なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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ブッダを知りませんか?
スブーティ(須菩提【しゅぼだい】)
スブーティはコーサラ国の都シュラヴァスティーの長者の子として生まれた。お父さんの名はスマナ。あの祇園精舎【ぎおんしょうじゃ】を寄進したことで有名なスダッタ長者の弟さんだ。スダッタ長者については、またいずれお話するね。祇園精舎の完成を記念してブッダが説法した時、スブーティも伯父さんのスダッタ長者の傍らにあってその説法を聞き、深く感銘して、そのまま出家した。それ以前の彼は自分の頭が良いのを誇り、他人を軽蔑したり、意地悪をしたりしたそうだ。また、気に入らないことがあると、近くの物や動物に当たり散らし、粗暴で、荒【すさ】んだ生活をしていたと伝えられている。しかし、出家後は心から修行に励み、見事なまでに自らを変えたそうだ。僕は保護司をしているんだけど、犯罪を犯した人たちを見ていると、「なんでこの人が?」と思える人がほとんどだ。何かのきっかけさえつかめれば自らを変えることは可能だし、その手助けをするのが僕の役割だと思ってるんだけど、なかなかブッダのようなわけにはいかない。
スブーティはブッダの「空【くう】」の思想の真義をよく悟って、心のかたよりやこだわり、ものへの執着から脱したんで、「解空【げくう】第一」と称えられた。また、多くの縁【えにし】のおかげで今あることに感謝し、外道から非難や中傷・迫害を受けても、他と争わない生き方を貫いたので「無諍【むじょう】第一」とも呼ばれ、信者さんたちからの供養を誰よりも多く受けたんで「被供養第一」とも呼ばれている。
スブーティはブッダの「空【くう】」の思想の真義をよく悟って、心のかたよりやこだわり、ものへの執着から脱したんで、「解空【げくう】第一」と称えられた。また、多くの縁【えにし】のおかげで今あることに感謝し、外道から非難や中傷・迫害を受けても、他と争わない生き方を貫いたので「無諍【むじょう】第一」とも呼ばれ、信者さんたちからの供養を誰よりも多く受けたんで「被供養第一」とも呼ばれている。
ところで、みんな「空」って、分かる?般若心経【はんにゃしんぎょう】の「色即是空 空即是色」の部分は有名だよね。2013年2月に亡くなった歌舞伎の第12代市川團十郎さんの辞世の句が、「色は空 空は色との 時なき世へ」。これを息子の海老蔵さんが喪主挨拶で、「イロハソラ、ソラハイロトノ……」と読んでたけど、これは間違いだよね。これじゃ全く意味が通じなくなってしまう。海老蔵さんは「空(そら)を見たら父を思い出してください」というようなことを言っていたけど、お父さんの気持ちを全く理解していない。團十郎さんは明らかに「色即是空 空即是色」をふまえて、「シキハクウ クウハシキトノ……」と詠んだんだ。
空はサンスクリット語のシューンニャの訳語で、「ふくれあがって中身が空っぽ」とか「実体がない」という意味。物質や肉体などこの世に存在するものは、すべて因縁によって起こっている現象にすぎず、すべてのものから独立して存在する「実体」はないということだ。たとえば、ここに自動車がある。自動車はエンジン、ボディ、シャーシ、ハンドル、タイヤなど、色んな部品から成り立ってるよね。この自動車から順番にエンジン、シャーシ、ハンドル、タイヤと色んな部品を取り除いていくと、何が残るかな?何も残らないよね。ということは自動車という実体は存在しないということだ。でも、自動車という現象は確実に存在している。これと同じように、この世のすべての存在には実体がなく、単なる現象にすぎないから、そんなものに執着して、とらわれてはいけないということだ。ブッダの説かれた「縁起の法」にもとづくんだけど、2世紀に登場したナーガルジュナ(龍樹)によって理論化された。ナーガルジュナは世界史で習ったよね。そう大乗仏教の理論を確立した偉い坊さんだったね。
空はサンスクリット語のシューンニャの訳語で、「ふくれあがって中身が空っぽ」とか「実体がない」という意味。物質や肉体などこの世に存在するものは、すべて因縁によって起こっている現象にすぎず、すべてのものから独立して存在する「実体」はないということだ。たとえば、ここに自動車がある。自動車はエンジン、ボディ、シャーシ、ハンドル、タイヤなど、色んな部品から成り立ってるよね。この自動車から順番にエンジン、シャーシ、ハンドル、タイヤと色んな部品を取り除いていくと、何が残るかな?何も残らないよね。ということは自動車という実体は存在しないということだ。でも、自動車という現象は確実に存在している。これと同じように、この世のすべての存在には実体がなく、単なる現象にすぎないから、そんなものに執着して、とらわれてはいけないということだ。ブッダの説かれた「縁起の法」にもとづくんだけど、2世紀に登場したナーガルジュナ(龍樹)によって理論化された。ナーガルジュナは世界史で習ったよね。そう大乗仏教の理論を確立した偉い坊さんだったね。
ところで、宮沢賢治の『春と修羅』の序はこんなふうに始まっている。
わたくしといふ現象は
假定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといっしょに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち、その電燈は失はれ)
賢治の文章は難解だけど、「わたくしという現象」という表現は、空の理論に基づいていると、僕は思っている。人間が生まれ、年老いて、必ず死を迎えるように、この世のすべては変化している。一瞬たりとも留まるものはない。つまり、そこに存在するものは一時的な現象にすぎず、わたしという存在も一時的な現象にすぎない。「せはしくせはしく明滅している」現象にすぎない、でも、「たしかにともりつづける」現象である。
スブーティがたまたまマガダ国の都ラージャガハに来た時のことだ。スブーティの説法を聞いて感激したビンビサーラ王は、
「私はスブーティ尊者のお話に感激しました。尊者のために草庵を造ってさしあげたいと思います」と約束した。
しかし、当時、マガダ国は十六大国といわれる国々の中で最も強大であり、他の国々を併合しようとしている時だった。 そんな時だったから、ビンビサーラ王は忙しさに紛れて、草庵がもう少しでできあがるというところまで行きながら、屋根を葺くのを忘れてしまった。僕だったら「こんな屋根のない草庵なんかに住めるか」と言って腹を立てるところだけど、ものごとにとらわれることなく、供養されたものはただ感謝の心で受けるというブッダの教えを忠実に守っていたスブーティは文句一つ言わずに、その屋根のない草庵にそのまま住んだんだって。いくらインドが暑い国だと言っても、夜露も降りるだろうし、風も吹きつけただろうね。いや、それよりも乾季の間ならいざ知らず、雨季になれば雨が降って大変なことになってしまう。ところが彼が暮らし始めてから何ヶ月も雨が降らなかったそうだ。ありのままを受け入れるスブーティに感じた天が雨を降らせなかったんだ。
さあ、そうすると、こんどはマガダ国の人々が日照りに苦しむようになり、農作物が枯れ始めた。困った農民たちが何とかして欲しいと王さまに訴え出た。王さまが役人に調べさせたところ、雨が降らないのは、スブーティの草庵に屋根がないことが原因だと分かった。自分のミスだと気がついた王さまが慌てて草庵の屋根を葺いた。屋根ができあがった時、スブーティは素直に喜んで、次のような詩をうたった。
私の庵は見事にできあがり、
風も通さず、心地が良い。
天よ、思うがままに慈雨を降らせよ。
私の心は自然の理をよく悟り、何事にも動じない。
私は道を求めてさらに歩む。
天の神よ、どうぞ雨を降らされよ。(『テーラガーター』)
スブーティがこの詩を詠んだ途端、天は待ってましたと言わんばかりに雨を降らせたので、マガダ国の人々は干ばつから逃れることができたそうだ。
人は色々な物にこだわるから悩みが起きる。だから、一切のこだわりを捨てる、過ぎ去ったことや、どうにもならないことにいつまでも執着しない。そんな生き方をしたのがスブーティだった。僕らもこんな生活ができたら、どんなにか楽だろうにね。
ああ、ちなみに『西遊記』に須菩提という人物が登場しているの、知ってる?孫悟空の仙術のお師匠さんなだんだよ。石猿が解空第一の須菩提の弟子になったんで、孫悟空と名づけられたんだけど、知ってた?(つづく)
ブッダを知りませんか?
