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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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ブッダのことば その15

ブッダを知りませんか?

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憂いのもと

 「われらは尊き師にお目にかかりましたが、われらの得たところは実に大きいのです。眼ある方よ。われらはあなたに帰依します。あなたはわれらの師となってください。大いなる聖者よ。

 妻もわたしもともに従順であります。幸せな人(ブッダ)のもとで清らかな修行を行いましょう。生死の彼岸に達して、苦しみを滅ぼしましょう。」


 悪魔パーピマンが言った。

「子のある者は子について喜び、また牛のある者は牛について喜ぶ。人間の執着するもとのものは喜びである。執着するもとのもののない人は、実に喜ぶことがない。

 ブッダは答えた。

「子のある者は子について憂い、また牛のある者は牛について憂う。実に人間の憂いは執着するもとのものである。執着するもとのもののない人は、憂うることがない。
『スッタニパータ』33・34



 蛇の章「ダニヤ」の一節。ダニヤは牛飼いで、ブッダとの対話により妻とともにブッダの弟子になることを決意する。そこに現れた悪魔パーピマンはそっと囁く。
「子供がいるから、楽しいし、幸せなんだよ。財産があるから、安定した生活があるんだよ。それが幸福の基礎なんだよ。人々は、財産や家族があるから幸せなんだよ。それのない人、自分の拠り所のない人は喜びがなく、みじめなものだ。」
 ダニヤは牛飼いだから、もっとも大切な財産は牛だ。「子があり、財産のあることが、幸せなんだよ。」悪魔はそう言って、ダニヤの決心を鈍らせようとする。

 これに対してブッダは悪魔と同じ形で、一言だけ言葉を換えてこう語った。「子供がいるから、苦しむのだ、子供ゆえに不幸になんだよ。財産があるから、その維持するために苦しみ、悩むのだ。人々は、財産や家族があるから不安なんだよ。それのない人、そのような拠り所のない人は不安や恐怖がなく、安心で自由なのだ。」

 悪魔は反論の余地無く退散し、ダニヤ夫妻は晴れてブッダの弟子となった。

 子供がいるから幸せ、財産があるから幸せ。それは僕たちにとって当然のことで、悪魔は当然のことを言っているに過ぎない。でも、それは俗世間の常識であって、ブッダに言わせると全く逆になってしまう。子供がいるから苦しみ、財産があるから苦しむんだと。

 子供がおらず、財産もなければ不幸に違いない。しかし、ブッダの言うように、子供がいることで不安や苦しみも生まれる。子供が親に従順で、親の言う通りにしてくれれば、幸せなんだろうけど、なかなかそうはいかない。成長するにつれ次第に親に反抗し、言うことを聞かなくなる。僕も随分子供には苦しめられた。でも、それが大人になっていくということであり、僕が苦しんだのは、僕が思い描いた通りに子供が行動しなかったからだ。つまりブッダの言うように、僕が子供に執着し、子供を自分の思い通りにしようとしていたから、苦しかったんだね。

 もし、子供が犯罪を犯したとしたらどうだろう。それも殺人事件を起こしたら。その苦しみは計り知れないものとなるだろうね。今年(2015年) 2月5日、和歌山県紀の川市で小学5年生の小学校5年生の森田都史君が腕や頭、右胸など十数か所を刺されて殺された事件を覚えているかな。この惨殺事件の犯人として逮捕されたのが中村桜洲容疑者。彼の父親は高野山大学の教授で次期学長と目されている、密教学の権威だ。中村桜洲容疑者は高校を中退し、5年間もニート生活を続けている。そんな息子を宗教家である父親が放っておいたはずがなく、厳しく指導したに違いない。それがこともあろうに、高野山開創1200年の節目の年に最悪の結末となってしまった。父親の心中は察するに余りある。昨年7月の佐世保で起きた女子高生殺害解剖事件の犯人の父親のように自ら命を絶つということにならなければよいのだが。

 子供がいない、財産がない苦しみよりも、子供に執着し、財産に執着する生き方のほうが苦しいんだということを、今一度考えてみる必要がある。

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【 2015/05/27 15:53 】

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ブッダのことば その14

ブッダを知りませんか?


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誰も助けてはくれない

 自らの嘆き悲しみ、貪りの思い、そして憂い悩み。自らの幸福を追い求める者は、自らの力でそうした矢を引き抜かなければならない。

『スッタニパータ』592



 昨日、北海道に住む従兄弟の奥さんからの手紙で、2カ月前に息子さんが自ら命を絶ったという知らせを受けた。従兄弟といっても僕と二回りも年が違っており、3年前に亡くなっている。亡くなった息子さんは56歳。昨年の9月に家内と二人で従兄弟の墓参りに行った時には、にこやかに出迎えてくれ、自殺するような気配はまったく感じられなかった。

 コーヒー店を一人で経営していたが、そのストレスから鬱病になったことが原因らしいが、詳しいことはわからない。遺書にはみんなへの感謝と詫びを書き、恨み言は一つも書かず、最後には〝おやじのもとへ〟と書かれていたそうだ。3年前に夫を亡くし、今また長男を自殺というかたちで失った母親の気持ちを考えると、胸がつまる思いだ。

 ブッダは自殺についてどう考えていたのだろうか。『サンユッタ・ニカーヤ』にヴァッカリの自殺の話が出てくる。長者ヴァッカリは病の床に伏し、強い痛みに苦しめられていた。ヴァッカリの死期が近づいたことを知ったブッダは、使いを遣わして「ヴァッカリよ、恐れるな。おまえの死は罪に汚れてはいない。罪なくして臨終を終えるであろう」と告げ、その後ヴァッカリは刀で自殺した。これを読む限り、ブッダは自殺を容認していたようだ。

 『スッタニパータ』に自殺に関する記述がないか探したが、見あたらなかった。やむなくあげたのが上に詩句だ。ブッダはつぎつぎに生まれてくる不幸の原因は、嘆き悲しむこと、貪りの心(渇望)、そして憂い悩むことだという。この3つをブッダは矢にたとえた。そしてこの矢は自らの力で抜くしかないのだと。

 生きることについても死ぬことについても、誰も自分を助けてはくれないのだという現実を、ブッダは指摘している。しかし、子を失った母は、なぜ助けてやることが出来なかったかと嘆き、自らを責め、苦しむ。死の道を選んだ人にはそうしなければならない事情があっただろうが、それによって悲しむ人が一人でもいたら、自殺はすべきではないと僕は思う。



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北海道美瑛町にて

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【 2015/05/10 10:54 】

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