3月1日(土)
午前6時40分、朝食前にペワ湖でボート遊び。ポカラにはこのペワ湖のほかにもベグナス湖、ルパ湖の美しい湖があり、ポカラの町の名前はネパール語の湖(ポカリ)からきているそうな。 ポカリと言えば「ポカリスエット」を思い出すけど、ポカリスエットのポカリは明るくさわやかな響きを持つ言葉としてつけたんで、特別な意味はないそうだ。
昨日からずっと天気が悪いので、期待はしていなかったけど、案の定曇り空。
天気が良ければ、湖の向こうに憧れのマチャプチャレを望むことが出来たのに、え~い悔しい。僕らのグループの中に雨男がいるに違いない。誰だっ。それにしても、ベナレスでちゃんと飛行機に乗れて、予定通りのコースで来ていたら見えたかも知れないと思うと、また腹が立って来た。
写真はちょっと見にくいけど、ペワ湖中央に浮かぶ小さな島にあるバラヒ寺院。2層のパゴダ形式のヒンドゥー寺院なんだけど、アジマ神の化身とされる猪(ネパール語でバラヒ)が祀られているそうだ。アジマ神は女性の力であるシャクティを象徴する女神だそうで、このお寺でも生け贄の儀式が行われている。結局、生け贄を欲しがる神さまってみんな女なんだね。それも、このお寺で使われる生け贄は雄の動物に限定されており、参拝客もほとんど女の人なんだって。上陸することも出来るんだけど、上陸したら生け贄にされそうで止めた。
朝食後、出発まで時間があるので、ホテルの中を散策。ホテルの施設の地図が写ってるけど、かなり広い敷地内にいろんな施設があり、僕らが泊まったのは四角で囲まれた地域で、ホテルの名前通り、平屋建てのロッジ風になっている。
また、柄にもなくお花を撮影。今日が3月の最初の日だということを忘れさせるような、夏の花ばっかり。名前は分からんけどね。
午後12時10分発の飛行機でカトマンズへ。たったの30分ほどで着いてしまった。カトマンズはずっと来たくてしようがなかった町。ネパールには過去2回来てるんだけども、釈尊ご生誕の地ルンビニだけ。というのも、1996年から11年間ネパール内戦が続いていたため、危なくてカトマンズまで足を踏み入れる勇気がなかった。ネパール共産党毛沢東主義派、いわゆるマオイストが人民共和国の樹立を求めて暴れたわけだが、平成18年に停戦。今年(平成20年)の5月28日に連邦民主共和制樹立が宣言され、王政が廃止された。十数年ぶりにネパールに平和が訪れて、やっと来れたというわけだ。
レストラン「田村」で遅い昼食。われわれはお弁当をいただいたんだけど、お蕎麦なんかもあるみたいですよ。お米はカトマンズの郊外で自家栽培しているらしく、日本の米と変わりなく美味しいし、味噌汁も美味かった。僕の前にビール瓶が2本。夕べあれだけ飲んで二日酔いなのに、まだ飲むんかい!! 向かい酒、向かい酒。アハハハハハハ。
昼食を終えて、外に出たら結婚式の行列に出会った。
いやー、それにしても凄い人の数。男はみんな黒のスーツにネクタイ、女はサリー。新郎・新婦はインド人なんだろうね。でも、新郎・新婦の姿は見あたらない。
あっ、いたいた、車の中に。でも、顔がよく見えないや、残念。こんどの旅で、結婚式に出会ったのは3回目。やっぱ今が結婚式のシーズンなんだね。おめでとさん。
午後3時40分、スワヤンブナートへ。スワヤンブナートはカトマンズの中心部から西に3キロほど離れた丘の上にある仏教寺院。2500年以上前に建てられた、ネパール最古の仏教寺院だ。
登り口にはタルチョがはためいている。タルチョはチベット仏教で使われる青・白・赤・緑・黄の五色の旗。仏法が風に乗って拡がるよう願いが込められている。
このお寺が丘の上に立っている、ということは、階段を登らなければならないということ。階段は400段ほどあるそうだ。身延山の菩提梯【ぼだいてい】は287段だから、それよりも多い。段差も菩提梯ほどではないが、かなりきつい。おまけにさっきビールを飲んでるから、心臓がパクパク言っている。
やっと登り切った。あ~あ、しんど。頂上でひときわ目立つのが仏塔。でも、これはストゥーパではなく、マハ・チャイテャ(大チャイテャ)だそうだ。チャイテャは礼拝対象となる廟や塔のこと。13層になっている尖塔部分は悟りの13段階を示しており、先端には涅槃を象徴する金色の傘がある。
白いドームの上の部分をハルミカといい、ここに「仏陀の智慧の目」が描かれており、四方を見渡しておられる。この目には森羅万象を見通す力があると言われているんだけど、ほんとうにパワーのありそうな目だよね。眉毛の間にあるのは仏陀の眼力のシンボルである第3の目。変な格好の鼻にみえるけど、これはネパール語の数字の「1」で、調和を表すそうだ。
