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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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法華経観世音菩薩普門品第25  歓喜した無尽意菩薩の詩

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聖観音像(インド・9世紀)

 すると、無尽意は、心が歓喜し満億して、次の詩を述べた。

 「麗しい眼、慈しみの眼を持ち、智慧と知によって卓越した眼を持つ人よ、憐みの眼
 を持ち、清らかな眼を持つ人よ、愛されるべき美しい顔と美しい眼を持つ人よ、

 純粋無垢にして清浄な輝きを持つ人よ、暗闇のない知を持つ人よ、太陽の輝きを持つ
 人よ、吹き消されることのないほのおの光を持つ人よ、あなた(釈迦牟尼)は自ら輝きな
 がら、世界を照らしておられます。
 
 憐みの徳と慈しみの雷鳴を響かせ、勝れた徳を具えた、慈しみの心を持つ大いなる雲
 よ、あなたは、不死(甘露)の法の雨を降らせ、生命あるものたちの煩悩の火をしず
 られます。

 また、喧嘩や、論争、闘争において、人との争いごとの渦中にある人が多いなる恐怖
 に陥っている時も、観世音を念ずれば、邪悪な敵の集団は退散するでありましょう。

 観世音は、雷雲のような音声を有し、太鼓のような響きを具え、大海のようなとどろきを
 持ち。ブラフマー神の美しい声を具えています。このように音声の領域で完成に達し
 ている観世音を念ずるべきであります。

 あなたたちは、清らかな人である観世音をよくよく念ずるべきであり、疑うことがあ
 ってはなりません。観世音は、死や、災厄、艱難 かんなんにおいて、保護者となり、避難所と
 なり、最後の休息所となるのです。

 あらゆる威徳の完成に達していて、あらゆる衆生に対する憐みと慈しみの眼を持ち、
 威徳が人格化された存在であり、偉大な威徳の大海である観世音に敬意を表すべきで 
 あります。

 世間の人々に対して憐み深いこの人は、未来の世においてブッダとなるでありましょ
 う。私は、あらゆる苦しみ、恐怖、憂いを消滅させる観世音に対して敬礼します。


 【以下の偈頌は鳩摩羅什訳にはなく、後世に浄土教思想が混入したものと考えられる】

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阿弥陀如来(ネパール・タンカ)

 世自在王(世間において自在である王)を指導者とし、世間の人々によって供養され
 ている法蔵(法の源)という男性出家者は、幾百もの多くの劫にわたって修行して、
 塵芥のないこの上ない覚りを獲得し〔阿弥陀という如来となり〕ました。
 
 観世音は、その阿弥陀という指導者を、右と左から脇侍 わきじとして扇ぎながら、立ってい
 ました。また、「あらゆるものごとが幻のようであること」という三昧によって、あ
 らゆる国土に行って、勝利者に供養しました。
 
 西の方角に、幸福の源である塵埃 じんあいのない極楽(スカーヴァティー)世界があり、まさ
 にそこに阿弥陀という指導者で、衆生を制御する人が、現在、ただ今おられます。

 また、そこには、女性たちの誕生はないし、男女の性的結合の習慣もまた全くありま
 せん。それらの勝利者の嫡出子である菩薩たちは、両親なしに自然発生したものたち
 であって、純潔であり、紅蓮華の胎の中に坐っています。

 また、まさにその阿弥陀という指導者も、塵埃のない心を喜ばせる紅蓮華 ぐれんげたいの中に
 ある獅子座に一緒に坐っていて、あたかもシャーラ王(=ヴィシュヌ神)のようにま
 ばゆく輝いています。

 同様に、その観世音もまた世間の人々の指導者であり、この三界には、その人に等し
 いものは存在しません。そういうわけで、私、無尽意は、その「観世音を称讃して、
 福徳を積み重ね、速やかにあなた(釈迦牟尼)のように人間の中の最上の人になろ
 う」と。

 すると、持地(大地を支えるもの)という偉大な人である菩薩は、座席から立ち上が
 って、上衣の左肩を残して右側の一方の肩だけあらわにして、右の膝頭を地面につけて、
 世尊のおられるところに向かって合掌して敬礼し、世尊に次のように申し上げた。

 「世尊よ、この「白蓮華のように最も勝れた正しい教え」という法門の中の観世音という偉大な人である菩薩についてのこの章、すなわち、観世音という偉大な人である菩薩の神変についての教説であり、『あらゆる方向に顔を向けたものの章』という名前の観世音という菩薩の神力による奇跡についての教説を聞く衆生は、善い果報をもたらす立派な行ないが乏しいことはないでありましょう」

