なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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ブッダを知りませんか?
ブッダの一行は、やがてヴェーサーリーに到着する。ヴェーサーリーは現在のヴァイシャリー。パトナからガンジス川を渡り、北へ40キロほどのところに位置している。ブッダの頃はヴァッジ国の都が置かれ大変に繁栄していたようだが、今は畑と田んぼがどこまでも広がる長閑な農村地帯だ。ヴェーサリーはジャイナ教の開祖であるマハーヴィーラの生誕地としても知られ、また『維摩経』の主人公である維摩居士【ゆいまこじ】(ヴィマラ・キールティー)はこの町の大富豪だった人だ。
ヴァイシャリーにはマウリヤ朝のアショーカ王の建てた石柱碑が今でもしっかりと立っている。ブッダの誕生地ルンビニーや初転法輪の地サールナートのアショーカ王柱は前に紹介したけど、折れてしまってたよね。アショーカ王柱は30本ほど建てられたそうだけど、インドは地震国だからほとんどが倒れてしまっていて、ここヴァイシャリーのものだけが完全な形で残っている。頂上部にはライオンの像が乗っていて、その顔が向いている方角に立派なストゥーパがあり、土地の人々はアーナンダのものと伝えている。
ブッダはヴェーサーリーに到着すると、城内には入らずに、アンバパーリーのマンゴー林にとどまった。またマンゴー林だ。ブッダはよっぽどマンゴー林が大好きだったんだね。
ブッダはヴェーサーリーに到着すると、城内には入らずに、アンバパーリーのマンゴー林にとどまった。またマンゴー林だ。ブッダはよっぽどマンゴー林が大好きだったんだね。
写真はアンバパーリーの生家跡に立つ学校の門なんだけど、アンバパーリーはこの町に住んでいた高級娼婦。アンバパーリーは「マンゴー林の番人の子」という意味。アンバってマンゴーのことなんだ。小さい頃にマンゴー林に捨てられていたのを番人が育てたんで、そんな名前になったそうだ。もの凄い美人で、15歳の時に7人の王さまからプロポーズされたんだけど、みんな断ったんだって。美しいだけじゃなく、踊りや歌、音楽も巧みで、引く手あまただったから、当然料金も高い。娼婦というと貧しい人を連想しちゃうけど、アンバパーリーは裕福な生活をしていたらしい。
あの高名なブッダが自分のマンゴー林に滞在していると聞いたアンバパーリーは、高級車に乗ってマンゴー林に駆けつけ、ブッダの説法を聞いた後、「明朝は私の家で食事を取っていただきたい」と願い出た。もちろんブッダは答えはOK。喜び勇んで彼女は帰ったんだけど、よっぽど興奮してたんだね、前方から来る車の列に気がつかず、すれ違いざまに接触事故を起こしちゃったんだ。車の列はリッチャヴィ族の青年貴族たちがブッダのもとへ行こうと、これまた慌てていたんだ。リッチャヴィ族?ん、ヴァッジ国は共和制国家でヴァッジ族やリッチャヴィ族など8つの部族が構成していた国だ。
リッチャヴィ族の青年貴族たちは、アンバパーリーが翌朝ブッダを食事に招待していると聞いて、その権利を自分たちに譲れと彼女を脅かしたそうだ。しかし、アンバパーリーは「たとえヴェーサーリーの町をそっくりやると言われても、お断りだよ」ときっぱり断った。悔しくてしょうがない青年貴族たちは急いでブッダのもとに駆けつけ、「あんな娼婦のような下品な女のところで食事せずに、是非われわれの家で食事をなさって下さい」とブッダにお願いした。ブッダの答えは、NO。「すでに先約がある」ということで、きっぱりと断られた。ブッダは娼婦の招待であろうと貴族の招待であろうと分けへだてなく、先に交わした約束を守られたんだ。当たり前みたいだけど、これがバラモンだったらまず娼婦の招待は断ってるだろうね。身分や性別に関係なく法を説かれたブッダの態度は注目に値する。
翌朝、ブッダは弟子たちとともにアンバパーリーの心のこもった食事の供養を受けられた。その時、アンバパーリーは自分の所有するマンゴー林をブッダにプレゼントした。こうしてヴェーサーリーに建てられたのが菴羅樹園精舎【あんらじゅおんしょうじゃ】だ。アンバパーリーは後に出家して尼さんになってるよ。
アンバパーリーのマンゴー林に心ゆくまで留まって後、ブッダとその一行はベールヴァ村にやって来た。ブッダは弟子たちに雨季の近いことを告げ、ヴェーサーリーの近くの知人や友人を訪ねて、そこで雨安居【うあんご】に入るように 言った。
インドの雨季はデリーだと6月中旬から9月の中旬まで。この時期には草木が生い繁り、昆虫や蛇など多くの小動物が活動し、また疫病が流行ったりもするので、遊行は避けたほうがいい。また、むやみに歩き回ると活動している小動物を踏みつぶしたりして無用な殺生をすることになるんで、当時の修行者はバラモン教でもジャイナ教でも旅に出ることをひかえ、家の中に閉じこもる習慣があった。サンガでもこの習慣を取り入れて、雨安居や夏安居【げあんご】の制度として、インド暦第4月の満月の翌日から3カ月90日間は、洞窟や家屋や僧院の中に閉じこもって、修行に専念した。竹林精舎のような施設があればみんな一緒に雨安居できるんだけど、そんな施設がなかったから弟子たちが分散することになったというわけだ。ということは、ブッダに従っていた弟子の数は10人や20人じゃなかったということだね。
ブッダ本人はベールヴァ村でアーナンダと二人雨安居に入った。その時、ブッダに恐ろしい病が生じ、死ぬほどの激痛が起こった。しかし、ブッダは禅定して精神を整え、この苦痛を耐え忍び、やがてその病苦は鎮まった。苦しむブッダの姿を見て茫然自失したアーナンダであったが、ブッダが立ち上がるのを見てほっとしたのだろう、「尊師が教団や弟子に後のことを何も指示せずにこの世を去るとは思えませんでした。病が治られて安心しました」と言った。
いよいよ自分の身に死の影が忍び寄り始めたことを感じたんだろう。ブッダは遺言めいた言葉を語り始めた。一語一語噛みしめながら読んでね。
「アーナンダよ。修行僧たちはわたくしに何を期待するのであるか?わたくしは内外の隔てなしに(ことごとく)理法を説いた。究【まった】き人の教えには、何ものかを弟子に隠すような教師の握拳【にぎりこぶし】は、存在しない。『わたくしは修行僧のなかまを導くであろう』とか、あるいは『修行僧のなかまはわたくしに頼っている』とこのように思う者こそ、修行僧のつどいに関して何ごとかを語るであろう。しかし向上につとめた人は。『わたくしは修行僧のなかまを導くであろう』とか、あるいは『修行僧のなかまはわたくしに頼っている』とか思うことがない。向上につとめた人は修行僧のつどいに関して何を語るであろうか
アーナンダよ。わたしはもう老い朽ち、齢をかさね老衰し、人生の旅路を通り過ぎ、老齢に達した。わが齢は八十となった。譬えば古ぼけた車が革紐の助けによってやっと動いて行くように、恐らくわたしの身体も革紐の助けによってもっているのだ。
いよいよ自分の身に死の影が忍び寄り始めたことを感じたんだろう。ブッダは遺言めいた言葉を語り始めた。一語一語噛みしめながら読んでね。
「アーナンダよ。修行僧たちはわたくしに何を期待するのであるか?わたくしは内外の隔てなしに(ことごとく)理法を説いた。究【まった】き人の教えには、何ものかを弟子に隠すような教師の握拳【にぎりこぶし】は、存在しない。『わたくしは修行僧のなかまを導くであろう』とか、あるいは『修行僧のなかまはわたくしに頼っている』とこのように思う者こそ、修行僧のつどいに関して何ごとかを語るであろう。しかし向上につとめた人は。『わたくしは修行僧のなかまを導くであろう』とか、あるいは『修行僧のなかまはわたくしに頼っている』とか思うことがない。向上につとめた人は修行僧のつどいに関して何を語るであろうか
アーナンダよ。わたしはもう老い朽ち、齢をかさね老衰し、人生の旅路を通り過ぎ、老齢に達した。わが齢は八十となった。譬えば古ぼけた車が革紐の助けによってやっと動いて行くように、恐らくわたしの身体も革紐の助けによってもっているのだ。
しかし、向上につとめた人が一切の相をこころにとどめることなく一部の感受を滅ぼしたことによって、相の無い心の統一に入ってとどまるとき、そのとき、かれの身体は健全(快適)なのである。
それ故に、この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ」
ブッダは「教師の握拳」は存在しないと言っている。自分は何一つ隠すことなく、自分の見いだした法を説いて来たのだと。そして、自分は教団の指導者ではない、とはっきり明言した。頼るべきは己自身しかない。それは傲慢とは違う。己一人、ブッダの見いだした永遠の法を求めて、ひたすらに歩んでいく。「自灯明、法灯明」、すなわち、自己を灯明とし、自己をたよりとして、他人をたよりとせず、法を灯明として、法を拠り所として、他のものを拠り所としないように、というのは、ブッダの遺言として有名だけど、ここでは灯明ではなく、島となっている。実は原語はディーバで、島あるいは洲と訳すのが正しいんだ。島とは輪廻という大海の波に翻弄されている我々が自らを救うことが出来る唯一のもの。島を求めよ。そうしなければ、欲望の海で溺れてしまう。
「わたしの身体も革紐の助けによってもっているのだ」というブッダの言葉は、まさに人間ブッダのつぶやきとしてリアルに僕の心に響いてくる。偉大なるブッダではなく、一人の老人の弱音を吐いた言葉として。そして、この後いよいよ、ブッダは死別の決意と予告をすることになる。(つづく)
それ故に、この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ」
ブッダは「教師の握拳」は存在しないと言っている。自分は何一つ隠すことなく、自分の見いだした法を説いて来たのだと。そして、自分は教団の指導者ではない、とはっきり明言した。頼るべきは己自身しかない。それは傲慢とは違う。己一人、ブッダの見いだした永遠の法を求めて、ひたすらに歩んでいく。「自灯明、法灯明」、すなわち、自己を灯明とし、自己をたよりとして、他人をたよりとせず、法を灯明として、法を拠り所として、他のものを拠り所としないように、というのは、ブッダの遺言として有名だけど、ここでは灯明ではなく、島となっている。実は原語はディーバで、島あるいは洲と訳すのが正しいんだ。島とは輪廻という大海の波に翻弄されている我々が自らを救うことが出来る唯一のもの。島を求めよ。そうしなければ、欲望の海で溺れてしまう。
「わたしの身体も革紐の助けによってもっているのだ」というブッダの言葉は、まさに人間ブッダのつぶやきとしてリアルに僕の心に響いてくる。偉大なるブッダではなく、一人の老人の弱音を吐いた言葉として。そして、この後いよいよ、ブッダは死別の決意と予告をすることになる。(つづく)
ブッダを知りませんか?
