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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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真の孝養と仏道をめざして 光日房御書⑥

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波木井の御影(身延山久遠寺蔵)

光日房御書こうにちぼうごしょ

 又御消息に云く、人をもころしたりし者なれば、いかやうなるところ

にか生れて候らん、をほせをかほり候はんと云々。それ、針は水にしず

む。雨は空にとどまらず。蟻子ありを殺せる者は地獄に入り、死にかばね

(屍)を切れる者は悪道をまぬがれず。いかにいわんや、人身をうけた

る者をころせる人をや。ただし大石も海にうかぶ、船の力なり。大火も

きゆる事、水の用にあらずや。小罪なれども、懺悔さんげせざれば悪道をまぬ

かれず。大逆なれども、懺悔すれば罪きへぬ。所謂いわゆる、粟をつみ(摘)た

りし比丘は、五百生が間牛となる。うりをつみし者は三悪道に堕ちにき。

羅摩 らま王・抜提 ばつだい王・毗楼真 びるしん王・那睺沙 なごさ王・迦帝 かてい王・毗舎佉 びしゃやきゃ王・月光王・

光明王・日光王・愛王・持多人 じたにん王等の八万余人の諸王は、皆、父を殺し

て位につく。善知識にあはざれば、罪きへずして阿鼻地獄 あびじごくに入りにき。

波羅奈 はらな城に悪人あり、其名をば阿逸多 あいったという。母をあひ(愛)せしゆへ

に父を殺し妻とせり。父が師の阿羅漢 あらかんありて、教訓せしかば阿らかむを

殺す。母又、他の夫にとつぎしかば、又母をも殺しつ。つぶさに三逆罪をつ

くりしかば、鄰里 りんりの人うとみ(疎)しかば一身たもちがたくして、祇泹 ぎおん

精舎にゆいて出家をもとめしに、諸僧許さざりしかば、悪心強盛にして

多くの僧坊をやきぬ。然れども、釈尊にひ奉りて出家をゆるし給はり

にき。北天竺に城あり。細石となづく。彼城に王あり。龍印 りゅういんという。

父を殺してありしかども、後に此をおそれて彼国をすてて、仏にまいり

たりしかば、仏懺悔を許し給き。阿闍世あじゃせ王は、ひととなり(成)三毒

じょうなり。十悪ひまなし。其上父をころし、母を害せんとし、提婆達多だいばだった

を師として無量の仏弟子を殺しぬ。悪逆のつも(積)りに、二月十五

日、仏の御入滅の日にあたりて無間地獄くけんじごくの先相に、七処に悪瘡出生し

て、玉体しづかならず。大火の身をやくがごとく、熱湯をくみかくるが

ごとくなりしに、六大臣まいりて六師外道げどうを召されて、悪瘡をいやすべき

やう申しき。今の日本国の人々の禅師律師念仏者真言師等を善知

識とたの
みて、蒙古国を調伏し、後生をたすからんとをもうがごとし。

其上、提婆達多は阿闍世王の本師也。外道の六万蔵、仏法の八万蔵をそ

ら(諳)にして、世間・出世のあきらかなる事、日月と明鏡とに向ふが

ごとし。今の世の天台宗の碩学の、顕密二道を胸にうかべ、一切経をそ

らんぜしがごとし。此等の人々諸の大臣阿闍世王を教訓せしかば、仏に

帰依し奉る事なかりし程に、摩竭提まかだに天変度々かさなり、地夭ちようしきりな

る上、大風・大旱ばつ・飢饉・疫癘えきれいひまなき上、他国よりせめられて、

すでにかうとみえしに、悪瘡すら身に出でしかば、国土一時にほろびぬ

とみえし程に、にわかに仏前にまいり、懺悔して罪きえしなり。


 これらはさてをき候ひぬ。人のをやは悪人なれども、子、善人なれば

をやの罪ゆるす事あり。又、子、悪人なれども、親、善人なれば子の罪

ゆるさるる事あり。されば故弥四郎殿は、たとひ悪人なりともうめる母、

釈迦仏の御宝前にして昼夜なげきとぶらはば、いかでか彼人うかばざる

べき。いかにいわうや、彼人は法華経を信じたりしかば、をやをみちび

く身とぞなられて候らん。

【現代語訳】

罪と懺悔ー弥四郎の救い

 またお手紙に、弥四郎はかつて人を殺害した者であるから、後生はどのような所へ生