 しかもなお、この「あらゆる方向に顔を向けたものの章」が世尊によって説かれている間に、その集会の中の8万4000もの生命あるものたちは、この上ない無比の正しく完全な覚りに向けて心を発した。

 以上が、聖なる「白蓮華のように最も勝れた正しい教え」という法門の中の「あらゆる方向に顔を向けたものの章」という名前の第24章である。(観世音菩薩普門品第25おわり)

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【 2023/06/13 05:27 】

第24章 あらゆる方向に顔を向けたもの(観世音菩薩普門品第25)  | コメント(0)  | トラックバック(0)  |

法華経観世音菩薩普門品第25 観世音菩薩の誓願

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十一面千手観世音菩薩(チベットのタンカ)

 その時、世尊は次の詩を述べられた。

 「無尽意という菩薩は妙相具 みょうそうぐ(色とりどりの旗を持つもの)である私釈迦牟尼
 に、『いかなる理由でこの勝利者の息子は、観世音と言われるのでしょうか?』と、 
 その意味と理由について尋ねた。

 するとその情況を省察して具足妙相尊 ぐそくみょうそうそん(色とりどりの旗を持つもの)である私
 は、弘誓深如海 ぐせいしんにょかい(海のように広大な誓願を持つもの)である観世音について、無尽
 意
に告げた。『観世音という菩薩の修行について、あなたは聞くがよい。』

 考えることもできない幾百もの多くの劫にわたり、幾千・コーティもの多くのブッダ
 たちによって、観世音という菩薩の誓願がどのように清められたのか、あなたは、私
 の言及することから聞くがよい。

 この世において、順次に観世音という名前を聞き、その菩薩を見て、また同様に念ず
 ることは、生命あるものたちにとって空しからざることであり、生存におけるあらゆ
 る苦悩や憂いを消滅させることになるのである。

 たとえ、邪悪な心を持つものが、殺害の目的で人を火の燃え盛る穴の中に投げ入れる
 としても、観世音を念ずれば、水がふりまかれたように火は消えるのだ。

 たとえ、龍や、海の怪物であるマカラ魚、アスラ、精霊たちの住処である大海の難処
 に入り込むとしても、観世音を念ずれば、いかなる時にも、決して水の王である海の
 中に沈むことはないのだ。

 たとえ、邪悪な心を持つものが、殺害の目的で人をスメール山の頂上から突き落とす
 としても、観世音を念ずれば、太陽のように空中をゆっくりと進んで落下するのだ。

 たとえ、殺害の目的で金剛石でできた山々を人の頭に投げつけるとしても、観世音
 念ずれば、それらの山々は毛穴をも傷つけることはできないのだ。

 たとえ、剣を手に持ち殺害の意志を有する敵の集団に取り囲まれたとしても、観世音
 を念ずれば、その時その瞬間にそれらの敵たちは友好的な心を持つものとなるのだ。

 たとえ、死刑判決を受けた人が処刑場に到り、死刑執行人の支配下にあるとしても、
 観世音を念ずれば、その時、処刑のための剣は粉々にあるであろう。

 たとえ、今、木製や、鉄製の手枷 てかせ、鉄の鎖、足枷で縛られているとしても、観世音
 念ずれば、手枷や、鎖、足枷は、実に速やかに千切れるのだ。

ダウンロード (4)

 呪文の力や、呪術、薬物、また、精霊や、ヴェーターダといった、人の身体を潰滅さ
 せるものは観世音を念ずればそれらを発揮して身体を潰滅させようとする働きが、
 逆に、その〔身体を潰滅させようとする〕自分自身に還っていくのである。

 たとえ、ヤクシャや、龍、アスラ、精霊、ラークシャサといった人間の精気を奪い去
 るものたちに取り囲まれたとしても、観世音を念ずれば、それらは毛穴でさえも傷つ
 けることはできないのだ。
 
 たとえ、鋭い牙と鈎爪 かぎつめを持つ非常に恐ろしい猛獣たちに取り囲まれたとしても、観世
 音
を念ずれば、速やかに、それらの猛獣たちは四方八方のあらゆる方角に走り去るの
 だ。

 たとえ、燃え上がる炎のような光線を放つ、邪悪で、恐ろしい眼差しで人を毒する蛇
 によって取り囲まれたとしても、観世音を念ずれば、それらの蛇たちは、実に速やか
 に毒がなくなるのだ。

