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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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ブッダ最後の旅ーヴァイシャリー②

2月26日(金)

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 午後3時25分、アンバパーリーの生家跡へ。現在は学校になっている。ここは7回目のインドで初めての訪問となる。でも、ここがアンバパーリーの生家跡だってことをどうやって特定したんだろうね?まあ、あまり堅いことは言わず、信じよう。

 アンバパーリーはこの町に住んでいた高級娼婦。アンバパーリーは「マンゴー林の番人の子」という意味。アンバってマンゴーのことなんだ。小さい頃にマンゴー林に捨てられていたのを番人が育てたんで、そんな名前になったそうだ。もの凄い美人で、15歳の時に7人の王さまからプロポーズされたんだけど、みんな断ったんだって。美しいだけじゃなく、踊りや歌、音楽も巧みで、引く手あまただったから、当然料金も高い。娼婦というと貧しい人を連想しちゃうけど、アンバパーリーは裕福な生活をしていたらしい。

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門前の八百屋さん

 
ブッダはヴァイシャリーに到着すると、城内には入らずに、アンバパーリーのマンゴー林にとどまった。あの高名なブッダが自分のマンゴー林に滞在していると聞いたアンバパーリーは、高級車に乗ってマンゴー林に駆けつけ、ブッダの説法を聞いた後、「明朝は私の家で食事を取っていただきたい」と願い出た。もちろんブッダは答えはOK。喜び勇んで彼女は帰ったんだけど、よっぽど興奮してたんだね、前方から来る車の列に気がつかず、すれ違いざまに接触事故を起こしちゃったんだ。車の列はリッチャヴィ族の青年貴族たちがブッダのもとへ行こうと、これまた慌てていたんだ。

 リッチャヴィ族の青年貴族たちは、アンバパーリーが翌朝ブッダを食事に招待していると聞いて、その権利を自分たちに譲れと彼女を脅かしたそうだ。しかし、アンバパーリーは「たとえヴァイシャリーの町をそっくりやると言われても、お断りだよ」ときっぱり断った。悔しくてしょうがない青年貴族たちは急いでブッダのもとに駆けつけ、「あんな娼婦のような下品な女のところで食事せずに、是非われわれの家で食事をなさって下さい」とブッダにお願いした。ブッダの答えは、NO。「すでに先約がある」ということで、きっぱりと断られた。ブッダは娼婦の招待であろうと貴族の招待であろうと分けへだてなく、先に交わした約束を守られたんだ。当たり前みたいだけど、これがバラモンだったらまず娼婦の招待は断ってるだろうね。身分や性別に関係なく法を説かれたブッダの態度は注目に値する。

 翌朝、ブッダは弟子たちとともにアンバパーリーの心のこもった食事の供養を受けられた。その時、アンバパーリーは自分の所有するマンゴー林をブッダにプレゼントした。こうしてヴァイシャリーに建てられたのが、この前話に出した菴羅樹園精舎【あんらじゅおんしょうじゃ】だ。アンバパーリーは後に出家して尼さんになってるよ。

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集まって来た村のガキ達

 アンバパーリーのマンゴー林に心ゆくまで留まって後、ブッダとその一行はベールヴァ村にやって来た。ブッダは弟子たちに雨季の近いことを告げ、ヴァイシャリーの近くの知人や友人を訪ねて、そこで雨安居【うあんご】に入るように 言った。
 インドの雨季はデリーだと6月中旬から9月の中旬まで。この時期には草木が生い繁り、昆虫や蛇など多くの小動物が活動し、また疫病が流行ったりもするので、遊行は避けたほうがいい。また、むやみに歩き回ると活動している小動物を踏みつぶしたりして無用な殺生をすることになるんで、当時の修行者はバラモン教でもジャイナ教でも旅に出ることをひかえ、家の中に閉じこもる習慣があった。ブッダのサンガでもこの習慣を取り入れて、雨安居や夏安居【げあんご】の制度として、インド暦第4月の満月の翌日から3カ月90日間は、洞窟や家屋や僧院の中に閉じこもって、修行に専念した。竹林精舎のような施設があればみんな一緒に雨安居できるんだけど、そんな施設がなかったから弟子たちが分散することになったというわけだ。ということは、ブッダに従っていた弟子の数は10人や20人じゃなかったということだね。

