なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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波木井の御影(身延山久遠寺蔵)
上野殿母尼御前御返事
弘安4年(1281)12月8日、60歳、於身延、和文
上野殿母尼御前御返事
弘安4年(1281)12月8日、60歳、於身延、和文
尼御前の供養に感謝し、日蓮自ら春以来病気の由を述べつつ、霊山浄土で亡き子息に会えたならば、母の嘆きを伝えようと尼御前を慰めたもの。
の米一だ・聖人一つつ・かつかうひとかうぶくろ(一紙袋)、おくり
給び候ひ了んぬ。
このところのやうせんぜん(前々)に申しふり候ひぬ。
さては去ぬる文永十一年六月十七日この山に入り候ひて今年十二月八
日にいたるまで、この山出づる事一歩も候はず。ただし八年が間やせや
まいと申し、とし(齢)と申し、としどしに身ゆわく、心をぼれ(耆)
候ひつるほどに、今年は春よりこのやまいをこりて、秋すぎ冬にいたる
まで、日々にをとろへ、夜々にまさり候ひつるが、この十余日はすでに
食もほとをど(殆)とどまりて候ふ上、ゆき(雪)はかさなり、かん
(寒)はせめ候ふ。身のひゆる事石のごとし。胸のつめたき事氷のごと
し。しかるにこのさけ(酒)はたたかにさしわかして、かつかうをはた
とくい切つて、一度のみて候へば、火を胸にたくがごとし、ゆに入るに
にたり。あせ(汗)にあかあらい、しづくに足をすすぐ。
日にいたるまで、この山出づる事一歩も候はず。ただし八年が間やせや
まいと申し、とし(齢)と申し、としどしに身ゆわく、心をぼれ(耆)
候ひつるほどに、今年は春よりこのやまいをこりて、秋すぎ冬にいたる
まで、日々にをとろへ、夜々にまさり候ひつるが、この十余日はすでに
食もほとをど(殆)とどまりて候ふ上、ゆき(雪)はかさなり、かん
(寒)はせめ候ふ。身のひゆる事石のごとし。胸のつめたき事氷のごと
し。しかるにこのさけ(酒)はたたかにさしわかして、かつかうをはた
とくい切つて、一度のみて候へば、火を胸にたくがごとし、ゆに入るに
にたり。あせ(汗)にあかあらい、しづくに足をすすぐ。
この御志ざしはいかんがせんとうれしくをもひ候ふところに、両眼よ
りひとつのなんだをうかべて候ふ。まことやまことや去年の九月五日こ
(故)五郎殿のかくれにしは。いかになりけると、胸うちさわぎて、ゆ
びををりかずへ候へば、すでに二ケ年十六月四百余日にすぎ候ふか。そ
れには母なれば御をとづれや候ふらむ。いかにきかせ給はぬやらむ。
りひとつのなんだをうかべて候ふ。まことやまことや去年の九月五日こ
(故)五郎殿のかくれにしは。いかになりけると、胸うちさわぎて、ゆ
びををりかずへ候へば、すでに二ケ年十六月四百余日にすぎ候ふか。そ
れには母なれば御をとづれや候ふらむ。いかにきかせ給はぬやらむ。
ふりし雪もまたふれり。ちりし花もまたさきて候ひき。無常ばかりま
たもかへりきこへ候はざりけるか。あらうらめし、あらうらめし。
上野殿母御前御返事
【現代語訳】たもかへりきこへ候はざりけるか。あらうらめし、あらうらめし。
余所にてもよきくわんざ(冠者)かな、よきくわんざかな。玉のやう
なる男かな、玉のやうなる男かな。いくせをやのうれしくをぼすらむと
み候ひしに、満月に雲のかかれるがはれずして山へ入り、さかんなる花
のあやなくかぜにちるがごとしと、あさましくこそをぼへ候へ。
なる男かな、玉のやうなる男かな。いくせをやのうれしくをぼすらむと
み候ひしに、満月に雲のかかれるがはれずして山へ入り、さかんなる花
のあやなくかぜにちるがごとしと、あさましくこそをぼへ候へ。
日蓮は所らう(労)のゆへに人々に御文の御返事も申さず候ひつる
か、この事はあまりになげかしく候へば、ふでをとりて候ふぞ。これも
よもひさしくもこのよに候はじ。一定五郎殿にゆきあいぬとをぼへ候
ふ。母よりさきにけさん(見参)し候わば、母のなげき申しつたへ候は
ん。事々またまた申すべし。恐恐謹言。
か、この事はあまりになげかしく候へば、ふでをとりて候ふぞ。これも
よもひさしくもこのよに候はじ。一定五郎殿にゆきあいぬとをぼへ候
ふ。母よりさきにけさん(見参)し候わば、母のなげき申しつたへ候は
ん。事々またまた申すべし。恐恐謹言。
十二月八日 日 蓮 花押
上野殿母御前御返事
無常と血涙の情愛
この身延の様子は前に申し上げましたが、あい変わらずの状況です。
さて私は去る文永11年(1274)6月17日にこの山に入りまして、弘安4年12月8日
の今日にいたるまで、一歩もこの山を出たことがありません。修行一途に過ごしていま
す。とはいっても、8年の間、痩せ病にかかったことや、老齢になったことやで、年々
に体が衰弱し、心が散漫になってしまったのですが、とくに今年は、春からこの病気が
発って、秋を過ぎ、冬の今にいたるまで治まらず、体は日々に衰え、病は夜々に重くな
って、この十日あまりはもう食事もほとんど喉を通らなくなりました。その上、雪は降
り積もり、寒さは襲いかかります。体が冷えることは石のようです。胸の冷たいことは
氷のようです。ところが、このたび送っていただいた清酒を温かく燗して、かっこうを
バリッと食い切って、ひとたび飲み下しますと、火をたいたように胸が熱くなり、湯に
つかったように体が暖かくなります。流れ出る汗で垢を洗い落とし、したたり落ちる汗
で足を濯ぎ清めます。
上野殿母御前御返事
【語註】
※1 提:酒を盃に注ぐための弦のある器。 上等の米一駄、清酒一筒〈20提か〉、かつこう一紙袋、お送りいただきました。
御礼申し上げます。
御礼申し上げます。
この身延の様子は前に申し上げましたが、あい変わらずの状況です。
さて私は去る文永11年(1274)6月17日にこの山に入りまして、弘安4年12月8日
の今日にいたるまで、一歩もこの山を出たことがありません。修行一途に過ごしていま
す。とはいっても、8年の間、痩せ病にかかったことや、老齢になったことやで、年々
に体が衰弱し、心が散漫になってしまったのですが、とくに今年は、春からこの病気が
発って、秋を過ぎ、冬の今にいたるまで治まらず、体は日々に衰え、病は夜々に重くな
