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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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ブッダに帰依した人たち その7


ブッダを知りませんか?

カニシカ王(
迦膩色迦【カニシカ】王)

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 前回はアショーカ王のお話をしたので、世界史を教えている者としては、どうしても話さなくてはならないということで、今回はカニシカ王。高校の世界史ではクシャーナ(クシャーン)朝最盛期の王さまで、第4回仏典結集を行った、くらいしか教えない。まあ、カニシカ王が発行した金貨の写真は掲載されてるけどね。

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 クシャーナ朝についてちょっと説明しとこうね。もともと中国の西、陝西・甘粛地方に住んでいた月氏が匈奴に敗れて敗走、バクトリア地方に大月氏国を建てた。この国の支配下にあったイラン系クシャーナ族が自立して1世紀に建てたのがクシャーナ朝だ。カニシカ王は第4代国王で、在位期間は130~170年というのが有力な説。アショーカ王から約400年ほどあとに登場した王さまだ。中央アジアからガンジス川中流域までを支配して、クシャーナ朝の全盛期を築いた。都はガンダーラ地方の中心地プルシャプラ(現在のペシャワール)。クシャーナ朝はシルクロードの要地をおさえて、ローマとの貿易で繁栄。大量のローマ金貨が持ち込まれ、王さまはこれを鋳つぶして写真のような金貨を発行した。

 カニシカ王は政務のあい間に常に仏典を学び、毎日、一人の僧を宮廷に招いて教えを説かせたそうだ。しかし、同じブッダの教えを説いていると言っても、その僧によって説くところがそれぞれ違う。仏教はすでに20ほどの部派に分かれていたから、まあ当然と言えば、当然なんだけど、王の疑問は深まるばかりだった。

 そこで、脇【きょう】尊
。どうして、者(パールシュヴァ)に質問してみた。

「仏教は源は一つであり、その理に違
いはないはずである僧侶達の話す内容に違いがあるのか?」

 尊者は答えて言った。「ブッダが世を去ってから長い年月が経ち、弟子たちは分派し、師弟は意見を異にしています。そこで、それぞれの僧が別の意見を持つような結果となったのです。しかし、どの説も皆正しい。修行すれば成果を得ることができる。ブッダが予言されていたが、金でできた杖が折れてばらばらになっても、金という素材は変わらない。教えも多くに分かれてもその内容は変わらない」

「諸部派の教えのうち、私が修行するのにどれが最善だろうか?どうか、尊者よ教えて欲しい」

「諸部派のうち、説一切有部【せついっさいうぶ】を超えるものはありません。王が修行をされたいならば、これに依るのがいいでしょう」

「それなら、その部派の伝承にしたがって、仏典を編集し、解説してください。及ばずながら、私は仏教の興隆に役立ちたいと思います。」

 脇尊者は了承し、王は命令を下して、すぐれた仏教僧を招集させた。王は本国のガンダーラで会を開きたいと思ったが、その地は蒸し暑く、不適当であった。また、マハーカッサパがかつて最初の結集を開いたラージャガハの石窟で開催しようとしたが、脇尊者が反対して言った。

「ラージャガハはいけません。かの地は外経を信じる者が多く、とても仏典の編集など出来ません。カシミールこそ土地は肥沃で、物産も豊か、仏典編集にふさわしい土地です」

 
こうして、カニシカ王が主催する仏典の編集会議はカシミールで開かれることになった。いよいよ会議を始めようとしたが、集まった僧の数が多すぎて議論が混乱しそうであった。そこで王は僧たちに言った。

「僧たちのうちで、悟りを開いている者はとどまれ。煩悩をもつ者は去れ」

 王の命令で、多くの僧たちが帰って行った。しかし、まだ人数が多すぎた。王はふたたび命令した。

「学問をし尽くして学ぶべきものの無い人はとどまれ。いまだ学ぶべきもののある人は去れ」

 こうして多くの僧が去ったが、まだ多すぎたので、王はまた命令した。

「聖者の位の3つの認識能力(三明【さんみょう】)と6つの神通力をもつ者はとどまれ。それ以外の者は去れ」

 それでもまだ多すぎたので、命令が下った。

「僧たちの中で。経・律・論の三蔵をきわめ、5つの学問(五明処)を
身につけた者だけが残れ。他の者は去れ」

 こうして残った僧が499人いたんだって。これに世友尊者(ヴァスミトラ)を加えた500人の僧が集まって仏典編集の会議を開き、長い時間を費やして討論した結果、ついに完成したのが『阿毘達磨大毘婆沙論【あびだるまびばしゃろん】』だった。これは説一切有部の根本教義を集大成した文献。この時代にすでに大乗仏教運動が起こっていたんだけど、カニシカ王が保護したのは小乗仏教を呼ばれた、部派仏教のほうだったんだね。