 囂々 ごうごうたる雷の音を鳴り響かせ、雷光を有する雲が出現し、その雲が雷電と雨水を放出
 するとしても、観世音を念ずれば、実に速やかに、その瞬間に雷雲は消えてしまうの
 だ。

 観世音は、衆生が、幾百もの多くの苦しみに悩まされ、多くの苦しみにさいなまれている
 のを見て省察して勝れた知の力を持っている。それ故に、神々に伴われた世間にお
 いて救済者なのである。

 観世音神通力を極めるに到っており広大な知と巧みなる方便を既に学んでいて、
 十方におけるすべての世界のあらゆる国土に余すことなく現われるのである。
 
 また、地獄や、畜生界、ヤマの支配下にあって、不遇な境遇や、悪しき境遇に対する
 恐怖をいだき病の苦しみによって苛まれている生命あるものたちにとって、
 それらの恐怖や苦しみは順次に消滅するのだ』と」

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【 2023/06/09 05:17 】

第24章 あらゆる方向に顔を向けたもの(観世音菩薩普門品第25)  | コメント(0)  | トラックバック(0)  |

法華経観世音菩薩普門品第25 観世音菩薩の名前をたもつ人の功徳

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 また、良家の息子よ、観世音という偉大な人である菩薩に敬礼きょうらいをなし、その菩薩の名前をたもつ人たちには有益な結果があるであろう。

 良家の息子よ、ある人は、観世音という偉大な人である菩薩に敬礼をなし、その菩薩の名前を心にたもつ。また、ある人は、62のガンジス河の砂の数に等しい世尊であるブッダたちに敬礼して、それらの世尊であるブッダたちの名前を心にたもつ。また、ある人は、この世に滞在し、存在し、時を過ごしておられる多くの世尊であるブッダたちに、衣や、布施のための食べ物、寝具や座具、病気を治す薬、生活必需品によって供養を行なう。良家の息子よ、あなたはそれをどう考えるか?その良家の息子、あるいは良家の娘は、この因縁によってどれほどの福徳の生成を生ずるであろうか?」

 世尊からこのように言われて、
無尽意むじんにという偉大な人である菩薩は、世尊に次のように申し上げた。

 「世尊よ、多くであります。人格を完成された人よ、多くであります。その良家の息子、あるいは良家の娘は、この因縁によって多くの福徳の生成を生ずるでありましょう」

 世尊が言われた。

 「しかも、良家の息子よ、それほど多くの世尊であるブッダに対して恭敬をなす人、および、観世音という偉大な人である菩薩に対して一度だけでも敬礼をなし、観世音という菩薩の名前を心にたもつ人、その両者の場合に、それぞれ福徳の生成は同じであり、いずれかが勝っていることもなく、超過していることもないのだ。

 そして、それらの62のガンジス河の砂の数に等しい多くの世尊であるブッダたちに対して
恭敬くぎょうをなし、それらのブッダたちの名前を心にたもつ人、また、観世音という菩薩に対して敬礼をなし、〔その菩薩の〕こ名前を心にたもつ人、これらの二人の福徳の集合は、幾100・1000・コーティ・ナユタ劫の間にわたっても、消滅させることは容易ではないのだ。
 
 良家の息子よ、観世音という偉大な人である菩薩の名前を心にたもつことで得る福徳は、このように無量なのである。

 そこで、無尽意という菩薩は、世尊に次のように申し上げた。

 「世尊よ、観世音という菩薩は、このサハー世界においてどのように遊行 ゆぎょうし、どのように衆生に法を説き示すのでしょうか?観世音という菩薩の巧みなる方便の及ぶ範囲は、いかなるものでしょうか?」


ダウンロード (7)

 無尽意からこのように言われて、世尊は無尽意という菩薩に次のようにおっしゃられた。

 「良家の息子よ、観世音という偉大な人である菩薩が、ブッダの姿で衆生に法を説き示す諸々の世界が存在するし、菩薩の姿で衆生に法を説き示す諸々の世界が存在するのだ。

 観世音という菩薩は、ある人たちのためには、独覚の姿で衆生に法を説き示すのだ。ある人のためには声聞の姿で、ある人たちのためには梵天 ぼんてん(ブラフマー神)の姿で、ある人たちのためには帝釈天 たいしゃくてん(シャクラ神)の姿で、ある人たちのためにはガンダルヴァの姿で衆生に法を説き示すのだ。

