なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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2月25日(木)
午後1時15分、ホテルを出てナーランダ僧院跡へ。ナーランダはラジギールの北11キロにあり、30分ほどで到着した。
ナーランダー僧院跡で一番目立つのが、僕の後ろに映っているストゥーパで、ブッダの弟子サーリプッタ(舎利弗【しゃりほつ】)を埋葬したものだと伝えられている。実はサーリプッタはこのナーランダー村の出身なんだ。以前はストゥーパの上に登り、広大な僧院跡を一望することが出来たんだけど、現在は世界遺産登録をめざしているため登ることは出来ない。
ブッダはこの村の富商パーヴァーリカのマンゴー林で説法したと伝えられている。マンゴーというと沖縄や宮崎産のものを思い浮かべると思うけど、木の高さが1メートルぐらいしかないのに、マンゴー林で説法したって、どういうこと?と、不思議に思うだろうね。でもあれはハウス栽培のマンゴー。
写真は僧院跡にあったマンゴーの木。木陰で休んでいる人間と比べたらその大きさが分かると思うけど、インドのマンゴーの木は高さ40メートルにもなる大木だ。常緑樹なんで灼熱の太陽光線や雨を防いでくれて、その上夏場には栄養価の高いマンゴーの実が食べ放題で、マンゴー林は説法の婆として最適なんだ。6~7月が収穫期なんで、残念ながら実はまだなっていない。
世界史の教科書ではナーランダー僧院となってるけど、ただのお寺ではなく、グプタ朝時代の427年に建立された世界最古の大学の一つだ。ヨーロッパ最古の総合大学といわれるボローニャ大学の創建が1088年だから、いかに伝統ある大学かわかるよね。
ナーランダはグプタ朝の首都パータリプトラ(現在のパトナ)から100キロほどしかなく、サーリプッタの出身地ということでここに建立されたんだろうね。ブッダが説法をしたというのは、中村元先生によるとどうも作り話のようだ。
ナーランダ僧院は一時は1万人の学僧を集め、仏教教学を中心に、バラモン教の教学や哲学、医学、天文学、数学などを研究する総合大学で、先生も1500人もいたそうだ。現在発掘されているのは往時の6分の一だけど、それでも寺院6カ所、僧院11カ所が発見されているから、いかに大きな規模だったかがわかる。
写真は僧房のあとだけど、7世紀に中国からやって来た玄奘や義浄もここで勉強した。特に玄奘はこの僧院で最高の学僧として尊ばれていたシーラパドラ(戒賢)のもとで5年間学び、その学識の深さを称讃されるまでになった。そしてすべての雑徭を免除され、外出には象の輿に乗ることが許されるなど、僧院内でも10人のみに与えられる特別待遇を受けたらしい。
僧院はヴァルダナ朝や次のパーラ朝でも保護されたんだけど、アフガニスタンから侵入したゴール朝により1193年に破壊されてしまった。1915年から発掘が始まり、現在は公園になっていて、大勢の観光客が訪れている。
おやっ、ピンクの法衣を身につけている尼さん軍団は、ティラシンと呼ばれるミャンマーの尼さんかな。ティラシンはビルマ語で「戒を保つ者」の意味なんだけど、彼女たちは8戒しか義務づけられておらず、金銭を扱ったり、男性僧侶のために料理を作ったりもするんだって。ピンク色の法衣は女性らしくおしゃれで選んでいるのかと思ったら、上座部仏教では女性の出家者は正式な比丘尼【びくに】と認められず、本来の僧侶ならば着用する黄色の法衣を許されていないからだそうだ。でも、ピンクの法衣はなんとも艶めかしいね。
午後2時35分、ナーランダ僧院を出て、トイレ休憩のため一旦ホテルに戻った。その途中で道路上に同じお菓子を売っている店が数十軒も軒を並べている所を通った。
山と積まれているのが、ナーランダの銘菓「カジャ」。油で揚げたパイ生地に蜂蜜をしこたま絡めた甘~いお菓子だ。この周りを黒い虫がブンブン飛び回っているので、蠅かと思ったら蜂。人間さまに取られた蜂蜜を取り返しに来てるんだってさ。
ある頭の弱い男がこの店にやって来て、「これは何だ」と聞いた。「カジャだよ、カジャ」。それを聞いた男が勝手に店先のカジャを食べ始めた。怒った店主がこの男をぶん殴った。その男、「だって、カジャと言ったじゃないか」と、涙ながらに言った。実はカジャは、インドの言葉で「食べてけ」の意味なんだ。おあとがよろしいよ~で。(笑)
それにしても同じ菓子を売る店がこんなに沢山並んでいて、倒産しないんかね。
奥村君が仕入れて来て、夕食後のデザートに出してくれた。左が本来の甘~いカジャ。右は塩味だけの塩カジャ。でも、やっぱり甘いほうが美味いね。さあ、おしっこもしたし、いよいよ霊鷲山だ。(つづく)
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2月25日(木)
