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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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愛の国ガンダーラへ

 平成18年8月18日(金)~28日(月)、シルクロードからパミール高原を経てガンダーラの仏教遺跡をめぐる旅をしました。タリバーンがガンダーラを制圧している今となっては、二度とかなわない貴重な経験です。
 妙応寺で発行している季刊紙『僧伽(サンガ)』に平成18年10月~21年1月に発表した紀行文に、加筆修正したものです。なにしろ7年も前のことで記憶があやふやですが、写真のデータを手がかりに、脳味噌をしぼりながらの執筆になります。ご高覧あれ!



2006_0824シルクロード 本淳0019 

 鳩摩羅什【くまらじゅう】。(写真はクチャの羅什像)。1600年ほど前の弘始8(406)年5月、サダルマ・プンダリーカ・スートラを中国語に翻訳し、『妙法蓮華経』として完成させた訳経僧である。
 羅什の詳しい生涯についてはおいおい語ることになるだろうが、シルクロードの町クチャ(昔の亀茲【きじ】国)に生を受けた羅什は、13歳の時、大乗仏教の師・須利耶蘇摩【すりやそま】から法華経の原本を渡され、東方に弘めるよう委嘱されたという。その後、祖国が滅び、妻帯を強制されて破戒僧となるという屈辱を味わいながらも、少年の頃の志を捨てることなく、45年後に見事にそれを成し遂げた。死に臨んで、「自分の翻訳は決して間違ってはいない。」との言葉を残したと言われる。

 羅什の生地であるクチャを初めて訪ねたのは平成12年であった。この時は法華経が漢訳された長安(現在の西安)を起点に、シルクロードを西に進み、クチャで旅を終えた。亀茲国が前秦の将軍呂光【りょこう】に滅ぼされたのは羅什34歳の時であった。囚われの身となった羅什は幾多の困難を経て、51歳の時長安に迎えられたのであるが、羅什の生涯で一番辛い旅の跡を逆にたどったことになる。

 ご存じだとは思うが、2500年前に釈尊によって説かれた仏教は、ガンダーラからパミール高原を越えてシルクロードに入り、中国・朝鮮半島を経て6世紀の日本に伝えられた。これには、1000年という歳月とともに、身命を惜しまぬ多くの僧侶の高き志が必要であった。インドからシルクロードに仏法を伝えた名も無き僧侶達。中国に仏法を伝えた鳩摩羅什をはじめ安世高【あんせいこう】・仏図澄【ぶっとちょう】といった多くの西域僧。有名な玄奘【げんじょう】(三蔵法師)のほか法顕【ほっけん】・宋雲【そううん】といった、インドに経典を求めた求法僧。

 長安からクチャを経てガンダーラに至る道は仏法伝来の道であるとともに、求法の道でもあった。今回の旅はその後半、クチャからガンダーラへの旅である。

 いざ行かん、愛の国ガンダーラへ! (つづく)
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【 2013/12/20 16:13 】

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カラチは今日は雨だった!

8月18日(金) 
 
 朝6時30分に家を出て、小松から成田空港へ。全日空の小松・成田便(ANA-3118便)は、わずか50人乗り。ボーディングブリッジやバスを使わず、空港の隅にポツンと駐機している飛行機まで歩いて乗り込む。まるで外国の地方空港のようだ。でも、このほうが今から飛行機に乗るぞという実感があり、楽しい。
 正午には北は北海道、南は鹿児島から集まった18名の強者(ちなみに年齢は20歳から77歳まで)が成田空港に集結。午後2時発のパキスタン航空853便(PK-853)で出発予定、しだいに胸が高まってくる。いよいよ搭乗手続きが始まった。ところが、チェックインカウンターの女性スタッフが、「出発地のカラチが豪雨のため、4時間ほど遅れて出発しました。出発予定が今のところ午後6時30分になっておりますが、宜しいでしょうか?」とおっしゃる。

2006_0823シルクロード 文子0001 
 宜しいも何も、ほかの飛行機に乗るわけにはいかないのだから、素直に「はい」と答えた。すると彼女、「ほんのお詫びの気持ちです」と言って、渡してくれたのが空港内で使える1,000円の食事クーポン券。4時間半遅れのお詫びがたったの1,000円と思いながらも、有り難く頂戴した。 
 時間は有り余るほどにある。まあ、日本最後の食事をゆっくり楽しもうと、川エビの唐揚げと鶏の照り焼きで生ビールとお酒をいただき、天ざる蕎麦で腹を満たした。締めて4,100円。1,000円貰ったばっかりに、よけいに高付いたじゃないか。
 ゆっくり、ゆっくりお酒を飲んだはずなのに、食事が終わってもまだ午後1時。ほろ酔い加減で空港内のお店を見て回ったが、すぐに飽きてしまい見学デッキに出た。離発着する飛行機を写そうと思ったのだが、なにしろ暑い。吹き出て来る汗に閉口し、ビル内に戻った。まだ、午後2時だよ。も~、なんとかしてくれ~。

 結局、6時間遅れの午後8時出発となった。思い出すのが、3年前のチベット旅行。帰りの上海空港で、6時間も待たされた。あの時は機材が不調だとか何とかいう理由で、ろくな説明もなかったが、今回は天候不良と理由もはっきりしているので腹は立たない。しかし、参加者全員の疲れ切った顔に、一抹の不安が見て取れる。(この不安が見事に的中するとは、この時誰一人知るよしもない)

 我々が今から訪ねるのはアッラーの神を信ずるイスラーム教の世界だ。何があろうともアッラーがお護り下さるに違いない。インシャラー(神の思し召しのままに)だ!