まれてくるのか御教示いただきたいとのことですが、針が水の中に沈み、雨が空中にと

どまらないように、蟻を殺した者も地獄に堕ち、死んだ屍体を切った者も地獄・餓鬼・

畜生の三悪道へ堕ちることから免れることはできません。まして、人間を殺したとすれ

ばなおさらのことです。しかし、大石も船の力を借りて海に浮かぶことができ、大火も

水の働きによって消すことがきるように、小さな罪でも悔い改めなければ必ず悪道に堕

ちますが、大きな罪を犯した人でも悔い改めればその罪は消えます。そうした例は大変

多くあります。憍梵波提 ※ 1 きょうぼんはだいは過去世に粟を盗んで牛が食べるように反芻したため、

500生のあいだ牛に生まれかわり、また瓜を盗んだために三悪道に堕ちた者もいます。

羅摩王・抜提王・
楼真王・那沙王・迦帝王・王・月光王・光明王・日光王・

愛王・持多人王などのインド古代の8万余人の諸王は、みな父を殺して王位についた者

ですが、人を導く高僧に会わなかったために、犯した罪を悔い改めることができず、つ

いに無間地獄に堕ちてしまいました。また波羅奈城(バラナシ、ベナレス)に阿逸多と

いう悪人が住んでいましたが、その母に恋慕をいだき、ついに父を殺し母を妻としまし

たので、父の師匠であった阿羅漢がこれを戒めたところ、その阿羅漢をも殺してしまい

ました。ところが母がまた他の夫に嫁いだところ、その母をも殺してしまいました。か

くて、殺父・殺母・殺阿羅漢の三逆罪のすべてを犯したために、近隣の人びとの排斥に

耐えることができず、祇園精舎へ赴き出家することを願いましたが、諸僧が許さなかっ

たので怒り狂った悪人阿逸多はついに多くの僧坊を焼き払ってしまいましたしかし、

釈尊にあい心から過去に犯した罪を悔い改めたので出家を許されたのです。また北イン

ドに細石という城があり、その王を龍印といいました。龍印は父を殺してその位につい

たのですが、後にその罪を恐れ国を捨てて仏のもとに赴き悔い改めたのでその罪を許さ

れました。また中インドのマガダ国の阿闍世王は、生まれつき貪欲とんよく瞋恚しんに愚痴ぐちの三毒

がきわめて強く常に十悪を犯しさらに父を殺し、母をも殺そうとしたばかりでなく、

悪人の提婆達多を師匠として多くの仏弟子を殺しました。こうした人並みはずれた悪事

が重なり、2月15日の釈尊の御入滅の日に、無間地獄へ堕ちる先相として身体の7ケ所

に悪瘡ができました。阿闍世王のその苦しみは全身を大火で焼き、熱湯を浴びせられる

ようでしたので、王に従う6大臣は当時中インドに勢力のあった6人の外道論師を招い

その悪瘡を治療するよう命じましたこれはあたかも、今の日本国の人びとが禅師・

律師・念仏者・真言師らを高僧と信頼して、蒙古国を調伏し、後生を助けてもらおうと

思っているようなものです。その上、阿闍世王の師である提婆達多は外道の六万蔵、仏

法の八万蔵をそらんじて、仏法の教えにも世間の学問にも明るかったことは、あたかも

日月や鏡に向かうようなものでした。今の天台宗の碩学が顕教・密教の二教に通じ、一

切経をそらんじているのと同じです。このような提婆達多や六師外道、6大臣が阿闍世

王を教導したため、阿闍世王は釈尊に帰依することもなく過ごすうちに、摩竭提国に天

変地異が続発し、大風・大旱魃・飢饉・疫病などが続きました。さらに他国から攻め寄

せられ、阿闍世王の身には悪瘡が出て、まさに国は滅びようとしたのです。しかし、阿

闍世王は深く前非を悔い、急ぎ仏の前におもむき懺悔したためにその罪も消えたという

ことです。

 これらのことはさておいて、親が悪人でもその子が善人ならば、親の犯した罪が赦さ

れることもあり、また子供が悪人でも親が善人ならば、子供の罪が赦されることもあり

ます。だから、亡くなられた弥四郎殿がたとえ悪人でありましても、生母の尼御前が釈

尊の御宝前で昼夜に弔われるならば必ず成仏いたしましょう。ましてや、弥四郎殿は生

前、深く法華経を信じていたのですから、今は成仏されてかえって親である尼御前を導

く身となられていることでしょう。(つづく)