ちなみに、ネパールの仏教徒は国民の10%ほどで、80%はヒンドゥー教徒だ。
このキンピカの建物は鬼子母神堂。鬼子母神【きしぼじん】はインドではハーリティー(訶梨帝母【かりていも】)。日本でも有名な神さんで、「恐れ入谷の鬼子母神」で知られる真源寺の鬼子母神は有名だ。
写真はパキスタンのペシャワール博物館のハーリティと旦那のパンチカの像。ハーリティは出生した時、容姿端麗であったことから夜叉衆が歓喜したと言うんで、歓喜母とも呼ばれる。長じてパンチカに嫁して500人の子をもうけたが、凶暴な性格で人間の子を捕まえては食べたため、人々から恐れられ憎まれていた。そこで、お釈迦さまはハーリティの末の子ピンガラを隠してしまわれる。ハーリティは半狂乱となって世界中を7日間探し回ったが発見できず、お釈迦さまに助けを求めた。そこで、お釈迦さまは子を失う親の苦しみを悟らせ、仏法に帰依させた。かくしてハーリティは仏法の守護神となり、また、子供と安産の守り神となった
、というわけだ。 鬼子母神というと日本ではザクロを持ってるけど、これは中国の影響。仏典では吉祥果という果物を持ってるんだけど、吉祥果が何だか分からんかったんで、ザクロにしちゃった。両方とも種がたくさんあるんで、多産のシンボル。ちなみに、ザクロは人肉の味がするんで、お釈迦さまが人肉の代わりに喰えとおっしゃったというのは、真っ赤な嘘だよ。
鬼子母神は子育て・安産の神さんだから普通は優しいお顔をしてるんだけど、わが日蓮宗では鬼形【きぎょう】鬼子母神といって、おっかない顔をしている。これは、法華経の陀羅尼品【だらにほん】で、鬼子母神が法華経の行者を守ると誓ったから。法華経の教えを弘めることを妨げる者を威圧しやっつけるために、睨みつけてる姿なんだ。
スワナンブナートは別名モンキー・テンプルと呼ばれるように猿がいっぱいいる。
これが大人しければいいんだけど、観光客の荷物を奪ったりしやがる。猿も信仰の対象になってるんで、駆除することも出来なくてお寺も困ってるんだって。おいっ、お前。その食い物どっから持って来たんだ。かっぱらって来たんじゃなかろうな。「さるお方から貰いました」 嘘つけ!!
スワヤンブナートは猿の天国でした。(つづく)
スポンサーサイト
3月1日(土)
午後4時30分、ダルバール広場へ。ダルバールはネパール語で「宮廷」のこと。3つのマッラ王朝が盆地に独立・君臨した時代には、王宮前の広場としてカトマンズ王国の中心部だったところだ。
あっ、ダルバール広場を散策する前にネパールの歴史をちょっと勉強しておこう。世界史の授業でネパールが出て来るのはたった2回。お釈迦さまが生まれた国だということと、清に朝貢した国だったということだけで、受験じゃまず絶対でない国。どこにあるのかもよく分かってない人もいるんじゃないかね。ヒマラヤ山脈の南、インドの北だよ。
ネパール知らなくても、この国旗は見たことないかな?世界で唯一長方形ではない、ネパールの国旗だ。王家と宰相家の旗を合体させたものだけど、もう王政は倒れたんだから、国旗も変更すればいいのにね。ちなみに、2つの三角形はヒマラヤの山並みをかたどるとともに、この国の二大宗教であるヒンドゥー教と仏教を意味しており、月と太陽はこの国が月や太陽と同じように持続し発展するようにという願いが込められているんだって。
さて、ネパールの歴史だが、カトマンズ盆地に紀元前7,8世紀頃からキラートと呼ばれる人々が住んでいたそうで、これが一番古い記録だ。キラート王ヤランバはあのインドの叙事詩『マハー・バーラタ』にも出て来るそうだが、どうもインド・アーリヤ系とは違う民族らしい。お釈迦さまはシャカ族のご出身だが、実はこのシャカ族もキラートだ。ちなみに、現在でもネパールにはシャカ族と呼ばれる人々が暮らしており、「おシャカさまの末裔」を自称している。
4世紀に北インドからやってきたリッチャビ族がキラート政権を倒し、インドのカーストがネパールに持ち込まれた。8世紀には吐蕃(チベット)の支配下に入るが、王女ブリクティ(ティツィン)がソンツェン・ガンポに嫁ぎ、チベットに仏教を伝えた。13世紀頃からマッラ王朝が君臨するんだけど、ヤクシャ・マッラ王の死後、カトマンズ・バクタブール・パタンの3王朝に分裂してしまう。今に残る王宮の建築や伝統工芸はこの時代に完成された。
さあ、お勉強はこれくらいにして、歩き始めようか。おや、僕の前に可愛い女の子。この子はインド系かな?