って、この十日あまりはもう食事もほとんど喉を通らなくなりました。その上、雪は降
り積もり、寒さは襲いかかります。体が冷えることは石のようです。胸の冷たいことは
氷のようです。ところが、このたび送っていただいた清酒を温かく燗して、かっこうを
バリッと食い切って、ひとたび飲み下しますと、火をたいたように胸が熱くなり、湯に
つかったように体が暖かくなります。流れ出る汗で垢を洗い落とし、したたり落ちる汗
で足を濯ぎ清めます。
貴重な品々をお送りくださったお志に対し、何と御礼を申し上げようかと嬉しく思っ
ていましたところ、両眼から熱い涙があふれてきました。ほんとにほんとに、ご子息故
五郎殿が亡くなってしまったのは去年の9月5日のことでしたね。その後は故五郎殿は
冥途でどうしていらっしゃることかと心配になって指折り数えてみれば、もうあれから
2箇年、月にすると16箇月、日にすると400余日が過ぎているのですね。あなたは母な
のですから、ご子息からの連絡をお受けになったことでしょう。どうして様子を教えて
くださらないのですか。
ていましたところ、両眼から熱い涙があふれてきました。ほんとにほんとに、ご子息故
五郎殿が亡くなってしまったのは去年の9月5日のことでしたね。その後は故五郎殿は
冥途でどうしていらっしゃることかと心配になって指折り数えてみれば、もうあれから
2箇年、月にすると16箇月、日にすると400余日が過ぎているのですね。あなたは母な
のですから、ご子息からの連絡をお受けになったことでしょう。どうして様子を教えて
くださらないのですか。
去年の冬に降った雪が今年も降りました。去年散った花が今年も咲きました。こうし
て自然は巡回をくり返すのに、亡くなった人ばかりは二度と息を吹き返しなさることが
ないのですね。ああ怨めしいことです、怨めしいことです。
て自然は巡回をくり返すのに、亡くなった人ばかりは二度と息を吹き返しなさることが
ないのですね。ああ怨めしいことです、怨めしいことです。
故五郎殿は、余所目にも、頼もしい若者であることよ、立派な青年であることよ、親
はどれほど嬉しくお思いになっているだろうか、と見ていましたが、こうこうと照る満
月にむら雲がかかってそのまま山の端に入ってしまうように、あるいは今をさかりと咲
き匂う桜の花が強風にあってはらはらと散ってしまうように、あまりにはかなく若い命
を落としてしまわれたことよと、慨歎に堪えません。
はどれほど嬉しくお思いになっているだろうか、と見ていましたが、こうこうと照る満
月にむら雲がかかってそのまま山の端に入ってしまうように、あるいは今をさかりと咲
き匂う桜の花が強風にあってはらはらと散ってしまうように、あまりにはかなく若い命
を落としてしまわれたことよと、慨歎に堪えません。
私は病気のために、皆さんからのお手紙に対して返事も書かずにおりましたが、故五
郎殿のご逝去のことは、あまりに悲しく思いますので筆を執ったのですよ。私自身、も
はや長くはこの世にいないでしょう。きっと近いうちに五郎殿とお会いすると思います。
母のあなたより先にお目にかかったら、母上がどれほど歎き悲しんでいるかということ
をお伝えいたしましょう。詳細はまたお便りします。恐々謹言。
郎殿のご逝去のことは、あまりに悲しく思いますので筆を執ったのですよ。私自身、も
はや長くはこの世にいないでしょう。きっと近いうちに五郎殿とお会いすると思います。
母のあなたより先にお目にかかったら、母上がどれほど歎き悲しんでいるかということ
をお伝えいたしましょう。詳細はまたお便りします。恐々謹言。
十二月八日 日 蓮 花押
上野殿母御前御返事
【語註】
※2 かつこう(藿香):シソ科の多年草で各地に野生する薬用植物。茎や葉を乾燥さ
せて、頭痛・消化不良などの飲み薬とする。
【解説】
日蓮は3年(1277)の暮から下痢の症状が始まっていた。それ以来の病状について語
り、冷え切った体をいただいた酒で温めていると書いて、感謝の言葉としている。
そこで、亡くなった上野七朗五郎のことに思いを馳せる。五郎の死は、兄の次郎時光
と一緒に日蓮に面会した直後のことであった。享年16、あまりの急なことに、日蓮は驚
きと悲しみの思いを込めた手紙を書いていた。それから、約1年半、ことあるごとに母
の悲しみに寄り添う手紙をしたためた。亡くなってからの期間を、数え年の数で「2ケ
年」、月数にして「16月」、日数にして「400余日」と言い換えているのは、その悲し
さは、「2ケ年」という大づかみにできるものではなく、月々、日々にそれぞれの悲し
みがあったことを察してのことであろう。
この手紙が書かれたのは、弘安4年(1281)12月、自らの死の10カ月前のことであ
る。日蓮の体力は、相当に衰えていたことであろう。その容態を包み隠すことなく記し
ている。この手紙は、病気のため筆をとることの不自由さを押してまで、夭逝した子の
母親をなぐさめる温かさに満ちている。
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波木井の御影(身延山久遠寺蔵)
上野尼御前御返事 ③
この仏、無間地獄に入り給ひしかば、大水を大火になげたるがごとし。
少し苦しみやみぬる処に、我合掌して仏に問ひ奉りて、『いかなる仏
ぞ』と申せば、仏答へて『我はこれ汝が子息遺竜 が只今書くところの法
華経の題目六十四字の内に妙の一字なり』と言 ふ。八巻の題目は八八六
十四の仏、六十四の満月と成り給へば、無間地獄の大闇即ち大明となり
し上、無間地獄は『〔当位即妙にして本位を改めず〕』と申して
常寂光 の都と成りぬ。我及び罪人とは皆蓮 の上の仏と成りて、只今
都率 の内院へ上り参り候ふが、まづ汝に告ぐるなり」と云云。
遺龍云はく、「我手にて書きけり、いかでか君たすかり給ふべき。し
かも我が心よりかくにあらず、いかにいかに」と申せば、
かも我が心よりかくにあらず、いかにいかに」と申せば、
父答へて云はく、「汝はかなし、汝が手は我手なり。汝が身は我身な
り。汝が書きし字は我が書きし字なり。汝心に信ぜざれども、手に書く
故に既にたすかりぬ。臂へば小児の火を放つに心にあらざれども物を焼
くがごとし。法華経もまたかくのごとし。存外に信を成せば必ず仏にな