【語註】

 ※1 憍梵波提:釈尊の弟子中で解律第一といわれ、戒律を理解することに秀でたと
           いう。

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【 2023/12/02 05:38 】

真の孝養と仏道をめざして  | コメント(0)  | トラックバック(0)  |

真の孝養と仏道をめざして 光日房御書⑤

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波木井の御影(身延山久遠寺蔵)

光日房御書こうにちぼうごしょ

 人間に生をうけたる人、上下につけてうれへなき人はなけれども、時

にあたり、人々にしたがひて、なげきしなじな(品々)なり。たとへば、

病のならひはいずれの病も、重くなりぬれば、これにすぎたる病なしとをも

うがごとし。主のわかれ、をや(親)のわかれ、夫妻のわかれ、いづれ

かおろかなるべき。なれども主は又他の主もありぬべし。夫妻は又かは

りぬれば、心をやすむる事もありなん。をやこのわかれこそ、月日のへ

だつるまゝに、いよいよなげきふかかりぬべくみへ候へ。をやこのわか

れにも、をやはゆきて子はとど(留)まるは、同じ無常なれどもことは

りにもや。をひたるはわ(母)はとどまりて、わか(若)き子のさきに

たつなさけなき事なれば、神も仏もうらめしや。いかなれば、をやに子

をかへさせ給ひてさきにはたてさせ給はず、とどめをかせ給ひて、なげ

かさせ給ふらんと心うし。心なき畜生すら子のわかれ(別)しのびがた

し。竹林精舎の金鳥こんちょうは、かひこ(卵)のために身をやき、鹿野苑ろくやおんの鹿

は、胎内の子ををしみて王の前にまいれり。いかにいわうや心あらん人

にをいてをや。されば王陵が母は子のためになづき(頭脳)をくだき、

神堯しんぎょう皇帝の后は胎内の太子の御ために腹をやぶらせ給ひき。此等をを

もひつづけさせ給はんには、火にも入り、頭をもわりて、我子の形をみ

るべきならば、をしからずとこそ、おぼすらめとをもひやられてなみだ

もとどまらず。

【現代語訳】

老母はとどまり若き故子が先立つー光日尼の嘆き

 人間として生を受けた以上、身分の上下にかかわらず憂いのない人はありませんが、

時により人によってその歎きはさまざまです。たとえば病の常としてどのような病でも

重くなれば、これ以上の辛い病はないと思うようなものです。これと同じように主従の

別れ、親子の別れ、夫婦の別れもいずれ劣らぬ歎きではありますが、たとえ主君は失っ

てもまた他の主君に仕えることもできます。夫婦もまたたとえ別れても、代わりを迎え

れば心を休めることもできましょう。しかしながら親子の別ればかりは、月日も経てば

経つほどその歎きはいよいよ深くなるばかりです。親子の別れでも親が先に亡くなり子

供が残ることは同じ無常ではありますが自然の道理ですからやむをえませんしかし、

老いたる母が生き残って、若い子供が先立つのはあまりにも哀れで神や仏がうらめしく

思われます。どうして親を、子供の代わりに死なせないで生き残らせ、このように歎か

せるのであろうかと悲しくてなりません。思慮分別のない畜生でも子との別れは堪えが

たいものです。竹林精舎のきじは子を助けるために卵を抱いたまま焼死し、鹿野苑の鹿は

子をはらんだ雌鹿のために、王の前に身を呈したということです。ましてや、思慮分別の

ある人間が子を惜しむのは当然のことです。それゆえ、漢の※ 1陵の母は、王陵が情に動

かされて二心を抱くことをとどめて頭を砕いて死に、唐の高祖の竇皇とう ※ 2后は胎内の子のた

めに腹を破られたということです。これらのことどもを思うにつけ、尼御前もわが子の

姿を見るためには、たとえ火に入っても頭を砕いても惜しくはないと考えるその胸中が

思いやられて涙も止まりません。'(つづく)