 ところで、第4回仏典結集が行われたカシミール地方はカラコルム山脈の麓。紀元前2世紀前より罽賓【けいひん】国が支配していたが、紀元前1世紀にクジラ・カドフィセスに敗れ、クシャーナ朝の支配下に入った。ここで仏典結集が行われたということは、説一切有部の中心だったんだろね。4世紀半ば、9歳の鳩摩羅什が母とともに罽賓国に留学し、3年間、槃頭達多【ばんずだった】に学んだと伝えられているが、恐らく説一切有部を学んだんだろうね。


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 カニシカ王は馬鳴【めみょう】(アシュヴァゴーシャ)を中インドから招き、プルシャプラ郊外にカニシカ伽藍と呼ばれる大塔を建てたそうだ。この大塔の規模の大きかったことは、6世紀の初めにこの地を訪れた中国の宋雲の記録にもあるんだけど、基壇の1片が87メートルというとてつもなく大きいストゥーパだったそうだ。1908~09年にその跡から写真の舎利容器が発掘され、中からブッダの骨片が3つ出て来たそうだ。2006年にペシャワール博物館に行った時にこの舎利容器を見たんだけど、あれはどうもレプリカだったみたいだ。


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 ところで、写真のコインはシャンカルダールのストゥーパを見に行った時に現地のおっさんから買ったものなんだけど、僕はカニシカ王の発行したものだと信じている。詳しいことが分からないので、知ってる人がいたら是非教えて下さ~いね。

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【 2014/11/14 17:39 】

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ブッダに帰依した人たち その6


ブッダを知りませんか?

アショーカ王(阿育【あいく】王)

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 ブッダがマガダ国の都ラージャガハの竹林精舎に滞在していた時のこと、ある朝早く、多くの修行僧をしたがえて托鉢をしていた。
 その時、ラージャガハのある町かどで、二人の子供が泥の家を作って遊んでいた。一人はジャヤといい、もう一人はヴィジャヤという名であった。彼らはそこに通りかかったブッダが、たぐいまれな32の優れた特色をもった姿をしているのを見て思わず立ち上がった。ジャヤは「麦こがしをさしあげます」と言って、一すくいの土塊【つちくれ】をブッダの持っている鉢の中に入れて供養の意をあらわし、ヴィジャヤはただ合掌礼拝してブッダに敬意を表した。ジャヤはブッダに土塊の施物をささげてから、「この功徳によって、私は世界を統一する王となり、ブッダに供養できますように」という願いを起こした。

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 ところで、「麦こがし」って、何だか分かる?。「きな粉」みたいだけど、きな粉は大豆の粉。麦こがしは大麦を炒って挽いた粉だよ。みんな食べたことないだろうな。麦こがしは「はったい粉」とも言って、僕らが小さい頃はおやつ代わりによく食べさせられたもんだ。砂糖を入れて、熱湯をかけて練って食べるんだけど、チベット人の主食になっているツァンパみたいなもんだ。ツァンパは以前チベットに行った時に食べたけど、麦こがしより美味しかった。ただし、熱湯を入れてから手で捏ねるから、火傷しそうなくらいに熱くて、なかなか口に運べなかった記憶がある。

 話をもとに戻そうね。ジャヤが未来において王となるべき善根を積んだ時、ブッダは微笑んで、一緒にいたアーナンダにこう語ったという。「アーナンダよ、この子供は土塊の布施という善根を植えたことによって、ブッダの入滅の後100年経った時、パータリプトラの都にアショーカという名の王として生まれ、正義の王、理想の帝王となって、私の遺骨を各地に祀り、84,000のストゥーパを建てて人々を利益するであろう」

 こんな前生譚【ぜんしょうたん】(前世の因縁物語)があって、紀元前304年頃アショーカはマウリヤ朝第2代ビンドゥサーラ王の多数の王子の一人として生まれた。成年に達したアショーカはタキシラで起きた反乱を鎮圧して功績をあげ、父王の死で長兄らとの王位争いに勝って即位した。この時、99人の異母兄弟を殺したと言われる。即位後も暴虐な王として恐れられ、王の通った所はすべて焼き払われ草木が1本も生えていない、と言われるほどの暴君だったと伝えられている。そんなアショーカ王にとって転機となったのが、即位8年に行われたデカン高原東北部のカリンガとの戦争だった。カリンガを征服したものの、両軍あわせて数十万の犠牲者を出すという、壮絶な戦いとなった。このことを悔いたアショーカ王は仏教に深く帰依し、征服戦争を放棄すると、仏教の理想を実現するための政策を行った。高校の世界史ではダルマ(法)を理想とする統治を行った、と習ったよね。

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 アショーカ王は、国民に法を広めるために自ら仏跡へ巡礼に行き、各地で法を説き、石柱や岩壁に法勅を刻んだ。写真の左はブッダ生誕の地ルンビニーの石柱法勅、右はヴァイシャリーの石柱法勅。ほとんどの石柱法勅は倒壊してしまっており、ヴァイシャリーのものだけが唯一立った状態で残っている。