 夜叉 やしゃ(ヤクシャ)によって教化されるべき衆生のためには、夜叉の姿で法を説き示すのだ。自在天 じざいてん(イーシュヴァラ神)によって教化されるべき衆生のためには自在天の姿で、大自在天 だいじざいてん(マヘーシュヴァラ神)によって教化されるべき衆生のためには大自在天の姿で、転輪王 てんりんのうによって教化されるべき衆生のためには転輪王の姿で、ピシャーチャ鬼によって教化されるべき衆生のためにはピシャーチャ鬼の姿で、毘沙門天 びしゃもんてん(ヴァイシュラヴァナ神)によって教化されるべき衆生のためには毘沙門天の姿で、将軍によって教化されるべき衆生のためには将軍の姿で、バラモンによって教化されるべき衆生のためにはバラモンの姿で、執金剛神 しゅうこんごうしん金剛杵 こんごうしょを手に持つもの)によって教化されるべき衆生のためには執金剛神の姿で法を説き示すのだ。

 良家の息子よ、観世音という菩薩は、このように、考えることもできないほど多くの功徳を具えているのである。それ故に、良家の息子よ、あなたたちは、観世音という菩薩に供養するがよい。良家の婿須よ、この観世音という菩薩は、恐怖にさらされた衆生に畏れなきことを施すのである。

 この理由によって、この菩薩は、このサハー世界において、施無畏者 せむいしゃ(畏れなきことを施すもの)と認められているのである。

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 そこで、無尽意という偉大な人である菩薩は、世尊に次のように申し上げた。

 「世尊よ、私たちは、観世音という菩薩に、法のための施物、法のための贈り物を贈りましょう」

 世尊が言われた。
 
 「良家の息子よ、今、その贈り物にとって、時にかなっているのだと、あなたが思うものを贈るがよい」

 すると、無尽意という菩薩は、幾100・1000金もの値打ちのある真珠の首飾りを自分の首から外し、観世音という菩薩に、法のための贈り物として差し上げた。

 「善き人よ、あなたは、この法のための贈り物を、私から受け取ってください」

 けれども、その観世音という菩薩は、受け取らなかった。そこで、無尽意という菩薩は、観世音という菩薩に次のように言った。
 
 「良家の息子よ、あなたは、私たちに対する憐みの故に、この真珠の首飾りを受け取ってください」

 すると、観世音という菩薩は、無尽意という菩薩に対する憐みの故に、またそれらの四衆たちや、それらの神々、龍、ヤクシャ、ガンダルヴァ、アスラ、ガルーダ、キンナラ、マホーラガ、人間、人間以外のものたちに対する憐みの故に、無尽意という菩薩から、その真珠の首飾りを受け取った。

 受け取ると、それを切って2つの部分になした。2つの部分になしてから、一方の半分を釈迦牟尼世尊に与えた。2つ目の半分を、世尊である多宝如来の全身が安置されている宝石造りのストゥーパに捧げた、

 「良家の息子よ、観世音という偉大な人である菩薩は、このような神変によってこのサハー世界を遊行するのである」(つづく)

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【 2023/06/06 05:18 】

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法華経観世音菩薩普門品第25 観世音菩薩の威神力と神通

 第24章 あらゆる方向に顔を向けたもの
観世音菩薩普門品かんぜおんぼさつふもんぽん第25)

ダウンロード (2)

 その時、無尽むじんに(不滅の心を持つもの)という偉大な人である菩薩は、座席から立ち上がって、上衣の左肩を残して右側の一方の肩だけあらわにして、右の膝頭を地面につけて、世尊のおられるところに向かって合掌して敬礼きょうらいし、世尊に次のように申し上げた。
 
 「世尊よ、いかなる理由で、観世音かんぜおん(自在に観るもの)という偉大な人である菩薩は、観世音と言われるのでしょうか?」
 
 無尽意からこのように言われて、世尊は無尽意という偉大な人である菩薩に、次のようにおっしゃられた。

 「良家の息子よ、この世において諸々の苦しみを受けている幾100・1000・コーティ・ナユタものそれほど多くの衆生が、もしも、観世音という偉大な人である菩薩の名前を聞くならば、それらの衆生はすべて、その苦しみのかたまりから解放されるであろう。