【語註】

 ※1 王陵の母:王陵は劉邦に仕えた将軍。項羽は王陵の母を人質にして王陵を従わせ
           ようとしたが、王陵の使者が項羽の元を訪れた際、王陵の母は「漢王に従うよう
           に。私のために二心を持ってはいけません」と使者に伝えさせると、自分は剣に
           伏して自殺した。項羽は怒ってこの母を釜茹でに処した。陵母伏剣。

 ※2 竇皇后:唐の高祖李淵の夫人で、太宗李世民の母。

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【 2023/11/30 05:32 】

真の孝養と仏道をめざして  | コメント(0)  | トラックバック(0)  |

真の孝養と仏道をめざして 光日房御書④

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波木井の御影(身延山久遠寺蔵)

光日房御書こうにちぼうごしょ

 同じき四月八日に平の左衛門の尉に見参す。本よりごせし事なれば、

日本国のほろびんを助けんがために、三度いさめんに御用ひなくば、山

林にまじわるべきよし存ぜしゆへに、同五月十二日に鎌倉をいでぬ。た

だし本国にいたりて今一度、父母のはかをもみんとをもへども、にしき

をきて故郷へはかへれといふ事は内外のをきてなり。させる面目もなく

して本国へいたりなば、不幸の者にてやあらんずらん。これほどのかた

(難)かりし事だにもやぶれて、かまくらへかへり入る身なれば、又に

しきをきるへんもやあらんずらん。其時、父母のはかをもみよかしと、

ふかくをもうゆへにいまに生国へはいたらねども、さすがこひしくて、

吹く風、立つくもまでも、東のかたと申せば、庵をいでて身にふれ、庭

に立ちてみるなり。

 かかる事なれば、故郷の人はたとひ心よせにおもはぬ物なれども、我

国の人といへばなつかしくてはんべるところに、この御ふみをたびて、心

もあらずしていそぎいそぎひらきてみ候へばをとしの六月の八日

いや(弥)四郎にをくれ(後)てとかかれたり。御ふみも、ひろげ

つるまではうれしくて有つるが、今、このことばをよみてこそ、なにし

にかいそぎひらきけん。うらしまが子のはこなれや、あけてくやしきも

のかな。

 我国の事は、うくつらくあたりし人のすへまでも、をろかならずをも

うに、ことさらこの人は形も常の人にはすぎてみへし上、うちをもひた

るけしき、かたくなにもなしとみし。をりしも法華経のみざ(御座)な

れば、しらぬ人々あまたありしかばことばもかけずありしに、経はて(果)

させ給ひて、皆人も立ちかへる。この人も立ちかへりしが、使を入れて

申せしは、安房国のあまつ(天津)と申すところの者にて候が、をさな

くより御心ざしをもひまいらせて候上、母にて候人も、をろか(疎略)

