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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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なかなか中国を出られな~い!

8月23日(水)

 さあ、今日は今回の旅行のメイン。クンジュラブ峠を越えてパキスタンへと向かう。

2006_0824シルクロード 本淳0226 
 午前8時に朝食を済ませ、午前9時、昨日行けなかった石頭城を訪ねた。 タシクルガンはタジク語で「石の城」という意味で、この城が町の名前の由来となった。南北朝時代に築かれたと言われ、インドからの帰途玄奘も立ち寄り、20日間滞在している。

 玄奘がこの地を訪れたのは643年のことだが、それより240年余り前の401年に法顕がやって来ている。玄奘がインドを目指して長安を出たのが27歳、血気盛んな年齢であった。しかし、法顕が長安を出たのは64歳の時であり、年齢を考えれば無謀な計画であった。おまけに敦煌を出たあと、タクラマカン砂漠を横断して西域南道に出るという無茶苦茶な旅程で、この町にやって来た。

 法顕自らが「空に飛ぶ鳥なく、地に走る獣なし。ただ死人の枯骨を標識とするだけである」と書いたように、まさに死と隣り合わせの旅であった。死の恐怖をも超える求法の志に頭のさがる重いである。そして、タシクルガンを出た法顕は、我々とほぼ同じルートでガンダーラを目指したのである。

2006_0824シルクロード 本淳0238

 「疲れるから行かない」という怠惰な12名を残し、何でも見ようという好奇心の強い9名が石頭城に登った。石と土の塊がゴロゴロしている歩きにくい道を登ること僅か5分。目の前に広がる景色に息を呑んだ。崑崙【こんろん】山脈から朝日が昇り、煙のたなびく湿原地帯を照らし出す。朝日をうけて輝くカラコルム山脈の峰々。

2006_0824シルクロード 本淳0232 

 そして、昨日見ることの出来なかったムスターグ・アタ峰が雲間にその白い雄姿を見せている。360度の大パノラマである。

 城から降りて来て、残留組の連中に「いやあ、凄い景色だったよ。みんなも来れば良かったのに」と言っても、「どうせ、たいしたことなかったんだろ」と言って、信じてくれない。本当に素直じゃないんだから。

2006_0824シルクロード 本淳0239 

 午前10時に口岸に到着。口岸とは出入国管理事務所のことだが、こんな山奥なのに「岸」という字を使っているのは面白い。国境のクンジュラブ峠は標高4,693メートルもあって出入国審査が出来ないので、130キロも離れたタシクルガンの町に置かれている。ウルムチに到着してから4日間お世話になった趙戈莉さんとはここでお別れ、涙を流しながら、何枚も何枚も写真を撮った。その時、彼女が手を僕の手に絡めて来たんだけど、ひょっとして……かな?
 
 出国審査はお役所の仕事だから本来は午前9時に始まる。でも、ここは辺境の地なので、普通は午前10時始まるそうだ。ところが、10時を過ぎても始まらない。暇なのでクンジュラブ峠への道を撮影していたら、たまたま通りかかった軍隊を写したみたいだ。若い軍人さんがとんできて、データを削除しろって。拘束されてはかなわないので、素直に従った。
 午前10時30分、漸く出国審査が始まった。日本人のグループは我々だけ。乗り合いバスでパキスタンへと向かうウイグル族・モンゴル族、自転車を抱えた金髪のお兄ちゃん(欧米か!?古いギャグですんません)でごった返す。

2006_0824シルクロード 本淳0240 

 荷物の安全検査だけで一苦労。みんな自分の荷物を持ってX線検査を受ける。おまけに非典(平成15年に大流行した重傷急性呼吸器症候群、つまりSARS【サーズ】のこと)の体温検査まである。なんで今頃こんなことやってるの、と言いたくなる。その上、係官が新人さんなのか、愚図なのか、嫌がらせなのか、パスポートチェックに異様に時間がかかる。時計で計ったら、一人に10分かかる場合もある。結局我々のグループ全員の審査が終わったのが、午前11時45分。1時間以上もかかった。もっと速くやれよ。

 我々の検査はやっと終わったが、運転手さんが来ない。もっと厳重な検査を受けているようだ。

 運転手さんが現れ、さあこれで出発かと思ったら、若い姉ちゃんの係官がバスに乗り込んで来て、パスポートチェックと人数の確認をする。それも終わって、さあ今度こそと思ったら、偉そうな上司が現れて、また同じことを繰り返す。いい加減にしろよ!俺たちの中にテロリストでもいると言うのか!?

 午後12時15分、やっとやっと検問所を出られた。さあ、いよいよ中巴公路【ちゅうはこうろ】(カラコルム・ハイウェイ)を一路パキスタンへ、と思ったら、5分ほど走ってまた検問。国境警備隊が乗り込んで来て、運転手さんに何か聞いている。もう、いい加減にしてくれよ~。

 午後12時25分、やっとやっと検問所を出て、今度こそ本当にパキスタンに向かう。(つづく)



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【 2013/11/27 11:44 】

ガンダーラ紀行  | コメント(0)  | トラックバック(0)  |

天空の日中バトル!!

8月23日(水)

 午後12時25分、ようやく検問所を出て中巴公路(カラコルム=ハイウェイ)をパキスタンへと向かう。雪をいただくカラコルム山脈の峰々の壮大な景色を堪能しながら2時間ほど走ったところで、思わぬ敵が現れ、バスはストップした。

2006_0824シルクロード 本淳0243 
 な、な、なんと、舗装工事をしているではないか。アスファルト舗装をするでかい機械(アスファルトフィニッシャーというそうです)が、道路全面を塞いでいる。迂回路はない。工事が終わるまで、4時間も待てというのだ。冗談じゃないよ、4時間も待っていたら日が暮れちゃうよ。だいたいが、中巴公路は中国とパキスタンを結ぶ唯一の幹線道路でしょうが。迂回路を造ってから工事をするとか、それが出来なきゃ片側交互通行にして片側ずつ工事をするとか、それも駄目なら夜間工事にするとか、それが常識ちゅうもんでしょうが。それを、なんだ4時間も待てってか!

 そうだ、中国は賄賂天国。日本でも最近(平成18年のお話)どっかの知事さんが賄賂貰って捕まったけど、中国はそんなもんじゃない。2005年に摘発された人数がなんと4万1447人。(中国で収賄罪は死刑。にもかかわらず、2012年にはもっと増えて、摘発された汚職件数は17万件だそうだ。あきれますね。)作業員に100元も渡せば機械どかしてくれるんじゃないの、というのがみんなの意見だったが、お金を渡そうとしても受け取ろうとしない。下っ端の工事人夫が賄賂を貰って後からそれがバレたら、今よりももっと辺境の地に左遷されてしまうから、頑として受け取らないのだろう。というのが添乗員の奥村君の見解だった。

 だいたいが、工事すると分かっていたんなら、出国審査を正規の時間に始めて、テキパキと処理すれば、こんなことにならなかっただろうが。こんなことで再来年本当に北京オリンピックなんか開催できるのかよ。

 そうこうするうちに、後続のバスやタクシーもやって来るわ、パキスタン側からも次々とバスがやって来て、にっちもさっちもいかなくなった。そんな時、1台のランドクルーザーが道路際の土手から現れて、我々の見ている前で楽々と道路にあがり、タシクルガンの方へと立ち去ったのである。

 それを見た奥村君がとんでもないことを言い出した。「みんなで、迂回路を造りましょう。」
 道路の高さは1メートル弱。路肩にみんなで石を積んだ上、ローラー車を借りて固め、バスを道路から降ろそうというのだ。まあ黙って待っていても埒【らち】が明かない。一丁やるかということで、全員で臨時の道路工事が始まった。

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 まずは石運びから。適当な大きさの石を探して来て路肩に積み上げていく。簡単な作業だとは言っても、ここは標高4,000メートル。少し動いただけで息が切れる。

2006_0824シルクロード 本淳0245 
 概ね積み終わり、舗装工事の監督に頼んでローラー車で踏み固めてもらう。あれ、ローラー車についているロゴマーク、なんか見たことあるような。車体に「三一重工」と書いてある。なんだ、三菱重工のパクリじゃん。レコードの海賊版を初めバイク・自動車なんでもかんでも日本のものパクッて、どうせ真似するんなら、出入国管理事務所や日本の道路工事関係者のきちんとした仕事ぶりを真似しなさいよ。

 そんな作業を繰り返していると、だんだん周りに人が集まって来た。「日本人馬鹿ネ。ソンナ事シテモ無駄アルネ」と言い足そうな顔でじい~と見ている。「こら、手伝え。お前らも早く行きたいだろうが」「果報ハ寝テ待テヨ。ジタバタシテモ無駄アルネ」

 結局はその通り。何度チャレンジしてもバスは傾いてしまい、道路から降ろすことは出来なかった。我々が諦めかけた時、学生さん3人を乗せたベンツのタクシーが、待っている数台のバスの間をするりと抜けて、我々が造った道を使って下に降りた。

 ナ、ナ、ナンダ!!どうせその先は行けないことは分かっているが、余りの厚かましさに激怒した奥村君、なんと積んだ石を崩し始めたではないか。完全に崩してしまえば、当然タクシーは道路に上がれなくなる。血相を変えて跳んで出て来た運転手(太り過ぎの金日正みたいな顔)が、奥村君に掴みかかった。
 「☆♂◯∞∂§※&♯」
 「これは我々が造った道路だ!」
以下、翻訳版で。
 「コノ道路ハ中国のモノダ!」
 「日本人が石を運んで造ったんだ!!」
 「コノ石ハ中国ノモンダ。文句アッカ!!」 
奥村君、空を指さして、
 「じゃ、この空も中国のもんか!?」
 なんか子供の喧嘩みたい。殴り合いになる寸前までいったが、何とか一旦は収まった。ところが、T君の言った一言に今度は学生さんが激怒。「誤れ」と言って聞かない。4対19での言い争いとなった。罵声と怒号が飛び交う。危うく国際紛争にまで発展するところだったが、結局奥村君が謝って、事は収まった。
 余りにも大きな騒ぎになったためか、結局機械を退かして通してくれることになった。機械退かせるんだったら、最初からそうしろよ!!

 1時間も時間を無駄にしてしまったが、気を取り直して再出発。ところが、この後、タクシー運転手の復讐が待ち受けていたのである。(つづく)


【 2013/11/27 03:09 】

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タクシー運転手の復讐

8月23日(水)

 臨時の道路工事やら喧嘩やらでお腹がすいた。時計をみたら、もう午後4時だ。お腹がすくはずだよ。手元には腹の足しになるようなものは無いしどうしようかと思った時、タイミング良くアブさんBがナンを配ってくれた。あっ、ウーパール村で趙戈莉さんが買い込んでいたやつだ。なるほど、いざという時の非常食だったのである。

2006_0824シルクロード 本淳0251 

 さあ、一路クンジュラブ峠だ。

2006_0824シルクロード 本淳0261 
 と思ったんだけど、30分ほど走ったら、また検問。いったい何回やれば気が済むんだ。サングラスをかけた若い国境警備兵がバスに乗り込んで来た。18歳ぐらいだろうか。偉そうな顔でパスポートチェックをする。なんでそんなに態度でかいんだよ。ほんまに腹が立つ。

2006_0824シルクロード 本淳0264 
 今度こそ、今度こそ、気を取り直して再再出発。あれっ、再再再かな?車窓に雪を頂く峰々を眺めながら走ること10分、午後4時45分、ようやくクンジュラブ峠に到着。標高は4,693メートル。(私の持って行った高度計では4,450メートル。何でも一番じゃなきゃ気が済まない中国のこと、鯖を読んでいるのかも知れない)。宮本輝の『ひとたびはポプラに臥す』を読んで以来、一度はその地に立ってみたいと思い続けてきた、憧れの峠だ。記念撮影をするためバスを降りようとしたら、国境警備兵が「降りてはいけない」と言う。「いつもここで降りて記念撮影してるじゃないか」と、奥村君がいくら言っても頑として首を縦に振らない。

クンジュラブ峠 
僕達が立つはずだった国境(画像借りてきました)

 くそっ、さっきのタクシー野郎だ。先回りして、後から来る日本人グループをバスから降ろさないよう頼んでいったに違いない。なんと、せせこましい了見だ、喧嘩の原因をつくったのはお前達じゃないか。他人が汗水垂らして造ったものを、なんの断りも無しに利用しようとしやがって。だいたい、どこのお坊ちゃん・お嬢ちゃんか知らないけれど、学生の分際で、タクシーでクンジュラブ峠見学というのは贅沢すぎませんか。親の顔が見てみたいわ。一人っ子政策なんかするから、こんな我が儘で自分勝手な人間ばっかり出来てしまうんだ。ブツブツ、ブツブツ
 ライフルを構えている国境警備兵に逆らえば、撃ち殺されるかも知れない。国境の標識の横に立つことは諦めるしかなかった。

2006_0824シルクロード 本淳0281 

  仕方ないので、5分ほどバスを走らせて記念撮影することにした。パキスタンの国境警備兵がにこやかな顔で出迎えてくれる。中国の警備兵とは雲泥の差だ。2005年に起きたロンドンでの同時多発テロ事件や、ついこの前(2006年)の8月10日にイギリスの旅客機爆破テロ未遂事件の犯人にパキスタン人が多く含まれていたため、パキスタン人というと怖いイメージがあったが、聞く見るとは大違い。中国の警備兵が余りにも憎たらしかったこともあって、髭面の男どもが可愛くさえ見える。

