fc2ブログ

なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

カテゴリ

最新記事

fc2カウンター

Facebook

月別アーカイブ

最新トラックバック

最新コメント

リンク

検索フォーム

RSSリンクの表示

ブロとも申請フォーム

QRコード

QR

病といのち 太田入道殿御返事④

 ダウンロード
波木井の御影(身延山久遠寺蔵)

太田入道殿御返事おおたにゅうどうどのごへんじ

 それおもんみれば、一乗妙経は三聖の金言きんげん、已今当の明珠みょうじゅ、諸経の

いただきに居す。経に云く、「諸経の中において最もそのかみに在り」。また

云く、「法華最第一なりと」。伝教大師の云く、「仏立宗」云云。

分、だいこん等諸の真言の経を勘えたるに、あえてこの文の会通えつうの明

文なし。ただくうほうかくしょう等の曲会きょくえに見えたり。ここに知

んぬ。釈尊・大日の本意は限つて法華最上に在り。しかるに本朝真言の

元祖たる法・覚・証等の三大師入唐にっとうの時、畏・智・空等の三三蔵の誑惑おうわく

せん等に相承して帰朝し了んぬ。法華・真言弘通の時、三説超過さんせつちょうか

一乗の明月を隠して、真言両界の蛍火けいかを顕わし、あまつさえ法華経を

して曰く、戯論けろんなり、無明むみょう辺域へんいきなり。自害の壊誤びゅうごに曰く、大日経

は戯論なり、無明の辺域なり。本師すでに曲れり。末葉まつようあに直ならん。

みなもと濁れば流れ清からず等、これをいうか。これに依つて日本久しく闇

夜となり、扶桑ふそうついに他国の霜に枯れんと欲す。

【現代語訳】

法華経が最大一

 謹んで考えてみると、この一乗の妙法蓮華経は釈迦・多宝・十方分身の三仏の金言で

あって、「※ 1・今・当」の三説に超過した法華経の明珠は、一切経の頂上に位置してい

る。それゆえ法華経には、「諸経の中において最もその上位にある」と説かれ、また、

「法華経は最第一である」とも説かれている。伝教大師は『法華秀句
の中で、天台大

師が釈された法華経を指して「仏が自らお立てになられた宗旨である」と言われた。日

蓮はこれまで、大日経・金剛頂経・蘇悉地経※ 2 そしつじきょう等の真言の三部経をはじめ、真言に関す

る多くの経について検討を重ねてきたが、この法華経の「最第一」の文に対して、真言

の経が勝れていることを明らかに説いている経文は見られない。ただ中国の善無畏※ 3 ぜんむい

金剛智※ 4 こんごうち不空※ 5 ふくう、日本の弘法・慈覚・智証などの勝手な解釈にみられるだけであ

る。このことから釈尊と大日如来のご本意はただ法華経を最上とせられていたことが

知られる。それにも拘らず、わが国の真言の元祖である弘法・慈覚・智証の三大師が唐

に留学した時、善無畏・金剛智・不空などの三人の三蔵のいつわりの解釈を、慧果※ 6 けいか

法全※ 7 はっせんなどから承け継いで日本へ持ち帰ってしまった法華・真言を弘める時明月

のような「已・今・当」の三説に超過した一仏乗の法華経を隠して、蛍火のような真言

の金剛・胎蔵の両界の曼荼羅を顕し、そればかりでなく、法華経をののしって「戯論」

であるとか、釈尊を「迷いの分域にいる」と蔑んでいる。しかし彼らの誤りは、それこ

そ自害の刃であって、大日経こそ「戯論」であり、大日如来こそ「迷いの分域」なので

ある。元祖がすでにこのように曲解しているのであるから、その末葉の弟子たちがまっ

すぐであるはずはない。源が濁ればその流れも清くないというのは、まさしくこのこと

である。このように真言がはびこってしまったために、日本も久しい間、闇夜となり、

ついには他国の侵略にあって滅亡の危機に源している。(つづく)

