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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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天空の都チベットへ!


 平成15年8月3日(日)~10日(日)、チベットを旅しました。もう一度行きたいとは思うのですが、日中関係が険悪化し、チベット情勢も不安定な現在では、足を向けにくい土地となってしまいました。
 妙応寺で発行している季刊紙『僧伽(サンガ)』に平成15年10月~17年1月に発表した紀行文を加筆修正したものです。10年以上も前の旅で、還暦を過ぎた頭では、思い出そうとしても思い出せないことがいっぱい。おまけに、ブログを書く予定もなかったので写真も限られていて、臨場感に欠けると思いますが、チベットの旅の入門編ということで、お読みいただければ幸いです。 合掌

 

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 河口慧海【かわぐちえかい】という人物をご存じだろうか?明治33年、大蔵経を求めて単身チベット(西蔵)に密入国した、近代日本の三蔵法師とも呼ばれる黄檗宗【おうばくしゅう】のお坊さんである。 確か中学校の国語の教科書だったと思うのだが、彼の冒険譚【ぼうけんたん】が載っていて、すごい坊さんがいるもんだと感心すると同時に、ヒマラヤの麓にあるという秘境チベットに漠然とした憧れを抱いた記憶がある。高校で世界史を教えるようになって、チベットへの思いはさらに募っていったのだが、そう簡単に行ける国ではなかった。

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 チベットは7世紀にソンツェンガンポが吐蕃【とばん】王国を建国したのが始まり。唐と友好関係を持ち、唐文化を導入して発展。楊貴妃が原因となった安史の乱以降は、唐を軍事的に圧倒するだけの力を持つ強国となった。9世紀に吐蕃が滅亡したあとは地方政権が割拠したり、モンゴルに征服されるなどしたが、17世紀にダライ=ラマ政権が誕生し、首都ラサは繁栄を取り戻す。しかし、18世紀に清の雍正帝に屈服してしまう。その清が辛亥革命で滅亡した翌年の1912年にチベットは独立を宣言。ダライ=ラマ13世が国旗として制定したのが写真の「雪山獅子旗」だ。チベット民族は亡命している人々も含めると1,000万人以上いる。要するに、チベットはれっきとした独立国だということだ。

 しかし、「もともと中国だった」という強引な理屈のもとに、第2次世界大戦終了後の1950年、人民解放軍に進駐・制圧され、チベット自治区として中国の一部にさせられてしまった。その後、独立を求める暴動が頻発し、1989年には戒厳令がしかれるなど、政情は混乱をきわめ、中国政府は外国人観光客の受け入れを堅く拒んできた。別の意味で秘境の国になってしまったのである。しかし、鄧小平【とうしょうへい】により改革・開放政策が進められる中、チベットはしだいに禁断のベールを脱ぎ始めた。
 
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 昨年、アジアに魅せられた海外旅行病の仲間の意見が一致し、チベット行きが決定。弾む心で3月から準備を進めたのだが、そこに降って湧いたのが、新型肺炎SARS騒ぎであった(SARSは中国では非典と書きます)。鰻登りで増える中国の患者数、どんどん拡大する感染地域。経由地の上海・成都は渡航禁止になってはいないのだが、「こんな時期に、諦めたら」という、声なき声。「え~い、こうなったらネパール経由でチベットに行くぞ」とまで覚悟を決めたのだが、SARSの流行を未然に防止するとの理由から、中国政府がチベットへの入域を禁止してしまったのである。トホホホホホ。どこまで遠い国なんだ。

 半分は諦めかけたのだが、仏(チベットの仏さんかも!)は僕を見放さなかった。猛威を振るった流石のSARSも暑さに弱かったのである。7月に入ると急速に患者数は減り、チベットもようやく門戸を開いてくれた。(つづく)

 
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【 2014/01/25 18:35 】

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くそっ、中国東方航空!!


8月3日(日)


 かくして、8月3日、名古屋から上海に向かう機上の人となったのであるが、問題がないわけではなかった。SARSの影響で激減した日本人観光客の客足が、夏休みになっても戻らないため、中国東方航空が便数を減らしてしまったのである。そのため、最初から予定の2時間遅れでの出発となり、一抹の不安を抱きながら、午後3時30分、中国東方航空292便(MU292便)で上海へと向かった。

 午後4時40分、浦東空港に到着。3年ぶりの上海である。とは言っても、3年前は乗り換えのためだけで、空港からは一歩も出ていない。今回も乗り換えなのだが、到着した浦東空港は国際線専用、虹橋空港で国内線に乗り換えなければならない。

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開業後のリニア・モーターカー

 バスの車窓から躍進する上海の鼓動が聞こえてくる。林立する摩天楼、整備された高速道路。そして、高速道路に並行して走るリニア・モーターカー(開業は9月15日だそうで、見えるのはレール?だけ)。89億元(当時のレートで1,335億円)の巨費と中国の威信をかけて造った世界初のリニア・モーターカーである。最高速度450キロで空港と市内を7分(バスだと約1時間)で結び、運賃は片道300元(4,500円)。上海での平均月収が1,500元というから、滅茶苦茶高い乗り物だ。一体どなたが乗るのだろうか?

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 夜になると、高速道路はまるでクリスマスのように赤や青のネオンで飾られ、夢の世界を見ているようだ。上海は2010年の万国博覧会開催に名乗りをあげている。そのためのデモンストレーションなのだろうが、外部の者の目で見ると、他にやらなければならないことが山積しているように思うのだが、要らぬお節介でしょうか胡錦涛【こきんとう】(当時の国家主席)さん。

上海 晩飯  

 まあ、何はともあれ、腹ごしらえということで、午後6時30分、夕食。ありきたりの無国籍中華料理で。美味くもない、不味くもないという顔で箸を運んでいると、トラベルサライの添乗員・奥村君が「面白いものがありますよ」と声をかけてくる。3年前のシルクロードの旅で羊の眼肉・蛇・サソリなどを食して以来、彼は僕のことをゲテモノ喰いだと思い込んでいる。言い訳に聞こえるかも知れないが、その民族の食事文化に触れることが、その民族を知る最良の方策だと考えているだけで、ゲテモノを選んで食べようとしている訳ではない。しかし、彼の挑発に乗って、はしゃぎながらゲテモノを口に運ぶ僕に皆がカメラを向けることで、ただの食事がイベントと化す。これがツアー旅行を楽しくするコツなのだ。

鹿酒 

 で、彼が勧めたのが鮮鹿茸血酒。鹿の茸【きのこ】とは中国らしい表現だが、要するに切り取ったばかりで血の滴る鹿の角を白酒【パイチュウ】につけただけのものである。鹿茸【ろくじょう】は中国東北地方に生息する若い雄の満州鹿から取るそうで、人参や豹の皮とともに東北三宝の一つだそうだ。美味くもなんともないが、滋養強壮に効果のある貴重な漢方薬で、長寿不死の神薬とも言われるそうだ。過酷なチベットの旅を乗り切るために、乾杯! 

 腹も満たされ、鹿茸酒で元気も出た一行は、フライト1時間半前の午後7時45分、虹橋空港に到着。ところが、手続きを済ませ搭乗を待つ我々に成都便延着の知らせが……。出発前の不安は現実のものとなった。遅延の理由は何ら説明がなく、お詫びに菓子と飲み物が配られただけ。中国の航空会社にはお客さんに乗ってもらっているという意識はなく、乗せてやっているという気持ちしかないのか!ちゃんと説明しろ、(まあ、中国語で説明されても分からないのではあるが。)と叫んだところで飛行機が飛ぶわけでもなく、ただ黙って待つしかない。

 結局、2時間遅れの午後11時20分に上海を出発。成都空港に降り立ったのは、日付が変わった午前1時40分、ホテルのベッドに潜り込んだのが午前3時半(日本時間午前4時30分)。過酷な一日であったが、これはまだほんの序章に過ぎなかったのである。(つづく)




【 2014/01/24 16:16 】

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大足で大汗

8月4日(月)

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 成都は三国志の時代の蜀【しょく】の都、劉備玄徳【りゅうびげんとく】や諸葛孔明【しょかつこうめい】の活躍した舞台である。 「蜀の桟道【さんどう】」という言葉などから山間の小都市というイメージを持っていたが、現在は都市部だけで人口250万人を超える超大都会である。昨夜というか今朝、降り立った空港にしても、3年前に訪れた敦煌空港程度かと思っていたがとんでもない。小松空港など足下にも及ばない大空港であった。