「自灯明、法灯明」の説法の後、ある朝早く、ブッダはアーナンダを連れてヴェーサーリーに托鉢に行ったんだけど、それはまるで巡礼のようで、ブッダはそれを楽しんでいるようだった。そして、休息のためにチャーパーラ霊樹と呼ばれる大樹の下に設けた座に落ち着いたブッダは、しみじみと感慨の言葉をもらす。
「アーナンダよ。ヴェーサーリーは楽しい。ウデーナ霊樹の地は楽しい。ゴータマカ霊樹の地は楽しい。7つのマンゴーの霊樹の地は楽しい。バフプッタの霊樹の地は楽しい。サーランダダ霊樹の地は楽しい。チャーパーラ霊樹の地は楽しい。
※アーナンダよ。ヴェーサーリーは楽しい。この世界もまた美しい。人間の生命は甘美なものだ。」
(※の部分はサンスクリット本『大パリニッバーナ経』で付け加えられたもので、パーリ本にはありませんが、死を目前にした人間ブッダの心境をよく表していると思いますので、あえて付け加えました)
いや、そうではないだろう。ブッダの教えの根幹にあるのは、愛おしいまでの人間への愛情、いや人間だけはなく、生きとし生けるものへの愛情なんだ。徳川家康が馬印に用いた浄土教の「厭離穢土欣求浄土【おんりえどごんぐじょうど】」が有名だから、仏教は厭世的宗教だと思っているかも知れないが、そうではない。あの世が大事なら、ブッダは悟りを開いた時に、さっさとあの世とやらに行ってしまったに違いない。それを踏みとどまったのは、この世界で苦しむ愛おしい人間への愛情があったからだ。この世の苦しみはこの世でしか解決できない。この世は自分の思い通りにならず苦しく、人間は欲望にまみれている。でも、この世ほど、人間ほど素晴らしいものはない。ブッダはもともとすべてをすあるがままに肯定していたんだ。ただ、苦しみから解放されるためには、徹底してこの世を苦しみの世界と見なければならない。僕みたいな生ぐさ坊主に「この世界は美しい。人間の生命は甘美だ」なんて話したら、すぐに修行なんて止めちゃうよ。
「犀の角のように一人歩め」(『スッタニパータ』)はブッダの言葉だが、多くの人々を苦しみから救い、犀の角のように歩んできたブッダの生涯。ずっと張り詰めてきた緊張感がふっと解けた時、自然に口をついて出て来た言葉だったように思う。
この後、ブッダはアーナンダに次のように語った。
「アーナンダよ。いかなる人であろうとも、四つの不思議な霊力(四神足【しじんそく】)を修し、大いに修し、(軛【くびき】を結びつけられた)車のように修し、家の礎のようにしっかりと堅固にし、実行し、完全に積み重ね、みごとになしとげた人は、もしも望むならば、寿命のある限りこの世に留まるであろうし、あるいはそれよりも長いあいだでも留まることができるであろう。」
ここでブッダは大変重要なことを言ってるよね。ブッダは死なず、いつまでもこの世に留まることができる、と。ところが悪魔に取り憑かれていたアーナンダはそのことに気がつかないんだ。ブッダは同じことを4回も繰り返したにもかかわらず、アーナンダは「この世の人々を救うために永く留まって下さい」という言葉を思いつくことさえ出来なかった。
アーナンダを下がらせたブッダは、一人で瞑目してたんだけど、そこへマーラーが現れる。マーラーって、覚えてる?そう悪魔だったよね。ブッダが悟りを開こうとしている時に邪魔をしに来た奴だ。こいつがまた現れてこんなことを言う。「ブッダよ。今あなたはこの世を去るべき時です。弟子たちの心はよく定まり、道にかなう行いをしています。今やブッダの説いた法は人々の間に栄え、広がり、多くの人に知られるようになりました。もういいでしょう。今こそ、この世を去る時ですよ。イヒヒヒヒヒヒ。」
ブッダはしばらく考えた後、こう答えた。
「悪しき者よ。汝は心あせるな。久しからずして修行完成者のニルヴァーナが起こるであろう。いまから三カ月過ぎて後に修行完成者は亡くなるであろう。」
こうしてブッダは自らの生命を放棄した。その後でそのことを知ったアーナンダが、「寿命のある限りこの世に留まって下さい」と、3回にわたってブッダにお願いした。しかし、ブッダの返答は冷たい。「だったら、なんで前に暗示した時にそう言わなかったんだ。もしあの時に3回頼んでいたら、私はそれを承認しただろう。そうしなかったため、私は3カ月後に命を終えることになった。これはおまえの過失であり、罪である。」なんと、厳しいお言葉。でも、ブッダが本当にこんなこと言ったと思う?僕は思わない。これは伝記作者がつけ加えたことで、後世の作り話だ。
もし、アーナンダが悪魔に取り憑かれてなくて、「この世の人々を救うために永く留まって下さい」とお願いしていたら、ブッダはそうしてたんだろうか?もちろんそんなことはあり得ない。すべてこの世は諸行無常なのであり、法に従う限り、たとえブッダといえども永遠の生命はあり得ない。そんなことになったらブッダは神になってしまい、仏教では なくなってしまう。イエスは磔刑の3日後に蘇り、神の子であるとされた。しかし、ブッダはあくまでも人間として一生を終えるんだ。法華経ではブッダは永遠であるとしと、僕らはこれを「久遠実成本師釈迦牟尼仏【くおんじつじょうほんししゃかむにぶつ】」として崇拝の対象としているが、それはブッダが見いだした永遠の法のことである。
ブッダはこの後、アーナンダにヴェーサーリーの近くに住む修行僧を重閣【じゅうかく】講堂に集めるように命じた。前回お話ししたアショーカ王柱とアーナンダのものとされるストゥーパの裏手に沐浴するための池があるんだけど、伝説ではお猿さんが掘ってブッダに寄進したとされている。重閣講堂はこの池のほとり、大林のうちにあったとされ、大林精舎とも言われる。精舎というと平家物語の影響で日本人なら誰でも知っている祇園精舎があるけど、これはコーサラ国の都シュラヴァスティーにあった精舎だ。マガダ国の都ラージャガハの霊鷲山にあった霊鷲精舎とビンビサーラ王が寄進したた竹林精舎、前回話したアンンバーパーリーの寄進した菴羅樹園精舎と大林精舎、この5つの精舎をインドの5大精舎と言うんだけど、ヴェーサーリーに2箇所もあったことで、ヴェーサーリーが仏教にとっていかに重要な場所だったかが分かるよね。
実はここから2キロほど離れたストゥーパの跡から仏舎利が発見されている。仏舎利はブッダの遺骨のこと。舎利というのはサンスクリット語で遺骨を意味するシャリーラの音訳。お寿司やさんで寿司飯のことをシャリというのは、米粒の色や形が火葬したあとに残る粒状の骨に似てるからなんだよ。発掘された仏舎利は現在パトナ博物館に展示されてるそうだけど、僕はまだ拝んだことはない。ブッダが亡くなった後、その遺骨は8つの国・部族で分配され、それぞれの国・部族でストゥーパを建てたんだけど、これを八分起塔といっている。ヴェーサーリーのリッチャヴィ族も遺骨を分配されているんで、仏舎利が発見されたストゥーパ跡は間違いなくこの八分起塔の一つだ。後にマガダ国のアショーカ王が八分起塔から仏舎利を取り出して、インド各地にストゥーパを建立したんだけど、その時にお猿さんの池の近くに移した可能性があり、7世紀にこの地を訪れた玄奘は大林精舎には8つのストゥーパがあったと書き残している。
でも、それは後の話で、ブッダの頃の重閣講堂は小さな施設だったんだろうね。そうでなかったら、分散して雨安居を迎える必要ないもんね。重閣講堂に集まった修行僧にブッダは次のような遺言を残した。
「さあ、修行僧たちよ。わたしはいまお前たちに告げよう。ーもろもろの事象は過ぎ去るものである。怠けることなく修行を完成なさい。久しからずして修行完成者は亡くなるであろう。これから三カ月過ぎたのちに、修行完成者は亡くなるだろう。」
「わが齢は熟した。
わが余命はいくばくもない。
汝らを捨てて、わたしは行くであろう。
わたしは自己に帰依することをなしとげた。
汝ら修行僧たちは、怠ることなく、よく気をつけて、
よく戒めをたもて。
その思いをよく定め統一して、おのが心をしっかりとまもれかし。
この教説と戒律とにつとめはげむ人は、生まれをくりかえす輪廻をすてて、苦しみも消滅するであろう。」
でも、それは後の話で、ブッダの頃の重閣講堂は小さな施設だったんだろうね。そうでなかったら、分散して雨安居を迎える必要ないもんね。重閣講堂に集まった修行僧にブッダは次のような遺言を残した。
「さあ、修行僧たちよ。わたしはいまお前たちに告げよう。ーもろもろの事象は過ぎ去るものである。怠けることなく修行を完成なさい。久しからずして修行完成者は亡くなるであろう。これから三カ月過ぎたのちに、修行完成者は亡くなるだろう。」
「わが齢は熟した。
わが余命はいくばくもない。
汝らを捨てて、わたしは行くであろう。
わたしは自己に帰依することをなしとげた。
汝ら修行僧たちは、怠ることなく、よく気をつけて、
よく戒めをたもて。
その思いをよく定め統一して、おのが心をしっかりとまもれかし。
この教説と戒律とにつとめはげむ人は、生まれをくりかえす輪廻をすてて、苦しみも消滅するであろう。」
見返りの丘
ある朝早く、ブッダはヴェーサーリーで托鉢して帰って来て、食事をすませた後、小高い丘に立った。そして、まるで象があたりを眺めるようにゆっくりと頭をめぐらせると、万感の思いを込めたような目をして町を眺め、ぽつりと言った。
「アーナンダよ。これは修行完成者がヴェーサーリーを見る最後の眺めとなるであろう。さあ、アーナンダよ。パンダ村へ行こう。」
それから間もなく、ブッダは多くの弟子たちとともに北へと向かってとぼとぼと歩き始めた。いよいよブッダ最後の旅となる。(つづく)
ブッダを知りませんか?