【語註】

 ※1 「已・今・当」:『法華経』法師品の「已に説き今説き当に説かん」の文の略
              語で、法華経が釈尊の説かれた経典の中で最も勝れていることを言ったもの。
            『法華文句』の法師品釈によれば、已説とは40余年に説かれた爾前の諸経、今
              説とは法華経の開経である『無量義経』、当説とは法華経以後に説かれた『涅
              槃経』を指す。これらは信じ易く解り易いが、法華経はこの三説に超過して最
              も信じ難く解り難いとする。これは劣機の凡夫の立場から見て、信じ難いもの
              ほど釈尊が真に示そうとされた教えであることを意味し、この点で法華経が最
              勝なることを言ったのである。

 ※2 『蘇悉地羯羅【そしつじから】経』の略。中国、唐代にインドから長安に来た
             善無畏によって訳出された密教三部経典の一つ。3巻、34品から構成され、真
             言の持誦、護摩の法を述べている。なお蘇悉地とは真言を称えることによって
             達しうる妙果を意味する。 

 ※3 善無畏:インド出身の翻訳僧。サンスクリット名はシュバカラシンハ。中イン
            ド・マカダ国の王であったが、兄たちの反乱と、その征伐の際の負傷により仏
            門に入り、ナーランダ寺でダルマグプタに密教を学んだ。師の命によりサンス
            クリット原典を持って中央アジアから716年(開元4)長安に達した。玄宗によ
            り国師として迎えられ、興福寺南塔院に住んだが、724年洛陽の大福先寺に移
            って、弟子の一行の協力を得て『大日経』を翻訳し、中国密教の確立に貢献し
            た。
 
 ※4 金剛智:インドの僧。サンスクリット名はバジラボディ。10歳でナーランダ寺
            で出家し、ここで大乗仏教の論書を学んだ。さらに南インドで『金剛頂経』系
             の密教を修め、インド、スリランカなどを巡ったのち、航路で中国に行き、
             720年洛陽に入った。玄宗の庇護のもと、洛陽と長安にあって、おもに『金剛
             頂経』系統の経典、儀軌(ぎき)を翻訳した。

 ※5 不空:インドから中国に渡った翻訳僧。サンスクリット名をアモーガバジュラ
            といい、訳して不空金剛。不空はその略である。北インドのバラモンとも、セ
            イロン(スリランカ)の出身ともいわれる。720年唐に至り、師の金剛智を助
            けて訳経に従事した。

 ※6 慧果:中国・唐代の僧。真言宗東寺派第七祖。20歳で具足戒を受け、玄超・不
            空から胎蔵界・金剛界の密教の奥義を受けた。その後、内道場の護持僧とな
            り、長安の青竜寺東塔院に住したので、青竜寺和尚とも呼ばれた。その徳をし
            たって多くの弟子が集まる。弘法も晩年の弟子の一人。

 ※7 法全:中国・唐の真言宗の僧。 青竜寺の義操、法潤から金剛界、胎蔵界の大法
            を受け、玄法寺に住み、のち青竜寺に移った。 日本から入唐した宗叡・円仁・
            円珍・遍明らは、みな法全から密教を受法した。
   
↓ ランキング挑戦中  Brog Rankingのバナーをポチッと押してね!
スポンサーサイト



テーマ:仏教・佛教 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2024/05/18 05:39 】

病といのち  | コメント(0)  | トラックバック(0)  |

病といのち 太田入道殿御返事③

 ダウンロード
波木井の御影(身延山久遠寺蔵)