ならず申し、なれ(馴)球究しき申し事にて候へども、ひそかに申すべ

き事の候。さき窮究まひりて、次第になれ(馴)まいらせてこそ、申し

入るべきに候へども、ゆみや(弓
)とる人にみやづかひてひま候はぬ

上、事きう(急)になり候ひぬる上は、をそれをかへりみず申すと、こ

まごまときこえしかば、なにとなく生国の人なる上、そのあたりの事は

はゞかるべきにあらずとて、入れたてまつりてこま窮究と、こしかたゆ

くすへかたりてのちには世間無常なりいつと申す事をしらず其上

武士に身をまかせたる身なり。又、ちかく申しかけられて候事、のがれ

(遁)がたし。さるにては後生こそをそろしく候へ、たすけさせ給へと

きこへしかば、経文をひいて申しきかす。彼れのなげき申せしは、父は

さてをき候ぬ。やもめにて候はわ(母)をさしをきて、さきに立ち候はん

事こそ、不孝にをぼへ候へ。もしやの事候ならば、御弟子に申しつたへ

てたび候へと、ねんごろにあつらへ候ひしが、そのたびは事ゆへなく候

へけれども、後にむなし(空)くなる事のいできたりて候ひけるにや。

【現代語訳】
東の風立つ雲までもー身延からの懐郷

 4月8日には平の左衛門尉頼綱と対面しました。そして日本を滅亡から救うために3

度諫め、それでも自分の意見が採用されなければ山林にのがれようとは、もとより覚悟し

ていたことですので、5月12日に鎌倉を発ってこの身延の山に入ったのです。ただ身延

の山に入る前に、一度故郷へ帰り両親の墓へお参りしたいと思いましたが、成功して故

郷に帰れとは儒仏の掟でありますので、3度の諫めも採用されないまま故郷へ帰ること

は不孝の者となりましょう。ただ、帰ることができないと考えていた佐渡流罪も赦され

て、再び鎌倉へ帰ることができたのですから、また幕府が自分の意見を採用する時もあ

ろうかと思われます。その時こそ両親の墓へお参りしようと思いますので、今は故郷に

帰りません。しかし、さすがに両親の眠る故郷は恋しく、吹いて来る風、立つ雲が東方

からといえば、思わず庵を出て身に触れ庭に立って見るばかりです。

弥四郎急死の知らせ

 したがって、たとえ親しみのない人でも故郷の人といえば非常になつかしく思われま

すのに、まして親しい尼御前からの手紙を頂戴し、心もはやって早速拝見しましたとこ

ろ、一昨年の6月8日に御子息の弥四郎殿が亡くなられたとのこと。お手紙を見るまでは

しく思っていましたが、いまこのお手紙を読み、どうしてこんなに急いでお手紙をひら

たかと、浦島太郎の玉手箱のように開けたことを悔いています。

後生こそ恐ろし、助けさせたまえー弥四郎という人

 故郷の安房の国のことは、日蓮に辛くあたった人のことでも懐かしく思っております

し、とりわけ弥四郎殿は容貌も人並み以上に勝れ、温和な人柄とお見受けしました。い

つぞやお会いしたのは法華経講説の席で、知らない人びとも多勢いましたので言葉もか

けませんでした。講説も終わり人びとも弥四郎殿も帰られましたが、やがて使いをよこ

し、自分は安房の国天津に居住する者ですが、幼少の時からあなたの御志を御慕いし、

私の母もまたあなたのことをおろそかには申していませんでした。馴れ馴れしい申し分

ではありますが、内密に申し上げたいことがございます。本来ならばお伺いいたし、御

懇意をいただいてから申し上げるべきですが、武士に仕える身分にて暇もなく、それに

急ぎ申し上げねばならない事情もありますので、失礼をかえりみず申し上げます。と懇

切に面会を求めてこられました。故郷の人でもあり、別にはばかる事もありませんので招い

ところ、こまごまと今までのことや行末のことなどを話してから、無常は世の習いであ

ればいつ命を失うかはわかりません。その上、自分は武士となった身であり、また近い

うちに刀を用いなければなりません。それにつけても後生が恐ろしく思われてなりませ

んので、どうか助けていただきたいと言われましたので、経文を引用して申し聞かせま

したまた弥四郎殿が歎いて言うには父はすでに亡くなりましたが寡婦の母がいます

この母より先に死ぬことは、この上ない不孝だと考えています。もし私が死ぬようなこ

とがあれば、是非母をお弟子にして頂きたいとねんごろに依頼されました。その時は何事も

なくすんだようでしたが、その後また死なねばならない事件が起こったのでしょうか。

(つづく)

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【 2023/11/28 05:41 】

真の孝養と仏道をめざして  | コメント(0)  | トラックバック(0)  |

真の孝養と仏道をめざして 光日房御書③

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波木井の御影(身延山久遠寺蔵)