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 磨崖法勅は辺境地帯に造られたのでなかなか見ることができないが、平成18年にパキスタンのシャーバーズ・ガリのものをようやく写真におさめることが出来た。
 また、アショーカ王はブッダ入滅の後に建てられた8つのストゥーパのうち7つから仏舎利【ぶっしゃり】(ブッダの遺骨)を取り出し、新たに建てた84,000のストゥーパに分納したと伝えられている。仏教は「八万四千の法門」なんて言い方もするけど、84,000は「たくさん」という意味で、実際に84,000建てたという意味じゃないよ。

 このほか道路や街路樹の整備、宿泊所・井戸の設置、人間や動物の施薬院の創設など、社会福祉事業も行った。アショーカ王はこうした政策を国外にも弘めようとして、アフガニスタン・シリア・エジプト・マケドニアなどに仏教伝道師を派遣したとされているが、残念ながらこれらの地域に仏教が弘まることはなかった。唯一伝道に成功したのがスリランカ。出家した王子マヒンダが派遣され、スリランカは上座部仏教の中心地となり、ここから東南アジアへと仏教が弘まって行った。

 アショーカ王自身は仏教徒だったけど、仏教だけでなくあらゆる宗教を平等に保護した。彼が行った「法による政治」とは、慈悲と不殺生の精神で、広い国内に住むさまざまな宗教・生活様式を持つ人々を統合するためのものだったんだね。パレスチナのユダヤ教徒とイスラーム教徒の争い、シリアやイラクにおけるシーア派とスンナ派の争いなど、世界中で宗教の違いから来る紛争が続いているけど、そんな今こそアショーカ王の統治方法を見習ってもらいたいもんだ。

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 写真はアショーカ王がブッダの初転法輪【しょてんぼうりん】の地サールナートに建てた石柱法勅の柱頭。世界史の授業で習ったよね。4頭背中合わせの獅子の彫刻は、ブッダの教えが四方に行き渡ることの象徴で、現在インドの国章として用いられており、その下の法輪は国旗の紋章として使われている。

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 また、王の援助のもと、パータリプトラ(現在のパトナ)に5,000人の坊さんが集まり、第3回仏典結集【けつじゅう】が行われたとされるが、詳しい年代はわかっていない。

 そんな善政を行ったアショーカ王であったが、晩年その地位を追われ、幽閉されたとも伝えられている。コーサラ国のパセーナディ王、マガダ国のビンビサーラ王、タージ=マハルを建てたムガル帝国のシャー=ジャハン。インドって、こんなんばっかだね。

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【 2014/11/06 16:40 】

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ブッダに帰依した人たち その5


ブッダを知りませんか?

アジャータサットゥ
阿闍世【あじゃせ】) その2

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手塚治虫『ブッダ』

  さて、アジャータサットゥ誕生の秘密だけど、聞きたい?そう、聞きたいよね。実はこんな話だ。

 ビンビサーラ王と韋提希夫人との間にはなかなか子供ができなかった。多くの神々に祈って、子供が授かるように願ったんだけど、その兆しすら得ることすらなかった。その時、一人の占い師が占いの結果を王に上奏した。
「山中に一人の仙人がいる。もう少しで寿命が尽きるけれども、死後は必ず生まれ変わって王子となる」
これを聞いた王は大いに喜んで、「その仙人はいつ死ぬんだ?」と聞いた。
「もう3年もすれば寿命が尽きます」
「いや、わしゃ3年も待てない」ということで、王は使者を遣わして仙人に直接頼み込んだ。
「王さまには子供がおらず、後継ぎに困っておられる。方々の神々に祈ったが、未だに子供を得ることが出来ない。ところが占い師によれば、あなたが亡くなって、王子として生まれ変わるとのこと。お願いだから、恩恵を与えて、早くあの世に行ってちょうだい」
  しかし、仙人は「私は3年を経て、はじめて死ぬのであるから、とても王の命令通り、すぐにあの世に行くことは出来ない」と告げた。
 王は「私は一国の主である。わが意を受け入れない以上は殺すほかはない。きっと、生まれ変わって、我が息子とならないことはないだろう」と言い、使いはまた仙人の所へ行って、その旨を伝えた。
 仙人は「我が命はまだ尽きてもいないのに、王は人を遣わして私を殺そうとする。もしも、王によって殺されて、王の子となったならば、逆に人を遣わして王を殺すであろう。この恨み晴らさでか!」と語って、死を受け入れた。

 その夜、韋提希夫人は懐妊した。王はこれを聞いて喜び、早速に占い師を呼んで聞くと、男の子であって、将来王に害を与えることになるであろうと告げた。王は、「たとえ害を受けることがあっても、なんの恐れがあろうか」と不吉な予言を否定しようとしたが、憂いと喜びが交錯し、韋提希夫人に事情を話した。相談の結果、二人はこの子を抹殺することで将来の不安を無くすとともに、世間の噂になることも防ごうと考えた。そこで、出産の時に、高楼から産み落として、赤子を殺そうとした。しかし、赤子は手の指を折っただけで一命を取り留めた。これがアジャータサットゥ誕生の秘密で、アジャータサットゥは別名をバーラルチ(折指)を呼ばれたそうだ。父親を殺す運命を背負って生まれて来たのがアジャータサットゥであった。