慣れ親しんだヴェーサーリーを、後ろ髪をひかれる思いで後にしたブッダは、教えを説きながら、パンダ村、ハッティ村、アンバ村、ジャンブ村、ボーガ市を経て、パーヴァー村にたどり着き、当地の鍛冶工であるチュンダのマンゴー林に留まった。マンゴー林なんか持ってるくらいだからチュンダはかなり裕福だったんだろうね。鍛冶工と言っても金銀細工をする職人も鍛冶工だし、いわゆる村の鍛冶屋みたいな鍬や鋤を作っているのも鍛冶工だけど、いずれにしても金属を加工する人はインドのカースト社会では最下層のシュードラで、卑しい身分とされていたそうだ。実は僕のご先祖さんは羽咋の滝谷の出身で屋号を「かんじや」と言うんだけど、これは鍛冶屋ということで、僕はひょっとしたらチュンダの生まれ変わりかも知れない。(ほな、アホな)
チュンダはブッダが自分のマンゴー林に滞在していると聞き、飛んできて挨拶し、ブッダの法話を聴いた。感激したチュンダは明朝、修行僧とともにブッダを食事に招待したいと申し出て、ブッダはこれを承認された。はりきったチュンダはたくさんのご馳走を作り、ブッダの一行を迎えた。ところが、特別に出されたキノコ料理を見たブッダが、「そのキノコ料理は私が食べよう。キノコ以外の料理をすべての弟子たちに与えなさい」と言ったというんだ。なんだ、ブッダは美味しいキノコ料理を独り占めしたんだ、なんて思っちゃいけないよ。これにはちゃんと理由があるんだけど、それはもうちょっと後でね。
「さて尊師が鍛冶工のチュンダの食物を食べられたとき、激しい病いが起こり、赤い血がほとばしり出る。死に至らんとする激しい苦痛が生じた。尊師は実に正しく念い、よく気をおちつけて、悩まされることなく、その苦痛を耐え忍んでいた。
さて尊師は若き人アーナンダに告げられた、「さあ、アーナンダよ、われらはクシナーラーに赴こう」と。
「かしこまりました」と、若き人アーナンダは答えた。」
ブッダが食べたのは毒キノコだったんだね。「赤い血がほとばしり」というリアルな表現をしているけど、そうとう激しい下痢と下血があったようだ。もちろんチュンダに悪意があったわけではなく、間違って毒キノコが混入してしまったんだと思うけど、腑に落ちない点が一つある。それはブッダが毒キノコだと判っていたんだろうということ。だって、キノコ料理を独り占めして、弟子達には食べさせていないもんね。でも、やっぱおかしいな~。毒キノコと判っていたら、食べなきゃいいもんね。経典編集者はブッダに神通力があったから、最初から毒キノコだと判っていて、それでも敢えて食べたみたいに書いてある。でも、実際には知らずにブッダが最初に箸をつけ、一口食べて毒キノコだと判ったんだと思う。だから、弟子達には食べさせないようにして、なおかつチュンダには残ったキノコ料理を穴に埋めるように命じている。
実はこの毒キノコと訳されている物の原語はスーカラマッダヴァ。これ直訳すると「柔らかい豚肉」なんだ。じゃ、なんで毒キノコと訳してるのか、ってことだ。ブッダが豚肉を食べるはずがないという先入観だろうね。なかにはトリュフみたいに豚が好むキノコのことじゃないか、という苦しい解釈をしている学者さんもいるみたいだけどね。ブッダは菜食主義者で肉は食べなかったか?答えはNOだ。供養された食事は断ってはいけない。だから、ブッダに供養するために殺された牛や豚でない限り、ブッダは断わることなく、食べていたんだ。だから、僕はここは素直に豚肉でいいと思う。しっかり調理してなくて、サルモネラ菌でもいたんじゃないかな。そうすれば、チフスということも考えられる。
出血の止まらないブッダの体力は、みるみるうちに落ちてゆく。臨終の地クシナーラーへの道は最後の力を振り絞っての苦しい旅となった。広大なインドの野を、太陽の光にあぶられ、土埃を頭から浴び、身をひきずるように歩んでいくブッダの姿は、凄惨である。
ある町では道の脇に立ち止まり、大樹のもとに身を寄せると、
「さあ、アーナンダよ。お前はわたしのために外衣を四つ折りにして敷いてくれ。わたしは疲れた。わたしは坐りたい。」と言って、崩れるように倒れ込んでしまう。
「さあ、アーナンダよ。わたしに水をもって来てくれ。わたしは、のどが渇いている。わたしは飲みたいのだ。」
こう言われたアーナンダは「たった今、500台の車が通りすぎたばかりで、河の水は濁っていてとても飲めません」と答えたのだが、ブッダは再三にわたり水が飲みたいと要求する。まるで駄々っ子のようだ。アーナンダは仕方なく水を汲みに行くのだが、不思議なことにすでに水は清く澄んでいた。ブッダはアーナンダが汲んできた水を美味しそうに飲み、口の渇きをいやした。
「末期の水」って、知ってる?脱脂綿やガーゼを割り箸の先につけて、水を含ませて、亡くなった人の口を潤してあげることだけど、ブッダのこの故事がもとになってるんだよ。
ブッダがクシナーラーに間近い道の途中の樹の下で休んでいると、マッラ族の人ブックサという者が来て、ブッダに法話を求めた。この人はアーラーラ・カーラーマの弟子だ。アーラーラ・カーラーマって覚えてる?出家したシッダールタが最初に教えを求めた仙人だったよね。ブックサはブッダの教えに感銘し、終生帰依する在俗信者となることを誓い、ブッダに2枚の金色に輝く絹衣を差し上げた。ブッダはその1枚をアーナンダにあげちゃう。
ブックサが去ってから、アーナンダが金色の衣をブッダに着せかけたところ、その衣は輝きを失ったように見えたというんだ。と言うことは、ブッダの身体のほうが輝いて見えたということで、ブッダの身体は金色であると考えられるようになったんだ。
「さてアーナンダよ。今夜最後の更【こう】にクシナーラーのウパヴァッタナにあるマッラ族の沙羅【さら】林の中で二本並んだサーラ樹の間で修行完成者の完全な死が起こるであろう。
さあ、アーナンダよ。われわれはカクッター河へ行こう。」
さあ、アーナンダよ。われわれはカクッター河へ行こう。」
自らの死を予告したブッダは、カクッター河で沐浴し、水を飲んで、流れを渡った。マンゴー林に到着すると、チュンダカに外衣を4つに折って敷いてくれるように頼んだ。チュンダカはキノコ料理を供養したチュンダとは別人だよ、ややこしいね。チュンダカの名前でチュンダを思い出したのか、ブッダはアーナンダに、
「おそらく人々は鍛冶屋のチュンダに向かって、お前が出した供養のキノコ料理を食べてブッダがこの世を去ったのだと非難し、チュンダを苦しめるであろう。
アーナンダよ、最後の供養をささげたチュンダには大いなる功徳ありと師より聞いていると、お前の口からチュンダに言ってくれ。わたしの生涯で他の供養の食物よりはるかに優れた最上の供養の食物が二つあった。その二つとはスジャータの供養とチュンダの供養であったと。そうすればチュンダの悔いる心は晴れるであろう。」と告げた。
「与える者には、功徳が増す。身心を制する者には、怨みのつもることがない。善き人は悪事を捨てる。その人は、情熱と怒りと迷妄とを滅して、束縛が解きほごされた」と。
後にアーナンダからブッダの言葉を聞いたチュンダは、その優しい思いやりに涙を流したに違いない。
クシナーラーのウパヴァッタナに到着したブッダは、アーナンダにこう言った。
「さあ、アーナンダよ。わたしのために、二本並んだサーラ樹の間に、頭を北に向けて床を用意してくれ。アーナンダよ、わたしは疲れた。横になりたい」と。
ブッダはアーナンダの用意した床に、右脇を下にして、右足の上に左足を重ね、衰弱した身体を横たえた。現在その地には大涅槃堂が建っている。1956年ブッダ生誕2500年記念としてミャンマー僧によって建立されたそうだ。丸窓のついたかまぼこみたいな形の建物が大涅槃堂だけど、 建物の両側に立ってるのがサーラ樹。サーラ樹が2本並んでるんで沙羅双樹【さらそじゅう】なんだけど、古典の時間に習った『平家物語』の冒頭部分「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす」で有名だよね。
「さあ、アーナンダよ。わたしのために、二本並んだサーラ樹の間に、頭を北に向けて床を用意してくれ。アーナンダよ、わたしは疲れた。横になりたい」と。
ブッダはアーナンダの用意した床に、右脇を下にして、右足の上に左足を重ね、衰弱した身体を横たえた。現在その地には大涅槃堂が建っている。1956年ブッダ生誕2500年記念としてミャンマー僧によって建立されたそうだ。丸窓のついたかまぼこみたいな形の建物が大涅槃堂だけど、 建物の両側に立ってるのがサーラ樹。サーラ樹が2本並んでるんで沙羅双樹【さらそじゅう】なんだけど、古典の時間に習った『平家物語』の冒頭部分「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす」で有名だよね。
日本で沙羅の木と言ってるのはナツツバキのこと。インドのサーラ樹はフタバガキ科の熱帯樹で、高さ30メートルを超す大木になり、春に白い花を咲かせる。ソチオリンピックで残念ながらメダルを取れなかった高梨沙羅ちゃんの沙羅はどっちなんかな~。 ブッダが横たわった時、サーラ樹は突然花が咲きだして満開になり、ブッダを供養するためにブッダの身体に降り注いだそうだ。
写真は大涅槃堂内の涅槃仏。1876年にアレキサンダーカニンガムが近くのヒラニヤヴァティー河の河床から発掘したもので、全長6,1メートルもある。5世紀のグプタ朝時代に造られたもので、赤砂岩製なんでもともとは赤色をしてたんだけど、仏滅2,500年の大祭の時、ミャンマーの仏教徒により金箔が施され現在の色となったそうだ。経典に書かれている通り、北を枕にして横たわっておられるけど、これを「頭北面西」という。頭を北にして右脇を下にすれば、自然に顔は西を向くことになるけど、インドではこれが最上の横臥法と考えられていたそうだ。人が亡くなったら北枕にする習俗があるけど、これに由来してるんだよ。みんな、まさか北を枕にして寝てないだろうね。それ、死んだ時だけだよ。
アーナンダは悲しみに襲われ、戸の横木によりかかって号泣する。アーナンダがそばにいないことに気づいたブッダは、修行僧に呼びに行かせた。横たわるブッダの傍らに力なく立ったアーナンダにブッダは優しく語りかける。
「やめよ、アーナンダよ。悲しむな。嘆くな。アーナンダよ。わたしは、あらかじめこのように説いたではないか、ーすべての愛するもの・好むものからも別れ、離れ、異なるに至るということを。およそ生じ、存在し、つくられ、破壊さるべきものであるのに、それが破滅しないように、ということが、どうしてありえようか。アーナンダよ。そのようなことわりは存在しない。アーナンダよ。長い間、お前は、慈愛ある、ためをはかる、安楽な、純一なる、無量の、身とことばとこころとの行為によって、向上し来れる人(=ブッダ)に仕えてくれた。アーナンダよ、お前は善いことをしてくれた。努めはげんで修行せよ。速やかに汚れのないものとなるだろう。」
25年の長きにわたりブッダに仕えてきたアーナンダへの労い言葉とともに、お前もやがて悟りを開くだろうと励ましの言葉をかけるブッダ。弟子の中ではまだ悟りを得ていない人々の側にいたアーナンダは、ブッダのこの言葉にひれ伏した。
ブッダはアーナンダに、これからクシナーラーの町に行って、今夜半、ブッダが亡くなると伝えよと命じた。アーナンダが一人の弟子を連れて町へ行き、ブッダの言葉を告げると、マッラ族の人々は驚き、慌てふためいてサーラ樹の林に駆けつけたんだけど、その中にスバッタという名の遍歴行者がいた。この時、120歳だったというから驚きだ。このスバッタがアーナンダに近づいてきて言った。
