なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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さて、得大勢よ、世尊であるその威音王という正しく完全に覚った尊敬されるべきブッダの教えの下で、常不軽という〔言葉が意味する①「常に軽んじない」と主張し、②「常に軽んじている」と思われ、その結果、③「常に軽んじられる」ことになるが、最終的には、④「常に軽んじられない」ようになったー〕ものであると、このように四衆たちに是認されていた菩薩、またそれほど多くのそれらの正しく完全に覚った尊敬されるべきブッダたちに出会った菩薩、その時その情況でその常不軽という名前の偉大な人である菩薩は、誰か別の人であったというこのような疑い、あるいは考え違い、あるいは疑惑が、あなたに生ずるかもしれない。
しかしながら、得大勢よ、あなたは、そのように見なすべきではない。それは、どんな理由によってか?この私、釈迦牟尼こそが、その時その情況で常不軽という名前の偉大な人である菩薩であったからだ。
得大勢よ、もしも、私が以前、この法門を会得することがなく、受持していなければ、私はこのように速やかにこの上ない正しく完全な覚りを覚ることはなかったであろう。私は、この正しく完全に覚った尊敬されるべきブッダたちのそばでこの法門を受持し、読誦し、説き示した。その故に私は、このように速やかにこの上ない正しく完全な覚りを覚ったのだ。
得大勢よ、その世尊の教えのもとで、幾百人もの男性出家者、幾百人もの女性出家者、幾百人もの男性在家信者、幾百人もの女性在家信者であったそれらの〔の四衆たち〕にも、その偉大なる人である常不軽菩薩は、この法門を説き聞かせたのである。
『私は、あなたがたを軽んじません。あなたがたは、すべて菩薩としての修行を行ないなさい。あなたがたは、正しく完全に覚った尊敬されるべきブッダになるでありましょう』と。
得大勢よ、もしも、私が以前、この法門を会得することがなく、受持していなければ、私はこのように速やかにこの上ない正しく完全な覚りを覚ることはなかったであろう。私は、この正しく完全に覚った尊敬されるべきブッダたちのそばでこの法門を受持し、読誦し、説き示した。その故に私は、このように速やかにこの上ない正しく完全な覚りを覚ったのだ。
得大勢よ、その世尊の教えのもとで、幾百人もの男性出家者、幾百人もの女性出家者、幾百人もの男性在家信者、幾百人もの女性在家信者であったそれらの〔の四衆たち〕にも、その偉大なる人である常不軽菩薩は、この法門を説き聞かせたのである。
『私は、あなたがたを軽んじません。あなたがたは、すべて菩薩としての修行を行ないなさい。あなたがたは、正しく完全に覚った尊敬されるべきブッダになるでありましょう』と。
その菩薩に対して憎悪の心を抱いた人たちは、200万・コーティ・ナユタ劫の間、決してブッダを見ることもなく、ダルマ(法)という語も、サンガ(僧伽 ・僧団)という語も聞くことがなかった。そして、それらの四衆たちは、1万劫の間、阿鼻地獄において過酷な苦痛を受けた。そして、それらの四衆たちは、すべてその行ないに起因する障害から解放されて、まさにその偉大な人である菩薩によって、この上ない正しく完全な覚りに向けて成熟させられたのである。
それは、実にこの集会の中の、跋陀婆羅 (吉祥なる守護者)以下、500人の菩薩たち、師子月 (月のように美しい獅子)以下、500人の女性出家者たち、思仏 (人格を完成したという思いを持つもの)以下、500人の女性在家信者たちであり、そのすべてが、この上ない正しく完全な覚りへ向けて、不退転の者となされたのだ。
このように、この大いなる利益のある法門の受持、読誦、解説は、偉大なる人である菩薩にこの上ない正しく完全な覚りをも得させることをもたらすのだ。この故に、得大勢よ、ブッダが完全なる滅度に入られた後で、偉大なる人である菩薩は、そこにおいてこの法門を間断なく受持し、読誦し、説き示すべきである」と。
そこで、世尊はその時、次の詩を述べられた。
「私は、過去の世を思い出す。その時、威音王という勝利者がおられ、大いなる威徳
を具え、人間や神々に供養され、人間、神々、ヤクシャ(夜叉)、ラークシャサ(羅
刹 )の指導者であった。
その勝利者が、完全なる滅度に入られて、正しい教えが雑乱状態になった後に、その
時、男性出家者である独りの菩薩がいて、その人は常不軽という名前で呼ばれていた。
その時、その菩薩は、覚りを証得したと思い込んでいる〔増上慢の〕他の男性出家者
たち、同じく女性出家者たちに近づいて、『私には、いかなる時にも決して軽蔑の心