午前8時45分にブッダガヤを出発して約2時間、10時40分ラジギールに到着した。ラジギールはブッダの時代はラージャガハと呼ばれ、マガダ国の都として繁栄した。「ラージャ」は、みんなも知っているマハラジャのラージャで王さまのこと。「ガハ」は家のことなんで、漢訳仏典では王舎城と訳される。だけど、日本やヨーロッパのいわゆる「お城」とは違い、城壁で取り囲まれた都市のことで、今でも城壁の一部が残っている。
ラジギールは5つの山に囲まれた盆地で、われわれは南門から町に入った。最初にわれわれを迎えたくれたのがドゥルガー女神。
ドゥルガー女神はシヴァ神の奥さんの一人で、10本の腕にそれぞれ武器を持つ戦いの女神。峠の祠に祀られており、旅人の安全を護ってくれているんかな。日本の道祖神みたいなものなんだろう、と勝手に解釈した。ホテルでトイレを済ませ、竹林精舎に向かった。
玄奘三蔵が大唐西域記の中で、『お釈迦様がしばしば、そのほとりで法を説いた』と記された「カランダの池」だ。植民地時代にイギリス人考古学者カニンガムが竹林精舎の発掘にあたったが、結局その位置を特定できなかった。独立後、インド政府考古局の調査により、この池が発掘され、竹林精舎がこの地にあったことが確認された。
お産のために実家に帰る途中ルンビニーの苑で休息していたマーヤーは、アショーカ樹の花があまりにも美しく咲いていたので、一枝折ろうとして右手を伸ばされた。その時、シッダールタ、後のブッダはマーヤーの右脇から「オギャ~」と、この世にお生まれになられた。お説教でこの話をよくするんだけど、実物を見るのは初めて。
今回の旅ではいままで見たことのない花にでくわすんだけど、過去6回も来ていて単に気づかなかったのか、それともインドの気候が変わったんかね。
午前11時35分、「王舎城の悲劇」の舞台となった七重の牢獄跡に。後ろの山のてっぺんに白いものが見えるけど、多宝山にある仏舎利塔だ。アジャータサットゥが父ビンビサーラ王をここに幽閉して餓死させ、王位を奪った。話すと長くなるんで、詳しいことを知りたい人は「ブッダに帰依した人 その5」を読んでね。現在は約70m四方の低い土壁が残っているだけで、遠い昔に起きた悲劇を想像するのは難しい。
いくつか理由があるんだけど、その一つが日本式の大(?)浴場があるから。写真がそのお風呂棟。僕も初めて来た時は嬉しくてホテルに着いてすぐ風呂に入ったんだけど、みんなが一斉に風呂に入るからあっという間にお湯が出なくなって、結局水で身体を洗う羽目になった。それ以来、部屋の風呂を使うことにしている。
理由の二つ目が、部屋が畳敷きだったということ。もちろん日本の畳というわけにはいかないが、畳風のものが敷かれていた。でも、経営者がインド人になったからか、写真の通りもう畳敷きじゃなくなってる。
ここに日本人が泊まりたい最大の理由が和食がでるということ。もちろん本格的な和食という訳にはいかないが、毎日カレーを食べてきた胃には非常にありがたい。インドの旅が始まってすぐにここに来たら美味いとは思わないが、1週間ほどインド料理が続いた後だと、なんとも美味く感じる。
今日の献立は鶏の唐揚げにキャベツの千切りに日本のマヨネーズをかけたもの、茄子の煮浸し削り鰹かけ、茹で野菜と漬け物。
おや、わかめ饂飩が出てきた。今いち美味くないな~。
そこで、カレーと混ぜて、日本の醤油をかけてみた。本場インド式カレーうどん。これがビールによく合う。大変美味しゅうございました。(つづく)
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午前8時45分にブッダガヤを出発して約2時間、10時40分ラジギールに到着した。ラジギールはブッダの時代はラージャガハと呼ばれ、マガダ国の都として繁栄した。「ラージャ」は、みんなも知っているマハラジャのラージャで王さまのこと。「ガハ」は家のことなんで、漢訳仏典では王舎城と訳される。だけど、日本やヨーロッパのいわゆる「お城」とは違い、城壁で取り囲まれた都市のことで、今でも城壁の一部が残っている。
ラジギールは5つの山に囲まれた盆地で、われわれは南門から町に入った。最初にわれわれを迎えたくれたのがドゥルガー女神。
ドゥルガー女神はシヴァ神の奥さんの一人で、10本の腕にそれぞれ武器を持つ戦いの女神。峠の祠に祀られており、旅人の安全を護ってくれているんかな。日本の道祖神みたいなものなんだろう、と勝手に解釈した。ホテルでトイレを済ませ、竹林精舎に向かった。
もちろん今は伽藍が残っている訳ではなく、近年建てられたえらい現代的な小さな精舎だけが建っている。ブッダは80年の生涯を遊行された方だから一箇所に長くとどまることはなかった。ただ、6~8月の雨期の季節には遊行は困難で、その間居住するために建てられた出家者用の建物が精舎。