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 午後9時楽しいお食事の時間。イスラーム教の国らしく、マトンの洋風料理とカレー。僕はカレーを選んだ。食べ始めたから撮影していないのに気付いたんで、汚らしくなってご免なさい。どんだけ腹減ってたんだろう。食事が終わって、免税店で買った山崎12年物を皆に回したら、8人の胃袋に入って、あっという間にカラ。トホホ。
 午後10時5分、北京空港に到着。北京空港は流石にゴージャス。トイレに入ったら、「小心地滑」と書いてあったので、一瞬「空港で地滑りが起きた?」ってなんだ、と思ったが、すぐに「床が滑りますので、ご注意下さい」の意味だと納得した。中国を旅行していて面白いのは、日本と違った漢字の使い方を発見したり、とんでもなく略した簡体字が読めたりした時が最高。ちなみに「佳能」でキャノンだからね。
 予定では国内線に乗り換えてウルムチまで行くことになっていたが、急遽予定を変更して北京空港近くの国都大飯店に泊まることになった。ホテルに到着したのが現地時間の午後11時30分。自宅を出てから18時間もかかってしまい、さすがに疲れました。(つづく)
【 2013/12/17 11:43 】

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羅什の故郷クチャへ!

8月19日(土)

 急遽泊まることになった国都大飯店は「シノ・スイス・ホテル」の別名を持つ、ヨーロッパ風の4つ星ホテルで、「味彩」という名前の日本料理コーナーもある。しかし、相変わらず漢民族の従業員の態度が悪い。「お前ら、泊めてやる。有り難く思え」と言わんばかりの顔で、挨拶すらろくにしない。『お前ら、客に対して「おはようございます」くらい言えよ!日本語知らないんだったら、「称好(ニイハオ)」でもいいし、「グッドモーニング」でもいいぞ。』と、心の中でつぶやいた。
 その上、フロントで人民元に両替したら、一人に十分程かかり、長蛇の列が出来てしまう始末。本当に中国人は計算が出来ない。あまりに時間がかかるので、何人分かまとめて両替した。こんなことで再来年のオリンピック本当に大丈夫なんだろうかと人事ながら心配したけど、まあ表面的には成功しましたね。ちなみに10,000円が670元。

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 午前8時50分、中国南方航空で新疆ウイグル自治区の首都ウルムチ(烏魯木斉)へ。機内食は清真と書かれたヌードル。清真はイスラーム教のことなので、チキンのスパゲッティですな。

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 成田・北京間は3時間だが、北京・ウルムチ間は3時間半かかる。やはり中国の大地は広大だ。眼下には延々と続くゴビ砂漠の褐色の世界が広がり、その中に毛細血管のような筋が幾筋も見える。乾河道【かんかどう】だ。天山山脈の雪解け水が流れた跡で、今は一滴の水も流れていない。まさに死の世界だ。

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 ところが、そんな中に明らかに道路だと思われる真っ直ぐな線が1本走っており、やがて一面褐色の世界にポツンポツンと点在する緑が見えてきた。オアシスだ。こんな過酷な世界にも人は住んでいるんだ、などと景色を見ながら考えているうちに、午後12時30分。ウルムチ空港に到着した。

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 空港で我々を迎えてくれたのが、現地ガイドの趙戈莉【ちょうかり】さんという28歳(女性に年齢を聞くのは失礼なので、推定年齢です)のお嬢さん。「戈莉」というのは「ゴビ砂漠に咲く、一輪のジャスミンの花」という意味だとおっしゃったが、とてもそうは見えない逞しい女性だ。それでも今年の10月には結婚されるそうだ。(アッ、この言い方失礼かな?)
 彼女はシボ族だそうだ。中国には漢民族のほかに55の少数民族が住むが、シボ族はそのうちの一つで、人口は20万人弱。彼女の話では、お祖父さんが革命時代に国民党員だったために左遷されて新疆に来たということだが、共産党は国民党員の抹殺を図ったはずであり、左遷は考えられない。シボ族は、その昔北魏【ほくぎ】を建国した鮮卑【せんぴ】族の子孫と考えられており、清の乾隆帝【けんりゅうてい】時代に新疆の守備のために旧満州の地から強制的に移住を命じられた。その末裔だと思われるが、自分達の歴史を素直に語れない悔しさが、学習意欲をかき立てたのか、日本語は上手だし、知識も豊富だ。ともかくも彼女は中国・パキスタンの国境まで案内してくれる。

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 午後1時30分、航空酒店餐庁で昼食。我々のグループに無くてはならないものが酒。新疆啤酒でまずは乾杯!啤酒(ピーチュー)はもちろんビールのことです。
 午後3時、ウルムチ空港から72人乗りのプロペラ機で天山山脈を横断し、コルラ(庫爾勒)へ。途中かなり揺れた。ウルムチ・コルラ間は476キロあるので、車だと8時間ほどかかるが、飛行機だとひとっ飛びで、約1時間でコルラに到着。


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 午後4時20分、空港を出てバスでクチャ(庫車)に向かう。クチャまで280キロ。窓外の景色は延々と続くゴビ砂漠。時々タマリスク(紅柳)の木が見える。バスは順調にとばしていたんだが、とばし過ぎて午後6時40分スピード違反で捕まってしまった。制限時速40キロのところを、53キロで走って、罰金は200元(3,000円)。日本と違って、その場で現金払い。そのまま公安警察官のポケットに入ってしまうのではないかと、ついつい疑ってしまう。対不起【ドイブチ】(ごめんなさい)
 このあと運転手さんが慎重になり、安全運転に徹したので、クチャに到着したのは、夕陽がようやく沈んだ午後9時40分になってしまった。えっ、夕陽が沈むのそんなに遅いのって?中国の時刻はすべて北京時間になっているけど、クチャと北京では実際には2時間の時差があるので、午後9時40分は日本時間の午後6時40分になるからですよ。

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 写真は途中の町でバスの中から写したんだけど、ウイグル族のお祖父ちゃんと孫。なんか、いいよね。今日のお泊まりは庫車飯店貴賓楼で~す。中華たらふく食って、おやすみなさ~い。(つづく)

【 2013/12/16 14:36 】

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タクラマカンの秘宝・キジル千仏洞

8月20日(日)

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 今日は鳩摩羅什の命日である。その日に、私は羅什生誕の地クチャにいる。そうなるように日程を組んだ訳ではないのに、やはり日頃の精進が生んだ結果であろうか!?ま、それは冗談であるが、感慨深いものがある。