はありません。まさにあなたがたは、最高の覚りへ向けて修行を行ないなさい』と。
その菩薩は、常にこのように語って聞かせ、それらの四衆たちの悪口 や罵詈 に耐えて
いた。命の終わりが近づいた時、その菩薩はこの経を聞いた。
その時、賢者は死なずして、非常に長い寿命を神通力によって現わし、その時、その
指導者のその教えのもとで、この経を説き示したのである。
そして、その菩薩は、覚りを証得していると思い込んでいるそれらの多くのものたち
を、すべて覚りへ向けて成熟させ、そこで死亡して後に、その菩薩は幾1000・コーテ
ィものブッダたちに出会った。
その人は、順次に福徳をなして、常にこの経を説き示して後、その勝利者の息子は覚
りに達した。その時のその勝利者の息子が、まさに私、釈迦牟尼であったのだ。
そしてまた、その時、覚りを証得していると思い込んでいた男性出家者たち、覚りを
証得していると思い込んでいた女性出家者たち、そして、そこにいた男性在家信者た
ち、あるいは女性在家信者たちに至るまで、それらの四衆たちは、賢者であるその菩
薩によって覚りに到るという予言を語って聞かせられたのである。
それらの四衆たちは、幾コーティもの多くのブッダたちを見た。そして、それらの人
たちとは、これらの500人を下回ることのない菩薩たちであり、同じく私の面前にい
るこれらの男性出家者・女性出家者・〔男性在家信者・〕女性在家信者たちである。
そのすべてに私は、最高の法を聞かせた。まさにそれらの四衆たちのすべてを私は成
熟させたのだ。そして、私が完全なる滅度に入った後、これらの意志の固い者たちの
すべてが、この世においてこの最高の経を受持するであろう。
幾コーティ劫もの考えることもできない長い時間のうちに、このような法が聞かれる
ことは、いかなる時にも決してない。まさに幾100・コーティものブッダが存在するけ
れども、それらのブッダたちもまたこの経を説き示すことはないのだ。
それ故に、独立自存するものが、自発的に説かれたこのような法を聞き、この法に繰
り返して出会い、私がこの世において滅度に入った後で、この経を説き示すべきであ
る。
以上が、聖なる「白蓮華のように最も勝れた正しい教え」という法門の中の「常に軽んじない菩薩の章」という名前の第19章である。 (常不軽菩薩品第20おわり)
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ところで、得大勢よ、死が近づき、命の終わりが迫った時、その偉大な人である常不軽菩薩は、「白蓮華のように最も勝れた正しい教え」という法門を聞いた。
しかも、その法門は、かつてその世尊である威音王という正しく完全に覚った尊敬されるべきブッダによって、200万・コーティ・ナユタの20倍の詩をもって説かれたものであった。
そして、その偉大な人である常不軽菩薩は、命の終わりが近づいた時、空中からの音声を通してこの法門を聞いた。その菩薩は、誰も語っていない空中からの声を聞き、この法門を受持し、〔前章で述べた〕このような眼〔による視覚の能力〕の清らかさ、耳〔による聴覚の能力〕の清らかさ、鼻〔による臭覚の能力〕の清らかさ、舌〔による味覚の能力〕の清らかさ、身〔による触覚の能力〕の清らかさ、意〔による知覚の能力〕の清らかさ、すなわち六根清浄を獲得した。これら6つの感覚の能力の清らかさを獲得すると、直ちに自身の生命を存続させる働きに神通力をかけて、さらに次の200万・コーティ・ナユタ年もの間、この「白蓮華のように最も勝れた正しい教え」という法門を説いた。
そして、それらの増上慢の衆生で、以前にこの菩薩から『私は、あなたがたを軽んじません』と語って聞かせられ、この菩薩にこの常不軽という名前をつけた男性出家者・女性出家者・男性在家信者・女性在家信者たちのすべてが、その菩薩の具えるすぐれた神通力の威力や、人に理解させる雄弁の力の威力、智慧の力の威力を見て、教えを聞くためにその菩薩に随従するものとなった。
そして、その菩薩は、それらのすべての四衆からなる増上慢の衆生たちと、その他の幾100・1000・コーティ・ナユタもの多くの生命あるものたちを、この上ない正しく完全な覚りへ向けて教化したのだ。
さて、得大勢よ、偉大な人であるその菩薩は、その大成という世界で死亡して後に、日月燈明 (月の音の王)という共通の名前を持つ2000・コーティもの正しく完全に覚った尊敬されるべきブッダたちに出会い、そのあらゆる場合においてこの法門を説き示した。