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 我々が泊まっているのは成都総府皇冠假日酒店。漢字で書くとどこのホテルかさっぱり分からないが、ホリデイイン・クラウンプラザ・ホテル。

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 空港から30分ほどのビジネス街にある33階建ての5ツ星ホテルだ。1996年の開業だから、部屋も新しくて綺麗だ。午前7時30分、4時間ほどの睡眠でたたき起こされて、4年前の1999年に世界遺産に登録された「大足石刻【だいそくせっこく】」に向かった。成都には武侯祀がある。三国時代の授業で羽毛扇を手に話をするくらい敬愛してやまない孔明先生を祀った廟だ。本来ならそっちのほうに行きたいのだが、団体旅行なので我が儘は言えない。大足石刻は40カ所余りに分布する石刻群の総称であるが、時間の関係もあり宝頂山石刻のみを参観することにした。

ガイド

 午前8時30分、ホテルを出発。大足は重慶市の郊外にあり、成都から片道350キロ。案内役を務めてくれたのは現地添乗員の胥璽【しょじ】君。偉くなりたいとの思いから、学生時代に親が付けてくれた名前を捨てて、自ら璽(皇帝の印章のこと)と名乗ったという変わり種だが、日本語は堪能である。

 バスに乗ってすぐ、同級生の役人が豊かな生活をしているだの、役人の給料が上がった分だけ税金が上がったという愚痴を聞かされる。その上、ガイド証明書を携帯していないと罰金が1万元だが、役人に袖の下を渡すと2,000元になるという裏話まで飛び出す始末。よっぽど役人が嫌いなようである。後日、彼の思いが爆発することになるのであるが、この時は誰も知るよしもない。

大足の娘 

 もちろん高速道路を使ったのだが、観光バスは時速90キロに制限されているため、4時間半もかかって午後2時に大足に到着。大足賓館で遅い昼食をとったんだけど、レストランの受付の女の子がピョオリャン(綺麗な子)だったので、無理を言って記念撮影。(こらっ、鼻の下伸ばしてんじゃないの!!)
 
 その後、宝頂山に向かったのだが、これが大変な悪路。もともと道路が良くないところへもってきて、観光客の増加に対応するため道路工事が行われているので、あちこち穴だらけ。バスは右に左に、前に後ろに、大きく傾き、むち打ち症になりそうだ。30分をかけて漸く宝頂山に辿り着いた。



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 宝頂山石刻は南宋の1179年から1249年までの70年間にわたり、名僧趙智鳳の指揮によって計画的に造営されたため、他の中国の石窟と違って同じものはなく、ひとつの流れになっているそうだ。参道は500メートル余りあり、磨崖像は1万体にも及ぶそうだ。

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 全長31メートルの釈迦涅槃像や千手観音像は確かに圧巻ではあるが、敦煌の莫高窟に比べると芸術性では見劣りする。その上、西域の香りのする莫高窟と違い、純粋に中国的なのだ。四川は道教の中心地であったこともあり、多分にその影響を受けているようで、何となく違和感がある。特に顎髭【あごひげ】を伸ばしたお釈迦さまの像には、思わず吹き出しそうになってしまった。

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 昨年訪れたインドのアジャンタ石窟と同じように湾曲する渓谷に沿って彫られているのだが、規模的には小さく、そこに彩色された仏像が溢れんばかりに並べられており、息苦しさを感じる。

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 その上、気温は37℃。湿度は測りようがないが、推定99%。とにかく暑い。拭いても拭いても汗が噴き出す。まるで、サウナにでも入っているようだ。約1時間の参観であったが、どっぷり疲れてしまった。往復10時間もかけて見る価値があったかどうか疑問が残った。

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 大足石刻の参観が予想以上に時間がかかったので、ホテルに帰らず直接、陳麻婆豆腐店へ。午後9時という遅い夕食になってしまった。

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 麻婆豆腐は料理の鉄人として知られる陳建一の父・陳建民氏が日本に紹介した成都の名物料理。これを食べずして、四川料理を語ることなかれ、という代物である。唐辛子と山椒をふんだんに使っており、辛い上に舌が痺れ、汗が噴き出す。大足での大汗には閉口したが、美味い料理でかく汗は気持ちがいい。

 そこへ、添乗員の奥村君がにこにこ顔で出してきたのが、どぶの臭いがするという臭豆腐。鼻を近づけて一瞬ためらったが、ここで逃げては男が廃る。息を止めて、口に放り込み、紹興酒で一気に流し込んだ。あ~臭っ。

 さあ、明日はいよいよチベットだ。(つづく)



【 2014/01/23 17:35 】

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拉薩(ラサ)、標高3,650メートル!

8月5日(火)

 午前5時起床、6時にホテルを出て空港へ。毎日寝不足で、ふ~らふら。午前7時30分、いよいよチベット自治区の首都・拉薩【ラサ】に向けて出発。成都・拉薩便は午前7時20分を始発に、10分おきに4便もある。豊かになった中国人の国内観光ブームがおきているからだ。

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 えらく朝の早い便だと思われるだろうが、日中になって気温が上がると、空気が薄くなって揚力が下がり、飛行機が飛べなくなるそうだ。それもそのはず、ラサの標高は3,650メートル。富士山とほぼ同じ高さに位置するのだ。

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機上から望むミニヤ・コンカ峰

 飛行機は飛び立って20分もしないうちに大雪山脈にさしかかる。1934年、国民党に追われた中国共産党の紅軍は、中国南部の瑞金【ずいきん】から西北部の延安【えんあん】に拠点を遷した。長征【ちょうせい】と呼ばれるが、距離にして1,250キロ、地球の一周の約3分の1にあたる。その間に、紅軍は24の川を渡り、18の山脈を越えた。その一つが、7,556メートルのミニヤ・コンカ峰を最高峰として4,000メートル級の山々が連なる大雪山脈である。彼らは高山病や寒さ・飢えに苦しみ、時には自分の排泄物までをも食料として、この山脈を越えた行ったのだ。『中国の赤い星』を書いたエドガー・スノーは、2年以上におよんだ逃避行を「長征に比べれば、ハンニバルのアルプス越えは、休日のピクニックに過ぎない」と表現した。苦難の末に延安に到達した紅軍は、やがて国民党を破り、1949年に中華人民共和国を樹立する。その共産党が、今や帝政時代の官僚と何ら変わりない振る舞いをしているのは、歴史の皮肉である。

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 雲海から顔を覗かせる峰々を身ながら、そんなことを考えているうちに、1時間半余りでクンガ空港に到着した。夢にまで見たラサである。タラップを降りて、チベットの大地を踏みしめた。頬にあたる風が心地よい。

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 添乗員の奥村君は、とにかくゆっくり行動するようにと注意を促す。空気中の酸素濃度が地上の80%しかないのだ。確かに心臓の鼓動が少し速くなったような気はする。

王さん 

 空港で出迎えてくれた現地ガイドの李玉峰さん(なかなかのチベット美人だと思ったら、重慶の人だった)の案内で、バスでラサ市内へと向かった。バスはヤルツァンポ川の支流キチュ川沿いに走る。ヤルツァンポ川はチベット人にとって母なる川。遠くカイラスに源を発し、チベット高原を東に流れ、やがてプラマプトラ川と名前を変えて南流し、バングラデシュでガンジス川と合流する大河である。

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 川岸や、家々の屋上や岩山と、いたる所で五色の旗が風にはためいている。魔除けと祈りのためにかけられた、経文を記したタルチョと呼ばれる旗だ。タルチョが一度風になびけば一度読経したことになるのだという。五色は赤・白・青・黄・緑で、赤が火、白が雲、青が天空、黄が大地、緑が川を意味しているそうだ。

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 ラサへの途中、ネタンの磨崖大仏に立ち寄った。 岩に白い紙くずのようなものが貼りついているが、チベット文化独特のカタと呼ばれるスカーフである。 ファッション的な使い方ではなく、相手へ渡す事で心からの敬意を現すの為のもので、仏さんにもお供えする。

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 釈迦牟尼仏の高さは10メートル弱。日本の仏さんと違い極彩色に彩られており、なんとなくユーモラスなお顔だ。白いのはお香を焚くための献香炉。

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 ここの岩山にもタルチョがはためいている。

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 たぶん、真ん中が不動明王。左手は3面8臂だから、日本だと馬頭観音ということになるんだけど、馬の顔が見えない。右手はターラ菩薩かな?分かりませ~ん。