「アーナンダよ、私には疑いがあります。しかし、私は自分のもっている疑いをブッダが除くことができると信じています。どうか、ブッダに会わせて下さい。」
ブッダは臨終の床にある。それにスバッタの態度はいささか強引だ。カチンときたアーナンダは、ブッダを悩ませてはいけないと言って、願い出を拒否した。スバッタは3回面会を求め、3回ともアーナンダは断った。しかし、そのやりとりを聞いていたブッダはこう言った。
「 やめなさい、アーナンダよ。遍歴行者スバッタを拒絶するな。スバッタが修行を続けてきた者(=ブッダ)に会えるようにしてやれ、スバッタがわたしにたずねようと欲することは、何でもすべて、知ろうと欲してたずねるのであって、わたしを悩まそうとしてたずねるのではないであろう。かれがわたしにたずねたことは、わたしは何でも説明するであろう。」と。
アーナンダは悲しみに襲われ、戸の横木によりかかって号泣する。アーナンダがそばにいないことに気づいたブッダは、修行僧に呼びに行かせた。横たわるブッダの傍らに力なく立ったアーナンダにブッダは優しく語りかける。
「やめよ、アーナンダよ。悲しむな。嘆くな。アーナンダよ。わたしは、あらかじめこのように説いたではないか、ーすべての愛するもの・好むものからも別れ、離れ、異なるに至るということを。およそ生じ、存在し、つくられ、破壊さるべきものであるのに、それが破滅しないように、ということが、どうしてありえようか。アーナンダよ。そのようなことわりは存在しない。アーナンダよ。長い間、お前は、慈愛ある、ためをはかる、安楽な、純一なる、無量の、身とことばとこころとの行為によって、向上し来れる人(=ブッダ)に仕えてくれた。アーナンダよ、お前は善いことをしてくれた。努めはげんで修行せよ。速やかに汚れのないものとなるだろう。」
25年の長きにわたりブッダに仕えてきたアーナンダへの労い言葉とともに、お前もやがて悟りを開くだろうと励ましの言葉をかけるブッダ。弟子の中ではまだ悟りを得ていない人々の側にいたアーナンダは、ブッダのこの言葉にひれ伏した。
ブッダはアーナンダに、これからクシナーラーの町に行って、今夜半、ブッダが亡くなると伝えよと命じた。アーナンダが一人の弟子を連れて町へ行き、ブッダの言葉を告げると、マッラ族の人々は驚き、慌てふためいてサーラ樹の林に駆けつけたんだけど、その中にスバッタという名の遍歴行者がいた。この時、120歳だったというから驚きだ。このスバッタがアーナンダに近づいてきて言った。
「アーナンダよ、私には疑いがあります。しかし、私は自分のもっている疑いをブッダが除くことができると信じています。どうか、ブッダに会わせて下さい。」
ブッダは臨終の床にある。それにスバッタの態度はいささか強引だ。カチンときたアーナンダは、ブッダを悩ませてはいけないと言って、願い出を拒否した。スバッタは3回面会を求め、3回ともアーナンダは断った。しかし、そのやりとりを聞いていたブッダはこう言った。
「 やめなさい、アーナンダよ。遍歴行者スバッタを拒絶するな。スバッタが修行を続けてきた者(=ブッダ)に会えるようにしてやれ、スバッタがわたしにたずねようと欲することは、何でもすべて、知ろうと欲してたずねるのであって、わたしを悩まそうとしてたずねるのではないであろう。かれがわたしにたずねたことは、わたしは何でも説明するであろう。」と。
僕はこの時のブッダと宮沢賢治がだぶってしまう。賢治は昭和8年(1993)9月21日に37歳で亡くなったんだけど、その2日前の19日は3日間続いた稗貫の神社の祭礼の最終日だった。その夜、神輿を拝みたいと、店先から見物。ところが冷気にあたっため呼吸困難におちいり、様態が急変する。亡くなる前日の夜、一人の農民が肥料相談にやって来た。賢治は高熱で喘いでいる。家の者は面会を断ろうとしたんだけど、賢治は「大事なことだから」と、夜遅くまで相談にのっていたそうだ。ブッダも賢治も死の直前まで、伝道者であり続けたんだ。僕もそうなりたいけど、まあ無理かな。
ところで、スバッタの質問はつまらないものだった。仏弟子とは違う6名の高名な修行者の名をあげ、彼らは本当に真理をわかっているのかと、聞いたんだ。この質問は当然ブッダにも向けられていたんだろうね。あんた、本当に真理が分かってんの?死の床にあるブッダへの質問としてはあまりにも底意地が悪い。身体が衰弱しきっているブッダを相手に論争をしかけようとしたんだね。この質問に対してブッダは「スバッタよ、そのように言ってはいけない」と言い、直接質問に答えず、こう語った。
「スバッタよ。わたしは二十九歳で、何かしら善を求めて出家した。
スバッタよ。わたしは出家してから五十年余となった。
正理と法の領域のみを歩んで来た。
これ以外には〈道の人〉なるものも存在しない。」
ブッダにとって形而上の問題はどうでもよいことだった。人生の問題を解決することこそ第一であり、苦を滅して安楽の境地に向かうことがブッダの教えの核心であることを、スバッタにも示した。スバッタはその場でブッダに帰依し、ブッダ最後の弟子となった。
「さあ、修行僧たちよ。お前たちに告げよう。『もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成なさい』と。」
これがブッダ最後の言葉となり、ブッダは安らかに息をひきとった。ブッダ80歳。雨季が終わってから3カ月程後ということなので、10月か11月のことだったと考えられるが、南伝仏教ではヴァイシャーカ月の満月の日、日本では2月15日とされている。
これがブッダ最後の言葉となり、ブッダは安らかに息をひきとった。ブッダ80歳。雨季が終わってから3カ月程後ということなので、10月か11月のことだったと考えられるが、南伝仏教ではヴァイシャーカ月の満月の日、日本では2月15日とされている。
ブッダが火葬された地に建つ荼毘塚
サーラ樹の林では、ブッダの遺骸を囲み、まだ悟りにいたっていない人々は、身体をよじって大声で泣き叫んだ。しかし、欲を離れ、悟りに至った者は、正しき智慧でよく耐え忍び、「諸行は無常なり、いかでか滅せざることあらん」と繰り返し唱えていたそうだ。
アーナンダは駆けつけた高弟アヌルッダと、東の空に輝ける太陽の光が満ち渡るまで、法話をして過ごした。
ブッダの遺体は7日間手厚く供養されたのち、マッラ族の信者の手により静かに火葬され、やがて雨が降り注ぐと、そこには真っ白な骨のみが残されたそうだ。今、その場所には荼毘【だび】塚が建っている。荼毘って、火葬することだよ。
前にもお話したけど、ブッダの遺骨は8つに分骨され、仏舎利としてそれぞれの国の王によって持ち帰られ、マガダ国、ヴェーサーリー、クシナーラー、そしてブッダの故郷カピラヴァッツなどにはストゥーパが建立された。
ブッダがともした法の灯火は、それから2500年間、消えることなく輝き続け、多くの迷える人々の前途を照らしてきた。ブッダはいつでも迷える人々の傍らにいてくれた。でも、最近そのブッダの姿が見えなくなって来ている。ブッダを知りませんか?
「ブッダの生涯」は今回が最終章です。次回からは「ブッダの弟子たち」をおおくりします、(つづく)
平成20年2月23日(土)~3月3日(月)、インドとネパールを旅しました。平成15年のチベットと平成18年のパキスタンの旅では紀行文を残したのですが、6回目のインドということもあってか最初から書く気がなく、何も記録が残っていません。残っているのはトラベルサライの奥村君がまとめた簡単な日程アルバムと、写真に記録されている日付・時間と、曖昧な記憶だけ。という訳で、脳味噌を絞りながら書き綴っていきますので、ご愛読いただければ幸いです。合掌
2月23日(土)
午前9時、関西空港に15名の旅行仲間が集結。添乗員の奥村君はネパールで添乗中のため、バンコクで合流する。スーツケースはABC宅配サービスで自宅から空港に送ったんだけど、空港で受け取ってびっくり。キャスター部分がスーツケース本体に陥没してしまっている。宅配の兄ちゃんが落としたに違いない。代わりのスーツケースを貸してくれるというが、空港内で荷物を詰め替えるのも面倒だし、どうせ向こうに行けばポーターが運んでくれるんだから、ということで、そのまま壊れたスーツケースを持って行った。でも、やっぱり素直に借りとけば良かった。ポーターがいない所では自分が持たなくてはいけない。その重いこと。しょっぱなからこんな状態で、一抹の不安を覚えながら飛行機に乗ったんだけど、その不安は見事に的中することになる。
午前11時10分発のタイ航空623便(TG-623)でタイのバンコクへ。約6時間半のフライトで、午後3時40分、スワンナプーム空港に到着した。デリー便に乗り換えるまで4時間もあるので、足裏マッサージへ。年齢とともに足が浮腫むようになり、飛行機を降りたら足はパンパン。足裏マッサージをしてもらうと実に気持ちが良いが、しばらくするともとに戻ってしまう。午後7時に奥村君と落ち会う予定だったが、カトマンズからの飛行機が遅れ、安全検査が終わった後にようやく彼は現れた。午後7時50分発のタイ航空315便(TG-315)でデリーへ。
午後10時45分、デリーのインディラ・ガンディー国際空港に到着。我々を迎えてくれたのは現地ガイドのクルディープ・ディクジット君。彼に案内してもらって空港近くのセントール・ホテルへ。日本時間だと日付が変わった午前2時過ぎ。くたびれ果てて、ベッドに潜り込んでバッタンキュー。お休みなさい。
2月24日(日)
朝食を食べにレストランに行ってびっくり。僕のお寺と背中合わせのE寺さんのご住職が昨晩遷化【せんげ】されたという連絡が入ったそうだ(僕はこのころ携帯を持たなかった)。昨日は同行しているN上人に葬儀の出座依頼があったそうで、ご自分のお檀家さんの葬儀をすませた晩にお酒を飲んだあとお風呂に入って、奥さんが見つけた時はお風呂に浮いていたそうだ。僕の長男もご遺体をお風呂からあげるお手伝いをしたそうで、大変だったみたいだ。その長男が今E寺の住職を務めているのは不思議なご縁だ。本当は葬儀のお手伝いをしなくてはいけないのだが、帰国するのは無理。遙かインドから手を合わせて増円妙道を祈るしかない。
それにしても、我々が海外旅行にでかけた時に限って、お檀家さんやご住職さんがお亡くなりになる。(まあ、2月と8月という人間が一番亡くなる時期に旅行しているからかも知れないが。)僕の場合、6回目の海外旅行まででお檀家さんが2人亡くなっており、打率3割3分3厘だと言っていた時期があった。だから、海外に出かけるのは冷や冷やものだったんだけど、長男が葬儀の導師を出来るようになって安心して出かけられるようになってから、どなたも亡くなっていない。皮肉なもんだ。今回が9回目なんで、打率は下がって現在2割2分2厘。
午前8時30分、バスでアグラへ。アグラまで188キロ、国道2号線(アジア・ハイウェイ、GTロード)をバスはひた走る。ホテルの前に花で飾られた車があった。今日は日曜日だし、このホテルで結婚式があるんだろう。平成14年にインドを旅した時は、披露宴に飛び入り参加させてもらうという幸運に恵まれたが、今はインドの結婚式シーズンなんで、またどっかで結婚式に出合うかも知れない。
途中、ダップチック・レストランで休憩。小さい舞踏家が我々を迎えてくれた。チップはずんといたよ。