1本の大木から建てられたというカスタマンダプ寺院。本来は巡礼宿だったらしいんだけど、ネパール最古の建築物と言われている。
広場中央にひときわ高くそびえるシヴァ寺院。17世紀末バクタブールのマッラ王朝の皇太后によって建てられたものだ。
シヴァ・パールヴァティー寺院。18世紀にゴルカ王朝のバハドゥール王によって建てられたもの。ゴルカ王朝についてはまた後から勉強しよう。小さくて分からないだろうけど、上の窓からシヴァ神とその奥さんのパールヴァティー神がみんなを見下ろしている。
いよいよクマリの館だ。クマリはネパール語で「処女」の意味。さっきお話ししたキラートのシャカ族の3~4歳の女の子が選ばれ、生きる処女神として崇拝される。 なんせ処女神さまなんで、初潮を迎えると交代となる。
二階の窓から顔を出すのを今か今かと待つんだけど、なかなか顔を出さない。ガイドさんの話を聞きながら待つけど、なかなか顔を出さない。
いつまで待たすの。しゃ~ないから、建物の写真でも撮すか。窓枠の木彫りがなんとも見事ですな~。
やっと顔を出した。でも、写真撮影は禁止なんで、ネットから借りてきた。大女神ドゥルガーや昔のネパール王国の守護神であるタレジュ女神、そして仏教徒からは密教女神ヴァジラ・デーヴィーが宿るとされ、王様ですらこの子にひざまずかねばならない。9月のインドラ・ジャトラの大祭の時に三日間山車に乗って町を練り歩き、邪気を祓い、人々に繁栄と成功の力を与えるんだけど、この時だけ撮影が許されている。
ハヌマン・ドカ。16世紀まで王様がお住まいになられていた旧王宮だ。王様が競うように建てたヒンドゥー教寺院が建ち並ぶ。

石柱の上に置かれた、ヨーグナレンドラ・マッラ王の像。コブラを後ろに従え、王宮の方角を向いている。
シヴァ神の化身、カーラ・バフラヴの像。刀を振り上げ生首をぶらさげた恐怖神だが、愛嬌があって可愛い。
左が旧王宮の門で、右が銃剣を持った衛兵さん。さっきマッラ朝まで話したけど、もうちょっとネパールの歴史のお勉強をしようね。10世紀ころからインドにイスラーム教徒が侵入してきた時、これに圧迫されてネパールに逃げ込んできた連中がいたんだけど、そのうちグルカを拠点にしていた連中が1769年にカトマンズに侵入し、グルカ王朝を建てた。これが現在の王様のご先祖さま。ところが勢い余ってチベットに侵入したもんだから、清の乾隆帝の討伐を受けて清の属国になってしまう。この王朝はここから1キロ余り離れたところに新王宮を建てたんだけど、2001年に新王宮で大変な事件が起きた。
6月1日、王族だけが集まる夕食会の席で、何者かが銃を乱射。写真のビレンドラ国王夫妻と王子・王女ら9名が射殺され、重態となったディペンドラ王太子が即位したんだけど3日後に死亡。現場にいなかった王弟のギャネンドラ王子が王位を継承した。
公式発表では「犯人はディペンドラ王太子(左の写真)。国王夫妻から結婚を反対されて自暴自棄になり、麻薬と酒で酩酊状態になり銃を乱射、自殺を図った」ということなんだが、その後発表された検視結果は「ディペンドラ王太子の身体からアルコールは検出されず、王太子は右利きだったのに、銃弾は左側頭部から右に貫通していた」。ん、おかしい、臭いぞ。その上、ギャネンドラ王子(右の写真)は地方視察で現場におらず、現場にいた息子のバラス王子は無傷だった。臭い、臭い、ぷんぷん臭うぞ。だいたい、どんな事件でも一番得した奴が犯人だ。てことは、王位についたギャネンドラが臭い。こんなの映画にしても、すぐ犯人ばれちゃって面白くも何ともないだろう。そのギャネンドラ国王も2008年6月11日共和政への移行にともなって王宮を退去し、240年続いたグルカ王朝はあっけなくその幕を下ろした。
あっ、僕の写真一枚もないぞ。
午後8時、ネパール料理の店で晩飯。

女の子たちが踊ってくれたけど、いまいち洗練されてないな~。今日は朝早くから起きてなんとも長い一日だった。はよホテルに帰って寝よう。(つづく)
3月2日(日)