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 抜けるような青空に、ぽっかり浮かぶ白い雲。雲の影を映す岩山と、その懐に点在する緑の農地。チベットらしい車窓の風景に食い入るように見入っているのだが、いつしか睡魔が襲ってくる。ここ数日の疲れと酸欠状態のため、いやが上にも眠気をもよおすのだ。そこに「寝てはダメですよ」の声が飛ぶ。起きている間は身体が順応して高地での呼吸をするが、眠ることで地上での呼吸に戻ってしまい、血中酸素が不足して高山病を引き起こすのだそうだ。高山病にかかると、頭痛・倦怠感・食欲不振。吐き気といった症状が現れ、ひどい時には死に至る。昨日から予防のために「高原安」という、そのものズバリという名前の薬を飲んではいるが、やはり心配である。心配ではあるが眠い。雪山で遭難したパーティのように、お互いに「眠っちゃいかん」と励まし合いながら、1時間40分もかかってバスは漸くホテルに着いた。(つづく)

【 2014/01/22 14:45 】

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チベットの葬送と露店のおっさん

8月5日(火)

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 午前11時40、拉薩飯店に到着。拉薩飯店はラサでもっとも高級なホテルだそうだ。いったん部屋に入って休憩をとった後、まずは腹ごしらえということで、ホテル近くのレストランで昼食。窓の外に子供がやって来て、手を出している。

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 奥村君が気を利かして、特別料理が登場する。魚の中華あんかけだ。魚が特別料理?と思われる方もあろうが、実はチベット人は魚を食わないのだ。なぜかって?まあまあ、慌てず僕の話をお聞き。

 ご存じの方もおいでだと思うが、チベットでは鳥葬が行われている。昨年訪れたインドのムンバイでもゾロアスター教徒が鳥葬を行っている。仏教が入る前のチベットで盛んであった民族宗教のボン教が、どうもゾロアスター教の影響を受けているらしい。それと、仏教なら当然火葬になるのだが、チベットは高地のため木が育たず、木材が貴重であることも影響している。

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 チベットの人々は、死んだあとの肉体をほかの生き物に与えることは、この世での最後の施しと考えている。鳥葬は郊外の山上で行われるのだが、ただ遺体を山上に置いて来るだけではない。専門の仕事師がいて、鳥が食べやすいように、爺ちゃん・婆ちゃんの遺体を刃物で切り刻み、骨まで砕いて団子状にし、ハゲタカなどの鳥に喰わせるのである。遺体に群がっている鳥の写真はネットからの借り物。遺体を切り刻んでいる写真もあったが、流石に掲載するのをためらった。(見たい方は、チベット・鳥葬・画像で検索してみてください。)文化の違いとは言え、余り気持ちのいい方法ではない。

 普通の人々はこの鳥葬で葬られるのだが、実はそうでない人もいる。たくさんの徳を積んだ偉い坊さんは、もう施しをする必要がないので、火葬とする。特に偉いダライ・ラマのような高僧は、ミイラにして廟塔【びょうとう】(後日、拝ませてもらうことになる)に納める。僕が死んだら、当然火葬にしてもらえると思うんだけど。えっ、お前は鳥葬だって!!疫病で死んだ人は土葬に、そして、未亡人・子供・乞食の遺体はヤルツァンポ川に流して魚の餌にする。だから、チベットの人々は魚を食べないのだ。

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 したがって、目の前の皿に乗っている魚は、昨日まで川底に沈む遺体をつついていたかも知れないのだ。ならば、ならば、ならばこそ、美味いに違いない……。みなさん嫌がって食べようとしない。なら、僕の出番でしょ。ということで、またもフラッシュを浴びながら、箸を運ぶはめになった。

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 腹ごなしにホテル前の露店を冷やかしに行ってみる。20人ほどのおばはん(失礼、年齢が分からないので)達が。マニ車・ネックレスなど小物を商っている。日本人観光客はそれほど来ていないようで、インドの仏蹟地のように、「ジェンブデ、シェンエ~ン」などといった日本語が飛び交うことはない。片言の英語と電卓での交渉となる。なかなか気さくなおばはんから、銀製(?)のブレスレッドと指輪を、言い値の60元を20元にプライスダウンさせてゲットした。その時、元締めらしきおっさんの口から、「バキヤロウ」の言葉が飛び出した。

 「意味が分かって使っているのか、おっさん。そんな言葉使うと日本人の機嫌を損ねるぞ」と言ったところで、通じるはずもない。日本人観光客の皆様、外国人に悪い日本語を教えるのは、止めましょう。(つづく)

 
【 2014/01/21 15:29 】

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チベットの祈り

8月5日(火)

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 午後3時、ジョカン(大昭寺)へ。ジョカンは7世紀に吐蕃【とばん】王国を建国したソンツェン・ガンポ王の元に嫁いだ唐の文成公主【ぶんせいこうしゅ】とネパールのティツィン王女とによって建立されたと伝えられる。チベットで最も聖なる寺である。

文成公主 

 『地球の歩き方』にもそんなふうに説明されているが、本当は文成公主が嫁いだ相手はソンツェン・ガンポ王の息子のグンソン・グンツェン王。王子を産むが、結婚して3年後に旦那が落馬が原因で急死。お父さんのソンツェン・ガンポ王が復位して、公主と再婚した。息子の嫁さんと再婚するなんて儒教道徳ではあり得ないことだが、チベット人には関係ない。せっかく唐から貰い受けた嫁さんを実家に帰すのがもったいなかったんだろう。イギリスのヘンリ8世が兄貴の嫁さんで未亡人となったカザリンちゃん(スペイン国王の娘)と再婚したのと似ている。

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 年間500万人もの巡礼が、ある者は五体投地で、ある者は徒歩で、ある者はトラックで、ジョカンへと押し寄せて来る。彼らはごく普通の日常生活を営んでいる民衆だ。それが、一念発起、日常生活を捨て、ラサのジョカンに向かって歩き始める。野宿を繰り返し、人々の喜捨にすがり、何ヶ月もかけてやって来る。どんなに大変なことか。どんなに思い切りのいることか。

 何のために?

 ただ、生まれ変わりのためだけにである。

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  ここでも写真を撮していると、子供たちが寄って来る。

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 次から次へと寄って来る。

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  再生した写真を見せてあげると、我さきに見ようと群がってくる。

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  ところが外があまりにも明るいもんだから、画面が見えない。見えないから顔を突っ込んで見ようとするから、よけいに見えない。押し合いへし合いになって、なんかスターになった気分だ。

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 じぇじぇじぇ~、忘れた~~~~。「中に入りますよ」の声で、ハッと我に帰った。子供と遊んでいて、忘れちゃった。トホホホホ

 何を忘れたかって?写真(当然ネットからの借り物)の「唐蕃会盟碑」。節度使の安禄山が起こした安史の乱を自力で鎮圧できなかった唐は、ウイグルの力を借りてやっとのことで反乱鎮圧に成功する。ところが、これが周辺民族に唐の弱体化を露呈することになり、ウイグルやチベット(吐蕃)が唐に侵入、チベットは一時長安を占領する。そうした緊張状態が半世紀余り続いたのだが、821年に両国は和解する。これを記念して建てられたのが、「唐蕃会盟碑」。対等な両国関係をうたっているが、実質的は唐が下手に出て結んでもらった平和条約だ。なにが、「チベットはもともと中国の領土だった」だよ。いい加減なこと言うな。チベットが紛れもない独立国である証拠がここにあるじゃないか。えっ、どうなんだよ、中華人民共和国。

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 ジョカンの周囲は八廓街【はっかくがい】(パルコル)と呼ばれ、多くの店が建ち並ぶ巨大市場となっているが、巡礼達はマニ車を廻しながらコルラ(聖なる地を右回りに廻ること)を繰り返す。われわれ坊さんも三帀【さんそう】といって本堂の内陣を三回廻るということはするが、三回どころではない。昔、「廻る~廻る~よ、世界~は廻る」という歌があったが、とにかく何回も何回も廻るのである。それもかなりのスピードで。だから八廓街では左回りしようとすると、人間の波が押し寄せて来て、前に進むどころか、後ろに押しやられることになる。

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 彼らが手に持つマニ車は金属の筒の中に印刷された巻物状の経文が入れられており、これを1回廻すと1回経文を読んだことになるという、非常に安直なお詣りアイテムである。「ちゃんと読んだら」と言いたくなるほど、道楽な方法だが、コルラはその正反対である。

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 正反対と言えば、五体投地もそうだ。胸の前で合掌し、その手を頭上に持っていく。合掌した手を口元、胸の前へと下ろした後、両手と膝を地面につける。うつぶせになって全身を大きく伸ばし、伸びきった頭上で合掌する。ゆっくりと立ち上がり、胸の前で再び合掌、同じ行為を延々と繰り返す、延々と延々と……。ジョカンの前の石畳は摩耗して、つるつるになってしまっているほどだ。

五体投地 
 ただひたすらにコルラを繰り返し、五体を地に投げる。来世により良く生まれ変わるための、ひたすらな祈りなのである。金持ちに生まれ変わりたいとか、美人に生まれ変わりたいとかいった、下賤な祈りではない。より良い人間として生まれ変わりたいという、必死の願いなのである。そして、彼らにとって、この祈りの時間が至福の時であるという。物質的に豊かな生活を送る中で、日本人が忘れてしまった心である。

 チベットの人々は、生涯こうした祈りの生活を送る。来世のためにのみ、現世を生きているかのようである。(つづく)

【 2014/01/20 14:14 】

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チベットの坊さんって、おカマ?