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 農家の娘さん

 ブッダ本人はベールヴァ村でアーナンダと二人雨安居に入った。その時、ブッダに恐ろしい病が生じ、死ぬほどの激痛が起こった。しかし、ブッダは禅定して精神を整え、この苦痛を耐え忍び、やがてその病苦は鎮まった。苦しむブッダの姿を見て茫然自失したアーナンダであったが、ブッダが立ち上がるのを見てほっとしたのだろう、「尊師が教団や弟子に後のことを何も指示せずにこの世を去るとは思えませんでした。病が治られて安心しました」と言った。
 
 いよいよ自分の身に死の影が忍び寄り始めたことを感じたんだろう。ブッダは遺言めいた言葉を語り始めた。一語一語噛みしめながら読んでね。

 「アーナンダよ。修行僧たちはわたくしに何を期待するのであるか?わたくしは内外の隔てなしに(ことごとく)理法を説いた。究【まった】き人の教えには、何ものかを弟子に隠すような教師の握拳【にぎりこぶし】は、存在しない。『わたくしは修行僧のなかまを導くであろう』とか、あるいは『修行僧のなかまはわたくしに頼っている』とこのように思う者こそ、修行僧のつどいに関して何ごとかを語るであろう。しかし向上につとめた人は。『わたくしは修行僧のなかまを導くであろう』とか、あるいは『修行僧のなかまはわたくしに頼っている』とか思うことがない。向上につとめた人は修行僧のつどいに関して何を語るであろうか
 アーナンダよ。わたしはもう老い朽ち、齢をかさね老衰し、人生の旅路を通り過ぎ、老齢に達した。わが齢は八十となった。譬えば古ぼけた車が革紐の助けによってやっと動いて行くように、恐らくわたしの身体も革紐の助けによってもっているのだ。
 しかし、向上につとめた人が一切の相をこころにとどめることなく一部の感受を滅ぼしたことによって、相の無い心の統一に入ってとどまるとき、そのとき、かれの身体は健全(快適)なのである。
 それ故に、この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ

 ブッダは「教師の握拳」は存在しないと言っている。自分は何一つ隠すことなく、自分の見いだした法を説いて来たのだと。そして、自分は教団の指導者ではない、とはっきり明言した。頼るべきは己自身しかない。それは傲慢とは違う。己一人、ブッダの見いだした永遠の法を求めて、ひたすらに歩んでいく。「自灯明、法灯明」、すなわち、自己を灯明とし、自己をたよりとして、他人をたよりとせず、法を灯明として、法を拠り所として、他のものを拠り所としないように、というのは、ブッダの遺言として有名だけど、ここでは灯明ではなく、島となっている。実は原語はディーバで、島あるいは洲と訳すのが正しいんだ。島とは輪廻という大海の波に翻弄されている我々が自らを救うことが出来る唯一のもの。島を求めよ。そうしなければ、欲望の海で溺れてしまう。

 「わたしの身体も革紐の助けによってもっているのだ」というブッダの言葉は、まさに人間ブッダのつぶやきとしてリアルに僕の心に響いてくる。偉大なるブッダではなく、一人の老人の弱音を吐いた言葉として。そして、この後いよいよ、ブッダは死別の決意と予告をすることになる。

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痩せこけた牛

 ある朝早く、ブッダはアーナンダを連れてヴェーサーリーに托鉢に行ったんだけど、それはまるで巡礼のようで、ブッダはそれを楽しんでいるようだった。そして、休息のためにチャーパーラ霊樹と呼ばれる大樹の下に設けた座に落ち着いたブッダは、しみじみと感慨の言葉をもらす。

 「アーナンダよ。ヴァイシャリーは楽しい。ウデーナ霊樹の地は楽しい。ゴータマカ霊樹の地は楽しい。7つのマンゴーの霊樹の地は楽しい。バフプッタの霊樹の地は楽しい。サーランダダ霊樹の地は楽しい。チャーパーラ霊樹の地は楽しい。
 アーナンダよ。ヴァイシャリーは楽しい。この世界もまた美しい。人間の生命は甘美なものだ