光日房御書こうにちぼうごしょ

 ただし法華経のまことにおはしまし、日月我をすて給はずば、かへり

入りて又父母のはかをもみるへんもありなんと、心づよくをもひて、梵

天・帝釈・日月・四天はいかになり給ひぬるやらん。天照大神・正八幡

宮はこの国にをはせぬか。仏前の御起請はむなしくて、法華経の行者を

ばすて給ふか。もしこの事叶はずば、日蓮が身のなにともならん事はを

しからず。各々おのおの現に教主釈尊と多宝如来と、十方の諸仏の御宝前にして

誓状を立て給ひしが今日蓮を守護せずして捨て給ふならば、正直捨方しょうじきしゃほう

便べんの法華経に大妄語を加へ給へるか、十方三世の諸仏をたぼらかし奉れ

御失おんとがは、提婆達多だいばだったが大妄語にもこへ、瞿伽利尊者くぎゃりそんじゃ虚誑罪こおうざいにもまされ

たり。たとひ大梵天として色界しきかいの頂に居し、千眼天せんげんてんといはれて須弥しゅみ

頂におはすとも、日蓮をすて給ふならば、阿鼻の炎にはたきぎとなり、

無間大城にはいづるごおはせじ。此罪をそろしくをぼせば、いそぎいそ

ぎ国にしるしをいだし給へ、本国へかへし給へと、高き山にのぼりて大

音声をはなちてさけびしかば、九月の十二日に御勘気、十一月に謀反むほん

ものいできたり、かへる年の二月十一日に、日本国のかためたるべき大

将どもよしなく打ちころされぬ。天のせめという事あらはなり。これに

やをどろかれけん、弟子どもゆるされぬ。しかれどもいまだゆりざりし

かば、いよ球究強盛ごうじょうに天に申せしかば、頭の白き烏とび来りぬ。彼燕かのえん

のたむ(丹)太子の馬、烏のれい(例)、日蔵にちぞう上人の、山がらすかしら

もしろくなりにけり我がかへるべき期や来ぬらん、とながめしこれなり

と申しもあへず、文永十一年二月十四日の御赦免状、同三月八日に佐渡

の国につきぬ。同十三日に国を立ちて、まうら(網羅)というつ(津)