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 さらに、良家の息子よ、もしも幾100・1000・コーティ・ナユタもの衆生が、大海の真ん中で、金貨、黄金、宝石、真珠、金剛石こんごうせき(ダイヤモンド)、瑠璃るり螺貝らがい碧玉へきぎょく珊瑚さんご瑪瑙めのう硨磲しゃこ、赤真珠などを積んだ船に乗っている時、その船が暴風によって羅刹女らせつにょ(ラークシャシー)の島に打ち上げられたとして、その島において、誰か一人でも、観世音という偉大な人である菩薩の名前を呼んで救助を求めるならば、それらの衆生はすべてその羅刹女の島から解放されるであろう。

 実にまた、良家の息子よ、こういう理由で、観世音という偉大な人である菩薩は、観世音と承認されるのだ。

 良家の息子よ、もしも誰かある人が、死刑の判決を受け処刑されるべき状況に置かれていて、観世音という偉大な人である菩薩の名前を呼んで救助を求めるならば、それらの死刑執行人たちのそれらの剣はこなごなに砕けるであろう。

 しかもまた、良家の息子よ、もしもこの三千大千世界が、ヤクシャ(夜叉)やラークシャサたちによって満たされているとしても、観世音という偉大な人である菩薩の名前を了解することによって、それらの邪悪な心を持つものたちは、その人を見ることさえもできないであろう。

 しかもまた、良家の息子よ、もしも、罪のある人であれ、罪のない人であれ、実に誰かある人が、木製や、鉄製の手枷てかせ、鉄の鎖、足枷あしかせで縛られているとしても、その観世音という偉大な人である菩薩の名前を了解することによって、速やかにそれらの枷や、鉄の鎖、足枷は、亀裂を生じるであろう。

 良家の息子よ、観世音という偉大な人である菩薩の威神力は、このようなものである。

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 良家の息子よ、もしもこの三千大千世界が、剣を手に持つ悪漢や、怨敵、盗賊たちで満たされているとして、その三千大千世界の中を一人の隊商の隊長が、値がつけられないほど貴重な宝石をたくさん携えた大規模な隊商を率いて、旅行くとしよう。それらの人たちは、旅行きながら、剣を手に持つそれらの盗賊や、悪漢、怨敵たちに遭遇するであろう。また、遭遇してさらに、怖がり、おののき、自分たちが無防備であることを認めるであろう。 そして、その隊商の隊長は、その隊商の一団に次のように言うであろう。
 
 『畏れてはならない。良家の息子たちよ、畏れてはならない。あなたたちは、すべて畏れなきことを授けて下さる観世音という菩薩に、声を一つにして一緒に叫んで救助を呼びかけるがよい。それによって、あなたたちは、この盗賊の恐怖や、怨敵の恐怖から実に速やかに解放されるであろう』

 すると、その隊商の一団の実にすべてがそれぞれ、観世音に、『畏れなきことを授けて下さるあの観世音という菩薩に敬礼いたします。敬礼いたします』と、声を一つにして呼びかけるとしよう。実に名前を了解すると同時に、その隊商の一団は、あらゆる恐怖から解放されるであろう。

 良家の息子よ、観世音という偉大な人である菩薩の威神力は、このようなものである。

 良家の息子よ、貪愛(貪欲とんよく)によって行動する衆生は、観世音という偉大な人である菩薩に敬礼をなして、貪愛のないものとなるのだ。憎悪(
瞋恚しんに)によって行動する衆生は、観世音という偉大な人である菩薩に敬礼をなして、憎悪のないものとなるのだ。愚かさ(愚痴ぐち)によって構想する衆生は、観世音という偉大な人である菩薩に敬礼をなして、愚かさのないものとなるのだ。
 
 良家の息子よ、観世音という偉大な人である菩薩は、このように大いなる神通を持っているのである。

 さらに、良家の息子よ、男の子の誕生を願う女性が、観世音という偉大な人である菩薩に敬礼をなすならば、その女性には、男の子が生まれるであろう。その男の子は端正で、輝かしく、見るも美しく、男の子らしい特徴を具えていて、多くの人々に愛され、心を魅了し、善い果報をもたらす立派な行ないを積んだものであるだろう。

 女の子の誕生を欲する女性には、女の子が生まれるであろう。その女の子は端正で、輝かしく、見るも美しく、青蓮華のように最高に美しい色を具え、女の子らしい特徴を具えていて、多くの人々に愛され、心を魅了し、善い果報をもたらす立派な行ないを積んだものであるだろう。 
 良家の息子よ、観世音という偉大な人である菩薩のい赤神力は、このようなものである。(つづく)

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【 2023/06/02 05:25 】

第24章 あらゆる方向に顔を向けたもの(観世音菩薩普門品第25)  | コメント(0)  | トラックバック(0)  |
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