8月5日(火)

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 いよいよジョカンに足を踏み入れる。内部は暗く、ヤク(牦。高地に棲息する牛の一種で、縮れた長い毛を持つ)の乳で作るバターの灯明がゆらいでおり、動物質の臭いが鼻をつく。巡礼達はポットに入れた溶かしたバターや固形のバターを注ぎ足していく。注ぎ足しながら、ブツブツブツブツ………オムマニ……オム……ブツブツ。オムとしか聞こえないが、実はオムマニベメフムと呟【つぶや】いているのである。オムマニベメフムは、「蓮華にある宝珠に幸いあれ」という意味の呪文で、チベットの人はしょっちゅうこれを呟いている。かのオウム真理教の「オウム」と「オム」は同じ意味だ。

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 ジョカンには多くの仏像が祀られているが、本尊は文成公主がチベットに嫁いだ際に、中国から持参したという黄金の釈迦牟尼仏像である。 12歳のお釈迦さんの姿をかたどったものとされるが、やや違和感はあるものの、なかなかいいお顔をしておられる。このご本尊の前で僕たち夫婦と、79歳のKさんが五体投地をまねごとを試みた。なぜかチベットで五体投地したいというのが奥さんの念願だったので、僕もお付き合いして数回五体投地を繰り返し、身延山で修行に励む息子の身体健全などを祈った。本当は身体を地に投げ出さなくてはいけないのだが、床はヤクバターでベトベトになっている。服が汚れることを恐れ、頭を床につけるだけで勘弁してもらった。(これじゃ~、祈りは叶えられないかも。)

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 祈りと呪文とバターの臭いが混じり合った思い空気のお堂を出て、屋上へ出た。澄み切った陽光(こんな表現は変かな)のもと、法輪と「金色臥鹿」が金色に輝いている。

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 夫婦で記念撮影。

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 李さん、胥君も一緒に記念撮影。金色に輝いているのは、金銅を打ち出して作った法輪。

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 臙脂【えんじ】色の衣をまとった、これぞチベット僧というお顔のお坊さんがおいでになられたので、記念撮影をお願いした。僕たち夫婦の間に入ってもらって、左後方にポタラ宮が遠望できる最高のショットだ。その時は全く気がつかなかったが、プリントした写真を見ると、お坊さんの左手の指が僕の右手の指にからんでいる。

 彼はゲルグ派(黄帽派)のお坊さん。ゲルグ派では妻帯が禁止されている。ということは、ひょっとしてあのお坊さん、おカマだったのかな?いやいや、そんな失礼なことを考えてはいけません………よ。

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八廓街で大きなマニ車を廻して喜ぶみんな

 われわれもチベットの人々の流れの中に入って、ジョカンの周りを4分の3周だけコルラした後、午後6時、八廓街の一角(洒落ではありません)にあるレストランでチベット料理の夕食をとった。チベット料理と言えば、ジャ(バター茶)とツァンパ。バター茶はその名の通り茶にヤクのバターと塩を加えたもの、ツァンパは青裸麦を煎って粉にしたものにバター茶を加えて練ったもので、幼少の頃に食べた記憶のある麦こがし(はったい粉)のようなものだ。(と言っても、今の若い人には分かんねぇ~だろ~な~。)

ラサ晩飯
唇の色が悪いね~

 チベットの坊さんが読経の後に、木製の椀で練ったツァンパを口に運び、バター茶をすする映像をご覧になった方もおいでかと思うが、これがまた美味そうに見えるのだ。チベットでは必ず口にしなければと思っていた代物だが、バター茶は塩が効いていてまずまずの味だが、ツァンパは甘みがあって美味くなかった。恐らく外国人が食べやすいようにしたのだろうが、大きなお世話だ。本当のツァンパを食べさせてくれ!

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 その他、チベット風餃子のモモ、ヤクのチーズ、ヤクのチーズの揚げ物、ヤクの焼き肉(指さしているやつ)。嬉しいことに、これに地酒がついている。チャンと呼ばれる青裸麦で作ったチベット風どぶろくだ。やや酸味があるものの、なかなか口当たりが良くて美味い。要らないとおっしゃる方の分までいただいて、3杯飲んだのだが、物足りない。しかし、アルコールは高山病を引き起こす要因になると聞かされているため、酒豪の皆さんも我慢しておいでの様子。流石の僕もおかわりを所望できなかった。

 ここでアクシデントが発生。食事をしながら、チベットの民族舞踊ショーを楽しむ予定だったのだが、ドタキャンされてしまった。政府のお偉方が横取りしていったのだと言う。またか!!平成12年のシルクロードの旅の時も、軟臥車(グリーン寝台)の席を石油会社のお偉いさんに奪われ、無理矢理、硬臥車(1等寝台)の席にさせられて、悔しい思いをしたが、本当にまたかよである。

ホテル玄関 

 そう言えば、泊まっている拉薩飯店の玄関に「熱烈歓迎・北京市代表団」、「熱烈歓迎・張家港市党政代表団」、「熱烈歓迎・上海市長寧区党政代表団」という、赤い横幕がかかっていたが、こいつらが横取りしやがったんだ。お前ら、何様のつもりだ。予約したのはこっちが先じゃないか。黙っていれば、つけ上がりやがって。いい加減にしろ!!、と叫びたいほどだ。

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 ガイドの胥君が機転をきかし、恥ずかしがる店の女の子を舞台にあげての即席歌謡ショーとなった。腹の虫はおさまらないが、彼女たちに免じて許すこととした。(つづく)




【 2014/01/19 14:28 】

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眠れない一夜ー高山病が恐~い!

8月5日(火)

 本当か嘘か分からないが、チベット人は一生の間に3回しか風呂に入らないそうだ。(その3回が、いつなのかは知らない。)なんて不潔な、と思ってはいけない。厳密には入らないのではなく、入れないのだ。チベットは極度に乾燥しているので、風呂に入って皮膚の脂分を落としてしまうと、皮膚病にかかってしまうそうだ。

 郷に入っては郷に従え、とは言うが、従えないこともある。それにチベットにはたった4日しか滞在しないから、皮膚病になることもあるまい。ゆっくり湯船に浸かって疲れを癒そうと思ったのだが、奥村君から禁止命令が出た。高地での風呂は体力を消耗し、高山病の原因となるそうな。仕方なくシャワーを浴びて、寝ることにした。

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 高山病は高地に着いてすぐにかかるのではなく、着いた日の夜、寝ている時に症状が現れることが多いそうだ。用心のために高原安も飲んでいるし、1本30元の携帯用酸素ボンベも買ってある。いざという場合に備えて説明書を読んでベッドに入ったのだが、なんとなく不安で寝付けない。こんな時は酒を飲むに限るのだが、それも出来ない。しばらく悶々としていたが、昼間の疲れからか、いつしか寝入ってしまった。

 ところが2時間程して、尿意を覚えて目が覚めた。身体を起こす前に確認してみる。頭は痛くないか……。ん、痛くない。ほっと、胸をなで下ろす。案ずるより産むが易し。高山病などと大騒ぎする必要はない。安心して、おしっこをして、またベッドに入ったのだが、それから2時間おきにおしっこで起こされた。どうも、高原安の副作用のようである。

8月6日(水)

 そんなわけで、チベット最初の朝は寝不足気味で迎えることとなった。

セラ寺

 午前9時、バスでラサの中心地から北に8キロほどのところにあるセラ(色拉)寺へ。セラ寺は仏教大学とも言えるゲルグ派最大の寺院で、最盛期には4つの学堂があり、5500人もの僧侶がいたと言われる。セラ・ウチェ山の麓に多くの堂宇が建ち並んでいる。