アヌルッダ(阿那律【あなりつ】)
アヌルッダはスッドーダナ王の弟のドートーダナかアミドーダナの子で、ブッダの従兄弟にあたる。ブッダがカピラヴァッツに帰って来てからシャカ族の青年の出家が相次ぐ中、お兄さんのマハーナーマンとアヌルッダのどちらかが出家しようということになったんだって。二人の相談の結果、お兄さんが家を継ぎ、アヌルッダが出家することになった。ところがお母さんが猛反対で出家を許してくれない。必死で頼み込んだところ、バッディヤも出家するなら許してあげると言われた。バッディヤはナンダとラーフラが出家した後、スッドーダナ王がシャカ族の王に指名した人だったよね。お母さんはまさか王になったばかりのバッディヤが出家するはずはないと思ったんだろうね。アヌルッダが必死になってバッディヤを説得した結果、バッディヤがOKした。お母さんの作戦はものの見事に失敗。そういうわけで、前回お話ししたように、バッディヤ、アーナンダら5人とともに出家した。
アヌルッダはそんな必死の思いで出家したにもかかわらず、祇園精舎での初めての説法の時についうとうとと居眠りをしてしまった。それに気づいたブッダはアヌルッダに言った。
「お前は王の法律を恐れて出家したのか、それとも盗賊が怖くて修行しているのか?」
アヌルッダは答えた。
「ブッダよ、決してそうではございません。私は生老病死を嫌って出家いたしました」
「アヌルッダよ、お前は道を求める固い志をもって出家したのだ。それなのに、私の説法の座で居眠りをするとはどうしたことか」と、ブッダはアヌルッダを叱責した。
その時、アヌルッダは座より立ち上がり、手を胸のうえに組み、ひれ伏してブッダを拝し、決意してこう言ったそうだ。
「ブッダよ、今日から以後、私はたとえ我が身が溶けただれようとも、ブッダのみ前で眠るようなことは決していたしません。不眠不臥で修行いたします」
講義や講演を聴きながら、どうにも眠くて我慢できず、ついうとうとと居眠りした経験なんか一度もない、という人はいないよね。僕も学生時代そうだった。だから、僕の世界史の講義を聴いていて、初中後【しょっちゅう】居眠りしている生徒がいても、あんまり怒らないんだ。でも、あんまりたくさんの生徒が寝ていると、僕の授業がつまらないんかな~、と不安になってしまう。
その時からアヌルッダは、ブッダのそばにいる間は、夜が更けて明け方になっても決して眠らなかったそうだ。でも人間は睡眠しないで生きることはできないよね。彼はやがて眼を痛めてしまう。こんな極端な修行方法はブッダの言う「中道」に反るすよね。ブッダは、
「アヌルッダよ、修行を怠るのはよくないが、刻苦に過ぎるのもよくない」
と言って、眠るように勧めたんだけど、アヌルッダは、
「ひとたびブッダのみ前でお誓いしたことを破るわけにはまいりません」
と答えた。
このままでは失明してしまうと案じたブッダが、名医ジーヴァカにアヌルッダの眼を治療するように頼んだんだけど、
「アヌルッダが少しでも睡眠をとってくれれば治療も可能なんだが、このままではどうすることもできません」と言って、匙を投げてしまった。
ブッダは、さらにアヌルッダに対して、
「万物は食事によって存在することができる。眼には眠りが食事である。耳には声が食事であり、鼻には香りが食事であり、舌には味が食事であるなどというように。アヌルッダよ、だから眠りなさい」
と勧めたけど、アヌルッダの決意は変わることはなかった。
こうして、アヌルッダはついに失明してしまう。しかし、彼の肉眼はつぶれてしまったが、心の眼はこの時に開き、見えないものを見通す力「天眼通」を獲得し、アヌルッダは「天眼第一」と称された。
仏教の修行生活が苦と楽の両極端を離れた中道であるべきことは、アヌルッダも十分に理解していたはずだ。それにもかかわらず再三にわたるブッダの忠告をしりぞけて、不眠の誓いを守り通したのは、母親の反対を押し切って道を求めて出家した身であるのに、ブッダの説法を聴きながら居眠りをしたということが、よっぽど恥ずかしかったんだろうね。最近の若者をみていると(こんな台詞は年寄りみたいだけど、まあもうすぐ前期高齢者だから仕方がない)、恥ずかしいという思いが弱いように感じる。僕なんか若い頃に法要なんかでいっぱい恥をかいて、その恥ずかしいという思いをバネに頑張って、生臭だけど、まあなんとか一人前の坊さんになれたんだと思う。失敗しても恥ずかしいという思いがないと、いつまでたっても進歩しないよね。
アヌルッダについては、こんな話も伝わっている。ある日、アヌルッダは祇園精舎で自分の着ていた衣のほころびを縫おうとしていた。しかし、心の眼を開いたとは言っても、失明しているアヌルッダはどうしても針の孔【あな】に糸を通すことが出来なかった。途方にくれたアヌルッダは、つぶやいた。
「もろもろの悟りに達した聖者方のうちで、どなたか私のために針に糸を通し、さらに功徳を積もうとする方はおられないだろうか?」
すると、アヌルッダのそばに近づいた者があり、
「私がアヌルッダのために針に糸を通し、功徳を積ませてもらおう」
と言った。それはまぎれもないブッダその人の声であった。驚いたアヌルッダはこう言った。
「ブッダよ、私が先に申しましたのは、悟りに達した聖者の方々の中に、誰か私のために針に糸を通して、さらに功徳を積もうとする者はいないかということであって、すでにあらゆる功徳を積まれているブッダにお願いしたのではございません」
それに対してブッダの答えは次のようであった。
「アヌルッダよ、世間に功徳を求める人は多いが、私にまさる者はあるまい。アヌルッダよ、私は施しや説法などすべての点で不足するところはないが、それでもなお功徳を積もうとしている。それは私自身のためではなく、生きとし生けるもののためである」
ブッダの心を知ったアヌルッダは、ただ黙ってブッダに衣のほころびを縫ってもらったそうだ。 ブッダに衣のほころびを塗ってもらった弟子はアヌルッダただ一人だけだ。弟子を思うブッダの心がよく伝わってきて、涙が滲んでくる。僕もこんな師匠が欲しかったな~。(笑)
この絵はブッダの死を描いた涅槃図【ねはんず】だ。アヌルッダはブッダ最後の旅に同行しており、ブッダの師を悲嘆し慟哭する弟子達を慰め励ましたそうだ。アーナンダに指示してクシナガラのマッラ族に葬儀の用意をさせたのもアヌルッダだったそうだ。だから涅槃図にも当然、登場してくるんだけど、実はこの中にアヌルッダが二人いるんだよ。どれか分かる?
金色に輝くブッダの前にいるのが一人目のアヌルッダ。その膝に頭を横たえているのがアーナンダで、眼をつぶっているんじゃなくて、悲しみのあまりに気絶しちゃったんだ。アヌルッダがそれを介抱してるんだ。もう一人のアヌルッダはブッダの真上の雲に乗っている。ブッダの死の知らせを受けたお母さんのマーヤーが兜率天【とそつてん】からクシナガラの地に降りてこられたんだけど、アヌルッダがそれを先導しているんだ。これ「異時同図法」といって、1枚の絵の中に時間の異なる場面を描いたものなんだけど、もしどっかで涅槃図を見る機会があったら、よ~く見てみてね。(つづく)
『いちばんやさしいブッダの教え』
アヌルッダはそんな必死の思いで出家したにもかかわらず、祇園精舎での初めての説法の時についうとうとと居眠りをしてしまった。それに気づいたブッダはアヌルッダに言った。
「お前は王の法律を恐れて出家したのか、それとも盗賊が怖くて修行しているのか?」
アヌルッダは答えた。
「ブッダよ、決してそうではございません。私は生老病死を嫌って出家いたしました」
「アヌルッダよ、お前は道を求める固い志をもって出家したのだ。それなのに、私の説法の座で居眠りをするとはどうしたことか」と、ブッダはアヌルッダを叱責した。
その時、アヌルッダは座より立ち上がり、手を胸のうえに組み、ひれ伏してブッダを拝し、決意してこう言ったそうだ。
「ブッダよ、今日から以後、私はたとえ我が身が溶けただれようとも、ブッダのみ前で眠るようなことは決していたしません。不眠不臥で修行いたします」
講義や講演を聴きながら、どうにも眠くて我慢できず、ついうとうとと居眠りした経験なんか一度もない、という人はいないよね。僕も学生時代そうだった。だから、僕の世界史の講義を聴いていて、初中後【しょっちゅう】居眠りしている生徒がいても、あんまり怒らないんだ。でも、あんまりたくさんの生徒が寝ていると、僕の授業がつまらないんかな~、と不安になってしまう。
その時からアヌルッダは、ブッダのそばにいる間は、夜が更けて明け方になっても決して眠らなかったそうだ。でも人間は睡眠しないで生きることはできないよね。彼はやがて眼を痛めてしまう。こんな極端な修行方法はブッダの言う「中道」に反るすよね。ブッダは、
「アヌルッダよ、修行を怠るのはよくないが、刻苦に過ぎるのもよくない」
と言って、眠るように勧めたんだけど、アヌルッダは、
「ひとたびブッダのみ前でお誓いしたことを破るわけにはまいりません」
と答えた。
このままでは失明してしまうと案じたブッダが、名医ジーヴァカにアヌルッダの眼を治療するように頼んだんだけど、
「アヌルッダが少しでも睡眠をとってくれれば治療も可能なんだが、このままではどうすることもできません」と言って、匙を投げてしまった。
ブッダは、さらにアヌルッダに対して、
