なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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蛇の章
蛇の毒が体にまわるのを薬草で抑えるように、生じた怒りを抑えるかの行乞者は、劣った此の岸を捨てる。あたかも蛇がこれまでの古びた皮を脱ぎ捨てるように。
池の中に生えている蓮華を子供たちが池に入って折り取るように、貪りを余さず断ち切ったかの行乞者は、劣った此の岸を捨てる。あたかも蛇がこれまでの古びた皮を脱ぎ捨てるように。
流れる急流を涸らせてしまうように、余すことなく渇望を断ち切ったかの行乞者は、劣った此の岸を捨てる。あたかも蛇がこれまでの古びた皮を脱ぎ捨てるように。
大激流がなよなよした葦の生える堤防を破壊するように、慢心をことごとく取り除いたかの行乞者は、劣った此の岸を捨てる。あたかも蛇がこれまでの古びた皮を脱ぎ捨てるように。
何に対しても内心に怒りがなく、世俗の是非判断を超えたかの行乞者は、劣った此の岸を捨てる。あたかも蛇がこれまでの古びた皮を脱ぎ捨てるように。
『スッタニパータ』1~6
6月26日(金)、フランスをはじめチュニジア・クウェート・ソマリアで連続テロが起き、80人を超える人が亡くなった。フランスではガス工場に車が突っ込み爆発。頭部を切断された遺体が見つかった。チュニジアではリゾート地のホテルやビーチが銃撃され、観光客ら少なくとも28人が死亡した。クウェートではイスラム教シーア派のモスクが爆破され、25人が死亡したと報じられた。
今はイスラーム教徒が神聖視するラマダーン(断食月)の最中で、最も信仰心が高まる時期。特に安息日である金曜日は集団礼拝が行われ、それを狙っての犯行だろう。以前はたとえ戦争中であってもクリスマスとラマダーンの期間中は相手の宗教行事を重んじて休戦したものだが、ISは「イスラーム教徒よ、聖戦に急いで参加せよ。ラマダーンを不信心者への災厄の月とするのだ」と呼びかけており、これに呼応した過激派の仕業だろう。
日本国内でも相模原市の墓地で25歳の女性の遺体が見つかり、2012年に起きたミナミ通り魔事件の裁判で、磯飛被告に死刑判決がでるなど、新聞紙上には人間の「いのち」がいとも簡単に奪われる記事が毎日のように掲載され、世界中に怒りが満ちているようだ。
今はイスラーム教徒が神聖視するラマダーン(断食月)の最中で、最も信仰心が高まる時期。特に安息日である金曜日は集団礼拝が行われ、それを狙っての犯行だろう。以前はたとえ戦争中であってもクリスマスとラマダーンの期間中は相手の宗教行事を重んじて休戦したものだが、ISは「イスラーム教徒よ、聖戦に急いで参加せよ。ラマダーンを不信心者への災厄の月とするのだ」と呼びかけており、これに呼応した過激派の仕業だろう。
日本国内でも相模原市の墓地で25歳の女性の遺体が見つかり、2012年に起きたミナミ通り魔事件の裁判で、磯飛被告に死刑判決がでるなど、新聞紙上には人間の「いのち」がいとも簡単に奪われる記事が毎日のように掲載され、世界中に怒りが満ちているようだ。
一度燃え上がった怒りの炎は押さえることが出来ず、すべてを焼き尽くしてしまう。だからいつも慈しみの心を持って、はじめから怒りが起こらない心をつくっておかなければならないと、ブッダは言う。同じように「貪り」「渇望」「慢心」も放っておくとすぐに自分の心の中にはびこり、身も心も破滅させてしまう。
蛇が古びた皮を脱ぎ捨てるのは容易だろうが、われわれは一日一日努力しなければ、いつまで経っても脱ぎ捨てることはできない。
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永遠ではないということ
ああ短いかな、人の生命よ。百歳に達せずして死す。たといそれよりも長く生きたとしても、また老衰のために死ぬ。