午前6時30分、ホテルを出発。こんなに早くホテルを出発するには訳がある。
ヒマラヤ遊覧飛行に出かけるためだ。朝早いほうが天候が安定しているので、もたもたしている暇はない。前に遊覧飛行した経験のある人と、行きたくない人は、別行動でパタンのほうに見学に行く。ヒマラヤ遊覧飛行に行きたくない人がいるのか?って、それがいるんですよ。なんせ200ドル(当時のレートで20,600円)ですからね~。ほんのひとっ飛びで、2万円がそれこそ飛んでいくんで、行きたくないというのも分かるけど、こんな機会は絶対二度とないからということで、乗ることにした。
乗るのはバイラワからポカラに飛んだのと同じブッダ・エアー。午前7時35分、いよいよフライトです。それにしても窓汚ね~な。これじゃ、よく見えないでしょ。2万円もとるんだから、ちゃんと掃除しとけよな。
で、僕の座席は4C。19人乗りの飛行機で、操縦士とスチュワーデスを引いた残りがお客さん。前のほうの座席を占めているのはみんな白人だ。またかよ。なんで白人優先なんだよ!! 自分の席の小さな窓からじゃよく見えないので、一番いい席は、前方の大きく開けている左の一番前。そこに立派なカメラを構えた白人の爺さんが座っている。ヒマラヤ山脈が見え始めたら、順番にその席に行って写真を撮るんだけど、どう考えても白人連中の時間が長い。僕の僻みか。
自分の席に座っている時には、スチュワーデスが山脈の地図を指しながら、今見えているのがどの山なのか教えてくれるんだけど、早口の英語なんで「なるほど、なるほど」と納得したような顔するけど、本当は全然わかっていない。おまけに僕の席は右側なんで、ヒマラヤ山脈は反対側の窓から見ることになる。当然、帰りは右側にヒマラヤ山脈が見えることになるんだけど、帰りじゃ感動が薄くなってしまう。30分ほど飛ぶと、ヒマラヤの峰々が見えてきた。ごちゃごちゃ言ってないで、写真をお見せしよう。だけど、どれがどの山なのか説明はできません。
いや~、とにかく凄かった。絶景かな!絶景かな!ただ、残念ながら写真撮すのに夢中で、ファインダーばっかり覗いていて、肉眼でというか、直接山を見ることがほとんどなかったのが、残念だったけど、2万円の価値はじゅうぶんにありましたよ。もしネパールに行く機会あったら、是非乗ってみてくださいね。ただし、2011年9月26日の新聞に次のような記事が載ったので、覚悟して乗ってね。
「2011年9月25日朝、エベレスト遊覧飛行のためカトマンズ空港を出発したブッダ・エアー103便 ビーチクラフト 1900D型機が、遊覧飛行を終えカトマンズへ戻る途中で墜落した。乗員3人と乗客16人の19人全員が死亡した。乗客の内訳は、インド人10人、ネパール人3人、アメリカ人2人、日本人1人。現場付近は悪天候であった。」(つづく)
3月2日(日)
午前9時20分、ヒマラヤ遊覧飛行で天空を征したような気分になって、こんどは心を浄めるためボダナートへ。 カトマンズ渓谷にある高さ36メートルのネパール最大のストゥーパ(仏塔)だ。
このストゥーパはマンダラの構造をしている。4層の台座は地、直径27メートルの半円球のドームは水、西方を見据えるブッダの智慧の目が描かれた部分と13層の尖塔は火、その上の円形の傘は風、先端の小尖塔は空という、宇宙を構成する5大エネルギーを象徴しているんだって。地・水・火・風・空を「五大」とか「五輪」と言うんだけど、五輪と言ったってオリンピックじゃない。五輪と言ったら宮本武蔵の『五輪書』を思い浮かべる人もいると思うけど、その五輪だよ。
もともとこのあたりはタマン族と呼ばれた人々が住む静かな農村だった。かつてカトマンズとラサを結ぶヒマラヤ越えの交易が盛んだったころは、チベットからの商人や巡礼者は必ずこここに立ち寄って、無事にヒマラヤ越えが出来たことを感謝し、帰りには再び寄って旅の安全を祈ったそうだ。