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 手塚治虫の『ブッダ』では、父親を殺害すると予言されたビンビサーラ王が赤子のアジャータサットゥを絞め殺そうとした、となっている。

 デーヴァダッタがビンビサーラ王殺害の話を持ちかけた時、アジャータサットゥは大いに怒ったそうだ。そこで、デーヴァダッタは「太子よ怒ってはならない。あなたの父王は実はあなたに対してどんなことをしてきてきたのか知ってるのかい」と言って、アジャータサットゥ誕生の秘密を話してきかせたんだ。太子の手の小指がその証拠であると告げた途端、太子は父子の情を捨てて、ビンビサーラ王を七重の牢獄に幽閉したというわけなんだ。

 アジャータサットゥがお母さんの韋提希夫人も幽閉したという顛末については前回お話した通りだ。突然の幽閉に錯乱した韋提希夫人はブッダに救いを求めたそうだ。狭い部屋に閉じ込められた韋提希夫人はすっかりやつれながらも、霊鷲山におられるブッダを礼拝し、お会いしたいと願った。礼拝して頭をあげた時、ブッダはモッガラーナとアーナンダを従えて、すでに部屋の中におられた。韋提希夫人は自分の身につけていた首飾りなどを断ち切って、我が身を大地に投げ出して、号泣しながら、ブッダに訴えた。

「世尊、われ、むかしなんの罪ありてか、この悪子を生める。世尊、またなんらの因縁ありてか、提婆達多と共に眷属【けんぞく】となりたまえる。
 ただ、願わくは世尊、わがために広く憂悩なきところを説きたまえ。われ、まさに往生すべし。閻浮提【えんぶだい】の濁悪世【じょくあくせ】をねがわず。この濁悪のところには、地獄・餓鬼・畜生盈満【ようまん】して不善聚多し。願わくは、われ未来に悪声を聞かず、悪人を見ざらん。いま世尊に向かいて五体を地に投じて、哀【あわれみ】を求めて懺悔【さんげ】す。ただ願わくは仏日、われをして清浄業のところを観せしめたまえ」


「ブッダよ、私は以前にどのような罪を犯したことによって、このように悪い子を生んだのでしょうか?また、ブッダはどんな因縁によって、デーヴァダッタを親族となさっておられるのでしょうか?
 ただお願いするのは、ブッダよ、私のために、広く憂い悩みのない世界を説いていただきたい。私はその世界に往って生まれ変わりたい。私はこの濁りきった悪いこの世にいたくはありません。この世には地獄・餓鬼・畜生の世界に住む悪人が満ちています。その世界に生まれ変わってからは、悪い声を聞いたり、悪人を見たくありません。今、ブッダに向かって五体投地し、ブッダの救いを求めて懺悔します。願わくは、無明の闇を破って輝く太陽のごときブッダの徳によって、清浄な修行で得たブッダの世界を見せてください」

 随分長くなったけど、『観無量寿経』からそのまま引用させてもらった。

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 苦悩や憂いのない世界を求めた韋提希夫人に対し、ブッダが説いたのが阿弥陀仏の極楽浄土の世界であった。でも、これって少しおかしいと思わない。だって、韋提希夫人が「私がどんな罪を犯したから、こんな悪い子を生んでしまったのだろうか?」と言ってるけど、大きな罪を犯してるじゃない。子供欲しさに仙人を殺したのはビンビサーラ王かもしれないけど、ことの顛末を知って我が子を殺そうと計画したのは紛れもない事実だ。それに「なんでブッダとデーヴァダッタが親戚なの?」と言ってるのは、明らかにデーヴァダッタに唆されたから太子が父親を殺そうとしたんだと、デーヴァダッタに責任転嫁しちゃってるよね。その上、ブッダに懺悔すると言ってるけど、自分が犯した罪を一切告白せずにする懺悔なんてあるんだろうか。それはただ口先だけの懺悔に聞こえる。まあ息子に幽閉されて錯乱状態だったにせよ、僕にはあまりにも身勝手な要求に思えてしまう。

 こんなこと言ったら、浄土門のお坊さんに叱られちゃうかも知れないけど、ブッダは韋提希夫人の苦しみを癒すために極楽浄土の世界を示したに過ぎず、鎮痛剤で一時的に痛みを止めるようなもんじゃないかな(ちょっと、言い過ぎかな)。だって、極楽世界に「往って生まれる」だけで、悟りを開いてブッダになれるなんて一言も言ってないもんね。やはり、われわれがブッダとなれるのはこの娑婆世界だけで、ほかの世界では絶対ブッダになんかなれっこないんだよ。