(※の部分はサンスクリット本『大パリニッバーナ経』で付け加えられたもので、パーリ本にはありませんが、死を目前にした人間ブッダの心境をよく表していると思いますので、あえて付け加えました) 
  
 「この世界は美しい。人間の生命は甘美なものだ。」僕の一番好きなブッダの言葉だ。この世は苦しみの世界であり、いかにしてこの苦しみから解放されるか、というのがブッダの教えであり、そのスタートは世界を否定的にみることから始まるはずだ。ところが、死を目前にしたブッダはこの世を、そして人間を肯定している。どこか矛盾しているように感じないだろうか?死を目前にしてブッダが弱気になったのだろうか?

 いや、そうではないだろう。ブッダの教えの根幹にあるのは、愛おしいまでの人間への愛情、いや人間だけはなく、生きとし生けるものへの愛情なんだ。徳川家康が馬印に用いた浄土教の「厭離穢土欣求浄土【おんりえどごんぐじょうど】」が有名だから、仏教は厭世的宗教だと思っているかも知れないが、そうではない。あの世が大事なら、ブッダは悟りを開いた時に、さっさとあの世とやらに行ってしまったに違いない。それを踏みとどまったのは、この世界で苦しむ愛おしい人間への愛情があったからだ。この世の苦しみはこの世でしか解決できない。この世は自分の思い通りにならず苦しく、人間は欲望にまみれている。でも、この世ほど、人間ほど素晴らしいものはない。ブッダはもともとすべてをすあるがままに肯定していたんだ。ただ、苦しみから解放されるためには、徹底してこの世を苦しみの世界と見なければならない。僕みたいな生ぐさ坊主に「この世界は美しい。人間の生命は甘美だ」なんて話したら、すぐに修行なんて止めちゃうよ。

 「犀の角のように一人歩め」(『スッタニパータ』)はブッダの言葉だが、多くの人々を苦しみから救い、犀の角のように歩んできたブッダの生涯。ずっと張り詰めてきた緊張感がふっと解けた時、自然に口をついて出て来た言葉だったように思う。 

 この後、ブッダはアーナンダに次のように語った。

 「アーナンダよ。いかなる人であろうとも、四つの不思議な霊力(四神足【しじんそく】)を修し、大いに修し、(軛【くびき】を結びつけられた)車のように修し、家の礎のようにしっかりと堅固にし、実行し、完全に積み重ね、みごとになしとげた人は、もしも望むならば、寿命のある限りこの世に留まるであろうし、あるいはそれよりも長いあいだでも留まることができるであろう。

 ここでブッダは大変重要なことを言ってるよね。ブッダは死なず、いつまでもこの世に留まることができる、と。ところが悪魔に取り憑かれていたアーナンダはそのことに気がつかないんだ。ブッダは同じことを4回も繰り返したにもかかわらず、アーナンダは「この世の人々を救うために永く留まって下さい」という言葉を思いつくことさえ出来なかった。

 アーナンダを下がらせたブッダは、一人で瞑目してたんだけど、そこへマーラーが現れる。マーラーって、覚えてる?そう悪魔だったよね。ブッダが悟りを開こうとしている時に邪魔をしに来た奴だ。こいつがまた現れてこんなことを言う。「ブッダよ。今あなたはこの世を去るべき時です。弟子たちの心はよく定まり、道にかなう行いをしています。今やブッダの説いた法は人々の間に栄え、広がり、多くの人に知られるようになりました。もういいでしょう。今こそ、この世を去る時ですよ。イヒヒヒヒヒヒ。」
 
 ブッダはしばらく考えた後、こう答えた。

 「悪しき者よ。汝は心あせるな。久しからずして修行完成者のニルヴァーナが起こるであろう。いまから三カ月過ぎて後に修行完成者は亡くなるであろう。」 

 ブッダはこの後、アーナンダにヴェーサーリーの近くに住む修行僧を重閣【じゅうかく】講堂に集めるように命じ、集まった修行僧に次のような遺言を残した。

 「さあ、修行僧たちよ。わたしはいまお前たちに告げよう。ーもろもろの事象は過ぎ去るものである。怠けることなく修行を完成なさい。久しからずして修行完成者は亡くなるであろう。これから三カ月過ぎたのちに、修行完成者は亡くなるだろう。
 「わが齢は熟した。
わが余命はいくばくもない。
汝らを捨てて、わたしは行くであろう。
わたしは自己に帰依することをなしとげた。
汝ら修行僧たちは、怠ることなく、よく気をつけて、
よく戒めをたもて。
その思いをよく定め統一して、おのが心をしっかりとまもれかし。
この教説と戒律とにつとめはげむ人は、生まれをくりかえす輪廻をすてて、苦しみも消滅するであろう