 羅什の父・鳩摩羅炎【くまらえん】(クマーラヤーナ)は天竺【てんじく】国(インド)で代々宰相をつとめる名家の出身であった。しかし、彼は宰相の地位を辞退して出家し、葱嶺【そうれい】(パミール)を超え、亀茲国(現在のクチャ)にたどり着いた。
 彼に一目惚れしたのが亀茲国王・白純の妹の耆婆【ぎば】(ジーヴァ)であった。白純に懇願された鳩摩羅炎は還俗し、耆婆と結婚。二人の間に生まれたのが鳩摩羅什である。西暦350年のことであった。

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 午前8時40分、ホテルをバスで出発。運転手はウイグル族のアリムさん。1時間半かかって、「タクラマカンの秘宝」と言われるキジル千仏洞に到着。今にも崩れ落ちそうな崖の側面に236の窟が確認されているが、敦煌の莫高窟と比べると、仏像の類はほとんど無く、壁画もわずかしか残っていない。偶像崇拝を嫌うイスラーム教徒による破壊もその原因の一つであるが、案内してくれた葛軍【かつぐん】さん(男らしい名前ですが女性です)が、「綺麗ナ壁画ハドイツガモッテイキマシタ」と何遍も繰り返したように、ル・コックが率いたドイツ探検隊の仕業である。文化財保護の名目で、壁画を剥がしてドイツに持ち帰ったのである。学問に名を借りた泥棒じゃないか、と声を荒げたくなるが、日本の大谷探検隊もやったことなので、あまり大きな声では怒れない。

 『高僧伝』は、羅什の母が妊娠中に雀離【じゃくり】大寺(昭怙厘【しょうこり】大寺)に詣でて、我が子のつつがなき出生を祈ったと伝えている。イギリスの探検家スタインは、今日の午後に訪ねるスバシ故城を雀離大寺と考えたが、最近の研究ではキジル千仏洞がそうであるらしい。
 とするならば、幼い羅什も母に手を引かれてキジル千仏洞に参詣したはずであるし、長じてからはここで説法もしたであろう。その頃に穿【うが】たれていたのがどの窟であるか分からないが、1600年余り前に羅什がこの空間に身を置いていたことは間違いない。
 
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 (写真撮影は禁止されているので、図版から拝借しました)

 葛軍さんが一生懸命に壁画の説明をしてくれるのだが、恐らく内容は6年前と同じ。説明はそっちのけで、羅什と同じ空間に自分の身を委ねている幸せをかみしめた。

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 キジル千仏洞の見学を終えて、昼食の前に手洗いを済ませておこうと、トイレに行った。案の定、大きいほうのトイレにもドアが無く、開けっぴろげ。おまけに通路側に顔を向けて用を足すので、「こんにちわ」と挨拶が出来るから、称好(ニーハオ)トイレと言うんだって。障害者用のトイレもあったけど、同じ。まあ、確かに通路側に尻を向けていたら、後ろから襲われるかも知れないから、前を向いていたほうが安全なのだが?やっぱ、ドア付けたら。そのほうが、皆安心して用が足せると思うけどね。中国のトイレについて語り出したら、1日あっても足りないくらい。これくらいにしておこう。

 昼食はウイグル料理のラグメン。ラーメンと同じ語源らしいが、ラーメンとは似ても似つかぬ代物で、日本のうどんに羊肉と野菜を炒めたものをかけたものだ。しかし、こらが結構いける。皆さんは添乗員の奥村君(いつも通り旅行社はトラベルサライ)が日本から持ってきた麺つゆでうどんだけを食べたほうが美味しいとおっしゃるが、イタリア料理のパスタに醤油をかけて美味いと言っているのと一緒。醤油や鰹節の出汁が美味いのであって、麺との相性は決して良くない。僕は肉野菜炒めソース掛け麺ばかりを食べた。(つづく)
【 2013/12/15 06:59 】

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無茶苦茶なクチャのおじさん

8月20日(日)

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(玉を探す奥さん)

 キジル千仏洞からクチャの町へ帰る途中、塩水渓谷のビューポイントでしばし撮影タイム。天山山脈が川に浸食されて渓谷をつくり、地表に白く塩分が噴出しているため塩水渓谷と呼ばれている。断層が縦に走った奇岩が延々と続く。7000万年前にインド・プレートとユーラシア・プレートが衝突してヒマラヤ山脈ができたそうだが、大陸同士のぶつかり合いが如何に凄まじいものであるかが実感できる。いにしえのシルクロードはこの塩水渓谷沿いにあったそうで、かの玄奘三蔵もインドへの往路、ここを通っている。
 6年前も同じ場所で休憩し、添乗員の奥村君からこの川で玉が採れると聞いて、あるはずがないと思いながらも河原まで降りて探した経験がある。

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(玉を品定めをする奥さん)

 玉【たま】ではなく、玉【ぎょく】。「玉石混淆」【ぎょくせきこんこう】や「完璧【かんぺき】の玉。古来から中国人が好む石で、魔除けの効果があるとされた。硬玉である翡翠【ひすい】は宝石とされるが、軟玉である玉は貴石に分類されて、世界的には価値が低い。しかし、中国では翡翠よりも珍重され、特に羊脂玉【ようしぎょく】(羊の脂のように白く、滑らかで艶があるので、この名がある)は高価で、現在の取引相場は1キロ150万円以上で、大きい物は1億円を超えるという。今朝ホテルの売店で買った10グラム程度のペンダントの言い値が780元(11,700円)。2つ買って1万円にさせたが、とにかく高い。
 一行のうち半数の人が河原まで降りただろうか。男性陣は川の水を嘗めてみて、塩分を含んでいるか確かめている。女性陣はと見ると、案の定、目を皿のようにして、川底の玉を探していらっしゃる。女性の宝石にかける執念が如何に凄まじいものであるかが実感できる。有る訳ないじゃ~ないですか。