太田入道殿御返事おおたにゅうどうどのごへんじ

 世親せしん菩薩は、もと小乗の論師なり。五竺ごじくの大乗をとどめんがために五百部

の小乗論を造る。後に無著むじゃく菩薩にい奉り、たちまち邪見をひるがえし、一時に

この罪を滅せんがためにじゃくに向つて舌を切らんと欲す著止めて云

汝その舌をもつて大乗を讃歎せよと。しん忽ちに五百部の大乗論を造

りて小乗を破失す。また一の願を制立せいりゅうせり。我れ一生の間、小乗を舌

の上に置かずと。しかして後、罪を滅して弥勒みろくの天に生ず。

 馬鳴めみょう菩薩は東印度の人にして付法蔵ふほうぞうの第十三につらなれり。もと外道の長

たりし時に、ろく比丘と内外の邪正を論ずるに、その心言下げんかとけて、重科

を会せんがために、自らこうべhねんと擬す。所謂いわく、「我れ、我に敵して

堕獄だごくせしむ」。勒比丘いさめ止めて云く、「汝頭を切ることなかれ。その

頭と口とをもつて大乗を讃歎せよ」と。みょう急に起信論きしんろんを造つて外小げしょう

破失せり。月氏の大乗の初めなり。

 嘉祥寺かしょうじ吉蔵きちぞう大師は、漢土第一の名匠、三論宗の元祖なり。呉会ごかいに独

歩し、慢幢まんどう最も高し。天台大師に対して、已今当いこんとうの文をあらそい、立処たちどころ

邪執じゃしゅう飜破ほんばし、謗人謗法の重罪を滅せんがために百余人の高徳をあい

らい、智者大師を屈請くつようして身を肉橋にくきょうとなし、頭に両足を承く。七年の

間、たきぎり水を汲み、講を廃し衆を散じ、慢幢を倒さんがために、法

華経をじゅせず。大師の滅後、隋帝に往詣し、双足を花摂し、涙を流して

別れを告げ、古鏡こきょう観見かんけんして自影じよう慎辱しんきくす。業病を滅せんと欲して、

かみのごとく懺悔さんげす。

【現代語訳】

世親菩薩・馬鳴菩薩・吉蔵菩薩

 ※ 1親菩薩は、もとは小乗教の学者であった。インド全土に大乗教の弘まるのを阻止す

るために500部の小乗論を造った。その後、大乗教に帰依していた兄の無著菩薩と出会

って大乗教の奥義を聞くに及んで、たちまち小乗の邪見を捨て、ただちに大乗をそしった

罪を消滅させるために、無著に向かって、舌を切って謝罪したいと申し出た。無著はこ

れを止めて、「大乗を謗ったその舌で、今度は大乗を讃歎するがよい」と言った。世親

はすぐに500部の大乗論を造って小乗の誤りを破し、また一つの願を立てて「私は一生

の間、小乗の教えは決して語らない」と誓った。こうした後、大乗を謗った罪は消滅し

て、弥勒菩薩がおられる兜率天とそつてんに生まれることができたという。

 ※ 2鳴菩薩は東インドの人で、釈尊から法を付嘱された第13番目の人である。もとバラ

モン教の長老であったが、ある時、勒比丘という人に出会い、仏教とバラモン教との邪

正を論じていたところ、その場で直ちに仏教の道理を理解して悔い改めた。そして今ま

での重科を消すために、自分の頸を刎ねようとして言うには、「今まで、私は自分自身

を敵として地獄にとそうとしたようなものであった」と。これに対して勒比丘は、

頸を切るは無益であるその頭と口とをもって大乗を讃歎するがよい」といささとした。

そこで馬鳴は、急いで『大乗起信論』を造ってバラモン教や小乗教の誤りを破したので

ある。これがインドに大乗教の起こった始まりである。

 嘉祥寺の※ 3蔵大師は、中国第一の学匠で、三論宗の元祖である。呉の国の会稽かいけいに住

み、天下に肩を並べる者なしと、慢心のはたほこが最も高かった。天台大師に対して法華経

の「已・今・当」の経文の解釈について論争したが、たちどころに論破された。そして

自ら悔い改めて、真実の大乗の人や正法を謗った重罪を消滅しようとして、100余人の

高徳の学者たちを勧誘し、天台智者大師を請い招いて講義を拝聴し、大師が高座へ登ら

れる時は自分の身を橋とし、大師の両足を頭にのせるほどであった。7年の間、薪を採

ったり水を汲んだりして給仕し、自分の講義は廃止して聴衆の人を断り、慢心の幢を倒

すために法華経を読誦しなかった。天台大師の滅後も隋帝のところに赴き、両足を交叉

させて、最上の礼をなし、涙を流して別れを告げ、古い鏡に自分の影を写して、この影

が正法に背いていたのだと深く自らをはずかしめた。これはまさしく謗法の業病を消滅した

いと思って、このように懺悔したのである。(つづく)

【語註】

 ※1 世親:4~5世紀のインドの学僧で、サンスクリット名バスヴァンドゥの漢訳
            名。インドの北西部ガンダーラのペシャワルの出身で、無着の弟。初め説一切
            有部で出家し、のち経量部を学んで『阿毘達磨倶舎論』を著わして大乗仏教を
            非難したが、兄のすすめで改宗して大乗教を称えるようになる。部派仏教に関
            する著書 500部、大乗に関するもの 500部といわれ、千部の論主と称される。