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 以上のお話が「王舎城の悲劇」と言われている。結局、アジャータサットゥを唆したデーヴァダッタはたびたびブッダ暗殺を謀り、最後の自分の爪の間に毒を塗り、ブッダを傷つけて暗殺しようとしたが、自分の指先の小さな傷から毒が回りあえなく死んでしまう。一方、アジャータサットゥは父殺しの悪業の因縁なのか、悪性の腫れ物に苦しめられ、しだいに自分の罪を悔いるようになった。

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 この時、ブッダを訪ね懺悔するように勧めたのが、前回も出て来たけど医師のジーヴァカ(耆婆【ぎば】)だ。この人はパキスタンのタキシラでピンガラに7年間医学を学び、当時インド一の名医とうたわれた人だ。タキシラはガンダーラ地方の中心都市。「ガンダーラ紀行」で詳しく書いているので、興味あったら読んでみてね。

 ブッダを訪ねたアジャータサットゥは、こう告白した。
「私は、たとえデーヴァダッタの言葉に動かされたとはいえ、自らの手で父王を殺害してしまいました。デーヴァダッタの惨めな最期を耳にし、私もわが罪によって大地に飲み込まれてしまうのではないかと毎日恐れています。どうしたら安楽の生活に戻れましょうか?」
 ブッダは法を説き、
「王よ、あなたは愚かさと不善によって父王を殺した。しかし、今日、罪科を認め、法に従って懺悔したので、その罪科を私は収めておきましょう。それは、自らの罪科を認め、法にならってこれを懺悔し、それによって将来、自ら慎むのであれば、これは聖者の戒めの栄えるもとであるからです」
 と、アジャータサットゥの懺悔を受け止めたたそうだ。どんな悪行をはたらいても、心から懺悔すれば、その人は聖者となれる。これはアングリマーラの時にもブッダが強調したことだったよね。


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ラジギールの七葉窟

 
これを機にアジャータサットゥはブッダに帰依するようになり、不治の病と思われた腫れ物も癒えたそうだ。ブッダに帰依してからのアジャータサットゥは積極的にブッダを供養し、教団のために尽くした。ブッダが亡くなった直後にラージャガハで行われた第一結集【けつじゅう】の時には、アジャータサットゥは18の寺を修理し、七葉窟を修理し、修行僧を供養したと伝えられている。

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【 2014/10/24 17:22 】

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ブッダに帰依した人たち その4


ブッダを知りませんか?


アジャータサットゥ(
阿闍世【あじゃせ】) その1

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手塚治虫『ブッダ』

 アジャータサットゥは前回お話ししたマガダ国王ビンビサーラとコーサラ・デーヴィーとの間に生まれた。コーサラ・デーヴィーはコーサラ国王パセーナディの妹だったよね。だから、パセーナディ国王を幽閉して王位を奪った息子のヴィドゥーダバ(ルリ王子)とは従兄弟になる。コーサラ・デーヴィーは別名ヴェーデーヒー。漢訳仏典では韋提希【いだいけ】と訳される。ヴェーデーヒーは「ヴェディーハの女」という意味だから、彼女はヴェディーハの出身ということになってしまう。ヴェディーハはヴァッジ国を構成していた8部族の一つで、これだとコーサラ国王の妹だという話とつじつまがあわなくなっちゃうんだけど、まあ2500年の前の話だから仕方ないよね。日本では『観無量寿経』の影響もあって、韋提希夫人でその名が通っているんで、このあとは韋提希夫人と呼ぶことにするね。

 アジャータサットゥはビンビサーラ王の多くの王子の中でも最も力量のある王子だったんだけど、なぜかブッダの弟子の中ではシャカ族出身の秀才であるデーヴァダッタと気が合い、デーヴァダッタにたくさんの寄進をしたり、食事に招待したりした。

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 そうしたある日、ブッダに対抗して独立の教団をすくろうと企てていたデーヴァダッタは、アジャータサットゥをそそのかして、こんなことを言った。
「王子よ、昔は皆長命だったが、いまは短命になった。短命なのはあなたも同じだ。あなたはこのまま王子として世を去るおつもりですか?王になりなさい。父王を殺して王となるのです。私はブッダを殺して新しい教団の指導者となろう」
 王子はデーヴァダッタを威力のある聖者と信じていたから、その言葉通り実行しようとした。
 王子は刀を腰に隠して宮中に入ったまでは良かったんだけど、ブルブルと震えているのを大臣たちに見咎められ、刀を隠し持っていことがばれちゃった。なぜ刀を隠し持っているかを聞かれた王子は正直に「父を殺すためだ」と答え、尊敬するデーヴァダッタに勧められたからだと告白した。