ところが、1960年ころから多くのチベット人がこのあたりに住みつくようになる。なぜかって?1951年、人民解放軍がチベットに侵攻、「チベットは昔から中国の領土だった」という理由でチベットを制圧してしまう。このあと多くのチベット人が大量虐殺されていったんだけど、1959年に堪りかねたチベット人がついに蜂起する。しかし、中国はこれを徹底的に弾圧したため、ダライ=ラマ14世がインドに亡命した。この時に多くのチベット人がインドやネパールに亡命、ボダナートの周りにも多くのチベット人が集まって来て、だんだん賑わいを見せるようになった。だから、ボダナートの周りにはゴンパと呼ばれる僧院や土産物屋・喫茶店・宿屋などが軒を連ねている。ちょっとボダナートの周りを歩いてみよう。あっ、分かっていると思うけど、必ず右周りだよ。
屋根の上に法輪と「金色臥鹿」が金色に輝いているから、ゴンパ(僧院)だね。ちょっとチベット仏教の勉強してみようか。チベット仏教は昔ラマ教なんて呼ばれ、なんか怪しい宗教みたいに言われていた時代もあったけど、7世紀にインドから直輸入された正真正銘の正統派仏教。8世紀にインドから来た パドマサンバヴァ(グル・リンポチェ)が伝えたのがニンマ派(紅帽派)。13世紀にはサキャ派という派が力を持って、モンゴル帝国を懐柔することに成功。座主のパスパがフビライに国師として迎えられ、パスパ文字を作ったというのは世界史で勉強したよね。14世紀になると堕落したニンマ派にかわり、ツォンカパが戒律の厳しいゲルク派(黄帽派)を開いた。これが現在チベット仏教で一番大きな勢力となっていて、ダライ=ラマはゲルク派の座主なんだ。ボダナートの周りにはこのゲルク派・ニンマ派・サキャ派に加えカギュ派のゴンパもあって、チベット仏教の博覧会みたいになっている。時間があれば、1軒1軒ま覗いてみたいけどね。
マニ車があったので、廻してみる。マニ車については「チベット紀行」に詳しく書いたので、そっちを読んでね。
観光客が餌をやるから、やたらに鳩がいる。僕たちも餌を買って、鳩にあげる。これも功徳だよ。
両替商がいたので、5ルピー紙幣を200枚買った。買ったという表現はおかしいけど、正規のレートよりも高く手に入れたから、やっぱお金でお金を買ったんだよね。全部新券。何に使うかって?僕に教えられた生徒ならみんな分かってるよね。定期試験の成績優秀者にあげるご褒美だよ。これ貰った優秀な子は、これ読んでるかな。(つづく)
3月2日(日) 午前10時30分、今回の旅の最後の目的地パシュパティナートへ。パシュパティナートはネパール最大のヒンドゥー教寺院であるばかりでなく、インド亜大陸にある4大シヴァ寺院のひとつ。シヴァ神については「ベナレスー祈りと怒り!!!!」で書いたので、そっちを読んでね。中に入ってみたいのはやまやまだけど、ヒンドゥー教徒以外は立ち入り禁止なんで諦めるしかない。今日だけ一日ヒンドゥー教徒になってもいいんだけど、僕をヒンドゥー教徒だと誰も信じてくれないだろうしね。
パシュパティというのは「獣の王」という意味なんだけど、シヴァ神の化身のひとつ。シヴァ神はこのあたり一帯のムルガスタリ森をこよなく愛し、金の角を持つ鹿パシュパティとなってこの地に遊んだそうな。ムルガスタリって「鹿の住みか」という意味だそうだけど、お釈迦さまが最初に説法されたサールナートも鹿野苑【ろくやおん】だから、鹿の住むところが修行の場として適してるんだろうな。だから、今でもムルガスタリ森の中でサドゥーと呼ばれる修行者が修行しているんだって。『地球の歩き方』にも、「修行中のサドゥーに出会うこともあるので、時間が許せばぜひ一週してみたい」と書いてある。
ほら、出会った。
ほら、ここにも。派手な顔して。でも、どうも胡散臭いな~。だって、カメラ向けたら、しっかりポーズして、その上チップくれと手を出しよった。あんたら偽サドゥーだろ。シヴァ神の罰あたらんのかい。
寺院の中に入れないんで、裏手に回ってみる。裏手にはガンジス川の支流のバクマティ川が流れている。まあ、今は乾季なんで、流れているとはお世辞にも言えないような状態だけどね。丸い石の台座の上で何かやってるけど、何してるんだろう?ご祈祷、占い、人生相談?