 
※2 馬鳴:100年ころの古代インドの仏教界の巨匠であり、優れた詩人・文学者。
            アシュバゴーシャの漢訳名。元来は深い学識をもつバラモンであるが、のち仏
            教に帰依し、カニシカ王の尊崇を受けて仏教の発展、普及に貢献した。

 
※3 吉蔵:中国、隋末唐初の僧。三論宗再興の祖。祖先は安息国の人なので胡吉蔵
            の称もある。法朗のもとで7歳のとき出家し、『中論』『百論』『十二門論』の
            三論をきわめた。のち浙江省会稽の嘉祥寺に住んで三論の注釈書を著述。また
            天台大師智顗とも交友があり法華の教えを受けたとも伝えられている。隋の煬
            帝の勅命で揚州の慧日道場に住み、長安に禅などの道場をおいて諸経論の講義
            を行なった。隋唐時代の仏教界第一の学僧で多くの業績を残した。

↓ ランキング挑戦中  Brog Rankingのバナーをポチッと押してね!

テーマ:仏教・佛教 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2024/05/16 05:36 】

病といのち  | コメント(0)  | トラックバック(0)  |

病といのち 太田入道殿御返事②

 ダウンロード
波木井の御影(身延山久遠寺蔵)

太田入道殿御返事おおたにゅうどうどのごへんじ

 大経に云く、「の時に、王舎大城おおしゃだいじょう阿闍世あじゃせ王、その性弊悪しょうへいあくにし

て、乃至ないし、父を害しおわつて、心に悔熱げねつを生ず。乃至、心悔熱するが故に

徧体瘡へんたいかさを生ず。その瘡臭穢しゅうえにして附近すべからず。爾の時に、その母

韋提希いだいけなづく。種種の薬をもつて、しかもためにこれをく。その瘡、

遂に増して降損こうそんあることなし。王、すなわち母にもうす。かくのごとき瘡

は心より生ず。四大より起るにあらず。もし衆生よく治する者ありと言

わば、このことわりあることなけん云云。爾の時に世尊大悲導師、阿闍世王

のために月愛三昧がつあいさんまいに入りたもう。三昧に入り已つて大光明を放つ。そ

の光清涼しょうりょうにして、きて王の身を照すに、身の瘡すなわちえぬ」。

平等大慧だいえ妙法蓮華経の第七に云く、「この経はすなわちこれ、閻浮提えんぶだい

人の病の良薬ろうやくなり。もし人病あらんに、この経を聞くことを得ば、病す

なわち消滅して不老不死ならん」云云。

 已上、上の諸文を引きてここに御病をかんがうるに、六病を出でず。その中

の五病はしばらくこれを置く。第六の業病、最も治し難し。はたまた、

業病に軽あり重あり、多少定まらず。なかんずく、法華誹謗の業病最第

一なり。神農黄帝こうてい華佗かだ扁鵲へんじゃくも手をこまね持水じすい流水・るすい耆婆ぎば維摩ゆいま

も口を閉ず。ただ釈尊一仏の妙経の良薬に限つてこれを治す。法華経に

云く、かみのごとし。大涅槃経に法華経を指して云く、「もしこの正法を

毀謗きぼうするも、く自ら改悔かいげし、正法に還帰げんきすることあれば、乃至、この

正法を除きてさらに救護くごすることなし。この故にまさに正法に還帰すべ

し」云云。荊谿けいけい大師云く、「大経みずから法華を指してごくとなす」云云。

また云く、「人の地に倒れて還つて地にりてつがごとし。故に正しょう

ほうをもつてじゃを接す」云云。

【現代語訳】

法華経の良薬

 ところで涅槃経に次のような説示がある。「ある時、※ 1舎城の※ 2闍世王は、その狂悪

な性質から父を殺害してしまったが、後悔の念にさいなまれて高熱を発し、全身にかさ

生じた。その瘡は悪臭を放ち、誰も近づけないほどであった。その時、阿闍世王の母の

韋提希がいろいろと薬を塗ったが、その瘡はますますひどくなるばかりで、少しも治ら