 大臣たちに取り押さえられた王子は、父ビンビサーラ王のところへ引き出された。
「王子よ、何故にそなたは私を殺そうとするのか?」
「大王よ、私は王位が欲しいのです」
「そなたが王位を欲しいというなら、今あげよう。この王位はそなたのものだ」
 長い間ブッダの教えを聴き、父子争うことの非をわきまえていたビンビサーラ王は、王子の望みを知ると、自ら王位を退き、マガダ国のすべてのものをアジャータサットゥに譲った。しかし、デーヴァダッタに煽動されたアジャータサットゥはあくまで父を殺そうとし、父王を七重に囲った部屋に閉じこめ、食事をさせないで餓死させようとした。

 
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 しかし、アジャータサットゥの母である韋提希夫人は、ひそかに幽閉中の王のもとに食物を運んだ。それが発覚すると、彼女は自分の肌に麦粉と蜂蜜を混ぜて塗り込め、胸飾りの1つ1つに葡萄の汁を詰めて王の部屋に入り、王に与えた。

 父王がいつまでも生きているのを不思議に思ったアジャータサットゥは家来に調べさせ、それが母親のはたらきによることを知ると、「私の母は賊だ。賊の仲間だからだ」と言って、母親を殺そうとした。チャンドラプラディーパ(月光)という大臣は「ヴェーダ聖典に説かれるところによると、昔からさまざまな悪王があって、王となるためにその父を殺した者は1万8千人にのぼるが、母を殺したというためしはない。王がもし、その母を殺したら、もはや王位につけておくことは出来ない」と言って、剣の柄に手をかけると、アジャータサットゥは後ずさりをした。さらに、智慧者ジーヴァカ(耆婆【ぎば】、この人はお医者さんでもある)も「母を殺してはならない」と諫めたので、アジャータサットゥは母親も一室に幽閉してしまった。


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七重の牢獄跡から霊鷲山を望む

 韋提希夫人が幽閉された後、ビンビサーラ王は餓死したのか?って。それが、死ななかったんだ。何故か?って。王の幽閉された部屋の東側の窓から、霊鷲山【りょうじゅせん】にいるブッダの姿が見え(どんだけ目がいいんだろうね。いやいや心の目で見てるんだよ。)、そのみ姿に礼拝することによって王の心に歓喜が生まれたからだそうだよ。これを知ったアジャータサットゥはその窓を塞ぎ、王の足を刺して立ち上がれないよにうしてしまった。

 
苦痛のあまり、ビンビサーラ王は声をあげてブッダに救いを求めたそうだ。この声を聞いたブッダは、モッガラーナを呼んで七重の牢獄へ行かせた。飢えに苦しむ王は、モッガラーナから天の神々の世界のうちで、最も食事が美味なのは毘沙門天【びしゃもんてん】であると聞き、次の世ではこの天に生まれたいと願ったそうだ。

 ちょうどその時、ラージャガハの城内では、アジャータサットゥの息子が皮膚病にかかって苦しんでいた。アジャータサットゥは我が子可愛さのあまり患部をもみ、さすり、はては口で血の混じった膿を吸った。彼の口はたちまち血膿でいっぱいになり、それを地面に吐き出した。それを見た息子は驚いて激しく泣き出した。

 閉じ込められた部屋の中から、これを見た韋提希夫人は大きなため息をついた。
「母上、どうしてため息をつかれるのですか?」
 と尋ねるアジャータサットゥに、彼女は言った。
「我が子よ、あなたも子供の頃同じ病気にかかったことがありました。その時、あなたの父君も同じように血膿を口で吸い取られましたが、父君はそれを地面に吐き出さず、飲み込んでしまわれました。地面に吐き出された血膿を見て、あなたが驚いて泣いてはいけない、と父君は思ったからです」
 これを聞いた時、初めてアジャータサットゥに憐れみの心が起こった。彼は居ても立ってもいられなくなり、急いで家臣たちを七重の牢獄に行かせ、「王の生存を告げた者には国の半分を与える」と言った。
 しかし、ビンビサーラ王は、王の使いが牢獄に急いで来るのを見て、「また私を苦しめるために来るのであろう」と思い、自ら命を絶ち、かねてよりの願いであった毘沙門天の世界に生まれ変わったそうだ。

 歴史上、父親を殺して即位した王はたくさんいる。昨年サマルカンドを旅行したんだけど、ティムール朝第4代君主のウルグ=ベクも息子に殺されている。あの英雄ティムールの孫で天文台を造ったりして文化的な功績を残した君主だけど、息子のアブドゥッラティーフに農家の庭先で惨殺されている。隋の煬帝もそうだね。父親の文帝を殺して即位した。兄弟を殺して即位した例になると、枚挙にいとまがないほどたくさんある。

 でも、ちょっと待てよ。いくらデーヴァダッタに唆されたと言っても、いきなり父親殺害という行動に出るかな?実はデーヴァダッタはアジャータサットゥの誕生にまつわる秘密を彼に教えて、彼を煽動したんだ。どんな秘密かって。それは次回お話しようね。(つづく)

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【 2014/10/20 17:51 】

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ブッダに帰依した人たち その3


ブッダを知りませんか?

