なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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ブッダを知りませんか?
![a0274401_6453716[1]](http://blog-imgs-67.fc2.com/k/i/n/kintaku3/201403270930207e9.jpg)
人の死を嘆き悲しむのは無益である
この世における人々の命は、定まった相【すがた】なく、どれだけ生きられるかも解らない。惨【いた】ましく、短くて、苦悩をともなっている。
生まれたものどもは、死を遁【のが】れる道がない。老いに達しては死ぬ。実に生あるものどもの定めは、このとおりである。
熟した果実は早く落ちる。それと同じく、生まれたものどもは、死なねばならぬ。かれらにはつねに死の怖れがある。
たとえば、陶工のつくった土の器が終りにはすべて破壊されてしまうように、人々の命もまたそのとおりである。
若い人も壮年の人も、愚者も賢者も、すべて死に屈服してしまう。すべての者は必ず死に至る。
かれらは死に捉えられてあの世に去っていくが、父もその子を救わず、親族もその親族を救わない。
見よ、見守っている親族がとめどなく悲嘆に暮れているのに、人は屠所に引かれる牛のように、一人ずつ、連れ去られる。
このように世間の人々は死と老いによって害【そこな】われる。それ故に賢者は世のありさまを知って、悲しまない。
汝は、来た人の道を知らず、また去った人の道を知らない。汝は(生と死の)両極を見極めないで、いたずらに泣き悲しむ。
迷妄にとらわれて自己を害っている人が、もし泣き悲しんでなんらかの利を得ることがあるならば、賢者もそうするがよかろう。
泣き悲しんでも、心の安らぎは得られない。ただ彼にはますます苦しみが生じ、身体がやつれるだけである。
みずから自己を害いながら、身は痩せて醜くなる。そうしたからとて、死んだ人はどうにもならない。嘆き悲しむのは無益である。(中略)
だから尊敬さるべき人の教えを聞いて、人が死んで亡くなったのを見ては、「かれはもうわたしの力の及ばぬものなのだ」とさとって、嘆き悲しみを去れ。
『スッタニパータ』574~590
人は必ず死ぬ。これほど明確な真理はない。
人は自らの死を望んではいないが、それを逃れることはできない。最後には死が待っている。生まれて来たその時から、一歩一歩死に近づいていく。こんな不条理があるだろうか。
昨年の12月4日に僕のお寺の檀家のKさんが75歳で亡くなった。ちょうど1カ月後の1月4日に今度はAさんが64歳で亡くなった。お二人とも1日に脳梗塞で倒れ、3日後に亡くなった。平均余命が80歳を超える今の日本では、お二人とも余りにも早い死であり、家族が悲嘆に暮れたのは言うまでもない。Kさんの家では悲しみに追い打ちをかけるように、1月14日にKさんの娘さんが44歳という若さで癌で亡くなった。残されたのは74歳の母親と、20歳と17歳の子供。40年住職を務めてきた僕だが、これほど相次ぐ死を経験したことはない。
Kさんの娘さんの通夜を営んでいる時に、思い出したのが「矢経」と呼ばれているブッダの言葉だった。ブッダを信じる信者の一人が、彼の息子が死んだ時、悲しみに打ちひしがれて、七日間食事をとらずにいた。彼を憐れんだブッダは彼の家に行き、彼の悲しみを取り除くために、この経を説いたと言われている。
「死んだ人はどうにもならない。嘆き悲しむのは無益である」。随分冷たい言葉に聞こえるが、死は受け入れるしかないものである。ブッダは死の認識を変えることで、死を嘆かないでもすむと断言している。
戦前までの日本では、いつも死はかたわらにあった。だからこそ、人々は一日一日を大切に、襟を正して生活していた。ところが今の日本はどうだろう。平均余命が80歳を超え、百歳を超える人が5万人以上いて、日本人全体が死ぬことを忘れてしまったかのようだ。多くの人々は死を忘却のかなたに押し込め、享楽を求めて生活し、いざ死ぬ段になっておののき、慌てる。死は怖いものである。しかし、それを恐れることなく、しっかりと見据えて生きる生き方が今必要なのではないだろうか。
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ブッダを知りませんか?