る。またその義を知りて謗ずる事なかれ。ただし在家の事なれば、いひ
しこと故大罪なれども懺悔しやすし」と云云。
この由をはわき(伯耆)どのよみきかせまいらさせ給ひ候へ。事々そ
うそうにてくはしく申さず候ふ。恐恐謹言。
十一月十五日 日 蓮 花押
上野尼ごぜん御返事
【現代語訳】
り。汝が書きし字は我が書きし字なり。汝心に信ぜざれども、手に書く
故に既にたすかりぬ。臂へば小児の火を放つに心にあらざれども物を焼
くがごとし。法華経もまたかくのごとし。存外に信を成せば必ず仏にな
る。またその義を知りて謗ずる事なかれ。ただし在家の事なれば、いひ
しこと故大罪なれども懺悔しやすし」と云云。
この事を大王に申す。大王の言はく、「我願既にしるし有り」とて遺
竜いよいよ朝恩を蒙り、国またこぞつてこの御経を仰ぎ奉る。――
竜いよいよ朝恩を蒙り、国またこぞつてこの御経を仰ぎ奉る。――
しかるに故五郎殿と入道殿とは尼御前の父なり子なり。尼御前はかの
入道殿のむすめなり。今こそ入道殿は都卒の内院へ参り給ふらめ。
入道殿のむすめなり。今こそ入道殿は都卒の内院へ参り給ふらめ。
この由をはわき(伯耆)どのよみきかせまいらさせ給ひ候へ。事々そ
うそうにてくはしく申さず候ふ。恐恐謹言。
十一月十五日 日 蓮 花押
上野尼ごぜん御返事
【現代語訳】
この仏が無間地獄に出現なさったら、まるで大水を大火にかけたように苦しみがやや
治まったものだから、私は不思議に思って『あなたは、どういう仏でいらっしゃるので
すか』とお聞きすると、仏が『私は、お前の子の遺竜が今度書いた法華経の題字64のう
ちの妙という一字である』とお答えになられた。法華経8巻の題目は〈妙法蓮華経巻第
一〉といった8字の8倍で64字になるが、その一字一字が仏となり満月となられるので、
無間地獄の大闇黒に大光明が差しこんで明るくなったばかりでなく、『何ごとももとの
位相を改めることなくそのままで妙なるはたらきを現わす』といわれる通り無間地獄は
そのまま常寂光の浄土となった。私も他の罪人たちも、みな蓮の上の仏となって、今、
弥勒菩薩のいらっしゃる都率天の内院に参上するところだが、何よりも先にこの奇特な
出来事をお前に知らせるために現われたのだ」と答えました。
遺竜が「しかし、法華経の題目は私がこの手で書いたのですよ。それなのになぜ父上
が救われなさるのでしょう。しかも私は、心ならずもいやいや書かされたというのに。
いったいなぜなのでしょう」と云うと、
が救われなさるのでしょう。しかも私は、心ならずもいやいや書かされたというのに。
いったいなぜなのでしょう」と云うと、
父の天人が答えるには「お前は思慮が足りないな。お前の手は私の手、お前の体は私
の体なのだ。だからお前の書いた字は私が書いた字なのだよ。お前は仏法を心から信じ
ていたわけではないが、手が法華経を書写したので、その功徳によって私が救われたの
だ。たとえば、子供が火をもてあそんでいて知らないうちに物を焼いてしまうようなも
のだ。法華経の功徳も同様に、意識はしなくても信仰の世界に接触すると、それだけで
必ず仏になる。このことをよく心得て、おろそかに扱ってはいけないよ。それにしても
私たちは、もともとが仏法とは縁の薄い在家の身であったので、いったことが大罰に当
たることであっても、懺悔をすることによってすぐ救われたのだろう」
の体なのだ。だからお前の書いた字は私が書いた字なのだよ。お前は仏法を心から信じ
ていたわけではないが、手が法華経を書写したので、その功徳によって私が救われたの
だ。たとえば、子供が火をもてあそんでいて知らないうちに物を焼いてしまうようなも
のだ。法華経の功徳も同様に、意識はしなくても信仰の世界に接触すると、それだけで
必ず仏になる。このことをよく心得て、おろそかに扱ってはいけないよ。それにしても
私たちは、もともとが仏法とは縁の薄い在家の身であったので、いったことが大罰に当
たることであっても、懺悔をすることによってすぐ救われたのだろう」
夢心地から覚めた遺竜は、このことを大王に申し上げました。大王は「朕の法華経書
写の願は、もうさっそく効験を現わした」と喜び、遺竜はその後ますます王から庇護を
受け、国中の人々は挙げて法華経を信奉するようになりました。――
写の願は、もうさっそく効験を現わした」と喜び、遺竜はその後ますます王から庇護を
受け、国中の人々は挙げて法華経を信奉するようになりました。――
烏竜・遺竜の話にひき比べて思えば、故五郎殿と故六郎入道殿とは、尼御前あなたの
子であり父である。尼御前は故六郎入道殿の娘にあたります。尼御前の法華信仰の功徳
によって、今はもう故入道殿は都率天の内院へ参詣していらっしゃることでしょう。
※1
子であり父である。尼御前は故六郎入道殿の娘にあたります。尼御前の法華信仰の功徳
によって、今はもう故入道殿は都率天の内院へ参詣していらっしゃることでしょう。
※1
この手紙に書いた内容について伯耆坊日興殿が読み聞かせて解説なさってください。
いろいろと急いでいることがあるので詳細は省略します。恐々謹言。
いろいろと急いでいることがあるので詳細は省略します。恐々謹言。
十一月十五日 日 蓮 花押
上野尼御前御返事
【語註】
※1 伯耆坊日興:日蓮聖人が岩本実相寺を訪問し、一切経を閲覧された時、日興
は13歳で大聖人の弟子となり伯耆房という名をいただいている。
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波木井の御影(身延山久遠寺蔵)
上野尼御前御返事②
その子をば遺竜と申す。又漢土第一の手跡なり。親の跡を追ふて「法華経を書かじ」と云ふ願を立てたり。その時大王おはします、司馬氏と
名づく。仏法を信じ、殊に法華経をあふぎ給ひしが、同じくは我国の中
に手跡第一の者にこの経を書かせて持経とせんとて遺竜を召す。竜の申
さく、「父の遺言あり。こればかりは免じ給へ」と云云。大王父の遺言
と申す故に他の手跡を召して一経をうつし了んぬ。しかりといへども御
心に叶ひ給はざりしかば、また遺竜を召して言はく、「汝親の遺言と申
せば朕まげて経を写つさせず、ただ八巻の題目ばかりを勅に随ふべし」