ビンビサーラ王(頻婆娑羅【びんばしゃら】王)

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手塚治虫『ブッダ』


 ビンビサーラ王は「ブッダの生涯」にも登場してきたけど、マガダ国の王さまだったよね。ビンビサーラ王は国内改革に邁進し、首都ラージャガハ(王舎城)の造営を続けるとともに増大した国力を持って東隣のアンガ国を征服。また、前回お話したように、コーサラ国王パセーナディの実妹コーサラ・デーヴィーを嫁さんに迎えた時に、持参金としてカーシー国を貰い、東インドに強力な勢力を形成した。

 ビンビサーラ王がブッダと初めて出会ったのは、出家したシッダールタがカピラヴァトゥからラージャガハにやって来た時のことだった。ラージャガハの町に入ったシッダールタは、出家者の作法どおり鉢を手に托鉢をして歩いた。その姿を宮殿の高殿から見ていたビンビサーラ王は、神々しく威厳のあるシッダールタの姿に感動し、「あれは神の使いであろうか」とつぶやいた。そして、そばにいる家臣たちに言った。
「あそこにいる托鉢僧を見てごらん。立派で清らかな姿をしている。それにちゃんとした礼儀作法も備えている。あの人は卑しい出身ではないようだ。皆の者、彼の跡を追いなさい。この修行者がどこへ行くか見届けてくるように」

 
そう命令したあと王はすぐに占い師にその修行僧を占わせた。占い師は、「もし俗世にあれば転輪聖王【てんりんじょうおう】として四方に君臨する大王になるであろう。もし出家学道に進めば、成道【じょうどう】してブッダとなり、人々を救うであろう」という結果を告げた。転輪聖王は古代インドにおける理想的な王のことで、サンスクリット語ではチャクラヴァルティラージャン。チャクラは「輪」、ヴァルティンは「動かすもの」、ラージャンは「王さま」のことで、「踊るマハラジャ」のラージャと同じ意味だ。それからチャクラというと、インド国旗のど真ん中に描かれている輪がアショーカ・チャクラと呼ばれている。アショーカ王がブッダ初転法輪の地サールナートに建立した石柱碑に刻まれた法輪だからそう呼ばれているんだけど、ダマルによって全インドを統一したアショーカ王なんかが転輪聖王と呼ばれるにふさわしいかな。

 話がそれちゃった。元に戻すね。

 そんなことがあったことなど全く知らないシッダールタは托鉢を終えると、住処【すみか】にしている城外のパンダヴァ山に向かった。彼の跡を追っていたビンビサーラ王の使者は住まいを突き止めると城に戻って、王に報告した。
「あの修行者はパンダヴァ山の洞窟の中で、虎や牡牛のように、また獅子のように静かに坐しています」
 ビンビサーラ王はさっそく壮麗な車を仕立てて山に向かい、急な道は車を降りて歩いて行った。洞窟の中では先ほどの修行僧が静かに瞑想している。

 ビンビサーラは修行僧に近づくと丁寧に挨拶して坐った。
「修行中の御身は見るところ青春の力に富み、人生の初めにある若者です。容姿も端麗で、おそらく高貴なクシャトリヤのようだ。いずれ転輪聖王にもなられよう。生まれはどちらですか?」
 王の質問に対してシッダールタは答えた。
「あちらのヒマラヤの中腹に、ひとつの民族がいます。昔からコーサラ国に属していて、富と勇気を備えています。私はその太陽の末裔と言われたシャカ族から出家したのです」

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「おお、それでよくわかりました。ところで、私はあなたにマガダ国の半分を与え、象の群を先頭とする精強な軍隊と財宝とを提供する用意がある。いかがかな?」
「私は欲望をかなえるために出家したのではありません。確かにこの世においては転輪聖王より位の高いものはありません。しかし、私はすでにこれを捨てたのです。出離は安穏であるとみて、努め励んでいます。成道してすべての人々を生死の大苦から救いたいというのが願いです。私の心はこれを楽しんでいるのです」

 ここでシッダールタがシャカ族の王子であると知ったビンビサーラ王が、即座に軍隊と財宝の提供を申し出たことは突飛な話ではない。当時、マガダ国はやはり大国であるコーサラ国と敵対関係にあり、いつかは大きな戦いになることは分かっていた。つまり、コーサラ国を倒すために、その従属国であるシャカ族と同盟を結んでおいて、南と北から挟み撃ちにしようと考えたビンビサーラ王の戦略的判断だった。

 もちろん、シッダールタはこの申し出を断った。いかなる説得も彼の求道の決心を変えさせることは出来なかった。諦めたビンビサーラ王は、「では、ひとつ約束してください。あなたが成道し、ブッダとなられた時、必ずこの町に戻って来て、私と我が人民のために説法してください」と言い残して山を下りていった。