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見返りの丘

 ある朝早く、ブッダはヴェーサーリーで托鉢して帰って来て、食事をすませた後、小高い丘に立った。そして、まるで象があたりを眺めるようにゆっくりと頭をめぐらせると、万感の思いを込めたような目をして町を眺め、ぽつりと言った。

 「アーナンダよ。これは修行完成者がヴァイシャリーを見る最後の眺めとなるであろう。さあ、アーナンダよ。パンダ村へ行こう。

 それから間もなく、ブッダは多くの弟子たちとともに北へと向かってとぼとぼと歩き始めた。いよいよブッダ最後の旅となるのだが、その見返りの丘も初めて訪ねた。

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 いつの間にか、大勢の村の子供達が周りに集まって来ている。

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 じゃ、一緒に行こうぜ。案内してくれや。

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 子供達はどんどん増えて、後に付いてくる。背中に南無妙法蓮華経のお題目を背負ってるのが僕。無言でお題目を弘めてるって訳だ。

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 20分程村の中を歩いて見返りの丘に着いた頃には、村中の子供達が集まって来た。まあ、ここまで来る日本人はほとんどいないから、よっぽど外国人が珍しいんだろうね。

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 ほとんどの子供が裸足。戦前の日本の村もこんなんだったんだよね。僕の生まれた頃はもちろん違うけどね。

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 じゃあ、一緒に記念撮影しようぜ。あとでプリントして送ってあげたいけど、住所わからんしな~。

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 帰り道がまた大変。金魚の糞のように付いて来る。子供達に特にもてたのが僕の奥さん。何故かって?恐らく体重が関係している。インドでは太ってることが金持ちの証なんだ。サリーの間からでっぷりとした腹が出てるのが、いいんだってさ。何か貰えると思ったんじゃない。

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 こんにちは、奥さん。お仕事ご苦労さん。

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 おや、ここ学校ですか。椅子に座っておいでるのは先生。「初めまして、私も高校の先生です。」インドの子供達のために頑張ってください、と、激励の握手させていただきました。

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 子供達も頑張って勉強してますね。でも、なんで外で勉強してるの?教室が暗いからかな~。左の僕は石板使ってるぞ。今の日本の子供は石板なんて知らんだろうな。恵まれた環境で勉強できるのに、授業中寝てばっかりいたらあかんぞ、コラッ。

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 午後6時、ホテル到着。今日のホテルはヴァイシャリ・レジデンシー・ホテル。

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 これが僕の部屋。 

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 バスルーム。なかなか立派なホテルに見えるでしょ。ところが、エレベーターは故障していて階段を使わなくちゃいけないし、バスタブの栓は無いし、トイレはしょっちゅう詰まるし、クローゼットの引き出しの引き手がない。おまけにしょちゅう停電。とってもインドらしいホテルでした。

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 午後7時、夕食。卵のカレーと珍しいバナナのカレー。

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 お隣には韓国からの団体さん。ん、何食べてんの?キムチ?そんなのどこのコーナーにあった?僕もカレーに飽きたから、キムチ食べたいな~。

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 あっ、向こうのテーブルの上にあるのね。取りに行こうとしたら、奥村君に止められた。「お上人さん、駄目ですよ。あれは韓国の団体さん専用ですから。」

 なにっ、お米もおかずも韓国から持参して来たの。で、インドの食事はいっさい食べないって。バカモン。郷に入っては郷に従えだ。(つづく)

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【 2016/12/20 17:56 】

ブッダを訪ねて  | コメント(0)  | トラックバック(0)  |

ブッダ最後の旅ーヴァイシャリー①

2月26日(金)