なかった。阿闍世王は母に向かって、『私のこの瘡は、自分の心から起こったものであ

って、身体の四大が調和を失ったから起こったのではありません。もし世の中に、この

病を治すという者があっても、とうてい治らないでしょう』と言った。その時、釈尊は

まさに涅槃に入ろうとするところを中断されて、大慈悲をもって阿闍世王を救うために

月愛三昧に入られた。そこから清浄の大光明を放って阿闍世王の身を照らされると、王

の瘡は即座に治癒してしまった」という。

 また、平等大慧の妙法蓮華経第7巻には、「この経は、この世界の人々の病の良薬で

ある。もし人が病む時、この経を聞くことができたならば、病は即座に治って、年もと

らず死ぬこともない」と説かれている。

 已上、多くの経論釈の文を引いて、ここに貴殿の病を勘えてみると、前の摩訶止観に

ある6種の外の病ではない。その中の5つの病のことは今しばらく置くとして、第6の

業病というのが最も治し難い病である。業病には軽いのと、重いのとがあって定まって

いないが、なかでも法華経を誹謗した結果、得るところの業病が一番重くて、古代中国

の名医といわれる※ 3農・※ 4帝・※ 5佗・運鵲でもこの病には手を出せないし、経文に説く

過去世の持水・流水、釈尊在世の※ 6婆・維摩等もなすすべを知らない。ただ釈尊一仏だ

けが、法華経の良薬をもってこれを治される。そのことを端的に示す法華経の文は、上

に挙げた通りである。

 大般涅槃経の中で、法華経を指して言うには、「もしこの正法を謗っても、心に自ら

悔い改め、正法に再びかえって、信仰するならば、その謗法の罪は消える。ただしこの

正法を除いて外には、謗法の罪から救い護ってくれるものはないのだから、必ず正法に

かえらなければならないのである」とある。それを指して※ 7
谿大師は法華文句記の中

で、「大涅槃経は自ら法華経を指して至極の正法とする」と言い、また、「たとえば大

地に倒れた者が、再び大地を支えとして起き上がるようなものである。つまり、正法を

謗ったことが縁となり、かえって地獄から救われることになるのだ」と解釈している。

(つづく)

【語註】

 ※1 王舎城:古代インド、マガダ国の都。東方に法華経の説処である霊鷲山【りょ
            うじゅせん】がある。

 ※2 阿闍世王:サンスクリット名アジャータシャトルの音訳。生まれる以前から父
            王の仇敵であったという意味から「未生怨【みしょうおん】とも漢訳される。
            釈尊在世の古代インド、マガダ国の王。悪知識の提婆達多にそそのかされて父
            の頻婆娑羅(ビンビサーラ)王を殺し、母の韋提希(ヴァイデーヒー)夫人を
            幽閉し、仏弟子を殺害して釈尊に敵対する「逆罪」を犯した。やがて自らの罪
            におののいて全身に悪瘡を生じ、堕地獄を恐れて深く憂えるが、耆婆大臣の勧
            めに従って釈尊へ帰依し、その教えを信受して救われた。

 ※3 神農:中国古代の伝説上の帝王。三皇の一人。はじめて人々に農耕の方法を教
            え、また草木を嘗めて医薬の道を教えたという。

 ※4 黄帝:中国古代の伝説上の帝王。五帝の一人。姓は公孫。暴徒蚩尤【しゆう】
            を討ち神農にかわって帝位についた。医薬の創始者ともされる。

 ※5 華佗:中国・後漢時代の名医。経典に出る過去世の持水・流水、中国春秋時代
            の扁鵲らとともに名医の代表としてあげられる。

 ※6 耆婆:釈尊在世中の名医でマガダ国の大臣となった人。父殺しの罪に恐れおの
            のく阿闍世王を釈尊のもとへ行かせて入信させた。

 ※7 荊谿:妙楽大師湛然のこと。中国天台宗中興の祖。

↓ ランキング挑戦中  Brog Rankingのバナーをポチッと押してね!