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シッダールタがブダガヤの菩提樹の下で悟りを開きブッダとなったのは、それから6年後のことであった。ブッダは最初の説法の後、ウルヴェーラーに戻りカッサパ3兄弟を弟子とした話も前にしたよね。ブッダはこの3兄弟の弟子を加えて1000人にふくれ上がった僧の大集団を率いて、ラージャガハに入った。

 ビンビサーラ王は、今やブッダとして国中に名の知れたシッダールタが帰って来てくれたと、飛び上がらんばかりに喜び、12万人のバラモンや王族・貴族・市民を引き連れてブッダのもとを訪れた。

 マガダ国の人々は、見たこともない男がブッダと呼ばれて先頭に立ち、これまで尊敬を集めていたバラモンの大指導者カッサパ兄弟がその後ろに従っているのを不思議に思った。「どちらが師匠で、どちらが弟子なのか?」という声があちこちであがった。それを見たウルヴェーラー・カッサパは、
「私はバラモンの祭式が感覚的な喜びのみを目的とすることに不満を感じ、あらゆる執着を離れたブッダの法に満足しました。形あるものの穢れあることを悟ったゆえ、二度と生け贄と祭祀に手を染めることはない。ブッダこそ我が師です」
と言って、ブッダの足に額をつけて礼拝した。そこでブッダは人々に言った。
「これまでの多くの教えは、このブッダの教えのごとく涅槃【ねはん】導くものにあらず」
 ウルヴェーラー・カッサパがブッダの足に額をつけて礼拝したけど、この礼拝は頭面接足帰命礼【ずめんせっそくきみょうらい】といって、最高の敬意の表し方なんだ。僕たち坊さんは法要の中で、いつもブッダの足を手のひらに受けて礼拝してるんだけど、みんな見たことあるかな?

 ウルヴェーラー・カッサパの礼拝する姿を見て納得した人々に向かって、ブッダは布施の話や4つの聖なる真理の教えを説いた。この時、多くの人々に汚れない真理を見る眼が生じ、1万人の人々が在俗信者になることを表明したという。凄いよね。たった1回の説法で、1万人の信者さんを獲得しちゃうんだもんね。ブッダ恐るべし!

 ビンビサーラ王も勿論この中に入っており、その喜びようは大変なもので、王はブッダにこう話したそうだ。
「私は昔、まだ太子であった時に5つの願いを持っていました。第一に国王になること、第二は私の国にブッダをお招きすること、第三に私がそのブッダに仕えること、第四にブッダが私のために説法してくださること、第五には私がブッダの法を悟ることでした。今まさにこの5つの願いは成就しました」

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 嬉しくてたまらないビンビサーラ王は、ブッダと弟子たちに食事を供養した。そしてさらに、ブッダに住居を寄進したいと提案した。黙って頷いたブッダを見た王は、さっそく場所選びを始め、ラージャガハの入り口の外側にある竹林園を選んだ。

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竹林精舎跡

 「この竹林園は城から遠くもなく、近くもなく、行き来に便利であり、すべて希望する人が行ったり来たりできる。そして昼は喧噪が少なく、夜は声が少なく、人垣離れて静かであり、瞑想に適している。私はこの竹林園をブッダとその僧たちに寄進しよう」
 これが後に竹林精舎と呼ばれ、仏教教団第1号のお寺となった。サンスクリット語ではヴェーヌバナ・ビハーラ。ビハーラは最近仏教ホスピスの意味で使われているけど、もともとの意味は僧院。ビハール州の地名もこのビハーラからきている。この頃の僧院は必ず街や村から近からず遠からずという場所に建てられた。なぜなら、街にあまりに近いと街の喧噪が瞑想の邪魔になるし、なんと言っても街中だといろいろ誘惑も多い。かと言ってあまり街から離れると托鉢に行くのが大変だし、信者さんたちが説法を聴きに行くにも不便だ。ということで、竹林精舎のあたりが一番いい場所だったんだ。

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ビンビサーラ・ロード

 ラージャガハを中心に伝道活動を行ったブッダが瞑想の場所としたのが、グリドラ・クータという山。ラージャガハの東の城外にある150メートルくらいの山で、漢訳仏典では霊鷲山【りょうじゅせん】と訳される。ど、ブッダはこの山にとどまることが多く、僕たちが信奉する法華経もこのお山で説かれた。ビンビサーラ王はブッダの説法を聴くために、頂上にある香室まで続く道路を寄進したんだけど、これがビンビサーラ・ロードとして今も残っており、僕も6回この道を歩かせてもらった。

 ビンビサーラ王はブッダと同年齢だったとも、5歳年下だったとも伝えられているが、ブッダに帰依した最初の王となった。ビンビサーラ王はラージャガハでの再会の日から37年の間、ブッダの教えを親しく聴いたと言われるが、晩年の彼を待っていたのは過酷な運命の仕打ちだった。その話は次回のアジャータサットゥの時にしよう。乞うご期待!(つづく)

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【 2014/10/13 14:45 】

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