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 午後2時55分、クズルガハ烽火台【のろしだい】に到着。クズルガハとはウイグル語で「赤い嘴のカラス」という意味だそうだ。クズルガハ烽火台は今から2000年前の前漢時代の烽火台の跡で、高さは16mある。 当時は15キロおきに烽火台が設置されており、異民族の来襲を都に知らせた。近くにクズルガハ千仏洞があるが、6年前に行っているし、たいして見るべきものもないので省略して、クムトラ千仏洞へ。キジル千仏洞の入場料が一人70元(1,050円)なのに対し、こちらはなんと500元(7,500円)。中国農民の平均年収が3,000元というから、われわれ18名が1時間ほど見学しただけで農民3人分の年収を稼ぎ出すことになる。

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 地図を見ておわかりの通り、クムトラ千仏洞はムザルト川沿いにあり、キジル千仏洞の下流30キロの場所にある。船があれば30分ほどで着くらしいが、その船がないのでぐるっと大回りしなければならない。おまけに発電所から先へは車が入れず、ロバ車を使わなければならない。

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 ロバ車のチャーター料が400元で、4人乗りだから一人100元(1,500円)。これも高いと思うが、ロバ車のおじさん達はこの辺りで営業しているのではなく、わざわざクチャの町から3時間半もかけて来たそうだから文句は言えない。
 こんなに費用がかかるのに、クムトラ千仏洞には見るべきものがあまり無い。玄奘三蔵が説法したと伝えられる五連洞にも壁画はほとんど無く、一部の窟は遊牧民が住まいとしていたため、煤【すす】けて真っ黒になっている。

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 ロバ車に揺られること30分。笑顔で迎えてくれた管理人のおじさんに、私だけ握手を求められた。6年経っても顔を覚えてくれていたんだと、やや感激してその手をしっかり握った。感動の再会!ところがいつまで経っても、おじさん手を離さない。みんなは先に行ってしまい、私だけ取り残される格好になった。その時を待っていたかのように、おじさんがシャッターを切る仕草をした。私の前には鉄格子の入った石窟がある。壁画の写真を撮ってもいいと言うのだ。インドのアジャンター石窟寺院では写真撮影が許されていたが、中国の石窟は一切撮影禁止。これは犯罪行為だよと思いながらも、慌ててカメラを構えた。
 ところが慌てているので、どこを写していいのか分からない。迷っていると、おじさんが撮影ポイントを親切に指し示してくれる。午前中キジル千仏洞を案内してくれた葛軍さんら二人のガイドが、引き続き案内役を務めるため新疆亀茲石窟研究所から派遣されて来ている。彼女らに見つかったらえらいことになる。緊張で手が震えてなかなかシャッターが切れない。結局、撮れた写真は2枚だけ。おじさんには100元(1,500円)を要求され、高い写真になってしまった。

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 おじさんの家(官舎?)は千仏洞の中にあり、家族と共に暮らしている。適齢期の娘3人の結婚費用を稼ぐため、時々こんなアルバイトをやっているらしい。足を引きずっているので聞いたら、バイクでこけて怪我をしたという。
 「それきっと千仏洞の仏さまの罰があたったんだよ。こんなアルバイトもう止めなさいよ。それに、そのお腹。明らかにメタボリックシンドロームだよ。気をつけないと娘が結婚する前に死んじゃうよ」とお説教したのだが、日本語が通じるはずもない。ニコニコ笑いながら、自家製のトマトと胡瓜をくれた。(つづく)
【 2013/12/14 14:07 】

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スバシ故城の風と羊の脳味噌

8月20日(日)

 管理人のおじさんに貰った胡瓜をかじりながらクムトラ千仏洞を見学したあと、午後6時40分スバシ故城を訪ねた。

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 故城と呼ばれているが、クチャ川を挟んで西岸と東岸の二つに分散して建立された大寺院の跡である。中国語の標識にも、「蘇巴什仏寺遺址亦称・昭怙厘大寺・俗称・蘇巴什古城」と書かれている。前にも書いたように探検家スタインは、玄奘三蔵の記した『大唐西域記』に「荒城の北四十余里、山の入り込みに接し、一つの河を隔てて二伽藍【がらん】あり、昭怙釐【しょうこりん】と名づけ、東西相対す」とあることから、スバシ故城をジャクリ(昭怙厘・雀離)大寺と考え、標識も彼の説によっている。しかし、最近の研究では、キジル千仏洞がジャクリ大寺であるとする説が有力になって来ているそうな。

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 中国仏教史上の基本史料である『出三蔵記集』には、「王新僧伽藍という寺には九十人の僧がおり、その中に年少の沙門で字を鳩摩羅という者がある。才は大にして高明で、大乗を学んでいる」とあり、王新寺という寺院名も出て来るのだが、スバシ故城がジャクリ大寺でないとすると、この王新寺にあたるのであろうか。ジャクリ大寺か、王新寺か?王新寺か、ジャクリ大寺か?まあ、どっちでもいいか!!

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 西寺の西方には高さ20mほどの巨大な仏塔跡がある。1978年、この塔の周辺から墓が発見され、棺材の放射性炭素測定から、仏塔は3世紀には建立されていたことが明らかにされている。ということは、羅什の生きた時代にこの塔はすでに存在したことになり、ジャクリ大寺であろうが、王新寺であろうが、この空間に羅什が身を置いていたことは疑いようがない。いま僕の頬をなでている風は羅什の頬もなでたのだろうか。


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 全盛期には3000人もの僧たちが生活していたというが、今は荒れ果てた広大な敷地に、倒壊した日干し煉瓦の寺院址が点在するのみである。全国重点文物保護単位に指定されているわりには、手入れも行き届いておらず、何十年か後にはすべて崩れ落ちて沙漠に同化してしまうのではないだろうか。
 午後7時頃という遅い時間であったためか、見学者はわれわれ一行の他に一組のカップルだけ。夕陽を背にした仏塔がシルエットとなり、余計に寂しさが募る。時の流れとは何と残酷なものか。
 しかし、それがこの世の真理であり、釈尊の最後の言葉も、「もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成なさい」であった。

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 午後7時20分、スバシ故城をあとにしてバザールへ。シルクロードにいるぞ、という実感がわく。ウイグル族の子供たちも、出迎えてくれた。