午後1時、アグラに到着。宿泊することも考えていたタージ・ビュー・ホテルで、まずは昼飯。もちろんビールつき。
午後3時、いよいよタージ=マハル。この赤砂岩の門をくぐれば……。
ワーオ、何回見ても凄いっすね。でも、3回目ともなると、感動はいまいち。
驚いたのは人の数。僕が最初に来た平成5年には見物客はまばらだったんだけど、来る度に人が増えて、今回は日曜日とあって人、人、人でごった返している。長蛇の列に並び、入場するまでに30分以上かかった。
4本のミナレット(光塔)があるのでモスクだと思っている人がいるが、ムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンが愛するムムターズ・マハルのために造った霊廟、すなわちお墓だ。ムムターズ・マハルは本名アルジュマンド・バーヌー・ベーガム。ムムターズ・マハルは“宮廷の選ばれし者”という意味の称号。写真を見ての通りの可愛子ちゃんで、シャー・ジャハーンに愛されて18年間に14人の子供を産み、産褥【さんじょく】熱で37歳で亡くなった。おー、愛しのマハルちゃん、可哀想に。僕が君を愛していた証拠を見せよう、ということで、22年の歳月と2万人の職工に命じた造らせたのがタージ・マハル。恐らく世界で一番豪華なお墓だろう。でも、考えてごらん。お前が悪いんだろう。一夫多妻制で他にも奥さんはいたのに、ムムターズ・マハル一人に毎年のように子供を産ませて。本当に愛してるんだったら、もっといたわってやれば良かったんだよ。
いま、ムムターズ・マハルはタージ・マハルの中で、シャー・ジャハーンと並んで静かに眠っている。みんな一生懸命に写真を撮ってるんで言わなかったんだけど、このお墓はレプリカ。本当のお墓は地下にある。平成5年に来た時は地下にも入れてくれたんだけど、最近は入れてくれない。地下のお墓は撮影禁止だったんだけど、警備の兵隊さんが指一本立ててウインクしたんで、1ドルあげて写真撮らせてもらった。いい加減な国だけど、中国もパキスタンもみんな一緒。お堅いことは言わない。
それではしばらくタージ・マハルの写真をお楽しみ下さい。
それではしばらくタージ・マハルの写真をお楽しみ下さい。
お楽しみいただけたでしょうか。
午後5時、アグラ城へ。アグラ城は赤砂岩で造られた城塞で、ムガル帝国第3代皇帝アクバル(シャー・ジャハーンのお祖父ちゃん)が建てた。
ムガル帝国はイスラーム教の国。アクバルはヒンドゥー教徒へのジズヤ(人頭税)を廃止するなど、イスラーム教徒とヒンドゥー教徒との宥和に努めた皇帝なので、嫁さんもラージプート族というカチコチのヒンドゥー教徒から迎えている。だから、アグラ城にはインド様式が随所に見られる。
1657年にシャー・ジャハーンが病床に伏すと、長男ダーラー・シコーが後継者として指名された。ところが皇位継承争いが起こる。三男坊のアウラングゼーブが4男坊と組んで挙兵、長男と次男を倒し、ダーラー・シコーを処刑。長男のくせにだーらーしな~い。アウラングゼーブは協力した4男坊も後に殺害。そして父ちゃんをアグラ城の「囚われの塔」(ムサンマン・ブルジュ)に閉じこめて、自分はデリーの「赤い城」(レッド・フォート)に行ってしまう。そして、父ちゃんが1666年に死ぬまで、ダーラーを偏愛したとして恨みの手紙を送ったり、宝石を取り上げたり、さまざまないやがらせをしたそうな。嫌な奴ちゃな。
僕がいるのがシャー・ジャハーンが閉じこめられていた部屋。窓から何を覗いているかって。これ、これ。
そう、タージ・マハル。シャー・ジャハーンは死ぬまでの8年間、窓から毎日タージ・マハルを覗いては亡き妻を偲んで涙にくれていたそうだ。なんとも可哀想だが、シャー・ジャハーンはジャハンギール帝の3男坊で、兄弟・甥っこを殺して即位した人物。因果は巡るというやつで、自業自得だ。
さあ、明日はいよいよ王舎城だ。(つづく)
さあ、明日はいよいよ王舎城だ。(つづく)
2月24日(日)
タージ・マハルとアグラ城を十分に堪能した後、インド料理の夕食をすませ、アグラ発午後8時30分のシャタブジ急行でデリーに戻る。午後10時40分デリー到着。昨晩も泊まったセントール・ホテルへ。
2月25日(月)
午前11時30分発のインディアン航空(IC-809)でビハール州の州都パトナへ。午後2時30分パトナ着。パトナの昔の名前はパータリプトラ。世界史で習ったマウリヤ朝やグプタ朝の都となった町だ。ここから南東に100キロ離れたラジギールへ専用バスで向かう。午後3時にパトナを出て、ラジギールに午後6時45分に到着した。宿泊するのはいつもお世話になる法華ホテル。
このホテルは日蓮宗の信者さんが日本人観光客のために建てたホテルで、畳の部屋に大浴場もある。夕食はご覧の通り、天ぷら・冷や奴・茄子の田楽と、完全日本食。初めてインドに来た時は、カレーの毎日に飽きた頃にこれをいただいてホットしたものだ。でも今回は旅の初めのほうなので、いまいち有り難みがない。今日は移動するだけの一日。インドは広いね~。
2月26日(火)
2月26日(火)
法華ホテルの朝食はおかゆです。夕べ飲み過ぎましたので、大変助かります。
七葉窟の道すがら現地の子供と記念写真
ラジギールの昔の名前はラージャグリハ。ラージャ(王)の住むところ(グリハ)で、漢訳仏典では王舎城。現在の名前ラージギルは、ラージ(偉大な)ギリ(丘)という意味。今ではすっかり寂れているが、釈尊に帰依したビンビサーラ(頻娑婆羅)王やその子アジャータシャトル(阿闍世)王の時代、マガダ国の都が置かれていた。
ラジギールはもう6回目の訪問なのに、まだ一度も訪ねたことのない仏跡がある。法華ホテルから見えるにもかかわらず、時間がないことを口実に行かなかった場所。それは第一結集が行われた七葉窟【しちようくつ】だ。朝食を終えて出発まで2時間以上あるので、思い切って行ってみることにした。みんなを誘ったんだけど、嫌がって誰も来ない。ガイドのディクジット君には気の毒だが、僕と奥さん二人だけを案内してもらった。
結集【けつじゅう】は経典編纂委員会のこと。第一結集は釈尊が涅槃【ねはん】に入られた年に、この七葉窟に釈尊の優れた弟子500人が集まって開かれた。マハーカッサパ(大迦葉【だいかしょう】)が司会役を務め、ウパーリ(優波離)が律を、アナン(阿難)が経を暗誦した。この時、アナンは出席者に釈尊がどのような教えを説かれたかを紹介する際に、「私はこのように聞きました。」から始めたので、ほとんどのお経は「如是我聞」で始まる。仏教教団にとってそんな重要な集会が開かれたのが、この七葉窟だ。
歩き始めてすぐに後悔した。昨日のお酒が残っている上に暑い。汗だくのふらふら。30分以上かかって漸く到着した。眼下には法華ホテルが見える。みんな、部屋で寝そべってるんだろうな~。罰当たりめ!!
洞窟が7つ並んでいるので七葉窟と言うんだけど、本当にここに500人もの人が集まれたんだろうか?。奥行きは6キロもあるなんて話もあるけど、そんな中に多くの人間が入ったら、さぞかし息苦しいだろうし。地震で崩れたから現在の規模になったという話も聞いたことあるけど。まあ、疑うのはやめましょう。ここに釈尊の高弟が集ったのは事実だ。そう考えると、僕もその集会に参加していたような気になって、ありがたくなり、合掌。疲れました。
洞窟が7つ並んでいるので七葉窟と言うんだけど、本当にここに500人もの人が集まれたんだろうか?。奥行きは6キロもあるなんて話もあるけど、そんな中に多くの人間が入ったら、さぞかし息苦しいだろうし。地震で崩れたから現在の規模になったという話も聞いたことあるけど。まあ、疑うのはやめましょう。ここに釈尊の高弟が集ったのは事実だ。そう考えると、僕もその集会に参加していたような気になって、ありがたくなり、合掌。疲れました。

午前9時30分、ホテルを出て竹林精舎へ。精舎【しょうじゃ】(ビハーラ)は簡単に言えばお寺。コーサラ国の都・舎衛城【しゃえいじょう】にあった祇園精舎が有名だけど、仏教のお寺第一号はこの竹林精舎。迦蘭陀【からんだ】長者が所有していた竹林を釈尊に寄進し、ビンビサーラ王が伽藍を建てたと言われている。もちろん今は伽藍が残っている訳ではなく、竹だけが生い茂っている。(それにしてもインドの竹は密集して生えており、あまり風情がない。)釈尊は80年の生涯を遊行された方だから一箇所に長くとどまることはなかった。ただ、6~8月の雨期の季節には遊行は困難で、その間居住するために建てられた出家者用の建物が精舎。だから、伽藍と言えるほど立派なものではなく、木造の掘っ立て小屋だったはずだ。小学生の遠足だろうか。たくさんの女の子達に囲まれて、つい頬が緩んでしまった。

午前10時20分、リフトに乗ってラトナギリ(多宝山)へ。リフト?って思うでしょ。もちろんスキーをするためではありません。聞いたところによると、このリフトは日本山妙法寺さんが多宝山の頂上に平和記念仏塔を建てた際に、資材を運ぶために設置したものらしい。仏塔建築が終われば取り壊す予定だったが、インド側に頼まれてそのまま残したら、一躍インド人の人気観光スポットになった。そりゃそうだよね。ビハール州はインドの中でも一番貧しい地域で、娯楽施設なんて全くないもんね。この日もお詣りのためか、リフト目当てか分からないけど、たくさんの人が来ていた。
多宝山の平和記念仏塔は藤井日達上人が「仏教西漸」を願って建立されたもの。奥さんが神妙に手を合わせてますが、それ僕に向かって合掌してますよ。まあ、それほど僕が有り難い存在だということか?(笑)
さあ、これから遙か下に見える霊鷲山【りょうじゅせん】に向かいます。普通なら、霊鷲山の麓からビンビサーラ王が釈尊の説法を聞くために造ったと言われるビンビサーラ・ロードを登るんだが、今回は多宝山から尾根伝いに霊鷲山まで下っていく。
こんな道を下ること30分。ようやく霊鷲山に到着。
中には道楽して一旦リフトを下り、駕籠で登って来た不埒な奴が。誰だっ。駕籠は500ルピー(現在800円)で、体重により割り増し料金を取られます。
釈尊が法華経を説かれた香室
霊鷲山はサンスクリット語でグリドラ・クータ。法華経には音訳した耆闍崛山【ぎしゃっくせん】の名でも登場する。グリドラははげ鷲のこと。名前の由来は頂上部にある岩が鷲の姿に似ているからという説と、昔ここが鳥葬が行われた場所であったからという説がある。釈尊は死体置き場で修行されることが多かったので、恐らく後者の説が正しいと思うが、いずれにしてもこのお山は釈尊が法華経を説かれた場所。(真宗のお坊さんは観無量寿経を説かれた場所だとおっしゃるでしょうね。)
霊鷲山に初めて登ったのは平成5年。夜明け前にビンビサーラ・ロードを登り、ご来光を拝みながら唱題した時、まぶたの裏に釈尊のお姿を見て、涙が止まらなかったことを思い出す。平成9年に登った時には父親の遺骨を1片、ここに葬った。平成23年に亡くなった母の遺骨も持って来なくては。でも、息子たちは僕が死んだ後、遺骨を持ってここまで来てくれるだろうか?
霊鷲山に初めて登ったのは平成5年。夜明け前にビンビサーラ・ロードを登り、ご来光を拝みながら唱題した時、まぶたの裏に釈尊のお姿を見て、涙が止まらなかったことを思い出す。平成9年に登った時には父親の遺骨を1片、ここに葬った。平成23年に亡くなった母の遺骨も持って来なくては。でも、息子たちは僕が死んだ後、遺骨を持ってここまで来てくれるだろうか?