と云云。返す返す辞し申すに、王瞋りて云はく、「汝が父と云ふも我臣
なり。親の不孝を恐れて題目を書かずば違勅の科あり」と、勅定度々重
かりしかば、不孝はさる事なれども、当座の責めをのがれがたかりしか
ば、法華経の外題を書きて王へ上げ、宅に帰りて、父のはか(墓)に向
ひて、血の涙を流して申す様は、「天子の責め重きによて、亡き父の遺
言をたがへて、既に法華経の外題を書きぬ。不孝の責め免れがたし」と
歎きて、三日の間墓を離れず、食を断ち既に命に及ぶ。
三日と申す寅の時に已に絶死し畢つて夢のごとし。虚空を見れば天人
一人おはします。帝釈を絵にかきたるがごとし。無量の眷属天地に充
満せり。
一人おはします。帝釈を絵にかきたるがごとし。無量の眷属天地に充
満せり。
ここに竜問ふて云はく、「いかなる人ぞ。」
答へて云はく、「汝知らずや、我はこれ父の烏竜なり。我人間にあり
し時、外典を執し仏法をかたきとし、殊に法華経に敵をなしまいらせし
故に無間に堕つ。日日に舌をぬかるる事数百度、或るは死し、或るは生
き、天に仰ぎ地に伏してなげけども叶ふ事なし。人間へ告げんと思へど
も便りなし。汝、我子として『遺言なり』と申せしかば、その言、炎と
成つて身を責め、剣と成つて天より雨下る。汝が不孝極まり無かりしか
ども、我が遺言を違へざりし故に、自業自得果うらみがたかりし所に、
金色の仏一体、無間地獄に出現して、『たとえ法界に遍き断善の諸の衆
生、一たび法華経を聞かば決定して菩提を成ぜしむ』云云。
【現代語訳】
烏竜の遺言を受けた子を遺竜といいます。この子もまた当国第一の書家でした。親の
跡を継いで「法華経を書かない」という願を立てました。その時代に大王がいらっしゃ
いました。司馬氏という名の方です。司馬氏は仏法を信じ、中でも法華経を厚く信仰し
ていましたので、同じことならば国一番の書家に法華経を書写させて、それを常に所持
する経典としようと思い立ち、遺竜を召して法華経の書写を命じました。遺竜は「父の
遺言がありますので、こればかりはお許しください」といいました。大王は、父の遺言
があるのではやむをえないと思い、他の書家を呼んで法華経を書写させました。しかし、
その写経がお気に召さなかったので、また遺竜を招いて「親の遺言だというので朕は我
慢をして写経を頼むのをあきらめた。しかし、八巻の題目だけは書いてもらいたい。こ
れは厳命である」と云いました。遺竜は何回も辞退したのですが、王が怒って「お前の
父といってもわが臣下である。親への不孝になるといって書かなければ、違勅の罪にあ
たるぞ」とまで厳しく命令なさることがたびたびに及んだので、遺竜は、親不孝は悪い
ことだとは思いながらも、当面の刑罰をまぬがれるために、法華経の表紙の題だけを書
いて王に献上し、家に帰って父の墓前にぬかずき、血の涙を流して「天子の追求が厳し
いので抵抗しきれず、亡き父上の遺言に反して法華経の外題を書いてしまいました。不
幸の罪は重大です。まことに申しわけありませんでした」と懺悔しながら、三日間は墓
前を離れずに断食しましたので、命が危くなりました。
3日後の午前4時、遺竜は仮死状態に陥って夢幻の世界をさまよいました。大空を見
※1
上げると天人が一人いらっしゃいます。帝釈天を絵に画いたような神神しさです。その
方を囲んで数えきれないほど多くの天人たちが天地に満ち満ちていました。
※1
上げると天人が一人いらっしゃいます。帝釈天を絵に画いたような神神しさです。その
方を囲んで数えきれないほど多くの天人たちが天地に満ち満ちていました。
そこで遺竜は「あなたは、どなたですか」と尋ねました。
天人は「お前は知らないのか。私は父の烏竜なのだよ。私が人間界にいた時、仏典以
外の書物に心酔して仏法を毛嫌いし、ことに法華経を敵視したために無間地獄に落ちて
しまった。毎日々々舌を抜かれること数百回、あるいは死にあるいは生き返りして苦し
められるので、天を仰ぎ地に伏して歎き悲しんだのだが、いっこうに許してもらえない。
そこで人間に訴えようと思ったけれども、連絡の取りようがない。さらに辛いことには、
お前が私の遺言を忠実に守って『仏経は書写しない』といったものだから、その言葉が、
あるいは炎となって身を焼き、あるいは剣となって空から降ってきて体につきささるの
だ。お前は親を苦しめるというたいへんな不孝をしたことになるのだが、私の遺言に背
かなかったゆえの出来事だから、これは自業自得であって、誰も怨むわけにはいかない
とあきらめていると、金色に輝く仏が一体、無間地獄に出現して『たとえ、世界中にあ
まねく満ちている断善極悪の衆生たちであっても、ひとたび法華経に耳を傾ければ必ず
菩提を成就させる』と偈文をお唱えになった。(つづく)
【語註】
※1 帝釈天:インドの雷神インドラが仏教にとり入れられ、大梵天王と並ぶ最も有力
な護法の天神となったもの。忉利天【とうりてん】の主で須弥山頂の善見城(喜
見城)に住み、四天王を率いて仏法を外敵から護る。特に阿修羅王とは激闘をし
た。
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波木井の御影(身延山久遠寺蔵)
上野尼御前御返事①
上野尼御前御返事①
弘安4年(1281)11月15日、60歳、身延、和文。
故事をひきながら、法華経の信心によって、亡き父子がともに成仏していることを示したもの。
麞牙 一駄〈四斗定〉・あらひいも(洗芋)一俵送給びて南無妙法蓮華
経と唱へまいらせ候ひ了 んぬ。
経と唱へまいらせ候ひ了 んぬ。
妙法蓮華経と申すは蓮に譬 へられて候ふ。天上には摩訶曼陀羅華 、人
間には桜の花、これ等はめでたき花なれども、これらの花をば法華経の
譬へには仏取り給ふ事なし。一切の花の中に取り分けてこの花を法華経
に譬へさせ給ふ事はこの故候ふなり。
或 は「前華後菓」と申して花は前 に菓 は後 なり。或は「前菓後華」と
申して菓は前に花は後なり。或は「一華多菓」、或は「夕華一菓」、或
は「無華有菓」と品々に候へども、蓮華と申す花は菓と花と同時なり。
一切経の功徳は先に善根を作 して後に仏とは成ると説く。かかる故に
不定なり。法華経と申すは手に取ればその手やがて仏に成り、口に唱ふ