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 ナンの売る店、西瓜を無造作に山積みにしてある店。羊の足をぶら下げてある肉屋。

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 そして、シルクロードと言えばシシカバブ(羊の串焼き)。兄ちゃんが手早くスパイスを振りかけて、焼き上げていく。1串に肉片6切で、2元(30円)。とにかく安くて、美味い。これでビールがあれば最高なんだが、イスラーム圏なのでアルコールはおいてない。 う~ん、残念。

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 午後8時45分、ホテルに帰って夕食。メインは子羊の丸焼き。遊牧民が客人を迎える際の最高のもてなしが子羊の丸焼き。家長が自らナイフで子羊をさばき、眼肉を客人の皿に取り分けるのが礼儀だが、ここはホテルなのでコックさんにやってもらう。これを気持ち悪いと言ってはならない。その民族の文化なのだから、郷に入っては郷に従え、喜んで食さなければならない。でも、羊が「なんで私を殺したのよ~」と言わんばかりに、恨めしい目で睨んでいるような気がして、なかなか箸がすすまない。でも、思い切って食べてみると、これが実に美味い。だって、鯛でも眼肉が一番美味いと言いますもんね。おまけに1頭につき2個しかない貴重品。僕は6年前に食べているので、今回が初体験の人達に譲った。

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 でもどうしても譲れないのが、羊の脳味噌。これが濃厚な味でなんとも言えない珍味。鱈の白子をもっと濃くした味というか、白子とチーズのハイブリッドというか、まあ食べてみないと分かんないなあ。とにかく美味いんだって。写真の手は人が食べてるのを、横から頂戴している僕の手。まあ、それくらい美味いんだって。嘘だと思う方は、今度シルクロードに行って食べてご覧。(つづく)
【 2013/12/13 15:58 】

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疏勒国(カシュガル)へ

8月21日(月)

 午前1時45分起床。とんでもない時間の起床となったのは、クチャ站【たん】(中国では駅のことを站と表記する)午前2時51分発の南疆【なんきょう】鉄道でカシュガル(喀什)に向かうためである。昨夜夕食を済ませて寝たのが、11時半頃だったろうか。3時間ほどしか寝ていないので、とにかく眠い。時間が時間なのでポーターがおらず、皆で手分けしてスーツケースを列車に押し込み、寝ぼけ眼で軟臥車【なんがしゃ】(グリーン寝台)に乗り込み、毛布を被るなり寝てしまった。

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 南疆鉄道はウルムチ・カシュガル間1558キロを結ぶ鉄道路線で、1999年に全線が開通している。往年のシルクロード天山南路に沿っており、砂漠地帯を貫く過酷な大地の中を二階建ての列車が走る。6年前はクチャからウルムチまでの夜行列車を利用したのだが、石油会社の要人が乗るという理由で、一方的に軟臥車を硬臥車(一等寝台)に変更させられた嫌な思い出がある。


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 羅什の母・耆婆は羅什が5歳の時に出家している。夫の鳩摩羅炎も兄である亀茲王・白純も猛烈に反対したが、彼女の意志を覆すことは出来なかった。僧侶であった鳩摩羅炎を還俗させてまで結婚に踏み切った彼女が、なぜ出家したのであろうか?羅什には弗沙提婆【ふさだいば】という弟がいたが、幼くして亡くなったようで、それが動機であったのかも知れない。鳩摩羅炎は再び僧侶となることも許されず、王室の庇護も失い、どこともなくその姿を消すことになったと伝えられている。

 羅什も7歳で出家しているが、母の強い願いによるものであった。そして、9歳の時に母とともに辛頭河(インダス川)を渡り、罽賓【けいひん】国(現在のカシミール)に留学している。羅什親子がどの経路をたどったか知られていないが、恐らく我々がこれからとるルートとほぼ同じであったはずだ。我々のように列車・バスを利用する旅と違い、徒歩での旅は9歳の羅什にとってはなはだ困難なものであったに相違ない。天山南路は極度の乾燥地帯をたどっている。1日10キロも歩けただろうか。クチャ・カシュガル間だけで750キロ、恐らく2カ月ほど要したと思われるが、我々はたったの9時間ほどでカシュガルに到着した。

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 カシュガルは古くは疏勒【そろく】国と呼ばれ、シルクロードの要衝として栄えた。玄奘三蔵もインドからの帰りに訪れており、かのマルコ=ポーロもやって来ている。

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 午後12時20分、色満賓館(セマン・ホテル)に到着。さっそく、ウイグルの美しい娘さん達が踊りで我々を出迎えてくれた。

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 色満ホテルとは何とも艶っぽい名前のホテルだが、元ロシア領事館として使用されていた格式のある三ツ星ホテルだ。

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 しかし、格式があるということは古いということでもある。部屋に入って、案外綺麗だなと思ったまでは良かったんだけど、用を足した後、案の定流れない。悪戦苦闘しても流れない。紙は仕方ないとして、取り敢えず何とか自分の分身を処理して、修理をお願いした。すぐに来てくれたのだが、結局流れない。
 でも、腹は立たない。腹が立つどころか、これも旅の楽しみの一つになってしまっている。毎回きちんと流れるほうが異常なのかも知れませんよ!!