2006_0824シルクロード 本淳0275 

 普通なら「はい、チーズ」とやるところだが、「中国人は大嫌いだ」「ベンツのタクシー、馬鹿野郎」「パキスタン大好き」と叫びながらの記念撮影となった。

2006_0824シルクロード 本淳0278 

 さあ、ここからパキスタンのススト側の国境の町スストまでは80キロ。スストの標高は2,800メートルだから、標高差2,000メートルを一気に下ることになる。

2006_0824シルクロード 本淳0287 

 左手にインダス川の支流であるフンザ川を見ながら、バスはカラコルム山脈の谷を縫うように走る。

2006_0826シルクロード 文子0009 

 カラコルムは「黒い岩」という意味。まさに一木一草も生えていない岩山で、随所に土砂崩れの痕が見える。

2006_0824シルクロード 本淳0292 

 カラコルム=ハイウェイはパキスタン側に入った途端に舗装が無くなり、右側通行から左側通行に変わった。僕はバスの左手側に座る癖があり、必然的に谷底が見える位置になる。崖下数十メートルのところを、鉛色のフンザ川が雪解けの水を集めて荒々しくうねって流れている。道路にはところどころに砂利が散らばっており、ガードレールは無い。もしも、スリップしたら……。自然と足に力が入ってしまう。「日本人観光客を乗せた中国の観光バスがカラコルム=ハイウェイでフンザ川に転落。乗客・乗員21名行方不明」という新聞記事が脳裏を横切った。しかし、この程度の恐怖はまだ序の口だったのである。(つづく)


【 2013/11/27 01:08 】

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フンザの満天の星空と大宴会

8月23日(水)

2006_0826シルクロード 文子0013 
 2時間半を費やして、ようやくスストに到着。時差があるので、時計は3時間逆戻りして午後4時15分を指している。今度の旅行で一番心配していたパキスタンへの入国審査が始まる。というのも、パキスタンは厳格なイスラーム教の国で、飲酒は禁じられているのだ。イスラーム教では飲酒罪は鞭打ち80回の刑となる。つくづく日本人に生まれて良かったと思う。外国人がこっそりと飲むのは許されているが、国内への持ち込みは禁止されている。したがって、入国審査の際に酒類が見つかれば没収されてしまう。
 一日たりとも晩酌を欠かしたことの無い者としては耐えられるものではない。そこで、荷物検査があった時に備え、焼酎をミネラルウォーターのペットボトルに詰め替えて(これをミネラル焼酎と呼んでいる)、スーツケースに忍ばせてあるのだ。

 ハラハラドキドキで入国審査に臨んだが、中国の係官とは大違いで、えらい友好的。笑顔で握手を求め、どこから来たのかと聞いてくる。パスポートチェックも5,6人だけやって、あとは省略。そんな訳だから、税関も荷物検査なしでOK。パキスタンのガイドさんが賄賂を渡したのか、Iさんの77歳のお母さんが車に酔って具合が悪かったのを見て審査をさっさと済ませたのか、我々の到着がずいぶん遅れたのが幸いしたのか分からないが、まあいずれにしても、焼酎は無事国境を通過した。ホッと一安心である。

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 我々を出迎えたのはマイクロバス2台。二日前の土砂崩れのため大型バスが通行出来なくなったそうだ。一般ツーリスト用のバスで、パキスタン北方政府のものだそうだが、その1台には「政府登録長門市湯本温泉 あなたの明日に 西京銀行」と書いてある。パキスタンでは日本語が書いてある中古車がモテモテらしい。

 午後5時、やっと昼食(夕食の間違いではありません)。中国で午前8時に朝食を食べてから12時間も経っている。途中ナンしか食べていないので、カレーが身に染みるほど美味い。


2006_0824シルクロード 本淳0339 

 パキスタンのガイドはフェイサル=シャー君。イスラマバードの国際近代語大学を卒業した27歳の好青年だ(シャー君はexciteブログにパキスタン便りを書いてるんで是非読んであげて下さい)。彼の案内でフンザへと向かう。予定よりかなり遅れているので、運転手さんは70キロのスピードでぶっ飛ばす。シャー君による簡単ウルドゥー語(パキスタンの国語)講座が始まった。 「サラーム(こんにちは)」「サラーム」、「シュークリア(ありがとう)」「シュークリア」。全員中学生になった気分で声を揃える。

2006_0824シルクロード 本淳0299
 
 雪を抱いた美しい山が見えたので、名前を聞いたら、名前は付いていないと言う。パキスタンには8,000メートル級が5峰、7,000メートル級が25峰、6,000メートル級は約100峰もあり、それ以下の山には名前が無いのだそうだ。3,776メートルの富士山が聞いたら赤面しそうな話だが、高いばかりが能じゃないよね。
2006_0824シルクロード 本淳0301 
 フンザへの途中、パスー氷河を見学。パスー氷河は25キロもあり、毎年2~3㎝動いているそうだ。
 午後8時、フンザの中心地カリマバードに到着。思わぬトラブルもあり、タシクルガンから11時間もかかってしまった。しかし、贅沢を言ってはいけない。
 1902年にこの地を踏破した大谷探検隊の3人はミンタカ峰越えでフンザに入ったのだが、タシクルガンから9日間を要したのである。本多恵隆の日記には「空気希薄。喘喘【せんせん】として進まず。一行頭痛また嘔吐を催す。」とあり、その苦労が偲ばれる。

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 泊まったホテルはダルバール・ホテル。昔はミールと呼ばれるフンザの王様の別荘だったそうだ。何はともあれ、全員無事フンザまで来れたことを祝しての晩餐会となった。フンザの住人はイスラーム教徒のくせに酒には五月蝿【うるさ】くないそうだが、ホテルに置いてある中国産ワインが1本なんと50ドル(6,000円)。荷物検査をしなかった係官に感謝、感謝である。日本からはるばる持って来たウイスキー・焼酎で乾杯。しこたま飲んだ後、ホテルの屋上でさらに二次会。満天の星の下で、心ゆくまでフンザの夜を楽しんだ。

 部屋に戻って風呂に入ろうと蛇口を捻ったら、フンザ川と同じ鉛色の湯が出て来る。いつまで経っても透明にならない。でも、この濁りはカラコルム山脈の岩を削ったミネラル分で、決して汚れではない。じゃ、フンザ温泉じゃないか。ゆっくり浸かり、長い一日の疲れを癒した。(つづく)



【 2013/11/27 00:20 】

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ウルタル峰に涙ウルウル

8月24日(木)

 午前4時起床。えらく早く起きたのには訳がある。今回の旅行で目にしたかった名峰は6つあるのだが、そのうちの3つをこのフンザで見ることが出来る。秀峰ラカポシ(7,788メートル)、北杜夫の作品『白きたおやかな峰』の舞台となった名峰ディラン(7,273メートル)、豪放なウルタル(7,388メートル)の3つである。朝日に輝く峰々の写真を撮ろうというのだ。そのために新しいデジタル一眼レフカメラと三脚を用意してきた。

 皆さんの迷惑にならないよう足を忍ばせてホテルの屋上に上がった。まだ真っ暗だが、空には星一つ見えない。厚い雲に覆われているようだ。三脚にカメラをセットし、祈るような気持ちで5時10分の日の出を待った。次第に空が白々として来たものの、雲が切れる気配はなく、そのうちポツポツと雨が落ちてきた。遠くで雷鳴も聞こえる。クッショー、我々18人の中に絶対に雨男か雨女がいる。一体、誰だ~っ。

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 仕方ないので、小雨降るフンザの村を散策することにした。7,000メートル級の山々に包まれた渓谷の急斜面に、段々畑と石積みの家々が張り付くようにして村がある。急勾配の道を少し登ったが、標高2,500メートルということもあり、すぐに息が上がってしまう。結局、ホテルの周りを歩いただけで、部屋に戻った。

2006_0824シルクロード 本淳0308 

 フンザは世界の秘境。最後の桃源郷と言われ、宮崎駿の『風の谷のナウシカ』のモデルになったとされ、宮本輝の『草原の椅子』の舞台ともなった。ポプラ並木の緑が美しく、爽やかな風が吹き抜けていく。今回は季節が違うが、春ともなればアンズ・桃・リンゴの花が咲き乱れ、沙漠を旅して来た者にとってまさに桃源郷であったに違いない。昨日は暗くなってからフンザの村に入ったが、家々に灯る明かりが暗闇に点在し、まるで瞬く星か蛍のように見え幻想的でさえあった。
 
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 午前6時半を過ぎてもう一度屋上に出てみた。神々しいばかりの銀嶺が、雲間から姿を現しているではないか。

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 感激のあまり涙がウルタルじゃなかった、ウルウル。

バルチット城 

 ウルタル山麓にバルチット古城が見える。ミールと呼ばれたフンザ王のかつての住まいだ。フンザの人々はブルシュ族と呼ばれ、ペルシア人の妻とともに、この地に住みついたアレクサンダー大王の末裔とも言われ、言葉もウルドゥー語ではなくブルシャスキー語を使う。要するにパキスタン人ではない謎の人々で、1974年までミールが治めていた。
 フンザは長寿の村としても知られ、数年前まで平均寿命が100歳を超えていたという。常食にしているアンズがいいとか、ミネラル分をいっぱい含んだ水がいいとか、長寿の原因についてはいろいろ言われている。しかし、道路事情が良くなって近代文明が入り込んで来た途端に、平均寿命が一気に下がって80歳になったというから、結局長生きの秘訣は粗食にあったのだ。(つづく)

【 2013/11/26 03:17 】

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パキスタンのトラック野郎とカラコルム=ハイウェイ

 8月24日(木)

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 午前8時30分、ホテルを出発。ようやく雨もあがった。車窓に青空をバックにした美しいラカポシ峰を眺めながら、カラコルム=ハイウェイをギルギットへと向かう。途中、ラカポシ・ビューポイントでシャー君と記念撮影。

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 時々出合うパキスタンのトラックは菅原文太も腰を抜かすほど、ギンギラギンでド派手だ。車体の側面を極彩色の絵画で飾り、車体の下側に多数の鎖をぶら下げている。走るとこれが道路と接触して、ジャラッジャラと音を出す仕組みになっているのだ。車体価格と同じくらいの金額をデコレーションにつぎ込む奴もいるというから、大した根性だ。
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 このトラックがまた派手なクラクションを鳴らす。
 「ピャー、ピャー、ピー」、「プップピー、プップピー」、「パピー、ポピー、プウー」、「パポー、パポー、ブルル」
 なんともけたたましい。バス運転手のラージャ=ムムターズさんが、実際にこの「七色のクラクション」を聞かせてくれたが、パキスタンの運転手達はこれで「お先にどうぞ」とかいった会話を交わしているそうだ。

 しばらく、パキスタンのトラック・ショーをお楽しみ下さい。音がないのが残念です。


2006_0826シルクロード 文子0060

2006_0827シルクロード 本淳20003 2006_0827シルクロード 本淳20002

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2006_0824シルクロード 本淳0384 

 「ピャー、ピャー、ピー」と聞く度に思わず笑いがこみ上げてくるが、笑ってばかりはいられない。

 カラコルム=ハイウェイはパキスタン陸軍工兵隊が中国人民解放軍の協力を得て、1958年に建設を開始し、20年の歳月をかけて1978年に完成した。

2006_0824シルクロード 本淳0351

 なにせカラコルム山脈の岩山に発破【はっぱ】をかけて切り開いていくという難工事であったため、多くの犠牲者を出し、今も慰霊碑の傍らに彼らの遺体が眠っている。犠牲者の数はパキスタン人800人、中国人200人となっているが、一説によると3000人を超えるとも言われている。

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 8,000トンを超えるダイナマイトを使用したため、20年間は地盤が安定しないと言われていたが、まだまだ安定していないようだ。一木一草も生えていない岩山は雨水を蓄えることが出来ず、少し大きい雨が降ると土砂崩れが起きる。
2006_0824シルクロード 本淳0355  

 いや、そんな規模ではない。土石流と言ったほうが正しい。なにせ家一軒ぐらいの大きさの石がゴロゴロと転がっている。その凄まじさはなかなか分かってもらえないと思うが、写真に写った人影と転がっている石と比べて下さい。ねっ、凄いでしょ。

2006_0824シルクロード 本淳0329 
 上を見上げると、道路の真上に覆い被さるように巨岩がいくつもせり出し、落ちる順番を待っているかのようだ。対向車が来れば当然左に寄らなければならないが、道幅は狭くバスが交差するのがやっとだ。めいいっぱい左に寄ったバスの窓から下を見ると、遙か下のほうに鉛色のフンザ川が流れている。ガードレールはない。おしっこをちびりそうになる。

 昨日カラコルム=ハイウェイに入った時もちびりそうになったが、今日は一段と迫力がある。昨日の恐怖が序の口なら、今日の恐怖は横綱クラスだ、と思ったのだが‥‥‥‥!?