ればその口即ち仏なり。譬へば天月の東の山の端に出づれば、その時即
ち水に影の浮かぶがごとく、音とひびきとの同時なるがごとし。故に経
に云はく「〔もし法を聞くこと有らん者は一として成仏せざること無
し〕」云云。文の心は「この経を持 つ人は百人は百人ながら、千人は千
人ながら、一人もかけず仏に成る」と申す文なり。
そもそも御消息を見候へば、尼御前の慈父 、故松野の六郎左衛門入道
殿の忌日と云云 。「子息多ければ孝養まちまちなり。しかれども必ず法
華経に非ざれば謗法 等」云云。釈迦仏の金口 の説に云はく「〔世尊の法
は久しうして後、かならずまさに真実を説きたまうべしと。多宝の証明
に云はく妙法蓮華経は皆これ真実なり〕」と。十方の諸仏の誓ひに云は
く「〔舌相梵天 に至る〕」云云。
――これよりひつじさるの方に大海をわたりて国あり、漢土と名づく。
かの国には或は仏を信じて神を用ひぬ人もあり、或は神を信じて仏を用
ひぬ人もあり、或は日本国も始めはさこそ候ひしか。しかるにかの国に
烏竜と申す手書ありき。漢土第一の手なり。例せば日本国の道風・行
成等のごとし。この人仏法をいみて「経をかかじ」と申す願を立てた
り。この人死期来たりて重病をうけ、臨終にをよんで子に遺言して云は
く、「汝は我子なり。その跡絶えずしてまた我よりも勝れたる手跡なり。
たとひいかなる悪縁あるとも法華経をかくべからず」と云云。しかして
後五根より血の出づる事泉の涌くがごとし。舌八つにさけ、身くだけて
十方にわかれぬ。しかれども一類の人々も三悪道を知らざれば地獄に
堕つる先相ともしらず。
【現代語訳】
蓮華と成仏
さて御手紙を拝見しますと、尼御前の慈父でいらっしゃった故松野六郎左衛門入道殿
のご命日がめぐってきたということですね。「父には子どもが多いから供養の仕方はま
ちまちであるが、いずれにせよ法華経によるものでなければ謗法ではないか」とのお尋
ね、まったくその通りです。法華経だけが真実の教えであるということを方便品に記さ
れたところで説明すると、まず釈迦仏ご自身が「世尊は、久しく方便の説を述べ、その
後に必ず真実の法を説く」とおっしゃると、それを多宝如来が「妙法蓮華経は、みなこ
れ真実である」と証明し、十方の国土の諸仏が「広長舌を梵天まで届かす」という誓願
の相を示して称えたということによって明らかです。
――日本から西南の方に大海を渡って行くと一つの国があります。漢土という国です。
その国には、あるいは仏を信仰して神を崇拝しない人もおり、あるいは神を信仰して仏
を崇拝しない人もいます。ことによると日本国もはじめはそうだったのでしょう。さて
※2
その国に烏竜という書家がいました。当国第一の名筆家です。日本の例でいえば小野道
風や藤原行成のような人です。烏竜は仏法を忌み嫌って「仏経は書写しない」という願
を立てました。この人は最期近くに重病を患っていましたが、死に臨んで子に遺言を
し、「お前は私の子だ。書の道を受け継ぎ、私よりも良い字を書く。しかし、たとえど
んな悪いめぐりあわせになっても法華経を書写してはいけない」と命じました。そして
死んだのですが、眼・耳・鼻・舌・身の五根から血が泉のように流れ出ました。また舌
が八つに裂け、身体が十方にわたって砕け散りました。しかし一族の人たちは、地獄・
餓鬼・畜生という三悪道のことを知らないものですから、烏竜の死相が地獄に落ちる前
兆であることに気がつきませんでした。(つづく)
【語註】
※1 曼陀羅華:曼陀羅華は天上界の花で、芳香を放ち、人々に愉悦を与える。この花 白米一駄〈四斗定〉ならびに洗い芋一俵お送りいただき、感謝の心をこめて南無妙法
蓮華経とお唱えいたしました。
蓮華経とお唱えいたしました。
※1
妙法蓮華経というお経は蓮華にたとえられています。天上界では摩訶曼陀羅華、人間
界では桜の花、これらはすばらしい花ですが、仏はこれらの花を法華経のたとえとして
採用なさいません。すべての花の中から取り分けて蓮華を法華経のたとえになさったの
には、はっきりとした理由があるのです。
妙法蓮華経というお経は蓮華にたとえられています。天上界では摩訶曼陀羅華、人間
界では桜の花、これらはすばらしい花ですが、仏はこれらの花を法華経のたとえとして
採用なさいません。すべての花の中から取り分けて蓮華を法華経のたとえになさったの
には、はっきりとした理由があるのです。
そもそも花には、「前華後菓」といって花が前に咲き果実が後になるものがあり、あ
るいは「前菓後華」といって果実が前になり花が後に咲くものがあります。その他、あ
るいは「一華多菓」、あるいは「多華一菓」、あるいは「無華有菓」とたいへん多くの
種類がありますが、蓮華というのは特別で、果実のなるのと花の咲くのとが同時なので
す。
るいは「前菓後華」といって果実が前になり花が後に咲くものがあります。その他、あ
るいは「一華多菓」、あるいは「多華一菓」、あるいは「無華有菓」とたいへん多くの
種類がありますが、蓮華というのは特別で、果実のなるのと花の咲くのとが同時なので
す。
法華経以外の一切経の功徳は、先に善い業因の花を咲かせて、後に仏の果実がなると
説きます。だから仏の果実を結ぶかどうかは決まっていません。ところが法華経という
のは、手に取ればその手がたちまちに仏になり、口に唱えればその口がそのまま仏であ
るのです。たとえば天の月が東の山から出ると、そのとたんに水に月影が映るようなも
のであり、音と響きとが同時に鳴るようなものです。だから法華経の方便品に「もし、
法を聞くことがあろう者は、一人として成仏しないことがない」とあります。この一節
の内容は「法華経を受持する人は、百人なら百人すべて、千人なら千人すべて、一人も
残らずに仏になる」というのです。
説きます。だから仏の果実を結ぶかどうかは決まっていません。ところが法華経という
のは、手に取ればその手がたちまちに仏になり、口に唱えればその口がそのまま仏であ
るのです。たとえば天の月が東の山から出ると、そのとたんに水に月影が映るようなも
のであり、音と響きとが同時に鳴るようなものです。だから法華経の方便品に「もし、
法を聞くことがあろう者は、一人として成仏しないことがない」とあります。この一節