さらにその菩薩は、過去から続けて積み重ねてきた善い果報をもたらす立派な行ない〔の果報〕によって、「太鼓の音の王」(漢訳名なし)という共通の名前を持つブッダたちのうちの実に200万・コーティ・ナユタものブッダたちに順次出会い、そのすべての場合において、まさにこの「白蓮華のように最も勝れた正しい教え」という法門に出会い、四衆たちにこの法門を説き示した。
さらにその菩薩は、まさに過去の善い果報をもたらす立派な行ない〔の果報〕によって順次に雲自在燈王 (雲の音の王)という共通の名前を持つブッダたちのうちの実に200万・コーティものブッダたちに出会い、そのすべての場合において、まさにこの「白蓮華のように最も勝れた正しい教え」という法門に出会い、四衆たちにこの法門を説き示したのである。
そしてその人は、そのすべての場合において、〔前章で述べた〕このような眼の完全な清らかさを具え、耳、鼻、舌、身、意の完全な清らかさを具えていた。
さて、得大勢よ、偉大な人であるその常不軽菩薩は、幾100・1000・コーティ・ナユタもの、これほど多くのブッダたちを恭敬し、尊敬し、尊崇し、供養し、讃仰し、崇拝をなして後に、さらに他の幾100・1000・コーティ・ナユタもの多くのブッダたちを恭敬し、尊敬し、尊崇し、供養し、讃仰し、崇拝をなして後に、そのあらゆる場合において、まさにこの「白蓮華のように最も勝れた正しい教え」という法門に出会った。出会った後にその菩薩は、その過去の善い果報をもたらす立派な行ないが十分に成熟したことによって、この上ない正しく完全な覚りを覚ったのだ。(つづく)
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得大勢菩薩よ、そこには、すべてに先立つ、最初のブッダであるその威音王如来がいた。その世尊が、完全なる滅度に入った後に、正しい教えが衰亡し、また正しい教えに似た教えも衰亡しつつあり、その教えが増上慢の男性出家者たちによって攻撃されている前に、常不軽 (サダーパリブータ)という名前の男性出家者の菩薩がいた。
得大勢よ、いかなる理由で、その偉大な人である菩薩は、常不軽と呼ばれたのであろうか?
その偉大な人である菩薩は、男性出家者であれ、女性出家者であれ、男性在家信者であれ、女性在家信者であれ、まさに出会う人には、誰にでも近づいて、次のように告げるのだ。
『尊者がたよ、私は、あなたがたを軽んじません。あなたがたは、軽んじられることはありません。それは、どんな理由によってでしょうか?あなたがたは、すべて菩薩としての修行を行ないなさい。あなたがたは、正しく完全に覚った尊敬されるべきブッダになるでありましょう』と。
得大勢よ、このようにして、男性出家者でありながら、偉大な人であるその菩薩は、他者に対して教理の解説もなさず、自分自身のための聖典の学習もなすことがない。その一方で、遠くにいる人でさえも誰であれ、まさに出会う人のすべてに近づいて、先のように語って聞かせるのだ。男性出家者であれ、女性出家者であれ、男性在家信者であれ、女性在家信者であれ、誰にでも近づいて次のように告げるのだ。
得大勢よ、いかなる理由で、その偉大な人である菩薩は、常不軽と呼ばれたのであろうか?
その偉大な人である菩薩は、男性出家者であれ、女性出家者であれ、男性在家信者であれ、女性在家信者であれ、まさに出会う人には、誰にでも近づいて、次のように告げるのだ。
『尊者がたよ、私は、あなたがたを軽んじません。あなたがたは、軽んじられることはありません。それは、どんな理由によってでしょうか?あなたがたは、すべて菩薩としての修行を行ないなさい。あなたがたは、正しく完全に覚った尊敬されるべきブッダになるでありましょう』と。
得大勢よ、このようにして、男性出家者でありながら、偉大な人であるその菩薩は、他者に対して教理の解説もなさず、自分自身のための聖典の学習もなすことがない。その一方で、遠くにいる人でさえも誰であれ、まさに出会う人のすべてに近づいて、先のように語って聞かせるのだ。男性出家者であれ、女性出家者であれ、男性在家信者であれ、女性在家信者であれ、誰にでも近づいて次のように告げるのだ。
『ご婦人がたよ、私は。あなたがたを軽んじません。あなたがたは、軽んじられることはありません。それは、どんな理由によってか?あなたがたは、すべて菩薩としての修行を行ないなさい。あなたがたは、正しく完全に覚った尊敬されるべきブッダになるでありましょう』
得大勢よ、その偉大な人である菩薩は、その時、男性出家者であれ、女性出家者であれ、男性在家信者であれ、女性在家信者であれ、誰であってもそのように語って聞かせるのだ。
このように語って聞かせられた四衆たちは、この菩薩に対して、そのほとんどすべてが怒り、危害を加え、嫌悪感を生じ、罵 り、非難した。