 昼食中、隣に座っていたT君が突然飛び上がった。何事かと思ったら、どうも太股を虻【あぶ】に噛まれたらしい。この人は虫に好かれているらしく、インド旅行の時もベッドに潜んでいた壁蝨【だに】どもに血を吸われてボコボコにされたことがある。だんだん腫れて来て、痛みもひどくなって来たので、病院に連れて行ってもらうことになった。
 彼からあとで聞いたのだが、病院には女性のスタッフしかいなかったそうだ。彼がズボンを脱いで患部を見せようとすると、恥ずかしがって「止めてくれ」と言われたそうだ。結局ズボンを下からまくり上げるという困難な方法で患部を見て貰ったそうだが、さすがイスラーム圏である。カシュガルに住むウイグル族はイスラーム教徒で、イスラーム教徒には、父親と夫以外の男性に肌を見せてはいけないという戒律がある。「男女七歳にして席を同じくせず」の世界にあって、男のパンツ姿を見るなんて、とんでもないことなのである。(つづく)
【 2013/12/12 14:45 】

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悲しき香妃伝説

8月21日(月)

 罽賓【けいひん】国(現在のカシミール)で3年間小乗仏教を学んだ羅什は、亀茲への帰途立ち寄った疏勒【そろく】国で須利耶蘇摩【すりやそま】と出会い、大乗仏教を学んだ。羅什は、「私が昔、小乗を学んだのは、黄金を知らない人が鍮石【ちゅうせき】(真鍮のこと)をもって最高と思い込んでいたようなものだ」と嘆じ、大乗仏教に目覚めた。
 須利耶蘇摩は左手に法華経を持ち、右手で少年羅什の頭を3回撫でながら、こう言ったという。
  『仏日西に入って遺耀【いよう】まさに東に及ばんとす。この経典東北に縁あり。汝慎んで伝弘せよ』 
 日本が中国の東北にあたることから、日蓮聖人は「この経典東北に縁あり」との記文に感涙されたのであるが、僅か13歳の少年が中国への法華経伝道を委嘱されたのである。その疏勒国こそ、このカシュガルなのだ。しかし、現在は法華経どころか仏教遺跡も殆どなく、イスラーム教一色の世界である。

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 午後3時、市内観光に出発。案内役はウイグル族のアブ◯◯◯◯◯さん。自己紹介されたんだけど、聞き逃してしまった。まあ、アブさんでいいか。

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 アブさんが最初に連れて行ってくれたのが、アパク・ホージャ墓(別名は香妃墓)。17世紀からカシュガルを支配していたホージャ一族の墓で、5代72人が葬られているそうだ。緑色のタイルが美しい。

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 礼拝堂では、熱心なイスラーム教徒がお祈りを捧げている。うちの寺のお檀家さんにも見習って欲しいもんだ。あっ、別に寺に金持って来いという意味じゃなくて、いつも生活の中に祈りの時間を持って欲しいという意味ですよ。

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 左の写真はミナレット。1日5回の礼拝を呼びかけるためのものだが、アブさんの説明によると、ミナレット頂上の丸は下から順にユダヤ教・キリスト教で一番上の三日月がイスラーム教を意味するそうだ。イスラーム教はユダヤ教・キリスト教をムハンマドがアラビア半島版にアレンジしたもので、モーセやイエスを預言者であると認めた上で、自分が最大で最後の預言者であると、おっしゃったから、この順番となった。ちなみに三日月はオスマン帝国のシンボルで、イスラーム教のシンボルでもある。右の写真はモスクに不可欠なメッカの方角を指すミフラーブと呼ばれるくぼみと、ミンバルという説教壇。

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 これ何だか、分かります?ベッドにしたら、持ち手が付いてるし、屋根があるのは変ですよね。そう、正解。遺体を運ぶための道具、日本で言えば霊柩車。なんで、こんなものがここにあるかというと、昔の日本のようにお葬式はモスクでやるんでしょうね。そのあと、お墓に遺体を運ぶ時に使うんかな。まあ、僕の想像ですけど。

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 アパク・ホージャ墓のお隣には市民用の墓地があって、長方形は一人用で15,000円、丸いのは家族用で20,000円だって。でも、イスラーム教では火葬は禁止。キリスト教と同じで「最後の審判」があり、亡くなった人もすべて復活して裁かれるため、遺体が絶対に必要。遺体がないと、魂がよみがえろうにも「私の遺体はいったいどこ?」ということになる。そうすると2人埋葬するには2倍の敷地が必要、3人埋葬するには3倍の敷地が必要で、家族用20,000円って変だと思うけど、アブさんの説明はそうでした。

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 この美しい女性は受付にいたお姉さん。ウイグル族の伝統である矢絣模様の服がよくお似合いですが、よ~く顔をご覧下さい。気がつきました。そう、眉毛がつながってます。自然に毛がはえてつながっているんじゃなくて、書いているんだそうです。初め見たときはギョッとしますけど、これがウイグル族にとっては美しく見えるんでしょうね。

 美しいと言えば、このアパク・ホージャ墓に葬られている香妃【こうき】も絶世の美女だったらしい。本名はバエルカンで、宮中での呼び名は容妃。体から麝香【じゃこう】の香りがすることから香妃と呼ばれていたそうな。政略結婚で清朝の乾隆【けんりゅう】帝に嫁がされ、29歳の若さで北京で没したと伝えられる香妃は、最後までウイグル族としての誇りを持ち続け、乾隆帝を拒んだために死を賜わったともいわれている悲劇の女性である。亡くなった後、特製の輿にのせられ、124人の人々に担ぎつがれ3年半かかってカシュガルに戻って来たと言い伝えられている。
 でも、これはあくまでも伝説。歴史上の容妃は、乾隆15年(1750年)宮中に入り、乾隆53年(1788年)に55歳で亡くなっており、 遺体は清の東陵の裕陵妃園に葬られている。

 
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 虻に噛まれて病院に行っていたT君が、ウイグル美人2人に囲まれている。有料で一緒にカメラにおさまってくれるそうだ。そう言えば、首里城にもそんな沖縄娘がいたなあ。僕はお金を払わずに、ちゃっかり便乗させてもらった。謝謝。(つづく)

【 2013/12/11 17:43 】

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バザールでござ~る、とウイグル大舞踏会

8月21日(月)

 午後5時、バザールと職人街へ。カシュガルから東は天山南路を経て西安へ、西はソグディアナを経てイラン、イラクへ、南はインドへ、北はキルギス、カザフスタンへと、まさにここは東西貿易の十字路だった。バザールには多くの人があふれ、活気がみなぎる。説明は要らない。しばし、写真を堪能していただこう。

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扁平いちじくと名前の分からないフルーツ


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ナッツ屋さん

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独楽(こま)屋さんとハミ瓜屋さん


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鍋屋さん


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包丁屋さん

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ナン屋さん

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これもハミ瓜

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歯医者さんなんだけど、中国で歯は牙なんだね。

 1時間あまりバザールをうろうろしていたんだけど、僕が買ったのは子供のお土産にウイグルのナイフ1本20元(300円)と、タンバリン型の太鼓200元(3,000円)。買ってきたのは良かったけど、音を出すのが難しくて、結局座敷の違い棚の飾り物になっている。