テーマ:仏教・佛教 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2024/05/14 05:37 】

病といのち  | コメント(0)  | トラックバック(0)  |

病といのち 太田入道殿御返事①

 ダウンロード
波木井の御影(身延山久遠寺蔵)

太田入道殿御返事おおたにゅうどうどのごへんじ

建治元年(1275)11月3日、54歳、於身延、原漢文

太田左衛門尉乗明が、病痛に悩んでいることを身延の日蓮に報じたのに対する返書。日蓮は維摩経、法華経、涅槃経、大智度論・摩訶止観等の諸経論によって、病気の原因や病気の様相を示された後、一番重い病気は法華経を誹謗した結果によって得るところの業病で、この重病を治療できる医師は、釈尊一仏であり、法華経の大良薬によってのみ治療できることを示している。

 貴礼これを開きて拝見す。御痛みの事、一には歎き、二には悦びぬ。

 維摩詰経ゆいまきつぎょうに云く、「の時に長者維摩詰、みずから念すらく、いねとこ

む。爾の時に仏、文殊師利もんじゅしりに告げたまわく、汝、維摩詰に行詣ぎょうけいて疾やまい

を問え」云云。大涅槃経に云く、「爾の時に如来、乃至、身に疾あるを

現わし、右脇うぎょうにしてしたもう、彼の病人のごとくす」云云。法華経に

云く、「少病・少悩」云云。止観の第八に云く、「もし毘耶びや偃臥えんがし、

疾に託して教を興す。乃至、如来滅に寄せて常を談じ、病によつて力を

説く」云云。

 また云く、「病の起こる因縁を明すに六あり。一には四大順ならざる

が故に病む。二には飲食節おんじきせつならざるが故に病む。三には坐禅調ととのわざる

が故に病む。四には鬼便たよりを得る。五には魔の所為そい。六にはごうの起こる

が故に病む」云云。大涅槃経に、「世に三人のその病治し難きあり。一

には大乗を謗ず二には五逆罪。三には一闡提いっせんだい。かくのごとき三病は、

世の中の極重なり」云云。また云く、「今世に悪業成就し、乃至、必ず

地獄なるべし。乃至、三宝を供養するが故に地獄に堕せずして現世に報

を受く。いわゆる頭と目と背とのなやみ」等云云。止観に云く、「もし重罪

ありて、乃至、人中に軽く償うと。これはこれ業が謝せんと欲する故に

病むなり」。

 竜樹りゅうじゅ菩薩の大論だいろんに云く、「問て云く、もししかれば華厳経、乃至、

般若波羅蜜はんにゃはらみつは秘密の法にあらず。法華は秘密なり等。乃至、譬えば大薬

師のく毒を変じて薬となすがごとし云云天台この論を承りて云

たとえば良医ろういの能く毒を変じて薬となすがごとく、乃至、今経のとく

は、すなわちこれ毒を変じて薬となすなり。故に論に云く、余経は秘

密にあらず、法華を秘密となすなり」云云。止観に云く、「法華能く治

す。また称して妙となす」云云。妙楽云く、「治し難きを能く治す。

に妙と称す」云云。

【現代語訳】

 病の原因と法華経の良薬

 貴殿からのお手紙を拝見した病痛に悩まされておられるとのこと一度は嘆いたが、

しかし、よく考えてみると、かえって貴殿にとっては祝福すべきことであると悦んだ次

第である。

 維摩経には次のことが説かれている。ある時、※ 1摩居士が病気を装って床に臥してい

た。すると釈尊はこれを聞いて、文殊師利に見舞いに行くように命じられた。大般涅槃

経には、ある時、釈尊が身に病を現じて、右脇を下にして臥されたが、その様子はちょ

うど普通の病人のようであったとある。また法華経には、諸仏菩薩が釈尊に対してご挨

拶する時、「少病少悩」という言葉をもって問うている。これらの経文を受けて、天台

大師は摩訶止観第8巻の中で、「維摩居士は毘耶梨城の自邸で病気と称して床に伏し、

病気に託して菩薩の化他行の教えを説いた。また、仏は肉身の入滅にことよせて法身常

住の法門を談じ、病によせてその力を説かれている」と釈している。