一旦ホテルに戻り昼食を取った後、午後1時45分、バスでブダガヤへと向かった。(つづく)
2月26日(火)
ラジギールを出て2時間あまり、午後4時にブダガヤに到着。最初にスジャータ村を訪ねた。スジャータ村はネーランジャラー川(尼蓮禅河【にれんぜんが】)の東岸にあり、釈尊の時代はセーナ村といったが、現在はスジャータ村と呼ばれている。スジャータは成道前の釈尊に乳がゆを供養して釈尊の命を救った少女の名前。「褐色の恋人スジャータ」という「めいらくグループ」が発売しているコーヒーフレッシュがあるが、乳つながりで命名されたそうだ。
29歳で出家された釈尊はスジャータ村の南にあるウルヴィルヴァーの林で、6年間の苦行に打ち込まれたと伝えられる。苦行の原語はサンスクリット語のタパスで、本来「熱、熱力」を意味する言葉。身体を傷めつけて精神を鍛えることによって、身体の中に特殊な熱力、神通力が蓄積されると考えられていた。釈尊は一粒のゴマや米などによって日を過ごされたり、食をまったく断たれたりして、座ろうとすれば後ろへ倒れ、立とうとすれば前に倒れるほど厳しい苦行に励まれました。
その結果、有名なパキスタンのラホール博物館の苦行像のようなお姿になってしまわれます。眼窩【がんか】恐ろしく骸骨のように大きく落ちくぼみ、身はやせ細り、肋骨が1本1本浮き出て血管が走り、腹部は木の空洞のように深くくぼみ、腕は枯れ枝のように細く、死ぬ寸前の状態になってしまわれます。
しかし、釈尊が求めていた人生の苦を根本的に解決する智慧は得られません。苦行は心身を極度に消耗するのみであるとして苦行を捨てられた釈尊は、ネーランジャラー川で沐浴されます。この時、セーナ村の少女スジャータが乳がゆを釈尊に供養し、これによって釈尊は体力を回復されました。
スジャータは古代インドの女性名で、“良い生い立ち、素性”を意味するそうだが、僕は世界史の授業で彼女をシュードラの娘として紹介している。バラモン・クシャトリヤ・ヴァイシャ・シュードラの4階級からなるヴァルナ制では、穢れということを重視するので、階級の違うものが同じ場所で食事をしたり、階級の下位の者から食事を受け取ってはならない。釈尊はもちろんクシャトリヤだから、シュードラの娘スジャータが差し出す乳がゆを受け取って食してはならない。だから、乳がゆを食べられたということは、ヴァルナ制、つまりカーストを否定する高らかなる宣言であった、と。
スジャータの徳を讃えて造られたストゥーパは8~9世紀に建立されたものと言われているが、この場所にスジャータの住まいがあったそうな。スジャータがいなかったら、釈尊も命を失っていたかもしれない。そう考えると、スジャータは仏教の恩人だ。で、その乳がゆというものを平成9年に来た時に食べさせていただいたが、残念ながらそんなに美味しいものではなかった。
午後4時20分、ブダガヤの大菩提寺(マハー・ボディー寺)に到着。大菩提寺は釈尊成道の地に建てられたお寺で、2002年にユネスコの世界遺産に登録された。世界遺産になる前はバスから降りた途端に、土産物屋がマンツーマンでくっついて来て商売をした。「センシェイ、コレ安イネ。コレ、ジェンブデ1,000エンネ。買ウ?」「要らない。」「ソンナコト言ワナイデ、買ッテ。コレモ付ケテ、ジェンブデ1,000エ~ン。」「ナヒーン、チャヒエ(要らない)。」金魚の糞みたいにずっとついて周り、ゆっくりお詣りすることもできなかったが、今では敷地内から土産物屋は排除されているので、落ち着いてお詣りすることができる。
本堂にあたる大精堂は52メートルあり、13世紀にイスラーム教徒が侵入した際にこれを土で覆い隠して守ったそうだ。バーミヤンの大仏を破壊したタリバーンのことを考えると、隠していなければ破壊されていたに違いない。重機もない時代にこんなでかいものを隠すための土を運ぶ作業がいかに大変だったか、当時の人々の信仰心の厚さが忍ばれる。
本堂にあたる大精堂は52メートルあり、13世紀にイスラーム教徒が侵入した際にこれを土で覆い隠して守ったそうだ。バーミヤンの大仏を破壊したタリバーンのことを考えると、隠していなければ破壊されていたに違いない。重機もない時代にこんなでかいものを隠すための土を運ぶ作業がいかに大変だったか、当時の人々の信仰心の厚さが忍ばれる。
1876年にビルマ王が3人の官吏を派遣して、600年以上埋没していた基底部を発掘。その後、インド政府も黙って見過ごすことができなくなり、1863年にイギリスのアレキサンダー・カニンガムの指導のもとが発掘に着手。カニンガムはインダス文明のハラッパー遺跡の発掘でも知られる考古学者で、インド考古局を設立たことでも知られる。さらに1881年にベーグラーが金剛宝座を探りあて、その下から仏舎利【ぶっしゃり】(釈尊のご遺骨)を発見した。大精堂は土に埋もれていた分、周りのほうが高いので、階段を降りて参拝する。
東側の正面入り口から中に入ると、正面に西壁を背にした2メートルほどの釈迦像が目に飛び込んでくる。降魔成道【ごうまじょうどう】 の釈尊の姿で、9~10世紀ころの作とされる。本来は黒石であったらしいが、ミャンマーの信者さんによって金箔で覆われて、金ピカピンになった。日本人からすると、要らんことすんなちゅ~の、と言いたくなる。
大精堂の裏手にわれわれ仏教徒にとって一番大切な聖地がある。釈尊がお悟りを開かれた金剛宝座と菩提樹である。菩提樹は釈尊当時のものではなく、4代目らしい。スジャータの乳がゆ供養を受け体力を回復された釈尊は、瞑想をされようと前正覚山の中腹にある洞穴に入られた。ところが、お坐りになろうとした時、山が3度震動し、山の神が「この地は真理を得るのには適さない山です。 この地の南東にある菩提樹下に向かわれるように」と告げられたとのこと。ちなみに、釈尊がお悟りを開かれたから菩提樹と呼ばれるようになったんで、当時はピッパラ樹とかアシュヴァッタ樹と呼ばれていた。
釈尊はこの菩提樹の下で瞑想され、7日目の12月8日、明けの明星が東の空に輝く頃、ついに悟りを開きブッダとなられた。釈尊35歳の時のこと。その場所が金剛宝座と呼ばれているが、現在は石の柵で囲まれており中に入ることは出来ない。平成5年に初めて来た時は中に入れたのだが、オウム真理教の麻原彰晃の罰当たりが金剛宝座に上がり、参詣者によって引き下ろされた事件以降、中に入ることが出来なくなった。えっ、何を悟られたたかって?それはまた、いずれ。
金剛宝座と菩提樹に向かいお自我偈をお唱えし、高らかにお題目を唱える。至福の時である。涙があふれ、止まらない。この場所に6度も来れたという幸せにただただ感謝である。
しばらく境内を散策する。大精堂の西側にムチャリンダ竜王が住むという池がある。釈尊は悟りを開かれたあと7日間、菩提樹の下で足を組んだままの姿勢で「解脱の安楽」を心ゆくまで味わわれたという。その後7日間アジャパーニグローダ樹、さらに7日間ムチャリンダ樹の下で解脱の安楽を楽しまれた。ムチャリンダ樹の下にお坐りになられた時、時季はずれの雨が7日間降り続き、冷たい風が吹いたそうだ。その時ムチャリンダ竜王が釈尊の身体を覆って風雨から守ったという言い伝えがある。竜というと中国の竜を思い浮かべると思うけど、漢訳仏典の竜の原語はナーガで蛇のことだ。インドで蛇と言えば、もちろんコブラ。コブラは興奮すると鎌首を広げるから、傘のようになって釈尊の身体を風雨から守ることが出来る。だけど、池の真ん中にわざわざその像を造らなくてもいいんじゃないの。想像するだけでいいの。想像するだけで、十分。
そのコブラに翌日会うことになるとは、この時は夢にも思わなかった。
大聖堂とムチャリンダ竜王の池の間にアショーカ王柱がある。アショーカ王はマウリヤ朝3代目国王。初めてインドを統一した国王であるが、統一戦争の過程で多くの犠牲者が出たことから仏教に帰依した。アショーカ王は全国8か所に奉納されていた仏舎利のうち7か所の仏舎利を発掘し、新たに8万4千(本当に84,000あるんじゃなくて、たくさんという意味)のストゥーパを建立し分納したと言われる。さらに釈尊ゆかりの地に石柱碑を立てたが、現在でも立っているのはヴァイシャリーのものだけだ。インドの国章にもなっているサールナート博物館にある獅子柱頭も倒れてしまった石柱の頭の部分。ここの石柱も途中で折れていまっているが、アショーカ王柱が立っているということは、金剛宝座を造ったのがアショーカ王であるという証拠だ。その下から仏舎利も出土してるしね。
大菩提寺をお詣りして幸せな気分で近くにあるスジャータ・ホテルへ。ブダガヤに来たら必ずお世話になるホテルだが、ここのオーナーのプラサド氏は日本人の心をよく分かっている、ということは日本人に対する商売が大変上手な人で、京都で同じ名前のレストランも経営している。
今日の晩ご飯はもちろんカレー。バナナの葉の上に乗せられおり、みんな大喜びだったんだけど、YさんとTさん、焼きそばばっかり食べてるね。カレーは口に合いませんでしたか?(つづく)
2月27日(水)
午前6時30分、国道2号線をベナレスに向かう。ベナレスという名称はイギリス植民地時代の英語表記の誤読で、現地名はヴァーラーナシー。でもベナレスのほうが分かりやすいと思うので、こっちを使う。
途中、A1プラザというドライブインでトイレ休憩と昼食。A1プラザはインド有数の財閥リライアンス系のガソリンスタンドに併設されている、日本でいう「道の駅」だ。トイレも綺麗で、気持ちがいい。以前も幹線道路上には、トラック運転手のための「ダーバー」と呼ばれる安食堂があったんだけど、トイレがあっても汚くて使えない場合が多かった。だから、大自然の中のほうが気持ちがいいということで、男はどっかその辺で、女性陣は豆畑の陰で用を足した。もちろん、大きいほうも。これが糞じゃなかった、癖になって、われわれ旅行仲間には、トイレがあってもトイレでしないで青空のもとで、というファンが増えた。ところが、最近のインドでは自家用車で国内旅行する人が増え、それにともなって、この「道の駅」がどんどん増えているそうで、青空のもとで用を足すことがなくなったそうだ。清潔好きの人には朗報だろうけど、なんか残念だな~。
お弁当のほかに南インドのドーサという料理をいただいた。米粉とウラッド・ダールという豆を挽いた粉を使ったクレープのようなもので、皮がパリパリして美味い。
午後2時、ベナレスに到着。写真はベナレス駅。駅舎の屋根の上に車輪のようなものが見えると思うけど、これは法輪。そう、ここは釈尊の最初の説法である初転法輪【しょてんぼうりん】が行われた地だ。さっそく初転法輪の地サールナートへ向かう。
サールナートは漢訳仏典では鹿野苑【ろくやおん】。ベナレスの北8キロほどの郊外にあり、釈尊の時代にはその名の通り鹿が住む静かな林で、「仙人の集まるところ」とも言われたように、多くの宗教家が修行する場でもあったそうだ。お悟りを開かれた釈尊はバラモン教の最高神である梵天【ぼんてん】の懇請を受けて、いよいよ伝道の旅に出る決心をされたのだが、ブダガヤからサールナートまでは300キロもある。徒歩だとゆうに10日はかかる。釈尊はなぜそんなに遠いところまで来られたのか?当然、初めての説法をするにふさわしい相手がいたからだ。その相手とは釈尊が苦行を続けていた時に一緒に修行をした仲間5人。この5人は釈尊が苦行を捨てた時に、釈尊が堕落したと考えて、釈尊のもとを去って行った。その5人と釈尊が出会った場所に立つのがチョーカンディー・ストゥーパ 。八角形の塔は1588年にムガル帝国のアクバル帝が父フマユーン帝のサールナート訪問を記念して建てたもんだそうで、仏教とは何の関係ない。5人は「あんな堕落した奴なんかと口聞くんじゃないぞ。しかとしてやろうぜ」と約束したらしいが、釈尊が近づいて来ると、いま交わした約束も忘れて、手厚く釈尊を出迎えたそうだ。よっぽど凄いオーラが出てたんだろうね。