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 今回の旅に一冊の本を持ってきた。僕の敬愛する中村元先生が、『大パリニッバーナ経(大般涅槃経【だいはつねはんぎょう】』を翻訳された『ブッダ最後の旅』(岩波文庫)だ。ブッダの生涯が神格化された文献がほとんどなんだけど、この経典だけは歴史的も信頼度が高く、ブッダが最後にたどった旅の道のりが、詳しく描かれている。

 この経典は「あるときブッダは王舎城の鷲の峰におられた」で始まる。王舎城の鷲の峰は、
ラージャグリハの霊鷲山のこと。昨日僕らが登ったお山だ。80歳を超えて身体の衰えがひどく、自分の死期が近いと感じたブッダは、長年従者として従えたアーナンダをはじめ数人の弟子とともに、この山から生まれ故郷カピラヴァットゥに向かい最後の旅に出た。

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 ラージャグリハからお涅槃の地・クシナガラまでは約350キロ。7回もインドに来ているのに、ヴァイシャリーを訪ねたのは1度だけ。いつもは一気にクシナガラまで行ってしまうんだけど、今回のインドの旅はひょっとすると僕達にとっても最後になるかも知れないということで、今まで訪ねたことのない所にも寄りながらクシナガラに向かう。

 
80歳という高齢のブッダは、この距離のほとんどを徒歩で踏破されたんだけど、僕たちは横着にも豪華なバスで移動する。

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 とは言っても、日本とは道路事情が違うので、何があるか分からない。ともかく、午前7時にしっかりと朝食をといただく。純和風(?)の食事はこれが最後。お粥に永谷園の「海苔茶漬け」をかけたもの、卵巻き、ほうれん草のおひたし、焼き茄子、海苔に梅干し、たくわんまで付いている。しっかりお粥のお代わりもして、午前7時50分にホテルを出発。

 霊鷲山をおりたブッダは北に歩き、穏やかな農村ナーランダー村に着くと、マンゴー林で過ごし、集まった修行者に説法をされた。(昨日のところでも書いたけど、中村先生によれば、この話は後世に追加されたもの)
 
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 さらに北に進んだブッダは、ガンジス川南岸の小さな船着き場パータリ村に立ち寄られた。この頃は小さな村だったパータリ村は後にマウリヤ朝の首都パータリプトラになる。パータリ村での説法を終えたブッダは、満々と水をたたえたガンジス川を、数時間かけて小舟で渡り、コーディ村に入られた。ブッダが渡河された詳しい場所は分かっていないんだけど、当時の人はブッダが渡った場所を「ゴータマの渡し」と呼んだ。

 僕らはここまでバスで1時間30分。舟に乗ることはなく、マハトマ=ガンジー橋を渡った。マハトマ=ガンジー橋は1982年に架けられた全長5,850メートルの橋。この橋の上下流70キロに橋はなく、重要な交通路となってるんだけど、架けられてから30年以上も経ち、あちこちガタがきており、ただいま改修中。

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 バスの車窓から。僕が眺めるのは景色ではなく、人。特に女性。いや~、美しいサリーですな。鼻の下を長~く伸ばしているうちに、ちょうど正午にヴァイシャリーのホテルに着いた。

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 まずはビール。今日の銘柄はTHUNDERBOLT。パンジャーブ州のマウント・シバリック・ブリュワーズ社製。サンダーボルトというと007のサンダーボルト作戦を思い出すけど、サンダーボルトって落雷のことだよね。名前の通り、痺れるほど不味い。キングフィッシャーが飲みたい。

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 料理はよく分からない。

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 お腹もふくれたところで、午後2時ホテルを出て、宮殿跡へ。ヴァイシャリーはヴァッジ国の都。商業都市として大いに繁栄し、ジャイナ教の開祖であるマハーヴィーラの生誕地としても知られ、また『維摩経』の主人公である維摩居士【ゆいまこじ】(ヴィマラ・キールティー)はこの町の大富豪だった人だ。

 実はこのヴァッジ国は「ブッダ最後の旅」の冒頭部分に出てくる。ヴァッジ国を征服してガンジス川北岸も支配下に入れようとしたマガダ国のアジャータサットゥが、大臣を霊鷲山に使わしてブッダに意見を求めた。この時、ブッダは直接大臣の質問に答えず、かたわらにいたアーナンダに7つの質問をする。

 ①ヴァッジ族の人々はよく集会を開き、正しいことを論じているか?
 ②君主と臣下が協力し、身分の上下をわきまえお互いに尊敬しあっているか?
 ③法律を遵守し、礼節を重んじているか?
 ④父母に孝行を尽くして目上の者を敬っているか?
 ⑤部族の霊域を敬い、祖先の供養をよくしているか?
 ⑥男女間の礼節をよく守っているか?
 ⑦尊敬されるべき出家者たちに正当な保護と支持を与えているか?