 また摩訶止観には、病気の起こる原因について6通りを挙げている。「1には、身体

の構成要素である地・水・火・風の四大が調和しないための病気。2には、飲食の節度

を欠くための病気。3には坐禅が定められた通りに行なわれないための病気。4には、

悪鬼のさわりによる病気。5には、天魔のしわざによる病気。6には、前世の悪業が現

われるための病気」をいう。大般涅槃経には、「世の中に治し難い病者が3種ある。第

1は大乗経を誹謗する者、第2には五逆罪を犯した者、第3には※ 2闡提という極悪不信

の者である。この3つの病は世の中で一番重い病である」と説かれている。また、「現

世で悪業を犯すと、来世には必ず地獄に堕ちる。しかし、仏・法・僧の三宝を供養すれ

地獄に堕ちないで現世で軽い報いを受けるそれは頭と目と背との痛みなどである

とも説かれている。これらをけて摩訶止観には、「もし重い罪業があって地獄の重苦

を受けなければならない場合であっても、この世で軽く償うことが出来ると。これは、

前世の罪業が今世において無くなろうとするための病気である」と解釈されている。

 ※ 3樹菩薩の大智度論には、「問うもしそうであるならば華厳経やその他の般若経は、

秘密の法ではなく、二乗の成仏を説く法華経こそが秘密の教法である。たとえば法華経

は、大薬師が毒を変じて薬とすることが出来るようなものである」と言っている。天台

大師はこの論を承けて、「たとえば良い医者が毒を変じて薬とすることが出来るような

もので、法華経において、不成仏の人と定められた二乗が成仏の保証を得たのは、まさ

しく毒を薬に変化させたものである。それゆえ大智度論には、余経は秘密ではなく、法

華経だけが秘密の深法であるといわれたのであると釈しているさらに摩訶止観には、

「法華経は、他経では対処することの出来ない二乗を治することが出来るので、妙と称

される」とあり、妙楽大師も「治し難いのを治すことが出来るから、法華経を妙と言う

のである」と記している。(つづく)

【語註】

 ※1 維摩居士:サンスクリット名はヴィマラ・キールティ。古代インド毘耶梨城(ヴ
            ァイシャーリー)の富豪で、釈迦の在家弟子となったという。『維摩経』によれ
            ば、彼が病気になった際には、釈迦が誰かに見舞いに行くよう勧めたが、舎利
            弗や目連、大迦葉などの阿羅漢の声聞衆は彼にやり込められた事があるので、
            誰も行こうとしない。また弥勒などの大乗の菩薩たちも同じような経験があっ
            て誰も見舞いに行かなかった。そこで釈迦の弟子である文殊菩薩が代表して、
            彼の方丈の居室に訪れた。

 ※2 一闡提:もとの意味は「欲求しつつある人」であるが、断善根、信不具、極
            欲、誹謗正法のもので、成仏の因をもたないものをいう。

 ※3 竜樹菩薩:大乗仏教の大成者。サンスクリット名ナーガールジュナ。南インド
            のバラモン出身。出家して初め小乗仏教を学んだが、のちヒマラヤ山中で老比
            丘より大乗経典を与えられ、以後大乗仏教を奉じたという。著作は大乗経典の
            注釈書が多く、小乗仏教の有の哲学を破り、万物には不変の実体のないこと
          (空)を明らかにし、有と無の両端を排して中観を立て、大乗仏教の理論的開拓
            者となった。

↓ ランキング挑戦中  Brog Rankingのバナーをポチッと押してね!

テーマ:仏教・佛教 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2024/05/11 05:38 】

病といのち  | コメント(0)  | トラックバック(0)  |

病といのち 南条兵衛七郎殿御書⑧

 ダウンロード
波木井の御影(身延山久遠寺蔵)