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 チェ・タツァンは顕教を学ぶ学童で、セラ寺で最大の規模を誇る。

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 チベットに密入国した河口慧海や多田等観もこの寺で修行した。河口慧海は「法華経は仏となる方法を示した説明書であって、薬の効能書きのようなものである。薬の実体の部分はない」と言った不埒【ふらち】な方だが、チベット大蔵経を日本に招来した功績は大きい。講堂内にある修学塔の前で読経し手を合わせた。

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 建ち並ぶ僧堂群の中に養老院があった。チベットでは子供のうち一人は坊さんにする習慣がある。厚い信仰心の現れであるとともに、口減らしの意味もあるのだろう。年端もいかない子供が親許を離れ、寺に預けられる。家族が恋しくて泣く日もあったであろう。親を恨んだこともあったに違いない。厳しい修行に明け暮れる毎日。いつしか年老いて、我が家に帰ることもなく、養老院で若い坊さんの世話になりながら、来世へと赴く。そんなことを考えて、切なくなってしまった。

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 午前11時、ノルブリンカへ。ノルブリンカは「宝の庭」という意味で、歴代ダライ・ラマがチベット暦の4月から9月までの夏場に滞在された離宮だ。 1959年に人民解放軍がラサに入った際に、ダライ・ラマ14世はこの王宮から密かに脱出し難を逃れたそうで、彼が使用していたラジオやレコードプレイヤーが今でも残されている。

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 近くで面白いものを発見した。究極のソーラー湯沸かし器だ。ラサは「太陽の都」と言われるように、無茶苦茶に日射しが強い。太陽光をさえぎる空気が薄いからだ。そのため、こんな簡単な器具ですぐに湯が沸くそうだ。でも、当然標高が高いから沸騰はしないんだよね。ということはご飯を炊いたらメッコになるということだけど、圧力釜で炊くんかな?いや、チベット人は米喰わないか。まあ、どうでもいいや。明日はいよいよポタラ宮だ!!(つづく)


【 2014/01/18 15:20 】

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ポタラ宮のトイレ

8月6日(水)

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 午後3時、いよいよ今回の旅のメインであるポタラ宮へ。

 ポタラ宮はマルポリ(チベット語で「赤い山」の意味)の南斜面に建つダライ・ラマの宮殿で、敷地面積は41ヘクタール(東京ドームの約9倍)、高さ117メートルもあり、垂直ベルサイユと称される。ブラッド・ピット主演の映画「セブン・イヤーズ・イン・チベット」でご覧になった方もおいでだと思うが、あれはアンデス山脈に造った偽物だそうだ。

ポタラ宮 

 ポタラ宮は1645年、ダライ・ラマ5世の時に建築が始まり、50年の歳月をかけて完成した。それ以来、300年にわたりチベットの聖俗両界の中心地であったが、1959年にダライ・ラマ14世がインドに亡命してからは主がいない。5つの宮殿の屋根は金めっきの銅瓦が葺いてあり、金色に耀き、気勢が雄偉である。

ダライ=ラマ14世

 チベットで一番偉い坊さんであるダライ・ラマ(ダライは「大海」、ラマは「上人」という意味)は観音菩薩の化身とされ、人々を救うために転生【てんしょう】を繰り返していると信じられている。現在の14世は本名テンジン・ギャムツォ。チベット北東部のタクツェルという小さな農村に生まれ、2歳の時に13世の生まれ変わりと認定された。

日光 

 観音菩薩が住んでいる浄土をポータラカというが、これのチベット訛【なま】りがポタラである。ところで、日本ではポータラカは補陀落【ふだら】と表記される。この補陀落が訛って「二荒」【ふたら】、これが音読され、ついで別の字が当てられて、「日光」となった。「日光見るまで結構言うな」の日光とポタラ宮はともに観音菩薩の浄土なのである。

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 息を切らせて長い階段を上り、ようやく入場口に到着。

看板 

 黒板に「通告。今年7月1日より8月15日までは入場料を50元とする」と書かれている。SARS騒ぎで観光客が減ったため、普段の半額にするというのだ。やったー、SARSも悪いことばかりではない、と一瞬喜んだが、よく考えてみれば、トラベルサライの必要経費が減るだけで、僕には何の関係のないことだと気がついた。

ダライラマ5世廟塔 
ダライ・ラマ5世廟塔
 ポタラ宮は宗教儀式が営まれた紅宮と、ダライ・ラマが政務を執り行った白宮をメインとした複合建築物で、その内部には1000以上の部屋があり、迷宮のように入り組んでいる。極彩色に彩られた部屋と長い廊下いっぱいに装飾された壁画、1万体にも及ぶ仏像、1万幅余りのタンカ(布に書かれた仏画)、立体マンダラなど、おびただしい数の宝物が収蔵されている。 中でも圧巻は歴代ダライ・ラマ9人のミイラが安置されている廟塔である。特に5世の廟塔は高さ12.6メートルもあり、3,721キログラムの黄金と1万点以上のダイヤ・瑪瑙【めのう】・翡翠【ひすい】・宝石・珍珠で飾られている。現在の金相場は1グラム4,300円だから、黄金だけで、ドヘー、160億円にもなる。

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 ガイドの李さんの流暢でかつ時々誤りのある日本語の案内で、狭い廊下を上がったり降りたりして、そのごく一部を見て回った。初めのうちは感心することしきりであったが、次から次へと目に飛び込んでくる目映【まばゆ】いばかりの仏像や廟塔は、500グラムのステーキを次から次へと出されて喰えと言われているようで、次第に気持ち悪くなった。

 と同時に、便意をもよおした。李さんにトイレの場所を教えてもらって、駆け込んだまではよかったが、入ってみてびっくり。

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汚い写真でご免なさい
 8畳敷きぐらいの部屋の真ん中にぽっかりと二つの穴が開いている。ただ、それだけである。どっちを向いて坐ればいいのかも分からない。まあ、どっちでもいいやと、股を開いて足場をつくって下を見て、またびっくり。

 何と最下層らしきところまで吹き抜けになっているのだ。つまり、このトイレは断崖絶壁に張り出して造られており、排泄物は30メートルも落下して、岩に激突する仕組みになっているのだ。小さい方だと、風に吹かれて霧状になり、虹がかかるかもしれない。二度と出来ない体験となりそうだ、と思いながら、おもむろにベルトを緩めた。と、そこへ中国人が入って来て、私の前に立ち、ベルトを緩め始めたのだ。中国人の男とお見合いしながら気張る気は毛頭無い。一挙に便意はどこかに飛んでしまい、這々の体でトイレを逃げ出した。

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 ポタラ宮を参観し十分に満足した後、午後7時より「火鍋」の夕食。火鍋は本来、重慶の名物料理で、要するに日本の「しゃぶしゃぶ」である。四川盆地の中央に位置する重慶は、武漢・南京と合わせて「中国の三大かまど」と呼ばれ、40℃を超す日もある。その暑い夏に、汗だくになりながら、唐辛子で真っ赤になった鍋をつつき、暑気払いするのである。成都では麻婆豆腐を優先したため、食べる機会がなく、ラサでの火鍋となった。

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 火鍋は普通、牛肉や羊肉がメインだが、ガイドの胥さんが連れて行ってくれたのは、「野山菌火鍋」。なんだかバイ菌みたいな名前だが、茸のことである。まあ確かに茸は菌類だから間違いないのだが、名前は余り美味そうではない。ところが、これが絶品。日本ではなかなか口に出来ない「松茸」や「編笠茸」をはじめ、名前の知らない茸がいっぱい。熱々のところを、唐辛子とごま油のきいたタレをつけていただく。

火鍋

 高地も二日目ということで、紹興酒も存分にいただいて、大満足であった。ウー、ゲップ。ごちそうさんでした。(つづく)




【 2014/01/17 14:25 】

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標高4,750メートルでヤク祓い

8月7日(木)

 今日はいよいよカロ・ラを越えて、江攻(ギャンツェ)へ向かう。カロ・ラってトヨタの車じゃなくて、峠の名前。ラはチベット語で峠のことだから、カロ峠ってことだ。新しい道を通るという手もあったのだが、雄大なチベットの自然をどうしても見たいという、僕のたっての願いで旧道を通ってもらうことになった。