「万物は食事によって存在することができる。眼には眠りが食事である。耳には声が食事であり、鼻には香りが食事であり、舌には味が食事であるなどというように。アヌルッダよ、だから眠りなさい」
と勧めたけど、アヌルッダの決意は変わることはなかった。
こうして、アヌルッダはついに失明してしまう。しかし、彼の肉眼はつぶれてしまったが、心の眼はこの時に開き、見えないものを見通す力「天眼通」を獲得し、アヌルッダは「天眼第一」と称された。
仏教の修行生活が苦と楽の両極端を離れた中道であるべきことは、アヌルッダも十分に理解していたはずだ。それにもかかわらず再三にわたるブッダの忠告をしりぞけて、不眠の誓いを守り通したのは、母親の反対を押し切って道を求めて出家した身であるのに、ブッダの説法を聴きながら居眠りをしたということが、よっぽど恥ずかしかったんだろうね。最近の若者をみていると(こんな台詞は年寄りみたいだけど、まあもうすぐ前期高齢者だから仕方がない)、恥ずかしいという思いが弱いように感じる。僕なんか若い頃に法要なんかでいっぱい恥をかいて、その恥ずかしいという思いをバネに頑張って、生臭だけど、まあなんとか一人前の坊さんになれたんだと思う。失敗しても恥ずかしいという思いがないと、いつまでたっても進歩しないよね。
アヌルッダについては、こんな話も伝わっている。ある日、アヌルッダは祇園精舎で自分の着ていた衣のほころびを縫おうとしていた。しかし、心の眼を開いたとは言っても、失明しているアヌルッダはどうしても針の孔【あな】に糸を通すことが出来なかった。途方にくれたアヌルッダは、つぶやいた。
「もろもろの悟りに達した聖者方のうちで、どなたか私のために針に糸を通し、さらに功徳を積もうとする方はおられないだろうか?」
すると、アヌルッダのそばに近づいた者があり、
「私がアヌルッダのために針に糸を通し、功徳を積ませてもらおう」
と言った。それはまぎれもないブッダその人の声であった。驚いたアヌルッダはこう言った。
「ブッダよ、私が先に申しましたのは、悟りに達した聖者の方々の中に、誰か私のために針に糸を通して、さらに功徳を積もうとする者はいないかということであって、すでにあらゆる功徳を積まれているブッダにお願いしたのではございません」
それに対してブッダの答えは次のようであった。
「アヌルッダよ、世間に功徳を求める人は多いが、私にまさる者はあるまい。アヌルッダよ、私は施しや説法などすべての点で不足するところはないが、それでもなお功徳を積もうとしている。それは私自身のためではなく、生きとし生けるもののためである」
ブッダの心を知ったアヌルッダは、ただ黙ってブッダに衣のほころびを縫ってもらったそうだ。 ブッダに衣のほころびを塗ってもらった弟子はアヌルッダただ一人だけだ。弟子を思うブッダの心がよく伝わってきて、涙が滲んでくる。僕もこんな師匠が欲しかったな~。(笑)
この絵はブッダの死を描いた涅槃図【ねはんず】だ。アヌルッダはブッダ最後の旅に同行しており、ブッダの師を悲嘆し慟哭する弟子達を慰め励ましたそうだ。アーナンダに指示してクシナガラのマッラ族に葬儀の用意をさせたのもアヌルッダだったそうだ。だから涅槃図にも当然、登場してくるんだけど、実はこの中にアヌルッダが二人いるんだよ。どれか分かる?
金色に輝くブッダの前にいるのが一人目のアヌルッダ。その膝に頭を横たえているのがアーナンダで、眼をつぶっているんじゃなくて、悲しみのあまりに気絶しちゃったんだ。アヌルッダがそれを介抱してるんだ。もう一人のアヌルッダはブッダの真上の雲に乗っている。ブッダの死の知らせを受けたお母さんのマーヤーが兜率天【とそつてん】からクシナガラの地に降りてこられたんだけど、アヌルッダがそれを先導しているんだ。これ「異時同図法」といって、1枚の絵の中に時間の異なる場面を描いたものなんだけど、もしどっかで涅槃図を見る機会があったら、よ~く見てみてね。(つづく)
ブッダを知りませんか?
ウパーリ(優婆離【うはり、うぱり】)
ウパーリは、もとシャカ族の宮廷の理髪師だった。世界史で習ったと思うけど、インドにはジャーティと呼ばれる集団がある。いわゆるカーストなんだけど、理髪師のジャーティはナーイ。ヴァルナ制の4つの階級、覚えてる?そう、バラモン・クシャトリヤ・ヴァイシャ・シュードラの順だったよね。インドでは人間の体から排出されるものを扱う職業は賤しいものとされ、ナーイは最下層のシュードラに属している。シュードラはバラモン教の聖典であるヴェーダを学習することすら許されていなかった。
前回の話の続きになるんだけど、ナンダとラーフラを出家させたブッダがカピラヴァッツを出発すると、シャカ族の貴公子6人が出家するためにそのあとを追った。バッディヤ、アヌルッダ、インビラ、バグ、アーナンダ、デーヴァダッタの6人。そうそうたるメンバーだね。あれっ、バッディヤって、前回のお話でスッドーダナ王がシャカ族の王に指名したブッダの従兄弟だったよね。王になったばっかりなのに出家しちゃったんだね。それから、アーナンダは前々回にお話ししたし、アヌルッダは次回お話しするね。もう一人、デーヴァダッタも重要人物なんで、またいずれお話することになる。そして、この6人の付き添いを命じられたのがウパーリだった。
シャカ族の土地の境界を出ると、6人は黄衣に着替え、脱いだ衣服とはずした装身具をウパーリに渡した。「これをお前にあげよう。出家しようとしている私たちには必用ないものだから。カピラヴァッツに帰ってそれらを売り、お金に換えなさい」と言って、立ち去ってしまった。ウパーリは一人歩き始めたが、しばらくして歩みをとめ、こう考えた。「私は貧しい階級で何も持たないけど、ブッダは階級にかかわらず平等だと言っている。我々シュードラはヴェーダを学ぶことを許されていないが、ブッダならきっと受け入れてくださるに違いない。私も出家しよう」。そう決意すると、渡された衣服・装身具を袋に入れて木の枝にくくりつけ、6人のあとを追った。追いかけてきたウパーリを見た6人は不審に思ったが、ウパーリの出家の決意を聞くと喜んで、7人そろってブッダのもとへ行った。
さあ、ここで問題になったのが7人のうち誰が一番初めに得度するかだ。
得度は仏門に入って坊さんになることなんだけど、僕は14歳の時に得度している。剃髪【ていはつ】(髪の毛を剃り落とす)し、仏・法・僧の三宝に帰依することを誓い、ブッダから戒を授かる儀式が行われる。仏教教団では、その出身階級、貧富の差などはまったく問題にされず、その人がどれほどの修行を積んだかが重視され、仏教教団に入ってからの年数が修行者の上下を決める基準とされた。得度からの年数を法臘【ほうろう】と言うんだけど、これが教団内の序列の基準となった。実年齢はいっさい関係ないし、能力もまったく関係なく、ほんとうの年功序列だ。封建的って言われるかも知れないけれど、僕はこれがベストだと思う。僕は22歳の時に僧侶の資格を得て住職になったんだけど、加賀地方の日蓮宗では住職になった順で序列が決まっていて、僕は7位。これが、実年齢だと25位になる。別に威張りたいから言ってるんじゃないよ。坊さんには僧階というのがあるんだけど知ってる?ああ、そうかい(笑)。僧階の順にすればという人もいるけど、僧階はお金さえ出せば上がっていくから、大寺優位になっちゃうでしょ。だいたい坊さんに階級があること自体がおかしいよね。寺には格式があるけど、これによる順番も駄目。お年をめされてから出家する人もいるんで、実年齢による順も駄目。結局、住職になった順が一番ベストなんだ。
話が横道に逸れちゃったけど、7人の中で一番初めに得度したのがウパーリだった。「長い間理髪師として私たちに仕えてきたこのウパーリを先に出家させて欲しい。教団における先輩として合掌して敬うことにしたい。それによって私たちシャカ族の高慢さを除くことにしたい」と、6人がブッダに申し出たからだとされているけど、僕は違うと思う。カースト制のもとでは違うカーストの者同士は結婚出来ないし、一緒に食事をすることも出来ない。カーストが下位になればなるほど、汚れが強くなると考えるからだ。シャカ族の6人はヴァルナでは第2位のクシャトリヤ階級だ。汚れた階層であるシュードラとの間には厳然たる格差があり、6人が出家前からウパーリを対等に扱う心を持っていたとは考えにくい。ここはやはりカーストを否定するブッダのはからいと見た方がいいと思う。
教団では後輩の修行者は先輩の修行者に礼拝しなければならない決まりになっている。6人の貴公子はブッダに命じられてウパーリを礼拝したものの、初めのうちは心から納得してそうしたわけではなさそうだ。その証拠に『大荘厳論経』という経典には、ウパーリを礼拝するように命じられた貴公子たちが「われら由緒ある日種族(スーリヤ・ヴァンシャ)に属する高貴の家柄のものが、どうしてシュードラ出身のウパーリを礼拝できましょうか」と言って、ブッダに食い下がる姿が描かれている。
しかし、ブッダは教団内部においては出身階級を問わない、完全平等主義をとった。修行者たちはすべて「同梵行者」=清浄の修行をともにする者、あるいは「同行者」=ともに住む者と呼ばれた。すなわち、すべての修行者が同等の資格で修行するのであり、教団内のさまざまな審議や決定事項は、全員が同一の権利で票決する形式がとられていた。わずかに席次の上下だけが、得度してからの年数によって決められていただけだ。