の内容は「法華経を受持する人は、百人なら百人すべて、千人なら千人すべて、一人も
残らずに仏になる」というのです。
父を助けた子の話ーー遺竜・烏龍と法華経の書写
さて御手紙を拝見しますと、尼御前の慈父でいらっしゃった故松野六郎左衛門入道殿
のご命日がめぐってきたということですね。「父には子どもが多いから供養の仕方はま
ちまちであるが、いずれにせよ法華経によるものでなければ謗法ではないか」とのお尋
ね、まったくその通りです。法華経だけが真実の教えであるということを方便品に記さ
れたところで説明すると、まず釈迦仏ご自身が「世尊は、久しく方便の説を述べ、その
後に必ず真実の法を説く」とおっしゃると、それを多宝如来が「妙法蓮華経は、みなこ
れ真実である」と証明し、十方の国土の諸仏が「広長舌を梵天まで届かす」という誓願
の相を示して称えたということによって明らかです。
――日本から西南の方に大海を渡って行くと一つの国があります。漢土という国です。
その国には、あるいは仏を信仰して神を崇拝しない人もおり、あるいは神を信仰して仏
を崇拝しない人もいます。ことによると日本国もはじめはそうだったのでしょう。さて
※2
その国に烏竜という書家がいました。当国第一の名筆家です。日本の例でいえば小野道
風や藤原行成のような人です。烏竜は仏法を忌み嫌って「仏経は書写しない」という願
を立てました。この人は最期近くに重病を患っていましたが、死に臨んで子に遺言を
し、「お前は私の子だ。書の道を受け継ぎ、私よりも良い字を書く。しかし、たとえど
んな悪いめぐりあわせになっても法華経を書写してはいけない」と命じました。そして
死んだのですが、眼・耳・鼻・舌・身の五根から血が泉のように流れ出ました。また舌
が八つに裂け、身体が十方にわたって砕け散りました。しかし一族の人たちは、地獄・
餓鬼・畜生という三悪道のことを知らないものですから、烏竜の死相が地獄に落ちる前
兆であることに気がつきませんでした。(つづく)
【語註】
の大きなものが摩訶(大)曼陀羅華である。
※2 烏竜:法華伝記に収める説話の主人公。道教を信じて仏教を排したために地獄に
落ちた能書家。子息遺竜の法華経書写によって救われる。
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波木井の御影(身延山久遠寺蔵)
上野尼御前御返事
弘安4年(1281)正月13日、60歳、於身延、和文
わが子を亡くした母の悲嘆、辛さを思い起こし、わが子恋しくば釈迦仏を信じて霊山浄土にまいり、亡き子とめぐり会えるように示して信心をすすめたもの。上野尼御前御返事
弘安4年(1281)正月13日、60歳、於身延、和文
聖人ひとつつ(筒)、ひさげ(提子)十か。十字百。あめひとをけ
(一桶)、二升か。柑子ひとこ(一籠)、串柿十連。ならびにおくり候
ひ了んぬ。
(一桶)、二升か。柑子ひとこ(一籠)、串柿十連。ならびにおくり候
ひ了んぬ。
春のはじめ御喜び花のごとくひらけ、月のごとくみたせ給ふべきよ
し、うけ給はり了んぬ。
そもそも故五らうどのの御事こそをもいいでられて候へ。ちりし花も
さかんとす、かれしくさ(枯草)もねぐみぬ。故五郎殿もいかでかかへ
らせ給はざるべき。あわれ無常の花とくさとのやうならば、人丸にはあ
らずとも、花のもともはなれじ。いはうるこま(駒)にあらずとも、草
のもとをばよもさらじ。
経文には子をばかたきととかれて候ふ。それもゆわれ候ふか。梟とさかんとす、かれしくさ(枯草)もねぐみぬ。故五郎殿もいかでかかへ
らせ給はざるべき。あわれ無常の花とくさとのやうならば、人丸にはあ
らずとも、花のもともはなれじ。いはうるこま(駒)にあらずとも、草
のもとをばよもさらじ。
申すとりは母をくらう。破鏡と申すけだものは父をがいす。あんろく
(安禄)山と申せし人は、師史明と申す子にころされぬ。義朝と申せし
つはものは、為義と申すちちをころす。子はかたきと申す経文ゆわれて
候ふ。
また子は財と申す経文あり。妙荘厳王は一期の後、無間大城と申
す地獄へ堕ちさせ給ふべかりしが、浄蔵と申せし太子にすくわれて、
大地獄の苦をまぬがれさせ給ふのみならず。沙羅樹王仏と申す仏となら
せ給ふ。生提女と申せし女人は、慳貪のとがによて餓鬼道に堕ちて候
ひしが、目連と申す子にたすけられて餓鬼道を出て候ひぬ。されば子を
財と申す経文たがう事なし。
故五郎殿はとし十六歳、心ね、みめかたち、人にすぐれて候ひし上、
男ののう(能)そなわりて、万人にほめられ候ひしのみならず、をやの
心に随ふこと、水のうつわものにしたがい、かげの身にしたがうがごと
し。いへ(家)にてははしら(柱)とたのみ、道にてはつへとをもい
き。はこのたから(筐財)もこの子のため、つかう所従ふもこれがため。
我し(死)なばになわれてのぼへゆきなんのちのあと、をもいをく事な
しとふかくをぼしめしたりしに、いやなくいやなくさきにたちぬれば、
いかんにや。ゆめかまぼろしか、さめなんさめなんとをもへども、さめ
ずしてとし(年)もまたかたりぬ。
いつとまつべしともをぼへず、ゆきあう(行逢)べきところだにも申
しをきたらば、はねなくとも天へものぼりなん。ふねなくとももろこし
へもわたりなん。大地のそこにありときかば、いかでか地をもほらざる
べきとをぼしめすらむ。
しをきたらば、はねなくとも天へものぼりなん。ふねなくとももろこし
へもわたりなん。大地のそこにありときかば、いかでか地をもほらざる
べきとをぼしめすらむ。
やすやすとあわせ給ふべき事候ふ。釈迦仏を御使として、りやうぜん
浄土へまいりあわせ給へ。「〔もし法を聞くもの有らば、一として成仏
せざるは無し〕」と申して、大地はささばはづるとも、日月は地に堕ち
給ふとも、しを(潮)はみちひぬ代はありとも、花はなつ(夏)になら
ずとも、「南無妙法蓮華経」と申す女人の、をもう子にあわずという事
はなしととかれて候ふぞ。いそぎいそぎつとめさせ給へ、つとめさせ給
へ。恐恐謹言。
浄土へまいりあわせ給へ。「〔もし法を聞くもの有らば、一として成仏
せざるは無し〕」と申して、大地はささばはづるとも、日月は地に堕ち
給ふとも、しを(潮)はみちひぬ代はありとも、花はなつ(夏)になら
ずとも、「南無妙法蓮華経」と申す女人の、をもう子にあわずという事