山道 

 午前7時30分ホテルを出発したバスは、ヤルツァンポ川の支流・キチュ川に沿って空港への道を1時間ほど走った後、曲水大橋を渡って右に折れ、山道に入った。ここから一気に標高5,000メートルのカロ・ラを目指す。道は幅4メートル程しかない、舗装してないガタガタ道で、ガードレールは当然のようについていない。それなのに、クラクションをけたたましく鳴らして、追い越しをかけて来る馬鹿が時折現れる。

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 運転手さんはバスを道の右側に寄せる。そう、中国で車は左ハンドル、右側通行。僕の座席は右側の窓側。必然的に僕の顔は右を向く。窓の下は草しか生えていない急斜面で、数百メートル下をヤルツァンポ川が流れている。「猫・馬鹿・坊主の高上がり」と言うが、その二つを兼ね備えているせいか、僕は高い所にはめっぽう強い。しかし、「日本人観光客を乗せたチベットの観光バスが川に転落。乗客・乗員17名行方不明」という新聞記事を想像し、追い越しをかけられる度に肝を冷やした。

 この日のために、わざわざ高度計付きの時計を買って来た。3,800、4,000、4,200、と高度計はその数字を次第に増していく。百メートル高度が上がる度に、「ただ今の高度は◯◯メートル!」と報告するのだが、反応がない。みんな眠っているのだ。ここで眠ったら高山病になる。ラサの初日と同じように、「眠っちゃいかん!!」と励まし合いながらの道中になった。

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 山道に入って2時間ほどでカンパ・ラ(標高4,750メートルの峠)に到着。

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 眼下にはチベット三大聖湖の一つ、ヤムドク湖の碧【あお】い水が広がっている。ヤムドクはチベット語で「トルコ石の湖」の意味。その名の通りトルコ石のように碧く光り、神秘的な雰囲気を漂わせている。

カンパラ 

 峠には経幡(ローンダ)があり、旅の無事を願ってたくさんのタルチョやカタが結び付けられている。前にも少し書いたが、カタは初めて会う人や目上の人などに面会する時、尊敬の意を込めて贈るシルク製の薄いスカーフで、仏さまに掛けたり、無病息災を祈って経幡に結んだりもする。

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 ラサに着いてすぐ李さんから1枚、ホテルからも1枚もらっていたので、家族と檀信徒の方々の身体健全を祈って、僕も経幡に結び付けて来た。ご利益がありますように。

 地上では見ることの出来ない空の青さ、刻々と姿を変える低い雲の流れに見入っていると、いつのまにかヤクを連れた小母さんや子供に取り囲まれてしまった。チベット語で話しかけられても分かるはずがないが、どうも「ヤクに乗っても記念撮影は如何でしょうか。お安くしておきます」と、言っているようだ。

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 うちの奥さんは、小母さんの口車に乗せられて、ヤクに乗せられた。シルクロードの旅の時も、陽関【ようかん】遺跡で古代のロマンに浸ろうと思ったら、「馬に乗れ」、「駱駝【らくだ】に乗れ」と商魂逞【たくま】しい小母さんに囲まれたけど、邪魔するなっちゅうの。

 「ヤクに乗っても何の役にも立たんだろう。あっちへ行け」と、追っ払ってやった。これが本当のヤク祓【はら】いだ。(つづく)



【 2014/01/16 10:02 】

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白居寺トイレの蠅柱!!

8月7日(木)

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 カンパ・ラで雄大かつ神秘的なパノラマを堪能した後、しばらくバスを走らせて、ヤムドク湖畔での昼食となった。

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 目の前に広がる蒼い湖面とヤクの群れ。

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 背後の丘陵には羊の群れ。200頭はいるだろうか。一人の少年がこれを追っている。長閑【のどか】な遊牧風景の詠ながら、ピクニック気分で弁当を広げたが、高山反応の所為【せい】か皆さん食欲がない。そこそこに弁当の箱を閉じて、溜息【ためいき】をついておられる。

 と、そこへ何処からともなく3人の子供たちが現れた。周りを見渡しても、村は見えないのだが、何処からか我々の様子を窺【うかが】っていたようだ。

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 「もう要らないから、持って行っていいよ」という日本語が分かるはずもないのだが、そこは以心伝心、彼らはいっせいに弁当の箱を集め始めた。家に持って帰って、晩ご飯にするのだろうか、真剣な眼差しである。集め終わると、各自が獲得した箱を開けて整理を始めたのだが、無惨にも投げ捨てられた箱が2個。僕と添乗員の奥村君だけは、高山反応が出ても食欲だけは落ちないようである。

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 ともかく食事を終えた我々は、標高5,040メートルのカロ・ラ(峠)を越えて、ギャンツェへと向かった。途中、カロ・ラ雪渓(氷河)で写真休憩をとった。

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 峠から僅かに下った地点で、標高は4,950メートルもある。生まれて初めて見る氷河に、生まれて初めて経験する高度である。皆さん写真撮影のためバスを降りて撮影ポイントに向かうのだが、唇は真っ青、呼吸困難の上に足が重い。緊箍【きんこ】をはめられた孫悟空のように、頭が麻痺している。何しろ地上の半分しか酸素がないのだ。「酸素が薄いと大変ですね」と声をかけたつもりなのだが、「△♂♀▼☆∞√$Ωξ……」、自分でも何を言っているのか分からない。ただでさえ血の巡りの悪いところへもってきて、酸素不足で脳細胞が働いていないのだからやむを得ない。

 カロ・ラを出たバスは一路ギャンツェに向かったが、途中道路が寸断されており立ち往生。雪解け水が鉄砲水となって流れ、小川となっている。たった幅3メートルくらいの流れなのだが、四駆ではないのでタイヤがはまってしまい身動きがとれない。通りかかった村人や子供も動員しての復旧作業の結果、やっとのことで脱出に成功した。と、思ったら、もう1箇所。やれやれ難儀なことだ。

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 悪戦苦闘しながら、午後4時ようやくギャンツェに到着した。ギャンツェは1904年に侵攻したイギリス軍と激しく戦ったことで、「英雄の街」と呼ばれている。その中心となっているのが白居寺(パンコル・チョエデ)で、昔は丘の斜面に17の僧院が建ち並ぶ大寺院であったそうだが、現在その面影はない。写真にその一部が写っているが、このお寺は万里の長城のように周りをぐるりと城壁で囲まれているのだが、人民解放軍の侵略とそれに続く文化大革命によりほとんどの僧院が破壊されてしまった。

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 つまり城壁が役に立たなかった訳だが、ここのトイレも役に立たなかった。参拝する前にと、トイレに入ったのだが、一歩足を踏み入れて、唖然呆然【あぜんぼうぜん】。な、な、、何と、蠅柱が立っているではないか。蚊柱ではない、蠅柱だ。数十匹の蠅がブンブンブンブンとプロペラのような音を立てて、ウンチの山の周りを竜巻のように飛んでいる。泰然【たいぜん】として用を足そうとしたが、やっぱり無理。憮然【ぶぜん】としてトイレを出て、裏の空き地で用を足した。

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 このお寺での見物は十万仏塔の異名を持つパンコル・チョルテン。8階13層、高さ34メートルのストゥーパである。お釈迦さまの舎利【しゃり】(遺骨)を納めた塔で、法隆寺の五重塔などと起源は同じである。登ることも出来るそうだが、標高4,000メートルの地で8階まで上ることはかなりの重労働であり、諦めることとした。

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 パンコル・チョルテンの前の露店の小母さんからマニ石を10元で買った。左から右にチベット文字でオムマニベメフムと書かれている。前にも書いたけど、オムマニベメフムは「蓮華にある宝珠に幸いあれ」という意味の呪文。このマニ石は、今、僕の書斎を守ってくれている。ちなみにチベット文字は吐蕃の初代国王ソンツェン・ガンポ王がインドのグプタ文字をもとに作らせた文字だ。

 本堂の内部だけを見て回ったのだが、ふと見ると柱の脇に大きな袋(日本で言う米袋)が置かれている。中を覗き込んでみると、ツァンパ(青裸麦の粉)である。本堂に置かれているということは、お詣りに来た信者さんたちがお坊さんへのお布施として、各自が持って来たツァンパをこの袋に入れて行くのだろう。ちょっと一口頂いてみた。一昨日レストランで食した物と違い、香ばしくて美味い。つい三口も頂いてしまった。堂内が暗くて皆は気が付かなかっただろうが、この時の僕の口は運動会のあめ玉競争の時のようになっていたに違いない。(仏さん、ご免なさい)(つづく)



 
【 2014/01/15 11:13 】

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長~い、ギャンツェの夜

8月7日(木)