人々は「わがものである」と執著した物のために悲しむ。(自己の)所有しているものは常住ではないからである。この世のものはただ変滅するものである、と見て、在家にとどまってはならない。
人が「これはわがものである」と考える物、──それは(その人の)死によって失われる。われに従う人は、賢明にこの理を知って、わがものという観念に屈してはならない。
夢の中で会った人でも、目がさめたならば、もはやかれを見ることができない。それと同じく、愛したひとでも死んでこの世を去ったならば、もはや再び見ることはできない。
「何の誰それ」という名で呼ばれ、かつては見られ、また聞かれた人でも、死んでしまえば、ただ名が残って伝えられるだけである。
わがものとして執著したものを貪り求める人々は、憂いと悲しみと慳【ものおし】みとを捨てることがない。それ故に諸々の聖者は、所有を捨てて行って安穏をみたのである。
遠ざかり退いて行する修行者は、独り離れて座所に親しみ近づく。迷いの生存の領域のうちに自己を現さないのが、かれにふさわしいことであるといわれる。
聖者はなにものにもとどこおることなく、愛することもなく、憎むこともない。悲しみも慳みもかれを汚すことがない。譬えば(蓮の)葉の上の水が汚されないようなものである。
たとえば蓮の上の水滴、あるいは蓮華の上の水が汚されないように、それと同じく聖者は、見たり学んだり思索したどんなことについても、汚されることがない。
邪悪を掃い除いた人は、見たり学んだり思索したどんなことでも特に執著して考えることがない。かれは他のものによって清らかになろうとは望まない。かれは貪らず、また嫌うこともない。
『スッタニパータ』804~813
永遠なるものなどこの世に存在しない。これがブッダの教えの基本である。バラモン教やジャイナ教ではアートマンなる絶対的存在を認めたが、ブッダはそれを認めない。それは一人一人の人間が所有するものにも及ぶ。わが所有するものは絶対的なものでもなければ、永続性を保証されたものでもない。
さらにそのことは、個人の内面の部分にもかかわっていく。ある時に私が正しいと考えたことでも、時間が経てば、そうは言えなくなる。私も変われば、世界も変わる。
さらにそのことは、個人の内面の部分にもかかわっていく。ある時に私が正しいと考えたことでも、時間が経てば、そうは言えなくなる。私も変われば、世界も変わる。
そんな世界のなかで、いかなるものに対しても、執着するのは愚かなことだ。それは自分の財産・地位・名誉はもちろん、自分の生命も自分の考え方も含めてのことだ。私たちは変化に抵抗することなく、それに身を任せ、絶えず新しい自分を発見していかなければならない。
最近、「遺人形」なるものが存在することを初めて知った。2015年6月4日にNHKで放送された『所さん!大変ですよ』で紹介されていたが、故人の写真を残すのが「遺影」であるのに対し、故人そっくりに作った人形が「遺人形」だ。もちろん今までそんな言葉は聞いたことがないので、最近の造語である。ただし、そっくりさん人形は以前からあって、ネットから借りてきた下の写真は、お婆ちゃんの白寿のお祝いにと作ったものだそうだ。お婆ちゃんが亡くなったら遺人形になるかというと、これは遺人形とは言わない。(すみません、遺人形の画像がなかったので、拝借しました)
番組では、ご主人や大事にしていた娘さんが亡くなった後で、写真をもとに3Dプリンターでかなり精巧に作ったものが遺人形で、まるで生きているかのように毎日声をかけているシーンが紹介されていた。亡くなった後、遺影に呼びかけているよりも、人形のほうがリアリティがあって、喪失感が薄れるから良いことだというコメントがあったが、それではいつまで経っても亡くなった事実をきちんと受け入れることが出来ないではないか。大事な人の死をきちんと受け止め、受け入れてこそ、こころが成長していく。
永遠なるものなどこの世にありはしない。なんであれ、執着してはならないとブッダが言っているではないか。