にをりて、十四日はかのつにとどまり、同じき十五日に越後の寺どまり

(泊)のつにつくべきが、大風にはなたれ、さいわひ(幸)にふつかぢ

(二日程)をすぎて、かしはざき(柏崎)につきて、次の日はこう(国

府)につき、十二日をへて三月二十六日に鎌倉へ入りぬ。

【現代語訳】


白頭の烏ー佐渡赦免

 ただし、法華経が真実の教えであり、日月天などの法華経を守護する諸天が日蓮を見

捨てなければ、また故郷へ帰り父母の墓へ参ることもできるであろうと心強く、法華経

の行者を守護する梵天・帝釈天・日月天・四天王らはどうなされたか、天照大神・正八

幡宮はこの日本におられないのか法華経の行者を守護するという仏前の起請を破って、

法華経の行者を捨てられたのかと思うばかりです。諸天の守護がなく、日蓮の身がどう

なろうとも惜しいとは思いません。ただ、あなた方が現に教主釈尊と多宝如来と十方の

諸仏の前で、法華経の行者を守護すると誓いを立てながら、いま日蓮を守護しないでそ

の誓いを捨てるならば、釈尊が「正直に方便を捨てる」と言われた法華経に大きな妄語

を加えることになりましょう。十方三世の諸仏を欺いた罪は、提婆達多の大きな偽りよ

りも
※ 1伽利尊者※ 2誑罪よりも重く深いものです。たとえ大梵天として色界の頂上に居

住し、帝釈天といわれて須弥山の頂上におられても、もし日蓮を守護しないで捨て去る

ならば、絶え間なく責め苦を受ける阿鼻地獄の炎を増す薪となって、その無間地獄から

されることは永久にないでしょう。この罪を恐ろしいと思われるならば、急ぎ日蓮が逮

捕されたとき予言したように内乱の現証を示されよ、日蓮を鎌倉へ帰されよと高い山に

登り、大音声をもって諸天へ強言しました。すると9月12日のとがめの日から、わずか3

ケ月後の11月に謀反を起こす者が現われ、翌年の2月11日には日本国を守るべき大将た

ちが理由もなく殺されました。諸天の呵責かしゃくが実行されたことはこれによって明らかで

す。これに驚いた幕府は牢につながれていた日蓮の弟子たちをただちに赦免しました。

しかし日蓮にはいまだ赦免がありませんので、さらに強盛に守護なきことを諸天に申し

聞かせますと、頭の白い烏が飛来してきました。これは何事かと考えてみますと、むか

し燕の国の丹太子が秦の国に人質になった時秦王が戯れにもし※ 3頭の烏が現われ、馬

に角が生えたならば許そうといったのを丹太子が祈り、ついに白頭の烏が現われ、馬に

が生じて本国へ帰ることを許された例があります。また※ 4蔵上人が「山がらすかしらも

しろくなりにけり我かへるべき期や来ぬらん」と詠んだことなどを思い合わせ、自分の

帰る時期も近づいたのであろうかと考えていますと、文永11年(1274)2月14日に赦免

状が下り、それが3月8日に佐渡の国へ届いたのです。13日に佐渡の配所を発って真浦の

津に着き、14日はそこに泊り、翌15日に越後の寺泊に着く予定が、大風のため船が流さ

れ2日後に※ 5崎へ到着しました。そしてその翌日には越後の国府に着き、12日間の旅程

をへて3月26日に鎌倉へ入りました。(つづく)

(語註)

 ※1 
瞿伽梨尊者:釈迦族の出身で、釈迦の実父である浄飯王の命により出家し仏弟子
        となったが、驕慢心で我見が強かったために修行が完成せず、後に提婆達多の弟子
        となったという。
「大智度論」にある伝説では、ある日の夜に、舎利弗と目連が急
        な雨天に見舞われ、陶師の家に止宿させてもらった。先に女人がいたが、暗かった
        ので2人とも知らなかった。女人が夜夢に精を失って晨朝水浴したのを、瞿伽梨が
        見つけて、2人が不浄を行ったと言いふらした。これを聞いた釈尊は彼を3度にわ
        たって呵責するも、瞿伽梨は悔い改めずに、ついに身体に疱瘡ができて死に、大蓮
        華地獄に堕したという。

 ※2 虚誑罪:妄語のこと。悪心をもって故意に人を欺き、悪道に堕とそうとする罪。
     十悪業の1つ。
 

 ※3 
白頭の烏:中国の戦国時代、秦に人質になっていた燕の太子、丹が帰国を望んだ
           ところ、秦王(始皇帝)が「烏の頭が白くなり、馬に角が生えたら許可しよう」
           と答えたという故事。「史記‐刺客伝賛注」「燕丹子」などにみえる。

 ※4 
日蔵:金峯山の日蔵とする説もあるが、平安時代の歌僧で、中古三十六歌仙の
           である増基法師とする説が妥当。日蓮が引用した「山がらす」の歌は、家集『い
           ほぬし』(別名「増基法師集」)に含まれ、『後拾遺和歌集』に人集された。

 ※5 
柏崎:現在の新潟県柏崎市。新潟県の海岸ぞいのほぼ中央に所在。鎌倉時代から
           港津として発達。文永11年(1274)3月、佐渡流罪を赦免された日蓮は、その
           帰路、大風に流されて寺泊に着く予定が当地に漂着した。

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【 2023/11/25 05:43 】

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真の孝養と仏道をめざして 光日房御書②

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波木井の御影(身延山久遠寺蔵)