南条兵衛七郎殿御書なんじょうひょうえしちろうどのごしょ

 もしさきにたゝせ給はば梵天・帝釈・四大天王・閻魔大王等にも申さ

せ給うべし、日本第一の法華経の行者日蓮房の弟子也となのらせ給へ。

よもはうしん(芳心)なき事は候はじ。

 ただし一度は念仏一度は法華経となへつ、二心ふたごころましまし、人の聞には

ばかりなんどだにも候はば、よも日蓮が弟子と申すとも御用おんもちいゐ候は

じ。後にうらみさせ給ふな。

 但し又法華経は今生こんじょうのいのりともなり候なれば、もしやとしていき

させ給ひ候はば、あはれとくとく見参けんざんして、みずから申しひらかばや。

 ことばはふみにつくさず、ふみは心をつくしがたく候へばとどめ候ひぬ。

恐恐謹言。

 文永元年十二月十三日             
日 蓮  花押

なんでうの七郎殿

【現代語訳】

先に立たせ給はば、日蓮房の弟子と名のらせ給へ

 もし貴方が日蓮より先に死出しでの旅にたれたら、梵天・帝釈・四大天王・閻魔大王な

どの前で、「日本第一の法華経の行者日蓮房の弟子である」と名乗りなさい。決して粗

末な扱いはされないでしょう。

 但し、一度は念仏をとなえ、一度は法華経(題目)を唱えるというような二心があり、

人に聞かれるのを恐れるようなことがあれば、いかに「日蓮の弟子」と言われても、梵

天・帝釈などの諸天や諸大王は決してお用いにはならない。後になって恨んではなりま

せん。

 但し、法華経は今の世の祈りとなるものであるから、もし生きながらえられたら、早

速にもお会いして、直接お話し申し上げたいものである。

 言葉は文章では尽くし切れないし、文章は心を十分に表現しきれないので、これで留

めておきます。恐恐謹言。

 文永元年十二月十三日                     
日 蓮  花押

南条兵衛七郎殿

【解説】

 日蓮は、弘長3年(1263)2月22日に、もともと不当な流罪であったこともあり、北

条時頼の計らいで伊豆流罪を赦免され、翌文永元年(1264)の秋頃に安房小湊へ重病の

母を見舞った。安房に滞在中の11月11日に東条松原で地頭の東条景信に襲撃され九死に

一生を得た。この手紙は、それから1カ月後の12月13日にしたためられた。

 安房で書かれたとするものもあるが、果たして駿州富士郡上野郷でのことが、安房ま

で伝わることがあり得るかと言えば、それは極めて困難なことである。しかも、命を狙

っている人物のいるところに滞在し続けることも考えにくい。この時点では鎌倉に戻っ

ていて、鎌倉で南条兵衛七郎の病のことを聞き及んだとしたほうが自然であろう。

 この手紙が、南条家への日蓮の第一信である。従って、文書として確認できる範囲で

は、南条兵衛七郎と日蓮との出会いは、文永元年12月以前だということになる。

 南条兵衛七郎の病について、そんなに軽いものではないと聞いていたのであろう。日

蓮は安易な気休めを言うことなく世間が定めなく無常であることから書き出した。

病がなくても、世にとどまり難く、病ある人はなおさらであるとして、後世に思いを定

めるように促している。襲撃事件から1カ月後のことである。その記憶も生々しい体験

に基づいた言葉だから、「病なき人も留まりがたし」という言葉にも説得力がある。

 ところが、後世に思いを定めることも、個人としては困難なことであり、釈尊の教え

に基づくべきだが、その教えも衆生の機根(能力/性質)に応じたものでは、まちまちで

ある。

 そこで、日蓮は、「教」「機」「時」「国」「教法流布の前後=序」という5つの観

点から検討して、『法華経』こそが末法の今日において時宜にかなった教えであること

を示した。その5つの観点は、流罪先の伊豆で弘長2年(1262)3月14日付の『教機時

国抄において体系化されたものであった。

 兵衛七郎は、念仏の信奉者であったようで、日蓮と出会って『法華経』に帰依するよ

うにたった。しかし、世間の聞こえを気にするところがあったのであろう、梵天・帝釈

・四大天王・閻魔大王にも堂々と「日本第一の法華経の行者の弟子」だと名乗るように

戒めた。そして、『法華経』は、今生の祈りを説くものであり、病が回復したら急ぎお

会いしましょうと励ました。

 残念ながら、兵衛七郎は、この3カ月後の文永2年3月8日に亡くなった。次男の時

光は7歳、5男はまだ母の胎内にいた。日蓮は、その年、自ら駿州上野の南条家を弔問

した。そして、文永12年の正月に、「「わか(別)れ、かな(悲)しかりしかば、わざ

とかまくら鎌倉より、うちくだかり御はか(墓)をば見候ひぬ」(『
春之祝御書』)

と回顧しつつ、「此の御房は、正月の内につかわして、御はか(墓)にて自我偈一巻よ

ませんとをも(思)ひてまいら候」(同)と、弟子の日興を派遣した。これにより、日

興と南条家のつながりが深くなった。日蓮は、機会あるごとに兵衛七郎のことに触れ、

兵衛七郎の妻をなぐさめ、いたわった。

↓ ランキング挑戦中  Brog Rankingのバナーをポチッと押してね!

テーマ:仏教・佛教 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2024/05/07 05:36 】

病といのち  | コメント(0)  | トラックバック(0)  |
 | ホーム |  次ページ ≫