はなしととかれて候ふぞ。いそぎいそぎつとめさせ給へ、つとめさせ給
へ。恐恐謹言。
正月十三日 日 蓮 花押
上野尼御前御返事
【現代語訳】
子は敵と子は財
故五郎殿は、年齢わずか16歳、心情や容貌が他人よりも秀れていらっしゃった上に、
男らしさにあふれて人々の賞賛の的であったばかりでなく、親の心に背かないことは、
水が器にしたがって形を変え、影が身に添って離れないようでした。あなたは、故五郎
殿のことを、家にいては柱と頼み、道にあっては杖と思ったことでしょう。そして、箱
に納めてある財宝もこの子のために蓄えたのであり、召し使う従者もこの子のため故に
雇い入れたもの、そして自分が死んだらこの子に棺をかつがれて野辺の墓所へ葬られる
のだから、その後のことは何の心配もないと深く思っていらっしゃったでしょうに、故五
郎殿は、その期待をすっかり裏切って、先に黄泉の国へ旅立ってしまったので、あなたの
お気持ちはどれほどお辛いことでしょうか。夢か幻か、夢ならば早く覚め、幻ならばすぐ
に消えてもらいたいと思うのですけれど、夢も覚めず、幻も消えないで年が改まってしま
いました。
いつになったら故五郎殿と再会できるかわからないまでも、会える場所だけでもお知
らせしておいたならば、あなたは、羽がなくても天へ昇っていくでしょう。船がなくて
も中国まで渡るに違いありません。また大地の底にその場所があると聞いたならば何と
しても地を掘り割って会いに行かずにはおかない、とお思いになるでしょう。
正月十三日 日 蓮 花押
上野尼御前御返事
【語註】 ※1 提子:水・酒などを入れて手でさげる容器。
※2 安禄山:唐代の叛臣。玄宗皇帝に寵遇され、楊貴妃と結んでその養子
となる。楊貴妃の兄の宰相楊国忠と対立し、755年、史思明(史師明)とと
もに反乱を起こして勝利し、大燕皇帝と自称したが、後、子の安慶緒に殺さ
れる。史思明に関する記述は事実に反する。
※3 青提女:摩訶目犍連【まかもっけんれん】(目連)の母。慳貪の罪に
よって餓鬼道に落ち、目連の供養によって救われたことが盂蘭盆経に見え
る。
【解説】
七郎五郎が亡くなって16カ月、400日余を過ぎた弘安4年正月のお手紙である。春を
迎え、花も咲き、草の芽もふこうとしているのに、七郎五郎が生き返ることはない。ど
うして駄目なのでしょうか?宗教者らしからぬ言葉で始まる。
経文には子は財と説かれているが、七郎五郎は尼御前にとってまことに財であった。
この子を杖柱のように思い、箱の財もこの子のためと思い、自分が死んだならは、二人
の男の子に見守られ荷われて墓所に行くことを本望としていたのに。まして、七郎五郎
は男の子である上、気質から顔かたちまで人に勝れ、万事に通じ心の優しい人であった。
人にも褒められ、親の身としてどんなにか嬉しく思ったことであろう。くわえて、親の
心に随うことは水が器に随い影が身に添うようであった。若くして親のごとく法華経の
信心に励んでもいた。念仏を唱える人の多い世なのに、七郎五郎はそれらの人には似て
も似つかず、幼い時から賢父の跡を追い、南無妙法蓮華経と唱えてきた。
それなのに、年老いた母は残り、若き子は去って行った。夢ならば覚めてほしい。幻
ならば消えてほしいと思われたであろう。しかし、覚めも消えもせず年を過ぎてしまっ
た。せめて行き会う場所でも言いおいてくれたなら、羽はなくても天へ上り、船がなく
ても海を渡り、大地の底にいるならどうして地面を掘って会いに行かぬことがあろうか。
日蓮は子に会いたい、もし会えるなら火にの中にも入ろうと切なく願う母の心が亡き
子にも通じることを示している。子を思う母の一念によって、釈迦仏を使いとして法華
経信仰を歩むことが、霊山浄土で亡き子に再会する道に確実につながっていることを説
いて、日蓮は母に向かって信心を勧めたのである。
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清酒一筒、提子十箇、蒸餅百、飴一桶(二升か)、蜜柑一籠、串柿十連などいろいろ
とお送りいただきました。厚く御礼申し上げます。
とお送りいただきました。厚く御礼申し上げます。
新春のご慶賀のこと、貴家におかれましては、花のように開け、月のように満ちてい
らっしゃるとのことを承りました。まことにおめでとうございます。
らっしゃるとのことを承りました。まことにおめでとうございます。
それにつけても亡くなったご子息五郎殿のことが思い出されます。散った花も咲こう
としています。枯れた草も芽をふきました。そのように、故五郎殿も生き返りなさると
よいのですが、どうして駄目なのでしょうか。ああ、人生が栄枯盛衰を繰り返す花や草
のようであるならば、柿本人麿ではなくても朽木のもとを離れないで再び花が咲くのを
待つでしょうし、繋がれた駒でなくても枯草のもとを去らないでまた芽を吹くのを待つ
でしょう。しかし人生にはくり返しがないので、故五郎殿の再来を期待してもいたしか
たありません。
ある経文には、子は敵であると説かれています。それも理由のあることでしょう。梟と
いう鳥は母を食うし、破鏡という獣は父を殺します。人間でも、中国の安禄山とい
う人は師史明という子に殺されました。わが国の源義朝という武士は源為義という父を
殺しました。子は敵であると記す経文には根拠があるのです。
またある経文には、子は財であると説かれています。法華経に登場する妙荘厳王は、
仏法に背いたために死後は無間大城という最低の地獄へお落ちになることになっていた
のですが、浄蔵という太子の教えで救われて無間地獄の苦しみから逃れることができた
※3
ばかりでなく、ついには娑羅樹王仏という仏になられました。また青提女といった女性
は、けちで欲張りであった罪によって餓鬼道に落ちましたけれども、目連という子に助
けられて苦界から脱出できました。だから子は財であるという経文も正しいのです。
としています。枯れた草も芽をふきました。そのように、故五郎殿も生き返りなさると
よいのですが、どうして駄目なのでしょうか。ああ、人生が栄枯盛衰を繰り返す花や草
のようであるならば、柿本人麿ではなくても朽木のもとを離れないで再び花が咲くのを