『スッタニパータ』にブッダの有名な言葉がある。
「生れによってバラモンとなるのではない。生れによってバラモンならざる者となるのでもない。行為によってバラモンなのである。行為によってバラモンならざる者なのである。」
また、『雑一阿含経』には、
「四大河水あり……恒河(ガンジス河)、新頭(インダス河)、婆沙(オクサス河)、私陀(シーター河=今日のタリム河)……海に入りてまた本の名字なし。かくの如く、四姓あり……クシャトリヤ、バラモン、長者、居士の種なり。如来のところにおいて鬚髪【しゅはつ】を剃除【ていじょ】し、三宝衣を着し、出家学道すれば、また本姓なし。ただ沙門釈迦子と言うのみ」とある。
ブッダはカーストを否定した。だからこそ、仏教はアジアを中心に広まり世界宗教となった。だけど、残念なことにカーストを否定したから、仏教はインドに残れなかったんだ。
ブッダの教団には社会の最下層に属していたと思われる修行者もたくさんいたようだ。その一人であるスニータ長老は、在俗の日々を思い出しながら次のように述べている。「私は卑しい家に生まれ、財に乏しかった。卑しい仕事に従事し、糞尿を掃除する者であった。人々に忌み嫌われ、軽蔑され、罵られた。私はいじけながら多くの人々を敬礼していた。」(『テーラーガーター』)この記述を読む限り、スニータ長老は恐らく不可触民の出身であったと思われる。不可触民、英語で言えばアンタッチャブル、つまり触っていけない人々という意味である。なぜならば、彼らはカーストの枠にも入らない、最も汚れた人々と考えられているからだ。彼らは自らをダリッドと呼ぶ。ガンディーは彼らをハリジャン、すなわち「神の子」と呼んだが、これには批判意見もある。ブッダはスニータにこう語った。「熱心な修行と清らかな行ないと感官の制御と自制と、……これらによって、人はバラモンとなる。これが最上のバラモンたる境地である。」
ウパーリも同様の教えを受けたのであろう。ウパーリはよく戒律を守り、他の修行者が戒律にふれる行いをした時には、ブッダの教えにもとづいて公平にそれを裁定し、十大弟子の中で「持律第一」と称されるようになり、ブッダ亡き後、ラージャガハで行われた第一結集では、戒律をまとめ上げる責任者となっている。
ちなみに、僕たちが読む『法華経』の登場人物には当然ブッダの十大弟子が入っているんだけど、なぜかウパーリだけが登場していない。すべての人が仏となれることを説く法華経が、シュードラ出身だからといってウパーリを除いたとは考えられないんだけど、いろいろ調べても理由がわからないんだ。このブログを読んだ方で理由をご存じの方がいたら、ぜひコメントお願いします。(つづく)
ブッダを知りませんか?
ラーフラ(羅睺羅【らごら】)
中村晋也作『薬師寺・釈迦十大弟子』
ラーラフはブッダがカピラヴァットゥにあってガウタマ・シッダールタと呼ばれていた時、ヤショダラー妃との間に生まれたブッダの実子であり、生まれたのはシッダールタが出家する直前とされている。シッダールタがヤショダラーと結婚したのは16歳の時。出家は29歳の時なんで、結婚して13年も子供が出来なかったことになる。ひょっとしたらシッダールタの子供じゃないのかな、なんて不謹慎なことを考えてしまったけど、ヤショダラーが嫁いだのは10歳の時なんだって。だから、最初の何年間かは夜の営みは無かったということだ。でも、それにしても、子供が生まれるのが遅いよね。ラーフラはやっと授かった待望の男の子だったんだ。ところが、ラーフラは「束縛」とか「障害」という意味だとされており、僕も世界史の授業でそう教えてきた。でも、大事な我が子になんでこんな変な名前をつけたんだろうね?
実は、ラーラフはシッダールタがひそかに、いよいよ出家しようと決心を固めた頃に生まれたんだ。父スッドーダナ王の使いから王子誕生の知らせを聞いたシッダールタは、「ラーフラが生まれた。束縛が生じた」とつぶやいたそうだ。使いの者がその言葉をそのまま王さまに伝えたんで、ラーラフという名前になったというんだけど、これ絶対に変だよね。いくらシッダールタがつぶやいた言葉だといっても、爺ちゃんが初孫にこんな名前つけるかね。それにシッダールタがなかなか出家出来なかったのは、彼が王子という地位だったからだ。王位を継承するという責任があるからだね。でも、男子が生まれたんだから、ともかくも王国を継ぐ人間が出来たわけで、むしろ出家を決断する好条件が整ったと考えるべきだ。その証拠に、ラーフラ誕生の7日後にシッダールタはカピラヴァットゥを出て出家している。
トーテムって、知ってる?インディアンのトーテムポールが有名だけど、部族の象徴となる動物や植物のことだ。ブッダが属していたシャカ族のトーテムがナーガ。「ブッダの生涯」でも書いたけど、ナーガは蛇のこと。このナーガの尻尾を「ケートゥ」、頭を「ラーフ」と言うんだって。だから、「ラーフラ」は「ナーガの頭になる者」。つまり「シャカ族の王になる者」という意味になり、こっちのほうが話の筋が通るよね。来年の授業から、こっちの説を採用しようっと。
突然父を失ったラーフラが、父と再会したのは12歳の時、ブッダが成道して6年目のことだ。ブッダはスッドーダナ王の希望にしたがって、ラージャガハから2万人の修行僧をつれて、故郷カピラヴァットゥに帰った。まさに故郷に錦を飾る、というやつだね。お父さんのスッドーダナもどんなにか喜んだだろうね。大事な王国の後継ぎが王子の地位も家族も何もかも捨てて出家した時には、悲嘆にくれる毎日だったろうけど、それが今じゃマガダ国王ビンビサーラやコーサラ国王パセーナディも帰依するブッダとなったんだからね。
ところが、ブッダは年老いた父親をまたも悲しませることになる。 ブッダが帰郷して2日目のことだ。城内ではナンダ王子即位式と同時にナンダとジャダパナカリヤーニーとの結婚式が行われた。ジャダパナカリヤーニーは「国中で一番の美人」という意味だ。ナンダはスッドーダナ王とブッダの養母であったマハーパジャーパティーとの間に生まれた人で、ブッダの異母弟にあたる。容姿端麗であったことから、「美しいナンダ」という意味でスンダラー・ナンダとも呼ばれる。 漢訳では孫陀羅難陀【そんだらなんだ】。でも、『法華経』の序品には、「難陀 孫陀羅難陀」とナンダとスンダラーナンダが並んで登場しており、別人とされている。お経を習い立ての頃は、この部分が「なんだ そしたらなんだ」と喧嘩をふっかけているみたいに聞こえて、吹き出しそうになったことが何度もあった。世界史にもマガダ国ナンダ朝というのが出てくるけど、ナンダは古代インドではポピュラーな名前で、経典制作者も何がナンダか訳が分からなくなったんじゃないかな。ナンダの誕生についてはちょっと疑問に思う点があるんだけど、それについてはまた機会があったら話すことにしよう。
さて、ナンダの結婚式の時のことだ、式場に入ったブッダはナンダへの祝いの歌を唱えてから、何も言わずに手に持っていた鉢を彼に渡して立ち去った。ナンダは鉢を手に持ったまま、宮殿を出て行くブッダのあとを追った。それを見た新妻ジャダパナカリヤーニーは、「王子さま、すぐお帰り下さいますように」と叫んだ。ところが、ナンダは「僕は出家なんかしたくありません。鉢をお返しいたします」と言えないまま、ついにブッダの滞在していたニグローダ林までついて行ってしまった。ダスティン・ホフマン主演の往年の名作『卒業』なら(若い人は知らないよね)、結婚式場から花嫁を連れ去ってしまうんだけど、ブッダは結婚式場からナンダを連れ去り、ためらっている彼の髪を剃らせ、強引に出家させてしまった。スッドーダナ王は王位継承者のナンダに去られ、悲しみのどん底に落とされてしまったんだけど、さらにむごい事件が起きる。
手塚治虫『ブッダ』
ブッダが帰郷して7日目のことだ。その朝ブッダは宮殿に入り、用意された椅子に座っていた。ヤショダラーは、「ラーラフさん、2万人の出家者を連れ、黄金に輝くブラフマー神のようなお姿をしている方が見えますか。あのお方こそあなたの父君ですよ。あのお方はたくさんの財宝をお持ちです。だから、あなたはあのお方の前に行き、『後継ぎの財産をわたしにお与え下さい』とお願いしなさい」と言い聞かせて、ラーラフをブッダのもとへ行かせた。
ブッダの前に出たラーフラはこう言った、「ブッダよ、あなたの蔭は快いものです」。言い知れぬ安らぎを感じたラーフラは、ブッダの傍から離れられなくなり、ブッダがニグローダ林に帰る時に一緒について行ってしまう。そして、母親に言われた通り、「後継ぎの財産をわたしにお与え下さい」と言った。ブッダは黙ったまま、追いかけてくるラーラフを連れてニグローダ林に戻り、弟子のサーリプッタに「この子を出家させてやりなさい」と言った。あらまあ、ブッダは弟ナンダに続いて、息子のラーラフまで出家させ、教団初の沙弥【しゃみ】にしちゃった。沙弥は坊さんの見習いのことだ。だって、ラーフラはまだ12歳だもんね。ちなみに僕は14歳の時に沙弥になった。