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 午後5時15分、ホテルに到着。この日のホテルは江攻飯店(ギャンツェ・ホテル)。2階の部屋を予約してあったはずなのに、何故か3階になっている。またもや政府のお偉いさんに横取りされてしまったのだ。え~い、クソッ。標高4,000メートルのギャンツェでは、たとえ1階分の高さでも貴重なんだぞ。

 一同、重い足を引きずって部屋に向かう。階段を上るのが何と辛いことか。3段上がっては深呼吸をし、また3段上がる。喘ぎながら3段あがる。心臓がパクパク言っている。なにしろ、空気中の酸素が地上の半分しかないのだ。やっとのことで部屋に到達し、ベッドに倒れ込んだ。

晩飯 

 このまま寝てしまいたいくらいだが、取り敢えずシャワーをして、ホテルの前にあるレストランへ。懐かしい料理が出てきた。トマトと卵の油炒め。3年前のシルクロードの旅で毎日のように食べた料理だ。ミスマッチのように思われるかも知れないが、これが結構いけるのだ。でも、喜んで食べているのは僕だけ。昨夜とうって変わって、皆さん箸が進まないようだ。お茶だけ啜【すす】っている人もいる。今晩、大丈夫かな~。

 ともかく夕食を終え、喘ぎながら部屋に戻ってベッドに入ったのだが、頭が孫悟空状態だ。お布施のツァンパを盗み食いしたから、仏さまのバチがあたったのかも?用心のために買い求めてあった携帯用酸素ボンベを使ってみたが、1本30元(450円)もしたのに、まったく効き目がない。(中国のことだから、本当に酸素が入っているのかどうか、怪しいもんだ。)途中で何度も目が覚め、ともかくも長~い、ギャンツェの夜だった。

8月8日(金)

朝飯 
 朝食で初めて本当のツァンパを食することができた。発電機の調子が悪いのかレストランの照明は点【つ】いたり消えたり、ついには完全に停電になってしまった。午前6時をまわっているのだが、これは北京時間。北京とギャンツェでは2時間ほどの時差があるため、実際の時間はまだ午前4時頃で、室内は真っ暗。ローソクの灯りだけでは、手許までよく見えない。手探り状態で茶碗にツァンパをとり、ポットからバター茶を注ぐ。熱さをこらえて手で捏【こ】ねながら丸めて口に運ぶ。香ばしい香りと絶妙の塩加減。ん、なかなか美味い。

ツァンパ 

 日本人が「米の飯を喰わないと力が出ない」と言うように、チベット人は「ツァンパを喰わないと力が出ない」と言う。確かに腹にずしんと来て、力が湧いてくる。さ、今日も一日頑張ろう!

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 チベット4日目のメインは日喀則(シガツェ)の扎什倫布寺(タシルンポ寺)。午前7時にギャンツェのホテルを出て、午前9時にタシルンポ寺に到着した。このお寺はゲルグ派(黄帽派)最大の寺院で、ご住職はチベット仏教界ナンバー2のパンチェン・ラマである。ナンバー1のダライ・ラマが観音菩薩の化身であるのに対し、パンチェン・ラマは阿弥陀仏の化身とされる。日本人の感覚からすると、なんで菩薩の化身が仏の化身よりも上位なの、と不思議に思うのだが、チベットではとにかくそうなのだ。

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 パンチェン・ラマも、ダライ・ラマと同じように不死不滅の活仏として転生を繰り返しており、現在は11世なのだが、実はここに大きな問題がある。

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 先代のパンチェン・ラマ10世(上の写真)は、ダライ・ラマ14世が国外亡命を余儀なくされた後も、チベット本土に踏みとどまった。文化大革命の時期には投獄され、その後も中国の占領支配下という枠組みの中で活動の自由を大幅に制約されながらも、チベットの文化を守り抜くために必死の努力を重ねてきた。妻帯を許されていないゲルグ派の僧侶でありながら、漢民族の奥さんを持ったことでチベットの人々から非難もされたが、そこには色んな事情があったに違いない。

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 そのパンチェン・ラマ10世が1989年に53歳という若さで急死したのである。暗殺されたという話もあるが、ご覧の通りかなりのメタボであり、心筋梗塞か脳梗塞による急死と考えられる。死因はまあともかく、6年後の1995年5月、ニマという当時6歳の少年が、ダライ・ラマ14世により、その生まれ変わりと認定された。ところが、その3日後にニマ少年は何者かによって誘拐され、今もって行方不明なのである。

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 同じ年の11月に中国政府がノルブ少年をパンチェン・ラマ11世と認定したことで、誘拐犯は明白である。現在北京で教育を受けているノルブ少年(もう24歳だから少年じゃないか)は、この後、中国政府の意向に添いながらチベットに君臨するのだろうが、卑劣な中国共産党には心底腹が立つ。

子供 
ここでも子供におおもて
 したがって、現在タシルンポ寺には主がいないのだが、多くの参詣者を集めている。皆のお目当ては世界最大の弥勒仏だ。(つづく)

【 2014/01/14 15:14 】

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チベット人とおしくら饅頭!!!!ータシルンポ寺

8月8日(金)

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 タシルンポ寺の境内敷地は30万平方メートル(東京ドームの6.5倍)もあり、多くの仏殿、堂塔があるが、一際目をひくのが西の端にそびえ立つ弥勒【みろく】仏殿である。ここにはパンチェン・ラマ9世により建立された弥勒仏金剛座像が安置されている。高さ15メートルの奈良の大仏さんも真っ青。こちらはなんと26メートルもあり、世界最大の金銅仏なのである。日本人には違和感のあるお顔だが、ひたすら大きくひたすら神々しい。

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 ご存じだとは思うが、弥勒仏は未来仏。現在は兜卒天【とそつてん】で修行中で、56億7000万年後に龍華樹の下で悟りを開かれ、人々を救って下さる。この有り難い弥勒仏を一目拝みたいとチベット中から老若男女がやって来る。予定より少し早めに到着したので、我々もチベット人のおっさん、おばさんと一緒に並んで開門を待つことになった。ところが、一番先頭にいたはずの我々が次第に列の後ろの方へと後退して行く。図々しいチベット人が平気な顔で順番抜かしをしていくのだ。「おい、おっさん、順番守れよ」と言っても、通じるはずがない。おしくら饅頭状態になって、気が付いたら我々はずっと後ろの方になっていた。一刻も早くお詣りしたいのは分かるけど、順番守れよな!!!!

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満足して仏殿から出て来るおばさん達

 30分ほど待って漸く開門となった。途端、チベット人が堂内に殺到する。デパートのバーゲンセールの時のおばさん状態である。早くお詣りしたからといってご利益が大きいわけでもなかろうに、我先にとご本尊を目指す。「おばさん、押すなよ。危ないじゃないか」と後ろを振り向いて睨【にら】みつけたが、効果なし。バター灯明の油臭【くさ】い臭【にお】いと、むせ返るようなチベット人パワーの大波に揉まれながらの参拝となり、有り難くも糞【くそ】もなかった。

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 チベット人の大波が去るのを待って、歴代パンチェン・ラマの廟塔をお詣りした。

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パンチェン・ラマ10世廟塔
 パンチェン・ラマもダライ・ラマと同じように、ミイラにされて廟塔に安置されている。1989年に亡くなったパンチェン・ラマ10世の廟塔も10億円の巨費を投じて1994年に完成しているが、貧しいチベット人にそれだけの資力があるはずもない。もちろん、中国政府が建立したものだ。金の力でチベット人を手懐【てなず】けようとする魂胆が見え見えである。

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 なぜ、それほどまでにしてチベットを手放したくないのか。ウランなどの地下資源が欲しい、核実験を行うためとか、いろいろ理由はあるだろう。一説には、チベットが独立すると、世界最高峰のチョモランマ(エベレスト)が中国領でなくなってしまうからだ、と言われている。中国人は伝統的に、自分達が世界で一番偉いんだという中華思想を持っている。近代になって、諸外国の経済的侵略の前にそのプライドをずたずたにされた反動として、世界一でありたいという思いが今一番強いのかもしれない。

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 写真は何をしているところでしょうか?正解は用を足している真似です。ガイドさんの説明によると、排水路のようになっているところがトイレ。お坊さん達はここで用を足し、その後雨が降ると自然に流れて行くという、天然水洗トイレだそうで、僕が実験台になってみたという訳です。流石に尻はまくれませんでしたが。アハハ。

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 タシルンポ寺の門前で、チベットに来て初めて尼さん(写真は男です)を見かけた。チベット仏教に尼さんがいることを知らなかったので、中国人ガイドの胥【しょ】君に尋ねてみた。彼の説明によると、お坊さんに恋をした女性が、いつも彼のそばにいたいとの思いから剃髪した、と言うのだが、本当だろうか?タシルンポ寺には現在でも1000人くらいのお坊さんがいる。それだけいれば、中には不謹慎な御仁もいて、夜な夜な寺を抜け出してカラオケに行ったりもするそうだが、男女関係に走るお坊さんもいるのだろうか………?(つづく)

【 2014/01/13 17:42 】

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危うくチベットで水葬にー桑原、桑原!