このチョーカンディー・ストゥーパ から800メートルほど離れたところにサールナート僧院跡があり、広さがなんと1万6000坪。東京ドームよりもやや広め。法顕【ほっけん】は『仏国記』に、ここに僧院があったことを記し、玄奘は『大唐西域記』の中で「伽藍は8つに分かれて、1500人の修行僧が住んでいるのを見た」と伝えている。
サールナート僧院跡の中でもひときわ目を引くのが、高さ34メートルのダメーク大塔。グプタ朝時代の5世紀に建てられたもののようだが、イスラーム教徒の破壊により痛ましい姿になっている。
ダメーク大塔の建つ場所が、釈尊がアンニャータ・コンダンニャ(阿若憍陳如【あにゃきょうじんにょ】)ら5人の比丘【びく】に初めて説法をしたところと伝えられている。
初転法輪像(サールナート考古博物館)
えっ、何を説法されたかって?それは、いずれまたにしよう。5人の比丘の中でコンダンニャが最初に釈尊の教えを理解し、釈尊は「アンニャー・コンダンニャ」「アンニャー・コンダンニャ」と大喜びされたそうで、アンニャータ・コンダンニャと呼ばれるようになったそうな。「アンニャー」は「判った」とか「悟った」という意味。ほかの4人も次々に教えを理解し、釈尊の弟子となり、僧伽(サンガ)が誕生した。サンガは出家者集団のこと。これで仏・法・僧の三宝がそろい、仏教教団が誕生したのである。
1905年、この地でアショーカ王の建てた石柱と柱頭が発見された。この獅子柱頭はサールナート考古博物館に行けば見られるんだけど、今回は行かない。四方を向いた四頭のライオンの下に法輪が刻まれており、釈尊が世界の四方に向かって法輪を初めて転じた地点であることを示している。世界史の時間に教えたけど、この獅子柱頭が現在インドの国章になっており、法輪は国旗の真ん中に描かれている。柱頭にライオンを用いているのは、百獣の王であるライオンがひとたび吼【ほ】えれば百獣のすべてが従うのになぞらえて、釈尊の説法を獅子吼【ししく】というからだ。
その後、日月山法輪寺さんを参拝。法輪寺さんは日蓮宗のお寺で、無料で泊まることもできる。ただし、条件があって、「1.朝夕のお勤めに参加すること。1.ガンジャ・チャラス等麻薬は一切禁止、持ち込まないこと。1.嘘、おだて、盗みをしないこと。」だそうだ。
今晩泊まるラマダ・ホテルに入る前にインドの蛇遣いと一時を楽しんだ。添乗員の奥村君がいつも蛇遣いのおじさんを捜して来てくれる。今回にしき蛇を首に巻いたのは、僕と女性陣のKさんとKさんの3人。この時期は蛇にとっては寒すぎるから、元気がない。だから、あまり動かなくていいんだけど、やっぱり重い。蛇だけにヘビー級だ。みんながギャーギャー騒いだあとで、僕だけ犠牲になった。
コブラに手を近づけてみろという。毒牙は抜いてあるのは分かってるんだけど、鎌首もたげて今にも飛びかかりそうになってるんで、おっかなびっくりで手を近づけることが出来ない。おじさん僕の手をつかんで、コブラに近づけた。アイタッ。噛まれちゃった。そんなことはないよね。

インドには蛇遣いは25万人もいるんだって。ところが、この25万人の蛇遣いが職を失って物乞い生活してるそうだ。というのは、インドで1972年にヘビの捕獲や飼育を禁じた野生生物保護法の施行された。ずいぶん前のことなんだけど、蛇遣いはインドの伝統芸能なんでしばらくは黙認されていたが、2008年ごろから取り締まりが強化されて、警察に逮捕される者が相次いだそうだ。支援団体が雇用先確保を政府に呼びかけたんだけど、相手にされず、みんな乞食になっちゃったという訳だ。可哀想にあのおじさん今頃どうしてるんだろうか。(つづく)
2月28日(木)
午前5時30分、ホテルを出てガンジス川のマニカルニカー・ガートに向かう。ベナレスの街中はまだ真っ暗。ガンジス川はサンスクリット語でガンガー。漢訳仏典では恒河【ごうが】と表記し、恒河沙【ごうがしゃ】といえばガンジス川の砂のことで、10の52乗。インド人の単位はスケールが大きい。
ガートはガンガー沿いに続いている階段状のスペースで、巡礼者が沐浴したり、クリーニング屋さんが洗濯する場所になっている。火葬場も併設されていて、ベナレスでは多い日には100体もの遺体が運ばれてくるそうだ。遺体はガンガーに浸されたのちにガートで荼毘【だび】にふされ、遺灰はガンガーへ流される。だから、ヒンドゥー教徒は墓が要らない。したがって、日本みたいに墓地経営でがっぽり儲け、外車を乗り回し、銀座の高級クラブで飲んだくれているような坊さんはいない(もちろん僕のことじゃないよ)。金が無い人、赤ん坊、妊婦、蛇に噛まれて死んだ人はそのまま流されるんだって。火葬場の撮影は絶対厳禁なんで、もちろん写真はないんだけど、ネパールでは撮影自由だったんで、乞うご期待。そんな気持ち悪いもの、誰も期待しないか。(笑)
今日も観光客を乗せたたくさんの船が出ている。
僕と奥さんが手に持っているのは、日本風に言えば灯籠流しのミニ版。自分の意志ではなく、強制的に渡される。何かを祈りながら、これをガンガーに流す。平成5年に初めて来た時は真剣に祈ったもんだが、この儀式も4回目なので惰性的にただ水に浮かべた。
ガートには真っ赤な衣装に身を包んだ行者が祈りをささげている。いやー、格好いいね。初めて来た時は珍しくて、沐浴するヒンドゥー教徒の写真を何枚も撮ったもんだけど、もう飽きちゃって、今回撮したのはこれ1枚だけ。ブログ書くこと分かってたら、もっと撮したんだけどね。
このベナレスがヒンドゥー教最大の聖地とされ、多くのヒンドゥー教徒はここベナレスで死ぬことを望む。ここで亡くなり遺灰がガンガーに流されれば、輪廻からの解脱を得られると信じているからだ。聖なる山ヒマラヤに流れを発したガンガーは東に流れてベンガル湾に注ぐのだが、唯一このベナレスで北上(北流)する。北に向かうということはヒマラヤに向かって流れることだから、ガンガーが天に昇っていくイメージと重なり、インド至高の死に場所とされるわけだ。
40代以上の方ならご存じだと思うけど、平成7年に公開された遠藤周作原作の『深い河』。秋吉久美子がここベナレスで沐浴するシーンが話題になった。それから沐浴する日本人の若者が増えたんだけど、ヒンドゥー教を信じてもいない奴が沐浴してどうする、アホか。その上、聖なる川ではあるが、死体は流れるし、生活排水も流れ込んで来て、大腸菌うようよの超汚い川なんだ。病気になっちゃうぞ。
平成9年にベナレスに来た時の嫌な思い出がある。当時は海外携帯なんて無いから、日本への連絡はホテルの電話を使うんだけど、これがめちゃ高くて、5,000円位かかった。これが町中のISDという電話屋さんでかけると安いんで、I上人と二人でISDへ。電話をかけ終わってホテルに帰ろうとしたら、髭面のおっさんが流暢な日本語で話しかけてきた。「コノ前、秋吉久美子ガウチノ店来タンダゼ。チョット寄ッテカナイカ?」この声に釣られてのこのことついて行ったら、2階にある店に連れて行かれ、入った途端に鍵を掛けられてしまった。この手の商売は一度ブダガヤで経験していたのに、また引っかかってしまった。何か買うまで返してあたらないということだ。要りもしないシルクのスカーフを1枚買って、這々の体で店から逃げ出したが、皆さんも気をつけましょうね。子供じゃないけど、知らない人について行ったらダメですよ。
そんなことを思い出しているうちに、午前6時25分、いよいよ日の出だ。ガンガーの東岸にはまったく人家がなく、死の世界のように映る。そこに生命の象徴のような赤い太陽が昇る。感動的ですらある。最初来た時はもちろんフィルムの時代だったんだけど、昇る太陽の写真だけで36枚撮りを2本も使って、あとから苦笑いだ。来る度に撮る枚数は減って、今じゃデジカメだからなんぼ撮ってもいいのに、今回は7枚だけ。
午前7時、ヒンドゥー教の世界を十分に堪能してホテルに帰る。ガートから大通りに出るまでの道がまた狭い。
時々、牛に出くわす。それにしても、この牛汚い牛だね、痘痕【あばた】だらけだ。なんてこと言ったら、ヒンドゥー教の神さまに怒られちゃう。なんせ牛は最高神シヴァの乗り物だから、神聖で偉いんだ。
シヴァ神は破壊の神であると同時に創造の神でもあって、インドで一番崇拝されている神だ。ちなみに頭から噴水みたいなものが出てるけど、これがガンガー。ガンガーはもともと天上を流れていた川。ブラフマー神にお願いして地上にも流してもらうことにしたんだけど、そのままじゃガンガーの落下の衝撃に地上世界が堪えられないんで、シヴァ神がいったん頭で受け止めて髪を伝って地上に流れてるんだって。シヴァ神の横にいるのがナンディという牛の神さま。だからインド人は牛を虐めたり、殺したり、もちろん食べたりしない。牛にとってインドは天国みたいなところなんで、インドには水牛と合わせると2億8000万頭もいるそうだ。だから、町中どこにでも牛がいる。牛は当然ウンチを垂れる。狭い道にウンチがいっぱい落ちている。だから下を見て歩かないと、牛の糞を踏んでしまう。でも下ばっかり見て歩いていると、牛にぶつかってしまう。
時々、お乞食さんにも出会う。奥さん乞食に捕まっちゃった。こんな時は毅然とした態度で断る。でも、今回はハンセン病の乞食には出会わなかったな~。狭い道で手の指が欠けてしまったハンセン病の人に、ニュウッと手を出されると、感染することはないし、差別してはいけないと分かっていても、背筋に冷たいものが走って、自己嫌悪に陥ってしまう。会わなくて良かった。
狭い道をやっと抜けて、サイクルリキシャでバスに。リキシャは日本の人力車からきてるけど、最近人力のものは減っている。
午後2時45分、ベナレス発のコスミック航空(F5)でネパールのカトマンズに飛ぶ予定だった。ところが、4日前に奥村君に機体整備のために運行を取り消したとの連絡が入ったそうだ。慌てた奥村君、急遽、同じ区間を就航するインディアン航空(IC)に予約したんだけど、もう予約がいっぱいの状況。やっと今朝になって我々16人の席が確保できたそうだ。そんな訳で、午前中に空港に行って、空港内のレストランで昼食を済ませた。
空港内はヨーロッパ人でごった返している。この連中はコスミック航空の2機を使ってカトマンズに飛ぶんだと。これでコスミック航空が定期便を取り消した理由が判明した。奥村君が予約した後にヨーロッパ人の団体の予約が入ったけど、機体が足りない。そこで定期便を取り消しにして、予定より2時間早い臨時便を2機飛ばして、ヨーロッパ人を優先して儲けようとしたんだ。この野郎、同じアジア人のくせして、ヨーロッパに媚び売るんかい。

泣き面に蜂とは言うが、今度はインディアン航空が16人のうち5人の予約が確認出来ないと言い出した。インドではダブルブッキングは発中後【しょっちゅう】あり、僕も何回か経験している。これが列車だったら、どっちかが立っていれば済むけど、飛行機はそうはいかない。インディアン航空が「修理中の席が4席あるので、到着後にパイロットと相談して飛んでもらう」と言うので、奥村君だけ車で夜通し走ってカトマンズで合流することにして、飛行機が到着するのを待った。ところが、結局1席は壊れていて乗れないという。これじゃ2人が乗れない。奥村君に加え、団長さんか僕が車で追っかけるという手もあったが、急遽全員車でクシナガラまで行くこととなった。それにしてもインディアン航空もいい加減だ。16席確保できないんだったら、最初からそう言えよな。


空港内はヨーロッパ人でごった返している。この連中はコスミック航空の2機を使ってカトマンズに飛ぶんだと。これでコスミック航空が定期便を取り消した理由が判明した。奥村君が予約した後にヨーロッパ人の団体の予約が入ったけど、機体が足りない。そこで定期便を取り消しにして、予定より2時間早い臨時便を2機飛ばして、ヨーロッパ人を優先して儲けようとしたんだ。この野郎、同じアジア人のくせして、ヨーロッパに媚び売るんかい。