光日房御書 こうにちぼうごしょ

 日蓮はさせるとがあるべしとはをもはねども、この国のならひ、念仏者

と禅宗と律宗と真言宗にすかされぬるゆへに、法華経をば上にはたうと

むよしをふるまへ、心には入らざるゆへに、日蓮が法華経をいみじきよ

し申せば、威音王仏 いおんのうぶつの末の末法に、不軽菩薩 ふぎょうぼさつをにくみしごとく、上一 かみいち

にんよりしも万人にいたるまで、名をもきかじ、まして形をみる事はをもひ

よらず、さればたとひ失なくとも、かくなさるる上はゆるしがたし。ま

していわうや、日本国の人の父母よりもをもく、日月よりもたかくたの

みたまへる念仏を、無間の業と申し、禅宗は天魔の所為 そい、真言は亡国の

邪法、念仏者・禅宗・律僧等が寺をばやきはらひ、念仏者どもが頸をは

ねらるべしと申す上、最明寺 さいみょじう・極楽寺の両入道殿を阿鼻地獄 あびじごくに堕ち

給ひたりと申すほどの大禍ある身なり。此等程の大事を上下万人に申し

つけられぬる上は、たとひそらごとなりともこの世にはうかびがたし。

いかにいわうや、これはみな朝夕に申し、昼夜に談ぜしうへ、へい左衛 さえ

門尉 もんのじょう等の数百人の奉行人に申しきかせ、いかにとが(科)に行はる

とも申しやむまじきよし、したゝかにいゐきかせぬ。されば大海のそこ

のちびきの石はうかぶとも、そらよりふる雨は地にをちずとも、日蓮はか

まくらへは還るべからず。

【現代語訳】
諫めと憎悪ー赦免のされがたいことの回想


 日蓮はそれほどの罪科ある身とは思いませんが、日本の人びとは長い間、念仏者と禅

宗と律宗と真言宗の教えにだまされてきていますから、法華経を表面では尊崇している

ように見えますが、心からは信じておらず、日蓮が法華経を最勝の経であるといえば、

あたかも威音王仏の末法の人びとが※ 1軽菩薩を憎んだように、日本の上下のすべての人

びとは日蓮を憎みその名を聞くことすら嫌い、まして姿を見ようと思う者など一人もい

ません。したがって、たとえ罪科がなくても流罪にされた上は赦免されることはないで

しょう。まして日蓮は、日本国の人びとが父母よりも重く尊び、日月よりも高く仰いで

いる念仏を無間地獄に堕ちる業禅宗は天魔の所為真言宗は亡国の邪法であると破し、

念仏者・禅宗・律僧などの寺を焼き払い、念仏者の首をねよと申し述べたばかりか、

※ 2明寺入道時頼殿・※ 3楽寺入道重時殿は無間地獄に堕ちたとまで主張した大罪のある

身です。これほどの大事を上下万人に申し上げた以上、かりに虚事であるとしてもこの

流罪が赦免されることはないでしょう。ましてこれらのことは、すべて日蓮が常に語り

続けたばかりでなく、文永8年(1271)9月10日には※ 4左衛門尉ら、数100人の役人の

前で申し聞かせ、いかなる罪科に処せられても決してその主張を止めることはできない

と、強く言明したのですからなおのことです。したがって、たとえ大海の底の1000人の

力でようやく引くことのできる重い大石が浮かぶことがありましても、また天から降る

雨が大地に落ちないことがありましても日蓮が再び鎌倉へ帰ることはないと思います


(つづく)

【語註】

 ※1 不軽菩薩:法華経の常不軽菩薩品第二十に説かれる菩薩。釈尊の前世における衆
           生救済の菩薩行を説く本生物語の一つで、すべての人々がやがて成仏するであろ
           うことを尊び、軽蔑や迫害にもめげず四衆を礼拝した。日蓮聖人はこの不軽菩薩
           を末法における法華経弘通の理想とし、自己の信仰実践の規範とした。

 ※2 最明寺入道:第5代執権北条時頼のこと。幕府の勢威と北条氏の権力を強めた。
           禅僧蘭渓道隆に帰依し、建長寺内に最明寺を建立、最明寺入道とよばれた。執権
           辞任後も最大の権力者で、日蓮が文応元年(12060)に立正安国論を前の執権で
           ある時頼に上呈したのもこのため。日蓮は時頼こそ自説の理解者と見、また伊豆
           流罪赦免の理由も、讒言によって流罪されたことを知った時頼の処置であると受
           けとめた。

 ※3 極楽寺:神奈川県鎌倉市極楽寺町に所在。真言律宗の寺院、開山は良観房忍性、
           開基は北条重時と伝える。幕府の祈願所となり発展。日蓮聖人は法華経誹謗の拠
           点・悪所とした。

 ※4 平左衛門尉:平頼綱のことで、平金吾とも表記。鎌倉幕府侍所の所司。北条氏得
           宗の時宗貞時の被官文永8年(1271)9月12日、日蓮逮捕の指揮をした中心
           人物。このとき日蓮は、得宗被官の最大有力者だった頼綱に対し、2度目の諫言
           を、さらに佐渡流罪赦免後の文永11年(1274)4月に、3度目の諫暁を行なっ
           た。

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【 2023/11/23 05:48 】

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