『かれらもわたしと同様であり、わたしもかれらと同様である』と思って、わが身に引きくらべて、生きものを殺してはならぬ。また他人をして殺させてはならぬ。
またテロが起きた。先月オーストラリアやパキスタンで起きたばかりというのに、今度はフランスのパリだ。1月7日、風刺週刊誌を発行している「シュルリー・エブド」本社に覆面をし、武装した犯人が押し入り職員を襲撃。警官2名、編集長、風刺漫画の担当記者ら合わせて12名が死亡した。容疑者2名は逃走したが、9日特殊部隊により射殺された。
射殺された容疑者はアルジェリア系フランス人で、犯行の際に「アッラーフ・アクバル(アラーは偉大なり」「予言者(ムハンマド)の復讐だ」と叫んでいたそうだから、先月に続いてイスラーム教徒によるテロで、いつまでこの連鎖が続くのか世界中に不安が広がる。
容疑者の政治的背景についての詳細は分からないようだが、犯行の動機は明白。イスラームへの度重なる侮辱だ。ムハンマドが「笑い死にしなければ、むち打ち100回の刑だ」と言っている風刺画や、ムハンマドを同性愛者として描いた風刺画を掲載。さらにはムハンマドのヌード姿まで掲載した。ムハンマドの姿を描くことすらタブーとされているイスラーム教徒にとってこれほどの侮辱はない。したがって、イスラーム過激派だけを一方的に非難することはできない。
しかし、テロは許されるものでは決してない。ブッダは言う、「生きものを殺してはならぬ」。小さい子供に「なぜ、殺しちゃいけないの?」と聞かれて返事に窮した人もいると思う。「人間の命の尊厳……」などと難しいことを言う必要はない。しごく単純な理由だ。自分が殺されたらと考えてみよう。誰だって殺されたくはない。すべての生きものは「生きていたい」という強い本能を持っている。自分が殺されたくなければ、他の生きものも殺してはいけない。こんなに単純で明白な理由はない。そして、自分が殺さないだけではなく、人を使って殺すこともならない。
ムハンマドも自分が侮辱されたから、そいつらを殺してもいいとは言わないだろう。
フランスでは1月11日、一連のテロ事件での犠牲者の追悼と表現の自由を訴える大規模なデモ行進が行われた。パリだけで160万人が参加。これに、世界各国の約50人の首脳が肩を並べ、フランス全土では370万人を数え、第二次世界大戦後最大の規模となった。さすが、1789年8月26日に採択された「人権宣言」で表現の自由を高らかに謳った国だ。でも、あえて言わせてもらうならば、他の宗教を信じている人々が大事にしているものを侮辱することは、人間として正しい行為なんだろうか?僕は違うと思う。
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ブッダを知りませんか?
宗教の世界には、さまざまな修行者が存在する。僕の属する日蓮宗でも寒中100日間の大荒行があり、天台宗では千日回峰行がある。ブッダの時代にも、そうした人物が数多くいて、修行を実践していた。ブッダ自身も、肉体を徹底して痛めつける苦行を実践したとされる。いつも僕が使っているブッダの像はパキスタンのラホール博物館にある苦行像で、苦行の果てにすっかりやせ細り、骨だけになったブッダの姿を形にしたものだ。
だが、ブッダは苦行によっては悟りの境地に達することができないと認識したといわれる。そして、菩提樹の下に座り、穏やかな瞑想によって悟りを開いたとされる。
うえにあげた言葉は、そうしたブッダの経験が反映されている。苦行よりも重要なのは、周囲に対する不信の念、疑いを克服することなのだ。
いま読んでいる植木雅俊先生の『思想としての法華経』に面白いエピソードが載っていたので、紹介しておこう。コーサラ国の都サーヴァッティー(舎衛城)にスダッタという長者がいた。あの祇園精舎をブッダに寄進した長者だね。そのスダッタの女召使いにプンニカーという名の娘がいた。彼女の仕事は水汲みで、寒い日も川に入って水を汲んでいた。ある日のこと、河の畔を歩いていると、一人のバラモンの行者が寒さを我慢して沐浴をしていた。
プンニカーが何をしているのか尋ねると、バラモンの行者は、「あなたは知っていてそんなことを聞いている。私は、水につかることによって過去世の悪業を流し去っているのだ」と答えた。プンニカーは、「もしそうであるのなら、魚や、亀、蛙、鰐などのほうが生涯、水につかっているのだから遙かに解脱していていいはずではないですか?」と矛盾を突いた。さらに、「水には、これは悪業、これは善業といった判断力があるんですね」と皮肉り、「せいぜい風邪をひかないように」と言って立ち去ろうとした。そこで、バラモンの行者は目が覚めて、ブッダの弟子になることを申し出たそうだ。
思わずクスッと笑ってしまった。このエピソードにはブッダが苦行を否定したということと、もう一つ大事なことがある。それは、召使いの娘さんがブッダの教えをきちんと理解していたということだ。ブッダの弟子にはこうした女性がたくさんいたんだね。
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