泣き面に蜂とは言うが、今度はインディアン航空が16人のうち5人の予約が確認出来ないと言い出した。インドではダブルブッキングは発中後【しょっちゅう】あり、僕も何回か経験している。これが列車だったら、どっちかが立っていれば済むけど、飛行機はそうはいかない。インディアン航空が「修理中の席が4席あるので、到着後にパイロットと相談して飛んでもらう」と言うので、奥村君だけ車で夜通し走ってカトマンズで合流することにして、飛行機が到着するのを待った。ところが、結局1席は壊れていて乗れないという。これじゃ2人が乗れない。奥村君に加え、団長さんか僕が車で追っかけるという手もあったが、急遽全員車でクシナガラまで行くこととなった。それにしてもインディアン航空もいい加減だ。16席確保できないんだったら、最初からそう言えよな。




午後2時30分、トヨタ「イノーバ」4台に分乗してクシナガラに向かう。最初の予定ではベナレス→カトマンズ→ポカラとなっていたが、クシナガラで一泊して車で国境を越え、バイラワ空港からポカラ→カトマンズという逆コースととることになった。クシナガラは釈尊の涅槃の地。今回の旅で行く予定にはなっていなかった。きっと釈尊がインドまで来とって、なんでクシナガラに来んのじゃい、と罰をお当てになったのかも知れんな。ベナレス~クシナガラは270キロ。イノーバはひた走る。いつもバスで移動してるから、高い位置から街を眺めてるけど、乗用車だと低い位置になるので目線が変わってなかなかいいや。これも怪我の功名。ものごとは何でもいい方に考える。そうすると、さっきの7個の怒りマークも消えるというもんだ。
3時間あまり走って、午後5時50分、ドーリーガートという町に到着。チャイタイムとトイレ休憩をとったが、ここでも結婚式があるみたいだ。花嫁さんの姿を見てみたいが、そんな時間はない。すぐに出発して、クシナガラを目指す。そのうち暗くなって来た。日本みたいに田舎の道も煌煌と街路灯が輝いているという国ではないから、真っ暗け。そこを4台のイノーバがひた走る。ゴン。「おい今の音とショックはなんだ?」「どうも犬をはねたみたいだぞ。」「降りて見なくてもいいんかい。」運転手は知らん顔で走り続ける。なんせ、はねた人間がシュードラだったら警察にも届け出しないという噂のある国だから、犬なんて石ころと一緒なんだろう。おお、恐。
午後9時45分、ようやくクシナガラのロイヤル・レジデンシー・ホテルに到着。ほとんど休憩を取らずに7時間ぶっ飛ばして、疲れ果てました。おやすみなさ~い。
(つづく)
午後9時45分、ようやくクシナガラのロイヤル・レジデンシー・ホテルに到着。ほとんど休憩を取らずに7時間ぶっ飛ばして、疲れ果てました。おやすみなさ~い。

2月29日(金)
午前6時ホテルを出発し、インド・ネパールの国境に向かう。
午前9時、国境に到着。ここからネパールに入るのは3度目だが、相変わらず混雑している。
出入国審査に時間がかかるので、しばらくその辺をぶらぶら。
奥さんはネパールの青年と楽しそうに話しをしている。
午前9時40分、バイラワ空港に到着。バイラワ空港の正式名称はゴータマブッダ空港。
釈尊ご生誕の地ルンビニはここから22キロしか離れていないが、今回のネパールの目的地はポカラとカトマンズなので、釈尊にはご免なさいと頭を下げて通り過ぎることにする。
急遽チャーターしたブッダ・エアーの飛行機でポカラまで飛ぶ。ブッダはもちろん仏陀、釈尊のこと。素晴らしい会社名だが、1997年に設立された小さな民間航空会社だ。
午前11時30分、ヒマラヤ山脈の白い峰々を楽しんでいる間もなく、あっと言う間にポカラ空港に到着した。
午前11時45分、ホテルに到着。ホテルはフィッシュ・テイル・ロッジ。「魚の尾」とは変わった名前のホテルだと思われるだろうが、「魚の尾」はネパール語でマチャプチャレ。
名前をご存じの方もおいでかなと思うが、マチャプチャレはポカラから望むことができるアンナプルナ山系の名峰。頂上が魚の尾に似ているからその名があるが、シヴァ神に関連した聖なる山として地元住民に崇敬されており、登山は禁止されている。僕にとって憧れの山で、ずっとパソコンの壁紙に使っているくらいだ。ところが僕に会うのが恥ずかしいのか、ポカラにいる間一度もその姿を見せてくれなかった(当然、写真は借り物)。それにしても山には縁がない。平成18年にパキスタンに行った時も、わざわざ新しいデジタル一眼レフカメラを買って行ったのに、ラカポシ・ディラン・ウルタルの3峰が姿を見せてくれなかった。
このホテルは日本の皇太子殿下やカーター元大統領も宿泊したことがあるレイクサイドにある老舗のホテルだが、ペワ湖の中州にあり、筏で渡らなければならない。筏といっても櫓を漕ぐわけではなく、ロープを引っ張る。こんな面倒くさいことしてないで、橋を架ければいいのにと思うが、このほうが面白みがある。そう言えば、平成17年にインドに行った時、ウダイプールで泊まったのがレイクパレス・ホテル。名画007の舞台にもなった湖上の宮殿ホテルということで期待して行ったんだけど、この年インドは大干ばつで湖にほとんど水がない。泥水をかき混ぜながら、ボートでホテルに渡った思い出がある。今度は水は満々とある。でも、町に飲みに出て、夜中に帰って来て、ホテルのスタッフがいなかったら、自分でロープ引っ張ることになるんかな~。そりゃ、たまらんぞ。町に飲みに行くのはやめときましょ。
ポカラは花と湖の里と言われる。ホテルの庭に綺麗な花がいっぱい咲いてます。がらにもなく、花の撮影。
花の名前は恥ずかしながら、わかりません。
朝が早かったから、もうお腹ぺこぺこ。まずは腹ごしらえ。一番左のおっさんがネパールのガイドさんなんだけど、名前忘れちゃいました、ご免なさい。さあ、ちょっと昼寝してから町に繰り出すか。(つづく)
2月29日(金)
午後2時30分、ポカラの旧市街の散策に出かけます。まずは、ロープを手繰って対岸に渡るんだけど、実際に引っ張ってみると結構しんどいや。しばらく、一緒に町歩きをお楽しみ下さい。
30分ほどの散策でしたが、お楽しみいただけたでしょうか?それにしても可愛い子ばっかりですね。ねえ、日本に来てタレントにならない?
午後3時20分、旧市街から階段を登った小高い丘の上にあるビンドゥバシニ寺院を参拝。200年前に建てられたポカラで一番大きなヒンドゥー教寺院だ。僕のお寺は430年前だから、僕のお寺の勝ち。
そんなこと自慢して、アホか。ドゥルガー神、ヴィシュヌ神、クリシュナ神が祀られている。

この白い祠にこのお寺のご本尊であるドゥルガー神が祀られている。毎朝、鶏や山羊が生け贄としてささげられ、首をはねて生き血をドゥルガー神に塗るんだそうだ。 インドでは生け贄を行うお寺は随分減ってしまったけど、カルカッタ(現在はコルカタ)のカーリー寺院では今でも行われている(はずだ)。そう言えば、長いことカルカッタ行ってないなあ。ヒンドゥー教の前身のバラモン教も生け贄を行ったが、釈尊はこれに反対され、不殺生(アヒンサー)を強調された。祠の中が暗くてドゥルガー神がよく見えない。
ドゥルガー神はシヴァ神の奥さん。その名前は「近づき難い者」という意味で、シヴァ神の暗黒面に対応する血と破壊・死の女神とされ、優しい顔をしておられるけど、もの凄くおっかない戦いの女神さんだ。だから、たくさんある手には三叉戟【さんさげき】・剣・弓などの武器を持っておられる。アスラ(魔神)と戦い苦戦したインドラ神が、シヴァ神・ヴィシュヌ神・ブラフマー神などの神々に応援を頼み、それに応じた神々の怒りの光の中からドゥルガー神は生まれたとされる。
ちなみにカルカッタにあるカーリー寺院のご本尊のカーリー女神は、シュムバ、ニシュムバとの戦いで、怒りによって黒くなったドゥルガー神の額から生まれたそうで、絵では青い身体になってるけど、カーリーは「黒い者」という意味。ドゥルガー神以上に純粋に戦闘を楽しむ女神とされ、生首のネックレスを掛けておられる。踏んづけられているのは夫のシヴァ神。夫婦喧嘩した時に奥さんに踏んづけられてる僕みたいだけど、別に夫婦喧嘩してるんじゃない。カーリー女神がアスラの分身ラクタヴィージャを倒した時に、勝利に酔ったカーリー女神が踊り始めると、そのあまりの激しさに大地が砕けそうになったので、シヴァ神が足下に横たわって衝撃を弱めてるんだって。ドゥルガー女神もカーリー女神も戦いの神だから、生け贄を欲しがるはずだよね。神々の世界でも女は強くて恐い。
境内にはハヌマーンもお祀りされていて、こちらは真っ赤っか。鶏や山羊の血を塗ったのかと思ったら、どうも信者さん達が染料を塗ってるらしい。(書き終わってから、よくよく見ると、ガネーシャに見えて来ました。ハヌマーンでなかったら、お許しを)
ハヌマーンはインドの2大叙事詩の「ラーマー=ヤナ」に登場するお猿の神さん。ラーマ王子はハヌマーンに助けられて、ランカ(島のこと。現在のスリランカ)に住む化け物ラーバナからシータ姫を取り返す。猿を連れて島に化け物退治というと、みなさん鬼ヶ島に鬼退治に行った桃太郎を思い出すでしょ。そう、「ラーマー=ヤナ」は桃太郎の原型だという説がござるが、どうかね~。また、ハヌマンラングールってお猿さんご存じかな。これがハヌマーンの家来としてヒンドゥー教寺院で大切にされており、中国に伝わって孫悟空になったという話もござる。
お堂の内部には、ヴィシュヌ神が。右側が写真欠けちゃってるけど、たぶんクリシュナ神。真ん中になんか黒い棒みたいなものが見えると思うけど、たぶんシヴァ神を表すリンガ(つまり、おちんちん)。今、脳味噌引き絞ってるけど、思い出せないんで、間違ってたらご免なさい。ちなみに、クリシュナ神はヴィシュヌ神の第8の化身で、さっきのラーマは第7の化身。そして、実はお釈迦さまはヴィシュヌ神の第9の化身なんだよ。
僕の横にいる怪獣。いくら頑張っても思い出せない。
こいつも赤い染料が塗られてます。
この怪物の後ろには、白い塔の上にビレンドラ国王夫妻の合掌した姿が。この怪物は国王夫妻を守ってるのかも知れんな。ビレンドラ国王は平成12年6月、ネパール王族殺害事件で王妃らとともに射殺された。事件の犯人とされる長男のディペンドラが意識不明のまま即位したが、3日後に死亡。弟のギャネンドラが即位したんだけど、ギャネンドラ国王も今年(平成20年)の5月に退位して、とうとうネパールは王政が廃止されて連邦共和政となった。しかし、王朝末期というのはいつの時代もゴタゴタするもんだね。ビレンドラがディペンドラからギャネンドラになって、ドラドラドラと続くけど、やっぱディペンドラがどら息子だったんかな~。
ビンドゥバシニ寺院のあとレイクサイドを散策してホテルに帰り、まだ外は明るく、時間も午後5時30分だというのに、ホテルの庭で大宴会の始まりです。いろいろトラブルありましたが、無事ポカラまで来れました。かんぱ~い。
ビールにウィスキー、焼酎、日本酒なんでもありまっせ。おつまみは、柿の種、さきいか、プリッツ、鯖カンもありまっせ。じゃんじゃ飲んどくれ。あっ、お魚の格好したのは、部屋のカギ。フィッシュ・テイル・ロッジですから。
暗くなったら、ランプやロウソクをつけて飲み続けます。
午後7時になりました。ホテルの中に入り、レストランで夕食です。テーブルにはビール瓶が林立しております。まだ、飲むんかい。
お腹がふくれたところで、ショータイム。サーランギという弦楽器、打楽器のマダル、横笛の演奏です。最初のうちは聞いていただけだったんですが、酔った勢いで僕も特別出演。日蓮宗は太鼓をたたきますので、打楽器にはちょっと自信があります。マダルを軽快に演奏しました。ところが、このあと記憶がプツ~ン。いつ、どこを、どうやって部屋に帰ったのか覚えていません。翌朝、奥さん大激怒。僕の頭をポカラ。
すんませんでした。(つづく)