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 そして、もう一つ。写真の漢民族のお姉ちゃんから買ったのが竹簡。
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後漢の蔡倫による製紙法改良の授業で竹簡の話をするんだけど、いまいち生徒に竹簡をイメージしてもらえない。ならば自分で作ろうとも思ったんだけど、面倒くさい。たまたま店先に見つけたんで聞いてみたら、この姉ちゃん日本円で56,000円だとおっしゃる。何、56,000円!!骨董品じゃあるまいし、冗談言うなよと言ったら、諸葛孔明の「出師【すいし】の表」だから高いんだと。どうせ機械で彫ったんだろうし、中身が何であっても関係ないだろう。すったもんだした挙げ句、結局10,000円で買った。83%も値引きさせると、本当に気持ちいいね。でも、本当は5,000円の品物だったりしてね。でも、そんなことは構わない。とにかく交渉に成功したという達成感。これが病みつきになってしまう。海外旅行の楽しみの半分は買い物になってしまっている。

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 午後6時30分、エイティガール・モスクへ。エイティガール・モスクはは新疆ウイグル族自治区最大、いや中国最大のモスク。明代の1442年頃に建てられ始め、その後何度か改修されて現在の姿になったそうだ。とにかく、でかい。8,000人収容できるそうだが、8,000人が一斉に礼拝する姿は壮観だろうね。
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 ここでも、熱心なお祖父ちゃんが静かに祈っている。

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 一端ホテルに戻って、午後8時30分、夕食会場へ。食事の前にウイグル族の踊りを堪能。でも、なんでウイグル族の女の子って可愛い子が多いんだろうね。やっぱ、東西を行き来する多くの民族の血が混じったからだろうか。

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 可愛い子と一緒に踊りた~い。6年前にクチャでウイグルの踊りを鑑賞した時にも踊りの輪に入るようお誘いがあったんだけど、理性と引っ込み思案な性格が邪魔をしてとうとう舞台に上がれなかった。そんなことでは駄目だ、という心の奥底からの叱責が聞こえる。「え~い、旅の恥はかき捨てだ!」と、思い切って舞台に上がった。あいつが舞台に上がったのならと、グループのみんなが舞台に上がり大舞踏会となった。

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 踊り終えて、ウイグル美女に囲まれて記念撮影。鼻の下が伸びてま~すね。こらっ、後ろの二人、ちゃんと前向け。夕食は茸づくしの火鍋。いや~、これが辛くて、辛くて、美味~い。腹一杯いただきました。
 たらふく酒も飲んだはずなのに、ウイスキー、焼酎、つまみを持ち寄ってテラスで大宴会。おい、もう午後の11時だぞ。いつまで飲むんじゃい。あ~あ、日付が変わっちゃったじゃないの。

 日中部屋を留守にしている間にトイレを治しておくよう頼んでおいたのだが、やはりちゃんと流れない。こんな部屋にあたったのが、ウンの付きだ!(つづく)
 
【 2013/12/10 16:24 】

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国境の町タシクルガン(塔什庫爾干)へ

 8月22日(火)

 今日は国境の町タシクルガン(塔什庫爾干)に向かう。今回の旅行で迎える最初の難所である。(まあ、すでに6時間遅れという苦難は味わっているのだが。
 カシュガルの町の標高は1,200メートル。これから4,100メートルの峠を越え、標高3,200メートルのタシクルガンの町まで、「世界の屋根」と呼ばれるパミール高原をひた走ることになる。
 日本では経験できない高度の世界に入っていくので、高山病の危険性があるのだ。高山病は頭痛・吐き気・眩暈【めまい】など二日酔いの症状とよく似ているが、死に至ることもある怖い病気だ。3年前にチベットを旅した時に軽い症状を経験したが、今回も軽くすむかどうかは分からない。酸素不足が原因だから、深酒は禁物。毎晩へべれけになるまで飲んでしまう我々一行も、タシクルガンの町では自重しなければならない。
 というわけで、昨晩はウイグル美人と踊ったあと、ホテルのテラスで盛大な二次会を行った。「明日の晩は飲めないから」という理由で鯨飲し、高山地帯に入る前から、もう高山病状態になっている。

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 午前9時50分、ホテルを出発。バスでタシクルガンへ向かう。カシュガルからパキスタンのスストまで案内してくれる現地ガイドさんはアブドライムさん。映画俳優にしてもいいような、苦み走ったいい男である。あれっ、昨日1日カシュガルを案内してくれたのはアブ◯◯◯◯◯さん。お二人を区別するために、昨日のアブさんをアブさんA、アブドライムさんをアブさんBと呼ぶことにした。もちろんアブさんBもウイグル族である。
 イスラーム教徒にはアブドッラー、アブドルアジーズ、アブドルラハマーンなど、アブドのつく名前が多く、アブさんだらけになってしまうのだが、アブドは「奴隷」のこと。アブドッラーは「神の奴隷」という意味の凄い名前なのだ。そう言えば、往年のプロレスラーでいつもおでこから血を流していた、アブドッラー・ザ・ブッチャーというのがいましたよね。

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 1時間ほど走り、ウイグル族最後のバザールであるウーパール村で休憩。沿道には西瓜・ハミ瓜・リンゴなどを並べた果物屋や、血の滴る羊の太股を何本もぶら下げている肉屋などが軒を連ね、結構な賑わいである。ちなみにラグビーボール大のハミ瓜が1個22.5元(340円くらい)とお安い。