ラーラフまで出家させちゃったらシャカ族の後継ぎがいなくなってしまうことはブッダも十分承知していた。しかし、世俗の王の財産や栄光などは、ブッダにとっては意味のないこと。大事な血縁者だからこそ、超世間的は財産の持ち主にしようとしたんだろうね。だいいちブッダに財産を与えてくれと言ったって、ブッダは土地や財宝なんて何一つ持っていないんだから、要求するほうが無理というもの。ということは、ヤショダラーが「後継ぎの財産」と言ったのは、ラーラフをブッダの法の後継ぎにしていただきたいという意味だったんだろう。
でも、スッドーダナ王はすべての望みをかけていた孫までブッダに取られてしまったと悲嘆にくれ、立ち上がる元気もないほどだったそうだ。そして、この時ばかりはブッダに苦言を呈した。「ブッダよ、ナンダが出家した時のわたしの苦悩はとても大きかったが、ラーフラの出家はさらに大きな苦悩となりました。子に対する愛情は、皮膚を破ってさらに骨の髄まで染み通っているのですから、これからは、幼い子を出家させる時は必ず親の許しを得てからにして下さい」と頼んだ、それは悲痛な親の叫びでもあったので、ブッダも理解し、その条項を教団の規則の一つにした。こうして後継者のいなくなったスッドーダナ王は、ブッダの従兄弟であるバッディヤをシャカ族の王位につけて引退したそうだ。ところが、ところが、このバッディヤもこのあと出家してしまい、スッドーダナ王は病に倒れてしまう。ブッダは世間的な意味では大変な親不孝者だよね。
出家したラーフラは、サーリプッタを尊敬するようになり、20歳の時に具足戒をうけて正式に出家者となったんだけど、彼には大変な苦労が待ち受けていた。だって、ブッダの実子で、おまけに一番弟子のサーリプッタが直接指導するんだよ。超エリートコースだもんね。漫画「巨人の星」で、星飛雄馬が星一徹の指導を受けるようなもんだ。ラーフラも若い頃には生まれの良さとか家柄などを自慢するようなところがあり、ブッダの実子であることを鼻にかけたり、サーリプッタを軽視することもあったそうだ。 それに遠慮の裏返しや妬みから風当たりが強かったことも想像に難くない。もちろん、ブッダは我が子であっても特別扱いはせず、仏道修行のためには心の中にひそむ傲慢さをたとえひとかけらもでも残してはいけないと、繰り返しラーラフを戒めた。
そんなわけで、ラーフラは人一倍戒律をよく守り、熱心に修行を実行したので、弟子の中で、戒律をこまかなところまでよく守る点で最も優れているとして、「密行第一」と賞賛された。 密行は秘密の行じゃなくて、綿密な行のことだよ。
こんな話が伝わっている。ラーフラがまだ具足戒を受ける前の沙弥であった頃の話だ。ブッダはコーサンビーのバダリカ園に滞在していた。大勢の修行僧や信者さんがブッダの説法を聴くために集まり、なかでも男性の修行僧や信者さんは夜遅くまで残って説法を聴いた。
夜の説法が終わると、年長の修行僧たちはそれぞれ自分の宿舎にもどったが、年の若い修行僧は信者さんたちと同じ部屋に寝ることになった。皆が眠ってしまうと、いびきをかく者、歯ぎしりをする者、寝ぼけて起き上がる者などがいて、大変な騒ぎであった。修行僧たちがこのありさまをブッダに告げると、ブッダは、
「これからは出家した修行僧が、戒律を受けていない者と同じ部屋に寝てはいけない」という規則を定めた。
その日の夜、修行僧たちはラーフラに言った。
「ラーフラよ、ブッダは昨夜新しい規則を定められた。だから、今夜から君と同じ部屋に寝ることはできない。君自身で寝るところを探しなさい」。
それまで、ラーフラがブッダの実子であることもあって、彼らはラーフラに好意的で、ラーフラが彼らの部屋に来た時は喜んで迎えてくれていた。ところが、その夜は規則を破ることを恐れて、誰もラーフラを部屋に入れてくれなかったんだって。
ラーフラは困り果てたが、「自分の父であるからと言ってブッダのところに行くわけにもいかないし、サーリプッタはラーフラの指導者ではあるが教団の長老で恐れ多くて頼れないし」と考えて、寝る場所を探し回っているうちに、とうとうブッダが普段使っている便所の中に入り込んで寝てしまった。
次の朝、便所で寝ているラーフラを見つけたブッダに理由を問われたラーフラは、
「ブッダよ、寝るところがなかったからでございます。一昨夜までは修行僧の方々は私に親切にして下さいましたが、昨夜は規則を破ることを恐れて、どなたも部屋に入れてくれませんでした。私は他の方々に迷惑をかけたくないと思い、ここで寝ておりました」と、ありのままに話した。
ブッダは、昨日定めた規則を変更し、250の戒律を受けていない者でも、1,2日の間は修行僧の部屋にも泊めてよいことにし、3日目までに自分の部屋を見つけるようさせたそうだ。
ラーフラのあくまでも戒律を守ろうとする真摯な態度を示すエピソードだけど、ブッダが心を痛めたのは、規則を守るということだけを重視して、まだ一人前になっていない者を無視してしまったことだ。戒律はあくまでも大勢の修行僧が協力して修行を続けるためのものであって、戒律そのものに絶対的価値があるわけじゃないということだよね。(つづく)
アーナンダはブッダの従兄弟にあたる。ブッダの父スッドーダナ王の弟ドートーダナの子で、悪名高いダイバダッタの弟とされている(『大智度論』)。デーヴァダッタについては、またいずれ紹介するね。アーナンダとナンダと混同する人がいるけど、ナンダはブッダの異母弟だよ。
ちなみにスッドーダナ王の兄弟はスッコーダナ、ドートーダナ、アミドーダナと、全員が名前の最後にOdanaがついてる。スッドーダナ王は浄飯王【じょうぼんのう】と漢訳されてるけど、Odanaは米飯のことなんだ。王さまの一族の名前にお米が入っているということは、ブッダの属していたシャカ族はお米を作って食べていたということだね。
アーナンダはブッダがブダガヤで悟りを開いた日の夜に生まれたといわれている。お父さんのドートーダナがスッドーダナ王のもとに使者を送り、アーナンダの誕生を知らせた時、スッドーダナ王が非常に喜んだので、“歓喜”という意味のアーナンダと名づけられたんだって。なんだ、そうなんだ。(笑)ということは、アーナンダはブッダより35歳年下ということになる。
アーナンダは「ブッダの生涯」で何度も登場してきたお弟子さんだけど、ブッダの晩年から亡くなるまでの25年の間、片時もブッダのそばを離れることなく誠心につかえ、その教えを最も多く記憶していたということから、「多聞第一」とされている。ブッダが亡くなった時、25年間を振り返って、アーナンダはその心境を次のように詠んでいる。
「25年の間、わたしは慈愛にあふれた身体の行いによって尊き師のおそばに仕えた。ー影が身体から離れないように。
25年の間、わたしは慈愛にあふれたことばの行いによって尊き師のおそばに仕えた。ー影が身体から離れれないように。
25年の間、わたしは慈愛にあふれたこころの行いによって尊き師のおそばに仕えた。ー影が身体から離れないように。
ブッダが経行【きんひん】(修行の合間、疲れや眠けをとるために一定の場所をゆっくり歩くこと)されているとき、わたしはその後からつき従って経行した。また、ブッダが教えを説かれているとき、わたしに智慧が生じた。わたしは、まだなすべきことのある身であり、学習する者であり、まだ心の完成に達しない者であった。それなのに、わたくしを慈しみたもうた師は、円【まど】かな安らぎに入られた〔亡くなられた〕。」(『テーラガーター』)
この詩句の最後のほうでアーナンダ自身が語っているように、25年間も師の傍らにあって真心をもって仕えたアーナンダであったが、ブッダの生存中にはついに悟りを開くことができなかった。マハーカッサパなんかブッダの弟子になって8日目に悟りを開いたのに、25年もの間ブッダの教えを聞いていながら、なんで?と、不思議に思うよね。このことについては、いくつかの理由があげられている。たとえば、アーナンダは生まれつき優しい性格で、その反面心の弱さを持っていたからだと。また、長い間ブッダと生活をともにして余りにも多くの教えを聞きすぎて、聞くことだけで満足していたからだと。まあ、どれも間違いではないだろうけど、一番の問題はアーナンダはブッダを父のように敬愛しており、ブッダの人格そのものによりかかり過ぎていたからじゃないかな。多くの教えを聞いてはいても、彼はそれを自分自身の問題として考えなかったんだろう。なにせ、ブッダが生存していれば、何事もその偉大な人格にたよれば解決できちゃうからね。まあ、要するにブッダに頼りすぎていたわけだ。
『法華経』の「如来寿量品第十六」に「良医治子【ろういじし】」というたとえ話がでてくる。どんな話かというと、ある所に腕の立つベン・ケーシーのような医者がいた。これは古すぎて年金世代にしか分からんよね。(笑)じゃ、僕の名前によく似たホ・ジュンは?韓ドラは見ない。あっ、そう。じゃあ、ブラック・ジャック、赤ひげ、……、まあ誰でもいいや。とにかく名医がいて、彼には百人余りの子供がいた。ある時、この名医の留守中に子供たちが誤って毒薬を飲んで、苦しんでいた。そこへ帰った名医は薬を調合して子供たちに与えた。半数の子供たちは毒気が軽かったんで、父親の薬を素直に飲んで本心を取り戻した。しかし残りの子供たちは薬も毒だと思って飲もうとしない。そこで名医は一計を案じ、いったん外出して使いの者を出し、父親が出先で死んだと告げさせたんだ。父の死を聞いた子供たちはもうびっくりしてしまい、嘆き悲しんだため、毒気も忘れて父親が残してくれた良薬を飲んで治すことができた、というお話。