インドの竹は日本のものとは違い、写真のように密集して生える。これだとその下で雨露をしのぐことが出来るので、座して瞑想することも可能だったんだろう。だから、ブッダは竹林を選ばれた。
玄奘三蔵が大唐西域記の中で、『お釈迦様がしばしば、そのほとりで法を説いた』と記された「カランダの池」だ。植民地時代にイギリス人考古学者カニンガムが竹林精舎の発掘にあたったが、結局その位置を特定できなかった。独立後、インド政府考古局の調査により、この池が発掘され、竹林精舎がこの地にあったことが確認された。
おやっ、綺麗な花が咲いている。奥村君に聞いたら、これがアショーカ樹(無憂樹)だそうだ。
お産のために実家に帰る途中ルンビニーの苑で休息していたマーヤーは、アショーカ樹の花があまりにも美しく咲いていたので、一枝折ろうとして右手を伸ばされた。その時、シッダールタ、後のブッダはマーヤーの右脇から「オギャ~」と、この世にお生まれになられた。お説教でこの話をよくするんだけど、実物を見るのは初めて。
今回の旅ではいままで見たことのない花にでくわすんだけど、過去6回も来ていて単に気づかなかったのか、それともインドの気候が変わったんかね。
門前町商店街のチャイ屋さん。チャイはインド風ミルクティーのこと。これが安くて美味いんだけど、残念ながら時間がなくて今は飲めない。チャイは薬缶や鍋で少量の水で紅茶を煮出した後、水牛のミルクと大量の砂糖、生姜・シナモンなどの香辛料(マサラ)を入れて飲む、インド庶民の飲み物。最近はプラスチック製のコップを使うことが多いが、店先に積んである素焼きのカップ(クリ)で飲んだほうが断然美味い。チャイを飲んだ後、クリは地面に叩きつけて壊してしまう。そうすれば、もとの土に帰るって寸法だ。
チャイは良質の紅茶で作っても美味くないし、牛乳だと濃すぎて美味くない。イギリスがインドで紅茶栽培を始めた頃に、1年間無料でインド人に飲ませたそうだ。もともと紅茶なんか飲む習慣の無かったインド人が、これで一挙に紅茶好きになっちゃった。東インド会社は良質の紅茶はすべてイギリスに送り、商品にならない屑の茶葉をインドの庶民に飲ませて二重に儲けたわけだ。商魂たくましいと言うか、せこいと言うか。
チャイは良質の紅茶で作っても美味くないし、牛乳だと濃すぎて美味くない。イギリスがインドで紅茶栽培を始めた頃に、1年間無料でインド人に飲ませたそうだ。もともと紅茶なんか飲む習慣の無かったインド人が、これで一挙に紅茶好きになっちゃった。東インド会社は良質の紅茶はすべてイギリスに送り、商品にならない屑の茶葉をインドの庶民に飲ませて二重に儲けたわけだ。商魂たくましいと言うか、せこいと言うか。
午前11時35分、「王舎城の悲劇」の舞台となった七重の牢獄跡に。後ろの山のてっぺんに白いものが見えるけど、多宝山にある仏舎利塔だ。アジャータサットゥが父ビンビサーラ王をここに幽閉して餓死させ、王位を奪った。話すと長くなるんで、詳しいことを知りたい人は「ブッダに帰依した人 その5」を読んでね。現在は約70m四方の低い土壁が残っているだけで、遠い昔に起きた悲劇を想像するのは難しい。
午前11時45分、ホテル着。今晩泊まるのはインド・ホッケ・ホテル。1991年に日本の法華クラブが設立したホテルなんだけど、経営破綻しちゃって現在はインドのインパックという会社が経営している。ラジギールに来る日本人はほとんどがここに泊まる。
いくつか理由があるんだけど、その一つが日本式の大(?)浴場があるから。写真がそのお風呂棟。僕も初めて来た時は嬉しくてホテルに着いてすぐ風呂に入ったんだけど、みんなが一斉に風呂に入るからあっという間にお湯が出なくなって、結局水で身体を洗う羽目になった。それ以来、部屋の風呂を使うことにしている。
理由の二つ目が、部屋が畳敷きだったということ。もちろん日本の畳というわけにはいかないが、畳風のものが敷かれていた。でも、経営者がインド人になったからか、写真の通りもう畳敷きじゃなくなってる。
ここに日本人が泊まりたい最大の理由が和食がでるということ。もちろん本格的な和食という訳にはいかないが、毎日カレーを食べてきた胃には非常にありがたい。インドの旅が始まってすぐにここに来たら美味いとは思わないが、1週間ほどインド料理が続いた後だと、なんとも美味く感じる。
今日の献立は鶏の唐揚げにキャベツの千切りに日本のマヨネーズをかけたもの、茄子の煮浸し削り鰹かけ、茹で野菜と漬け物。
先ずはビールで乾杯。TUBORGはデンマークのビールみたいだ。キングフィッシャーじゃないけど、乾ききった喉にスイスイと入っていく。
おや、わかめ饂飩が出てきた。今いち美味くないな~。
そこで、カレーと混ぜて、日本の醤油をかけてみた。本場インド式カレーうどん。これがビールによく合う。大変美味しゅうございました。(つづく)
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