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 ウイグル族の主食はナンというパンなのだが、これを焼くところも見学させてもらった。インドのナンは日本のスーパーでも売っているのでご存じの方も多いと思うが、こちらのナンはインドのナンと違い、丸くて食感もガチっとした歯ごたえがある。ゴマ風味でなかなか美味しいものだ。大きい物は直径30センチほどもあり、とても一人で食べられるものではない。ところが、中国人ガイドの趙戈莉さんが、これをいくつも買い込んでいるのである。今日の昼飯?そんなはずはない。じゃ、誰が食べるんだろう?タシクルガンのホテルへの手土産かな。と、いろんな事を考えたのだが、まさかこのナンが後に我々を救うことになるとは、この時誰一人知るよしもなかったのである。 
 
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 バスはガイズ川に沿って走り、やがて崑崙【こんろん】山脈の山並みに入り、しだいに高度を上げていく。午前11時55分、維他克(漢字とウイグル文字しか書いてないから何て読むのか分からない)で休憩。対岸にオイタグ山が見える。鉄分を多く含んでいるので、真っ赤っか。トルファンの火焔山【かえんざん】も真っ青だ。

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 しばらく進むと、川の対岸にキャラバンサライ(隊商宿)の跡が見える。2000年前に造られたものだというから、羅什や玄奘が泊まった可能性もある。

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 ホテルを出て4時間、午後1時30分に標高3,100メートルにあるブロン湖に到着。「黒い湖」という意味だそうだが、対岸にある雪山のように見える砂山が湖に映えて美しい。当然、撮影タイムとなったが、景色のいい所には必ず土産物屋がいる。
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 この辺りに住むのはキルギス族。ウイグル族と同じトルコ系の人々だ。冷やかしの積もりで見て歩いたが、結局フェルトで作ったキルギス族の帽子を1,000円で買うことになった。早速かぶってバスに戻ったら、「なんでそんな物買うの?」という冷たい視線。世界史の授業でかぶって見せると、生徒が喜ぶんですよ~だ。


【 2013/12/08 14:18 】

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カラクリ湖でおしっこ

8月22日(火)

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 今回の旅の主目的は仏教東漸の道をたどりながら、羅什・玄奘・法顕ら先人達の苦労を偲ぶことや、ガンダーラ仏を鑑賞することなのだが、日本では絶対に見ることの出来ない7,000メートル級の山々の姿を鑑賞することも楽しみの一つであった。ところが、ブロン湖を出発した頃からしだいに雲が厚くなり、1時間程バスを走らせてカラクリ湖に到着した頃には雨が降り始め、羊飼いも慌てて羊の大群を追い立てている。

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 天気が良ければ、エメラルド色の湖の向こうに、万年雪をいただくコングル峰(7,719メートル)やムスターグ・アタ峰(7,546メートル)の雄姿を見ることが出来るはずなのだが、雨に煙って何も見えない。おまけに寒い。
 バスを降りてすぐオシッコに走った。レストランにトイレはあるのだが、入らなくてもどんな状態か想像出来る。中国のトイレ事情について語り出すと、あっと言う間に紙面を埋め尽くしてしまうので割愛するが、出そうになっていたオシッコやウンチが引っ込んでしまうほど壮絶なトイレが多いのだ。(あとから女性陣に聞いたら、案の定「二度と入りたくない」とおっしゃっていた。)
 中国では青空トイレが一番。とは言っても、観光客がちらほらといるので、場所を選ぶ必要がある。人影のない所を探してうろうろと歩き、ゲルの陰に隠れて用を足しているうちに本格的に雨が降って来た。傘を持っていないのでレストランまで走ったら、動悸息切れがする。心臓が悪くなったわけではない。なにしろ、ここは標高3,600メートル。富士山の頂上と変わらない高さなのだ。
 昨年のインド旅行でご一緒したTさんが我々を「呑ん兵衛グループ」と評されたように、我々は昼食時でもビールを欠かしたことがない。しかし、寒くてビールを飲む気にならない。あんまり美味しくない中華料理をお茶で掻き込んで、レストランをあとにした。

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 午後5時30分、ようやくタシクルガンのパミール・ホテル(帕米爾賓館)に到着した。部屋に入って、早速トイレをチェック。トイレは無事流れたのだが、ドアの立て付けが悪く閉まらない。放って置くと、自然にドアが開いてしまう。これじゃ用を足す時にかなり無理な姿勢でドアを引っ張っていなければならない。おまけに前についていたドアノブの穴がしっかり開いたままで、誰も覗かないとはいえ、中が丸見えだ。でも、この方が秘境を旅しているという実感がわく。

 石頭城【せきとうじょう】まで散歩に行こうとしたが雨が降り続いている。夕食まで時間があるので、ホテルの売店でタレントの千秋によく似た店員さんをからかって時間をつぶした。玉の龍の置物を買おうとしたんだけど、どうしても値引きしないのでキャンセル。しかし、彼女なかなか日本語が上手だ。こんな辺境で日本語を話す中国人がいるとは思わなかったが、それだけ日本人がたくさんやって来ているということだ。

 午後8時より夕食。我々は高山病を恐れて酒も飲まずに静かにお食事。韓国の学生さん達がビールやら白酒【パイチュウ】で飲めや歌えやの大騒ぎ。高山病、大丈夫?

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 午後9時に夕食を終えたが、外はまだ明るい。タシクルガンは中国で一番西にある町。西に40キロも行けば、隣の国タジキスタンである。北京時間では9時だが、日本との実際の時差は4時間もあり、まだ夕暮れ時なのだ。雨もあがったようだし、散歩に出ることにした。

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 民家の軒先に可愛い僕がいたので写真を撮ろうとしたら、お母さん(お祖母ちゃん?)が出て来た。タシクルガンの住人は、隣国タジキスタンと同じタジク族。中国に住む55の少数民族のうち唯一のインド・ヨーロッパ語系の民族で、イラン系である。イランと同じイスラーム教シーア派を信仰していると聞いていたので、てっきり写真撮影を断られると思ったら逆。「私モ一緒ニ撮シテ」と言っているようなのだ。
 「えっ、イスラーム教徒の女性は旦那以外の男に顔見せちゃいけないんじゃないの?」と言ったが、しっかりポーズをとり待っている。
 じゃ、撮しますよ。ハ、ポーズ!

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 さあ、明日はいよいよクンジュラブ峠だ。



【 2013/12/07 06:46 】

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