2006_0824シルクロード 本淳0345 

 午前10時30分、対岸に目をやると、断崖絶壁の中腹に一本の細い道が通っている。カラコルム=ハイウェイが開通するまで使われていた、古【いにしえ】のシルクロードだ。葱領【そうれい】(パミール高原)を越えて罽賓【けいひん】国(現在のカシミール)に入ろうとすれば、9歳の鳩摩羅什【くまらじゅう】が母とともにこの道を通ったことは疑いようがなく、法顕や宋雲も通ったに違いない。

2006_0824シルクロード 本淳0343 

 望遠レンズでよく見ると、いたるところで細い道の路肩が崩れている。間違って足を踏み外せば、谷底に転落して一巻の終わりだ。緊張の連続であり、悪天候ともなればさらに危険性が増す。

 こんな危険な道を多くの求法僧がインドへと向かい、名も無き多くの伝道僧が逆に中国を目指した。目頭の熱くなる思いと同時に、自分は一体何をしているのかという、自責の念にかられてしまう。(つづく)

【 2013/11/26 01:42 】

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カルガーの磨崖仏とギルギットのバザール



8月24日(木)


カラコルム=ハイウェイ 

 正午、ようやくギルギットに到着。橋を渡った所に検問所があり、髭面の兵士がニコニコ笑って手を振っている。ところが、ライフルの銃口が僕のほうに向けられていて、またおしっこをちびりそうになった。
 ギルギットでは2005年1月にシーア派指導者の暗殺を機にシーア派とスンニー派との抗争が起き、スンニー派14名が殺害されるという事件に発展したそうだ。それ以来、軍隊が治安維持にあたっているそうだが、物騒なことだ。

2006_0824シルクロード 本淳0359 

 ヒンドゥークシュ山脈を眺めながら、セリーヌホテルで美味しい昼食を頂戴した後、4人乗りのジープ7台に分乗してカルガーの磨崖仏を見に行った。

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 ジープですっ飛ばすこと40分。ギルギット川とカルガー川の合流点の切り立った崖の中腹に、高さ5メートル程の仏像が刻まれている。

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 丸いお顔に大きな耳たぶ。有り難いお姿というよりも、自然に笑みがこぼれてしまう剽軽【ひょうきん】なお顔だ。でも、このお顔で苦難の旅をしてきたパミール越えの求法僧を温かく迎えて下さったに違いない。5,6世紀に彫られたものらしいので、残念ながら羅什も法顕もこのお姿を拝することはなかった。

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 1932年、この辺りにあったストゥーパ(仏塔)の址で、羊飼いの少年がサンスクリット語で書かれた法華経の原典を発見している。

 ギルギットは玄奘三蔵の『大唐西域記』にも鉢露羅【はちろら】国の名で紹介されている。

 「鉢露羅国は周囲四千余里、大雪山の間にあって東西は長く、南北は短い。‥‥‥伽藍は数百ケ所、僧徒は数千人いる」
 
 これらを考えれば、ギルギットが仏教の一大中心地で、法華経の伝来ルートにあたっていたことは間違いないのだが、現在のギルギットはイスラーム教一色。数百ケ所もあったという伽藍は一体どこに消えてしまったのだろうか。

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 どこの国に行ってもそうだが、僕達が見学していると子供達が寄ってくる。何かくれと言ってくる場合もあるが、ほとんどは外国人が珍しくて集まってくる。

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 顔立ちを見ると、イラン人っぽく見えるので、パシュトゥーン人だろうか。

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 ホテルへの帰り道、ジープを降りて20分程バザールを散策した。店の売り子も男、買い物客も男、町中に髭面の男が溢れている。前にも書いたが、イスラーム教徒の女性は父親と旦那以外の男性に肌を見せてはいけない。だから結婚した女性はまず家から出ることはない。本当の奥様になってしまう。やむを得ず外出する際には、ブルカという布で全身をすっぽりと覆ってしまい、目だけを出すことになる。
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 ということは、恋愛結婚なんてあり得ない訳で、イスラーム教徒の男性は可哀想だ、と思ってはいけない。自分の嫁さんの顔しか知らないから、他の女性と比べようがない。従って、自分の嫁さんが世界で一番美人だと思っているので、かえって幸せなのだ。

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 なぜこんなルールをムハンマドが定めたのかと言うと、色欲を抑えるためだという。美しい女性を見ればついムラムラとしてしまうから、隠せばいいという理屈なのだ。でも、ブルカの奥の瞳がかえって魅惑的に見えるのは僕だけではないと思うのだが?

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 肉屋の店先に屯していた兄ちゃん達を撮影しようとして、カメラを構えてギョッ。牛の蹄【ひづめ】4本に、蠅がわんわんと集っている。正式な手順で屠殺・解体された証として羊の場合はその頭を店頭に置くそうだが、牛の頭だと大きくて邪魔になるから蹄を置くそうな。

 スーパーでトレイにラップされた綺麗なお肉を買っている日本のお母さん、このお店で買った肉でビーフカレー作れますか?(つづく)


【 2013/11/26 00:34 】

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チラスの夜も大宴会!!

8月24日(木)

 午後3時半、セリーナホテルを出てチラスへと向かう。ギルギットの町を出てすぐに、三日前の土石流の跡があった。道路上の土砂は重機によって片付けられているが、道路の両側にはとんでもない量の土砂が残っている。民家13戸が押し流されたそうだ。

 フンザのホテルで出会った日本人のグループは、二日前にチラスのほうからギルギットへと向かい、ここで足止めをくった。バスが通れる訳がないので、フンザから迎えに来たバスに乗り換えるため、重いスーツケースを引き摺りながら、土砂の上を2時間も歩かされたそうだ。いやはや、大変な所へ来たもんだと、つくづく思う。それにしても我々はなんと運がいいのだろう。
 そのグループは大変な苦労をして、くたくたになってフンザに着き、眠ろうとしたけど、外が騒がしくて眠れなかったそうだ。誰だ?夜中に騒いでいた奴は!

 すんません、僕たちで~す。てな訳で、今朝、そのグループにこっぴどく叱られちゃった。ごめんなさ~い。

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 1時間ほど走って、バスはギルギット川とインダス川の合流点に出た。ここはカラコルム山脈、ヒンドゥークシュ山脈、ヒマラヤ山脈が出合う所でもある。

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ヒマラヤ山脈

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カラコルム山脈

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 ヒンドゥークシュ山脈

 カラコルム山脈とヒンドゥークシュ山脈は岩山であるが、ヒマラヤ山脈だけは緑がある。

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 そこから暫くバスを走らせると、今度はナンガパルパット峰(8,125メートル)が見えてくる。多くの遭難者を出し、「魔の山」として恐れられた世界第9位の高峰だ。

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 次々と展開される壮大な景色に、旅の疲れも癒される。

 ライコット橋を渡ってから、インダス川はバスの右手を流れるようになった。川底へ転落するという恐怖からは解放されたが、左手にカラコルム山脈が迫り、今度は落石の恐怖にさらされることになる。途中、崖崩れの工事で少し待たされたが、午後7時20分ようやくチラスのホテルに到着した。

 チラスのホテルはシャングリラ・インダス・ビュー。シャングリラは桃源郷のこと。ホテルの裏手をインダス川が流れてはいるものの、名前とは大違い。

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 部屋には刑務所のような南京錠が掛かっていて、これを手のひらに収まり切らないほど馬鹿でかい鍵で開けるのだが、なかなか開かない。部屋にはクーラーは無く、これまた馬鹿でかい扇風機で涼をとる。

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 トイレは流れたものの、シャワーをすればお湯はすぐ出なくなってしまう。おまけに、お隣のFさんの声がまる聞こえ。なんとも風情のあるいいホテルだ。

 夕食時、驚いたことに禁酒の国なのにビールが出ている。と思ったら、オランダ製のノンアルコール・ビールだ。日本から持参した焼酎をホテルのスタッフに見つからないようこっそりと入れて、ちゃんとした(?)ビールにしてから頂戴した。

チラスの宴会 

 夕食が終われば、もちろん庭で二次会。鯖缶に裂き烏賊、焼酎・日本酒・ウィスキーで乾杯。明日はやや都会のホテル。人目があって晩飯時には酒は飲めないだろうと、杯、いや紙コップを重ねて、チラスの夜は更けていった。(つづく)


【 2013/11/25 08:39 】

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千仞の谷の恐怖ーおしっこちびりそう!!

8月25日(金)

 チラスを出てガンダーラへと向かう。途中、チラスとシャティアールの岩絵を見学する。インダス川沿い200キロにわたり、自然石に菩薩像やストゥーパ(仏塔)など1万点もの線画が描かれている。4~7世紀に彫られたものらしい。

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 漢字や古代インドのブラーフミー文字、カロシュティー文字、ソグド文字も刻まれているらしい。現在も吊り橋が架かっているが、古代にはこの辺りがインダス川を渡る地点となっていたらしく、法顕もここでインダス川を渡った可能性がある。西暦402年、法顕67歳の時だ。そうした求法僧や巡礼者が旅の安全を祈って彫ったものなのだろう。

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 貴重な文化遺産なのだが、2016年にはチラスの下流40キロのところに大型発電ダムが完成し、水位の上昇により祝えのほとんどが水没してしまうそうだ。残念なことであるが、人々の暮らしには電力は不可欠であり、やむを得ないのかも知れない。

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 ここでも子供達が寄って来た。教科書らしきものを持っているので、いまから学校に行くところだろうか.。しっかり勉強しろよ。パキスタンの将来は君達の肩にかかっている。

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 ところが、通りかかった町の中でパキスタンの将来を担う若者のあらぬ行動を見てしまった。髭面の若い男二人が手をつないでいるではないか。パキスタンでは若い女の子に出会う機会が無いから、もしかして◯◯な関係?えっ、その髭面で、と思ったが、単なるお友達。インドでもそうだが、仲のいい男同士が手をつなぐのはごく普通のこと。お国変われば、常識も変わる。疑ってすんませ~ん。

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 午前10時、いよいよコヒスタンと呼ばれる山岳民族が住む地帯に入る。コヒスタンとは「山の人」という意味で、主に山羊を飼って生活している。ここに住むパターン族(パシュトゥーン人)はアフガニスタンに住む人々と同族で、古くから勇猛果敢なことで知られ、子供を学校にやる習慣はない。あっ、そうそう。パキスタンにはもともと義務教育は無いんだけどね。

 バスはインダス川を左手にして走るが、しだいに谷は深くなってくる。法顕は葱嶺【そうれい】(パミール高原)を越えた後、陀歴【だれき】国に入っているが、チラス付近にあった国であろうと言われている。その陀歴国から山並みに従って西南方に15日間進み、河を渡って烏蔦【うちょう】国に入った。我々がこれから向かうスワット盆地に栄えたウディヤーナ国である。

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 ところが、陀歴国と烏蔦国の間には、漢代から「懸度の険【けんどのけん】」として知られる、求法僧にとって天竺への最大の難関があった。

 法顕は『仏国記』の中で、次のように書いている。

  「その道は嶮岨【けんそ】で断崖絶壁ばかり、その山は石ばかりで壁の如く千仞【せんじん】の谷をなし、見下ろすと目がくらむほどで、進もうと思っても足をふむ処もない。眼下に川が流れ、辛頭河(インダス)という。およそ渡ること七百、梯【はしご】を渡り、吊り橋を踏んで河を渡った」

 今、まさしくその懸度の険を通っているのだ。鋭角のV字状渓谷が一層深まり、鉛色のインダス川の濁流はカラコルム=ハイウェイの遙か1,500メートル下を流れている。

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人がいるの分かる?