8月8日(金)

 午前11時20分、ラサでの時間が欲しいので早めの昼食。午後12時15分、シガツェを出たバスはヤルツァンポ川沿いの新道をラサ目指し一路ひた走った。シガツェ市街の道路新設工事や、崖崩れによる迂回路はあったものの、まずは順調に進んだ。

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 抜けるような青空と万年雪を戴く峰々を眺めながら、このまま行けば夕刻にはラサに着き、お土産もゆっくり選べるな~、と考えていた午後2時30分、尻の下でバーンという破裂音。一瞬、何が起こったのか分からなかったが、右前輪がパンクしたのだ。運転手さんが慌ててブレーキを踏みハンドルを切ったが、砂利道のことすぐには止まれない。ズーズーズーと滑って、バスは崖っぷちで漸く止まった。

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 あと僅か3メートルでヤルツァンポ川に転落、危うく水葬になるところだった。またも、「日本人観光客を乗せたチベットの観光バスが川に転落。乗客・乗員17名行方不明」という新聞記事を連想してしまった。

パンク1 

 こんな所にガソリンスタンドがあるはずもない。取り敢えず応急処置。

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 運転手さんやガイドの胥君、添乗員の奥村君らは懸命にパンク修理にあたっているが、僕らはすることがない。写真では小さくて見えないと思うけど、対岸の崖っぷちの道を羊が歩いている。羊飼いの姿は見えないけど、草を食べた後おうちに帰る途中なんだろうか。暇つぶしに何匹いるか数えてみる。羊が1匹、羊が2匹、羊が3匹、羊が4匹、羊が5匹、羊が6匹、羊が7匹、…………、眠くなってしまった。

 応急処置を済ませ、村を探した。しばらく走って辿り着いた村のあんちゃん、おっさんに応援を頼んだのだが、ここで嫌なものを見てしまった。

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 修理が終わるのを待つ間、茶店でお茶を飲んでいると、そこに現れた村の子供が3人。写真ではまだニコニコ笑っているが、この後、自分の頭を床にゴチンゴチンとぶつけ始めた。一体何の真似かと思ったら、目には涙をいっぱいに溜めて、お金をせびるのである。「止めろ」と言っても聞かずに、頭をぶつけ続ける。おでこが真っ赤になっている。堪りかねた女性陣がお金を渡したのだが、その金を親と思われる男が取り上げてしまったのだ。チベットの現状を見せつけられて、後味の悪さだけが残った。

パンク2 

 何とか修理を終えたバスは亀のようにゆっくりゆっくりとラサを目指したのだが、あと1時間でラサの街に入るという午後5時20分、またまたパンク。もう修理の仕様がないため、同じ会社のバスを呼ぶことに。ところがこれにまた時間がかかり、結局拉薩飯店に到着したのは午後7時。ちゃんと日頃からバスの整備しといてよ、本当にもう。

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 まだ買いたいものがあったので、午後7時20分、取り敢えず荷物をホテルに置いて八廓街へ。慌てふためいて買い物して周り、また忘れたよ。時間があれば見ようと思っていた唐蕃会盟碑。残念。くっそー。

 肉体的にも精神的にも倦怠感の残る一日となってしまったが、こんなのは序の口。明日はもっと過酷な運命が待ち受けていたのである。(つづく)


【 2014/01/12 15:35 】

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くそっ、中国共産党。くそっ、中国東方航空!!!!

8月9日(土)

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 午前10時25分、チベットに別れを告げ、成都に向かった。

チベットの少年 

 僕の隣の席にはチベット人の親子。少年からおやつを貰ったんだけど、これがヨーグルト味のツァンパでなかなか美味い。この少年、まだ小学生なんだけれど、飛行機の中で学校の宿題らしきものを一生懸命にやっている。見ると、英語のフレーズを書き写している。内容は日本の中学2年生ぐらいのレベルだ。

 「Are you Tibetan?」「No,I am Chines.」「Are you Tibetan?」「No,I am Chines.」何遍聞いても同じ答えが返って来る。まあ、国籍から言えば中国人なんだろうけど、民族的にはチベット人でしょ。ツァンパ食べてるもんね。それを頑なに、中国人だと言い張る。チベット人の誇りないの?と聞きたいくらいなんだけど、チベット人と言えない辛い事情があるんだろうな。この子は一生懸命英語を勉強して、将来は中国共産党に入って出世して、チベット自治区の偉いさんになろうとしてるんだろうな。いや、親がそうさせようとしてるんだろうな。 なんて考えると、なんだか悲しくなってしまった。

 2時間半ほどで飛行機は次第に高度を下げ始めたのだが、そこは成都ではなく、重慶だった。午後12時50分、重慶空港に着陸。成都が大雷雨で空港閉鎖となり、重慶で天候回復待ちとなったのだ。結局、機内で3時間も待たされることになったのだが、この時、役人嫌いの胥【しょ】君の怒りが爆発することになる。

ガイド

 と言うのは、缶詰状態になって暫くしてから、政府のお偉いさん(ひょっとしたら、チベットで我々の邪魔をした連中かも知れない)と思われる一行が、飛行機から降り始めたのである。待機時間が長引きそうなので、空港の待合室で待てることになったと思い、降りようとしたらスチュワーデスに止められた。彼らは急遽、重慶発の飛行機に乗り換えることになったのだと言う。おかしいとは思いつつ、納得したのだが、1時間余りして彼らが帰って来たのだ。

 間違いなく彼らは待合室でゆったりとした気分で茶でも飲んでいたのだ。怒り狂った胥君がスチュワーデスに食ってかかる。何と言っているのか分からないが、恐らく「外国人観光客が乗っているのに、政府高官が勝手な行動をとったら国際的信用が無くなってしまう(もうとっくに信用されTないけどね)」とか何とか言っているんだろう。顔を真っ赤にして、口から泡を飛ばして捲【まく】し立てている。 胥君、よっぽど共産党員がお嫌いのようだ。

 3時間機内に缶詰にされて、重慶を立ったのが午後3時40分。午後4時30分成都に着いた。上海便も遅れているとのことで、大慌てでチェックインしたが、出発は遅れに遅れて午後7時になってしまった。

上海晩飯 
 結局、浦東空港に着いたのは午後9時20分。本来は午後4時35分到着予定だったから5時間の遅れ。えっ、5時間ですよ。上海の夜は京劇を観ようか、ジャズを聴こうかと言っていたのが、全部パー。その上、上海は異常気象で高温の日が続いており、節電中のため街は真っ暗け。有名な上海の夜景も見られない。

 ホテルに到着したのが午後10時を過ぎていたから、折角の海鮮中華も夜食になってしまった。レストランの女の子も5時間も待たされたもんだから、不機嫌そのもの。美味い中華も不味くなるじゃん。明日こそ時間通りにゆきますようにとの願いをこめて乾杯したのだが、その最終日はもっと悲惨なことになってしまった。

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 ホテルはオールドジャズバンドで有名な和平飯店。でも、ただ寝るだけ。もったいない。

8月10日(日)

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 午前9時30分、浦東空港へ。離陸予定は午前11時35分。搭乗手続きを済ませて、11時過ぎにバスに乗って飛行機へと向かったのだが、なんと途中でターミナルに引き返してしまった。機材不調とのことだが、機材は見えているけど、修理している様子もない。お詫びに中華弁当と飲み物の配給があったが、ろくな説明もないまま空港にとどめ置かれた。なんで遅れているか説明ぐらいしろよな。腹の立つ。

上海空港 

 インドで鍛えた堪忍袋もついに切れたが、ひたすら待つしかない。結局、上海を飛び立ったのが午後5時20分。昨日が5時間遅れで辟易したが、今日はなんと、なんとなんと、6時間遅れ。もう、いい加減にくれよな。
 2時間遅れで始まった今回の旅は、なんと6時間遅れで終わったのである。お疲れさま。(おわり)





【 2014/01/11 18:05 】

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