であるその人が、布施することに伴い、阿羅漢の位に立たせることに伴っている福徳を生み出す行ないの内容とでは、〔後者である〕その中断なく連続して語り継がれたこの50番目の場合のほうが、その〔前者の〕場合よりもずっと内容が富んでいるのである。
アジタよ、この法門から一つの詩でも、一つの句でも喜んで受け容れることに伴って生じるこの福徳、および善い果報をもたらす善根に比べれば、先ほどの布施することや、阿羅漢の位に立たせることに伴って生じる福徳は、その100分の1にも及ばないし、1000分の1にも、100・1000分の1にも、1・コーティ分の1にも、100・コーティ分の1にも及ぶことはない。その差は、数えることも、考えることも、計算することも、譬えることも、近づくこともできないのだ。
アジタよ、この法門を連続して順次に聞いてちょうど50番目のその人もまた、この法門からただ一つの詩でさえも、一つの句でさえも聞いて、喜んで受け容れるならば、このように、無量で数えることもできない福徳を生み出すであろう。アジタよ、ましてや、私の面前で、この法門を聞き、聞いた後に喜んで受け容れる人は、言うまでもないことである。アジタよ、その人のその福徳の生成は、さらに無量であり、さらに数えることもできないのであると、私は言おう。
さらに、アジタよ、良家の息子であれ、良家の娘であれ、この法門を聞くことを目的として、自分の家を出て、精舎に行く人が、そこへ行って、立ったままか、坐ったままで、この法門を瞬時でも聞くとしよう。その人は、それだけ多くの福徳を生じて蓄積し、現在の生存を終え、生まれ変わって、第二の人生で第二の自己の身体を獲得する際に、牛の車を獲得したものとなろう。また馬の車、象の車、輿 、牝牛 の車、牡牛 の車、神々の天上の乗り物を獲得したものとなるであろう。
さらに、もしも、法を聞くその場において、瞬時の間でも坐ってこの法門を聞いたり、あるいは他者を坐らせたり、あるいは他の衆生のために座席を譲り与えることをなすならば、その人は、その福徳の生成によってシャクラ神(帝釈天)の座席、ブラフマー神(梵天)の座席、転輪王の獅子座を獲得したものとなるであろう。(つづく)
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その時、偉大な人である弥勒菩薩は、世尊に次のように申し上げた。
「世尊よ、良家の息子であれ、良家の娘であれ、この法門が説き示されるのを聞いて、喜んで受け容れるならば、その良家の息子、あるいは良家の娘は、どれほどの福徳を生みだすでしょうか?」と。
その時、偉大な人である弥勒菩薩は、次の一つの詩を述べた。
「偉大なる勇者が完全なる滅度に入られた後、このような経を聞き、聞いて後に、喜
んで受け容れる人には、どれほどの善いことが生ずるでありましょうか?」
すると、世尊は、偉大な人である弥勒菩薩に次のように告げられた。
「アジタ(弥勒)よ、良家の息子であれ、良家の娘であれ、誰であっても、ブッダの私が完全なる滅度に入った後に、この法門が説き示され、解説 されているのを聞くとしよう。男性出家者であれ、女性出家者であれ、男性在家信者であれ、女性在家信者であれ、学識ある人であれ、少年であれ、少女であれ、この法門を聞いて後に、喜んで受け容れるであろう。
もしも、その人が、その法を聴聞した席から立ち上がり、出て立ったとしても、精舎にいても、あるいは家にいても、荒野にいても、街道にいても、村にいても、地方にいても、聴聞したそれらの理由や因縁、その法を、聞いた通りに、受け止めた通りに、能力に応じて他の衆生に語るとしよう。母であれ、父であれ、親戚縁者であれ、親友であれ、親密な人であれ、他の誰かに語るとする。この法門が語られるのを聞いて、その人もまた喜び、その法門を喜んで受け容れて後に、さらにまた他の人に語るとしよう。
「世尊よ、良家の息子であれ、良家の娘であれ、この法門が説き示されるのを聞いて、喜んで受け容れるならば、その良家の息子、あるいは良家の娘は、どれほどの福徳を生みだすでしょうか?」と。
その時、偉大な人である弥勒菩薩は、次の一つの詩を述べた。
「偉大なる勇者が完全なる滅度に入られた後、このような経を聞き、聞いて後に、喜
んで受け容れる人には、どれほどの善いことが生ずるでありましょうか?」
すると、世尊は、偉大な人である弥勒菩薩に次のように告げられた。
「アジタ(弥勒)よ、良家の息子であれ、良家の娘であれ、誰であっても、ブッダの私が完全なる滅度に入った後に、この法門が説き示され、解説 されているのを聞くとしよう。男性出家者であれ、女性出家者であれ、男性在家信者であれ、女性在家信者であれ、学識ある人であれ、少年であれ、少女であれ、この法門を聞いて後に、喜んで受け容れるであろう。
もしも、その人が、その法を聴聞した席から立ち上がり、出て立ったとしても、精舎にいても、あるいは家にいても、荒野にいても、街道にいても、村にいても、地方にいても、聴聞したそれらの理由や因縁、その法を、聞いた通りに、受け止めた通りに、能力に応じて他の衆生に語るとしよう。母であれ、父であれ、親戚縁者であれ、親友であれ、親密な人であれ、他の誰かに語るとする。この法門が語られるのを聞いて、その人もまた喜び、その法門を喜んで受け容れて後に、さらにまた他の人に語るとしよう。
もしも、この法門を聞いて、次のその人もまた喜び、その法門を喜んで受け容れて後に、その人もまた他の人に語るとしよう。その法門を聞いて、他のその人もまた、喜ぶとしよう。以上、このようにして、50人に至るまで中断なく連続して、この法門が語り継がれるとしよう。その場合、実にアジタよ、この50番目の人も、連続して順次に聞いて喜んで受け容れるとしよう。
アジタよ、私はまず第一に、その良家の息子、あるいは良家の娘が、この法門を喜んで受け容れることに伴っている福徳の生成について説き示そう。あなたは、それを正しく聞くがよい、そして、心の中でよく考えなさい。私はあなたに語ろう。
アジタよ、それは、あたかも、400・1000・阿僧祇 (1056)もの世界において生存し、6種の生存領域の中に生まれた衆生ーすなわち卵から生まれたもの、あるいは母胎から生まれたもの、あるいは湿ったところから生まれたもの、あるいは両親なしに自然発生したもの、あるいは形を持つもの、あるいは形を持たないもの、あるいは意識を持つもの、あるいは意識を持たないもの、あるいは意識を持つものでないもの、あるいは意識を持たないものでないもの、あるいは足を持たないもの、あるいは2本足を持つもの、あるいは4本足を持つもの、あるいは多くの足を持つものに至るまで、それらの衆生が、一堂に集合して衆生の世界にやって来るようなものである。(つづく)
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