 「箱根八里」という曲に千仞の谷という表現があるが、千仞は1,800メートルのこと。箱根だとなんとオーバーなとなるが、ここはまさしく千仞の谷だ。シャー君が「カラコルム=ハイウェイでは、ドライバーの最初の失敗が最後の失敗になります」と説明していたが、まさしくそうだ。転落すれば、恐らく遺体も見つかることはないだろう。

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パターン村を背景におふざけ

 上を見ると切り立った絶壁、下を覗くと奈落の底。そんな状態が延々と続く。生きた心地もしない。昨日の恐怖が横綱級だと思っていたが、とんでもない。今日こそ超横綱級、白鳳だ。ちびりそうになったおしっこも、引っ込んだしまった。全員時々悲鳴をあげるだけで、押し黙ったままに、じっと前方を睨んで小さくなっている。(つづく)

【 2013/11/23 10:35 】

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われはこれ塔を建つるものーブトカラ遺跡

8月26日(土)

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 スワットでの朝を迎えた。朝食を終えて、ホテルの売店を覗いてみる。ガンダーラ仏のレプリカがいっぱい並んでいる。どれもこれも一見して偽物と分かる代物ばかりだ。帰ろうとしたら、髭面の若い店員が僕を手招きし、店の奥のほうへと案内する。いよいよ始まったなと思ったら、案の定、引き出しから古新聞に包んだ仏頭を出して来て、本物だと言う。いくら?45ドル。本物だったら50万円はするだろう。本物のはずはないのだが、なかなか本物らしく作ってある。20分ほどの交渉の結果、20ドルで買った。世界史の授業でガンダーラ美術の勉強をする際に、生徒に見てもらってるんだけど、5,000ドルで買ったということにしてある。うそをついて、ご免なさ~い。

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 スワットの古名のウディヤーナが「庭園」を意味するように、町は緑に包まれた豊かな田園地帯で、ガンダーラの一番北に位置する。

  ♪そこに行けば どんな夢も かなうというよ
   誰もみな行きたがるが 遥かな世界
   その国の名はガンダーラ どこかにあるユートピア
   どうしたら行けるのだろう 教えて欲しい
   In Gandhara, Gandhara
   They say it was in India
   Gandhara, Gandhara
   愛の国 ガンダーラ

   生きることの 苦しみさえ
   消えるというよ 旅だった人はいるが
   あまりに遠い 自由なそのガンダーラ
   素晴らしいユートピア
   心のなかに生きる 幻なのか
   In Gandhara,Gandhara,
   they say it was in India
   Gandhara,Gandhara
   愛の国ガンダーラ

 (「ガンダーラ GANDHARA」作詩:奈良橋陽子 日本語詩:山上路夫)

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 覚えておいでだろうか?35年前にゴダイゴというグループが歌った『ガンダーラ』という曲の歌詞である。今は亡き夏目雅子が三蔵法師を演じたテレビドラマ『西遊記』のエンディングテーマだ。この中でガンダーラがインドにあると歌っているが、とんでもない。ガンダーラはパキスタンにある。

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 初めにブトカラ遺跡を訪ねた。ウルドゥー語でブトは「仏塔」、カラは「場所」のことだそうで、ブトカラは「仏塔のある場所」ということになる。

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 その名の通り、紀元前3世紀にアショーカ王が建立した円形の大ストゥーパ(仏塔)を中心にして、その周りに、大小さまざまな奉献ストゥーパが約200基密集している。まさにストゥーパ一色の遺跡だ。


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 丸い基壇はインド様式、四角い基壇はギリシア様式らしい。紀元前327年にアレクサンダー大王がこの地に侵入し、それ以降ギリシア文化の影響を強く受けるようになった。恐らく狛犬のような形式で置かれていたライオンの像にもギリシア彫刻の影響が見られる。

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 また、基壇の柱頭には明らかにアカンサスの模様が見られ、いわゆるコリント式の柱だ。

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 仏像の首がすべて切られてしまっているが、恐らくイスラーム教徒の仕業だろう。いや、ひょっとしたら、ガンダーラ仏の密売人達の仕業ということも考えられる。
 今は崩れてしまい基壇だけが残っているが、200基のストゥーパが林立する様は壮観であったに違いない。法顕や玄奘もここを訪ねている。

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ここでも子供達が寄ってきた
 
 法華経如来神力品に、

 若しは園の中においても、若しは林の中においても、‥‥‥、若しは山谷曠野【せんごくこうや】にても、この中に皆塔を起てて供養すべし。ゆえはいかん、まさに知るべし、この処はすなわち是れ道場なり。諸仏ここおいて阿耨多羅三藐三菩提【あのくたらさんみゃくさんぼだい】を得、諸仏ここおいて法輪を転じ、諸仏ここにおいて般涅槃【はつねはん】したもう。

 とあるのはご存じだと思う。法華経のあるところは、どこであっても塔を建てて供養すべしと。そこはすべて道場であり、一切の仏が悟りを開き、法を説き、滅度【めつど】した場所であると。

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 法華経の求道者でもあった宮沢賢治が次のような詩を詠んでいる。

  手は熱く足はなゆれど
  われはこれ塔を建つるもの
  滑り来し時間の軸の
  をちこちに美【は】ゆくも成りて
  燎々【りょうりょう】と暗をてらせる
  その塔のすがたかしこし
  むさぼりて厭【ゆ】かぬ渠【かれ】ゆゑ
  いざここに一基をなさん
  正しくて愛【は】しきひとゆゑ
  いざさらに一基を加えん

 死の直前に、歩いて来た一生の道程を振り返ってみた賢治は、無明の闇を破って燎々と照り輝いている美しい塔の列を見た。貪欲なまでにひとつの願いにとりついて生きて行った人のために建てた塔、正しくて美しい人のために建てた塔、そのひとつひとつを今、瀕死の床から振り返って微笑む賢治。
 
 法華経を受持する者は「塔建つる者」である。「塔建つる者」は願いを立てる者であると言ってもよい。その願いとは賢治が言う、「世界が全体幸福にならないうちは、個人の幸福はあり得ない」の言葉に集約される。

 ブトカラのストゥーパ群はまさしく、「燎々と暗を照らせる塔」である。学問的にはどうであれ、ブトカラ遺跡は法華経を受持する人々によって建てられたものであると確信した。

 ※注:その後、植木雅俊先生の教えを受け、法華経はストゥーパ信仰を批判していることを学びました。法華経が「塔を建てて供養すべし」と説いているのはストゥーパではなくチャイティヤ(塔廟)のことです。つまり、法華経はブッダの遺骨ではなく、ブッダの説かれた法を重視せよと主張しています。


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クチャの羅什像

 前秦の国王苻堅【ふけん】 が将軍呂光【りょこう】に亀茲【きじ】国征討を命じた目的は、領土の拡大とともに名僧として名高い羅什を国師として長安に迎えることにあった。呂光によって亀茲国が滅びた時、羅什は34歳。生来、粗暴であった呂光は羅什がまだ若年であるのを知り、羅什をあなどり、彼を跪【ひざまづ】かせるために邪悪な企みをしかけた。彼に仏の戒律を破らせようと、亀茲王女と結婚するように強要したのである。
 
 羅什は激しく拒んだが、呂光は羅什に無理やり酒を飲ませ、王女とともに密室に閉じこめてしまった。羅什がはたして本当に女性と関係を持ったのか。真相は羅什本人にしか分からない。しかし、破戒僧の烙印を押されたことだけは紛れもない事実なのである。

 羅什は恥辱にまみれて中国へと連行されることになった。ところが、一行が涼州に至った時、呂光は国王苻堅が殺害され、前秦が滅びたことを知る。帰るに帰れなくなった呂光は、涼州にとどまり自ら後涼を建国する。

 涼州で幽閉生活を送ること15年。後涼が後秦の姚興【ようこう】に滅ぼされ、羅什は51歳にしてようやく長安に入った。それから59歳で亡くなるまでの8年の間に、『法華経』『阿弥陀経』をはじめとする35部294巻の翻訳にあたった。『法華経』の訳出は56歳の時。13歳の時に須利耶蘇摩【すりやそま】から法華経の原本を手渡されてから、実に43年の歳月が流れていた。

 後秦の姚興は10人もの女性を侍らせ、羅什の優秀な頭脳を受け継ぐ子を残させようとしたとも伝えられている。

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草堂寺の羅什供養塔

 羅什は毎朝、弟子たちに講説するたびに、こう述べていたという。

 「たとえば臭泥の中に蓮華を生ずるがごとし。ただ蓮華をとりて、臭泥をとることなかれ」

 破戒僧に貶【おとし】められながらも、少年の頃の志を貫徹して翻訳に専念した鳩摩羅什。彼もやはり「塔を建つる者」であった。(つづく)


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【 2013/11/23 09:00 】

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ああ、シャングラ峠

8月25日(金)

カラコルム=ハイウェイ 

 午後12時30分、ベシャムキラに到着。やっと懸度の険を抜けた。

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 昼食後、カラコルム=ハイウェイに別れを告げ、スワット渓谷のサイドシャリフに向かう。ガイドのシャー君が、「サイドシャリフまで100キロあります。何時に到着するでしょうか?」と懸賞付きのクイズを出した。なんでそんなクイズを出すのだろうい?走り出してすぐ理由が分かった。

 幹線道路なのに道幅が狭く、舗装されていない。その上急斜面で、対向車が来るとすれ違うのに苦労する。

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 おまけに途中でスコールに見舞われ、道路が黄色い濁流と化した。バスは亀のように進む。

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峠で出会った少年達

 1時間40分かかってようやくシャングラ峠(2,120メートル)に到着した。スコールもあがり、スワット川とガンダーラが一望できる。ああ、やっとガンダーラに着くんだという感慨がこみ上げてくる。

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 さあ、あともう少しだと思ったら、またスコール。おまけに羊の大群に出合って足止めを食う。一体何頭いるんだろう。先頭に立つ羊飼いが、ユダヤ人を率いてエジプトを脱出したモーゼのように見える。

 シャー君のガンダーラ講座が始まる。それにしても彼は日本語は堪能だし、歴史についての知識も豊富だ。日本には2週間しか留学していないというのに、一体どこで知識を仕入れたのだろう。
 以下、シャー君の語録から。
 「桃モスモモモ桃ノウチ」「恐レ入谷ノ鬼子母神」「一期一会」「思イ出ト足跡以外ハ残サナイデ下サイ」「右手ハ心臓専門ノ病院デス。金欠病ト恋ノ病ダケハ治セマセン」

 彼の話に耳を傾けているうちに、午後6時20分、バスはロックシティ・ホテルに到着した。なんと100キロの道に4時間半もかかってしまった。

ロックシティ

 今日はAさんの誕生日。お祝いだと言って乾杯し、民族楽器にあわせて踊り、パキスタン3日目の夜も更けていった。

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ダンス 

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 町中のホテルは飲めないはずじゃなかったの?(つづく)


【 2013/11/22 00:05 】

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天空の僧院ータクティバイ寺院跡

8月26日(土)

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 午前9時40分、シャンカルダールに到着。バスを降りて畑の中をしばらく歩くと、高さ27メートルの堂々たるストゥーパが見えてくる。作家の井上靖もここを訪れ、「いかにも動かぬような坐りの貫禄はみごとである」(『クシャーン王朝の跡を訪ねて』)と記している。朝日を背に受けた姿が、いかにも逞しい。

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 このストゥーパは上軍王塔といわれ、玄奘三蔵も『大唐西域記』にそのいわれを記している。仏陀が涅槃の後、その舎利を八国に分けたことは皆さんもご存じだと思うが、その一つを烏仗邦【うじょうこく】(ウディヤーナ)の上軍王(ウッタラセナー)が受けて、ここに埋葬したそうだ。

 シャー君が説明を始めようとした時、お盆の上にいっぱいコインを乗せた髭面のおっさんが、どこからともなく現れて、コインを買わないかと声をかけてきた。見ると世界史の教科書に載っているカニシカ王のコインと同じようなものがあるではないか。カニシカ王はクシャーン朝の全盛期を築いた国王で、アショーカ王とともに仏教を保護した国王としてその名が知られている。いわゆるガンダーラ美術も彼の時代に花を開いた。

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 彼の言い値は1枚50ドルであったが、30枚程あった中で、状態の良いものを2枚40ドルで買った。そのうちの1枚は、たぶんだけど、表が象に乗った王で、裏がシヴァ神。本物かって?学校の授業で生徒に見せるんだから偽物でいいんです。もし、本物だったら本当は大問題。出土品の国外持ち出しは厳禁だから、盗掘品の故買ということになり、これは犯罪。でも本物だったらいいなあ、と今でも時々手にとってニヤリと笑っている。

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 昼食後、世界遺産に登録されているタクティバイ寺院跡を見学した。紀元前2世紀から7世紀にかけて繁栄した、ガンダーラで最も壮大な山岳仏教遺跡であるが、仏教寺院だけでなく、医学・天文学の研究も行われていたそうだ。「天空の僧院」と称されるように、いくつもの丘や尾根に沿って仏塔・奉献塔・集会室・瞑想室など平石積みの遺構が広がっている。

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 身延山の菩提梯【ぼだいてい】とまではいかないが、かなり急な階段を自らの足で歩いて登らなければならない。気温は38.7℃。吹き出る汗を拭いながら、青息吐息で、一段二段と数えながら登る。

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 シャー君の説明のあと、添乗員の奥村君が補足説明をする。「アショーカ王の帰依により僧侶は豊かな生活が可能になったため、次第に数も増え、生臭坊主が多くなりました。そのため寺院は町中を離れて、山岳地帯に造られるようになりました」と、明らかに僕のほうを見ながら話をする。ああ、そうですよ。僕はどうせ生臭坊主ですよ~だ。

 見事なガンダーラ仏が一体だけ置かれているが、これはレプリカ。発掘された本物はすべて博物館に運ばれている。日本ではオークションで時々ガンダーラ仏を見かけるが、みんなこの辺りから国外に持ち出されたものだ。30㎝ほどのガンダーラ仏(もちろん本物)が、10年前は150万円、20年前だと20万円くらいで売られていたそうだ。そんな頃に来れば良かった。う~ん、残念。

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 さらに上に登ると景色が素晴らしいとのことで、疲れるのが嫌だという怠惰な連中を残して、11名が挑戦。また階段を踏みしめながら登る。325段まで数えたところで階段が崩れてしまっており、あとは急な坂道が続く。Tシャツが汗でぐっしょり。もう限界と思った時、ようやく頂上部に出た。目の前に広がるガンダーラ平野。素晴らしい眺望に思わず見とれてしまう。吹き抜ける風が心地よい。下に残った連中には何も言うまい。どうせ、僻み根性で人の言うことを素直に信じないんだから。(つづく)



【 2013/11/21 10:23 】

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パキスタンの呑兵衛

8月26日(土)

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 午後3時45分、シャーバーズ・ガリに到着。シャーバーズ・ガリは、古代には通商路上の要衝として栄え、玄奘の『大唐西域記』に記された跋虜沙【ぼろしあ】城にあたるとされる。
 
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 南東にある丘の西側山腹の岩と、そこから転がって落ちた山麓の岩塊とに、アショーカ王の磨崖詔勅がカロシュティー文字で刻まれている。全部で14カ条あり、上の岩に1~11カ条、下の岩に12~14カ条が刻まれている。世界史でアショーカ王の石柱・磨崖詔勅は必須事項。石柱詔勅については現在インドの国章となっている有名なサールナートのライオンの柱頭や、僕が撮影してたヴァイシャリーに今でも立ってる石柱の写真があるので、生徒に説明するのに何の問題もない。ところが、磨崖詔勅は資料集にも掲載されていないので、困っていたんだが、やっといい史料を手に入れることが出来た。僕の海外旅行の目的の一つがこの史料集めにある。僕の授業には金がかかってるんですよ、生徒諸君!!