こっちでもやってる。どう見ても、右側の坊主頭がバラモンだと思うんだけどね。紐みたいな袈裟らしきものも着けてるしね。ところが、左手の帽子被ってるのが取り仕切ってるみたいだし、何なんだろう。現地ガイドに聞いときゃ良かった。
このパシュパティナートで最大の見物はバクマティ川に臨むアルエガートで行われる火葬の儀式。見物といったら語弊があるけど、ここの火葬の様子は写真に撮ってもいいんだ。インドのベナレスでは絶対撮影禁止だったけどね。同じヒンドゥー教なのに、インドとネパールじゃ考え方が違うのかな~。まあ、めったに見られるものじゃないし、手を合わせながら(手を合わせたら写真撮れんけどね)、撮影させていただいた。ガートには火葬台が4台あって、この日はフル稼働だった。だから、異臭を帯びた煙があたり一面にたなびいている。まず、ご遺体がガートに運ばれて来る。
ガートに降ろされた遺体。
ご遺体の一部をバクマティ川に浸す。
日本でいったら喪主にあたる人物は髪の一部を剃り落とす。髪がちゃんと元に戻るまで、忘れることなく肉親の供養をするためだろうね、きっと。日本じゃ最近ろくに法事もしない人が増えてるけど、見習って欲しいもんだ。
薪を積んだ周りを1回右回りに回る。
その後、ご遺体の上にも薪を積んで、さらに藁を積んで火をつける。
ヒンドゥー教徒は輪廻転生を信じているので、墓は造らない。遺灰はそのままバクマティ川に流される。と言っても、この流れでは流れて行かないんじゃない。でも、別にいいのか。魂が抜けた遺体には何の意味もないと考えてるからね。魂はそのうち何か別のものに生まれ変わり、永遠にこれが続く。あ~あ、しんど。という訳で、この永遠に続く生き死にの苦しみから解き放たれようと言うのが解脱なんだけど、宗教的な話はまた別の機会にね。
たくさんの鳩が寺院のまわりを飛び回っている。なんか、亡くなった人の魂を天空に運んでいるようにも見える。僕もいつかはこうやって煙になってしまうんだ、と考えたら、何となく切なくなってしまった。
十分に火葬を楽しんで(この表現おかしいぞ)、空港へ。パタンに行っていた仲間と合流して、お昼は日本料理「田村」のお弁当をいただいたんだけど、これが昨日の昼飯と全く一緒。こら、手を抜くんじゃない。ちゃんと手配しろ。誰だ手配した奴は!!
午後2時40分発のタイ航空320便(TG320)でバンコクへ。バンコクで午後11時発のタイ航空622便(TG622)に乗り換えて関空へ。関空に着いたのが3月3日の午前6時10分。無事に着きましたと言いたいんだけど、奥さんのスーツケースが待てど暮らせど出て来ない。どっか別の空港に行っちゃったみたいで、家に帰ってきたのが3日後。帰国してもお土産配れなくて奥さんイライラ。
出発の時に僕のスーツケースは壊れるわ、奥さんのスーツケースはどっか行っちゃうわ、ベナレスで僕たちの飛行機の席は外人さんい行っちゃうわ、まあ散々な旅でした。お疲れさん。また、どっか行こう。(おわり)