寿量品の偈頌【げじゅ】の部分である「自我偈」には次にのように説かれる。
ちなみにスッドーダナ王の兄弟はスッコーダナ、ドートーダナ、アミドーダナと、全員が名前の最後にOdanaがついてる。スッドーダナ王は浄飯王【じょうぼんのう】と漢訳されてるけど、Odanaは米飯のことなんだ。王さまの一族の名前にお米が入っているということは、ブッダの属していたシャカ族はお米を作って食べていたということだね。
アーナンダはブッダがブダガヤで悟りを開いた日の夜に生まれたといわれている。お父さんのドートーダナがスッドーダナ王のもとに使者を送り、アーナンダの誕生を知らせた時、スッドーダナ王が非常に喜んだので、“歓喜”という意味のアーナンダと名づけられたんだって。なんだ、そうなんだ。(笑)ということは、アーナンダはブッダより35歳年下ということになる。
アーナンダは「ブッダの生涯」で何度も登場してきたお弟子さんだけど、ブッダの晩年から亡くなるまでの25年の間、片時もブッダのそばを離れることなく誠心につかえ、その教えを最も多く記憶していたということから、「多聞第一」とされている。ブッダが亡くなった時、25年間を振り返って、アーナンダはその心境を次のように詠んでいる。
「25年の間、わたしは慈愛にあふれた身体の行いによって尊き師のおそばに仕えた。ー影が身体から離れないように。
25年の間、わたしは慈愛にあふれたことばの行いによって尊き師のおそばに仕えた。ー影が身体から離れれないように。
25年の間、わたしは慈愛にあふれたこころの行いによって尊き師のおそばに仕えた。ー影が身体から離れないように。
ブッダが経行【きんひん】(修行の合間、疲れや眠けをとるために一定の場所をゆっくり歩くこと)されているとき、わたしはその後からつき従って経行した。また、ブッダが教えを説かれているとき、わたしに智慧が生じた。わたしは、まだなすべきことのある身であり、学習する者であり、まだ心の完成に達しない者であった。それなのに、わたくしを慈しみたもうた師は、円【まど】かな安らぎに入られた〔亡くなられた〕。」(『テーラガーター』)
この詩句の最後のほうでアーナンダ自身が語っているように、25年間も師の傍らにあって真心をもって仕えたアーナンダであったが、ブッダの生存中にはついに悟りを開くことができなかった。マハーカッサパなんかブッダの弟子になって8日目に悟りを開いたのに、25年もの間ブッダの教えを聞いていながら、なんで?と、不思議に思うよね。このことについては、いくつかの理由があげられている。たとえば、アーナンダは生まれつき優しい性格で、その反面心の弱さを持っていたからだと。また、長い間ブッダと生活をともにして余りにも多くの教えを聞きすぎて、聞くことだけで満足していたからだと。まあ、どれも間違いではないだろうけど、一番の問題はアーナンダはブッダを父のように敬愛しており、ブッダの人格そのものによりかかり過ぎていたからじゃないかな。多くの教えを聞いてはいても、彼はそれを自分自身の問題として考えなかったんだろう。なにせ、ブッダが生存していれば、何事もその偉大な人格にたよれば解決できちゃうからね。まあ、要するにブッダに頼りすぎていたわけだ。
『法華経』の「如来寿量品第十六」に「良医治子【ろういじし】」というたとえ話がでてくる。どんな話かというと、ある所に腕の立つベン・ケーシーのような医者がいた。これは古すぎて年金世代にしか分からんよね。(笑)じゃ、僕の名前によく似たホ・ジュンは?韓ドラは見ない。あっ、そう。じゃあ、ブラック・ジャック、赤ひげ、……、まあ誰でもいいや。とにかく名医がいて、彼には百人余りの子供がいた。ある時、この名医の留守中に子供たちが誤って毒薬を飲んで、苦しんでいた。そこへ帰った名医は薬を調合して子供たちに与えた。半数の子供たちは毒気が軽かったんで、父親の薬を素直に飲んで本心を取り戻した。しかし残りの子供たちは薬も毒だと思って飲もうとしない。そこで名医は一計を案じ、いったん外出して使いの者を出し、父親が出先で死んだと告げさせたんだ。父の死を聞いた子供たちはもうびっくりしてしまい、嘆き悲しんだため、毒気も忘れて父親が残してくれた良薬を飲んで治すことができた、というお話。
寿量品の偈頌【げじゅ】の部分である「自我偈」には次にのように説かれる。
仏語は実にして虚しからず
医の善き方便をもって 狂子【おうじ】を治せんが為の故に
実には在れども而も死すというに 能く虚妄【こもう】を説くものなきが如く
我も亦為れ世の父 諸の苦患【くげん】を救う者なり
凡夫の顛倒【てんどう】せるを為て 実には在れども而も滅すと言う
常に我を見るを以ての故に 而も憍恣【きょうし】の心を生じ
放逸にして五欲に著し 悪道の中に堕ちなん
仏が語る言葉は真実であって、けっして虚妄ではないのです。
すぐれた医者が、すばらしい方便をつかって、尋常ならざる精神状態におちいっている子供たちを治すために、ほんとはう生きているのに死んでしまったと言っても、それが嘘だと主張するひとはいないのと、まったく同じなのです。
わたしもまた、世界全体の父親のよなう存在であって、さまざまな苦しみから、生きとし生けるものべてをす救う者なのです。
あまり賢くない者たちが、あやまった見解をもっているのを察知して、ほんとうは生きているのに死んでしまったと言うのです。
いつもわたしのすがたを目にしていると、どうしてもおごりの心を生じて、愛欲をはじめ、さまざまな欲望に身をゆだね、悪しき境遇に墜ちてしまうのです。
ブッダの寿命は始まりも終わりもなく永遠で、空間的にも無限の存在であり、いつも、どこでも我々を見まもってくれている。でも、ブッダがいつも傍にいると、それに頼り切り怠け心が生じてしまうので、クシナガラの地で肉体としてのブッダはその生涯を終えた。でも、本当は今でも、生きているんだよ。そして、我々を救おうとしているんだよ。この永遠のブッダを「久遠実成本師釈迦牟尼仏【くおんじつじょうほんししゃかむにぶつ】」と言って、僕たち日蓮宗が信仰する対象となっている。法華経についてはまたいずれ詳しく話そうね。
さて、話がそれちゃったけど、アーナンダがなかなか悟りを開けなかったのは、ブッダに頼りすぎて、自分自身の問題として法を求めようとしなかったからだ。だから、ブッダはアーナンダに「この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ」と言い遺したんだ。人に頼らず、自分自身で生きて、解決していかなければならない。そんな決まり切ったことをアーナンダが自覚できたのは、ブッダが亡くなった後のことだった。
この時、戒律をまとめ上げる責任者については「持律第一」と言われるウパーリとすることが異議なく決められた。問題となったのは、経典をまとめ上げる責任者を誰にするかということだ。ブッダの教えを一番たくさん聞いているのは、もちろんアーナンダだ。ところが、アーナンダはまだ悟りを開いていない。悟っていなくてもいいんじゃない、という意見もあったんだけど、厳格なマハーカッサパは集会への参加すら許さない。さあ、どうするアーナンダ。すでにアヌルッダからも忠告を受けていたアーナンダは、ここで一念発起。今までと違う責任感を強く感じたアーナンダは、ブッダの教えを自分自身のものとしてとらえなおし、心を集中して修行した結果、明日結集が開かれるという夜、頭を枕につけようとした瞬間についに悟りを開いたと言われる。
こうして、タイムリミット寸前で悟りを開いたアーナンダは、翌朝晴れ晴れとした顔をして結集に参加し、「このように私は聞いた」とブッダの教えを参加者に披露し、多くの経典がまとめられていった。僕たちが読む法華経は「如是我聞 一時仏住 王舎城 耆闍崛山中 与大比丘衆 万二千人倶……」と始まるし、阿弥陀経も同じように「如是我聞 一時仏 在舍衛国 祇樹給孤独園 与大比丘衆 千二百五十人倶……」で始まる。多くの経典が「かくの如く我聞けり」で始まっているんだけど、この我ってアーナンダのことなんだよ。へえ、そうなんだ。
アーナンダの墓と伝えられるヴェーサーリーのストゥーパ
アーナンダの性格については、さっきもちょっと書いたけど、心があたかかく、気持ちが素直で、いわば「ええとこのぼんぼん」のような性格だった。それだけに情に弱いところがあり、頼まれるとなかなか嫌と言えなかったみたいだね。
そんなアーナンダについて、有名な話をもうひとつしておこう。ブッダの養母のマハーパジャーパティが出家して比丘尼【びくに】(女性の出家修行者)になりたいとブッダに願い出た。ところが、ブッダは育てのお母さんの願いであるにもかかわらず、再三にわたってこれを断り続けた。女性差別じゃないか、って怒るかも知れないけれど、教団に女性が加わると、いろんな問題が起きそうだよね。そのへんのところが心配でブッダはなかなかウンと言わなかったんだけど、結局、アーナンダの取りなしによって認めることになった。出家を望む女性たちは大喜びだったけど、第一結集の時にマハーカッサパ以下の長老たちに「要らんことして」と、こっぴどく叱られたそうだ。でも、これアーナンダの大きな功績の一つだよね。(つづく)
ブッダを知りませんか?