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 磨崖詔勅が刻まれたくらいだから、当然この辺りはたくさんの人が行き来していたんだろうけど、今は静かな村だ。あんまり外人さんは来ないみたいで、我々が珍しいのか、子供達のほか、兄ちゃんや爺ちゃんまで集まって来た。
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 午後6時、ペシャワールの中心部に入った。ペシャワールはカニシカ王時代のクシャーン朝の都プルシャプラである。アレクサンダー大王や玄奘三蔵が越えたアフガニスタンとの国境カイバル峠は、この町から西へ僅かに17キロ。行ってみたいのはやまやまだが、あまり我が儘は言えない。市内を走っている乗り合いバスはトラックと同じようにギンギラギン。インドと同じで屋根の上にも人が乗るから梯子がついてるのは分かるんだけど、窓に鉄格子が入っているのは何でかな?窓から乗り込むのを防止するためだと思うんだけど、シャー君に確認するの忘れた。

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 パキスタンに来てからペシャワールで初めて見たもの2つ。1つは信号機、もう1つは女の人。今まで女の子には何人も出会っているけど、成人の女性は見たことがない。えっ、後ろ姿だから、子供か大人か分からないって。でも、間違いなく成人女性です。
 
 午後6時45分、パール・コンチネンタルホテルに到着。五つ星の町一番の超豪華ホテルで、当然夕食も超豪華。レストランのテラスでバーベキューが行われており、皿一杯にタンドリーチキン・シシカバブ・山羊の焼き肉をとって来る。生まれて初めて山羊を喰ったが、まあまあ美味い。ちなみにパキスタンでの肉の値段は山羊・羊・鶏・牛の順だそうだ。イスラーム教だから豚はもちろん喰わない。


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 これだけ美味いおかずがあれば酒を飲まない訳にはいかない。このホテルはペシャワールで唯一酒が飲めるホテルだそうだが、ホテル内のバーで飲むんであって、レストランは禁酒。レストランの一番奥に陣取り、隠し持った焼酎をノンアルコールビールに入れて飲む。店員の目を盗んで飲むのは、ハラハラドキドキもの。高校生の時に学校から帰る途中に寄った喫茶店で、ハイボールを飲んで以来だ。緊張のせいか早く酔いが回る。結局、禁酒の国パキスタンで一日たりとも晩酌を欠かすことがなかった。筋金入りの呑兵衛グループである。

 食事を終えて、ホテル内の土産物屋を覗いた。アルコールの匂いがしたのだろう、アラジンと魔法のランプに出てくるジン(ランプから出て来る魔人)みたいな店員が言った。

 「オ酒ヲ分ケテクレタラ、オマケシマッセ」

 な、な、なんと、パキスタンにも呑兵衛がいるではないか!!!!!

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 僕達が泊まった3年後の2009年9月9日、このホテルで爆弾を積んだトラックが爆発し、16人が死亡、57人が負傷した。少なくとも2人の男がピックアップトラックでホテルの敷地に入り、警備員に銃を乱射した後、車を建物にぶつけて爆発させた自爆テロ。タリバーンの報復らしいが、犠牲者には外国人宿泊客も含まれていた。もし、運が悪ければ、僕達のうちの誰かが犠牲になっていたかも知れない。背中をツッーと冷たいものが、走った。桑原、桑原。 あっ、これは雷の時に言う呪文だった。(つづく)


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【 2013/11/20 14:00 】

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ペシャワール博物館にも無茶苦茶なおじさん

8月27日(日)

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 いよいよパキスタン最後の一日となった。午前8時30分、ガンダーラ美術最大のコレクションを誇るペシャワール博物館を訪ねた。ビクトリア様式の趣のある博物館で、シルクロード探検で有名なオーレル=スタインも館長を務めたことがあるらしい。

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 館内に入ると中央広間には、「なんでも鑑定団」に出せばウン億円もするような、大きな仏立像や菩薩立像が処狭しと並んでおり、圧倒される。いずれも国宝級の物なのだろうが、ケースに入っていないので手で触ることも出来る。

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 シャージーキデリーのカニシカ大塔の跡から出土した舎利容器(お釈迦さまのご遺骨を納めた容器)も無造作に陳列されているが、これはどうもレプリカらしい。

 奥さんは昨日の夕食の時にアイスクリームをたくさん食べたのが原因か、お腹の調子が悪く、博物館のソファに横たわって死んだようになっている。せっかく本物のガンダーラ仏が見られるのに、もったいないことだ。
 
シャー君が一生懸命解説しているが、解説を聞きながらこういう物を見るのが嫌いなので、一人だけ離れて別のコーナーを覗いていたら、ちょび髭を生やした職員が近づいて来て、カメラのシャッターを切るジェスチャーをする。そして、1本指を立てて、片手を広げた。1ドルで5枚OKだと。おいおい、またかよ。ここにも無茶苦茶なおじさんがいる。中国もパキスタンもなんでこんなにいい加減なの。ちゃんと給料やってないんじゃない。

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 でも、こんなチャンスは滅多に無い。早速1ドル渡し、ハラハラドキドキで撮影開始。でも他の連中にばれるといけないから、みんなの死角になっているコーナーの物しか撮せない。その上、慌てるから上手く撮れない。あっという間に5枚撮し終わり、次にシャッターを切ろうとしたらちょび髭がまた手を出して来る。やむなく、もう1ドル渡した。

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10枚撮し終えて何食わぬ顔でみんなのところへ戻ったら、全員カメラを構えて撮し回っているではないか。今日は日曜日だから特別サービスだとぬかしやがり、職員どもが臨時特別収入を山分けしている。これって、いいの。背任行為じゃないの?と言っても、撮さな損損。みんなでやれば怖くない。博物館をところ狭しと走り回り、撮すわ、撮すわ。また、ちょび髭が近づいて来て、手を出す。いい加減にしろ!!と怒鳴ってやった。(帰国してからネットを見ると、ペシャワール博物館の写真がいっぱい出ているので、我々だけが特別だったわけではなさそうだ)

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 博物館の片隅にパンチカとハーリティ夫婦の像が安置されていた。タクティバイ寺院跡で発掘されたものだそうだ。ハーリティは訶梨帝母【かりていも】、つまり鬼子母神のことである。伝説によれば、現在のチャールサダ(クシャーン朝の最初の都であったプシュカラヴァティー)あたりで他人の子供をさらって来ては食っていたという。そこへ釈尊がやって来てハーリティの子供を仏鉢の中に隠してしまった。狂乱状態でわが子を捜し回るハーリティに、釈尊は子を奪われた親の悲しみを諭し教化したところ、悪業を悔いて以後、世の中の子供たちを守る女神となったわけだ。

 玄奘三蔵は、「是れ釈迦如来が此に於て鬼子母を教化し、人を害せざら令めし処なり。故に此の国の習俗として、祭りて以て嗣を求む」
と『大唐西域記』に記している。

 ハーリティという言葉には『青色』『青い衣』との意味があり、チャールサダが当時プシュカラヴァティー(“青い蓮華の町”の意味)と呼ばれて、ガンダーラ国の都であったことと何かの縁があるに違いない。

 鬼子母神の説話を知らなければ、仲睦まじい夫婦像でしかない。フランスの考古美術学者フーシェは、このハーリティを「仏教のマドンナ」と呼んだほどだ。

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 午前9時50分、シャージーキデリーへ。ペシャワール博物館で見た舎利容器が発掘された町だ。クシャーン朝のカニシカ王がこの地に基壇の1片が87メートルというとてつもなく大きいストゥーパを建立した。1908年にその跡から舎利容器が発掘された。
 また、無著(アサンガ)と世親(ヴァスバンドゥ)の兄弟は、興福寺の立像で有名だが、このペシャワールの出身である。ということは、この地が大乗仏教の大中心地であったことは間違いない。しかし、今じゃ古の煉瓦造りの土塀が残っているだけである。おまけに、この地は現在イスラーム教徒の墓地として使用されており、発掘調査も出来ないそうだ。時の流れとは過酷なものである。(つづく)


【 2013/11/19 11:50 】

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タキシラ、知らんか?

8月27日(日)

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 ガンダーラ美術をたっぷり堪能した後、アジア=ハイウェイをタキシラへ。途中、アフガニスタンから流れて来たカブール川とインダス川の合流点を通過する。左の濁った方がカブール川で、右の青く澄んでいる方がインダス川。なんでもインダス川のほうはダムがあるので土砂が沈殿して、綺麗な水になるそうだ。ここで合流したインダス川はアラビア海へと注ぐ。

 午後1時40分、タキシラに到着した。タキシラは“切り出された石の町”の意味で、今でもたくさんの石屋さんがある。520年に宋雲、630年には玄奘もこの町を訪れている。それよりはるか以前の紀元前326年、アレクサンダー大王はスワット盆地を平定した後、インダス川を渡りタキシラに無血入城している。大王はここで一人のインドの若者に出会うのだが、その人こそ後にマウリヤ朝を開くチャンドラグプタ(アショーカ王のお祖父ちゃん)であった。

 タキシラに1カ月滞在した大王は、ヒュダスペス川でポロス王と壮絶な戦いを展開した後、ガンジス川を目指そうとする。しかし、マケドニアを出兵してすでに8年が経過しており、部下達は遠征続行を拒否。大王もやむなく本国への帰還を決断した。

 タキシラの古代遺跡群は世界遺産に登録されているが、そのうちジョーリアン遺跡とシルカップ遺跡を訪ねた。

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 ジョーリアン遺跡はモヘンジョ=ダロを発掘したことで有名な考古学者マーシャルが発掘した仏教寺院を中心にした学園都市の跡で、紀元前5世紀頃からすでに大学があり、最高の大学と言われていたそうだ。「王舎城の悲劇」というお話をご存じだろうか。インドのマガダ国王であった頻婆娑羅(ビンビサーラ)が息子の阿闍世(アジャータシャトル)に殺害されるというお話だが、この阿闍世をお釈迦さまに帰依させたのが耆婆(ジーヴァカ)というお医者さん。その耆婆はこのタキシラで賓迦羅(ピンガラ)に7年間医学を学んだそうだ。

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 また、山道を登らなければならない。階段274段、気温36℃。タクティバイ寺院の時ほどではないが、息が切れる。拝観料は、外国人は200ルピー(400円)で、パキスタン人は10ルピー。ちょっと差をつけ過ぎなんじゃないの。

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 メインストゥーパやその周りにある奉献ストゥーパの基壇にストゥコ像が溢れている。ストゥコ像は漆喰【しっくい】で造られたもので、仏・菩薩はもちろん、梁を支える獅子やアトラスの像が見事である。

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 アトラスは天を背負う役目を負わされたギリシアの神様。アトラスの上にブッダがいる。これぞ、ギリシアとインドのコラボレーションや~!(彦摩呂風に)。まさしくガンダーラ美術である。


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 シルカップはバクトリアのギリシア人が建設した都市遺跡(紀元前2世紀~2世紀)。アクロポリスにみたてたハティヤール山の麓に碁盤の目状に都市がレイアウトされており、仏教寺院のほかに、ジャイナ教・ゾロアスター教の寺院もある。

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分かりにくいけど双頭の鷲です

 ストゥーパの基壇に双頭の鷲がデザインされており、東西文化の融合がみられる。

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 ここでもコインを売りに来たので2枚10ドルで買った。帰国してからネットで検索したところ、この地を治めていたデメトリウス2世という王様が発行した本物と判明。いや~、これはお買い得でした。(つづく)
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【 2013/11/18 13:23 】

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さよなら、知る苦労道!!


8月27日(日)


最後 

 午後7時、空港近くのホテルで最後の晩餐会。テーブルになんとパキスタン製のビールが出ているではないか。それもノンアルコールではなく、アルコール分5.5%の正真正銘のビールだ。禁酒国なのに、なぜ?