『聞かれてもいないのに、この男性出家者は、軽んじない心を持っていると、どうしてわれわれに説き示すのであろうか?この上ない正しく完全な覚りに到るであろうという、望まれてもいない虚偽のことを、私たちに予言するということは、私たち自身を軽んじることになるのだ。〔それとともに、その菩薩は、自分自身を軽んじられることになすのだ〕』と。
さて、得大勢よ、その偉大な人である菩薩が、このように罵られたり、非難されたりしているうちに、多くの歳月が経過した。けれども、その菩薩は、誰に対しても決して怒ることはなく、憎悪(瞋恚 )の心を生じることもなかった。
そして、この菩薩が、このように語って聞かせる時、土塊 、あるいは棒切れをこの菩薩に対して投げつける人々のためにも、その菩薩は実に遠くから大きな声を出して語って聞かせたのだ。
『私は、あなたがたを軽んじません』と。
常にその菩薩からこのように語って聞かせられていたそれらの増上慢の男性出家者・女性出家者・男性在家信者・女性在家信者たちが、その菩薩に常不軽という名前をつけたのである。(つづく)
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第19章 常に軽んじない菩薩
常不軽菩薩品 第20)
常不軽菩薩品 第20)
その時、実に世尊は、得大勢 (大いなる勢力をかち得たもの)という偉大な人である菩薩に語りかけた。
「しかるに、得大勢菩薩(=勢至 菩薩・阿弥陀如来の脇侍)よ、以上のようなことからまず第一に、このような法門を未来に謗 ったり、またこのような経を受持する男性出家者・女性出家者・男性在家信者・女性在家信者たちを罵 ったり、非難したり、真実ならざる粗暴な言葉で話しかけるものたちには、言葉で表現することができないほど好ましくない結果が生じるであろうと、知るべきである。
ところが、このような経を受持し、読誦し、教示し、理解し、そして他人のために詳細に説き明かす人たちには、私がこれまで既に説いたように望ましい結果が生ずるであろう。そして、〔前章で述べた〕このような眼・耳・鼻・舌・身・意の6つからなる感覚の能力の完全なる浄化(六根清浄)に達するであろう。
得大勢よ、その昔、数えることもできない、さらに数えることもできない、広大で、無量の、考えることもできない劫だけ過去の世で、それよりさらにずっと過去において、その時その情況で、威音王 (恐ろしく響く音声の王)という名前の正しく完全に覚ったブッダで、尊敬されるべき人が世間に出現した。なわち、離衰 (享楽を離れた)という劫において、また大成 (偉大なる創成)という世界において、学識と行ないを完成した人であり、また人格を完成した人で、世間をよく知る人で、人間として最高の人で、調練されるべき人の御者で、神々と人間の教師で、目覚めた人で、世に尊敬されるべき人が出現したのだ。
その世尊である威音王如来は、その大成という世界において、神々や、人間、アスラたちに伴われた世間の人々の前で、法を説いた。
すなわち、声聞のためには、4つの聖なる真理(四聖諦)に結びついた法、および生・老・病・死・悲愁・悲嘆・苦悩・悲哀・憂悩の超越のための涅槃に達する縁起(十二因縁)の在り方を説いた。偉大な人である菩薩たちのためには、この上ない正しく完全な覚りに関して、6種類の完成(六波羅蜜)に結びついたブッダの知見に達する法を説いた。
ところで、得大勢よ、世尊であるその威音王というブッダの寿命の長さは、40のガンジス河の砂の数に等しい幾100・1000コーティ・ナユタ劫であった。そのブッダが完全なる滅度に入られた後に、ジャンブー州を構成する原子の粒の数と等しい幾100・1000・コーティ・ナユタ劫にわたって正しい教えが存続し、四大洲〔を構成する〕原子の粒の数と等しい幾100・1000・コーティ・ナユタ劫にわたって正しい教えに似た教えが存続した。
その大成という世界において、世尊である威音王如来が完全なる滅度に入られた後で、正しい教えに似た教えが衰亡して、威音王という同じ名前の正しく完全に覚ったブッダが世間に出現した。そのブッダは、尊敬されるべき人で、学識と行ないを完成した人で、人格を完成した人で、世間をよく知る人で、人間として最高の人で、調練されるべき人の御者で、神々と人間の教師で、目覚めた人で、世に尊敬されるべき人であった。
このように〔滅度と出現を〕繰り返して、その大成という世界に200万・コーティ・ナユタもの威音王という名前の正しく完全に覚ったブッダが出現した。(つづく)
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