待つでしょうし、繋がれた駒でなくても枯草のもとを去らないでまた芽を吹くのを待つ
でしょう。しかし人生にはくり返しがないので、故五郎殿の再来を期待してもいたしか
たありません。
ある経文には、子は敵であると説かれています。それも理由のあることでしょう。梟と
いう鳥は母を食うし、破鏡という獣は父を殺します。人間でも、中国の安禄山とい
う人は師史明という子に殺されました。わが国の源義朝という武士は源為義という父を
殺しました。子は敵であると記す経文には根拠があるのです。
またある経文には、子は財であると説かれています。法華経に登場する妙荘厳王は、
仏法に背いたために死後は無間大城という最低の地獄へお落ちになることになっていた
のですが、浄蔵という太子の教えで救われて無間地獄の苦しみから逃れることができた
※3
ばかりでなく、ついには娑羅樹王仏という仏になられました。また青提女といった女性
は、けちで欲張りであった罪によって餓鬼道に落ちましたけれども、目連という子に助
けられて苦界から脱出できました。だから子は財であるという経文も正しいのです。
母の一念
故五郎殿は、年齢わずか16歳、心情や容貌が他人よりも秀れていらっしゃった上に、
男らしさにあふれて人々の賞賛の的であったばかりでなく、親の心に背かないことは、
水が器にしたがって形を変え、影が身に添って離れないようでした。あなたは、故五郎
殿のことを、家にいては柱と頼み、道にあっては杖と思ったことでしょう。そして、箱
に納めてある財宝もこの子のために蓄えたのであり、召し使う従者もこの子のため故に
雇い入れたもの、そして自分が死んだらこの子に棺をかつがれて野辺の墓所へ葬られる
のだから、その後のことは何の心配もないと深く思っていらっしゃったでしょうに、故五
郎殿は、その期待をすっかり裏切って、先に黄泉の国へ旅立ってしまったので、あなたの
お気持ちはどれほどお辛いことでしょうか。夢か幻か、夢ならば早く覚め、幻ならばすぐ
に消えてもらいたいと思うのですけれど、夢も覚めず、幻も消えないで年が改まってしま
いました。
いつになったら故五郎殿と再会できるかわからないまでも、会える場所だけでもお知
らせしておいたならば、あなたは、羽がなくても天へ昇っていくでしょう。船がなくて
も中国まで渡るに違いありません。また大地の底にその場所があると聞いたならば何と
しても地を掘り割って会いに行かずにはおかない、とお思いになるでしょう。
ところが実は、そんな苦労をしなくても、とても簡単にお会いになれる方法があるの
です。釈迦仏をお頼りして、霊山浄土へ行ってお会いください。法華経の方便品に「も
し、妙法蓮華経を聞くことがあるならば、一人として成仏しないものはいない」とあり
ますが、これは、大地を指さしてはずれることがあっても、日月が地に落ちることがあ
っても、海水が満ちたり干いたりしない時代があっても、花は夏に咲かなくても、その
ように、どんな起こるはずのないことが起こったとしても「南無妙法蓮華経」と唱える
女性が、会いたいと思う子に会わないということはない、と説かれているのです。怠け
ず、怠らず、お勤めください、お励みください。恐々謹言。
です。釈迦仏をお頼りして、霊山浄土へ行ってお会いください。法華経の方便品に「も
し、妙法蓮華経を聞くことがあるならば、一人として成仏しないものはいない」とあり
ますが、これは、大地を指さしてはずれることがあっても、日月が地に落ちることがあ
っても、海水が満ちたり干いたりしない時代があっても、花は夏に咲かなくても、その
ように、どんな起こるはずのないことが起こったとしても「南無妙法蓮華経」と唱える
女性が、会いたいと思う子に会わないということはない、と説かれているのです。怠け
ず、怠らず、お勤めください、お励みください。恐々謹言。
正月十三日 日 蓮 花押
上野尼御前御返事
【語註】 ※1 提子:水・酒などを入れて手でさげる容器。
※2 安禄山:唐代の叛臣。玄宗皇帝に寵遇され、楊貴妃と結んでその養子
となる。楊貴妃の兄の宰相楊国忠と対立し、755年、史思明(史師明)とと
もに反乱を起こして勝利し、大燕皇帝と自称したが、後、子の安慶緒に殺さ
れる。史思明に関する記述は事実に反する。
※3 青提女:摩訶目犍連【まかもっけんれん】(目連)の母。慳貪の罪に
よって餓鬼道に落ち、目連の供養によって救われたことが盂蘭盆経に見え
る。
【解説】
七郎五郎が亡くなって16カ月、400日余を過ぎた弘安4年正月のお手紙である。春を
迎え、花も咲き、草の芽もふこうとしているのに、七郎五郎が生き返ることはない。ど
うして駄目なのでしょうか?宗教者らしからぬ言葉で始まる。
経文には子は財と説かれているが、七郎五郎は尼御前にとってまことに財であった。
この子を杖柱のように思い、箱の財もこの子のためと思い、自分が死んだならは、二人
の男の子に見守られ荷われて墓所に行くことを本望としていたのに。まして、七郎五郎
は男の子である上、気質から顔かたちまで人に勝れ、万事に通じ心の優しい人であった。
人にも褒められ、親の身としてどんなにか嬉しく思ったことであろう。くわえて、親の
心に随うことは水が器に随い影が身に添うようであった。若くして親のごとく法華経の
信心に励んでもいた。念仏を唱える人の多い世なのに、七郎五郎はそれらの人には似て
も似つかず、幼い時から賢父の跡を追い、南無妙法蓮華経と唱えてきた。
それなのに、年老いた母は残り、若き子は去って行った。夢ならば覚めてほしい。幻
ならば消えてほしいと思われたであろう。しかし、覚めも消えもせず年を過ぎてしまっ
た。せめて行き会う場所でも言いおいてくれたなら、羽はなくても天へ上り、船がなく
ても海を渡り、大地の底にいるならどうして地面を掘って会いに行かぬことがあろうか。
日蓮は子に会いたい、もし会えるなら火にの中にも入ろうと切なく願う母の心が亡き
子にも通じることを示している。子を思う母の一念によって、釈迦仏を使いとして法華
経信仰を歩むことが、霊山浄土で亡き子に再会する道に確実につながっていることを説
いて、日蓮は母に向かって信心を勧めたのである。
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