ビール 

 パキスタンはイスラーム教の国だが、イスラーム教でない人が国民の3%、500万人もいる。彼らは酒を飲んでもいいので、証明書があれば酒が買えるそうだ。彼らのためにこのビールは造られている。

 結局、最後の最後まで酒浸りの旅となったが、あんまり旨くないビールで、かなり残ってしまった。僕は目撃していないのだが、我々が席を立ったあと、ボーイさん達が残ったビールを一気飲みしていたそうだ。やれやれ、イスラーム教徒にも酒の味を知ってしまった奴が大勢いるんだ。鞭打ち80回ですぞ!酒止めなさい。あっ、そんな偉そうなこと言える立場じゃないか。

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 イスラマバード空港は、2週間ほど前の8月11日にイギリスで起きた航空機爆破未遂事件のため警戒が厳重だ。ピリピリとした緊張感が伝わって来る。手荷物検査で歯磨きのチューブ・ライター・マッチは没収。女性陣は化粧品も取り上げられた。みんなパキスタンのお土産に岩塩を2キロ1ドルで買ったんだけど、岩塩は凶器になり得るというので、機内への持ち込みは出来なかった。そこまでしなくても、いいんじゃな~いの、と言いたくなる。(ところが帰国半年後の2月6日、この空港で自爆テロが発生し、3人が死亡している。桑原桑原。あっ、また言っちゃった。 )

 イギリスのテロ未遂事件で捕まった犯人の多くがパキスタン人であったため、パキスタン人というとなんか恐いイメージがあったのだが、たった4日間だけどパキスタンの人と接して、そんなイメージは払拭された。確かに顔だけ見ると、髭もじゃでテロリストに見える。ところが、バスの中から手を振ると、髭もじゃの男どもが少しはにかみながら、手を振り返してくれるのだ。それも町中を歩いている男どものほとんど全員が。そんな陽気で優しい連中がテロに走ってしまうのは、やっぱあんたのせいだよ、ブッシュさん。

 午後10時35分、パキスタン航空852便(PK852便)は、定刻通りイスラマバード空港を離陸。北京を経由して、8月28日(月)午後12時35分、成田空港に無事着陸した。生ビールで無事生還を祝って乾杯。羽田空港で軽い夕食。かもせいろ定食と冷や奴に熱燗2合。最後の最後まで飲んでるってか。だって、なまぐさ坊主だもん。

 いや~、それにしても大変な旅でした。暑さあり、寒さあり、頭痛・息切れあり。恐怖あり。トラブルあり。電車やバスを使ってもこんなに大変なのに、やっぱ昔の人は偉い。この道を仏法を求めてひたすら歩いたんだから。

 本当に羅什・玄奘・法顕らの苦労を知った「知る苦労道【クロード】」の旅でした。(おわり)

【 2013/11/17 13:00 】

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成田空港の居酒屋で大宴会

 シルクロード。興味をもったのはいつの頃だったろうか。高校で世界史の授業を担当してすぐの頃だったかも知れない。多くの商人が、仏典を求める求法僧が、あるいは中国への伝道を志した渡来僧が、苦難を乗り越えて行き交った道。一度は訪ねてみたい。NHKの「シルクロード」でさらにその夢がかきたてられたが、今から30年前、それは夢でしかなかった。
 しかし、平成9年にともにインドを旅した仲間たちから、次はシルクロードに行こうという声がおこり、平成12年、夢は夢でなくなった。お互いに仕事のある身、一度にシルクロードを制覇するのは無理なので、3回にわけて旅することとした。
 平成12年は西安→敦煌→トルファンを経て、鳩摩羅什の故郷クチャまで。平成16年はクチャ→カシュガル→クンジュラーブ峠を越えて、パキスタンのガンダーラまで。そして今回は総仕上げで、イスタンブールとティムール帝国の都サマルカンドをめざすこととなった。

8月1日(木)

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 今回の旅で使用する航空会社はウズベキスタン航空。フライト時間は2日の午前10時。小松・成田便は午前8時で、搭乗時間に間に合わない。仕方なく前日の午後3時のANA3118便で成田空港へ。使用機材のCanadair Regional Jet 700は定員70名。ボーディングブリッジは使わず、機体のところまで歩行って、タラップを登って乗り込みます。 

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 空港内のエアポートレストハウスに宿泊。ホテルのレストランでは味気ないので、晩飯は成田空港第1ターミナルの京成友禅で。今回の参加者は10名。いつものことながら酒がないと生きていけない連中ばかり。なにしろ、イスラーム教の厳格なパキスタンを旅した時も、毎晩宴会をしたくらいですから。(ご存じの通り、イスラーム教では飲酒は絶対禁止。パキスタンへの持ち込みも禁止されています。)

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 日本最後の夜だからと、ゲソや軟骨の唐揚げ、枝豆、茄子の漬け物で大宴会となった。初日から酒に溺れています。
      
【 2013/11/03 06:28 】

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飛んでイスタンブール

8月2日(金)
 
 いよいよイスタンブールに飛びます。ウズベキスタン航空528便(HY528便)の定刻は10時05分。10分繰り上げて9時55分発になったと案内があったのですが、結局ドアを閉めたのが定刻通りで、離陸したのは10時30分。さすが、ウズベキスタン、いい加減です。でも、これが世界では当たり前。日本みたいに1分も狂わずに飛行機や電車が動いているほうが、異常なのかも知れません。

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 機材はボーイング767。途中乗り換えのタシケントまでは9時間。退屈しないように夢枕獏の『シナン』(シナンについては、またあとで書くことにする)を持ってきたのだが、下巻の半分ぐらいしか残っていなかったので、あっという間に読み終えてしまった。さあ、どうしよう。

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  エンターテインメントはないと聞いていたのだが、なんと各座席にモニターがついているではないか。飛行ルートの画面を見たり、ボーリングゲームをやったりして何とか時間をつぶすことができた。 

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  離陸後1時間ほどして飲み物と食事のサービスが始まった。 な、な、なんと、アサヒスーパードライがあるではないですか。「お飲み物は?」と聞かれて、即座に「ビール」。あとはワインもありましたが、あとで聞いたらビールもワインもすぐに品切れになったそうです。さすが、イスラーム教の国ですもんね。

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 ウズベキスタン航空のスチュワーデスさんが、美しい人だったので、こっそり写真を撮ったら怒られちゃいました。「 データを消せ」と言われるかと思ったけど、大丈夫でした。 なんだかんだで、15時15分(日本時間で19時15分)タシケント空港に着きました。あ~あ、疲れました。


 到着してバスでナーミナルに移動したんですが、飛行機を降りた途端、じぇ、じぇ、じぇ~、なんだこの暑さは。温度計がないので正確な気温は分からないが、体感温度は50℃くらい。バスの扇風機から送られてくる風は、ドライヤーをあてられているようです。乗り換えの手続き、安全検査を済ませて、免税店をのぞいたんだけど、ろくな物がない。フライトまで2時間ほどあるし、どないしようかと思ったら、みんなスタンドに集まっているではないか。最初は2,3人だったのが、一人増え、二人増えて、またまた大宴会。テーブルの上に、ビール瓶が林立していきます。写真の右から2番目がサルバスト。

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 タシケントで開発されたビールです。あとの銘柄は読めません。なにせ、旧ソ連圏なので、使っている文字はキリル文字ですから。次から次に冷蔵庫からビールが消えていきました。ここ、イスラーム教の国でしょ。

 定刻よりやや早い18時(日本時間22時)、ウズベキスタン航空273便(HY273)はイスタンブールに向けて出発。機材は成田からと同じボーイング767ですが、かなり旧式でモニターはついていません。寝るしかありません。ビールの酔いもまわってきて、おやすみなさ~い。

 21時15分(日本時間3日午前3時15分)、予定通りにイスタンブール空港に到着。窓から見える街の灯りが美しい。帯状に目映い灯りが連なっており、函館の夜景も真っ青。イスタンブールの地図を思い浮かべながら、どのあたりか想像するが分からない。入国審査の長い行列と入国審査係員のお役所仕事で、列はいっこうに前に進まない。ふと見ると私たちの横の列のかわいい女の子の集団。お揃いのユニフォームを着ているので、聞いてみるとサッカーのチームらしい。ユニフォームの胸のマークはUFF。ウズベキスタン・サッカー連盟の少女達だ。試合のため、トルコにやって来たようだ。みんないっせいにスマホのカメラを私達夫婦に向けて、シャッターを切る。日本人、そんなに珍しいかい?。私のカメラを渡して1枚撮ってもらったけど、目をつぶっちゃたよ。

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 ウズベキスタン代表というと、昨年2月に豊田スタジアムで行われたブラジルWC3次予選で、日本代表が不覚をとったチームだ。この子たちも、将来「なでしこジャパン」と対戦する日が来るに違いない。随分彼女たちと話し込んでいたのだが、列の長さはいっこうに短くならない。結局、入国審査を受け、スーツケースを受け取るまで、1時間以上かかった。

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 空港でメルハバ(こんにちは)と私たちを出迎えてくれた現地ガイドさんは、シネム・テリヤキさん。ん、照り焼き、美味しそうな名前の28歳のトルコ美人だ。ちょっとセレブタレントのマリエに似ている。両親はブルガリアの出身らしく、ブルガリアとの国境近くのエディルネ(ビザンツ帝国時代はアドリアノープル)に住んでいる。カッパドキア日本語学校の卒業生で、日本語はかなり達者なんだけど、私の耳と音の領域があわないのか、話が聞き取り辛くて苦労した。

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 空港で両替をしたが、郵便局の手数料が一番安くて2%。100ドルが186.3リラでした。ほかの銀行は4%と高いので、もしトルコに行かれる方は空港でPPT(郵便局)を捜して両替してください。

 バスに乗ってホテルに着いたのが、23時10分。日本時間だと3日の朝5時10分。日本を出てから17時間。もう、ヘトヘトです。おやすみなさ~い。また明日。(つづく) 
【 2013/11/02 12:33 】

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イスタンブール1日目 その1

8月3日(土)

 アザーンの声で目が覚めた。アザーンは「アッラーフ・アクバル(神は偉大なり)」で始まる、礼拝(サラート)への呼びかけ。「アシュハド・アン・ラー・イラーハ・イラーッラー(アッラーの他に神は無しと私は証言する)。………」政教分離を国是としたトルコ共和国の父アタテュルクは、アザーンをトルコ語で行うよう定めたが、しばらくしてアラビア語に戻ってしまったそうだ。

 今何時?4時20分。昨日ベッドに入ったのが12時をまわっていたから、4時間しか寝てないじゃないの。もう少し寝かせてよ。「ハイヤー・アラッサラー(いざや礼拝に来たれ)、ハイヤー・アラッサラー」。わかった、わかった、起きますよ。なにしろ泊まっているホテルが、ガラタ橋近くの旧市街地にあり、周りには多くのモスク(トルコ語ではジャーミィ)があるので、アザーンの声がうるさいのは仕方がない。

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 ホテルはレガシー・オットマン・ホテル。1911年に完成した歴史的建造物ワクフ・ハンを改装した五つ星ホテルだ。

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 瀟洒なヨーロピアンスタイルの外観、中は吹き抜けになったロビーに、豪華ななシャンデリアやソファー。「星五つです」と言いたいところだが、昨晩風呂に入ろうとしたら、バスタブの栓がない。栓を持ってきて貰って、お湯を張ろうとしたら、お湯が抜けていってなかなk貯まらない。その上にお湯が茶色。パキスタンのフンザのホテルでもお湯が茶色だったが、あの時はフンザ川の濁り水が入り込んだんだろうということで、フンザ温泉と洒落てみたが、今度は間違いなく水道管の錆。結局お湯が透明になったのは三日目。我慢して入って、お湯を抜こうとしたら、今度は抜けない。その上、付いているはずの歯ブラシはないし、掛け布団もない。まあ飯は不味くないので、外観五つ星、内容四つ星ですな。

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 ミマール・シナンという人物をご存知だろうか?世界史Bの用語集にも出てこないマイナーな人物だが、その名前を初めて知ったのは今年の2月、NHKの「世界遺産・時を刻む」であった。オスマン帝国全盛期のスルタン・スレイマン1世の命でスレイマン=モスク(トルコ語だとスレイマニエ=ジャーミィ)を建てた建築家。これだけなら、フーンで終わるだろうが、彼について調べていくうちに、シナンという人物にどんどん引き込まれていった。

 シナンはカッパドキアのキリスト教徒の村に生まれている。24歳の時にデウシルメという少年徴集制度によって徴用され、イスラーム教に改宗させられ、イェニチェリと呼ばれる兵士団に入れられた。やがて建築家として頭角をあらわしたシナンは、100歳で亡くなるまでの間に477の建築作品を造った。イスタンブールで有名な建築と言えばもちろんユスティニアヌス大帝の命により建てられたアヤ=ソフィア。ドームの直径が31m。これを超える直径32mのドームを持つセリミエ=ジャーミィを87歳の時に建てた。まさに至難(シナン)の業である。ちなみにミマールは建築家のこと。夢枕獏がシナンについて小説を書いていると知ったのは、つい最近。飛行機の中でやっと読み終えた。