マハーカッサパ(大迦葉【だいかしょう】、 摩訶迦葉【まかかしょう】)
マハーカッサパはマガダ国の都ラージャガハ近くのマハーハーダラ村のバラモンであるニグローダ・ゴーパの子で、ピッパラ樹(=菩提樹)の下で生まれたので、ピッパリと名づけられた。カッサパはブッダの弟子になった時から名乗った名前なんだけど、カッサパ3兄弟と区別してマハーカッサパと呼ばれている。カッサパ3兄弟って、覚えてる?ブッダが伝道を開始してすぐの頃に、ブッダと神通力を争って負けた結果、1000人の弟子を率いてブッダの教団に加わったウルヴェーラー・カッサパ、ナディー・カッサパ、ガヤー・カッサパのの3兄弟だ。マハーカッサパはブッダ亡きあとの仏教教団の中心となった人物なんで、モッガラーナと同じく“偉大な”という意味のマハーという形容詞がつけられている。
マハーカッサパはもろもろの弟子の中で、頭陀【ずだ】の点において最も優れているので、「頭陀第一」と讃えられている。「頭陀」はパーリ語の“ドゥータ”を音訳したもので、「ふるい落とす」とか「はらい除く」という意味だ。煩悩の垢を払い落とし、衣食住についての貪りや欲望をもたず、ひたすらに仏道を修行することなんだけど、マハーカッサパは13頭陀を実践していたんだって。13頭陀というのは①糞掃衣【ふんぞうえ】(汚いボロ切れでつくった衣)と②三衣(大衣・上衣・中衣)だけを身につけ、③托鉢【たくはつ】によって食を得、④家ごとに托鉢し、⑤1日1食をとり、⑥森林や、⑨樹の下や、⑩野外、⑪墓地などに住み、⑫施されるままの敷物を使い、⑬常に坐るだけで横にならないという、ブッダ時代の出家修行者の衣食住のあるべきさまのことだ。僕なんかお恥ずかしい次第で、どれ一つ守れていない。やっぱ、なまぐさ坊主だな~。
マハーカッサパはもろもろの弟子の中で、頭陀【ずだ】の点において最も優れているので、「頭陀第一」と讃えられている。「頭陀」はパーリ語の“ドゥータ”を音訳したもので、「ふるい落とす」とか「はらい除く」という意味だ。煩悩の垢を払い落とし、衣食住についての貪りや欲望をもたず、ひたすらに仏道を修行することなんだけど、マハーカッサパは13頭陀を実践していたんだって。13頭陀というのは①糞掃衣【ふんぞうえ】(汚いボロ切れでつくった衣)と②三衣(大衣・上衣・中衣)だけを身につけ、③托鉢【たくはつ】によって食を得、④家ごとに托鉢し、⑤1日1食をとり、⑥森林や、⑨樹の下や、⑩野外、⑪墓地などに住み、⑫施されるままの敷物を使い、⑬常に坐るだけで横にならないという、ブッダ時代の出家修行者の衣食住のあるべきさまのことだ。僕なんかお恥ずかしい次第で、どれ一つ守れていない。やっぱ、なまぐさ坊主だな~。
禅宗の坊さんや、四国巡礼のお遍路さんが首や肩から下げているショルダーバックのような袋を「頭陀袋」というんだけど、知ってる?僕たち日蓮宗でも寒修行する時なんかに使うけど、結構便利なもんだよ。13頭陀の中でも特に出家修行者が乞食【こつじき】托鉢して歩くことを指して頭陀と呼ぶ場合が多んで、頭陀袋という名前になったみたいだ。昔は死んだ人の首にも掛けてたみたいだけど、最近はもうまったく見なくなってしまった。昔は手甲・脚絆・頭陀袋と旅支度をさせて死者をあの世に送ったんだけど、あれって江戸時代の旅姿だから時代にあわなくて止めてしまったんだね。
話がそれてしまったけど、頭陀の生活は仏教教団が誕生した頃には沙門として当然の習慣だった。しかし、教団が大きくなり、国王や大商人から僧院の寄進を受けるようになると、僧院に定住する生活が一般化し、信者から寄進された綺麗な衣をまとい、招かれて信者の家で食事の供養を受けることも、ごく普通になってしまった。しかし、マハーカッサパはそうした変化を好まず、相変わらずぼろ衣を着て、前と同じように林野に住み、出家者本来の頭陀行を頑なに守り続けた。マハーカッサパは自分の生々しい頭陀行の体験を次のように思い起こしている。
わたしは坐臥所から下って、托鉢のために都市に入って行った。食事をしている一人の癩【らい】病人に近づいて、かれの側【かたわら】に恭しく立った。
かれは、腐った手で、一握りの飯を捧げてくれた。かれが一握りの飯を鉢に投げ入れてくれるときに、かれの指もまたち切れて、そこに落ちた。
壁の下のところで、わたしはその一握りの飯を食べた。それを食べているときにも、食べおわったときにも、わたしには嫌悪の念は存在しなかった。(『テーラガーター』)
癩病はハンセン病のことだね。指や鼻が崩れて欠けてしまうという症状から、古来から世界中で不治の病、業病とされ差別の対象となった病気で、聖書にも出てくる。ガンジス川の沐浴で有名なインドのヴァーラナシーでは、今でも多くのハンセン病の乞食に出会う。今でこそハンセン病は感染力が非常に弱いことが分かっているけど、ブッダの時代はそうではない。それなのにマハーカッサパは嫌悪の念は存在しなかったと言っている。僕達にこんなことが出来るだろうか?差別してはいけないと頭でわかっていても、嫌悪せずに一人の人間として受け入れることが果たしてできるだろうか?