 アーナンダがすべての質問に「はい、その通りです」と答えると、ブッダは「ヴァッジ族がこの7つの法を守っている間は、彼らはいっそう繁栄し衰えることはないだろう」と、戦争を暗に否定、アジャータサットゥに侵略を諦めさせた。

 ヴァッジ国はヴァッジ族やリッチャヴィ族など8つの部族が連合して形成していた共和政国家。これをサンガと呼ぶんだけど、仏教教団もサンガ。ブッダがあげた「衰亡しないための7つの法」は、国家ばかりでなく仏教教団が衰亡しないための教えでもあったわけだ。

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 午後2時20分、ブッダ・レリック・ストゥーパ跡へ。

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 クシナガラで亡くなり荼毘にふされたブッダの遺骨・遺灰は8つに分けられ、仏舎利としてそれぞれの国の王によって持ち帰られ、マガダ国、ヴァイシャリー、クシナーラー、そしてブッダの故郷カピラヴァッツなどにはストゥーパが建立された。ブッダ・レリック・ストゥーパはそのうちの一つだと考えられている。トタンの変な屋根がついてるけど、ストゥーパはこんな形と大きさだったんだよ、ということを示している。
 
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 屋根の下はストゥーパの基壇が残されており、ここから仏舎利の入った容器が発掘されており、パトナ博物館に行けば見れるそうだけど、残念ながら、そんな時間はない。


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 商業都市として避けたヴァイシャリーも今は畑と田んぼがどこまでも広がる長閑な農村地帯だ。


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昔の日本の農村風景に似ており、何となく心が和む。

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 農作業に励むご夫婦。頑張ってください。

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 たわわに実るバナナ。庭先にバナナの木があるってのは、何とも羨ましい。

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 真ん中にぶら下がっている赤いものがバナナの花。

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 20分ほど歩いて僧院跡へ。


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 僧院跡にはマウリヤ朝のアショーカ王の建てた石柱碑が今でもしっかりと立っている。ブッダの誕生地ルンビニーや初転法輪の地サールナートのアショーカ王柱は前に紹介したけど、折れてしまってたよね。アショーカ王柱は30本ほど建てられたそうだけど、インドは地震国だからほとんどが倒れてしまっていて、ここヴァイシャリーのものだけが完全な形で残っている。頂上部にはライオンの像が乗っていて、その顔が向いている方角に立派なストゥーパがあり、土地の人々はアーナンダのものと伝えている。
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 このストゥーパの裏手に沐浴するための池があるんだけど、今回撮り忘れたんで、この画像はトラベルサライさんからの借り物。伝説ではお猿さんが掘ってブッダに寄進したとされている。重閣講堂はこの池のほとり、大林のうちにあったとされ、大林精舎とも言われる。前に話したマガダ国の都ラージャガハの霊鷲山にあった霊鷲精舎とビンビサーラ王が寄進したた竹林精舎、208日に訪れる予定の有名な祇園精舎、そしてヴァイシャリーのこの大林精舎とアンバパーリーが寄進したという菴羅樹園精舎【あんらじゃゆえんしょうじゃ】。この5つの精舎をインドの5大精舎と言うんだけど、ヴァイシャリーに2箇所もあったことで、ヴァイシャリーが仏教にとっていかに重要な場所だったかが分かるよね。


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 この僧院跡の周りにも畑が広がっていて、黄色い花が咲いている。何の花か分かる?これ芥子、マスタードの花。生まれて初めて見たけど、綺麗なもんだ。
 さあ、次は今の話にで出てきたアンバーパーリーの生家跡に向かう。(つづく)


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【 2016/12/07 17:06 】

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