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 セリミエ=ジャーミィはガイドのシネムさんの故郷エディルネにあり、今回のコースには残念ながら入っていない。スレイマニエ=ジャーミィは当然コースに入っている。ところが、ホテルのすぐ近くにシナンが設計したモスクがあるのだ。リュステム・パシャ・ジャーミィ。素晴らしいイズニックタイルをふんだんに使ったモスクらしいが、訪れる観光客は少ないと、『地球の歩き方』に書いてある。今回の旅も旅行社はいつもながら大阪のトラベルサライ。添乗員は奥村雅堂君。彼とのつきあいは平成9年のインドの時からだから、もう15年以上になる。彼にリュステム・パシャ・ジャーミィはコースに入っているか聞いたら、分からないという答え。ホテルのすぐ近くだし、恐らくコースには入れてないだろう。なら、自分で行くしかないと、午前6時、『地球の歩き方』を手に家内と二人で散歩に出た。(つづく)
 
続きを読む ⇒
【 2013/11/02 09:30 】

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イスタンブール1日目 その2

8月3日(土) 

 具合の悪いことに、『地球の歩き方』の地図はホテルとリュステム・パシャ・ジャーミィとの間でページが切れている。ホテルを出る時に出会った日本人のご婦人が、「みなさん、右手の方に行かれましたよ」と教えてくれたのだが、地図を見る限り左に行った方が近そうだ。というわけで、ホテルを出て左手へ歩き出した。

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 歴史を感じさせる建物が続く。カメラのシャッターをさかんに切りながら、早朝の町歩きを楽しんだ。

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  ところが、いつまで経ってもそれらしい建物が見えてこない。 出会ったおっさんに地図を見せながら聞いたら、あっちの方だと言う。それで、そっちの方に15分ほど歩いたけど、見つからない。そのうち、ミナレット(礼拝の時間を告げるための塔)とドームが見えたので、これに違いないと、そっちの方に向かって歩くのだが、なんだか同じ所をぐるぐる廻っているようで、いっこうに入口らしいものが見つからない。どんどん時間が過ぎていく。朝飯までにホテルに帰れなくなってしまう。と、今度はホテルへの道を聞いて廻る始末。結局1時間ほど歩いたが、分からずじまいに終わり、「人の言うことを聞いて、右へ行かないからよ」と、家内にこっぴどく叱られてしまった。

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 朝食はパンとチーズ・ソーセージに目玉焼き。何種類ものチーズがあったので、たくさん取ってきたんだけど、これがメチャ塩辛い。家庭では塩抜きして食べるそうだが、塩抜きしてしまうと保存が効かなくなるので、ホテルではそのまま出している。これじゃ、血圧上がっちゃうよ。

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 レストランは6階にあり、さわやかな潮風が吹き込んでくる。眼下にはボスフォラス海峡や金角湾が一望でき、豪華クルーズ船も停泊している。最高のスケールだ。星、五つです!
 
 午前8時30分。市内観光に出発するまでかなり時間があるので、希望者だけ添乗員の奥村君に町中に連れて行ってもらった。

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 最初にホテルから歩いて5分程のスィルケジ駅へ。『オリエント急行殺人事件』に出て来るので有名な駅だ。名探偵ポワロがこの駅からカレー行きのオリエント急行に乗り、列車内で起きた殺人事件を解決するという、アガサ・クリスティの名作だ。デヴィッド・スーシェがポワロ役を務めた映画は何度も見た。一度は乗ってみたいと思っていた豪華列車だが、現在はロンドン~ヴェネツィア間を走っているだけで、イスタンブール~ヴェネツィア間は走っていないそうだ。ところが、1年に一度だけ5泊6日の日程で走るそうで、お二人さまで844,000円(ホテル代込み)。と~んでもない、乗れるわけないじゃん。   

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 まだ時間があるので、トラムに乗ってみた。トラムは路面電車のことで、自動販売機でジェトンというコイン型チケットを買って乗る。1枚3リラ(日本円165円)。プラットホームにある改札機にジェトンを入れれば、OK。どんだけ乗っても3リラだが、ホテルに帰る都合もあるので、たった1駅だけ乗り、ガラタ橋近くのエミノニュ駅で降りた。

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 ガラタ橋はイスタンブールの市民が鯖釣りを楽しむ場所として日本人にも知られている。海風にあたりながら、しばらく風景を楽しんで、ホテルに帰った。

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 午前9時50分、バスを降りてイスタンブール歴史地区の観光開始。まずはスルタンアフメット・ジャーミー、内壁を飾る2万枚以上のタイルが青色を主体としているのでブルーモスクの愛称で親しまれている。日本の観光寺は拝観料をとるが、イスラーム教のモスクは寄付金は歓迎するが、拝観料は取らない。宗教施設はすべての人々に救いの手を差し伸べるためにあるのだから、これが当然の姿。わが日蓮宗の総本山・久遠寺も拝観料は取らない。靴を脱ぎ、女性はスカーフをして入る。     
 イスラーム教の女性は家族以外の男性に肌や顔を見せてはいけないので、黒いブルカやチャドルと呼ばれるヴェールで髪や肌を覆って外出する。これが女性蔑視だという意見があり、フランスでは法律でブルカが禁止されているが、僕はそう思わない。だって、黒いヴェールからのぞく瞳ほど魅惑的なものはないし、女の人にしたってスッピンで外出できるからいいと思うんだけどね。僕がかかっている皮膚科の女医さんもいつもマスクをしていて、つぶらな瞳で見つめられるから、もの凄い美人だろうと思い込んで病院に通っている。実は素顔はまったく違っていたりしてね。(笑)

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  まあ、冗談は別にして、トルコは建国の父アタテュルクがいちはやく女性解放を進め、イスラーム世界で初めて女性参政権を認めた国なので、ブルカ姿を見かけることはほとんどない。ごく普通に黒髪や金髪を風になびかせて町中を歩いているが、モスクの中はそうはいかず、スカーフだけは着用しなければならず、外人観光客も例外ではない。この日はイスタンブールに2000人乗りのクルーズ船が到着したそうで、中は多くの人でごったがえして大混雑。高さ43m、直径27.5mの大ドームに、4つの副ドーム。260にものぼる小窓があり、ステンドグラスから淡い光が差し込み、まるで天国にいるみたいだ(日蓮宗の坊さんがそんなことを言ったらいけません)。ポカンと口を開けて、上ばかり見ていたら首が凝ってしまった。 

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  ブルーモスクはミマール・シナンの弟子であるメフメット・アーが1616年に建造したモスクなのだが、実はミナレットが6本ある。世界史を教えて38年目になるが、長い間「モスクにはアザーン(礼拝の呼びかけ)のため、東西南北に4本のミナレットがあります」と教えてきた。えっ、6本もあるの、なんで?当然、建造を命じたスルタンのメフメット1世が自分の権勢を誇るため。しかし、メッカからお叱りを受けたそうだ。「ミナレットは必ず4本にしなければならないのだ。」メフメット1世は言い訳をする。「あの~、僕は黄金(アルトゥン)のミナレットを造れと命じたんだけど、メフメット・アーが馬鹿だから、6(アルトゥ)本のミナレットを造っちゃったんです。今さら壊せませんし、ご免ね。」メッカのほうでは「駄目だ駄目だ。壊せ。」と言えなかったんですね。なんせ、スルタンはメッカにとっては大パトロンですからね。(つづく)

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【 2013/11/02 09:09 】

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イスタンブール1日目 その3

 8月3日(土) 

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 ブルーモスクの見学を終えて、次はお隣のアヤソフィア。まあ、お隣と言っても600mほど離れているだろうか。昔、世界史を習った人なら、聖ソフィア聖堂とか、セント=ソフィア聖堂と習ったかもしれない。ギリシア語ではハギア・ソフィア。なんと4つも名前があるのでややこしいが、意味はいずれにしても“聖なる英知”である。その前身は4世紀にコンスタンティヌス帝によって建立されたが、ビザンツ帝国のユスティニアヌス帝時代の532年に起きたニカの反乱の際に放火により焼失した。彼は6年近くの歳月をかけてこれを再建、こんにちの巨大なものに建て替えられた。537年の献堂式で、ユスティニアヌス帝は直径31mの大ドームの円屋根を見上げ、「ソロモンよ、われ汝に勝てり」と、豪語したといわれる。その後、ビザンツ帝国が終焉を迎えるまで、この聖堂はギリシア正教の大本山として君臨した。
   
 1453年にオスマン帝国によりコンスタンティノープルが陥落すると、時のスルタン、メフメット2世は町の名前をイスタンブールに改め、聖堂はモスク(ジャーミィ)に変えられ、メッカの方角をさすミフラーブやミナレットが加えられた。キリスト教の神ゴッドもイスラーム教の神アッラーも同じものであるし、ムハンマドはイエスを預言者の一人として認めているので、アヤソフィアをそのままモスクとして再利用することは何の問題もないが、イスラーム教は偶像崇拝を禁止しているので、モザイク画は漆喰で塗りつぶされた。1931年に壁の中のモザイク画が発見され、トルコ共和国建国の父アタテュルクは博物館として公開することにした。入場料は20リラ(1100円)。しっかり外貨をかせいでいる。 

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  中に入ると、圧倒的な重量感で押しつぶされそうになる。天井はアーチ状になっていて、その半球に聖母マリアや、キリストの絵がモザイクで描かれ、後に加えられたアッラーの文字版が架けられている。夢枕獏は小説『シナン』の中で、シナンに「このアヤソフィアが、神を入れるための器であるなら、その器として、このアヤソフィアは不完全なものである」「もともとは全きものであるはずの神の姿の全てが見えない」「人間の過剰な祈りの声ばかりが満ちており、建築物そのものの構造として神に近づこうとしたものではない」と言わせている。 私にはそんな鋭い感性はないが、先ほどのブルーモスクが天を突き抜けるような空間のように感じたのに、アヤソフィアには重苦しさがある。窓が少なく暗いせいもあるが、偶像のなせる仕業なのかも知れない。この「人類の奇跡」とも言われた建築物を超えるもの造ることが、シナンの使命となる。
 
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 アヤソフィアが終わって、今度はさらに700mほどお隣のトプカプ宮殿。案内板を見ると、トプカピ宮殿が正しいようだ。1922年にオスマン帝国が滅びるまでのスルタンの居城だ。

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 皇帝の門を入って、広い中庭を通り、ハレムや謁見の間を見学。

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 最後は宝物館だ。宝物館は撮影が禁止されているので、ちょっと他のサイトから借りてきました。86カラットの大きなダイヤを49個のダイヤで取り囲んだ「スプーン屋のダイヤモンド」や、重さ3kgの世界最大のエメラルド、トプカプの短剣など、ため息の出るお宝ばかりだ。最初のうちは「へ~」とか「おおお~」とか言ってたけど、だんだん慣れてくると、何も感じなくなる。スルタンもそうだったんだろうね。ところで、今何時?えっ、1時30分。3時間半も歩いて、もうお腹ペコペコ。「それでは、今歩いて来た道を戻って、レストランに行きます」と、添乗員の奥村君。えぇ~、今歩いてきた道って、600+700で、1300mじゃん。という訳で、暑い中を30分ほど歩いて、グループ・サライというレストランでご飯にありついたのは午後2時です。
   
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 昼食は本格的トルコ料理。まずはエフェスビールでかんぱ~い。もう4時間も歩いているからビールが美味い。しかし、ここイスラーム教の国なのに、平気でアルコールが出て来る。パキスタンのレストランでは、ミネラルウォーターのペットボトル入れた焼酎をこっそり持ち込んで飲んでいたのに、えらい違いだ。

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  ビベル・ドルマスというピーマンの肉詰めなどの前菜に、メインはドネル・ケバブという回転焼き肉。そういえば、NHKの「あまちゃん」で、まめぶ大使の安部ちゃんが「まめぶがケバブに負けた」と言ってましたね。

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 デザートはバクラワというパイの蜂蜜漬けにトルコ・コーヒー。トルコ・コーヒーは別料金で、6.5リラ(360円程)でした。まあ、美味しかったけど、世界の三大料理というには、イマイチでしたね。ごちそうさまでした。(つづく)

 
【 2013/11/02 06:48 】

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イスタンブール1日目 その4

 8月3日(土)
 
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 午後3時に昼食が終わって、次は地下宮殿。入口は近くにあるので、また歩いていくのだが、ブルーモスクの前 になんとオベリスクが2本建っているではないか。なんで、イスタンブールにオベリスク?帰ってから調べたら、写真の左がテオドシウス1世のオベリスク。395年、彼の死後、ローマ帝国は東西に分裂するんだが、彼が390年にルクソールのカルナック神殿にあったトトメス3世のオベリスクを運ばせたものなんだって。ここはもと競馬場で、そのトラックnの内側に建てさせたそうだ。あんまり大きいから3つに切って運ばせたそうで、現存しているのは一番上の部分で、25.6mある。こんな所でエジプトの遺跡が見れるなんて、ラッキー!!でも、これって皇帝の権力乱用、略奪ですよね。パリにあるオベリスクは、エジプトのムハンマド=アリーがフランスの援助に対するお礼としてプレゼントしたものだからいいけど、エジプト政府は返せと言ってないのかなあ?右は、ビザンツ帝国の皇帝コンスタンティヌス7世が建てたものだそうだ。

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 さあ、地下宮殿に入ります。地下宮殿と言っても、本当は地下の貯水池。4世紀のコンスタンティヌス帝から6世紀のユスティニアヌス帝の時代に造られたものだという。林立する大理石の柱がライトアップされていて、なんとも幻想的で美しい。黒海に近い水源から19㎞かけて水が運ばれ、スルタン達ののどを潤したそうだ。柱はもともと336本あったが、今は246本。中に土台部分にメドゥーサの顔が使われているものがある。顔が逆さまになっているけど、恐らくメドゥーサの魔力を封じ込めるためなんだろうね。

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 貯水池だから当然今でも水が貯まっているけど、鯉らしき魚がたくさん泳いでいた。こんな光のない世界に住んでいて、目は退化してないんだろうか。

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 午後4時50分。イスタンブール名物グランドバザールです。店の数は4400軒、小さな店がひしめきあっている。買い物時間は1時間。自分の土産はエジプシャンバザールで買うと決めているので、ここでは奥さんの買い物につきあう。日本語の呼び込みの声が飛び交う中、よさそうな店を探すんだけど、あんまり奥に入り込むと、迷子になってしまいそうで、いい加減のところで手をうった。有名なトルコランプは持って帰るの大変そうだし、パス。

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 知人用に手書きのタイル11枚。

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 陽気な兄ちゃんの店で干し無花果とドライフルーツの詰め合わせを大量に買った。重たいから持って帰るの大変。門の近くのトイレに入ったら、1リラ取られちゃった。お金取るんだったら、もっと綺麗にしとけ!