マハーカッサパがピッパリという名で呼ばれていた頃の話をしよう。バラモンの子として生まれたピッパリは8歳で入門式を受け、バラモンとして必用なすべての教養をあっという間に身につけてしまった。ピッパリはさらに出家して専門的に道を求めようと思うようになった。家の後継ぎが絶えてしまうことを恐れた両親は、嫁さんをもらうように強く勧めたんだけど、ピッパリは独身の清浄な生活を送りたいと言って両親の勧めを拒絶した。
しかし、両親のたっての願いを断り切れなくなったピッパリは、工匠に美しい金の女人像を造らせ、これと同じ美しさをもつ女性がいるなら結婚してもいいと、とうてい実現するはずもないような条件を出した。困った両親は8人のバラモンにこのような女性を見つけ出してくれるように頼んだ。彼らがマッダ国のサーガラ川岸の沐浴場で像を載せた台車を置いて休んでいたところ、バッダー・カピラーニーの乳母が、その像を見て彼女と見間違えたんだって。バッダー・カピラーニーはヴェーサリーの郊外のカピラカという村に住むカピラという名のバラモンの娘で、黄金の女性像とうり二つの美しい女性だったそうだ。こうなったらピッパリも拒否することが出来ず、とんとん拍子で縁談がまとまっていく。
そこで、ピッパリは浮浪者の格好で彼女の家に確かめに行った。カピラの家は誰であれ食を乞う者が来れば喜んで布施をする家風だったので、ピッパリが訪ねるとバッダー自身が食べ物を持って出て来た。ピッパリは自分の身分を明かして事の次第を説明し、たとえ結婚しても欲望の生活をするつもりはないと告白すると、バッダーもこう答えた。
「あなたのおっしゃることを聞いて、嬉しく思います。私も思いは同じです。今回結婚を承諾したのは、親たちを安心させるためです」
こうして互いの意志を確認して夫婦となった二人は、互いに身体を触れあうこともなかったんだって。あ~、もったいない、というか、よく我慢できたよね、だって絶世の美女と同じ家に住んでるんだもんね。僕だったら、出家するのを止めるね。(笑)そんな生活を12年も続けたそうだ。その間、「孫はまだか?」という両親の願いを、苦しい思いで聞く日々もあっただろうね。でも、二人の決心が鈍ることはなかった。両親もすでに世を去ったある日、二人は髪を剃り、粗末な衣に着替え、手には1個の鉢だけを持って、引き止める人々の手を振り切って家を出た。初めは二人仲良く歩いていたんだけど、ある四つ辻まで来た時、私情が修行の妨げにならないように、バッダーとピッパリは右と左に別れた。
「あなたのおっしゃることを聞いて、嬉しく思います。私も思いは同じです。今回結婚を承諾したのは、親たちを安心させるためです」
こうして互いの意志を確認して夫婦となった二人は、互いに身体を触れあうこともなかったんだって。あ~、もったいない、というか、よく我慢できたよね、だって絶世の美女と同じ家に住んでるんだもんね。僕だったら、出家するのを止めるね。(笑)そんな生活を12年も続けたそうだ。その間、「孫はまだか?」という両親の願いを、苦しい思いで聞く日々もあっただろうね。でも、二人の決心が鈍ることはなかった。両親もすでに世を去ったある日、二人は髪を剃り、粗末な衣に着替え、手には1個の鉢だけを持って、引き止める人々の手を振り切って家を出た。初めは二人仲良く歩いていたんだけど、ある四つ辻まで来た時、私情が修行の妨げにならないように、バッダーとピッパリは右と左に別れた。
その頃、マガダ国のラージャガハの竹林精舎にいたブッダは、ピッパリ夫婦が二手に別れて修行の道を歩んでいることを知った。そこで、ブッダは弟子たちにも告げず竹林精舎を出て、ラージャガハとナーダダ村の中間のところで、ニグローダの樹の下に坐り瞑想に入られた。そこを通りかかったピッパリは、一目見ただけで自分が求めている師であるとわかり、ただちにブッダの弟子となった。ピッパリは名前をカッサパと改め竹林精舎に入り、8日目に悟りを開いたと言われている。ブッダ成道3年目のことらしい。カッサパと別れた妻も後にブッダの弟子となってるよ。
ブッダがラージャガハから出て托鉢し終わっての帰り道、とある樹の下に坐ろうとした時、カッサパは自分の着ていた大衣を脱いで4つにたたんで坐を設けた。その上に坐ったブッダは、その衣が柔らかであることを称えた。そこで、カッサパはその衣をブッダに差し上げ、自分はブッダが着古した粗末な布で出来た糞掃衣を身にまとった。
それ以来、カッサパは汚れた粗衣を常に身にまとっていたので、ほかの修行者が彼を軽んじたことがあった。それはブッダがコーサラ国の都シュラヴァスティーの祇園精舎に滞在していた時のことである。泥や塵にまみれた衣をつけたカッサパが説法中のブッダに近づいた。その場にい居合わせた修行僧たちは、このさまを見て、
「あれは、いったい誰だ。ボロを身にまとい、威儀もなにもあったものじゃないではないか」
と軽蔑した。
このことを知ったブッダは、説法を中止して、カッサパを呼んで言った。
「よく来た。カッサパよ、私の座席を半分あけるから、ここに坐りなさい。いったい誰が先に出家したのか、汝か私か?」
カッサパは答えた。
「ブッダは私の師であられます。私はブッダの弟子でございます」
ブッダはさらに言った。
「その通りである。カッサパよ、私は師であり、汝は私の弟子である。だから、いま、ここに来て坐りなさい」
これを聞いた弟子たちは恐れおののいて身の毛を逆立て、「ボロをまとったカッサパがブッダの弟子であるのに、ブッダに誘われてその坐につくとは」と言いあった。ブッダはこれらの修行者たちを戒め、カッサパこそブッダに等しい境地に達したものであることを説き示したんだね。
このことを知ったブッダは、説法を中止して、カッサパを呼んで言った。
「よく来た。カッサパよ、私の座席を半分あけるから、ここに坐りなさい。いったい誰が先に出家したのか、汝か私か?」
カッサパは答えた。
「ブッダは私の師であられます。私はブッダの弟子でございます」
ブッダはさらに言った。
「その通りである。カッサパよ、私は師であり、汝は私の弟子である。だから、いま、ここに来て坐りなさい」
これを聞いた弟子たちは恐れおののいて身の毛を逆立て、「ボロをまとったカッサパがブッダの弟子であるのに、ブッダに誘われてその坐につくとは」と言いあった。ブッダはこれらの修行者たちを戒め、カッサパこそブッダに等しい境地に達したものであることを説き示したんだね。
当時の修行者は、一般に汚いボロ切れを縫い合わせた糞掃衣をまとっており、ブッダもカッサパと衣を交換するまで、そのような姿だった。しかし、仏教教団が発展するにつれて、在家の信者達からブッダに清潔で上質の衣が寄進されるようになり、修行者たちも次第に綺麗な衣を着用するようになっていく。ボロの衣をまとって修行を行うものは、表面的には尊敬されても、内心は軽蔑されるようになっていったようだ。
日本でも坊さんの地位を表すのに、衣や袈裟の色が決められている。僕はいま紫の衣に緋色の袈裟をつけているけど、坊さんに位があること自体おかしい。でも、僕が墨染めの衣に木欄色の袈裟をつけたら、やっぱ変な目でみられるだろう。しかし、カッサパは生涯、糞掃衣をつらぬいた。だからこそ、「頭陀第一」と呼ばれるんだね。
「衣鉢を継ぐ」という言葉があるけど、ブッダの衣を譲り受けたマハーカッサパは、まさしくブッダの衣鉢を継いで、ブッダ亡き後の教団の指導者となった。 サーリプッタもモッガラーナもブッダが亡くなる前に亡くなってるもんね。
クシナガラでブッダが亡くなった後、弟子たちの悲しみの中に火葬の準備が進み、薪に火がつけられた。しかし、火はつかず、誰がやっても駄目だったそうだ。ところが、知らせを聞いて駆けつけてきたマハーカッサパが試みると、たちどころに火は燃え上がり、無事火葬することができたと言われている。現在でもヒンドゥー教の習慣では、父親の火葬の火を点ずるのは後継ぎの息子となっており、このエピソードはマハーカッサパがブッダの後継ぎと考えられていたことを物語っている。
クシナガラでブッダが亡くなった後、弟子たちの悲しみの中に火葬の準備が進み、薪に火がつけられた。しかし、火はつかず、誰がやっても駄目だったそうだ。ところが、知らせを聞いて駆けつけてきたマハーカッサパが試みると、たちどころに火は燃え上がり、無事火葬することができたと言われている。現在でもヒンドゥー教の習慣では、父親の火葬の火を点ずるのは後継ぎの息子となっており、このエピソードはマハーカッサパがブッダの後継ぎと考えられていたことを物語っている。
ラジギールの七葉窟
ブッダが亡くなった時、スバッタ(ブッダ最後の弟子となったスバッタとは別人)という心ない老修行者が次のような暴言を吐いた。
「我々は嘆き悲しむ必用はない。我々はあの偉大な修行者から解放された。“これはしてもいい”、“これはしてはならない”と我々は強制されていたが、今からは好きなように振る舞うことができるのだ」
本当にこんな暴言を吐く人間がいたかどうかは分からないが、仏教教団が成立して45年も経つと、教団内部にブッダの決めた戒律を自由を束縛する外圧と感じていた人間がいても不思議ではない。教団の危機を感じたマハーカッサパはラージャガハ西北方のヴェーバーラ山腹にある七葉窟【しちようくつ】で500人の修行者を集めて、仏典結集【ぶってんけつじゅう】を開催する。ブッダ入滅3カ月後のこととされている。仏典結集は現代風に言えば経典編纂委員会だが、経典についてはアーナンダが、戒律についてはウパーリが中心になって、ブッダの説いた正しい経典と戒律が決定されたんだけど、詳しいことはアーナンダとウパーリのところで話そう。
マハーカッサパはアーナンダを法の後継者とし、自らはビハール州の一番南のはずれにある鶏足山で頭陀行を行いつつ没したと言われる。玄奘三蔵の『大唐西域記』によれば、仏典結集から20年後のことであったそうだ。(つづく)
「我々は嘆き悲しむ必用はない。我々はあの偉大な修行者から解放された。“これはしてもいい”、“これはしてはならない”と我々は強制されていたが、今からは好きなように振る舞うことができるのだ」
本当にこんな暴言を吐く人間がいたかどうかは分からないが、仏教教団が成立して45年も経つと、教団内部にブッダの決めた戒律を自由を束縛する外圧と感じていた人間がいても不思議ではない。教団の危機を感じたマハーカッサパはラージャガハ西北方のヴェーバーラ山腹にある七葉窟【しちようくつ】で500人の修行者を集めて、仏典結集【ぶってんけつじゅう】を開催する。ブッダ入滅3カ月後のこととされている。仏典結集は現代風に言えば経典編纂委員会だが、経典についてはアーナンダが、戒律についてはウパーリが中心になって、ブッダの説いた正しい経典と戒律が決定されたんだけど、詳しいことはアーナンダとウパーリのところで話そう。
マハーカッサパはアーナンダを法の後継者とし、自らはビハール州の一番南のはずれにある鶏足山で頭陀行を行いつつ没したと言われる。玄奘三蔵の『大唐西域記』によれば、仏典結集から20年後のことであったそうだ。(つづく)