 このあと、トルコといったらトルコ石ということで、宝石店に行った。でも、トルコ石はインドやパキスタンなんかで随分買ったから、奥さんもあまり買う気がない。宝石ショッピングは値切り交鈔に醍醐味がある。宝石そのものに興味はないが、交鈔に成功して、向こうの言い値の半分位で買えると良い気分なってしまう。これが癖になって、ついつい宝石店では交鈔したくなってしまう。でも、奥さん買う気がないから、することがない。他の奥さん方が一生懸命交鈔しているが、なかなか決まらない。

 時計を見ると、もう午後6時をまわっている。ちょっと、急いでくださ~い。僕の買い物出来なくなってしまいま~す。
 4月に星稜高校で世界史を担当している4クラスの生徒達に自己紹介した時に、1学期の成績良かったら、トルコのお土産買ってくるね、と約束した。赤点の子が一人も出なかったので、約束を守らなければならない。4クラス150名分のお土産。事前にネットで検索した結果、エジプシャンバザールにある「エドまっちゃんの店」で買うことに決めた。エジプシャンバザールはホテルから歩いて5分の所にあるが、明日日曜日はお休み、今日の開店時間は午後7時まで。

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 間に合うかどうかハラハラしながらホテルに帰ると午後6時25分。慌ててエジプシャンバザールへと走った。「エドまっちゃんの店」は48番。バザールの門から入って一番奥のほうに見つけた。

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 店主の名前がエルドゥアン。日本人観光客がダウンタウンの松本人志に似ている(写真見ても分かると思うけど、全然似てない)というので、つけたあだ名がまっちゃん。てな訳で、「エドまっちゃんの店」だそうだ。店を出るときにはネオンサインが消されてしまっていたので写真撮れなかったけど、漢字で「薄利多売の店」と書いてある。

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 店に飛び込んで、早速まっちゃんと交鈔だ。予算は1個50円、150個揃えることが出来る商品を捜してもらった。5㎝角のマグネット付タイルを勧められたが、1個2リラ(110円)。げっ、それじゃ総額15,000円を超えてしまう。粘りに粘って、他の物も買うからということで、1個50円にしてもらった。この時は何とか土産が買えた安堵感で気がつかなかったんだけど、1個30g、総重量4.5㎏ある。これがあとから問題を起こすことになるとは夢にも思わなかった。

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 生徒の土産が終わったんで、今度は自分の土産、これも予定通り、キャビアと唐墨。地下に降りて、試食させて貰った。ネットで読んだ記事では、スプーン1盃ずつ3種類のキャビアが試食出来るとあったが、景気が悪くなったんだろうか、耳かきみたいなスプーンで試食させてくれた。

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  買ったのは1缶4,500円のキャビアと、唐墨の小1,900円4本と大3,000円1本。唐墨は日本で買う値段の半分ぐらいだ。唐墨はその場で真空パックに、キャビアは保冷剤を入れてくれたけど、日本に帰るのは6日後、大丈夫かな?(その後ホテルに着く度に冷蔵庫に入れて持って帰ったけど、何の問題も無く、美味しく頂きました)。

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 あと、アラビア語でアッラーと書かれたタイル5,000円。うちの奥さんは息子の嫁さん2人にトルコ石のヘッドを買うべく、まっちゃんと交鈔。「高~い。もっと安くしてよ。」これに対してまっちゃん、「うちの店では、高いという言葉は通用しません。」だって。お見事です。

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 店を出たのが午後7時20分。名刺頂戴しました。店の若い衆、残業させてご免ね。さあ、晩飯だ。  
 
 午後8時、バスに乗ってGARミュージックホールへ。

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 ガード下にあり、なんだか場末のミュージックホールという感じで怪しげだが、老舗らしい。アベノミクスの影響で円安になったんで、奥村君一番安いナイトクラブにしたんじゃないかな(あとで聞いたら、ラマダーンのために他の店はやっていなかったそうです)。品の悪そうな団体客がたくさん入っている。(まあ、人が見れば我々も品の悪い団体に見えるかな?) 

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 まずは食事。前菜が運ばれてきたが、おつまみにはぴったり。中でも皿の右側に乗っているのが、石川県名物の粉糠鰯(こんかいわし)にそっくりな味。この味だったらビールでは物足りない、という訳でラク(ラキ)を注文した。

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 60°もある酒なんで水で割って飲むが、水を入れると白く濁るので、“ライオンのミルク”と呼ばれている。独特の匂いがあって、割らないほうがいいかも知れない。その後、いくつか料理が運ばれて来たけどイマイチ。特にメインは鯖を注文したんだけど、これがパッサパサで美味くない。

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 食事が半ばまで進んだところで、いよいよショーが始まった。民族舞踊とベリーダンスを交互に鑑賞したが、当然お目当てはベリーダンス。二人の踊り子が出て来て踊ったんだけど、トリは赤いドレスを着た若いほうの子。なかなか可愛い子で、動きが速いんだけど、腰が振れていない。前座として出て来た黒いドレスの踊り子は、かなりの年齢(30代後半位かな)で、下腹も出ている。しかし、妖艶な舞で、腰も腹も筋肉を自在に動かし、顔の筋肉まで動いていた。折角技術があるのに、年齢でトリを譲っているんだろうけど、その悔しさが滲み出ている踊りでした。ホテルに帰ったのが午後10時30分。まあ、もりだくさんの一日で疲れました。おやすみなさ~い。(つづく)
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【 2013/11/01 18:30 】

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イスタンブール2日目 その1

 8月4日(日)

 午前6時、再びリュステム・パシャ・ジャーミィをめざす。昨日、奥村君がホテル周辺の地図をくれた。もっと早くくれれば、昨日迷わずに済んだのにと、少し恨めしい。リュステム・パシャ・ジャーミィはホテルから右に出て、エジプシャンバザールに続く問屋街の中にある。奥さんもしぶしぶついて来た。

  今日は、イスラーム暦では1434年9月27日。西暦622年にムハンマドがメディナに移住したヒジュラから数えて1434年。そして、今月は9月でラマダーン(断食)の月だ。昨年の7月場所で、エジプト出身の大砂嵐金太郎関が断食をしながら新十両場所を勝ち越しで終えたことで話題となった。イスラーム暦9月の1カ月間は日中の飲み食いは禁止されている。唾すら飲んではいけない。国民の3割しか毎日の礼拝をしていないというトルコ人だから、どれだけの人が断食しているかわからないけど、太陽が沈めば無礼講。8月8日はラマダーン開けのお祭りになるが、昨日は土曜日ということもあって、ラマダーン開けを待てないたくさんの人が出てどんちゃん騒ぎをしていたのだろう、町中はゴミだらけ。イェニ・ジャーミィの周辺を清掃員の人々が一生懸命に掃除していた。 
             
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 イェニ・ジャーミィの中を覗くと、たくさんの人々が横になっている。朝の礼拝を終えて仮眠しているのか、昨晩飲み過ぎて、二日酔いで横になっているのか分からない。可愛い男の子がいたので、写真を撮らせてもらった。

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その時、ポケットの携帯が鳴った。ドキッ!!お檀家さんに危ない人がいる。えっ、お葬式か?慌てて出たら、M上人からの仕事の話だった。すんません、今トルコにいます。

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 昨日来たエジプシャンバザールを通り過ぎると左手に大きなドームが見える。リュステム・パシャ・ジャーミィだ。あれっ、ここ昨日来たところだ。なあ~んだ、昨日の場所であってたんだ。

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 でも、入り口がどこにあるのか、分からない。ぐるっと一周してみても、入口らしき所はあるが、閉まっている。向かいの靴屋のおっさんが店先に商品を並べながら、「ヘ~イ、ジャポネ。ノット、オープン。」「OK、OK。」まだ、6時過ぎだから、店開いてないの分かってるし、靴買う気なんかないよ。結局諦めてホテルに帰った。

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 ホテルのすぐ隣にお菓子屋さんがある。毎回その前を通る度に、奥さんが「美味しそう」と言うので、入ってみた。


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 まあカラフルなお菓子が並んでいる。1箱26リラ(1400円位)のを買って、日本に帰って食べようと思ったら、中から虫が出て来てびっくりでした。

 朝食を済ませて、なにげなく『地球の歩き方』を読んでいたら、リュシュテム・パシャ・ジャーミィが開くのは午前8時と書いてある。えっ、なんで。イェニ・ジャーミィには信者さん達がいた。その時間にリュステム・パシャ・ジャーミィに信者らしき人は誰もいなかった。ということは、リュステム・パシャ・ジャーミィは完全に観光用になっていて、一般の信者が礼拝する所ではなくなってるんだ。あっ、靴屋のおっさんが「まだ開いてないよ」と言ったのは、自分の店のことじゃなく、リュステム・パシャ・ジャーミィのことだったんだ。時計を見たら8時25分。観光に出発するまでまだ時間がある。急ぎ、一人でリュステム・パシャ・ジャーミィに向かった。

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 さっきの靴屋の向かいのドアが開いていて、階段がある。こんな所に入口があった。恐る恐る二階にあがってみた。警備員さんが一人だけいる。

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 イズニックタイルが美しい。

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 靴を脱いで中に入る。誰もいない。たった一人、ミフラーブ(メッカの方角を示すくぼみ)に向かって坐った。リュステム・パシャ・ジャーミィはミマール・シナンが1561年、61歳の時に設計したジャーミィだ。ここに来ればシナンの息づかいを感じられると思い、ここを目指したんだけど、ホテルのすぐ近くにあるというのに、いや~遠かった。やっと3度目に来れましたよ、シナンさん。 これじゃまるで、諸葛孔明に対する劉備の「三顧の礼」じゃないですか。「わしにそんなに簡単に会えると思うな。」という声が聞こえたような気がした。


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 2リラのお賽銭をあげ、お土産にナザールボンジュウというトルコの御守りを3リラで買った。

 さあ、今日はまずはお買い物から。トルコ絨緞のお店に行ったんだけど、これが昨日の宝石店と同じビルにある。


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まずは、ムスタファさんによる流暢な日本語による講義から始まった。「世界デ一番古イ絨緞ハ、サンクトペテルクノエルミタージュ博物館ニアリマス。今カラ2500年前ノ物デ、100%ウールデ織ラレテイマス。ダブノットデ織ラレテイルノデトルコノ物デス。世界中デ絨緞ガ織ラレテイマス。ペルシア、モロッコ、アフガニスタン、中国。中国ハ残念ナガラ(笑い)、残念トイウノハ余所ノ国ノ柄ヲ真似シテ…………」、と延々と続きます。そのうち、チャイというトルコ風の紅茶のサービスが始まった。なかな美味い。

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 「ソレデハ、実際ニ見テイタダキマショウ」ということで、1枚、2枚、3枚と増えていき、10枚以上の絨緞が所狭しと並べられていく。ヘレケはトルコ絨緞の代名詞だが、本当に素晴らしい。夏と冬とリバーシブルで使えるそうで、見る角度によって色が違って見える。あちこちで商談が始まった。本堂の焼香台の前に置くのに、50㎝×120㎝のサイズで、ウールの物はあるか聞いてみたら、残念ながらウールの物はないと言う。シルクならそのサイズがある。「ちなみに、おいくら?」「26万円デ~ス。デモ交渉ニヨッテハオ安クナリマス。」「冗談じゃない、そんな高いの買えませ~ん。」と、交渉はすぐに決裂。
 
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 あちこちで交渉が決裂していく中、ついにターゲットはO君一人に絞られた。海坊主のようなツルツル頭の社長さんまで出て来て、ムスタファさんとガイドのシネムさんに社長が加わって、3人がかりでO君を追い詰めて行く。心の中に少しでも買いたいという気持ちがあると、もう逃げられません。O君、日本の奥さんに電話して、しぶしぶながらOKを貰った。お買い上げ有り難うございま~す。奥さんに値段は言ってないそうなので、値段は言えませんが、ん十ん万円でした。家宝にして下さ~い。(つづく)
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【 2013/11/01 06:46 】

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